いつかムラムラする日。




心配症――。
すぐよくなる。
ぜったいな。
(七尾旅人『ガリバー2』)


 その鯨幕の果ては夜の暗さに溶け込んでいて、地平線の彼方まで永遠に続いているように思われた。坊主が唱える念仏がやけにリズミカルに聴こえる。隣で祐一がもぞもぞと足を動かしている。きっと正座が苦手なのだろう。わたしは平気だった。制服姿のわたしたちは、この光景の中では浮いているように思える。喪服の人々の中で、わたしたちの制服の色使いは鮮やか過ぎた。北川くんは握りこぶしを太ももの上に置いている。祐一は子供のように落ち着きなく小刻みに揺れている。香里は一人離れている。無表情だった。
膝の辺りが冷えている。制服の裾から生えているわたしの両足は白く、冷たくなっている。冷気がそこから駆け上がってくるようだ。それでもわたしは姿勢を崩さない。こういうときばかりはズボンを羨ましいなと思う。白い座布団はいつまで経っても冷たいままで、わたしの体温が伝わらない。厳かな場での寒さはいっそう身に堪える。わたしはどうしてここにいるのだろうかと考えた。正座して露出したわたしの太ももは白く、ひどくこわばっている。わたしは手のひらをそこに置いた。氷のような感触があった。
 わたしは遺影の中で微笑む少女を見る。ショートカットの女の子だった。彼女は香里に似ている。わたしの親友と比べるといくばくか子供っぽさが目立つのだけれど、本質的には同じ遺伝子を抱えているのだとわたしには実感できる。いつだったか、話だけは聞いたことがあった、『妹がいるらしいよ』、香里本人からではなく、他の友達からの又聞きで、『妹がいるらしいよ』、と。風が吹いたら消えてしまいそうなくらい弱々しい噂話だった。それが真実であると知ったのは数日前、実感が湧いたのは南無阿弥陀仏をサウンドトラックに遺影をまじまじと眺めたとき、そして今、わたしはまた香里を見る。俯くことなく、姿勢正しく目の前を見据えている。何が見えているのか、わたしにはわからない。
やがてお焼香の順番が回ってくる。わたしは遺影の目の前に座って、こわばった両手を合わせる。すっと両目から涙がこぼれる。構わずにお焼香を済ませ、もう一度手を合わせる。しっかりと両手をくっつけて、瞳を閉じる。そのとき長い時間が経過したようにわたしには思えた。
 わたしたちはお通夜の会場を後にする。夜の色は深い。わたしは並んで歩く北川くんと祐一の後を追うように、半歩後ろを歩いている。言葉は交わされない。わたしたちは喪に服したように黙りこくっている。雪が降っている。ただ舞っているだけのような、わずかなものだった。ちかちかと点滅している街灯に照らされるそれはまるでコマ送りで落下しているようにわたしには見えた。
「なあ」
 北川くんが沈黙を破る。いつもよりも低く、それでいてよく通る声だった。夜の静けさの中にいたからなのかもしれない。でも北川くんは先を続けない。ただ鼻を啜った。無言の重さがわたしたちを掴んでいる。たまりかねた祐一は「何だよ」と言いながら何気なく北川くんの顔を見て、わざとらしく絶句した。
「北川、お前」
「……」
「ユニコーンの解散をまだ――」
「引きずってねーよ」
 北川くんが祐一の頭を叩く。
「空気読めよ。今そういう空気じゃねえだろ。台無しだよ……台無しだよ!」
「二回も言わなくても」
 北川くんは何かを言おうと開いた口を静かに閉じて、歩調を早めた。ばつの悪そうな顔をして随分と伸びた髪の毛をかき上げた祐一と目が合う。祐一は困ったように笑った。
 わたしは何も言わない。そして分かれ道に至るまでわたしたちは無言を貫いた。だからその間、雪を踏む音だけが聞こえていた。
「北川くん、また明日ね」
「え? あ、ああ、うん」
 北川くんの横顔がどこか寂しそうに見える。でも薄暗さの中で垣間見えた一瞬の表情が、真実北川くんの本心を表していたのか、わたしには判断できない。祐一が「じゃあな」と言う。寒そうにポケットへ手を突っ込んで、くねくねと身体を動かしている。
「ああ」
 北川くんの背中はすぐに夜の暗さに飲み込まれて見えなくなった。「死人が……多いよ」と呟く声が聞こえた。見送っていたわたしたちは顔を見合わせる。帰ろっか。うん。そんな言葉のやり取りを瞳だけでする。家までは歩いて一〇分もかからない。今度は祐一の隣を歩く。祐一は手をポケットに突っ込んだまま、わたしは手袋をはめた手のひらをぎゅっと丸めている。
 わたしは鍵を開け、玄関で靴を脱ぐ。扉を境にして、いくばくかの暖かさが家の中にはあった。きっと住み慣れた空間だからなのだろう。そのまま上がろうとするわたしを祐一が止める、「名雪」とわたしの名前を読んで。
「え?」
「塩」
「あ……あ、うん。そうだね」
 言われてわたしはお清めの塩を取り出す。すっかり忘れていた。すっかり真っ白になっている、塩のように。祐一は自分で言い出したわりになおざ……おざなりに塩をまいた。わたしも真似をする。お母さんがいないから、さじ加減がわからなかった。お母さんは通夜の場にとどまっている。手伝いがあるのだと言った。
 祐一は靴を脱ぐ。今度はわたしが祐一を呼び止める、「あ、祐一」と。来ている上着の裾あたりに、雪が薄く積もっている。わたしはそれを払ってやる。冷たい。それは塩ではなく、確かに雪だった。わたしの制服には一切ない。体温を失ってしまった祐一だから、溶けずに残っていたのだろう。「お風呂入れるね」。わたしはそう言って、祐一よりも先を行く。祐一はのっそりと二階へ上がっていった。
「先に入れよ」
 祐一はそう言った。わたしは湯船に浸かっている。鼻の頭くらいまで潜ってはぶくぶくとやっている。見慣れた裸体が水面の向こうでゆらゆらと揺れていた。白い。雪か塩のようだ。遺影の中で笑っていたあの子も白い肌をしていた。半身を持ち上げて、浴槽の縁にもたれかかった。濡れた髪先が肩口や背中のあたりに張り付いているのが感じられる。わたしは「香里」と声を発し、次いで「シオリ」と呟いた。彼女は妹だった。わたしは知らなかった。もう一度わたしは潜る。頭のてっぺんまで湯船に浸かった。入浴剤を入れていないただのお湯の中でわたしは瞳を開く。ぼやけた視界に身体の一部が入り込む。わたしは瞳を閉じて、酸素を求めた。仰向けに浮かび上がるように、わたしは温かいお湯に身体を預けた。天井を見上げた。蛍光灯の白色が滲んでいるように見えた。鼻を啜った。寒さはなかった。きっと涙だった。祐一が風邪をひいたのは一ヶ月くらい前のことだった。二月の上旬から中旬頃だったと記憶している。バカは風邪をひかないとよく言われているので、最初は信じられなかった。と言ったら、頭を叩かれた。鼻を啜ると、そんな日のことが思い出される。
