綺麗な女の子だった。
憂いを秘めた箱入りの、深窓のご令嬢といった感じだった。正装して帽子をかぶり、清楚ですごく上品な佇まいだった。
でも目がすわっていて、まるで人形のようだった。
父の従者に手を引かれ、娘は黒塗りの車まで歩いていく。父の両手には匣が抱えられていた。
車のドアが開き、黒服で身を包んだ華奢な体躯の男が出てきた。
黒服の走狗が後部のドアを開けると、頭部が皮脂でギラギラしている中年の男が、肥えた腹を揺らして降りてくる。黒服が抜け目なく周りを見渡す中で、男が娘に近づく。
「おお、可愛い可愛い。まるで生き写しだ」
そうして、男は娘を愛しそうに抱いた。
娘は綺麗な蝋人形のまま、繭一つ動かさない。
男はそれがますます気に入ったのか――無反応なのをいいことに、まるで値踏みするように全身を視線で舐める。
その男の表情が、私にはひどく不快にうつった。
「ありがとう、本当にありがとう」
男がお父さんに何度もお辞儀する。
我が家は昔からの名家で、お父さんが人望があって、すごく重要で立派な仕事をしているのだと思って、私は誇りに思っていた。
会社社長からあんなにお辞儀されるくらいに立派で、優しいお父さんが大好きだった。 匣を中年の男に渡し、父が私のほうに戻ってくる。
父の表情は、陰が差してうかがい知ることができない。
「あの子はだあれ」と私は聞いた。私より可愛かったから、嫉妬してお父さんに甘えて腕にしがみつく。
「美汐……」
父の驚いた顔がおかしかったから、子供の私はクスクスと笑ってしまう。
「邪魔しちゃったお父さん?」
突然出てきた私を、お父さんは叱ったりせずに、
「いや……」
お父さんが私を抱き上げる。
そして耳元で囁く。私はちょっとくすぐったいなと思った。優しいお父さんの匂いは、私の心を幸福で一杯に満たす。
「会社社長のお嬢さんだよ」
「そうなんだ」
どうりで綺麗なはずだ、とその時の私は素直にそう思った。
車が動き出し、私たち親子はそれを見送る。
「ねぇお父さん」
お父さんに、声をかけた。
「なんだい?」
お父さんの優しい声がする。優しい匂いがする。
「あの子みたいに綺麗になれるかな」
お父さんの太い腕の中に抱かれた私は、世界中の人々が笑顔で幸福な日常を信じて疑わない。
「ああ……なれる。なれるよ」
――まさかお父さんの腕の中の、人々が心から信じあえる日常が崩壊するなど、その時の私は思いもよらない。
「ホント?」
「……ああ」
私は歓声を上げて、お父さんの腕に頬を擦り付けて甘える。
その時の、去り行く車を遠く眺めるお父さんの顔は――太陽の影に隠れてよく見えなかった。
――箱入り娘は、こうして”出荷”されていったのだ。
天野がオバサンくさいワケ〜"あの子"と呼ばれた仔〜
その日は嵐だった。
食堂で一人で夕食を終えた私が、部屋に戻ろうとしたときのことだった。
父は仕事があって社のほうにいた。なんでも、客人をもてなすのだという。
少しだけ、母親に手を引かれた小さな客人を見かけたが、その子は体も細くて色も白く、病人のようにやつれていた。
その日は、屋敷の中が慌しかったのを覚えている。
慌しく屋敷の廊下を、使用人たちが小走りで動いていた。
家具の隅まで確認するその様子を見ると、何か探し物をしていると言う感じだった。
その時は訝しがったが、特にそれ以上気にすることもなく、私は部屋に戻った。
突然、光った。
ついで、大きな音がした。音の伝わり方から、雷が近くで落ちたらしいと察する。
部屋の窓から外を眺める。
屋敷の外の木々が、ざわざわと音を立てて揺れていた。
風が出てきて、窓が音を立てる。
音を立てるような強い雨が、一気に降り始める。
(今夜は嵐みたい……)
私は着替えをしようと、上着を脱ぎ始める。
また、光った。
同時に激しい雷鳴がとどろく。
小さな悲鳴が上がった。
その声は私と、そして――
「あ……」
私は下着だけの姿で腰を抜かしていた。
どうやって入り込んだのか、私の部屋に、子狐がクローゼットの陰で震えてうずくまっていたからだ。
雷が怖いのか、人が怖いのか、あるいは両方怖いのか――小さな狐の瞳は、私を見たままふるふると揺れている。
(な、なんで私の部屋に狐が……)
古い我が家だ。お化けが出てくるなら分からなくもないが、狐とはつままれた。
(まぁ、狐のお化けかもしれないですが)
なにせ由緒のある家だ。猫やら狐やら、その他魑魅魍魎の類に取り憑かれていても、おかしくはない。
投げ出された私の上着の傍で震えている子狐は、まだ生まれて間もないのか、保護衝動と母性本能を全面にくすぐる円らな瞳と、可憐な栗色の毛をもっていた。
最初は飛び跳ねるほど驚いたが、縮こまって無害さを主張するその子をよく見ると、素直に可愛らしいと思える。
命の全てを母に委ねきってしまう子供の姿。どんな人間でもすがらずにはいられない儚い命。
見ていると、こう、切なくなって、思わず抱きしめたくなってくる……。
(な、なってきません……なってたまるものですか)
その時。
くーん、と子狐が弱弱しく鳴いた。
同時に、しっぽが切なげに揺れる。
(うっ……)
心に訴えかけるような光景が、目の前で展開される。テレビだったら、そう、思わず電話して100円募金してしまいそうなほどの。
雷が、落ちた。
激しい落雷音が、屋敷を震撼させる。
使用人たちが慌しく駆け回っている。まだ探し物をしているのだろう。
(まさか……)
そっとドアごしに、私は使用人たちの声を伺ってみる。
『見つかった?』
『こっちにもいない……』
『小さいから物陰に隠れてるかも……』
その様子で私は察した。
どうやら、この子狐を探しているらしかった。
私が子狐の方を見ると、子狐はびくっ、とすくんだ。
恐らくこの子は、家に入り込んで、それで使用人に見つかって、追われてこの部屋に入り込んだのだろう。
(まったく人騒がせな……)
私はため息をついた。
子狐も反省しているのか(?)、うなだれてか細く一鳴きする。
私はこの子狐を……。
1.使用人に明け渡す。
2.そっと放してやる。
3.自分のペットにする。
それぞれ選択肢が浮かんだ。
(最後のペットにするなんて、論外です)
私はペットを飼ったことがない。
ペットが売れるのは死ぬからだ。かけがえのない家族が死んだら、欠けたままでいることに耐えられなくなる。
だからまた買うことになる。そうやって何匹も買い続けていく。こうしてお得意様になっていくわけだ。
私にそんな生き物を売り買いする趣味はない。
命をプレゼントや物みたいにやり取りしたくない。そんな社会の仕組みに組み込まれたくない。穢れのない命を、穢れた人間たちの手で取引することに、私は強い抵抗を感じる。
それになにより、命を玩具になんてしたくない。小さい頃から、私はずっとそう思っていた。だからペットを飼ったことは一度もない。
少し考え、私は自分のとるべき行動を決めた。
別の分岐を選んだら、私の運命は変わっただろうか。それはどういう風に?
