「香里には先生とか似合うと思うなぁ。教えるの上手だし」
 どこからそういう話なったのかは覚えていない。多分、進路の話からだろうと思うけど。
「はいはーい! 美坂には、医者でしょ! 女医だ。俺の体を診てくれ、ぐえっ!」
 医者。一時は志したものだが、栞の一件以来どうでもよくなった。夢と聞かれて答えられるものなんてなくなった。
「いや、香里には普通にOLとか似合うんじゃないか。逆に地味な感じ」
「それ、私をバカにしてるのかしら?」
「普通にそう思っただけだって」
 わざとらしく怒った表情を作ってみたが、彼は「たはは」と頭を掻きながら笑っていた。鈍い奴は、こういうとこ楽だ。
「まあ、なんでもいいわよ。未来のことなんて誰にも分からないわ。仕事に就く前に死ぬ事だってあるかもしれないし」
「ええ! 香里死んじゃうのっ!?」
「……バカ。そうなるかもしれないってことじゃない」
「嫌だよ。あたし香里と離れたくない!」
「はいはい」と泣きじゃくりあたしに抱きついてきた名雪をあやす。「まあ、そう簡単に人なんて死なないわ」そう簡単には……。


 そんなことがあったのが、受験を控えた高校三年生の夏。気づけば私も二十代半ば。私が雪の街を離れてから、七年くらい経っているらしい。
 彼が言ったことは予言だったのか。どうせいつもの適当な発言だろうけど。
 私は今、地味なOLをやっている。











「美坂君、これのコピー頼む」
「はい、わかりました部長」
「美坂君、コーヒー」
「どうぞ課長」
「美坂さん」
「はい」
 その後も美坂さん、美坂君、美坂、美坂、美坂。
 部長はハゲている。課長はズラだ。男は皆ハゲるものなのだろうか? そんな疑問がこの会社で働いていると浮かぶ。
 新卒でこの会社に入った。特にやりたいこともなかったし、内定さえもらえればどこでもよかった。この会社で働いているのも最初に受かったからだ。私の就職活動は一社で終わった。楽なもんだ。
 面接のとき、聞かれた志望動機にはなんて答えたかは覚えていない。ただ将来の夢を聞かれたときのことは覚えている。この歳になって夢なんてものを持ってる人間が何人いるんだろう。アホくさいことを聞くなと思ったが、「人の役に立てるような人間になるです」とマニュアルの通りに答えた。面接官もこっちの答えなんてどうでも良かったのだろう。結果は合格。それなりの大学を出ていれば誰でもいいらしい。学歴社会は未だ健在のようだ。
 一流ではないが三流でもない。そこそこの暮らしを求めるならば、まあそこそこ大丈夫。仕事も大したことはやっていない。営業を志望して入社したはずなのに、ルーキーは雑用をやらせてればいいと思っているのか、それとも未だ根強く残る女性差別なんだか、私に回される仕事はコピーとお茶入れのみ。こんなん猫でも出来る。
 こんなことがやりたくて就職したんだろうか。たまにそんなことを考えるが、そうして行き着く答えはいつも同じで。
『やりたいことなんて無かったんだっけ』
 そういうこと。











「え、うそっ! 先輩って同棲してるんですか?」
「まあ、一応」
 そんな発言を受けたのは昼休みが終わった後、腹ごなしの紙詰まり直しをしている時のことだ。
 この会社のコピー機はよく紙詰まりを起こす。よく書類のコピーをやらされる私は、気づけば会社一紙詰まりを直すのが速い人間になっていた。気づかない内に紙詰まり直し職人の称号を与えられてたりもした。いらないし。
「えぇ、見えないなぁ。彼氏ぃ、何してる人なんですか?」
「学生。ていうか、あんたもいいかげん紙詰まりぐらい直せるようになりなさいよ」
「えぇ、年下なんですか?」
「ん、タメよ。ただ留年して。同じ年に大学入ったはずなのにね」
「うそぉ。じゃあ大変ですねぇ」
「そうでもないわよ。あいつは未だに親から仕送り貰ってるボンボンだし、一応バイトもしてるし、それに私も働いてるし。まあ、生活面では結構楽なもんよ。たまに死んでくれって思ったりはするけどね」
