今日も気持ちのいい朝だ。
私は天野家の家長、部屋の窓からの朝日を浴びて、大きく背伸びをする。こんな日は一段と朝食が待ち遠しくなるものだ。
愛する妻の作る今日の朝食はなんだろうか?定番のご飯と味噌汁と納豆とおひたし?それとも今日は洋風にトーストとハムエッグ? そんな他愛のない考えが頭をよぎっただけだけど笑みがこぼれてしまう。そんな喜びだってあっていいものだ。
洗面所に向かい、顔を洗う。朝はまず第一に気分転換からだ。
ひげをそって、鏡の前の自分の顔を凝視する。今日もいい感じだ。私は密かにそう思った。
タオルを片手に洗面所を後にする。さぁ、もうすぐ朝食の時間だ。
台所が近づくにつれて、包丁の音が聞こえてくる。まな板の上に乗せた食材を、綺麗に仕上げているのだろうか?
……いや、おかしい。
私は気がついた。
こんな時間になるまで、妻が朝食を仕上げていないということは……まずないということに。
その後、急激な悪寒が私の背中から足の指先にかけて走った。
まずい。この感覚は絶対にまずい。
それは私の中の第六感というものが訴えかけているのであって、明確な理由があるというわけではない。ただ、サラリーマンとして幾百の交渉において相手と渡り合い、さまざまな戦いを通じて磨き上げられてきた直感と感覚が、朝っぱらから私に脂汗をかかせているのだ。
気持ちのいい朝だったはずの気候が、生暖かさのせいで気持ち悪く感じる。
パジャマであるシャツは、汗のせいで背中にべったりだ。
自分の飲み込むつばの音が嫌に大きく聞こえる。
ああ、それよりも……私はこれからの身の算段を考えなければならなくなったのだ。
一歩、また一歩、台所は近づいて行く。それとともに、包丁がまな板に当たる以外の、それに混じった何か奇妙な音も聞こえてくる。
間違いない……私は頭の中をゆっくり整理すると、心を落ち着けて台所のドアから顔を出した。
「おはよう、美汐」
見る前からわかっていた。
台所に立っているのが、娘であることが。
「おはようございます、お父さん」
パジャマ姿にエプロンをつけた美汐は、上半身で振り返るとそう言った。
「朝から何してるんだい?」
私がそう聞くと、美汐は不思議そうに首をかしげた。
「見てわからないんですか……?料理ですけど」
わかってるけど、その事実を認めたくなかったんだ……私は誰にも聞こえぬ心の中で、そっと呟いた。
―恐怖のお料理合戦―
〜フィオナ=アップルの鳴り響くキッチンで〜
春といえども雪国。まだ肌寒さを残した住宅街を天野家を目指して歩く少年。北川潤。
『潤君、僕達は故あって出かけなければならない。というわけで暇なら美汐の相手でもしていてくれないか?頼む』
「って言われてもなぁ……」
朝も早くに急にかかってきた天野父からの電話があったのだが……思い返せばこれだけしか言われていない気がする。寝ぼけ眼のまま二つ返事でOKすると、彼は慌てたようにすぐに電話を切ってしまったからだ。
美汐の相手なんて、今更頼まれるほどのものでもない。潤は心の中でそう感じていた。
小さい頃からかくれんぼやかけっこ、一緒に勉強したりと常に一緒だったのに、『頼む』だなんていわれるとは……。
「で、なんであたしたちまで呼ばれてるわけ?」
「まぁまぁ、いいじゃない。お姉ちゃん」
潤の後ろについて歩いているのは、美坂姉妹。ウェーブのかかった栗色の髪に、大人っぽい顔立ちをした少女が姉の香里。肩のところで切りそろえたボブカットの、小柄な少女が妹の栞だ。この前の冬、二人の間にはいろいろとあったのだが、今は本当に仲のいい姉妹……今はそれだけで十分なはずだ。
ちなみに香里は潤と同じ学年で三年生。栞は病欠で出席日数が足りなかったため、もう一度一年生だ。
「わるいな、美坂。栞ちゃん。日曜日なのに朝早くに呼び出しちゃって」
まだ十時を回ったか、回っていないかだろう。
「でもさ、みんなで行ったほうが楽しいだろうと思ったんだけど」
「別に暇だったし、いいけどね」
潤がバツが悪そうにいうと、冗談よと言うように香里が微笑んで答えた。
「私も美汐さんのおうちに行ってみたかったんです」
栞と美汐は学年は違うが同い年。潤の顔合わせで知り合ってからは、美汐はまだ学校に慣れていない栞の面倒を何かと見てくれているようだ。なんにせよ、美汐に友人ができたのは潤にとってもうれしい。
「あ、ここだ、ここ」
表札に天野の文字。
まわりの家々と大差ない、二階建てのいたって普通の一軒家。青い瓦葺で、壁の色はベージュに統一されている。
潤がインターホンを押すと、とたとたと家の中を駆ける足音が聞こえて、家のドアが開けられる。半分だけ開かれたドアから、美汐がひょっこりと顔を出す。潤は片手を挙げて微笑んで挨拶をした。
「あ、潤さん……と、香里さんと、栞さん」
潤と一緒にいる二人を見て、美汐は少し驚いた様子だった。
「みんなで来たほうが楽しいかなー、と思ってさ」
「……そうですか、それはちょうどよかったです。みなさん中に上がってください」
そう美汐が言って、ドアを開けたときである。潤は気づいてしまった。美汐がとんでもないものを纏っていることに。
そう、それすなわち、エプロンである。背筋が凍りつくとはこのことだろうか。