――何気ない小さな選択肢が、人々の運命を大きく変える可能性を持つ。それは大きな非日常(ドラマ)へと人をいざなう日常のほころび。そのほころびから、物語が紡ぎ出されるのだ。
その日、私は綻びのページをめくった。
部屋の周りをうろうろしている使用人の一人に、声をかけた。
そして、一斉に私の告げた場所へと向かう。この部屋から正反対の方向にある離れへ。
「これでよし……」
狐が離れに走っていったといったら、使用人たちも走っていった。
やはり探し物は、この子だったらしい。
(それにしても、どうしてあんなに血眼になって探すんでしょう……?)
滅多に屋敷に入らない、社の巫覡や巫女たちも先ほどから多く見かけた。
疑問には思ったが、その時はそれ以上考えることはなかった。
噛まれるのが怖いので、持ち抱えることはなかったが、私は子狐と共に部屋を出た。
「ほら、早く……」
手でこっちに来るように催促する。
警戒心の強い子狐は、私の後を恐る恐るついてきていた。
途中、キッチンに差し掛かった。
私は何も食べさせない。
人の味を覚えてしまったら、この子は不幸になるに違いないのだから。
そうして。
使用人の誰にも会わずに、なんとか屋敷の外に出ることに成功した。
降りしきる雨は、ますますその勢いを強めていた。
雨樋から流れ出る水が、滝のように地面を打ち、私の足元で跳ねる。
だがこの雨だれの前で、私はきっぱりと言い放つ。
「さぁ、行きなさい」
その子は私の足元をすり抜けて、恐る恐る屋敷の中から戸の外に出る。
懐いてしまったり、雨に濡れるのを怖がったりして嫌々をするのなら、絶対に追い出してやる――と覚悟を決めていたのだが、
「あっ……」
意外にもあっさりと、子狐は外に出てここから逃げられると見たのか、戸を出たとたんに私に振り返ることもなく、風雨に揺れる森まで走っていってしまった。
少し、拍子抜けした。
(まぁいいか……)
ペットの嫌いな私に懐いてしまったら、お互い不幸になるだけだ。そう自分に言い聞かせた。
使用人たちは、まだ慌しく広大な屋敷を小走りで探し回っているのだろう。
だが――この広い屋敷でも、彼らの走り回る自然に比べれば、あまりに狭くちっぽけなものだろうから。
(寝よう……)
私は寝床に引き上げた。
※
その次の日。
昨日、我が家に逗留した客人の一家を、登校の途中で私は見かけた。
母親の手に引かれる少年の顔がふくふくとしていて、健康的な桜色の艶を帯びていた。
まるで昨日の病人のような姿とは別人のように、少年は元気な様子だった。
「お世話になりました……」
母親が社の者にお辞儀をしている。
こういうことは一度だけではなく、何度かあった。
我が家に泊まりに来る者は、どこか具合が悪そうな者ばかりだった。それを父が加持祈祷を行って治している。私はそう伺っていた。
話によると、昔からそのようなことは行われていたらしい。
私の家の歴史は古い。ご神体のある社は、この街がまだ村だったときからあるのだ。
だから古くから街の人々の信仰の対象として、社は根付いていた。
荘厳で立派な社は、それだけ人々が篤信である証拠。祭事があるとき、街の人々は必ず社に集まった。今でも氏子の人々が、境内を毎日掃除しに来る。私たちは村の英雄だったからだ。
一族の歴史は、妖伐の歴史でもあった。昔、この付近一帯の山里には、魑魅魍魎の類が棲みついていた。
その物の怪は人に化け、里に下りてくることがあるという。
だが――それが姿を現した村は、ことごとく災禍に見舞われることになり、それ故に厄災の象徴として厭われてきた。我が一族はそれら祟りを鎮め、邪気を祓う神職に就いていた。
実際、社が建立されてからそれらの災いはぴたりと収まった。そこからこの村独自といえる社自体の信仰が始まったそうだ。
その実力は高かったらしく、この地を治めた時の諸侯からも厚遇されていたそうだ。現在では、この地方ではテレビでしか見れないような大物が尋ねてくることもある。
今も衰えることなく勢力を保ち続ける我が一族は、各界に影響力を及ぼす、正に陰の実力者だった。
授業が終わり、家路につく。
途中まではバスを使う。だが社のある屋敷までは途中で道路が分かれるため、バスを降りて歩かなければならない。
バスから降りて、歩き始めようとした、正にそのときだった。
後ろから小さな悲鳴のような声が聞こえた。
直後に背中を押されるような感触がした。押されるというよりは、何か背中に当たったようだった。
「……うぐっ」
振り返ると、男の子が泣いていた。
鼻のあたりを赤くして、目には涙をためていた。
「…………」
男の子と目が合う。
「……う……ぐっ……」
まずい、と思ったときは手遅れだった。
「えぐっ……うっ……」
しゃくりあげるように、少年が泣き出した。
(ど……)
あたりを見回す。
バス停の周りには、私たち以外誰もいない。
(どうしましょう……っ)
助けを呼ぼうにも、バス停の周りに何もなく、道の先には屋敷と社しかない。
男の子は、私の上着をしっかりと掴んでいる。さすがに、この状態で振りほどいて逃げ出すわけにもいかない。
「あの……ボク?」
とりあえず声をかける。
男の子がぐずりながら顔を上げる。
「お母さんはどうしたの?」
すると、男の子が首を振る。
(迷子かな……)
と、私はあることに気付いた。
(この子……)
私は、この少年に見覚えがあった。
当たり前だ。昨日今日に出会っていたのだから。
(あの時の子だ……)
この子は、母親と共に屋敷に泊まっていたあの少年だ。
だが、少し奇妙だった。今朝方に見かけた少年とは、どこか様子と雰囲気が違う。姿はほぼ同じだが、別人のようだった。
「お母さんは?」
もう一度尋ねる。
「えぐっ……うぐっ」
男の子は片手で私の上着を引っ張ったまま、もう片方の手で目を擦っている。
「……お母……さぁ……」
「お母さんは? ボク、お社にいたでしょう?」
「お母ぁ……ん……」
「うわ……っ」