 お風呂を出て居間に行くと、祐一が焼きそばを食べていた。テレビはついていない。テーブルには湯気を立てている焼きそばがお皿に盛られていて、祐一の向かいに置いてある。「祐一」と言うと、「ああ」と頷いた。わたしは台所から自分の箸を取りに行く。流し台の脇には焼きそばが盛られたお皿が置いてあって、しっかりとラッピングしてある。「祐一、これ」とわたしはちょっと声を張る。「うん。そう」という答えがある。お母さんの分だった。フライパンはコンロの上にあったが、水が注がれていて、焦げついた麺やもやしが浮いている。 
 居間に戻ったわたしはお皿を取って、祐一の隣に座る。祐一は大部分を食べ終えていて、コップで水を飲んでいるところだった。焼きそばは味付けが濃いように感じられた。そう言うと、「わざとだよ」と祐一が答えた。「疲れてるときはそれくらいがいいんだよ」。わたしは黙って焼きそばを食べる。祐一はソファに座り直して、両手両足を伸ばしていた。ぼんやりと蛍光灯を見つめていた。それは二週間くらい前の真夜中にも、祐一はそんな格好でこのソファに座っていた。「祐一」とわたしが声をかけると、「ああ」と振り向きもせずに返事をした。
「何してるの」
「いや、何か、別に」
 わたしはちょうどトイレに起きたところで、今の電気が灯っていたので、不思議に思って覗いてみたのだった。祐一はゆっくりと半身を起こして、「何してんの?」と逆に訊ねてきた。
「あ、わたしトイレ」
「うん。あ、そうなんだ」
「うん」
 テーブルの上にはビニール袋が置かれている。わたしは何気なくそれを手に取る。祐一はコップを持って、注がれた水道水の水面を見ている。ビニール袋の中にはいかがわしいビデオテープが数本入っている。「祐一、これ」と言うと、「ああ、それ北川の」と答える。まったく気にしていないような、興味ないような声色で。
「あ、そうなんだ。北川くんの」
「ああ、うん」
「見てたの?」
「え?」
「ビデオ」
「あ、ああ、そう。見てた」
「うん」
 わたしは祐一の隣に座る。夜の冷たさがソファから伝わる。祐一は太ももの上で両腕を組んで、うな垂れるように前屈みになる。何を考えているのかは当然のことながらわからない。ソファの上で体育座りのような姿勢で膝を抱えたわたしは首を回して祐一を見る。あごから右頬あたりが膝に乗る。祐一はこっちを見ない。まるでわたしを見なかった香里のように。
 だからわたしは悲しくなる。不意にこみ上げてきた涙をこらえきれなくなる。膝を抱えたまま、わたしはころんと体勢を倒す。祐一に寄りかかる。
「名雪?」
 祐一は屈んだまま姿勢のまま顔だけをわたしへと向ける。驚いたように一瞬目を見開く。わたしは泣いている。瞳は真っ赤になっていることだろう。「名雪?」。もう一度、祐一が声に出す。わたしはただ首を振る。祐一はそのときになってやっと屈めていた身体を起こして、わたしとの間に若干の距離を置いた。
「祐一」
「どうしたんだよ」
 わたしは発作的に祐一に抱きついて、唇を重ねた。たぶん人生で初めてのことだった。唇を離して、わたしは祐一の首筋あたりに顔を埋めて、泣きじゃくり始める。鼻を啜る。祐一はわたしを突き放しも抱き締めもせず、そのままの姿勢でいた。どうすればいいのかわかりかねていたのだろう。わたしはどうしてこんなことをしているのかをわかりかねている。ただ震えていた。祐一の身体は暖かくて、わたしの低血圧な身体を温めてくれた。
 三分か五分か、いずれにせよあまり長い時間ではなかっただろうと思うのだけれど、わたしの嗚咽が収まると祐一はわたしの肩を柔らかく掴んで、そっと押した。距離をとったわたしたちは見つめあう。言葉はなかった。祐一はやがて俯くと、静かに首を振った。わたしはうんと頷いた。
「名雪」
「うん」
「明日学校だし」
「あ、うん。そうだね」
「おやすみ」
「うん」
 わたしは一人になる。祐一は紙袋を持って、階段を上がっていってしまった。わたしはすぐに洗面所に行って、顔を洗った。鏡の中のわたしはどこか疲れていて、目尻の辺りから頬をつたった涙の筋が薄く残されていた。わたしはそれを指でなぞる。指先はひどく冷えきっていた。
「名雪、紅しょうが」
「うん。あ、え?」
「ほら、口」
 真横で祐一が親指の腹で自分の口元を示している。「あ、うん」と指で触れると、紅しょうががすぐにへばりついた。わたしはそれを口へ放り込む。隣で祐一が笑っている。わたしは少し恥ずかしくなって、誤魔化すようにがつがつと焼きそばをたいらげる。お皿を重ねて、台所へ持っていく。祐一が「あ、俺洗うよ」と言うけれど、作ってもらって洗ってもらうのでは悪いかと思う、「いいよ大丈夫」と答える。祐一もわたしの気持ちを考えてくれたのか、それ以上は何も言わずに居間へと戻っていく。蛇口から流れる水は氷のような冷たさだったけれど、すぐにお湯に変わって、ささくれ立ったわたしの手のひらにやんわりとしみこんだ。
 居間で祐一はテレビを見ている。わたしはまた祐一の隣に座る。
「あ、何か見る?」
「え? うん。あ、いいや」
画面の中で司会者が大袈裟な身振りで何事か話している。ニュース番組のようだった。わたしたちは言葉も交わさずにただテレビを見ている。わたしはいつかの真夜中のようにまたソファの上で体育座りになる。身体をダンゴムシみたいに丸めて、祐一といっしょにテレビを見る。海の向こうで戦争が始まろうとしている。

 すっかり冷めてしまったブラックコーヒーはどこか味気なかった。もう腹の中がパンパンだった。甘いものが苦手というわけでもないが、イチゴサンデーとチーズケーキを食い、ホットココアを飲んだ段階でいっぱいいっぱいだった。しかもオレは一人だ。ウェイトレスに水を一杯所望し、窓の外を見る。夕暮れを過ぎて、人の姿もまばらになっている。
