「ねぇ、祐一君」
「ん?」
何気ない、いつもと同じ商店街からの帰り道。
ふと、祐一の隣にいる少女―――あゆが口を開いた。
つい先月までは、遊歩道を埋め尽くすように咲き誇っていた桜も、今ではすっかり木ではなく地面を桜色に染めていた。
「ボクが目を覚ましてから、もう一ヶ月になるんだよね」
隣で、穏やかに微笑むあゆがそう言い、買い物袋を両手に下げる祐一を見た。
米袋二つ分の重みの袋を下げる祐一は、別段疲れたような顔を見せずに、同じようにあゆを見た。
「そうだけど・・・・どうしたんだ?いきなり」
あの日、あゆが七年越しに目を覚ました時から一度も口にしなかったことだ。
七年前のあの事故を思い出してしまうのかと、自分からその話題を会話に出さないものかとてっきり思っていたのだが。
思い違いだったのだろうか。
「ボクね、目を覚ましてから今まで、ずっと考えてることがあったんだ」
そう言うと、今度は空を見上げた。
やはり祐一も同じように空を見上げる。
だが、今度は何も見えるものはなかった。
あゆは、この空に何を見ているのだろうか。
「一ヶ月間、ずっとか?」
空から視線を戻し、そう問う。
「うん。ずっと」
あゆは空を見たまま、そう言って答えた。
「忘れ物がね、あるんだ」
そう言い、やっと視線を空から戻した。
だが、表情からは先程までの微笑みは消え、寂しげな色を交えた小さい笑みを浮かべていた。
滅多に見たことなどない。
こんな、あゆの顔は。
「天使の人形、見つかっただろ?」
今もあゆの財布に繋がっている天使の人形に視線を送りながらそう返す。
あゆは、表情を変えないまま左右に首を振った。
「天使の人形は、ボクの大事な探し物。でも、忘れ物はもっと別なことなんだ。天使の人形と―――祐一君との思い出と、同じぐらいに」
「俺には、よく分からないな・・・」
「うん。そうだと思うよ。だって・・・ボクだけの、大切な思い出のことだから」
そう言って、顔からは寂しげな表情だけを残し、笑みを消した。
過去に一度だけ、この表情なら見たことが、ある。
七年前の、あの冬の日。
あゆと初めて出会った、あの日だ。
そして、あゆがその表情を覗かせていた理由―――
「・・・あゆの、母親のことか?」
あゆの顔を見ながら、祐一が言っていた。
あゆは、別段驚いた表情も見せず、祐一の顔を見返して、小さく頷いた。
「お母さんがいなくなってからね、ボク一回もお墓参りに行ってないんだよ・・・」
「行けば、いいんじゃないのか?」
寂しげな表情の理由はわかった。
しかし、どうしてその表情を浮かべるのかは、祐一には分からなかった。
あゆは、無言のまま小さく首を左右に振った。
「駄目だよ・・・だって・・・」
寂しげな表情を残したまま、再びあゆは笑みを浮かべた。
「七年もたって、ボク・・・どんな顔でお母さんに会ったらいいのか・・・分からないから」