母親がいないことを思い出してか、男の子はまた盛大に泣き始める。
(誰か助けて……)
いきなり降って沸いた災難だった。バスから降りたら男の子とぶつかって、かれこれ15分以上はこんな感じだ。
「と、とりあえず、行きましょう。お母さんも神社の方にいるかもしれないし」
「…………」
男の子はいまだに泣きやまない。
とりあえず、手に負えない。どうしてよいか分からない。私は混乱していた。
「お母さんだって、心配して神社で待ってるでしょうしね」
ひとまずは社の者たちに引き渡して、母親に連絡を入れてもらおう。そう考えた。
そうして、私は男の子の手を引いた。
特に抵抗することもなく、男の子は私に引かれて後ろを歩き始めた。
※
「…………」
道を歩く時も、男の子が泣きやむことはなかった。
しばし無言で、私は社まで少年を連れて行く。
俗世の人の喧騒から離れた社は、幽玄な佇まいを見せていた。
山の上という高度もあるだろうが、空気が清浄で冷厳だった。その凛とした空気が、否応なく精神を厳粛にさせる。
秋空の夕焼けで、鳥居の赤色がさらに鮮やかに映え、郷愁感を醸しだす。
「ぐすっ……」
夕暮れの残光に照らされ、男の子の顔も真っ赤になっていた。
社が見えてくると、男の子が立ち止まることが多くなっていた。私は半分その子を引き摺るようにしてここまできた。
「ほら……」
立ち止まってぐずがる男の子の手を無理やり引いて、私は社務所をたずねようとする。そして中の者を呼ぼうとしたときだ。
突然、男の子の身体が震え始めた。
「どうしたの……?」
涙で震えているのではない。もう泣いていないのだから。
無表情で、目が人形のようにすわっている。歯がガチガチと鳴り、迫る存在を呆然して凝視する瞳が、体とともに揺れている。
その震えは、恐怖によるものだった。
明らかに様子がおかしかった。
私の制服を掴む男の子の手が、さらに頑なになる。
男の子が私の後ろに隠れる。
そして、社務所の中から、袴を着た女がでてくる。
男の子の震えが、ますます激しくなった。
「あの。この子が……」
私が男の子を引き渡そうとした時だった。
「あっ……!」
社に小さな悲鳴が上がった。
※
「ひとまず、寝かせておきましょう」
そうして、女は部屋から引き下がる。
社務所の中に、男の子を横にして、布団をかける。
私は気絶した男の子の顔を眺めていた。
あの時、男の子は急に意識を失った。震えていたかと思うと、突然倒れたのだ。
(病気で……?)
社を訪ねてきた少年は、身体も細く色白で、なにか病を患っているようだった。そのときの発作が発症したのだろうか。
だが、今朝に見かけた少年は、それこそ加持祈祷で病にとり憑かれていた邪気が祓われたように、健康そのものだった。
それにあの時の少年の様子は、明らかにおびえていた。
(一体……この子は……)
今朝の少年とは様子の違う今の少年。
社の境内に着いたときから、少年の様子はおかしかった。
入るときから、何かにおびえた様子を見せていて、入ることを躊躇っていたのだ。
さらに。
(今朝の子は、今日に帰っている……)
女が部屋を出る前に聞いたのだが、既に昨日に訪れた親子は帰った後だという。外国製の高級車で。
いないはずの人間が、ここにいることになる。
(この子は、誰?)
と……。
男の子が意識を取り戻し、目を開いた。
呆然と、少年は天井を見つめている。
「…………」
そして、
「ここどこ!?」
慌てて身体を起こす。
元気そうだったので、私は安堵とした。
「社務所。倒れたから寝かせてたの」
「社務所……?」
「あなたが倒れた建物の中」
すると、男の子が身体を震わせた。
「…………?」
「……ここ、嫌い」
「どうして?」
「……分からない。でも嫌い」
少しの間、沈黙が流れる。
「あのね」
「?」
「ボクね。お母さんとずっと一緒に暮してたの」
少年が話し始める。
「でもね。お母さん、昨日にいなくなっちゃったんだ……」
「昨日に?」
しかし、今朝まで少年は母親に連れられていたはずだ。
「ここの神社にいるかも知れない……」
「でもボクと同じように屋敷に行ったかもしれない……」
「もしかしたら家の下とかに隠れてるかもしれない」
(大人がなんでそんなところに隠れるんですか)
心の中でつっこみを入れる。
「お姉ちゃん!」
突然、男の子が声を上げて私に向き直る。
「な、なんです……?」
「ボクと一緒にお母さんを探して! お願い!」
「へ……?」
「お母さんをずっと探してたの。でもいないんだよ……どこにもいないんだよ」
少年が俯く。
「ボク、お母さんに逢いたいよ……」
「…………」
この子からは、迷子になって離れ離れになったのとは違う、まるで母親と生き別れたような悲壮感が漂っていた。
切実な男の子の想いは、その必死に私にすがる小さな手から生々しく伝わってくる。
「お母さんの居る場所とか分からないの?」
考えるよりも、先に聞いていた。
「分からない……」
「そう……。じゃあ電話は?」
「電話……?」
「そう、電話番号。番号が分かれば、電話して来てもらえるかもしれないから」
それからいろいろ聞いたが、電話番号はおろか、住所も、名前さえも知らないという。
「あなた、お名前なんていうの?」
「……知らない」
「名前も知らないの?」
「……うん」
雲行きが怪しくなってきた。
少年は、何も覚えていなかった。記憶がなかったのだ。自分の名前に至る、ありとあらゆる記憶がなかった。
「でも、お姉ちゃんのことは知ってるよ」
「私のことを?」
「だって……」
男の子が私の顔を見つめる。
――その時の男の子の顔を、私は今でも忘れられない。
「ボクのこと、助けてくれたもん」
”笑顔”で、そういった。
※
社務所の女に、少年の身元に関する情報を聞こうとしたときだ。
昨日とまっていたのだから、連絡先くらいは分かるだろうと思って。
「お父さん……」
父がいた。息を切らした様子から、走ってきたのだと分かる。
「昨日の子がここにいるって?」