「留年して、親のスネかじって。なるほど。ダメ男なんですね」
「そうね。ダメ男ね。私がいないと何にも出来ない」
 本当、なんでそんなダメ男なんかに捕まっちゃったんだろうか。我ながらどうかしている。
 まあ、私にはそんなのがお似合いなんだろうけど。
「えっとぉ、確かそういうのって、共依存って言うんですよねぇ」
「んぐっ」
 共依存。多少の自覚がないこともなかった。何気ない一言が、なんかグサっときた。言葉のナイフっていうのは予想以上の切れ味を持っているらしい。
 なんとか何にも感じてないわよという素振りを見せつつ「意外と難しい言葉知ってるわね」と皮肉を込めて言ってみた。私ばっかやられてるのもフェアじゃない。しかし、
「えへへ、任せてくださいよ」
 褒めてない。どうやら彼女に皮肉は効果ないらしい。鈍い奴は本当得だ。それに、えへへ、と笑った顔はかわいくて、きっとこういう子が男にモテるんだろう。猫被ってるとこもあるけど、基本的に天然なのよね。そういうとこ誰かに似てる。私とは対極な人種。ああ、もうなんなのよ。なんかもやもやする。
 これ以上、この子と話をするのは得策でないと判断した私は、作業を三倍速で進めた。隣から、「うわ」とか「すご」とか「テクニシャン」とか聞こえたけど、無視を決め込んだ。
「はい、終わり」
「いやぁ、しっかし先輩の紙詰まりを直す姿はいつ見ても素敵ですねぇ」
 ぜったい殴る。 











「ただいま」
 小さな挨拶は、真っ暗でこじんまりとしたワンルームの部屋にこだまして、私の耳に跳ね返ってきた。二人で暮らすには小さいと言われるけど、狭いほうが落ち着く私には丁度いい大きさだ。庶民根性がしっかりと根を張って育ってしまったらしい。
 玄関で脱ぎちらかした靴は、揃えるのもめんどうなのでそのまま放置。居間の電気のスイッチを手探りで求めつつ上着を脱ぐ。
 あった。ポチッとな。
「うわぁ」
 そんな声が出たのは、明かりに照らされた部屋があまりにも汚かったからとか、変な虫がいたからとか、そういう理由ではない。部屋は汚くはない程度に整理している。まあ、変な虫みたいなのは居ついてるらしいけど。
「おーい、起きろ。こんな時期にこんなとこで寝てたら風邪引くわよ」
 ソファの上で腹を出しながら寝ている変な虫に対して、頬を叩きながら呼びかける。しかし、反応は無い。死んでるのか? んなわけないか。ていうか、たぬき寝入りならもうちょい上手くやれっての。口元がにやけてるぞ。こういう奴にはちょっとした罰が必要だろう。
「じゃあ、起きないと、うーん……今晩飯抜き」
「いやーん、香里様ぁ、ご勘弁を!」
「起きてるならさっさと返事しなさいよ」
 私の寂しく響いて消えた『ただいま』を返して。
「ちょっとした悪戯なんす。だから、飯抜きは勘弁してー!」
「いつから起きてた」
「さっき。香里の匂いと足音で起きた」
「変態」
「照れるぜ」
「褒めてない。今日もバイト?」
「ああ。深夜勤務という激務に耐えるために力を充電しようと睡眠をとっていたのさ!」
「偉そうに言うな。こっちは既に八時間労働をこなしてきたところなんだから」
「いやはや、お疲れ様です。どれ、肩でもお揉みいたしやしょうか?」
「ん、頼むわ」
 こいつは肩を揉むのが異常に上手い。手つきはいやらしいが、仕事は完璧だ。大きくて暖かい手はマッサージ向きだと思う。下手な夢なんか追わずにマッサージ師になれば儲かると思うんだけど。
「ついでに他のとこなんかも揉んじゃったりなんかしちゃったりして」
「死ね」
 前言撤回。こんなセクハラマッサージ師がいて儲かるわけないわ。
 ショックを受けたんだか、肩揉みは一向に始まらない。今日も疲れたし、なるたけ早くして欲しいんだけど。そんなに酷いこと言ったかな? 心配になり、死ね発言の効果のほどを見ようと後ろを向いてみると、くねくねとハアハア身悶えしている変態がいた。
「あふ、もっと、もっと言ってぇ」
「鬱陶しい! くねくねするな! 悶えるな!」