大切な忘れ物





「あら、おかえりなさい」
水瀬家に着くと、秋子が出迎えてくれた。
「ただいま、秋子さん」
「ただいまー」
二人揃って挨拶をする。
あゆはあの日以来、水瀬家の新たな居候として迎え入れられた。
最初は戸惑っていたあゆも、一ヶ月ともなるとすっかり馴染んでいた。
今では、どちらかと言うと祐一の方が肩身の狭い思いをすることがある。
「昼食の材料、買って来ましたよ」
手に持っていた袋を秋子に渡した。
「どうもありがとう」
秋子は微笑みながらそれを受け取ると、あゆを見て首を傾げる。
「あゆちゃん・・・何かあったの?」
「え・・・?」
「あ、ごめんなさいね。いつもより元気がないように見えましたから」
そう微笑むと、踵を返してダイニングに入っていった。
あゆはうつむくと、靴を脱いでとぼとぼと階段を上がっていった。
あの姿からは、いつものあゆの面影はまったく想像できなかった。
だが、今はどうしようもなかった。
やるせない気分になって、そのまま祐一はリビングへと向かう。
「あ、おかえり。祐一ー」
リビングのソファーに座ってテレビを見ていた名雪が、祐一の姿を見て微笑む。
「あぁ、ただいま」
祐一も、その隣に腰を下ろす。
「なぁ、名雪」
「うん?」
テレビには目をやらずに、天井を見上げて祐一は口を開いた。
無粋な男なんかより、同姓の名雪の意見の方がきっと役に立ってくれるだろう。
そう思って。
「大切な人との再会に、決まった表情なんてあるのかな」
「どういうこと?」
「言葉通りだ」
「香里みたいに言われても分からないよ・・・」
香里風に言ったつもりは無かったのだが・・・勘違いをされてしまった。
「でも、本当に言葉通りなんだ」
「うー・・・」
複雑な表情を浮かべて頭を抱える。
「いや・・・悪いな。変な質問して」
やはり、名雪にこういう複雑な質問は荷が重かった。
そう思い、祐一はソファーから立ち上がった。
「祐一」
その祐一を、名雪が呼び止めた。
「わたしにはよく分からないんだけど・・・」
そこで区切って、申し訳無さそうに頭を垂らす。
「大切な人って、ただ一緒にいられるだけで嬉しいんだと思うよ。表情とか気持ちとか、そういうのは関係無いって、わたしは思うよ」
そう言って、今度は穏やかな笑みを浮かべて見せてくれた。
「・・・そっか」
「うん、そう」
「ありがとな」
「今のが役に立つんなら、どういたしまして、だよ」
そう言い、最後にはいつもの笑みを浮かべていた。
リビングを出て、階段へと向かう。
あゆはじっとしているのか、上からは物音は聞こえなかった。
階段を上がり、もとは家出少女真琴が使っていた部屋の前に立つ。
そして、扉を数回ノック―――しようとして、ためらう。
本当に、今の自分にはあゆの母親のことをあゆに話す権利があるのだろうか。
祐一も、七年間、あゆを忘れてしまっていた。
そんな自分に、権利はあるのだろうか。
手を宙に漂わせたまま、目を閉じる。
一ヶ月前、あゆが目を覚ましたことを知り、いても立ってもいられなくなって病院に駆けていったあの日。
あの時の自分は、どういう表情をしていた?
あゆは、どういう表情をしてくれた?
考えて、苦笑した。
―――確かに、名雪の言う通りだな・・・
大切な人との再会には、表情なんて必要ない。
ただ、もう一度会いたかったという気持ちだけ、胸に持っていれば。
宙に漂わせていた手が、扉を叩いた。
「うぐ?」
中からあゆの口癖で返事が返ってくる。
―――返事にまで『うぐぅ』が定着してるのか・・・?
謎だった。
とりあえず、それは置いておいて。
「俺だけど、入っていいか?」
「祐一君?・・・うん、いいよ」
そう返事が返ってきたので、祐一は部屋の扉を開けた。
「どうしたの?」
ベッドに腰掛けていたあゆがこちらを向く。
「隣、いいか?」
「え?あ、うん」
了承を得てから、あゆの隣に腰掛ける。
「明日さ」
そして、そう口を開いた。
「明日、あゆの母親の墓参り、みんなで一緒に行こう」
そう言い、祐一は微笑んだ。
祐一はともかく、名雪も秋子もきっと了承してくれるだろう。
一瞬、あっけに取られた表情を浮かべたあゆは、すぐに困惑の色を顔に出す。
「うぐぅ・・・でも・・・」
「あゆさ、七年ぶりに俺に会ったとき、どんな気持ちだった?」
「それは、もちろん嬉しかったよ。待っていた人に会えるのが、一番嬉しいことだから」
そう言って、はにかみながらもあゆも笑みを浮かべた。
「あゆの母親も、きっと待ってると思うぞ?」
「・・・え・・・」
「待っていた人に会えるのを、墓の中で一人、毎日毎日待ってるんじゃないか?」
「・・・」
あゆはうつむき、口を閉ざす。
「表情なんか、大切な人との再会には関係ないと思う―――って、今のは名雪の受け売りだけど」
そう言って、苦笑する。
自分自身からも、もっと言葉が出てくるといいのだが、生憎、今の祐一にはこれが限界だった。
「喜んで・・・くれるかな・・・」
ぽつりと、下を向いていた顔を上げて、不安げな顔で祐一を見た。
「絶対にな」
微笑みながら、そう返した。
あゆの顔に、薄くだが笑みが浮かぶ。
「ありがと。祐一君」
「俺なんかで役に立ったんならな」
「祐一君は、ボクの中で一番頼りになる人だよ」
そう言って、やっといつもの笑みを浮かべた。
やはり、あゆにはこの表情が一番似合う。
「そっか。じゃあ明日、あゆの母親に色々と報告しないとな」
「うんっ、祐一君は、ボクの大切な人だってこともね」
「俺はお義母さんなんて呼んでみるか」
「わ・・・っ。なんてこと言うんだよ・・・」
「気にするな」
「気にするよぅ・・・」
恥ずかしそうに顔を赤くし、ぽかぽかと祐一の肩を叩く。
いつもの調子に戻ってみると、表情がころころと変わるのは同じようだった。
下から、秋子の昼食に呼ぶ声が聞こえた。
「お、丁度腹減ってたところだ」
笑いながらそう言って、祐一が立ち上がる。
「帰り道にたい焼き食べたばっかりだよー」
苦笑しながらあゆも立ち上がる。
「そういえば、今思ったら、あの店まだたい焼き売ってたんだな」
「気づくの遅いよ・・・」
「悪いな、俺は昔から鈍感なんだ」
「否定は・・・しないけど・・・」
「してくれ・・・」
「色々と思い当たる節があるんだもん・・・」
そう言われては、ついには否定が出来なくなってしまう。
―――そりゃ、いくつか思い当たる節は俺にだって―――・・・ぅ
まったくなかった。
鈍感というのは、あながち間違っていないようだった。
一人小さくため息を吐きながら、嬉しそうな表情を浮かべて階段を下りるあゆに続いた。