私はこくりと頷いた。
「どこだ?」
「布団で寝かせてます」
「案内してくれ」
「?」
少し慌しい様子の父を訝しがりつつも、私は部屋に案内する。
部屋の前に来た時だ。
「ここでいい」
「どうして?」
「多分、怖いだろうから」
やはり父は、この少年について、何か知っているのだろうか。
父が襖越しに、少年の顔を覗き込む。
眉間の皺が、さらに深くなった。
「あの子は……人が怖いんだ」
父が呟く。
思い当たる節があった。
「社務所の前で、人を見たときに……確か」
「……そうか」
「でも、私にはそれほど……」
「あの子は何か言ってたか?」
「何も……記憶がないらしいんです」
「まったく……か?」
「いえ……お母さんを探しているとか、私に助けてもらった、とか」
「そう……か」
それで納得したのか、父は瞑目して頷く。
しばし、父は男の子の顔を眺めていた。
――やりきれなさを抱えて。
「美汐」
父が私のほうを向き、真剣な顔をして言った。
「あの子の傍に……居てあげなさい」
そのときの父の顔は、悲壮と、そして罪悪の念を帯びていた。
そうして、私は男の子と一緒に暮すことになった。母親探しをするために。
父はあの子のために部屋を用意し、人が怖いからということで、できるだけ屋敷の者たちと接触させないようにすると言った。
どうしてそんなに配慮するのだろうかと疑問に思ったが、外国車で来る様なお金持ちのお坊ちゃまだから、きっと大切なお客様なのだろうと私は考えた。
それが冬を迎えようとしていた、11月の時だった。
※
もうじき冬休みが始まる。そしてそれが終われば、三年の私には受験が待っている。
父と二人でいるときに、あの子の話をしたことがあった。
「あの子、お母さんを探しているみたい」
「そうか……」
父は重い顔をして頷く。
「お父さん。あの子のこと、何か知ってる?」
「……どうしてだ?」
「だって、家に泊まってた子なんでしょう?」
「……そうだな」
あの子の話題になると、いつも父の言葉の歯切れは悪くなる。
それ以上話しが進まない。
すると決まって父はこう言った。
「あの子の傍に居てあげなさい」
きっと一人で寂しいだろうから、と。
部屋に戻る。
父の表情は、何かを無言で語っていた。
それを考える。
服を脱いで、パジャマに着替える。だらしなく脱いだ上着が床に置かれる。後に畳むのに、床におくのが私の悪い癖だった。
と、私は足元から音がたっていることに気付く。
「みっしー」
くんくんと匂いを嗅いでいる。
「やっぱりみっしーのにおーい」
「……なにやってるんですか」
しかも、毎度のことだがみっしーとはなんだ。
「んー」
足を嗅いでいた少年が、ベットから顔を出す。
鼻を鳴らして、男の子が私の上着の匂いを嗅いでいる。
四つんばいになって、ベットの底からでてくるといい、まるで子犬だ。
最初会った時も……。
「助けてくれたもん……」
とか言って私の足を嗅ぎ始め、
「やっぱり合ってる」
とか言ってのけたのだ。
仮にも年頃の女の子である私の匂いをくんくん嗅ぐとは、破廉恥にもほどがある。
(足の匂いで記憶されてたんですか私は……)
過去に会ったというが、どういう遭遇の仕方をしたのやら。
毎度毎度、足を嗅がれているので、もう慣れっこになってはいた。
(慣れるのもどうかと思いますが……)
お互い、妙な習慣がついたものだった。
「今日はちょっと調子悪いの?」
(匂いで健康チェックされてる……)
男の子が、また鼻を鳴らし、
「だってちょっと臭いし」
踏んだ。
「それより勝手に人の部屋に入って何してるんですっ」
「んー……えっと、探検っ」
男の子が身体を起こして言った。
「私の部屋でしなくてもいいでしょうっ」
「賞味期限切れてるお菓子があったよ?」
「捨てなさい!」
「500円見つけたよ」
「返しなさい!」
身の回りの世話も、一切私が面倒を見ていた。
最初はなんでこんな子の面倒を見ないといけないのかと思っていたが、今は違う。
ただ、そうなるきっかけはあった。
学校に行ってる間、あの子は家にいないそうだ。女中の話しによると、いつもどこかに出かけているらしい。母親を探しているのだろうか。
その頃の私たちは、どこか微妙な距離感があったので、何をするにもガチガチだった。私も、ただ父に言われたので世話を見ているといった感じだった。
そんな時に、あの子がいなくなった。
心配になった私は、周辺を探し回った。だが結局見つからず途方に暮れた。
時間だけが過ぎていく。時計の針の音が、私の焦りを嫌らしく盛り上げ、不安を演出する。
9時を過ぎた頃、私の部屋の戸が開いた。
「お姉ちゃん!」
あの子だった。
「なにやってたんですか!」と言おうとしたら、
「助けて!」
男の子は、最初会った時と同じように私にすがり付いてきた。
この付近は丘陵地帯になっており、すべて我が一族の敷地になっている。
そして屋敷のある山の中腹には、ふもとの街に伝わる昔話の由来となった場所がある。
『ものみの丘』に、私は少年に連れられてやってきた。
ふもとの街が一望できる草原の丘を、私たちは進んでいく。
開けた場所にあるこの丘では、ふもとの街が一望できた。
宝石箱をひっくり返したような煌びやかな夜景とはいかないが、慎ましやかな人の営みと街の優しい明かりが織り成す景色は、それはそれで安らかで綺麗だった。
その下界の光と懐中電灯を頼りに、私たちは暗闇を歩く。
「あそこだよ!」
男の子が暗闇を指差す。それに応じるように、猫の鳴き声が聞こえた。
近づいてライトを照らすと、猫がうずくまっていた。
「なにこれ……」
私は唖然とした。
誰が仕掛けたのか、猫は動物を捕らえるための罠にかかっていた。
怒りが沸いてくる。勝手に人の家の敷地に入り込んで動物を傷つける鋭い歯を持つ罠を仕掛けた人間を。
「外してよ……」
消え入りそうなほど弱弱しい声で、男の子が言った。
数十分立って、なんとか外すことに成功した。
その後。猫を家に持ち帰って二人で手当てをした。
