これから先、本当の気持ちで涙を流すようなことがあるのだろうか。都合の悪い景色は消え、果てしなく広がる海。波の音はいつも自分の想像より大きく、それに気づく度に忘れていたことを思い出す。誰も彼も曖昧な暗喩を嫌い、他人は他人を理解しないと砂に描いた。潮の香りがしている。波が文字を攫う。柔らかい地面を踏みつけ、俺はひたすらに砂漠と砂浜の境目を探している。言葉の力は、いまだに信じられないままでいる。
 遠恋だからなんて理由で、気安く別れた彼女がくれた最後の手紙を、まだ開封していないことに気づいたのは、引っ越しの荷物を纏めている最中のことで、読むのも今更だし、捨てるのもどうかと思うし、ましてや紙飛行機にして飛ばすほどの感傷もないので、仕方なく机の引き出しへ戻して再びの忘却を待つことにした。いつかそのことすら忘れてしまうだろう。俺の短い人生なんてそんなことの繰り返しだったような気がする。だから、この部屋から見ている夜空もすぐ忘れてしまうに違いない。今もこの空の下で繰り返されているであろういくつかの別れ。開けた窓から入り込んだ冷たい空気。人類は日々降り積もる埃と戦い、俺は幾人かの同級生達と足並みを揃えるかのよう、この街を出ていく。
 第一志望の大学に合格することを成功と位置づけるなら、大学受験は上手くいったのだと思う。全国模試の結果なんて待たなくても、自らの身の丈を俯瞰して見られるくらいにはなれていた。もっとも言葉ほど冷めている訳でもない。得られた結果には満足している。分かっていたことではあったが、ただ一から百までのことをこなすという単純なことが俺には困難のようだ。それは、みんな同じなのかもしれないけれど。
 特に一人暮らしを望んでもいなかった。とはいえ自分に出来ることと出来ないこと、それと釣り合う程度は内包している自尊心の昇華、加えて実際に起こりうる現実問題(金だ金だよこの世は金だ)、それらの均衡をより均一に保ってくれるところはさほど多くない。俺の目に映る現実は、平穏であるが故の希薄を伴っていたけれど、冷静な判断を下していく自分もまた同時に存在していた。だから、自分が幸福になるのはほんの少し難しいだろうなと思う。幸福は主観に因るところが大きいらしい。けれど本当のところはまだよく分からない。それだって他人の言葉の範疇を越えられないからだ。
 俺は高校三年間の生活を同じ街で過ごした。中学までのことを思うと、親の仕事の所為でいつか親戚の所をたらい回しにされるんじゃないかという危惧もあったが、どうにか一度の転校も経験せず卒業を迎えられた。それに関しては、きっと運がよかった。引っ越しの荷造りは上手くなったものの、何度経験しようが転校には慣れなかったし、親戚とは言え、さほど交流もない人達の元へ居候など、出来れば誰だって御免被りたいだろう。気が削がれもする。そういう意味では、俺は恵まれた高校生活を歩んでこられたんじゃないかと思う。
 新しい住処は大学から二駅のところにあった。まだ築一年の綺麗な建物。三階の角部屋で、窓からは中学校が見える。地元よりも少し都会。最寄り駅近くにシネコン建設中。時折、黒い雨が降る。
 まあ、なんとかやっていけるだろう。そう思った。

 最初に彼女を見たのは、友人の付き合いで写真サークルの見学に行った時のことだ。ファイリングされていた多くの写真に紛れていた一枚。その隅に彼女は写っていた。毎年、少しずつ変わっていく大学の風景を撮影するという名目で、見目麗しい新入生の女子を片っ端から撮っていくのだそうだ。名前も知らない先輩が、とても大事な秘密を話すようにこっそり教えてくれた。そんな話が上の空になるくらい、俺はどうしてか彼女の姿に惹かれていたが、その時はそれほど気に留めていた訳じゃなかった。そのまま忘れてしまってもいい出来事ではあったし、勿論、彼女の名前だって知らなかった。
 再び彼女のことを見たのは、全学部生向けの連絡掲示板の前だった。彼女は数人の学生に混ざって、熱心に掲示物を見つめていた。隣にいる友人らしき女子と何事か言葉を交わしている。俺は写真サークルの部室で見た写真と彼女を関連づけて思い出していた。そういえば実際にこの目で彼女を見たのは初めてだと、当たり前のことを思った。
 三度目は図書館に併設されているコンピュータルーム。どうやら何かを印刷しようとしてプリンタの紙を詰まらせてしまったらしく、びりびりと音を立て紙を引っ張る男子の方へ頻りに頭を下げていた。意外とおっちょこちょいなんだなあと思った。何が意外なのかは、特に考えなかった。
 その次は、ある程度名の知れた居酒屋の座敷だった。規模が大きいだけの、実体のよく分からないサークルが主催する新歓コンパ。少し離れた場所に彼女は座っており、周囲の喧騒に掻き消されそうな声で自己紹介をしていた。倉田佐祐理。俺はこの時、初めて彼女の名前を知った。
 この国がどのくらいの面積だろうが、大学の敷地が東京ドーム何個分だろうが、出会ってしまう時は出会ってしまうのだし、何しろこの広い世間が狭いなんて言われてしまうのだから、彼女といつどこで何度遭遇しようが特に変わった出来事ではないのだろう。それでも二次会で行ったカラオケボックスのトイレから出て、角を折れた所に彼女とぶつかりそうになったのは驚いた。それが特定の誰かではなくても、何かとぶつかりそうになったという事実だけで俺は驚くことが出来る。ごめんなさいと大げさに謝る彼女を見ながら、昔の映画や漫画なんかでありそうだなあ、なんて的外れなことを遠くで思っていた。
「あの」
「はい?」
「一次会にいらした方ですよね」
「ああ、うん。そうです。はい」
「実は、あの……」
 彼女は何やら恥ずかしそうに、胸の前で指を絡めている。
「はあ」
「その、部屋がどこだか分からなくなってしまって……」
 コンピュータルームでの彼女の表情がそれと重なって見える。実際、幾重にも。何だか可笑しくなっていた。頭もおかしくなっていた。
「倉田佐祐理」
 どこかでは失礼だと分かりつつも止めることが出来ない。俺は彼女を指差す。
「はい?」
「倉田佐祐理さん」
「そう、です、けど」
 酔っていた。少なくとも、俺は。
「わははは! 倉田さん! 倉田さんはドジっこだなあ!」
「え、っと……あの、あは、あはははは……」
「一緒にいく?」
「あ、はい、出来れば……」
 正直、俺も部屋番号なんて覚えていなかったのだが、なけなしの帰巣本能に全てを任せることにした。アルコオルは俺を無敵にしてくれる。副作用はきっと、それなりにある。
 二度ほど部屋を間違え、俺達はようやく自分の部屋に帰り着いた。今度は合ってた、と悪びれもなく言ったのだが、彼女は何事もなかったかのように笑っていた。部屋ではサークルの代表が、何故かオリコン十位にランクインしたことで一躍有名になったアニメソングを歌っていた。
 まっ、まっ、まじかる、さっゆりんりん!
 俺は、思わず俺の背後から部屋に入ってくる彼女の顔を見た。他の奴も何人か彼女の方を見た。
「さゆりん!」
 代表が彼女に向かって手を振り、マイクを通して叫ぶ。
 一斉に笑い声が起きていた。と、思う。確か、そうだったと思う。
 俺に残された記憶は、これが最後だった。