「天野さん、もしかして料理してたのかしら?」
凍りついた潤を不思議そうに眺めながら、香里が玄関に入り美汐にきいた。
「はい。でもお二人が来るとは知らなかったので、ちょっとお料理が少ないかもしれません……」
少し残念そうな、困ったような声で、美汐は言う。
「あ、なら……あ、あたしも一緒に作っちゃおう、かな?」
凍りついたままの潤をちらちら見ながら、香里がそんなことを口にした。その声を聴いた瞬間、玄関の中に入ったばかりの栞の体がビクンと震える。同時にヒッ、という声にもならない声が……。
「ええ、べつにいいですよ。食材ならありますし」
「そう、じゃあ」
「あ、ごめんなさい!!わたし急に用事を思い出しちゃって」
香里が言いかけているというのに、栞はまるで何かに駆り立てられたかのようにそう口にした。いや、実際焦っているのかもしれない。引きつった笑顔のまま立ち尽くす潤の前に来ると、人指し指で自分の目に浮かぶ涙をそっとぬぐって見せた。
「潤さん……ごめんなさい。もし、もしもまた生きて会えたなら、また私のお弁当食べてくださいね……」
上目遣いの涙目でそれだけ言うと、少女漫画よろしく、きらきらと風に舞う涙を流しながら潤の前から走り去っていった。
「え、ち、ちょっと」
まったく話の飲み込めない潤をのこして。
「なによ、急に変なことを言い出しちゃって。あのこ予定なんて入ってたかしら……?」
香里は納得がいかないように口にした。すでに靴を脱いで玄関からあがっている。
「栞さんにも私の料理を味見してもらいたかったのですが……残念です」
香里や美汐が止める隙さえつくらずに走り去った栞。その後を眺めながら美汐は、とても残念そうに口にした。潤にはそう感じられた。
「あ、美坂先輩。家のキッチンは割と本格的なので、お料理を作るにはいい環境だと思います……案内しますよ」
天野家のキッチンの設備の良さは潤もよく知っている。なんでも美汐の母が料理好きなので、家を改築したときに本格的なキッチンをそろえたらしい。潤も何度も目にしたことがあるが、キッチンというよりももはやダイニングルームと一体化した調理場のようになっている。二箇所あるコンロに、広い流し場。何でもコンロはさまざまな料理に対応できるように二箇所設置したらしいが、潤には正直理由はよくわからなかった。一箇所あれば十分じゃないか。なんでも火の起こし方が違うらしく、料理によって使い分けたいんだそうだ。なんというか、こだわりというか……。ちなみに友達とかと一緒に、休日に一緒に料理をして楽しむことも多いという。ああ、だから流し台が二箇所もあるのかな?
ちなみに、その料理好きの腕前は確かだ。何度もまさにディナーというべき食事に招待されたことがあったが、そのたびに味に驚かされたのは確かだ。もちろん、いい意味でのはなし。毎回毎回さまざまな国の料理を食卓に並べるいう実力はいかなるものかと。
そのDNAを美汐も継いでいるのか、彼女も料理好きだ。よく自分で料理もしていると言っているし、学校帰りに本屋によって料理の本を買いにいくのに付き合わされたこともあった。だがしかし……なんというか、その……。
「何をしているんですか、潤さん。早くあがってください」
玄関先で凍りついたままの潤に、あきれたような声で美汐は言った。ああ、やっぱりエプロンをしている……潤は再びそのことに気がつかなければいけなかった。
「へぇ、ここが天野さんの家のキッチン……」
美汐に案内されてたどりついキッチンは、およそ一階部分の三分の一は使われているのではないかというほど広大なキッチンスペースだった。
たしかにこりゃ本格的だわ。香里は感じる。自分の家のキッチンとは比べ物にならない設備だ。あ、あれって魔法の釜、タンドールかしら?インドの焼釜で、なんでもおいしく焼けるから魔法の釜って言われてるのよね。でも普通一般家庭にあるものじゃないわ!
広いキッチンの左右に用意されたガスコンロ。その隣にはそれぞれに流し台が設けられている。右側のコンロの上にはお鍋が置いてあって、コンロの火は消しとめられていた。きっと、あれが天野さんの料理途中のものなのだろう。
「どうです?なかなかのものでしょう?」
心なしか誇らしげに美汐は言った。
「え、ええ……これは確かにすごいわ」
香里の中に焦りと複雑な、口に出せないような感情が生まれる。
もしかして、美汐さんってものすごく料理がうまいんじゃ……あ、あたしだってやればできると思うけど、もしかして全然かなわないんじゃ……。
「設備はすごいけどなぁ……」
「設備はすごいけど、なんですか?」
「い、いえ……何でもありません」
一人つぶやいた潤の声は、笑顔のままの美汐の圧力の前には塵芥も同然だった。
「香里さん、エプロンはそこにかけてあるものを使ってもらって結構です。調味料も揃ってないものは無いと思います。食材もたんとありますから、心配はしないでください」
「え、ええ。ありがとう」
流石にここまでの設備を見せられると、あの美坂香里でも二の足を踏みそうになる。
「さて、そろそろ再開しないとお昼までには間に合いませんね……」
美汐はそう言って、エプロンの下に着ているニットの袖をまくった。壁に掛けられている時計の時間は、十時半。間に合わない……のか?