一晩中、私たちは初めて同じ部屋にいた。
翌日。
「さぁ、放してあげなさい」
手当てをした猫を、野に戻すことになった。
「お腹すいてるかもしれないよ?」
「ダメです。餌なんてあげちゃ」
「でも、会うのはいいでしょ?」
「それなら……」
二人で、行ってしまった猫を見送った。
あの子の後に続いて私もお風呂に入り、部屋に上がると、当然のごとくあの子がいた。
前の私なら追い払っていたが、慣れっこになってしまった今ではそんなことはない。
「ねぇみっしー」
「なんです?」
「なにかお話して」
男の子が甘えてくる。まるで母親におねだりするような感じで。
「そうですねぇ……」
私はこの街に伝わる物語を聞かせた。
母親を亡くした娘は、ずっと蘇ることを信じていた。
そして祈りは通じ、母親が娘の前に現れる。
娘は喜んで母親と共に暮らすのだが、一夜立つと消えてしまったという話しだ。
だが。
「その親子はいつまでも、幸せに暮しました……」
私は話を変えた。
「どうでした?」
「お母さんに……逢いたいね」
「大丈夫。きっと会える」
「信じてたら?」
「ええ」
男の子は、私に身体を預けて言った。
「ずっとずっと心から信じてれば、本当にそうなっちゃうんだね」
「そうね」
男の子の瞼が落ち始める。
「信じるって凄いんだね……」
人の想像力って凄いね。と最後に呟いて。
少年が私に抱かれたまま眠ってしまった。
「お母さんね……ボクを助けようとしたの……」
布団を掛けてやった際に、男の子が寝言を漏らし始める。
「捕まってるボクを……」
夢を見ているのだろうか。
「そしたらお母さんも一緒に……」
私は布団をかけてやった。
「お母さんが……ボクを逃がしてくれた……」
完全に寝入ったのか、スースーと寝息を立てる。
いつもは違う部屋で寝ていたが、今日は一緒に寝ようと思った。
――あの子は遠慮もなければ、常識なんてあるわけもなく、私の心にズカズカと入り込み始めていた。
それが心地よいと思うようになったのは、そう時間もかからなかった。
※
色あざやかな秋の風景を、木枯らしが寂しいものに変えていく。冬の足音が北風の冷たく激しい音とともに聞こえてきていた。
二人で街を歩く。母親の足取りを追って。
だが……。
「ここにはいないと思うんだ」
記憶のない男の子は、自分の名前も、住んでいた家も分からない。私のお父さんが探してくれてはいたが、進展はなかった。
男の子に見せる私の父の悲しい表情。優しいお父さんが、目の前のこの子のことで心を痛めているのが分かった。
男の子は母親を探すために、ずっと丘に行っていた。
『昔ね。ここにいたような気がするんだ』
母親の記憶を、少年も必死に辿っていた。
そんな折、嵐が屋敷を襲った。
その日も、あの日と同じように、父は社にいた。
私は、あの子と一緒に猫を探していた。
「どうして猫なんて家に入れるんですか」
以前助けた猫を、少年は家に招きいれていた。
「だって、寒いかなって……」
気まぐれな猫は、目を離した隙に広大な屋敷の中に消えてしまった。
雷が、鳴った。
(今夜は嵐みたい……)
風が、屋敷の戸を揺らす。
屋敷を探しても見つからなかったので、今度は社の方に向かう。
「おーい」
男の子が、嵐の中で猫を呼ぶ。
「あっ!」
小さな鳴き声と共に、猫が社殿に入っていった。
「もう、勝手にあんなところに……!」
私たちは慌てて後を追った。
雷が、落ちた。
激しい炸裂音が、社殿を揺らす。蝋燭の明かりが触れる薄暗い社殿を私たちは進んでいく。
人の声がした。猫が叫んでいる。
(何……?)
一体何が起こっているのか。
「大丈夫?」
「うん……」
男の子の顔から表情が消えていた。先ほどから、まるで死人のように肌が青白かった。
また光った。
屋敷が揺れる。雷と、人の音で。
「追い出せ!」
ただならぬ様相を呈してきていた。
屋敷を進み、一番奥の部屋まで来た。
(この部屋は……?)
今まで来たこともない、ご神体の置かれている本殿にあたる場所に私たちはいるのだ。
男の子が、無言で震えている。それと共に虚ろな瞳が揺れる。
扉が開いていた。
中を覗いた。
瞬間、今までで一番激しい光が私を襲った。
――非日常へといざなう、日常のほころび。私はそのほころびを紐解いてしまった。
部屋には夥しい動物たちがいた。
北斗七星。
髑髏。
串刺しにされた動物たち。
供せられた多数の狐の頭。
社の巫覡たち。
コマ送りで、目の前の映像が流れていた。
「…………」
先ほどから少年は瞬きをせず、真っ黒に瞳が染まっている。圧倒的な絶望で呆然としている。
少年のその目の先には、狐の頭があった。
父の姿が見えた。九字を切って、呪詛を唱えていた。
オン キリキャラ ハラハラ フタラン バソツ ソワカ
違う、これは父に教えられたから私は知っている。これは呪詛返しだ。なにか儀式をしたときに、自分に呪いがかからないようにするための護身の術だ。
なぜそんなことをしているのか。
何から父は身を守ろうとしているのか。
まるでこの世の地獄を再現したようなおぞましい部屋。地獄と天国を隔てる神秘の世界は、確かに宗教において必要ではあるだろう。
だが目の前の”これ”はなんだ。人の倫理と自然界の法則に反するこの生き物はなんだ。
私は見た。
呪詛返しを唱え続ける父の先には。
手と足の生えた”キメラ”がいた。
「――――!」
あろうことか扉に足が触れてしまい、音が立った。
中にいた全員が、私の方を向いた。
一心に呪詛返しを唱えていた父が、顔を上げる。
驚きに顔を歪める父を見た私は。
化け物を見たような叫び声をあげていた。
「美汐!」
光った。
人間(どうぶつ)が喚いている。
部屋中が震撼し、騒然となる。
雷鳴が収まると、円陣の中にいた裸体の少女の姿は消えていた。
そして、私の横を元の姿に戻った狐が走っていった。
「美汐……」
父が、優しかったあの時の顔で私に向かってくる。
「いや……っ」