 目が醒めるとベッドの上だった。辺りを見渡し、自分の部屋であることを確認してしまう有様。どうやって帰り着いたのか、全く覚えていない。記憶が飛び飛びになっている。頭が痛い。気持ちが悪い。これが無敵になった後の副作用なのか。頭の中で、まじかる☆さゆりんの曲が鳴り響いている。何かの呪いか。
 しかし、ここでのんびり昨日のことを振り返っている暇はない。今日も受けなければならない講義がある。俺は準備もそこそこに部屋を飛び出した。朝日が眩しい。コンビニで朝飯が買える時間があればいいのだが。
 駅まで軽く走った。五分はかからなかっただろう。ホームで電車を待つ人達の列に並ぶ。ほどなくして電車が入ってくる。俺は人の流れに揉まれながら、辛くもそれに乗り込んだ。そのまま反対側の扉に押しつけられる。果たして満員電車に慣れる日などくるのだろうか。くぐもったアナウンス。駆け込み乗車はお止め下さい。扉が閉まると同時に、胸の辺りで、あ、という声が聞こえた。俺は中吊り広告から視線を下げ、座席脇の手すりにしがみついている隣の人の方を見た。俺も思わず声をあげる。
「さゆりん」
 その声が静かな車内に響く。周囲からの視線を感じる。それが何故か痛い。倉田さんは、電車が目的の駅に着くまで恥ずかしそうに俯いていた。俺はだらしなく笑っているしかない。こら、まじかるじゃないぞ。こっち見んな。
 改札を出て、大学へ向かうバスに乗った。つり革を掴み、呼吸を整える。そこで俺はようやく倉田さんに話しかけた。
「ごめんなさい」
 第一声が謝罪の言葉というのもひたすら情けない。
「ひょっとして、まだ酔っているのかと思っちゃいました」
 彼女はあはは、と笑っている。
「まだ、って……」
「昨日はずいぶん酔っていたみたいだったので。ちゃんと帰れましたか?」
「帰るには帰れたんだけど……」
 彼女は不思議そうな顔をして、次の言葉を待っている。
「実は、あんまり記憶がなくて」
「え」
「あの、俺、あの後どうなってた? 何か変なこととかしてなかった?」
 彼女は少し考える仕草をしてみせる。
「大丈夫、だと思います。先輩に服を脱がされていましたけど」
「ダメじゃん」
「それで無駄無駄無駄無駄って言いながら誰もいないところを殴ってました」
 やったんか! ジョジョやったんか!
 俺はこの世の終わりが来るが如く頭を抱え込む。
「あ、でも皆さん凄く笑ってましたよ」
「それ、もうフォローじゃないか……」
 俺達は大学に着くまで、暫しお互いの話をした。倉田さんも昨日の新歓は友達に付き合ってのことだったらしい。自分の意志で来たにしては、彼女はどことなくあの場にそぐわないような気がしていたのだけれど、それは恐らくそういうことなのだろう。二人とも一人暮らしという共通点があった。水が美味しくないよねと言ったら、深々と同意してくれた。
 大学の構内に入ったところで、どちらからともなく別れることにした。手を振った後、ふと思い直して呼び止める。
「倉田さん」
「はい?」
「俺、相沢」
「知ってます。相沢祐一さん」
 そっか。そういや俺も彼女と同じく自己紹介したっけ。倉田さんは軽く会釈して、俺とは違う方向へ歩いていった。
 それにしても、覚えていたとは。あの場にいた人達の名前を、みんなどのくらい覚えているものなんだろう。少し考えを巡らせた後、頭を掻いた。これだから男は馬鹿だなんて言われるんだよなあ。朝食を調達することなんて、すっかり消え去っていた。