「さ、潤さんはここにいても何でしょうから、私の部屋に行って適当に時間でもつぶしててください」
「え!?」
美汐の言葉に、香里が反応する。
「い、いやぁ、はは……手伝うぞ?遠慮なんかしなくたって」
「いえ、結構です。私は自分の手で料理を作りたいんです」
本当に真摯に切り出した潤だが、あいにく美汐とは意見が合わなかったようだ。
「……そうか」
うなだれてキッチンを後にしようとする潤。心の中は諦めでいっぱいだった。
「ち、ちょっと待ちなさいよ!!」
「どうした、美坂?」
「ど、どこに行くつもりよ!?」
「どこって……美汐の部屋だけど」
別に変わった様子も無く、潤はそう言った。
「あああ、天野さんの部屋って!!だ、だぁめよそんなの、不謹慎だわ!!」
「へ、何が?」
顔を赤くして止めにかかる香里に、潤はあっけらかんと答えた。
「な、何って、女の子の部屋なのよ!?」
「別に大丈夫ですよ、香里さん。別にいつものことですから」
香里にしか聞こえないように、美汐は小声で言った。
「い、いつものこと……?」
「仮にも幼馴染ですからね」
「で、でも……」
香里の中に悔しいような、諦めきれないような、複雑な感情が沸き起こってくる。今までには味わったことのないような、痛いようなかゆいような……泣きたくなるような気持ち。
「大丈夫ですって、潤さんにはそんな甲斐性はありませんから」
その言葉に、香里は心の中でビクッとならざるをえなかった。
まさか、この少女は……あたしの心の中を見抜いた上で、その上で北川君を自分の部屋に行かせ、なおかつこの発言をしているのかぁぁー!!??
あ、あたし変なこと言ったっけ?え〜と、天野さんに会ったのは三ヶ月くらい前で、それから栞のことで何度か話す機会もあったけど……。
「お〜い、美坂。いきなり部屋の隅っこにいって頭抱えて……どうしたんだ?」
「え!?え!?」
あわてて振り返ると、潤も美汐も目をぱちくりさせて自分を見ていた。
「い、いや、なんでもないわよ」
とりあえず、香里はその場をしのぐために全力で両手と首を振って、笑ってごまかすことにした。
天野家のキッチンには、前述のとおり2つのガスコンロがある。キッチンを一つの部屋のようにすると、ちょうど東側と西側だ。対して、二箇所の流し台は、北側に比較的並ぶようにして設けられている。
潤が美汐の部屋に移動して、そこには二人だけが残される。
「香里さんは何を作るおつもりですか?」
「あたしは……そうね、麻婆豆腐なんてどうかしら?」
麻婆豆腐ならば簡単に作ることもできるだろうし、食材が足りなくなるということもないだろう。この前に本で読んだときも、作り方が載っていて……簡単そうだった。
「それなら豆腐もひき肉もありますし、片栗粉もありますから作れるとおもいますよ」
冷蔵庫にいろいろ入ってますから、ご自由に使って結構ですよ。美汐がそういうと、香里はお礼を言って冷蔵庫を開く。真ん中の一番広い冷蔵庫の部屋を開くと、中にはきちっと整理された食材たちがずらりと並べられていた。自分の家の雑然としている冷蔵庫とは大違いだ……よく賞味期限の切れたヨーグルトとか出てくるし……
そこからタッパに入れてある豆腐を見つけ出し、ありがたくいただくことにする。えーとひき肉は……あ、あれはお肉用の部屋があるはずだ。この大きな冷蔵庫の部屋したの、小さな区画に分けられている引き戸を開ける。中にはこれまたきちんと整理された食肉が入っている。中からすぐにひき肉を見つけ、それらを持って空いている方の流し台の隣に置く。
ふと、美汐が使っている方の流し台に目がいく。まな板の上には何も乗ってはいないが、その下の流し台の中には、にんじんやジャガイモ、たまねぎの皮が散乱していた。
「天野さんは何を作ってたのかしら?」
「私はカレーライスです……」
「昼間からカレーライス?」
別に外食や学食などで昼間にカレーライスを食べるのは普通だし、家で食べるのも悪くないと思うが、カレーライスは仕込みに時間がかかったり、割と作るのには手間がかかる料理なので普通は夕食にと準備するものだろう。
「準備が大変でしょ?」
「ええ、でも潤さんの好物ですから」
その言葉に、香里の耳がピクッと反応する。
「お父さんが家に呼んでくれて、ちょうどよかったです」
ということは元から北川君を招待するつもりだったってことね……。
「ご、ごめんなさいね、一緒にお邪魔しちゃって」
香里は冗談交じりでそう答えながら、流し台の奥の方においてある調味料の小瓶に手を伸ばす。
美汐も微笑んで返した。普段学校でみているような彼女の表情よりも、ずっと魅力的な笑顔で、香里は得も知れぬ焦りを覚えた。
「いいえ、いいですよ。それに香里さんとはお話したいこともありましたし……」
「話したいこと……?」
美汐は一呼吸置く。なぜか香里にはそれが不穏に思えた。
「香里さんは潤さんのことが好きなんですか?」
いきなり予想外(香里にとっては)の質問!!