「祐一ーちゃんと雑草抜かないと駄目だよー」
すぐ隣で、墓周りの雑草抜きに励んでいる名雪が祐一に言う。
「細かい作業は苦手なんだよな・・・」
こちらはぶつぶつ言いながら、石と石の間の細かい雑草まで抜いていく。
こうも雑草が多いと、もはや草原で草むしりをしているようなものだった。
七年も放っておかれては、当然なのだろうが。
「秋子さーん、お水汲んで来たよー」
木製の桶にたっぷりの水を入れた物を、あゆがおぼつかない足取りで持ってきて、花を生けている秋子の足元に置いた。
「ご苦労様、あゆちゃん」
微笑みながら一仕事終えたあゆの頭を撫でる。
嬉しそうにあゆは表情を崩し、秋子の手に甘えた。
すでに決めた範囲の雑草を抜き終えていた名雪が、花を生けた花入れに水を注ぐ。
少し遅れで雑草抜きを終えた祐一も、もう片方の花入れに水を注いだ。
「みんな、ご苦労様。これでいいわよ」
微笑みながら秋子が言うと、全員が墓の前に並んだ。
そして、静かに手を合わせ、目を閉じる。
一分ほど、短いようで長い間目を閉じていた。
やがて目を開けると、秋子と名雪も目を開けていた。
だが、あゆは一人まだ目を閉じていた。
そして、さらに一分ほどして目を開けた。
「お待たせしましたっ」
そう言って微笑んだ顔には、昨日の寂しげな色はまったくなかった。
「もう、いい?」
秋子が全員に問う。
全員がこくりと頷いた。
「それじゃあ、行きましょうか」
微笑みながら秋子が歩き出し、全員がその後ろに続いた。
「なぁ、あゆ。なんて言ったんだ?」
一番後ろを歩きながら、祐一はあゆに問う。
「うぐ・・・恥ずかしいから言わないよ・・・」
「俺も言うからさ」
「うぐぅ・・・じゃあ、祐一君が先に言って・・・」
しばらく考え込んだあと、そう小さく呟いた。
祐一は苦笑してから口を開いた。
「初めましての挨拶。それと、あゆと付き合ってますっていうこと。それで、あゆを俺に下さいって言ってきた」
「・・・すごい話が飛躍しちゃってるね・・・」
そう突っ込みながら、あゆの顔は真っ赤だった。
「いいだろ?別に嘘はついてないんだし。で、はい。あゆの番」
そう言うと、あゆは顔を赤くしたままうつむいた。
「ボクはね―――」



お母さん。
久しぶり、だね。
ボクは、お母さんに謝らないといけないことがあるんだ。
長い間、一人にしてごめんなさい。
それと、心配掛けて、ごめんなさい。
ボクのことを、空から見ててくれてると思うから、きっと知ってるんだよね。
ボクが七年も眠ってたこと。
祐一君と出会ったこと。
それで、今・・・うぐぅ・・・付き合ってること・・・
えっと・・・それで、全部全部、今は大切なボクの思い出や、記憶だよ。
お母さんがいなくなってあんなに落ち込んでたボクにも、今はこんなことを思えるように、立派になったよ。
だからね、お母さん。
これからも、心配しないで。
いつまでも、ボクのこと、見守っててください。
そして、お母さん。
最後に一つ、言いたいことがあります。
ボクを生んでくれて―――月宮あゆっていうボクを生んでくれて、本当に―――



『ありがとう』

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