 それから、倉田さんとは構内で会えば話をするくらいの仲になった。階段の踊り場でばったり会うこともあったし、学食の券売機があるところで偶然前に並んでいたこともある。同じ講義を取っていることもあったが、彼女は大体あまり見目麗しくない友人達に囲まれていた。その、『本人がいない時に影で悪口を言われていそうな関係』を見ると、俺は思わず苦笑してしまう。分かりやすすぎるだろ。それでも彼女の笑顔は崩れない。だから、俺は遠くからその光景を見るのが最近のお気に入りだ。そこにいるのに、どこにもいない、完璧な彼女の笑顔。最初、写真で見た彼女に惹かれたのは、もしかしたらその所為なのかもしれないと今になって思う。
 ある時、二限の講義で隣に座った顔見知りが俺に聞いた。
「なあ、相沢って倉田さんと仲良いわけ?」
 どうやら構内で俺が彼女と話をしているところを目撃したらしい。
「別に仲良くはないって。会ったら挨拶する程度だ」
「紹介してくれない?」
「ばぁか。ケー番もメアドも知らない仲だよ」
「ちっ。それにしても凄いよなあ。才色兼備って、ああいう子のことをいうのかもな」
「才色兼備ねぇ……」
「だって、倉田さんって主席で入学したんだろ」
「はい?」
「なんだよ、知らなかったのか? 入学式の時、学生代表で挨拶したじゃん」
 まったく知らなかった。よくよく考えたら、俺は入学式の日、思いきり遅刻して会場に入れてもらえなかったのだ。もう定員一杯だからとか言われて保護者席に通された時は、随分無茶苦茶な話だと思ったが……入学式に遅刻してくる時点で俺も充分無茶苦茶か。
「あんな子が彼女になってくれないもんかなあ……」
 俺は思いきり吹いた。そいつには怪訝そうな顔で見られたが、俺は目を合わせないように努めた。忠告しておこうかなんて少し迷ったけれど、止めておこう。俺は心の中だけで呟く。
 倉田さんは、あれ相当厄介だと思う。多分。

 曇り空で太陽が遮られた金曜日。昼食を終え、掲示板を見ると、三限が休講になっていた。だが、今日は四限まで講義がある。どこかで時間を潰さなくてはならなかった。俺は仕方なく図書館へと向かう。来週提出のレポートもあるし、いい機会だと思って、資料でも集めておくかと思った。エレベーターで五階まで上がる。建物自体は六階まであるらしいが、学生が入れるのは五階までだ。そこから上は恐らく倉庫にでもなっているのだろう。もっと言えば、一、二階には図書は置いておらず、コンピュータルームや、AVルームなんかがある。どうして五階まで上がるのかと問われれば、一番空いているからと答え、どうして一番空いているのかと聞かれれば、置いてある資料の問題とか、単純に上まで行くのが面倒だとか、唯一、LANのモジュラージャックが備えられていないとか、まあ、理由は人によって様々だ。
 とりあえず席を確保しなければ。そう思いながら辺りを伺うと、見知った後ろ姿が目に入って来た。近づいて小さく声を掛ける。
「倉田さん」
 彼女が俺の方を向く。
「相沢さん」
 俺はそのまま彼女の隣の椅子に座る。
「もしかして」
「はい、三限が休講になってました」
「ああ、やっぱり」
 そのまま「何の本、読んでるの?」なんて二言、三言交わしていると、近くの席から咳払いが聞こえた。もしかしなくても、迷惑なのかもしれない。
「……休憩所、行く?」
 倉田さんにそう提案してみる。別に断られても構わないくらいの軽いものだ。彼女は少し思案していたが、なんとなくこの場の空気を察知したのか、曖昧に笑いながら頷いた。
 休憩所はエレベーターの側にある。喫煙所はまた別の場所にあり、ここには誰もいなかった。窓から大学の敷地が見える。普通に考えたら、この時間帯は講義があるので、庭に出ている学生は少ないように思えるが、実際は暇を持てあました何人かの学生がサッカーやキャッチボールをしている。
「悪い、何か邪魔しちゃったみたいで」
 俺は顔の前で手を合わせ、大げさな仕草で謝る。
 倉田さんはふるふると首を振る。
「佐祐理も特にやることがありませんでしたから」
 俺はその時、初めて倉田さんが自分のことを佐祐理と呼ぶことを知った。
「佐祐理」
 俺は彼女の名前を繰り返す。彼女はそれだけで俺の意図に気づいた様子だった。
「あはは。これ、癖なんです。直さなくっちゃって、いつも思うんですけど」
「別にいいんじゃないか。似合ってるっていうと変だけど、なんか可愛いし」
 彼女は何も言わず、また困ったような微笑みを浮かべている。
「そういや、倉田さん、入学式の時、学生代表で挨拶したんだって」
「あ、はい。気づいてましたか?」
「や、俺は人づてに聞いただけなんだけど。なんか勿体ないなあ。そんなに頭いいんなら、ここよりもっといい大学行けただろうに」
「あはは、そんな大したものじゃないんです。でも、それにはちょっと理由がありまして」
「理由?」
「はい。奨学金が出るので」
 ああ、と俺は思わず声を漏らした。
「なるほど。そういうやり方もあるよな」
 彼女は不思議そうな顔をして、俺を見た。
「その手の問題を解消する方法。俺はバイトを掛け持ちする方が性に合ってる」
 倉田さんはその言葉にようやく納得した様子で、両手を合わせる仕草をする。俺もそれを見て笑う。何となく通じるものがあった。
「そういえば、倉田さんって一人暮らしだったよね。元々どこの人?」
 それを受けて零れた彼女の言葉に俺は驚いた。もしかすると顔が引き攣っていたかもしれない。それは聞いたことがあるというだけじゃなく、ある意味、縁のある街の名前だった。
「うっそマジで。俺、子供の頃、良くその街に行ってたことがある」
「本当ですか?」
「ホントホント。あの凄く雪が降る街。親戚がそこに住んでてさあ、高校の頃、親の仕事の都合でその家に居候するかもしれないなんて話が出たこともあったんだ」
「ふぇ〜、それはびっくりです」
「じゃあ、もしかしたら俺の従姉妹とクラスメイトなんてこともあるんじゃないか? 水瀬……そう、水瀬名雪っていうんだけど。俺達と同い年」
 倉田さんは何かに気づいたようで、あ、と小さく声をあげた。
「もしかしたら、聞いたことがあるかもしれません」
「本当に?」
「はい。でも、直接の知り合いではないです。クラスメイトでもありません。多分ですけど、佐祐理は相沢さんより一つ年上ですから」
「……はい?」
 思わず間抜けに聞き返してしまう。
「佐祐理は、一年浪人しているんです」