 放課後になると相沢がいなくなる。暇人同士いっしょに帰ろうぜなどと言っても、目を離した隙にいなくなる。オレは鞄に教科書やらノートやらを入れながら、近くにいる女子二人の会話を聞いている。外を見ると、久しぶりに見るようなすっきりとした青空が広がっていた。
「香里、今日暇?」
「え? うん、まあ暇といえば」
「わたし今日部活お休みなんだよ」
「へえ」
「いや、へえじゃなくて」
「うん」
「どっか行こうよ」
「どっかっていうか、百花屋でしょ」
「え? あ、うん、えへへ」
 そんな会話だった。オレはマフラーを巻き、鞄を持ったところで「よしオレも行こう。美坂ティームウィズアウト相沢」とその会話に食いつく。「北川くんも? じゃあ、祐一も」と水瀬が辺りを見回すが、相沢の姿はない。鞄もないし、椅子の背にかけてあった外套もないからもうすでに帰路についているのだろう。
ふと校庭を見下ろすと、下校する生徒に紛れた相沢の姿があった。最近は付き合いが悪いというか、いつも表情がどんよりと沈んでいて、ひどく憔悴しているように見える。それでも最近は良くなってきた方だとは思うが、二月に入った頃は本当にひどかった。
 そこで先日、意を決して相沢の肩を叩いたのだった。プライベートなことを訊ねるのはどうかと思うが、友人としては妥当な判断だっただろう。
「最近元気ないじゃないの相沢ちゃん」
「ねー、北川くん何してるの?」
 水瀬の声がする。水瀬はすぐ近くでオレの顔を覗き込んでいる。美坂は教室のドアのところで呆れたように髪の毛をいじっている。「あ、悪い」と謝り、オレは歩き始めた水瀬の後を追う。
 百花屋はまだそれほど混んでおらず、オレたちは窓際の席へ案内される。四人掛けのテーブルだった。当然のように美坂と水瀬が並んで座る。オレたちは思い思いのものを注文し、そこでようやく一息つく。
「で、何で北川くんが一緒に来たんだっけ?」
「あれ、そういえば何でだっけ?」
「え?」
「たまには女同士でっていう名雪の思いを踏みにじってまで」
「え? 何それ」
「そうだよ。ひどいよ北川くん。死ねばいいのに」
「……」
「……」
「あれ?」
「……」
「名雪、それは言い過ぎ」
「今、オレすげーショックだったんだけど」
 言葉を失うとはこのことだった。わざとらしい口調だった美坂とは違い、水瀬の場合は何の計算もなさそうに言うから始末が悪い。しかし水瀬は何もわかっていないような口ぶりで、「え? 何が?」と言う。
「だって祐一笑ってたよ」
「何のこと?」
「テレビ見て。死ねばいいのにって松ちゃんが言ったとき」
「……」
「……」
「あのさ、水瀬にはさ」
「え? あ、うん」
「まだブラックジョークは早いんじゃないかな」
「そうね。コマネチから始めるべきね」
「でもコマネチ一つものにするのにも五ヶ月はかかるよな」
「そうそう。あれは意外と難しいのよ」
 オレは甲高い声で「あ、お姉ちゃんもそう思う? 私もそう思った」と言い、物凄い鼻声で「ですよね」と続けた。すると美坂が律儀にもツッコんでくれる。
「誰? 最後のは誰なの? ていうか、妹そんなに声高くない」
「え? 香里妹いるの?」
「だから水瀬のそういうところが笑いをわかっていないところなんだよ」
「あたしに妹なんていないわ」
 鋭く冷たい声だった。ツッコミの声とは全く異なっていて、頼んだものを運んできたウェイトレスですら動きを止めてしまうものだった。オレは何か言おうとするが、「あ……」という言葉以上のものが出てこない。代わりに沈黙を破ったのは水瀬だった。
「香里変だよ」
 ウェイトレスが運んできたイチゴサンデーに見向きもせずに水瀬は言った。
「変だよ」
「別に」
「最近変だよ。そうだよね、北川くん」
「へ?」
「ほら北川くんも変って言ってる」
 言ってねーよと言おうとしたが、軽口を挟めるような空気ではなかった。オレはウェイトレスにぺこぺこ頭を下げながら、どうしたものかと考え始める。しかし男のオレが割って入れる状況だとは思えない。
「こっち見てよ香里」
「え?」
 振り返った美坂は水瀬を見る。水瀬は立ち上がっている。
「わたしずっと思ってたんだよ。香里がもうずっと変だって。北川くんもわかるでしょ」
「いや、でもさ」
「北川くんは黙ってて! ねえ何かあったんなら言ってよ」
 難しい、難しいよ水瀬。
「友達でしょ、わたしたち」
 水瀬の声は途切れ途切れで、目が少し赤くなっているように見えた。オレは「まあまあ落ち着いて」と声をかけるが、その言葉は絶望的に届かない。これがアウトオブ眼中かと思った。空気が張り詰めている。
「今日だって、何かお話できるかなって思ってたのに」
「わたしなんかでも、香里の力になれることがあるかもしれないし」
「ね」
 しかし美坂は間髪いれず、「別に何もないわよ」と顔を背けた。
水瀬はそれを見て、ひゅうと息を吸い込んだ。刃物で空を裂いたような音だった。水瀬はオレに「北川くんごめんね。わたし帰る」と言い、鞄を持って店を出て行った。オレは水瀬の姿を目で追う。美坂を残して彼女を追いかけることはできなかった。窓ガラスの向こうに水瀬がいる。後ろ姿だった。彼女は一瞬こっちを見た。しかし相変わらず顔を伏せたままの美坂を確認すると、踵を返して走り出し、すぐにその姿は見えなくなった。
「なあ、美坂」
 と、オレが声をかけると、いきなり美坂は立ち上がって「ごめん北川くん。あたしも帰る」と言った。その声があまりに沈んでいることにオレは驚いてしまい、「ああ」としか答えられない。普段から美坂は、ふざけているときはともかく、静かな声を出す。しかしそのとき美坂が発した「ごめん北川くん。あたしも帰る」は鉛のように思い感情が含まれているように思えてならなかった。だからオレは「ああ、じゃあ、その、また明日な」としか言えない。「うん。じゃあね」と美坂はしぼり出したような別れの挨拶を残し、店を出ていった。