突然の緊急事態に、香里は手に取っていた調味料の小瓶を流し台の中に落っことしそうになる。なぜか自由に動かない両手で、わっとわっとと小瓶を捕まえる。
「な、なななな、なんでそうなるのよ!?」
「顔、真っ赤ですよ」
あわてて言い返すが、まるで説得力がない。鏡がないので確認できず、あわてて自分のほほに触れてみるが……熱い。
「栞さんがこの前、お姉ちゃんは北川さんが好きなんですよ、きっと!!って力強く言ってましたよ」
あ、あの子は……今日家に帰ってきたら、ひそかに栞の夕食に大量の唐辛子を混入させておくことを香里は誓った。
「そんなの栞の勘違いよ。そりゃこの前の冬は北川君には世話になったし……いろいろと感謝はしているけど、そういう感情とは違うわ」
この前の冬……もし彼がいてくれなければ、栞とは今のように笑いあっていることはできなかったかもしれない。それどころか、彼があたしたちの仲を直そうと屈力してくれて、あたしは間違いを認めることができて……最悪の終わりを迎えなくて。そうしてくれたからこそ、今の栞の命があるような……そんな気さえしてくる。
感謝していると言ったのは本当。でも、そういう感情とは違うというのは、嘘。
あたしが北川君に抱いているのはそういう感情。話しているだけで、一緒にいるだけで言いようのない高揚感を得ることができて、彼の前では絶対に素直になることができない、そういう気持ち。
「……そうですか」
「天野さんは、好きな人とかいないの?」
「私はいますよ」
胸にチクッと、針が刺さるような言葉。
「私は潤さんのことが好きですよ。ずっと前から」
なんとなく。なんとなくわかっていた。
学校で普段は一人でいて、目立たなくて、暗い印象の娘。香里だって、潤に紹介されるまでは顔を見たことがあるかどうかも曖昧だったような女の子。そんな彼女が、潤の前だけでは喜怒哀楽を表現する。自分や栞だって彼がいなければ美汐と仲良くなることもなかっただろうし、美汐も自分たちにここまで心を開くこともなかっただろう。
「私、小さいときにとても大切だった友達を亡くしたことがあるんです」
「え?」
次に美汐の口から出た言葉は、彼女自身のことを語るものだった。
「私、とても悲しくて悲しくて、毎日毎日泣いていました。お父さんのこともお母さんのことも忘れて、学校にも行かずにずっと部屋で泣いてばかりいました」
泣いて泣いて、のどが渇くのも忘れて泣き続けて。ドアの外で声がするのも頭の中に入らなくて。
「涙も枯れて、考えるのもいやになって、もうどうでもよくなって……そしたら気がついたんです。毎日昼下がりくらいになると、ドアの前で誰かが何か喋っているのに。何かと思って少しだけ耳を傾けてみたら、潤さんの声で、今日の一日学校であった面白いことやつまらなかったことを延々と私に聞かせてるんです。先生や友達の声真似とか混ぜながら喋ってて、私の担任の先生の声真似があまりにも似ていなくて、おもわず笑ってしまって」
美汐は思い出したようにくすりと笑う。普通の少女らしい、かわいらしい仕草で。
「そしたら急に潤さんの顔が見たくなって、お父さんやお母さんの顔も見たくなって、寂しくなって、部屋のドアを開けたら潤さんはまだしゃべり続けてて……。私の姿を見て、おいしいアイス食べに行こうって誘ってくれて……私、声を上げて泣いてしまって。ほんと、おかしいですよね」
「そうね、北川君らしいわね」
香里もあまりにも彼らしいので、思わず笑ってしまう。
「いつでもふざけてるようだけど、真面目で、優しくて、だから、私潤さんが……」
うつむいて、ほほを赤らめて美汐は言った。
「香里さん……」
「なに、天野さん?」
「私たち、ライバルですね」
美汐が微笑み、香里を見つめる。
「ええ、そうね」
「負けませんよ。今日のお昼ご飯も」
「あたしだって」
そういって、お互いにくすくすと笑いあう。
って……あたしは何ライバルだって認めてるんじゃぁぁ!!
ち、違うの。これは今の空気を読んだだけであって、決して北川君が好きとかじゃなくて、お料理の腕前でのライバルだと思ったわけで、ええと……
と、とにかく。
あたしだって負けないわ!!
誰に言うわけでもなく弁解した後、すでに料理の続きに取り掛かっている美汐の後を追うように、香里もなれない包丁を手にした。
心配だ。心配だ心配だ心配だとてつもなく心配だ。具体的に何が心配かというと、台所がだ。美汐の部屋でベッドに寝転がりながら少女漫画を読んでいたりもするのだが、頭の中の半分以上は昼飯のことが詰まっている。
美汐の料理も心配だが、あの栞ちゃんの逃げ方。あれば尋常じゃない。俺の頭のてっぺんについているレーダーが普通ではない妖気を感じ取っている……気がする。あまりの気のかかりように、読んでいる少女漫画もページが進まない。
この漫画結構おもしろいなぁ。異性に抱きつかれると動物になっちゃう呪いかぁ……不便なのかどうなのか。オレにはよくわからないけどとりあえず昼飯はちゃんと食えるのかなぁ……。
こういう漫画読んでると思うんだけど、こういう男の子が女の子の理想形態なんだろうか?美汐もこういう男を好きになったりしているのかなぁ。そのために今も昼飯を作る修行をしているのか?いや、それはないかな。なんとなくだけど。
ああ、そういえばオレも今年は受験かぁ、とりあえず目先の目標は無事に昼飯を乗り越えることだけど。
……………
駄目だ!!