 コンビニの休憩室でぼうっと天井を見上げていた。苦学生のバイトと言えば、まずコンビニ夜間だろう、と訳の分からない理由で面接を受け、あっさり採用されてしまった。まあ、確かに時給はいいけれど、田舎と違って意外と客が来るし、思ったよりやることが多い。そして、生活リズムは確実に破壊される。また何かいいバイトがないか、目ざとく探しておく必要があるだろう。
 効能のよく分からないブレンド茶を飲み干して、俺は昼間のことを考えていた。言いたいことは色々あるが、なんつうか、あの……倉田さん年上かい。全然気づかなかったというか、年下でも通用するんじゃないか。なんだろうあの人。意味分からん。
 しかし、冷静に考えると、大学生活で同じ学年のやつの年齢が一つ二つ違おうが別に大した支障はない。少なくてもあの場所では実年齢よりむしろ学年の差の方が大きいのだ。聞いた時は咄嗟のことで、きっと考えていることが顔に出ていただろうけど、俺が変わらなければいいんだ、と思う。ただ、決して距離を測り間違えてはいけない。
 あなたは私じゃなくて、ぬいぐるみと喋っていればいいんだよ。不意に、別れた彼女から投げつけられた言葉がノイズ混じりに再生される。どうして今頃そんなことを思い出しているのか。やっぱりあの手紙を読んでおけばよかったかもしれないなんて馬鹿なことを考えていた。表に現れる感情を止めることが出来ない。まったく、そんなに都合良く天啓が記されているはずもないだろうが。
 そうこう考えている内に休憩時間が終わる。働いている時はいい。余計なことを考えなくて済むから。しかし、既に俺は自分の内側にあの白い街の風景を思い描いてしまっている。

 コンビニを出て、駅へと続く道を歩いていた。太陽の光が眩しい、どころじゃなく、痛い。時刻はもうすぐ正午になろうとしている。もう交代のやつが来なくてよう! 連絡もないしどうしたらいいんだ! なんてことを言う相手すらいなかった。くそう、やってられん。今日が土曜で本当によかった……。何だか身体がふわふわする。腹が空いているのか、眠いのか、疲れているのか、そのどれもそうなのか、よく分からなくなっている。それでも足は駅前のショッピングセンターへと向いていた。ともかく食料を調達しよう。ファストフードだって一向に構わない。それで部屋に帰ってどれを先に満たすべきか考えよう。そうしよう、わはは、そうしよう。とてつもなくハイだった。廃でも、灰でも、どれでもよかった。どうしようもなかった。

「相沢さん?」
 商店街の入り口で声をかけられた。ふらふらと振り向く。そこには倉田さんがいた。手に買い物袋を下げている。どうやら買い出しの帰りらしい。
「え。倉田さん、って……もしかして、ここに住んでるの?」
 彼女はその言葉に頷いていた。そうか、電車で会った時からそうじゃないかとは思っていたのだけれど。
「ははは、そうなのかあ、それは奇遇だね、あははは」
「相沢さん、なんだか疲れてますか、顔色があまり……」
 俺は上手く回らない頭でことのあらましを説明した。先程まで思っていたことをそのまま垂れ流す。倉田さんは俺のどうしようもない話へ耳を傾け、ただ相槌をうっていた。なんか、人間っていいよね。目の前が滲んだ。一人暮らし一月目で早くも人恋しいのか俺は。いや、きっと疲れているだけさきっとそうさ。……これ、ひょっとして一人暮らしの大半が掛かるという独り言の病か?
「あの……」
「はい?」
「もしよろしければ、佐祐理が何かお作りしましょうか?」
「え」
「材料はありますし」
 倉田さんは持っていた買い物袋を持ち上げて見せる。
「それ、は……」
 いいのか、つか、よくないだろう。
「相沢さんのお宅はここから近いんですか?」
「……ああ、うん。ここからなら、まあ、大体歩いて十分くらい?」
「じゃあ、佐祐理の部屋にいらっしゃいますか? その方が近いですし。あそこに見えているのがそうなんですけど」
「ぶっ」
 吹いた。
 駅徒歩零分と言ってもいいくらいの場所に高層マンションが立っている。彼女はそこを指差していた。しかも、上の方を。
「倉田さんの家って」
「あの一番上の階です」
 なんつうか、ずれてる。ずれすぎている。何もかもだ。どこから正せばいいのか分からない。
 なんとなくそんな気はしていた。奨学金なんて言っていたので混乱させられたが、育ちのいい人間はその仕草や何かが普通の人と明らかに違っている。そして、それは恐らく隠すことが出来ない。
 この人、もしかしてお嬢様なのか? 箱入りなのか?
 何だか気が遠くなってくる。魂ちょっと出た。しかし、俺はここで発想の転換を図る。こうなったら、どこまでも付き合ってやろうじゃないか。経験に因る勘? 正常な判断? 生物が鳴らす警鐘? ハッ、鼻で笑ってやんよ! 俺は勢いをつけ、俺の返事を待っていた倉田さんの荷物を持つ。遠回しな俺の意志表明を彼女はあの笑顔で受け止めた。