「ちぇ。香里のいけず。でも、そんな女王様気質が俺の眠れるM心を開放したのを忘れないで欲しい。こんな俺にしたのはお前だ」
 そう言って歯を煌かせながら笑顔でのサムズアップ。ああ、頭痛い。
「一度殺すしかないわね。あんたみたいな馬鹿を直すには」
 手を組み、世紀末救世主のように指をぽきぽきと鳴らす。勿論、顔は笑顔で。
「じゃあ、涅槃ちゃんと更生してきてね」
「わー! わー! 命だけは勘弁を! 香里のパンチで何回死にかけたか。高校の頃から数えて通算十九回だぞ」
 高校の頃。まだ彼が美坂と呼んでいた頃。付き合いだして呼び名は変わった。
 彼は、私を香里と呼ぶようになった。私も親しみや侮蔑を込めて、呼び方を変えた。
「数えてたんだ。おめでとう。今日で記念すべき二十回を迎えれそうね、北川」
「まあ、でも、ベッドで香里を昇天させた数は二十回は軽く」
「それ以上言うな!」
「あべし!」
 いい手応えがした。右拳を通して脊髄に電撃が走ったみたい。頭の後ろでパンという風船が破裂するような音がした。理想的なパンチが繰り出せたらしい。この右で世界を目指せるかもしれない。これは、今晩目覚めるのは無理だろう。本当にいい手応えだったし。
 しっかし、高校時代にこいつとこんな風になるなんて想像もしなかったな。
 あ、そういえば、今日もバイトあったんだっけ?
 まあいいか。電話だけはしといてあげる。感謝してよね。











 誰も私を知らない、私も誰も知らない土地へ行こうと思って、私は大学を選んだ。幸い、学力が高かった私には幅広い選択肢が用意されていた。
 しかし、実際知人のいない所に来てから気づいたことがある。それは寂しさ。
 こっちに来てから、最初のほうはよく名雪に電話したっけ。
 元々、私は友達を作るのが下手だった。栞の一件で、更にそれは顕著になった。人との接触を極力避けてしまう。そんな人間になっていた。
 一度だけ合コンに誘われたことがあった。どうしても私に来て欲しいと何度も頭を下げられた。
 それを断る術を私は持っていなかった。
 嫌々参加した合コンが楽しいはずないのだが、そこで以外な顔を発見した。
「よう美坂」
 明るく、片手を挙げながら挨拶する彼をジト目で見た。
 どうやら私は嵌められたようだ。
「そんな目で見るなよう。こっちも必死だったんだ」
 彼の気持ちは知っていた。寧ろ分からない訳ないくらいに気持ちをこちらにぶつけてきた。
 北川くんがこっちの大学に来ていたことは、知らなかった。彼曰く、美坂を追って頑張ったとか。
 彼は美術大学に通っているらしい。そういう大学に入れる時点である程度の才能があるということを私は後で知った。確かに、彼の絵は上手かった。美術だけは五が貰えると自慢されたこともある。
 夢は絵で食っていくことだ。
 そう言った彼は、少しだけかっこよく見えた。
 最初は寂しさを紛らわすためだったんだろう。
 彼と私は付き合い始めた。
 そして、ずるずると関係を引きずり、今の同棲生活に至る。











 最近、昔のことを思い出す頻度が上がった気がする。順調に歳を重ねていく自分が怖いのだろうか。十代の頃に、二十五歳の自分を想像できただろうか。こんな風になると思っていただろうか。あの頃は若かったなんて、私の口からもそんな台詞が飛び出すんだろうか。あの子はどんな大人になれたんだろうか。
 マフラーを編みながら、なんとなく付けたテレビでは、甘い恋愛ドラマが展開していた。あの子はこういうのが好きだったっけ。私は吐き気がするけど。
「ん、ふあ。あれ?」
 予想外に早かった彼の目覚めに感心する。こいつはこいつで、タフさで世界を狙えるかもしれない。
「あら、起きた?」そう聞くと「うん……」と、寝ぼけた声が返ってきた。
 同棲して分かったことは、彼が以外にも寝起きが弱いということ。名雪の弱さは異常だけど、こいつも大概だ。
 寝ぼけた目で周りを見渡す彼に、時計を指し示した。既にバイトの時間は過ぎている。