全身の筋肉が、神経が、動物としての勘が、頭の触覚が、オレに危険を知らせている!!
時間は11時。美汐たちにキッチンを追い出されてからまだ30分程度しかたっていない。だが駄目だ。気になる。気になって仕方がない。
潤は意を決して美汐の部屋のドアを開ける。ああ、見に行ったら怒られるかもしれないなぁ……そんな考えも頭をよぎったが、これから自分はどうするべきなのか、未来を決めるためのこの一手は足を止めさせてはくれなかった。
階段を下りて、すぐ目の前の扉。この扉を開けば、そこではあの二人が料理をしているはず。
扉を目の前にして、潤の手が止まる。それはこの扉を開けることに恐怖しているのではなく、この扉を開けたときに目の前に広がっているかもしれない光景に対して恐怖を感じているからだ。
ああ、もしも。もしものはなしだ!!
もしも鍋が活火山のごとく噴火していたら!?さらをひっくり返して下に料理をぶちまけていたら!?変な隠し味を入れたために異臭が漂っていたとしたら!?
ああ、それはきっと全知全能のいと高きものでさえ目を背けたくなるような地獄絵図に相違ないのだ。
想像が頭をよぎり、手の平に汗がにじむ。妙な震えがとまらない。
いいや、潤!!目をそむけるな!!
自分に強く、それこそ神に挑むかのように強く言い聞かせ、潤は思い切って扉を開いた。
するとそこには、意外にも普通の光景が広がっていた。
コトコトと煮立つ音を立てている鍋。美汐がせわしそうに灰汁を取っている。
反対側のコンロでは、中華鍋が乗せられている。まだ火はついていないようで、香里自身はまな板の上で食材と格闘しているようだ。
二人とも相当集中しているようで、潤が扉を開いたことにも気がついていない。てっきり『部屋に戻っててくださいね、潤さん』と穏やかに威圧されると思っていた潤にとっては、まさしく拍子抜けといった感じだ。
みたところ地面に食材をぶちまけた様子もないし、異臭が漂ってくることもない。それどころかおいしそうな芳香が漂っているではないか!!
あれ、もしかして今回は期待できるんじゃないだろうか?
潤の中に一筋の希望が芽生えてしまった。
おいしい食事が食べられるかもしれない……そんな希望に胸を踊らせながら、潤は二人を応援しようとそれぞれの様子を見ようと決意する。
香里は包丁を使っていて邪魔をすると悪いので、まずは鍋の中に具を放り込んでいる美汐の様子を見に行くことにした。おそらく今さっき入れた具の中にカレールーが入っていたのだろう、鍋からカレーのにおいがする。カレーは自分の大好物。なんだか食欲も涌いてきて、いい感じだ。
「美汐、カレー作ってるのか?」
美汐に声を掛けると、ちょうど彼女は軽量カップに透明な液体を注いでいるところだった。
「潤さん、様子を観にきたんですか?」
「ああ、やっぱり一人で部屋にいても落ち着かなくてな」
「ふふ、相変わらず落ち着きがないですね」
「う、あはは……」
美汐は微笑みながらそういうと、すこし仕草が女の子らしくなっているのがわかる。今気がついたわけではないが……どこか今までと違う感覚。美汐は妹のようにかわいがってきたつもりだが、それとは違うような胸の感覚。
そなことを潤が考えていると、美汐は手に持っていた軽量カップの中身を鍋の中に注ぎいれた。その量、約400mlほど。
「な、なぁ、美汐。今の何入れたんだ?」
透明だけど、すこし黄色がかった液体。少しドロッとしたようなものだったが、あれはいったいなんだ?
「ああ、これですよ。隠し味の白ワインです」
そういって、美汐はペットボトルを一本指差す。
「ああ、なるほど、そりゃうまそうだ」
そういってペットボトルを潤も眺める。
「ってこりゃサラダ油じゃないかぁぁ!!」
ああ、切なる希望はほんの三分程度で恐怖へと形を変えてしまった。
「あ、あれ?本当ですね」
小首をかしげる美汐。潤の表情はどんどん青くなっていく。
「でも大丈夫です、潤さん!!私、頑張りますから」
うっ……美汐の笑顔には逆らえん!!