 オートロックの玄関を越え、エレベーターで最上階まで昇った。倉田さんに続いて部屋に入った俺を誘ったのは、どこまでも続くような空だった。断りを入れて、ベランダに出る。風の流れが気持ちいい。まさに飛び降りてしまいたくなるくらいの絶景。そこまで考えて、これはある意味危険だよなと苦笑する。ここに来るまでの道すがら聞いた。両親には出来るだけ迷惑をかけたくないのだけれど、彼女のことを心配した『お父様』がここに住むよう薦めたと。それはつまり、そうしなければならない、ということでもある、んだと思う。しかし、彼女の父親もそこまでは気が回らないだろうし、多分そんなことは起こらない。誰だって、そう信じるまではいかなくても、心のどこかでは祈っている。俺達は理不尽に殺されたりしないだろう。そういうことだ。
 ここがどのくらいの広さなのかは分からないが、ひとまずリビングで待っていて下さいと言われた。他にもいくつか部屋があるのだろう。しっかし、テレビ何インチだこれ。一人暮らしの部屋じゃないって。俺は自分の住処を思い描いて、項垂れる。暫くソファーに座ってそわそわしていたのだが、やがて手持ち無沙汰になり、俺は辺りを見渡してみる。名前も知らない観葉植物がある。そう言えば、ベランダにもいくつか花があった。コンポがある。ソファーから降り、それに近づく。並べてあるCDの中から無作為に一枚を取り出す。マリアンヌ・フェイスフル。ミック・ジャガーの恋人、だったか。その隣は……シー・アンド・ケイク。む、シカゴ音響派。もう一枚。ピチカート・ファイブ。渋谷系。うーん。よく分からん……。俺はケースを戻すと、視線を他のところへ向ける。すると、俺が座っていたソファーとは別の、一人がけのソファーの上に何かが置いてあるのに気づく。近づいてみる。それは丁寧に折りたたまれてある服だった。が。
「相沢さん、ごめんなさい。あ……」
 タイミングは最悪。俺は思わずその服を広げてしまっていた。倉田さんは騒ぐでもなく叫ぶでもなく、ただ俺の手元に目が釘付けになっているようだった。
「倉田さん、これ、は」
「あ、あはは……高校の、制服です……」
 心なしか顔が赤くなっている。
「……なんで?」
「あの、それはとっても大事なもので、大事にしたくて、捨てられたくもなくて、引っ越しの荷物と一緒に持って来たんですけど、クリーニングに出そうと思って、懐かしくて、思わず着てしまって」
 彼女は慌ただしく早口で弁明する。言いたいことは、そこはかとなく分かる。
「それで?」
「え、あの」
「ごめんなさい、って」
「あ。あの、実は買い忘れてしまったものがあって」
「何?」
「玉葱、です……あの、相沢さん、それ」
 俺は倉田さん言うところのそれ、つまり制服を持ったまま彼女に近づくと、それを手渡す。
「玉葱は俺が買ってくる。だから、倉田さんはその間にそれに着替えていてくれ」
 俺はそう告げるや否や彼女の部屋を飛び出した。その勢いのままエレベーターのボタンを連打する。何やってんだ何やってんだ俺何やってんだつかあの人もあの人だ無防備すぎだろつっても来客が来るなんて思ってなかったろうし急に来た俺も悪いしもうなんなんだ――!
 暫く俺の言語野はフル回転し、その後。
 死んだ。
 何も考えられなくなった。
 玉葱は買った。
 倉田さんの部屋に帰ると、何故か倉田さんによく似た女子高生が俺を出迎えてくれた。
「えと、おかえりなさい」
 俺は、彼女のことを心の底から心配する。

 倉田さんは制服の上からエプロンを着けて料理をしていた。扉の隙間から様子を伺った俺は、目の前に広がる一種異様な光景に頭を抱えていた。なんだ、その、うん。まずはそのスカートを何とかしなさい。あの制服を実際に作ってしまうやつは病気だと思う。俺は溜め息を一つついて、大人しく料理が出来上がるのを待つことにした。
 暫くしてから出された料理を見て、俺は目を丸くした。なんというか、とても意外だった。牛丼。予想外もいいところだった。ともかく、折角のご厚意に甘えることにする。いただきます、と小さく言って口に運ぶ。
「結婚して下さい」
 笑ってはぐらかされた。奥様は似非女子高生。俺はテーブルに出されたものを全て平らげた。
 お茶を淹れてきますね、と言い残し、倉田さんは再びキッチンへと姿を消した。開け放たれた窓から、風が入り込んでくる。地上の喧騒もあまり聞こえない。薄いカーテンがひらひらと揺れている。穏やかだ。空腹が満たされた所為だろうか、緊張が一気に緩んでいくのを感じていた。それと比例するように、忘れていた疲労がじわじわと身体を包んでいく。不味いと思う。しかし、そのことに気づく頃にはもう、事態は思った以上に進行している。少しだけ。少しだけと思いながら、俺は目を閉じた。


 雪が降っていた。
 重く曇った空から、真っ白な雪がゆらゆらと舞い降りていた。
 思い出さえも埋めつくしてしまうくらいの雪。それはまるで、そこに最初から何もなかったかのよう、容赦なく降り注いでいく。でも、俺はこれが夢だと言うことを知っている。明晰夢とでもいうのだろうか。俺の中では、変わったことじゃない。むしろ、いつものことだ。もう慣れてしまった。だから踏むのはいつもの手順。俺が望めば、いつでも季節は移ろいゆく。
 視線を下げる。柔らかい新雪の上、少女が血塗れで眠っていた。表情は伺い知れない。でも俺は何も感じない。もう、何も感じやしない。薄れゆく景色は、まるで白黒のシネマ。よく出来たフィクション。さあ、青い空を見上げて、春の歌を口ずさもうか。思い出の中を舞い続ける白い結晶、そして、赤の血漿。それらが産み出すコントラスト。口唇僅か歪み、ららら、ららら、ら。