 オレは百花屋に残る。目の前には手付かずのイチゴサンデー、チーズケーキとホットココア、そしてオレが頼んだブラックコーヒーが並んでいる。「これ、オレが払うのかよ」。頭を抱えてしまう。こういう展開になるとは思ってもいなかった。明日オレは美坂にどう声をかければいいのだろう。水瀬については相沢に後で連絡をするとして、それよりも当面の問題は目の前の食い物、飲み物をどうすればいいのかということだった。オレはとりあえず、それらを自分の目の前まで寄せ、まずスプーンを持ってイチゴサンデーを一口、口にした。甘酸っぱい。今のオレのようだ。そのときカランカランと店の扉が開く音がした。反射的にそちらへ目をやった。
「え? 北川?」
「……相沢?」
「お前……これ……」
「え? あ、いや、これは違うよ」
「寂しいやつだな」
「ていうか、誰?」
 相沢は知らない女の子を連れている。おとなしそうな子だった。ケープの色から判断するに、下級生のようだった。相沢の隣というよりも、斜め後方に立っている。
「え? ああ、天野」
「天野? 天野さん?」
「はい」
 彼女は伏し目がちに頷いた。相沢たちはコーヒーとアップルティーを注文し、オレが一人で占領していた四人掛けのテーブルに座る。相沢はオレの向かいに、天野さんはオレの隣に座るが、座ったっきり会話を交わさない。どんよりと重い空気が場を支配している。
 その空気の中で一人ムシャムシャとスイーツを食らうわけにもいかんと思い、ホットココアを飲む。相沢たちも運ばれてきたコーヒーやら紅茶やらを飲み始める。オレたちはただずるずると飲んでいるだけだった。ホットココアを飲み終えたところで、オレは浮かんだ疑問を口にする。
「何の会合だよ」
「え?」
「え、じゃねーよ。あ、そういえばさ、美坂と水瀬がさ」
 とオレは身を乗り出して、ことの顛末を語って聞かせる。多少の誇張をしつつ、面白おかしく話してみたつもりだった。しかし相沢の表情はどんどん強張っていって、語り終えたところですっくと立ち上がった。
「俺帰るわ」
「お前もかよ!」
「名雪はああ見えてな、その、ああなんだ」
「まんまかよ!」
「じゃあな。あと、ビデオありがとな」
 相沢は鞄の他にオレが昼間渡した紙袋を持っていて、それをゆさゆさと揺らした。妙に堂々としていて、男らしかった。学校でも全く隠そうとせず、紙袋を机のフックにかけていた。
「お前それ鞄にいれとけよ」
「いいよ別にばれても」
「オレがよくねーよ」
「いいんだって、お前のせいにするから」
「だからオレがよくねえんだって」
 つまらなそうに机に突っ伏したまま答える相沢は猛者なのか阿呆なのか全くわからなかった。
 相沢がいなくなって、オレは天野さんと二人で百花屋に残っていた。しかも並んでいる。妙なことになってきた。さてどうしたものかと思い、とりあえず場を和ますかために「なあ君、こんな話があるんだけど」と得意のアメリカンジョークを始めようとしたところで、今まで無言だった天野さんが口を開く。
「あの……私も失礼します」
 オレは見送ることしかできなかった。空っぽのカップが二つ残っていて、伝票が一つ増えている。何てことだ。オレは現状をふっきるようにイチゴサンデーを再び食い始めた。やっぱり甘酸っぱかった。
イチゴサンデーとチーズケーキを食い終える頃にはすっかり日が暮れていた。最後に残ったブラックコーヒーを口にした。すっかり冷めてしまったブラックコーヒーは味気なく、オレは「あ、すいません、お水ください」とウェイトレスに声をかける。
 頭の中で二枚の伝票に記載されている金額を合計しながら、オレは閑散とした商店街を眺めていた。


 何か硬いもので殴られたのだとわかったとき、私の身体は冷たいリノリウムの床に沈んでいる。呼吸が止まる。吸うことも吐くことも許されない状況を私は十八年というこれまでの人生において、初めて経験する。うつ伏せになって地べたに這いつくばる私の頬や髪、制服にほこりやちりがまとわりつく。咳き込む。私はそのまま動けずにいて、極めて狭い視界の中で見慣れた黒い結髪が揺れる。馬のしっぽのように。私の頭の中は想像もしたくないような真実であっという間に埋め尽くされる。どうして。意識が薄くなるその中で私は「どうして?」というかすれた声を聞いた。確かに聞いた。
 目覚めたとき、私は変わらぬ姿を晒している。舞。気絶する前に見えた光景がよみがえる。舞。彼女が佇んでいる。「どうして?」。大アリクイのぬいぐるみと添い寝しているかのように力なく横たわる私を見下ろし、悲しそうな声で呟く。「どうして?」。しかし周囲を支配しているのは沈黙だった。どちらの「どうして?」にも答えはない。私は立ち上がろうとするが、驚いたことに身体は硬直しきっていて、ちっとも動こうとしない。壁際まで這い寄って、寄りかかるようにしてどうにか立ち上がる。背中が曲がっていることにそのとき気づく。不思議なことに、痛みはほとんど感じない。ただ感覚というものが消え失せている。触れてみても、そこから背骨は失われてしまったかのように感じられる。すっぽりと抜け落ちている。
 非常口を示す緑色の灯りが不気味に輝いている。私は壁に縋っている。冬の冷気をたっぷりと吸い込んだ壁に触れると、私の体温が急速に失われていく。肉体ごと吸収されてしまいそうな錯覚を抱いた私は両手を離し、壁との間に距離をとる。それはわずか数センチメートル程度のものだったに違いない。私は自分を支えられない。一人の力だけでは立っていることすらできないのだと知った。
 どれだけの時間が経過したのかはわからない。私はアリクイのぬいぐるみから遠く離れて、手すりを命綱のようにして階段を上っている。舞の行き場は一つくらいしか思い浮かばなかった。仮に校舎の外に出てしまっていたとしたら、ひょっとしたら私にもわからないどこかへ行ってしまっているかもしれない。しかし校内にいるのであれば、行きつく先はあの踊り場くらいだ。私はリボンを解いて、背中から胸元にぎゅっと巻きつけている。少しだけ呼吸が楽になったような気がしたけれど、それはただの気休め程度のものなのかもしれない。さっさと病院へ行く方が、自分の身体にとっていいことであるとはわかっている。しかし私は彼女に会わないわけにはいかなかった。私を待っているかもしれない。そんな甘美な想像が血液を今も全身に巡らせている。