「ああ、頑張れ!!期待してるからな!!」
精一杯握ったこぶしの親指を立てて、グッとサインをした。
再び気合を入れて鍋に立ち向かう美汐。おたまで入れてしまったサラダ油を取り除こうとしているみたいだ。
そして潤は諦めをつれて香里の様子を見に行くことにした。
そこに更なる恐怖が待っているとも知らず……。
「ふう、これで具を切るのは終わりね」
青ねぎにしょうが、にんにく、豆腐……形はそれほどきれいではないが、食べやすい大きさに切れているはずだ。そう、にんにくやしょうがも”食べやすい大きさ”に切れているのだ。
中華鍋に水を張り、とりあえず唐辛子を入れてみることにする。唐辛子の種は……入れたほうがいいのかしら?とりあえず一緒に入れて、駄目そうなら取り出すことにしよう。
そして次々と食材を放り込んでいく。青ねぎ、しょうが、にんにく、そして、生のままのひき肉まで……。そういえば油を敷くのを忘れていた。
「ま、まずいわ」
とりあえずあわてて鍋の中にサラダ油を入れてみる……大丈夫よね。
さて、次は味付けだ。
えーと、お塩はさっき小瓶で取ったのがあったわね。
さっそくキャップをあけ振ってみると、なかなか中身が出てこない。小瓶のふたには穴が開いていて、出てくるはずなのだが……実はこの小瓶の中に入っている塩は、粗塩なので普通の塩よりも結晶が大きく、出が悪いのだ。
「あれ、おかしいわね……」
なかなか出てこないので、だんだん香里もムキになってビンを振るようになってきた。
ブンブン
「あれ、出ないじゃない……」
ブンブンブン
「むむむ……」
ブンブンブンブン
「えいっ!!」
パカ、ぼちゃぼちゃ。
「あ、あれ?あはははは……」
あまり強く振りすぎたためか、小瓶のふたの部分が外れてしまい、中に入っていた粗塩をほとんど全部と言ってしまっていい量、鍋の中にぶち込んでしまった。
「………」
クールビューティー、美坂香里の脳がフル回転を始める。
この状況をどうやって打開すればいいのか?
中に入った塩を取り除くこと……
不可能。
もう一度作り直すこと……
豆腐がないので不可能。
「んー……」
あ、ひらめいた!!
「塩をたくさん入れすぎちゃったんだから、砂糖を入れれば相殺できるはずだわ!!」
クールビューティー、美坂香里の下した判断の結果は、さらなる悲劇を呼ぼうとしていた。
まるで氷山のごとき量の砂糖をスプーンですくうと、香里は一切の躊躇なく、それを麻婆豆腐の中へ突っ込んだ。”麻婆豆腐”の中へ”大量の砂糖”をぶちこんだのである!!ドーン!!
「おーい、美坂」
「あ、北川君。どうしたの?」
エプロンをつけて片手におたまを持ち、振り返って微笑む香里の姿を見ると、潤の胸がドキッと高鳴るのが聞こえた。
「い、いやぁ、ははは。気になって見に来ちゃったんだ」
少し動揺しながらも、潤はそう言った。
そのとき、潤は鍋の中身を覗きこんでしまった。覗き込んでしまったのだ。
ああ、さっきの胸の高鳴りは警鐘だったのかもしれない。
一筋の汗が頬を伝う。香里の笑顔が残酷に見える。
……な ん だ こ れ は ?
こ、これはなんだ?およそ言葉では表せないようなりょう……り?
いや、この”煮立っているもの”は間違いなく料理のはずだ。食べられるものなんだ。だって、料理を作る、と目の前の彼女自身が言っていたのだから。
くそっ、クールになれ、北川潤!!煮立っていようが、なんか種が浮いていようが、ひき肉(のような物)が大変なことになっていようが、それは食べ物なんだ!!食べられるものから作られたものなんだぞ!!
「美坂は何を作ってくれているんだ?」
「あたしはね、麻婆豆腐よ!!」
普段よりいい笑顔で、香里は言った。
そんな馬鹿な!?麻婆豆腐……麻婆豆腐を作っただって!?
じゃあ……じゃあ……
コ ノ ウ イ テ イ ル モ ノ ハ ナ ン ナ ン ダ !?
真っ白い塊。いや、それは浮いているんじゃなく、下にある具材の上に乗っかっているものだということに気がついた。
しばしの沈黙が流れる。
香里は微笑んだまま。潤も微笑んだまま。鍋も煮立った音を立てたまま。
「美坂、頑張れ!!期待しているぞ!!」
ガッツポーズをきめて、潤はそういった。こんなに満足そうに料理をしている香里に、どんな注意をすればいいのだろうか!?
潤はもう覚悟がついた。たとえどんな料理が目の前に出されようと、そこから決して逃げはしないということを。
「はい、できましたよ」
「あ、あたしも一応完成したわ」
二人の料理がテーブルの上にならぶ。
美汐の作品はカレーライス。見た目は普通のカレーライス。
香里の作品は麻婆豆腐。しかしこれは……覚悟を決めた潤ですら、それを目にした瞬間にドッと汗が噴出すのを感じた。
なんというか、鍋の中にいたときりもひどくなっている気がする。ああ、なんか変な赤色だと思ったら、ここに浮いているのは紅しょうが、紅しょうがじゃないか!!ははは、美坂。麻婆豆腐の赤色は紅しょうがで出すものじゃないぞ!!おっちょこちょいだな(笑)
じーーーーーーーーーーっ……
二人の強い視線を感じる。
ああ、そうか。とりあえず食べ比べてどっちが美味いかを判断してほしいってことなのか。なんとも無茶なことを!!