 目を開けた。静かだった。心は驚くほど穏やかだった。瞳だけを動かして、自分の身体を見る。そこにはタオルケットが掛けられていた。ゆっくりと上体を起こす。カーテンが閉められていて、外の様子は分からない。時計を探していると、倉田さんがリビングへ入ってくる。
「おはようございます」
「本当、ごめん。思いっきり寝てた……」
 倉田さんは、気にしないで下さいと言った。いつのまにか、もう夜になっているらしい。彼女は冷めたお茶を新しいものに代えてくれた。その後で一人がけのソファーの方へ座る。制服は着たままだった。不思議と先程までの違和感がなくなっている。本当はまだ着ていたいのかもしれない。そう思った。
「制服、何か大事な思い出があるのか?」
 俺は何気なくそう聞いた。倉田さんは笑みを返す。
「どうしてでしょう。佐祐理はまだ、卒業していないような気がしているんです」
 俺は黙ってお茶を口に含んだ。恐らくそれは、彼女が一年のブランクを持つことになってしまったことと関係しているのだろう。本当は、あまり聞きたくはなかった。越えてはいけないラインを踏み越えてしまうような気がしたから。
「佐祐理はその時期少し入院していて、卒業式には出られなかったんです。そのせいかもしれません」
「……どこか悪かったのか?」
 俺は言葉を選んでから、一言そう言った。
「相沢さんは、魔物がいる、って言われたら、信じますか?」
 その言葉を聞いた時、心臓を掴まれたような思いがした。倉田さんはぽつりぽつりとその時のことを語り出した。もう止まらないだろう。少し意識が遠くなる。遠近感が狂う。それでも俺は彼女の話を黙って聞いていた。
 倉田さんには親友がいた。彼女はとても心の優しい子で、学校へ野犬が降りてきてしまった時のことを、倉田さんは懐かしむように話した。倉田さんも彼女に倣ってお弁当を分けてやり、その後で彼女と一緒に学食で牛丼を食べた。それから、倉田さんと彼女は親友になった。
 しかし、彼女は時折、学校で問題を引き起こす子でもあった。まず夜間の学校への不法侵入。その時にはまだ誰にも気づかれておらず、明るみになってはいなかった。気づいていたのは恐らく倉田さんだけだった。
 倉田さんは、そのことを彼女に執拗に聞くような真似はしなかった。倉田さんは何より彼女を信じていたし、本当に困ったことを抱え込んでいるのなら彼女は自分から話してくれるだろう。そう思っていた。
 しかし、その内、学校の窓硝子が割られる事件が頻発するようになる。最初こそ誰か外部の人間の悪戯じゃないかと言われていたが、何度か同じようなことが繰り返されてくると流石に学校側も対応を迫られることとなる。見回りの人員が増員された。
 それから幾日も経たない内に、再び硝子が割られる。警備の人間が目撃したのは、本物の刀を持った彼女の姿だった。学校側から警告を受けようと、彼女はその理由を話そうとはしなかった。停学も甘んじて受け入れるような様子だった。倉田さんは彼女を庇い続けたが、彼女は野犬の一件等のせいもあり、学校では孤立していた。やがて、奇妙な噂が立つこととなる。彼女は学校に現れる魔物と戦っているのだ、と。
 くだらない噂だと思った。けれど、倉田さんは一向に何も話してくれない彼女のことを不安に思っていた。窓硝子が割れる事件がひとまず沈静化し、警戒が和らいだ後も彼女は変わらず夜の学校で何かをしている様子だった。そして、倉田さんは決意する。彼女と話をしようと。倉田さんは彼女に会うため、夜の学校へ赴く。
 その後の記憶は、殆どなくなってしまっていると倉田さんは言った。意識を取り戻したのは病院のベッドの上だったそうだ。倉田さんは頭に怪我を負い、学校の廊下に倒れていたところを見回りの教師に発見された。その時、発見されたのは倉田さんだけではなかった。もう一人、親友の彼女。
 倉田さんの怪我はそれほど重くはなかったらしい。しかし、時期が悪かった。受験は無理だと周囲は判断した。だが、倉田さんにとっては進学なんてどうでもよかった。大事なのは彼女の病状の方だ。彼女は意識不明の状態に陥っていた。いつ意識が回復するかも分からない。もしかしたらずっとこのままかもしれない。
 まだ犯人は捕まっていない。何度か警察から事情聴取を受けた。新聞に小さく記事が載ったこともあるが、大事にはなっていない。それを幸いと言っていいのかは、倉田さんもよく分からない。けれど、何となく感じてはいる。あれは人の仕業ではないのではないか。本当に、魔物の仕業なのではないか。
 本当のところは分かりません、そう言って倉田さんは口を噤んだ。倉田さんは待っているんだろうか。訪れることのない彼女との卒業式を。止まってしまった時間が再び動くことを。しかし、俺は倉田さんの話を反芻しながら、どうしても残る違和感を拭えないままでいた。
 雪が降り続いている。


 しばらくは慌ただしい日々が続いた。あの日以来、倉田さんとちゃんとした話は出来ていない。大学ですれ違うことはあっても、世間話をするくらいに留まっていた。倉田さんも俺もお互いの人間関係があり、その二つは恐らく繋がりづらいものだったし、それに加えて俺はバイトを増やしていており、バイトが明けるとそのまま大学へ向かうこともあった。本当のことを言うと、それは言い訳かもしれない。俺は彼女との距離を測りかねている。踏み込みたいのか、戻りたいのか。彼女も多分、同じだったと思う。きっと俺達に残されている方法は少なくて、もしかしたら彼女はそのどれでも良かったのかもしれない。俺は、まだよく分からず、同じ場所で立ちつくしている。
 会って話す時間がない代わりに二人の繋がりを辛うじて強くしているものは携帯電話だった。倉田さんからはよくメールが送られてきた。俺はメールがどうも性に合わなくて、代わりに電話をする方が多かった。機械が通す彼女の声、それが持っている感情はよく読み取れないのだけれど、それは会っても同じことじゃないかと思い直した。浮かぶイメージはいつも笑顔の彼女だった。