「うあ! バイト!」慌てて身を起こす彼を宥める。
「バイト、ちゃんとキャンセルしといてあげたから」
「あ、ありがとう。まあ、休まざるを得なかったのは香里が原因なんだから電話するのも当たり前だけどな」
「元を正せばあんたが原因でしょ」
「お、横暴だ!」
「休みの理由、盲腸ってことにしといたから」
「俺、小学校の時に盲腸とっちゃってるんだけど」
「実家での養生が必要なので、あと一週間休みますとも言っといたから」
「何ゆえ!」
「どうせ帰るでしょ?」
「ああ」思い出したようで、ふむふむと頷く。「そういやもうすぐか」
「ん」
「相沢元気かな?」
「殺しても死ななそうじゃない」
「水瀬も元気かな?」
「名雪は元気だったわよ。この前電話したら『祐一が相変わらず意地悪なの』って惚気られたし」
「うん、ちょっと楽しみだな、同窓会」
「そうね」
 あの街を出てから、一度も帰っていない地元。そこに久しぶりに帰ることになった。成人式でも帰らなかった。まあ、遠すぎるってのもあるけど、いまいち踏ん切りがつかなかった。
 でも、今回の同窓会。狙ってこの日にしたんだろうか。誰にも言っていないし、偶然だろうけど。
 同窓会の日程は二月一日。もうひとつの目的が私にはある。











 地元に着いたのは昼頃。何故か昼から飲み明かすぞという幹事の謎の気合から、こんな時間になった。
 それは、私にとっては丁度いいことだった。
「よう北川! 相変わらずうんこみたいな匂いがするな!」
「よう相沢! 相変わらず腐った卵のような匂いがするな!」
 そう言いながら、二人は腕をガシっとぶつけた後、軽く頬を殴り合っていた。ちょっと本気で殴ってるようにも見えるが、こいつらのことは放って置いても大丈夫だろう。
「香里、久しぶりだねぇ」
「名雪、綺麗になったわね」
「香里こそ、更に大人っぽくなったよ」
「それは老けたってこと?」
「ええ! そ、そんなつもりで言ったわけじゃないよ」
「冗談よ」
「もう」
 名雪は本当に綺麗になっていた。髪を結っている姿は秋子さんにそっくりだ。将来この子もあの人のようになるのかと考えると末恐ろしい。
 久しぶりに会った皆は、あんまり変わっていなかった。外見は皆、大人になっていたけど、中身のほうはまだまだ子供。寧ろ、そういう風に作っていたのかもしれない。必死で社会の歯車から抜け出して、モラトリアム時代の自分を取り戻そうとしてるようにも見える。
 それも仕方のないことなのかもしれない。私も、少しはしゃいでいる。
「えー、皆さんに重大な報告があります」
 立ち上がって、北川が声を張り上げていた。
「えー、私、北川潤は、現在未だに大学生をやらしていただいております」
 その発言で「ダメ男」とか「死ね」とか「ヘタレ」とかの罵声を浴びせられていた。何を考えているんだ?
「しかし、しかーし! 私は、今幸せでございます! 何故ならば、高校時代の想い人、美坂香里と同棲しているからであります!」
 最悪だ。頭を抱えた。周りから「ひゅーひゅー」と冷やかしの声がする。それに北川への罵声や「俺の香里ぃ」という声も混じっていた。自分で言うのもなんだが、こう見えて私は高校時代モテた。
「香里! 愛してるよ!」
「だ、黙れ!」
 そこからは酷かった。冷やかしに次ぐ、冷やかし。飲め飲めのコール。名雪や相沢くんは私たちのことを知っていたので、ご愁傷様という目を向けていた。誰か助けて。
 幸い私は酒に強かったので、その怒涛の勢いを退けたが、それでも、多少酔っ払ってしまった。
 その後、少し経って皆落ち着きを見せた。やはり大人になったのだろう。酔って暴れるのも学生までだ。
 私も少し落ち着いた。丁度いい時間だ。今から行こう。
「名雪、ごめん。私ちょっと用事あるから」
「えー、香里ぃ、行っちゃうのぉ? もっと飲もうよぅ」
「相沢くん、この酔っ払いをどうにかして」
「おう」
 上着と鞄を持つ。店の中を見渡して見たが、彼の姿は見えなかった。トイレにでも行ったのだろう。放って置いても差し支えない。寧ろ、気づかれないほうが好都合だ。そう思い店を出る。