 踊り場に舞の姿はなかったけれど、彼女がここにいたという痕跡が確かにあった。べったりと床を染めているのは間違いなく血液だった。見たこともないくらいの量だった。私はその血だまりの中で転倒する、水たまりで遊ぶ子供たちのように。血の匂いが鼻腔をくすぐる。そして風を感じる。屋上への扉のガラスが割られている。わずかに窓枠に残ったガラスに赤黒い血液が付着しているのが見える。私はよろめきながらその扉を開けようとする。しかし鍵がかかっていて、ちっとも動こうとしない。私は意を決して、本来ガラスがあるべき空間に身体をねじ込んだ。おそらく私は自分の身体の数箇所をそのとき切った。気持ちの強さとは裏腹に全身の感覚は鈍い。外気の冷たさを血でぐっしょりと濡れた全身に感じてもなお鈍く、老朽化したフェンスに寄りかかるように立っている舞を見つけたときも、私の意識は散漫だった。だから私は失った声を取り戻せない。舞が私を見ても。彼女は大きな剣を首筋にあてがっていた。敗れた制服から腹部が露出していたのだけれど、そこは黒っぽい血液でいっぱいで、色気はまったく感じさせない。それが金色に輝く月の下で、私に見えた舞の姿だった。
 左耳のピアスが呼吸のたびに揺れている。舞と私は彼女の名を呼ぶ。でも喉はかすかに震えるばかりで、彼女までの距離一〇数メートルを埋められない。ただ視線が交錯している。舞、佐祐理、そんな言葉が音もなく、空気を震わせることもなく、一瞬交わされる。
 次の瞬間、舞は首筋にあてていた剣をひいた。そのとき世界はモノクロームだった。いつからか隠れた月はもう私たちを照らさない。真夜中、雪が降り始めている。暗がりとのコントラストが私の瞳には何よりも鮮やかに映える。私は一歩手前に出る、たった一歩、数十センチメートルの前進、上履きのゴム製の靴底がとんと音を立てる、地面を踏んだときに。そのわずかな振動が彼女に何らかの形で伝わったのだろうか、その一歩の動作が終わったとき、舞は剣を取り落とす、力なく。からんと音がする。そして首筋から鮮血が噴き出し、世界の色素が加速的に増加する。
 私たちは幸福だった。四つの瞳に映る景色は均一にセピア色であったとしても、私たちは幸福であったと断言できる。目前で繰り広げられた凄惨な光景は私に何を与えたかったんだろうと今でも考えることがある。しかし回答を得られないまま、私は今という時間を、今、確かに生きている。舞の今はとっくのとうに失われた。真っ赤な血液を屋上の地面や校舎の壁、中庭に撒き散らしながら。
 首筋をかっさばいた舞は最期のとき、私へと手を伸ばそうとしたように私には見えた。「舞」。私は確かに彼女の名を呼んだ。しかしその声ははたして彼女に届いたのだろうか。舞は泣きそうな顔をしていた。しかし最期の瞬間、無理矢理に笑った、そう見えた、不器用に笑ったように、私には見えた。
 それは決して遠くない過去、あの日山犬に腕を噛まれていたとき、声をかけた私に見せた困ったような表情とよく似ていた。あのとき私と同じように興味本位で集まってきた生徒たちの中で、舞は悠然と、まるで犬に話しかけているかのように腕をさしのべていた。私は最初、彼女がクラスメイトの川澄舞であるとはわからなかった。彼女はうずくまっていて、その表情は窺い知れなかった。ただ背中が見えていただけだった。
 私はその背中へ声をかける、「何をしてるんですか」と。その声はきっと微細な震動を有している。しかし確かに届く。驚くようなそぶりはなく、舞はゆっくりと振り返る。「え?」というそっけない答えにはどこか憂いが込められていて、私は好奇心で近付き声をかけたことを後悔する。しかし私たちはお互いの顔を確認すると、「川澄さん」、「倉田さん」と名字を呼び合う。同級の、しかしあまり接点のない二人だった。私の席の一つ前に舞は座っていた。授業中や休み時間に垣間見えた背中は直前に私に見せていたものとは異なり、矮小に縮こまっていたような気がする。「手」、「え?」、「手、痛そうだね、あはは」、「あ、うん、でも平気」、そのとき私はとっさに鞄から弁当箱を取り出す。自分のためだけのささやかな弁当箱、それは私のひそやかな反抗のしるしでもあった。「え?」と舞が問う。その言葉は母音だけで発声できるこの世でもっとも短い疑問系、舞はたったそれだけの発声に複数の意味を込める。私はほとんどファーストコンタクトに近いその瞬間に彼女の特徴を直感的に把握し、「いいよ」と答える。「何してるの?」、「いいの?」、「大丈夫なのに」、「ごめんなさい」、そんな意味を含んだ「え?」に私は「いいよ」とだけ答える。舞は宙ぶらりんになっている腕でしっかりと小さな弁当箱を掴み、噛まれていた腕をすっと引く。戸惑いの表情を見せる山犬にウインナーを突き出す。犬はそれをぱくりとくわえ、むしゃむしゃとあっという間に平らげる。「お腹減ってたんだね」、そう言うと舞は言葉ではなく、ぎくしゃくとした笑顔を私に見せる。どこからか男性教諭の怒号が聞こえてくる。そのとき私たちは顔を見合わせる。走り寄って来る数人の先生や騒動が終わりに近付いたために散り始めた生徒たちの中で私たちは笑っていた。お互いにわずかに肩を揺らすくらいの小さな笑いは私たちのその後の日々を表している。
「いいよ」
 私は誰もいなくなった屋上でそう呟いた。フェンスは老朽化していた。全身を支えられるくらいの力はすでに血液といっしょに舞の身体から失われていて、彼女はフェンスに数十キロの体重を預けざるを得なかった。みしみしとフェンスが軋んだかと思うと、次の瞬間には舞の身体は宙にあった。首筋や腹部から血を垂らしながら、雪の積もった中庭へと落下していった。ただ落ちるだけだったとしたら、舞は助かったのだろうか。しかし、きっと彼女はもう事切れていた。私はよろめきながら屋上の縁へと歩み寄った。ほとんど這っているようだった。恐る恐る遥か下の光景を見た。無茶な姿勢に捻じ曲がった舞が横たわっていて、半紙に墨汁が広がるように血液が降り積もった雪を染めようとしている。
 私はその場にへたり込む。今夜私がこの学校に来てから今に至るまでに起こった出来事を受け止められずにいる。ただ眼下で眠る舞の亡骸だけが現実だった。行かなくちゃ。そう思った。舞の元へ……でも何をしに?