 雨の降る木曜日。最後の講義を受けた後、図書館に籠もって来週提出のレポートを作成していた。目処がついた頃にはもう辺りは暗くなっていた。雨の中をバス停へと急ぐ。バスはちょうど到着したみたいだった。足早に乗り込む。後部座席まで移動すると、そこには倉田さんがいた。軽く手を挙げて合図する。彼女はどうやら一人のようで、俺は空いていた彼女の隣の席へ座った。
「帰り、遅いんだな」
「レポートの提出期限がいくつか重なってしまって……」
「あれ、俺もやってたんだけど。図書館でレポート」
「本当ですか。それじゃあ、もしかしたら会っていたかもしれませんね」
 倉田さんは変わらぬ笑顔でそう言った。俺は彼女の笑顔があまり好きではなくなっていた。遠くで見ていた頃とは明らかに変わっている。彼女ではなく、俺と彼女の関係が。
 バスを降り、電車に乗り換える。電車の中は座れないくらいには混んでいたけれど、朝の混雑ほどではなかった。傘の所為で床が濡れている。途中、電車が急に止まり、倉田さんが姿勢を崩してしまう。俺の袖を掴み、倉田さんは俺の方を見上げていた。思わず見つめ返してしまう。ほどなくして電車が再び走り出す。ごめんなさいと言った後、彼女は何か言いたそうにしていたが、いつしか俺の袖から手を離していた。
 改札を出た所で別れようと思っていた。改札を出るまでは、多分そう思っていた。けれど、実際別れ道が来ると、上手く身体が動かなかった。切り出したのは倉田さんの方からだった。
「あの、今から時間ありますか」
 俺は考えを巡らせる。バイトがなければ、予定だってない。断る理由も思いつかなかった。
「じゃあ、どこか店にでも入ろうか」
 しかし、倉田さんはそれには首を振り、相沢さんのお部屋に連れていってくれませんか、と言った。それがどういうことになるのか、二人とも分かっていたと思う。けれど、俺と彼女が思い描くものが同じだとは限らない。