 だが、出た先には彼がいた。
「どうした?」
「ごめん。ちょっと用事あるから」
 なんとなく気まずくて、目を逸らしながら、彼の脇を通り抜けようとした。
「じゃあ、行こうか」
「だから、用事が」
「墓参りだろ? 俺も行く」
「なんで……」
 酔いが完全に醒めた。











「はい」渡された缶コーヒーを受け取る。「ありがとう」お礼を言いつつ開ける前に、その温もりを手で受け止めた。氷点下の気温は私の体から熱を奪っていた。十分に手を温めた後、プルタブを引っ張った。白い湯気が虚空へとさ迷い出て、漂っていた。
「いつから知ってたの?」ズズズとコーヒーを啜りながら聞く。
「高校の時」
「随分早いのね」
「まあ、な」
 雪道を歩くのは久しぶりだ。足が重いし、たまに滑る。昔は苦も無くこれを歩いていたと思うと自分を褒めたい。それどころか走ることさえ出来た。若いっていいな。
「誰にも知られないようにしてたのに」
「知ってる。だから、お前から言ってくれるの待ってた」
「どうやって知ったの?」
「偶然だよ」
「偶然?」
「秋子さん、事故に遭っただろう?」
「うん」
 秋子さんの事故。それは名雪たちにとって、そして、私にとっても辛いものだった。あの人の優しさに触れたことがある人なら誰もが苦しんだ出来事だろう。酷い事故だった、と聞く。それでも、秋子さんは一命を取り留めた。
「そん時な、俺も実は見舞いに行ってたりしたんだよ」
「へえ、珍しい」
「茶化すなって」
「冗談よ」
「地味に繋がりがあってな、バイトの常連さんだったんだ」
「あんたのバイトって何?」
「秘密」
「……で、それと栞、どんな関係があるの?」
「ああ。見舞いに行ったはいいけど、俺病院で迷ったんだ」
「ださいわね」
「それで変なとこに入っちゃったみたいで」
 彼が語る変な場所とは、渡り廊下を渡った重い扉の先にあったという。そんな明らかに怪しい場所に入るこいつもどうかと思う。
 そこは重病人、長時間かかるような手術が必要な人、もう助からない人――例えば栞のような。
 一応秋子さんの病室を探していたので表札に書かれている名前を見ていた。そこで見覚えのある名前を発見した。――美坂栞。
 あまりある苗字でもないし、私の知り合いかと思ったらしい。
 ぼんやりとその前で立ち尽くしていると、声を掛けられたらしい。ストールを巻いた小さな女の子に。『私に何か用ですか?』
「それで聞いたんだよ。これなんて読むのって」
「アホみたいな質問ね」呆れた。
「しょうがないだろ。読めなかったんだから。そしたら、シオリって読むんだって教えてくれた。ミサカシオリとミサカカオリ。どう考えてもお前の関係者だろ」
「違うかもしれないじゃない」
「だから思い切って聞いてみた」
「何を?」
「美坂香里って知ってる?」
 そう聞くと、一瞬思案顔になった後、すぐに『私のお姉ちゃんです』と言ったらしい。
「それまで、お前に妹がいるなんて知らなかった」
「言ってないもの」
「なんで隠してた?」
「聞かれなかったから」
「そうか」そう言った後、沈黙が流れた。
 ゆっくりと雪を踏みしめながら歩く。もうすぐ着いてしまう。夢の中では何回か来たことのある場所。現実では、ここに来るのは初めてだ。
「ここよ」栞のお墓。
 お母さんが来ていたのか、随分綺麗にしてある。他のお墓に積もっているような雪は、栞の上にはのっていなかった。
「話の続き」彼が呟いた。「それから『お姉ちゃんの知り合いなんですか?』って聞かれた。安心しろ。ちゃんと、君のお義兄ちゃんになる予定の男だよって言っておいた」
「ぶぅっ!」思わずコーヒーを噴いた。栞に少しだけかかってしまった。
「汚いなぁ。ごめんな栞ちゃん」
「ななな、あんたそんなこと言ってたの!?」
「うん」
「高校の時って付き合う前じゃない!」
「だって、俺、お前のことずっと好きだったし。まあ、報告は早かったけど、実際そうなってるじゃん」