そうやって人間の柔和な顔の面をかぶって、悪鬼は人に化けていたのだ。
心のアルバムに貼られていた父の姿が、その時にどんな怪物よりも醜くなった。
「こないで……!」
そして私は金切り声を上げて走った。社を抜け、私は走れなくなるまで走り続けた。
※
御伽噺の真実は残酷なものだ。なぜなら、残酷だからこそ御伽噺にするのだ
真実は常に戦場のごとく荒れ果て、血なまぐさく残酷であるため――人は空想の一輪の可憐な花を追い求めるのだろう。だからこそ、人は文化の眼鏡をかけて世界を視る。
「オン、キリキャラ……」
たしか街の一般見解となっている街の伝承では、『ものみの丘には妖狐がすんでいて、その魑魅魍魎どもは妖の術を用いて人に化け、ことごとく街の人々に惨禍をもたらす』といったものだ。
「ハラハラ……フタワン、ソワカ……」
真実を知った時、私は自らの手が滴り落ちて街を赤い海に染めてしまうほど夥しい血で濡れ滾っていることを同時に知る。
「バソツ……ソワカ……オン……」
あらゆる災いと呪詛と憎悪を一身に纏うべき存在であることを知る。
「キリ……」
丘の狐たちを叱り飛ばしたい気分だった。世間一般では動物を喰い物にしたら末代まで祟られるという。
人を呪い、人形を献上し、血肉を供す。後で知ることになるが、妖狐の血肉は邪気を祓うという。
そして多くの人々の心と身体を救ってきた私たち一族。娘や息子を失った孤独な者を癒してきた私たち。それによって栄華を誇った私たち。
ならば、なぜ狐たちは自分たち一族を祟り、家を絶やさせないのか。なぜ私たち一族は栄光を享受できているのか。
オン キリキャラ ハラハラ フタラン バソツ ソワカ
私たちは、いつもこれを唱えていなければならない。ずっと、ずっと耳に響く呪詛返しという名の呪詛の言葉。
生涯降り注ぐだろう血の呪いを、こうやって払いのけなければ私たち一族は生きていけない。呪詛を払いのける呪詛の経文が、身体の隅まで刻み込まれているのだ。邪気を祓う一族の末裔として。
「キャラ……ハラ……」
壊れたレコードのように、私は何度も呪詛返しの言葉を、あの時の父と同じように唱え続ける。
耳にこびりついて離れない。どうやら、耳に呪詛返しは聞かないらしい。
「ハ……ラ……」
言葉が止まった。
「やっと見つけた……」
私は顔を上げた。雷は収まり、いつの間にか今年で始めての雪が降っていた。
「探したんだよ……」
あの子の姿が、儚げに揺れていた。蛍のようにほのかな光を纏って、大きな牡丹雪が舞い降りる。
雪の降る中を探していたのか、少年の頭は真っ白になっていた。
(やめて……)
こないで。私はあなたに合わせる顔がない。
「私はあなたに……」
あなたに酷いことをしてしまった。
「みっしーはボクを助けてくれたもん……」
あの日家から出してやった子狐。
「助けてなんて……いません……っ」
いつまで経っても見つからない母親。
あそこにあった夥しい狐たちの頭。
あの日の翌日、別人のように元気になった、姿が同じのもう一人の少年。
この子に見せる父の後ろめたい姿。
あの時見た、父の姿。
両手で拭っても、とめどなく溢れる涙が、男の子の姿をおぼろげにする。
と……。
「な、なにするんですかぁ……っ」
あろうことか、彼は舌で私の涙を掬い取った。相変わらずの行動だった。
「みっしー……」
「な、なんです……?」
ちょん、と口の先が羽のように軽く触れた。そして温かな弾力。
戸惑う私に、男の子は囁く。
「ずっと一緒にいてもいい……?」
木の陰に寄り添う私の傍に、男の子が座る。
そして。
「あっ……」
男の子が、倒れ掛かるように私に身体を預けてくる。
「ずっと……一緒……」
そのまま眠ってしまった。
「…………」
唇を指でなぞって、触れ合ったときの温もりをもう一度確かめた。指先で消え行く彼の感触と熱を追っていくと、唇の潤いを感じた。
と、私は男の子の異変に気付いた。
その身体は熱を帯びていて、白い肌が火鉢の炭のように赤くなっていた。
吐く息も小刻みに荒く、苦しそうに目を瞑っている。
「だ、大丈夫!?」
私は彼の体を懸命に揺すった。
12月の初め、雪が降るとき必ず雷が鳴る。厳しい冬の季節の到来を、雪は告げていた。
※
罠にかかった子供を助けようとした母親。
あの場所から我が子を逃がした母親。
その子を屋敷から逃がした私。
そして、あの時の子は私に逢いに来た。
森の中で意識を失ったあの子をベットに寝かせ、私は看病した。
「お母さんが……逃がしてくれた……」
何度も同じ事を繰り返し呟く。
「あ……」
やっと、男の子が意識を取り戻す。
「大丈夫?」
「うん……」
男の子のおでこに手を上げる。熱は引いていない。
「みっしーにね」
「うん?」
「もう一度会いたかったの……」
心が痛んだ。
「みっし……?」
「ごめんなさい……っ」
「どうして謝るの……?」
きょとんとした表情で私の顔を彼が覗き込んでくる。
「私は……あなたに酷いことをしてしまった……」
「違うよ。みっしーはボクを助けてくれたもん……」
あの時も、笑顔でそういった。
違う、本当は違う。本当は――
「どうしたの……?」
母親を探していた少年。
だけど母親は。
「ごめん……なさ……い……」
もう既にこの世にいないのだ。
私たちが、殺したのだ。
「ねぇ」
少年が、私の袖を引っ張る。
「一緒に寝ようよみっしー」
「だめ……っ」
男の子の手を拒む。この子の全てを弄び奪っておいて、どうして触れ合うことができるか。
「やだぁ。一緒じゃなきゃ」
「…………」
私は名前を呼んだ。
「一人じゃやだ、もう寂しいのはやだぁ……」
甘えたな声で抱きついてくる。
私は振りほどくことができない。振りほどくことも拒絶することも、今の私には何もできない。
「私で……私でいいの?」
私は躊躇いつつも、抱きとめた。
「うん、だってボク、みっしーのこと大好きだもん……」
「…………っ!」
感極まって、私は彼を抱いて泣いた。
それから。
「学校は……?」