 踊り場に戻るだけで数分を要した。そこは記憶の中の私たちで埋めつくされている。しばし私はその場にとどまる。「おいしい?」、「うん」、「あー、よかった」、「とてもおいしい」、「うん」。そんな会話が聞こえているような気がする。「佐祐理」、記憶の中の舞が私の名を呼び、「ごめんね」と続ける。そんなことない。私はのそのそと舞へ近付こうとする。そのとき、私は何もない空間を踏んでいる。そのまま階段を転げ落ちる。頭をかばうので精一杯で、受け身をとれずに身体中をしこたま打ちつけ激しく咳き込む。滑ったのだった。まだ生温い血だまりに足を滑らせ、私は十数段の階段を無抵抗に転げ落ちた。しばらく咳は止まらず、ぜえぜえと肩で息をする。身体を動かそうとしても手首がかろうじて起き上がるくらいで、鈍痛が私のすべてを覆っていた。全身の感触はもうすでに大部分が失われていた。涙がこぼれた。仰向けに横たわる私の目からこぼれる涙はこめかみを伝って、埃や塵でぼさぼさになった髪の毛の中へ消えていった。
 その仰向けの姿のまま、もう私には何もできなくなってしまったと確信したときの虚脱感を私は今も抱え続けている。病室の真っ白いベッドでそのときの同じような姿勢で横になっている。ただ涙はない。私は首だけを動かして、カーテンの隙間に広がる青空を眺める。
 それは舞の血で全身を濡らし、私たちだけの場所だった踊り場をただ見上げることしかできなくなった私の意識が途切れる前に、最期に認識した夜空の狭さと似ている。開けっ放しの鉄扉の向こうに広がる夜空が私の瞳にはひどく不自由に映っていた。
 私はベッドの枕元にあるいくつかの引き出しがついたテーブルに置かれた花瓶を見る。その脇に私のピアスがちょこんと置かれている。
「ねえ舞これがいいな」
「うん」
「私もつけるからお揃いだよ」
「でも、痛そう」
「あ、そうだね、でも平気だよ」
「うん」
「耳たぶだし」
 私は舞の柔らかい耳たぶをわざとらしく撫でる。舞はくすぐったそうに目を細める。そして蝶々が形作られたピアスを舞の耳にあてがってやる。柔らかい髪の毛をかき上げ、店内の至るところにある鏡でよく見えるようにする。舞はぼおっとそれを見る。「ほら、似合う」。私はそう言って笑う。「似合うよ、舞」。
 私はピアスに手を伸ばす。銀色の光が半透明の花瓶に乱反射している。舞の耳で輝いていたものと寸分違わぬそれを掴み、まるで彼女を抱き締めるようにして私は眠る。


 水瀬家が寝静まった真夜中に、俺はひっそりと部屋を抜け出す。抜き足差し足で目指す先は居間だった。この家にはビデオデッキは居間にしかなかった。俺は紙袋とヘッドフォンを手にしている。居間に着くとテーブルの下に隠すように紙袋を置き、ヘッドフォンの端子をテレビの出力端子に接続する。テレビをつける。NHKが映る。放送は終わっているのだろうか。どこかの自然の映像にあわせて、軽やかなポップスが流れている。夜の寒さに身を震わせると、ヘッドフォンがずれた。
 片方のイヤホンが耳から外れて、音が漏れている。演奏と歌声が俺の耳から、”as if to knock me down , reality came around”、逃げていく。背中に感じる雑草は冷たいが優しく、俺を包み込んでくれているようだった。風が吹くたびに俺は身体を震わせる。寒いのは苦手だが、この場所は嫌いではなかった。あの少女が消えた丘、俺は寝転がっている。放課後、人の姿は俺以外にはない。制服姿のまま、汚れるのも厭わずに寝転がっている。目の前で消えてしまった少女のことをただ考えている。
 二週間くらい前のことだったが、今となってはあの日々が現実であったかどうかさえも危ういところだ。煙のように消えてしまった彼女が嘘から出た実であったとしても、ことによると不思議ではないのかもしれない。俺はイヤホンから流れている曲にあわせて口笛を吹く。獣の鳴き声のようにこの丘に響く。ものみの丘という名前だという。由来なんて知るわけもなかった。おれは両手を伸ばして大の字になった。左手にぶつかるものがある。何かと思えば紙袋だった。
「最近元気ないじゃないの相沢ちゃん」
 休み時間に後ろの席から肩を叩いてきたのは北川だった。人懐っこい笑顔を浮かべている。一度振り返ってみてからすぐに何も言わずに前を向くと、「おいおいおい!」と突っ込まれる。
「おい、相沢」
 北川は声を落とす。先程までの能天気さはなく、もう一度振り返ってみると、笑顔を浮かべながらも瞳は真剣そのものだった。「何だよ」と面倒くさそうに言うと、「お前何か悩んでんのか」と身を乗り出してくる。
「抱え込むのは良くないよ」
「あ、うん。わかってるよ」
「うん。え? じゃ、どうしたの」
「何かさ」
「うん」
「あ、何か、チンコ勃たない」
「へえ、そうなんだ。え? あ、はあ?」
 小声で言う俺につられて、北川の声も自然と小さくなる。休み時間に密談をするのは逆に目立って仕方がないが、たまたま名雪も香里もいないのでいい機会であるように思えた。俺は続ける。
「マジで言ってんの?」
「マジだよ。夢精したもん」
「え、マジで? お前、え、居候だろ?」
 待てよって俺は言う。彼女の上着を掴もうとするが、それは軽やかに俺の指先を滑る。
「居候。うん」
「問題だろそれは」
「しょうがないだろ。俺だって好きで夢精はしないよ」
 最後に勃起したのはいつだったっけ? あの夜、ものみの丘で。
「そっか。よくわかんないけど、大変なんだな」
「大変なんだよ」
「まあ、そういうことならオレに任せろ」
「うん。え? え?」