「だ、だからって!」
 慌てふためく私の姿を見るのが楽しいのか、彼は更に続けた。
「そしたら栞ちゃんがものすごい目を輝かせながら色々聞いて来るんだよ。馴れ初めとか、デートの仕方とか。だから、俺の脳内でシミュレートされていた出来事を話してあげた。めっちゃ喜んでたよ。『ドラマみたいです!』って」
「あ、あんたねえ!」殴ってやろうと、拳を握り締める。
「で、お前は彼女の死に目にも会わなかったと?」
 その言葉で私の全身から力が抜けた。握り締めた拳も、今は震えながら何か掴むものを探してるかのようにさ迷っている。
 何故、知ってるの? 誰から聞いたの? やめて。
「お前、そのことずっと気にしてるだろ。そりゃそうだ。最愛の妹だもんな。辛すぎて死んでいく姿を見るのも嫌だったんだもんな。だから、拒絶しちゃったし、死に目も見れなかった。それに妹が死んだって言うのに、自分はのこのこと生きてる。お前は栞ちゃんに負い目感じてるんだろ。そんなこと彼女は望んでない」
 捲し立てるように話し続ける彼の言葉は、私の耳に届いては通り過ぎていった。聞こうと思っても聞けない。まだ、心が拒絶する。今日、なんのためにここに来たの? まだ逃げるの? 違う。向き合うために。だから、持ってきた。
「栞ちゃん言ってたよ。お姉ちゃんには私の分まで幸せになって欲しいって。私いっぱい迷惑かけたからって。お前ら姉妹は似てるよ。自分のことより相手のことばかり。もういいだろ。自分を責めるのはさ。栞ちゃんはお前のこと悪いなんて思ってない。寧ろ、自分のせいでお前が苦しんでると思ってたよ」
「ぐっ、うぐっ」
 涙が止まらなかった。あれから泣いたことなんてなかった。いや、栞が死んだ日だって泣いてない。七年間分。それを全て吐き出すかのように私の目からとめどなく溢れた。
 栞、私いいのかな?
 そんな問いかけを心の中でする。返事はない。あるわけない。
 声が聞きたかった。抱きしめたかった。一緒に、幸せになりたかった。
 今の私はすごい顔してると思う。化粧が涙でぐしゃぐしゃだろう。
「渡すもの、あるんだろう?」
「うんうん」
「ずっと編んでたの知ってた。柄が明らかに俺用じゃないし。あれはかわいい女の子に似合うもんだ」
「うん、栞のために……」
 鞄から手編みのマフラーを取り出す。同窓会の日にちを知った日から編んでいた。栞の誕生日プレゼント。最後にあの子が歳を重ねた時、私は何もあげられなかったから。だから、もう無理だけど、渡したかった。
 ゆっくりとお墓に巻いていく。長さが足りず、一周しか巻けなかった。栞の首に合わせて編んだのだから当然か。
 随分、太くなったわね。
 そう冗談めかして心の中で呟くと、栞の『そんなこと言う人嫌いです』という声が聞こえた気がした。少し、笑えた。でも、涙は止まらない。涙と色々なものが混ざった不細工な笑顔。口の中がしょっぱい。
「俺の胸なら貸してやるぞ」
「いらない、ぐす」
「おい!」
「冗談よ。ん、ありがと」
「どういたしまして」
 彼の胸は温かかった。さっき貰った缶コーヒーよりも。お墓の前での抱擁なんて、ドラマみたいでしょ、栞。私、あんたの好きなドラマみたいな恋愛をしてるわよ。
「香里、柔らかい」
「……ばか」











 来た道を戻る。私たちの足跡が二つ、まだ残っていた。それに沿って歩く。なんだか楽しい。
 お墓の横には池があった。そこにボートがあったので、私たちは乗ってみることにした。
「ここのボートってさ、恋人同士が一緒に乗ったら一生別れないんだって」
「私は絶対別れるって聞いたけど?」
「あれ? おかしいな? 相沢がそう言ってたんだけど」
「私も相沢くんに聞いたわ」
「……あいつ、いっぺんぶん殴らなきゃならねーな」
「どっちでもいいじゃない」
 私達で証明すればいいことだ。
「以外にも、俺初めてボートに乗るわ」
「実は私も」
 頬を薙ぐ風がすごく冷たい。こんな寒い日にボートに乗る馬鹿は私達ぐらいだろう。
「後ろ向きに進むんだな。ボートって」