「ううん……今日はずっと一緒」
「本当に?」
「ええ……もう、どこにも行かない。ずっと……ずっと一緒」
何をするにも一緒だった。寝るときもベットで一緒に時を過ごした。
彼が苦しみだしたときは、すぐに抱きしめてあげた。
悪寒を訴えた時は、人肌で身体を温めた。
「うく……はぁ……っ」
病気で苦しんでいる彼に、口移しで食べ物や薬を与えた。
私は思った。この苦しみも共有できたらいいのに、と。
愛し合っているから、自分だけ苦しんでいないのが許せない。
「みっしー……っ」
えずく彼の背中をさする。
「大好き……」
「私も……」
私たちは抱き合った。少しでも苦しみが楽になるなら……。
少しでも、少しでも深く繋がりあいたかった。
鼻先を付け合って、お互いの匂いを確認しあう。そして服に手をかけた。
じゃれあう様な子供の愛し合い方だった。
それでも私たちの愛は、火のごとく激しく燃えた。
私の胸元で彼が眠っていた。
手は繋いだまま。身体を絡ませあったまま。全身で彼を感じる。
一体になれているという真実の愛を実感する。私は嬉しかった。
「ずっと……一緒」
耳元で囁く。
そうして、いつしか私も彼に満たされたまま眠りにおちていった。
――元気になったら、また一緒に遊びましょう。
――二人でいろんなところに行きましょう。
――ずっと二人でいましょう。
夢をみていた。
「……どうして」
目が覚めた。
温もりは消えていた。
匂いもなかった。
指でなぞっても、彼の感触を追う事はできなかった。
――夢は終わった。だが、奈落へ突き落とす悪夢が、このときから私の中で蠢き始めていた。時限爆弾の針が、夢の覚める12時を差すその時まで。
※
しばらく、私の心は無の空を彷徨っていた。でも心のどこかでこう思っていた。
――私たちは愛し合っていた。私たちの愛は、真実だった。
だから、嬉しかった。
彼が消えた日から一ヶ月が経ったときのことだ。悲しみにくれていた私に福音が届いたのは。
その日、私は熱を出してえづいた。思い当たることは一つ。
身体を襲う微熱や喉の渇きは、とたんに沸き起る興奮に変わり、嗚咽の苦しみは創造に伴う喜びに変わる。
――私は、妊娠していたのだ。
彼の胎動音が、私の中で聞こえた。その音は、私に生きる希望と勇気を与えてくれた。
新しい生命の誕生の鼓動に、死に絶えた私もまた蘇ったのだ。
そしてそれは、彼との日々が夢でなかったことを確信させるもの。幻でなく現実だったこと、私たちの愛が真実だったことのなによりの証。
私は決意した。彼の残した子種が春に芽吹いて、夏が過ぎて、実りの秋が来るまで育もうと。
日に日に、お腹が膨れていく。蕾のような胸が豊かさを得ていく。私の喜びも、希望も、膨らんでいった。
そうして試練の冬を乗り越え、進学し、春を迎えた。
雪が溶け、桜が咲いて、街は鮮やかに衣替えした。通学路をすれ違う人々は表情も弾んで活気があって、冬の解放感に満ちていた。
私とあの子は冬を乗り越えられなかったけれど、私の中のあの子は、この冬を乗り越えた。
命が芽吹く春の季節。私もその息吹を身体で実感する。
病院に行くときに、私は覚悟を決めた。
たとえ、どんなことになっても、誰が反対しようが何が起ころうが、どうなろうが絶対にこの子を産んでみせる、と。そのためなら私は、学校を辞めて家を出るつもりですらあった。
それだけ私のこの子への想いは切実だった。
――あの子の命を宿している。それだけで私は幸せだった。
そしてこれから私は、さらに幸せになれるのだ。あの日二人でいろんなところに行くという約束を、これからたくさんの時間をかけて果たすのだ。
その時の私は、幸福で満たされていた。
待合室は、当たり前だがみんな私より年上だった。まだ少女の私に奇異と非難の混じった目を向ける者もいた。
検査の結果が出て、私は診察室に呼ばれる。
『おめでとうございます』
こう言うものだと思っていた。祝福してくれると思っていた。まだ若い私が産むのはよしなさいとか考え直しなさいとか言うものと思っていた。
「え?」
だが、医師が発した言葉は一言だけだった。
「想像妊娠です。1,2週間ほどで生理がくるはずです」
その瞬間、あの子の鼓動は途絶えた。
すぐに、お腹の膨らみも胸の張りも元に戻っていった。
私の中で生き長らえていたあの子は、あまりにもあっけなく、跡形もなく死に絶えて消えた。
私に残されたものは何もなかった。想像で満たされたお腹と同じ――空っぽだった。
――どうして。
報い。一族の呪い。神の下した天罰。こうなる理由は挙げればきりがない。
――嘘だ。
さらに調べた。
私は、純潔だった。
そうだ、できるわけがない。初心とは言え、わずかながらの知識で考えてもありえないと分かるはずだ。ちょっと考えれば分かることではないか。それなのに私は勝手に妊娠していると思い込んでしまった。
おめでとう、私はまだ青春の傷のない汚れなき無垢なる乙女でした。
だが納得ができない。
部屋の鏡に、自分の裸を映す。穢れのないという私の体。その私に問いかける。純潔な乙女のあなたと語りかける。
では問おう。愛し合うと穢れるのですか?
私たちの愛は、真実ではなかったと言うのですか? 私たちは愛し合ってなかったと言うのですか?
あの子と過ごした日々も、あの子と愛し合った日々も、あの子との思い出も、いえ、あの子そのものが全部が、私の妄想だったというのですか?
昔話を聞かせてあげた時の、あの子の言葉がよぎる。
『ずっとずっと心から信じてれば、本当にそうなっちゃうんだね』
『信じるって凄いんだね……』
過去が、思い出が私を苦しめ傷つける。
――ああ、神様。
私は神に問う。
自分の快楽と満足のためだけに、私は身体を重ね合わせただけだったのですか? 私はあの子をまた弄んでしまっただけなのですか?
なんという業の深い一族なのだろう。なんという人間のエゴだろう。
私もまた、一族と同じように、自分を慰めるためにあの子を弄んだのですか?