 二人して目的地までゆっくり歩いた。雨は強くなるでも弱くなるでもなく、道行く人の傘へ降り注いだ。俺達は自然だった。とても滑らかな演技。それが不自然でなくなるくらい、俺達は自然だった。彼女は元々その方が自然であり、俺はと言えば、ほんの少し、息が苦しかった。
 特に目的があった訳でもないので、夕食を一緒に取ることにした。この天気ではまた外へ出るのは少し億劫だったので、倉田さんが再びその腕を振るうことになった。我が家の冷蔵庫にあるものなんてたがが知れているけれど、ほどなくして美味しそうなパスタがテーブルの上で湯気を立てていた。会話は終止緩やかに進み、その側から零れていくのが分かった。誰かがこれを幸福と名づけても、俺は一向に意に介さない。当事者でない者は、他人の幸福を決めつけることが出来る。それは、いくつかある本当の一つであったとしても、いささか不健康ではある。
 後片付けは俺がやると申し出た。あまり迷惑はかけられない。キッチンに立つのは久しぶりのような気がした。食器だって使われるのは嬉しいのかもしれない。その後で、倉田さんはお茶を淹れてくれた。彼女の淹れるお茶はどうしてこんなに美味しいのだろう。彼女はそれを産み出すまで実に多くの手順を踏む。それは、どれも俺の知らないものだったけれど、彼女は慣れた手つきでその一つ一つを繊細にこなす。そうするのが当たり前であるかのように。
 会話は少しづつ、減っていった。本当に話すべきものなんて、実はそれほど多くないのか。俺は横目で時計を見、彼女は緩慢な動作でお茶を啜る。倉田さんがどうしたいのか、本当の所は分からない。けれど、一つだけ確かなことがある。人類は、時間軸を操ることが出来ない。俺達の時間は揺るがなく流れている。それを一番良く知っているのは、俺よりも彼女であるはずなのに。
 俺は意を決して、ベッドに腰掛けていた倉田さんの隣へ座る。物理的に距離が縮まる。
「倉田さんは、どうしたいの?」
 彼女は小首を傾げ、俺の言葉の真意を測っている。その笑顔を、今すぐ止めてくれないか。そっと顔を近づけ、唇へ軽くキスをした。触れるだけの、短いキス。俺達では、その一瞬を濃密な時間だと感じることが出来ない。錯覚することすら叶わない。時間は変わらぬ速度で流れている。もう一度、今度は長いキスをする。舌を絡め、鼻まで舐める。彼女の味、彼女の香り、それでも頭の中は奇妙に澄んでいる。倉田さん、俺は、親友の彼女自身になることは出来ないけれど、彼女の代わりにはなれる。それは俺達に残された、いくつかの救いかもしれない。でも、俺はそんなもんは全部否定する。あなたは自分の時間が流れ続けていることを知っている。だから、あの街を出て彼女の元から離れた。あなたはあの街を出るべきじゃなかった。ましてや俺だって、あなたと会いたくなんてなかった。あの街の人間なんかに、会いたくなかったのに。
 無理矢理、倉田さんベッドへ押し倒した。白いシーツの上、彼女の髪が広がる。それは、子供の頃、ケースから零した綺麗なビーズに似ている。俺は美しいものをわざとぶち撒けて、またそれを拾い集める。そんなことをいつまでも繰り返している。彼女の手首を掴み、彼女のことを上から見つめていた。
「どうしたんですか」
 いつもと変わらないトーンで、彼女がそう問いかける。誰の干渉も許すことのない、彼女の笑顔。限りなく完璧に近い、笑顔の無表情。
「一緒に考えてくれないか」
 何を。彼女は目だけでそう告げ、空いている手で俺の頬を撫でる。
「セックス以外で、倉田さんを傷つける方法」
 掴んでいた彼女の手首が軋んだ。力が上手く制御出来ない。慎重に指を解いていく。掌はその感触を感じていた。薄く引かれたリストカットの痕。肌色が剥がれている。恐らく普段はコンシーラーか、ウォータープルーフのファンデーションを塗っているのだろう。思わず瞳が揺らぐ。
「佐祐理は、もう、傷ついたりしませんよ」
 彼女はまったく淀みなく語り出す。弟が死んだ時、切ったんです。佐祐理が一弥にひどいことをしても、誰も佐祐理を責めてくれませんでしたから。それは、誰も佐祐理を許してくれないということでしょうから。
「本当に倉田さんを許してくれないのは、誰よりも倉田さん自身じゃないか」
 他人の所為なんかじゃないだろう。許すも許さないもない。あなたがそれを望んでいる人達はもう、そんなことを望めないないのに。他人に許されなければ、自分を許すことが出来ないのか。他人を幸せにしなければ、あなたは幸せになれないのか。空っぽだった。どこまでも空虚だった。本当の倉田さんは、今どこにいるんだろう。痛みと切り離された本当の彼女は。
 俺はそっと倉田さんから離れる。
「悪いけど、帰ってくれないか」
 俺はそう言い残し、キッチンへ続く扉から出た。逃げたんだと思う。ワンルームのこの部屋で、彼女の顔を見なくて済む場所は限られていた。俺はトイレに入り、便座を下ろして座る。後は彼女がこの部屋を出ていくのを待つだけだ。もう二度と、彼女と触れあうこともない。天井を見上げ、橙色の蛍光灯を見つめていた。このまま眠ってしまいたかった。
 不意に、扉が開いた。ぼんやりしていた俺は彼女の方を見るまでにずれが生じた。それがよかったのか悪かったのか、それは分からない。けれど、俺は今でも知りたいと思う。その時、彼女がどんなことを胸に秘め、どんな表情をしていたのか。そのことを考える時、俺はたおやかに微笑んでいる。とても、とても幸せそうに。
 鈍い音がした。骨と骨とがぶつかる音。左頬が熱くなる。視界はぶれて、何も捕らえられなかった。俺はしたたかに頭をぶつけたのだけど、それが壁だと気づく頃は、彼女が部屋を出た後だった。暫く体勢も立て直さず、その場で丸くなっていた。果たして、彼女は人を殴ったことがあるのだろうか。それじゃあ自分の手の方が痛いだろうが。わざと声に出して笑う。
 柔らかい光の中、兎が跳ねていた。黒髪の兎。助けて欲しいの。魔物が来るの。繰り返し見たいくつかの夢。本物であるはずがない。これが本当である訳がない。人は思い出を捏造し、今の自分を形作る。知っていたんだ。本当は何もかも知っていた。俺達のありふれた悲劇。
 目を閉じる。内側の世界はどこまでも広く、果てのない空白。あの街は、あの街はどこにあるのだろうか。雪が降理続く、夢のようなあの街は。俺はいくつかの列車を乗り継いで、そこを目指す。しかし、いつになっても辿り着けない。これは、俺の想像でしかないからだ。俯いていた顔をようやく上げる。そこには、ただ灰色の廃墟が続いているだけだった。
 倉田さん、大丈夫だよ。俺達は幸福になれる。見知らぬ人を見捨てても、大切な誰かを見殺しにしても、俺達は幸せになれてしまうのだから。心配しなくてもいい。いっぱい傷つくといい。水底で、透明な人達が揺れていた。生命のスープ。相対の向こう側。全ては、一つのものへ向かっている。


 月日は流れた。季節は夏。長期休暇の真っ最中。試験は全て受けた。恐らくそれなりの結果は残せているだろう。だが、バイトがある為、帰省もままならない。親は一度は帰ってこいと五月蠅いけれど。
 携帯が鳴る。メールの着信音。倉田さんからだった。彼女は今、故郷に帰省しているらしい。彼女との関係は、紆余曲折を経て、ようやくあるべき所へ収まったのだと思う。彼女との再会はとてもあっさりしたものだった。それはそうだ。あの狭い構内で、嫌でも遭遇していたのだから、それを出会うなという方が難しいだろう。あの日の後、中庭で偶然、出会った彼女は変わらぬあの笑顔で、わざとらしく包帯が巻かれた手を振っていた。俺は彼女の拳の形に赤く張れた自分の顔を指差して笑った。見たくないものから一生目を背けて生きられる程、俺達は強くなかった。俺はしっかりと距離を見定める。踏み込んではいけない、彼女との距離。けれど、俺はまだ彼女に何か出来るんじゃないかと足掻いていくのだと思う。多分、そうしたいのだと思う。俺達はここにいた。溢れる悪意も、儚い祈りも、それなりにそういうものだと信じて。夢物語はもうどこにもないけれど、綺麗事の中で俺達は生きていけるのかもしれない。そんな予感がしていた。
 何気なく窓の外を見た。ベランダに一枚の白い羽が降り立つ。窓を開け、それを拾い上げる。見上げると、空から天使の羽が舞い降りていた。羽は指先の体温を奪って溶ける。倉田さんも見ているだろうか。今頃、あの街には奇跡が降り注いでいる。尊い奇跡や、起こらない奇跡、ありふれた奇跡が。
 気づけば景色は白くなっていた。俺は足下を見下ろす。そこにはあの時と同じように血塗れの少女が横たわっている。俺は彼女に近づいて、その顔をじっと見つめている。どこかで誰かが優しい物語を身籠もってくれるのを、いつまでもいつまでも待ちわびながら、子供の頃夢見たあのお別れのキスを再現しようと。
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