 振り返った彼女はゆういちと俺の名を呼びながら、不安そうに歩み寄ってくる。俺は彼女を抱き締める。体温が驚くほどに高い。熱そのものを抱いているようだ。俺は彼女の髪の毛を指ですいて、外れそうになっていたリボンを結び直す。
「オレに任せとけって」
「……何かわかんないけど、任せた」
 次の日の昼休み、名雪と香里が便所に向かったとき、すかさず北川は俺に紙袋を渡す。いい笑顔で言う、「相沢、これを見て元気を出せ」。俺の肩を叩いて続ける。
「オレのコレクションだ。自信作ばかりだ」
「何で洋ピンばっかりなんだよ」
 俺は真夜中の居間で頭を抱える。あまり好きな世界ではなかった。能天気な音楽が流れ続けることに耐えられなかったからだ。まるでスポーツみたいだった。下半身は全く反応しない。リモコンの停止ボタンを押し、俺はソファに身体を預けた。昼間、あの丘でそうしていたように。
俺は大の字になって寝転がっている。ウォークマンのイヤホンは両方とも外れて、聴こえるポップソングは不完全なものとなっている。しかし俺は気にせずにそのままの体勢でいる。全身から力を抜いている。大地の柔らかさに抱かれている。
「家なんて見あたらないのに…ここに長いこと居たような気がする…」
 彼女の言葉を思い出す。俺はその想いに軽くシンクロしている。こうして身体を投げ出しているときが今の俺にとって最もリラックスできる瞬間だった。それはここを家として認識しているからなのかもしれなかった。
「相沢さん」
 声がする。俺は身体を起こす。天野美汐が立っている。彼女とは奇妙な縁があるように思えてならない。俺と同じような経験をした少女。
「ここにいるとさ、何か気配がするんだ」
「気配」
「うん」
「気配ですか」
「祐一」
 気配は感じていた。だから俺は驚きもせずに「ああ」と答えた。
「何してるの」
「いや、何か、別に……何してんの?」
 俺からみれば、名雪がこんな遅い時間に起きていることが驚きだった。しかも寝惚けているわけではなく、名雪の喋り方は極めて日常的なものだった。
「あ、わたしトイレ」
「うん。あ、そうなんだ」
「うん」
 名雪は北川コレクションの紙袋に気づき、それを何気ない仕草で摘み上げた。中身を確認する。俺はコップに注いだ水を見ていた。水面が揺れている。ものみの丘の芝が風に身を任せているようだった。
「相沢さん」
「なあ天野、コーヒーでも飲みに行かないか」
「え?」
「暇なんだよ。何かおもしろい話の一つでも聞かせてくれよ」
「でも」
「奢るからさ」
 俺たちはものみの丘を去る。そのとき鈴の音が聞こえたような気がして、俺は足場の悪い山道の途中で振り返る。天野には聞こえなかったらしく、不思議そうな顔をしている。この場所では風が吹くと、それが鳴き声や鈴の音のように聞こえるときがある。それはおそらく俺の思い込みなのだろう。
 しかし俺はほとんど皆無に近いとしても、可能性を少しくらいは抱いていたかった。北川からビデオを借りたのも、同じような理由だったのかもしれない。名雪がそのビデオを手にとって、ラベルを読んでいる。運がいいのか悪いのか、ラベルには手書きで『至宝』とか『玉手箱』とか『名峰』と書かれているだけだった。
「祐一、これ」
「ああ、それ北川の」
「あ、そうなんだ。北川くんの」
「ああ、うん」
「見てたの?」
「え?」
「ビデオ」
「あ、ああ、そう。見てた」
「うん」
 名雪は全く気にしていないようだった。興味がないと表現した方が適当かもしれない。ソファに座ったままの俺の隣に腰を下ろす。両足を抱えてうずくまる。無言の時間が続く。空気が張り詰めた気がした。
 気がつけば、隣で名雪がしゃくり始めている。うずくまったまま、俺に体重を預けてくる。「名雪?」と俺は口にする。何かを訊こうとしたわけではなくて、驚きが生んだ疑問系だった。「名雪?」。名雪は何も答えずに首をふる。俺は百花屋で北川に聞いた出来事を思い出す。急いで帰宅してみたものの、名雪に変化は見られなかった。俺が鈍いだけなのかもしれないが、いつもと変わらぬ名雪であるように思えた。ただ早く寝てしまった。俺は姿勢を正し、名雪から少し離れる。
「祐一」
「どうしたんだよ」
 いきなりだった。名雪は唐突に俺の首へ手を回し、唇を重ねてきた。首を抑える力は弱々しく、いつでも振りほどけそうだったが、その弱さ故に俺は彼女の好きにさせていた。すぐに名雪は唇を離し、俺に抱きついてくる。そして子供みたいに泣きじゃくり始めた。俺の寝巻きが涙や鼻水で湿っていく。言葉はない。ただ嗚咽だけが漏れていた。俺は彼女が落ち着くまで、そっと抱き締めてやる。背中をさすってやると、嗚咽のリズムが整い始める。やがて俺は手のひらを背中に添え、名雪の身体をゆっくりと離した。
 目が合う。俺は黙って首を振った。名雪は鼻を啜り、目を擦りながら、うんと頷いた。
「名雪」
「うん」
「明日学校だし」
「あ、うん。そうだね」
 俺は立ち上がって北川コレクションを手にする。紙袋ががさがさと音を立て、静かな夜によく響いた。
「おやすみ」
「うん」
 部屋に戻る。ほんの一瞬だけ振り返ったが、名雪は放心したようにその場にとどまっていた。真っ暗な室内の中、俺は下半身に触れる。もうずっと萎えたままだった。発作的に北川コレクションを床に投げつけようとしたが、寸前で思いとどまって机の上に放り投げる。