一族の末裔である私が裁かれるのは当然だろう。でなければ不公平だ。
私たちは、それほどの罪をなしたのだ。それ相応の罰を受けなければ、天秤は釣り合わない。
――見ていますか神様。あなたの溜飲を下げるために、面白おかしく劇の中で処刑されるピエロの私を。
私は運命の糸(赤い?)に吊るされた道化だ。天から吊るされた運命の糸によって動く人形だ。
蜘蛛の糸のように、私は運命にがんじがらめにされ、神の気のままにシナリオを演じさせられる。全能たる神の指先一つで、私の運命は決まる。
その遊ぶ神は、玩具である私を投げ捨てて、思いも寄らぬ愉快な形になったのを見て笑い転げているのだ。
――神様、あなたが私に用意した運命(シナリオ)は。
私は、机の椅子を持ち上げた。
――最低です。
「あぁあぁぁあぁああぁーーーーー!」
この神様のシナリオにも記述するのを躊躇うような、安っぽい叫び声をあげた。
椅子を投げつけ、裸の私を映した硝子が飛び散る。部屋中のものが破壊されていく。
血だらけの私が、硝子の破片から見えた。
椅子を振り回したり叩きつけたりしながら、わけもわからぬ言葉を喚き散らす。
――これを作った神様を呪ってやりたい。私を嬲るためだけにこんな酷いストーリーをあれこれ練った者を思う存分罵倒してやりたい。なんて安易で、幼稚で、陳腐で、低俗で、俗悪で、胸糞が悪くなる三文芝居以下の展開だろう。
こんな風に私を徹底的に痛めつけて、何が楽しいというのか。
この話しに負けず劣らぬほどの三流の口汚い言葉で、私は神様に罵りの言葉を吐き続けた。
※
それから私は、しばらく入院した。
月日の経つのはあっという間だった。すぐに退院した。それは私の感覚での話しだが。
そして周りから勧められて、私は学校に通うことになった。ちなみにその学校は、家から遠いところにある。
どうでもよかった。
心に残る出来事も何もない。残るはずもない。私は空っぽだったから。魂すら残っていなかったかもしれない。
何があっても、私の心はいつも殺風景な日常だ。
学校に通うことになっても、何も変化はなかった。ある意味で私は満たされていた。空虚で。
死んだ子の齢を数える。もはや私の人生は、ただ死ぬまでの残された余生でしかなかった。
もう何があっても楽しいと感じない。喜びを感じる臓器が、一つ私の体からなくなったのだから。
どんな幸福があっても、私は幸せと感じることはない。どんな素敵な出会いがあっても、どんなに胸躍るドラマがあっても。
私は空っぽだった。悲しみも、憎しみも、怒りも憤りすらもなかった。
既に、神様の劇場のフィギィアを御役御免になったわたしは、終わった存在だった。
カレンダーをめくらなり、今がいつなのかもどうでもよくなっていた頃。
足が止まった。
どんな光景があっても心に響かない、ふわふわと現世を漂う幽霊の私が、肉体を認識する。やはり人の魂は、縛り付ける血と肉の牢獄から逃れられないのだった。
窓の外の、一人の少女に私の目は釘付けになる。
あの時の”キメラ”がそこにいた。
「…………っ」
あのシーンを思い起こし、私は恐怖でうずくまりたくなる。
けれど、あの”キメラ”は”キメラ”ではなく、可愛らしい少女の姿をしていた。
人になる際に、同じ娘の姿を思い描いたのか。ただ髑髏を使わぬ人化の術だからか、前より顔が幼く見えた。
そしてやはり同じ存在同士、共通点があるのか、どこか面影があの子と似ていた。
頭に私を糾弾する非難の声が上がる。
――あの子を化け物扱いするの? 本当に鬼畜で邪悪で狂気を孕んだ人間は、誰?
私の瞳は、複雑に揺れた。
と……。
「ったく、寒いだろうに……」
男の人の呟く声が、耳に届いた。
私は振りかえる。
知り合いなのか、少女の様子を見て、男はじれったそうにしている。
先ほどの声の調子は、見知らぬ少女を哀れむ通行人というより、知り合い……もしくは妹か何かであることを前提にしている感じだった。
(あの子の知り合い……)
気がつけば私は、
「あなたの……お知り合い……でしょうか」
声をかけていた。
久しぶりに使った声帯から発せられる声音は、くぐもって老婆のように掠れたものだった。
「誰が?」
うって変わって、歳相応の若者らしい軽い感じの返事が返ってくる。私は少し苦手意識を持った。
「ああ、そうだよ。知り合いだ」
「………あれは、あなたを待っているのでしょうか」
「だろうね。他にこの学校に知り合いはいないはずだし」
「そう……」
校門で佇む少女を見た。あの時の子は、誰よりも少女らしかった。
「……いい子そうですね」
久しぶりに、何年ぶりかもしれない自然な笑顔がでた。
「ああ。いい子だよ。不器用だけどな」
そうして、男も笑った。
それが相沢祐一との最初の出会いだった。
――非日常へといざなう日常のほころび。それが隙間を開けて私の目の前にあった。
※
翌日も彼と会った。
この学校で人に声をかけられるのに慣れていない私は、最初戸惑ったが。
そして、私たちは話をすることになった。
全てを知っている人間と知らない人間との温度差が、少しもどかしい。それは私たちを隔てる敷居だった。
向こうからすれば、変な女が変なことを言っている風にしか聞こえていないだろう。やはり私は既に対岸の人間だったと認識する。
お互いに名前を名乗りあう。相沢さんは最近こちらに転校してきたそうだ。
あの少女の名前は、真琴と呼ぶらしい。
「それで、話は真琴……その女の子のことなんだけど」
相沢さんが身体を少し乗り出してくる。どうやら本題はそれらしい。
「あいつ、人見知りが激しいというか、他人に対して心を開かないんだよな」
彼が何を言いたいのか、よく分かった。
「特に、ああいう年頃の女の子は友達って大切だと思うんだよ。悩み事とか、話し合えるような。ひとりでため込んでいたら、大変だろうからな。そこで――」
その言葉を遮り、私は言った。
「私にあの子の友達になれと言うのですか」
空気が凍った。男は呆気にとられた顔をしている。
「……そんな酷なことはないでしょう」
あの少女の姿が、”キメラ”にまた戻った。
あれを産み出したのは誰だ? 人であるあの少女を、こんな風に化け物と蔑む私たちではないか。あの子の命を弄んだ一族の末裔である私が、友達になれと言うのか。
「私はあの子とは友達になりません」
はっきりと言い切った。
「やっぱりあいつのことを知ってるんじゃないのか」
「知りません。それは嘘ではないです」
「じゃあ、どうしてそんなものの言い方をするんだよ。さっきから、まるで何かを確信しているみたいに…」
「はい。確信しています」
「なにを」
「出会っているはずです。相沢さんとあの子は」
「いつ」
「ずっと昔に」
「でも、相沢さんの記憶にはない。そうですね?」
雪崩を打って進んでいた話が、核心に至り始める。
「ああ…」
「当然です。だってそのときのあの子は」
「待てっ」
男は腕を伸ばし、私の顔の先に手のひらを突きつけた。
「はい」
私は言われた通り、そこで言葉を止めた。
「それ以上は言わないでくれ…」
「わかりました」
そこで、チャイムの音が鳴り響いた。
次の日も話をした。
だが最後に、私はこう言った。
「これ以上、私を巻き込まないで下さい」
――もうこれ以上、苦しい世界もお話も視たくなかった。
世界のあちこちにほころびがある。現実とドラマとのほころびが、そこから紡ぎ出される非日常の世界が、あちこちで漏れている。
人と出会うことでドラマは始まってしまうかもしれない。だけど私はもう傷つきたくなかった。
――私の人生というストーリーの、これから先のドラマへの綻び(ページ)を開きたくない。
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