ううう……
とりあえず、見た目はまともな美汐のカレーライスをスプーンですくい、ゆっくりと口元へ運ぶ。見た目的に変なところはないが……美汐の料理の恐ろしさは別の部分にある。それはすなわち、今日も失敗していた『隠し味』だ。
天然なのかドジなのか、美汐の隠し味は毎回ろくな結果を生まない。
この前にいたっては、白米を炊くのに隠し味と称して、炊飯器の中ににんにくとしょうがを入れてたからな……きっと炊飯器が臭くなっただろう……。
さて、感傷に浸っているのもここまでだ。オレはこれを食べなくてはいけない。
ええい、ままよ!!
潤は思い切ったようにスプーンを口の中に突っ込む。
だが、なんだこれは……?妙に……甘い?
いや食べられなくはない……いや決して美味いわけではなく、むしろ美味しくないんだが、甘ったるいと言うか、気持ち悪い甘さがあると言うか。
「美汐、今日の隠し味は!?」
「チョコレートです」
「そ、そうですか……」
「カレーに蜂蜜を入れるとコクが増すときいたので、ルーに近い形状のチョコレートをふんだんに盛り込んで見ました」
だとしてもこれは入れすぎだ。どう味を見たってチョコレートの甘みが強い。想像していたよりもいくらかましだが、それでも美味しくない。
だがしかし、とりあえず関門1はクリアと言ったところか。
だが、次の関門のほうが果てしなく重く、大きく見える。
麻婆豆腐?をスプーンですくってみる。もはやそれはとろみと言った次元ではなく、粘り気があると言っていいだろう。
匂いも……ああ、これ以上は口から説明できるようなものじゃない!!
スプーンを持つ手が震える。
舌の上の感覚を麻痺させようと、脳が命令を下す。
だめだ、手を動かすな!!潤の本能の部分が、極端な拒絶反応を起こす。
口を開ける潤。それをまじまじと見つめる香里。
潤は本能を押し殺し、スプーンにかぶりついた!!
…………!!??
いきなり、潤が椅子から立ち上がる。 汗が一気に吹き出る。血の気が引いていくのを感じる。それでも香里に悟られないように、精一杯表情を固める。
「ど、どうしたの、北川君?」
香里が一瞬驚くと、いったい何と言わんばかりに言った。
「い、いやぁ、飲み物がないからさ、もって来ていいかな?ほら、麻婆豆腐って辛いだろ?」
「ええ、どうぞ」
美汐が返事をすると、潤は笑いながら冷蔵庫のほうへ向かう。美汐と香里の視界から外れると、まるで糸に釣られている人形のようにフラフラと歩き出した。
「そんなに辛かったかしら?これ……」
香里は自分の作った料理に対する不安に駆り立てられる。自分の手に持ったスプーンが、その料理に向かって伸びる。
すっとそれをすくい、ひょいっと口の中に入れる。潤と違い、何の覚悟もなかったのが致命的だった。
「うっ!!??」
口に入れた瞬間、香里の脳内に鋭い電流が走る!!
「か、香里さん!?」
そのまま、香里の意識はブラックアウトした。
しかし、まさか香里が気絶するとは……。
洗いものをしながら、潤は不覚だったと公開する。いや、あんな風に急に飲み物を取りに行った自分の責任だ。
はぁ、大きくため息をつく。
「潤さん……」
隣で一緒に洗い物をしている美汐が声を掛ける。
「まさか気絶するなんてなぁ……」
「ええ、まさかここまでとは」
美汐もほんの一口、まさに味見程度食べてみたが、この世のものとは思えない味だった。さすがの美汐も声をもらしてしまうほどに。
「美坂はどうしてる?」
「とりあえずソファーで眠ってます。なんだかうなされているみたいですよ」
時折、香里のうめき声が聞こえる。相当の悪夢のようだ。
「なんつーか、落ち込んでなきゃいいけど」
「それは無理と言うものでしょう」
やっぱり、といい、潤はもう一度ため息をつく。
「それでも、潤さんは私のカレーも香里さんの麻婆豆腐も全部食べてくれましたよね」
「ん、残すのも悪いだろうが」
「……美味しく作れなくて、ごめんなさい、潤さん」
うつむいたまま、洗いものの手を休めないまま、美汐はうつむいてそう言う。
そんな美汐の頭を潤はそっとなでてやる。
「別にいいぜ。それに、今日のは今までのよりだいぶマシだったからな」
「……本当ですか?」
「ああ、チョコレートとか、もう少し量を減らせば本当にいいアクセントになるかもな」
美汐はそれを聞くと、本当に、普段見せることのないような笑顔を潤に向ける。
「はい、今度は本当においしいって潤さんに言わせて見せます!!」
そんな美汐に、潤の胸が波打つ。
「ああ、期待してるぞ。次はしっかりと味見して作ってくれよ」
それをごまかすように、潤は美汐から目をそらせてそうこたえた。
「はい!!」
美汐はいっそう元気にうなずいて、次こそは味見を忘れないようにしようと心に強く誓うのだった。
ん……ここはどこ?
真っ暗で何も見えない。地面も、空も、空気もない。
誰もいないの!?名雪!!栞!!天野さん!!……北川君……
立ち上がろうとしてみるが、両足に力が入らない。
足元の闇に手を置くと、それの感触が硬いものではなく、なにやら粘っこいものだということに気がつく。
え……ちょっと、なにこれ!?
それは少しずつ両足を飲み込もうとする。
置いていた手も、もう手首のところまで沈んでいた。
や、やだ!!なによこれ!!