「漕いでる方はね」
 さっきまであんなにざわついていた心は、今はこの水面のように静かに揺れている。
「北川くんがいなかったら、私お墓の前まで行けなかったと思う」
「北川くんって久しぶりに聞いた」
「ありがとう」
「俺も栞ちゃんに会いたかったし。本当にお義兄ちゃんになったぞって報告のために」
「……馬鹿」
 私たちは沈黙した。聞こえるのはボートを漕ぐオールが水を切り裂く音だけが聞こえる。水の音は、聞いてるとなんだか落ち着く。
「そうか」沈黙を破ったのは彼だった。「香里はボートを漕いでたんだよ」
「ボート?」
「そう。さっきも言ったけど、ボート漕いでる時ってさ、後ろ向きだろ?」
「まあ、ね」
「そういうこと」
「よく分かんない」
「俺も言っててよく分かんないよ」
「なら言うな」
 何を言いたいのかよく分からない。芸術家の抽象的な思考を彼も一応持っているということだろうか。
「あー、まあ、つまりだな、ボートは俺が漕ぐから、香里はそれに乗って前見てればいいってこと」
「は?」
「簡単に言うとプロポーズ……なんだけど」
「ふーん」
「ふーん、ってあんた」
「なんか実感沸かない。こんなシチュエーションで言われてもねぇ」
「そんなぁ」
「それに、あんたまだ学生じゃん」
「辞めて働く」
「ちゃんと卒業しろ」
「じゃあ卒業したら結婚しよう」
「結婚って……想像できない」
「想像できなくてもするの!」
 足をじたばたしながらそう叫ぶ姿は、欲しいおもちゃのおねだりをする子供そのものだ。
「駄々っ子みたいにならない」
「だって、あんまりに香里のリアクションが薄いから。俺の心臓今にも爆発しそうですよ?」
「私の心臓はいたって平常どおりですよ?」
「ちょっとは照れたりなんかしたらどうなのさ! 赤面したりしてさ。かわいくない!」
「かわいくなくて悪かったわね」
「どうしてここだけそんなリアクションするかなぁ」
 私だって一応女だ。かわいくないなんて言われたら拗ねもする。
「テンション高い。鬱陶しい」
「そりゃテンションも高くなるわ! 一世一代のプロポーズだぞ。普通のテンションで出来るかっつうの!」
「声大きい。近所迷惑」
「池じゃん! 近所って何! お墓?」
「うるさい。……好きよ」
「うるさくて結構! 俺も大好き! んえ?」
「北川のこと好きよ。だから、一緒に、その、ボート乗ってあげてもいいわ」
「マジで?」
「嘘でいいの?」
「やだ」
「じゃあ、黙って私について来い」
 目を逸らしながら言う。きっと私の頬は真っ赤になっている。それはきっと寒さのせいだ。決して恥ずかしいとかそんなんじゃない。
「なんかそれって逆なんじゃ。一応俺が漕ぐつもりのボートだし」
「返事は?」
「一生ついていきます」
「よろしい。あ、ひとつだけ約束して」
「ひとつつどころかいくつでも」
「ひとつでいいの」
 この約束だけは守って欲しかったから。たったひとつだけでいい。
「私より……先に死なないでね」
「……分かった。その約束は死んでも守るよ」
「矛盾してる」
「一緒にジジババになろう」
「もっといい言い方あるでしょ」
「一緒に年金貰おう」
「もうそれでいいわ」
 栞。私は、こんなんでも結構元気にやってるわ。
「一緒にゲートボールしよう」
「黙れ」











「美坂君、これのコピー頼む」
「はい、わかりました部長」
「美坂君、コーヒー」
「どうぞ課長」
 部長は相変わらずハゲている。課長はズラを変えた。ヨン様風。時代に乗り切れない中年の哀愁を感じる。
 私は相変わらず雑用をしている。コピー、お茶入れ。紙詰まり直しに関しては、もう特技の欄に書いても差し支えない。
 やってることは変わらない。周りも課長のズラ以外変化は無い。でも、以前のように、こんなことがやりたかったんだろうか、とか無為なことは考えなくなった。私も結構単純なのかもしれない。
 左手の重さ。指輪一個分重くなった。
 つまり、そういうこと。
 さあ、幸せになろう。

感想  home