力いっぱい抜け出そうとしても、まったく両手両足は抜けない。無情にも、そんな香里の身体は少しずつ闇に沈んでいく。
闇が自分の瞳に近づくにつれ、少しずつ、自分を飲み込もうとしているものの正体に気がつく。
こ、こんなのいやぁぁあ!!
そう、それはさっき自分が口にした麻婆豆腐(?)
そ、そんな……あたしは麻婆豆腐(?)に飲み込まれてしまうの?
精一杯頑張って作ったのに、北川君のために……。
でも、結局それも無駄だった。
全然美味しくなかった。この世のものかどうかも怪しかった。
……こんな美味しくないものを、好きな人に食べさせてしまった。
もう、別にいいか。
しょうがない。その事実は取り消せないから。
あ〜あ。負けちゃった。
そう思って諦めようとしたとき、あたしを呼ぶ声が聞こえて、あたしは体を起こした。
「うわ、急に起きるなんてビックリしたぞ、美坂」
真っ暗だった世界は消え去り、代わりに目の前に北川君がいて、あたしはソファーの上にいた。
「あれ、あたし……」
「あ、ああ。ちょっと眠ってたんだよ」
ああ、そうか。
あたしはあの物体を食べて、気を失って。
今まで見ていたのは、きっとあんなふうにしてしまった食材たちがあたしに見せていた悪夢だったのかもしれない。
そう、さっきまでのことを思い出すと、あたしのなかが情けなさでいっぱいになる。
すぐに堪えきれなくなって、あたしの両目から溢れ出てきた。
「うっ、く……あた、し。ごめんな…さい。しっぱい、しちゃって」
涙が流れるように声も震えて、うまく言葉が出ない。拭っても拭っても涙があふれてくる。あたしは涙を隠そうとするのをやめた。
「み、美坂!?」
「あた、し…りょうり、つくってあげたくって、それで、っく、よく、わかんなくて、で、でも…しっぱい…するなんて、うっ、おもわなくって……」
ところどころ声が上ずる。そんなことを隠そうともせず、香里はただ言葉を続ける。
「いままで、あんまり料理したことなかったのに作ってくれたのか?」
潤はソファーで上半身を起こしたままの香里の目線のところまでかがんで、そう訊く。香里は声に出さず、ただうなずいて答えた。
「ありがと、な」
潤はまるで子供のように屈託ない笑顔で、香里にそう言った。
その一言で香里はどこか救われたような気がして、恥ずかしくなって、顔が赤くなっていくのを感じて、いつの間にか涙が止まっていた。
「ん〜、全部食べたけど、今回はちょっと失敗だったかな。でも、具は結構きれいに切りそろえられていたからセンスあるのかもな!!」
「ちょっと、あれ、全部食べたの?」
泣き腫らした目で、潤の顔を見る。笑顔のままで潤は力強くうなずいた。
「ちょっときつかったけどな……いや、美汐が作った分もあるから、量的にな」
香里はあきれた。
なんでこいつはこんなに馬鹿で、馬鹿みたいに優しいんだろうか。
「北川君……」
「ん、どうした、美坂?」
「その、ありがとね」
「いや、お礼を言われるようなことしたのか?」
ホント、あきれた。思わず笑っちゃったじゃない。
「ねぇ、今度はちゃんと本見て作るから、ちゃんと練習もするから……またあたしの料理食べてくれない?」
顔が真っ赤になってるのを悟れないように、うつむき加減に香里は潤にそう伝える。
「ああ、もちろんいいぞ!!」
その言葉が嬉しくて、あたしは飛びっきりの笑顔を北川君に向ける。
「うん、あたし、頑張るから!!覚悟してなさいよ!!」
そのあと、まだ昼飯ご飯を食べていない二人のために、オレはチャーハンを作ることにした。チャーハンくらいなら何度も作っているし、何より、オレのチャーハンは密かに自慢できるほど美味いんじゃないか、と思っていたりもする逸品だ。といっても、オレ一人で作るわけじゃない。美汐と美坂も一緒だ。
美坂がチャーハンの具材を切る。なると、長ネギ、チャーシュー……思ったとおり、なかなかの包丁捌きだ。使っているうちにどんどん慣れていっているのか、切り口も大きさも少しずつ揃っていく。
その間に、美汐は鍋の中にしっかりと油を敷き、強火で一気に卵を焼き上げ、中にご飯を入れる。美汐の鍋使いもなかなかのものだ。料理の場数をこなしているだけあって、器具の使い方はオレなんかよりも全然上だろう。
オレが美汐の部屋から持ってきた、美汐お気に入りのCDがキッチンを彩る。
美坂が具を鍋の中に入れる。
強火でパラパラに仕上がったチャーハンを美汐が盛り付ける。
その出来栄えに、二人とも抱き合いながら喜んでいるようだった。いやぁ、二人がこんなに仲良くなれてオレは嬉しいぞ!!
え、オレは何をしていたのかって?
……いや、食材を冷蔵庫から出したり、出来上がったチャーハンを運んだり、そんなところさ。ちゃんとやり方どおりに作れば、二人ともちゃんとできるんだから。
オレはもう胃がパンクしそうだったけど、三人で食べたチャーハンはとっても美味かった。嘘じゃないぞ。
それから二人が少しずつ料理が上手くなっていくのは、また別の話。
感想
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