俺は枕元に置いておいたウォークマンを手に取る。イヤホンを耳にあわせながら、リモコンの再生ボタンを押す。CDの回転がウォークマンの側面から感じられる。曲が始まる。横になって胸の辺りまで布団をかぶる。俺は天井を見つめている。俺の耳元で、“Alone again, naturally. Alone again, naturally.”、ギルバート・オサリバンが歌う。



 八月に入ったばかりの空はどこまでも青く、それを見上げる北川は眩しさに目を細めている。教室内に人の姿はまばらで、北川は机に座って補講と補講に挟まれた束の間の休息を弄んでいた。
「そういえばさ」
「うん」
「ノストラダムス来なかったな」
 窓の外へ目をやったままの北川と教科書を睨みつけている祐一はお互いぽつりぽつりと声を発す。
「信じてたのかよ」
「ちょっとね」
「……アホがここにいるよ」
「ちょっとだって。非常食とか買い込んだくらいだって」
「結構信じてんじゃねえか」
 学年が上がると同時に行われたクラス替えの結果、祐一と北川は同じクラスになったものの、香里と名雪はバラバラになった。二月中旬からぎくしゃくし始めていた二人が離れ離れになったのでは、そのまま関係が消滅してしまうのではないかと春先の北川は勝手に案じていた。
「でもあれだよな」
「ああ。え? 何?」
「恐怖の大王の代わりに劣化ウラン弾が降ったよな」
「あれ結構前だろ」
「七月三十一日は旧暦じゃ六月だぜ」
「何でノストラダムスが日本の旧暦気にするよ」
「ああ、そりゃそうだ」
 半分ほど開けられた窓から弱々しく吹き込んでくる夏の風が祐一の前髪を揺らす。祐一は教科書を閉じ、北川と同じように机に座った。校庭では陸上部やサッカー部が活動している。名雪の姿がある。夏休み前の大会で引退いたものの、今でも受験生でありながら時折顔を出している。妙な動きをしては、回りの後輩たちに止められている。何だあれはと祐一は思う。
「なあ」
「何だよ」
「美坂と水瀬ってさ」
「うん」
「何で仲直りできたの? お前プロデュース?」
「俺は何もしてねえよ。拳で語り合ったんだよ」
「何だよそれ。意味わかんね……お前今ホクロ数えたろ」
「はあ? 数えてねえよ」
「ホントかよ」
「ちょっとしか数えてねえよ」
「数えてんじゃねえか」
「顔のだけだよ」
「大部分だろ! 顔だけ数えりゃ充分だろ。やめろよ。増えるから」
「え? 何、数えると増えるの?」
「うん。あ、いや、知らないけど」
「……」
「……」
「増えねえじゃねえか」
「だから数えんな!」
 ツッコミ代わりに軽く蹴飛ばそうとする北川をひらりとかわし、祐一はぴょこんと机から飛び降りた。鞄の中から財布を取り出して、「ちょっとジュース買ってくる」と言って、小走りで教室を出て行く。北川は黒板の真上にある掛け時計を見ながら「おいもうすぐ始まるぞ」と声をかけるが、聞こえているのかいないのか、祐一は無反応で教室を出て行った、

 自動販売機は学食に入ってすぐのところにある。祐一は小銭を取り出し、少し考えてから五〇〇ミリリットルの烏龍茶のボタンを押した。ゴトンと音がする。細長い缶を掴むと、冷たさが手のひらから広がった。予鈴が鳴った。午後からも補講が二コマある。憂鬱だった。
 階段にさしかかったところだった。私服の女性が階段を上っていたが、怪我でもしているのか、手すりに掴まってよじ登っているように祐一には見えた。しかも私服というだけでも浮いているのに、花束を持っていた。真っ白い百合の花束だった。
 彼女の足取りは軽やかとはいえず、時折バランスを崩しそうになる。たまりかねた祐一は声をかける。
「おい、あんた」
「ふぇ?」
 その声質は思いのほか幼かった。彼女が振り返ると、肩の先まである髪の毛が揺れた。一瞬逆光になって、彼女の顔がよく見えなかった。
「大丈夫か?」
「え? あ、はい、大丈夫ですよ」
 少しも大丈夫には見えないので、祐一はとんとんとんとリズミカルなステップで階段を上り、彼女の手にあった百合の花束を指差し、「持とうか?」と言う。
「え? でも」
「困ったときはお互い様ですよ。ところで、あの、教育実習生か何かで?」
「……OBです。倉田佐祐理っていいます」
 ボソっと言った。どこか陰のある物言いに、祐一はただ「相沢祐一です」とだけ答えた
 階段の先には踊り場があった。それなりのスペースがあるが、最近は人の出入りがないためか、床や手すりに埃がたまっていた。佐祐理はそこで立ち止まった。懐かしそうに目を細める彼女を見て、おそらくは在学中の思い出の場所なのだろうと祐一は考える。
「外は暑いかもしれないですね」
「いや普通に暑いでしょ」
 と言いながら、祐一は鉄扉の取っ手を掴む。真夏の熱がそこにこもっていて、一瞬手を離してしまう。しかし瞬間的に垣間見た佐祐理の瞳は恋人を待ちかねているような期待に満ちていて、すぐに気を取り直して扉を押し開けた。真っ昼間でありながら空気がどこか淀んでいるようだった踊り場に陽光が降り注いだ。二人は手をかざして、目を細める。
 やがて瞳を開くと、そこはただの屋上だった。アスファルトのタイルは至るところに傷があり、剥がれていた。佐祐理は一歩一歩を慎重に踏み出している。彼女がびっこをひいていることに祐一は気づく。左足が思い通りに動いていないように見えた。
「佐祐理さん」
「はい?」
 彼女の後ろを歩く祐一の声に佐祐理は振り返る。まただ。流れるような髪の毛には曇りがなく、柔らかく揺れた。
「これ」
 祐一は花束を手渡す。彼女が持つと、その花は余計に上品に見えた。佐祐理は片足を引きずるようにして、屋上の縁へ近付いていく。祐一もゆっくりとその背中を追うが、彼女が歩みを止めようとしないことに不安になる。
「ねえ、ちょっと、どこまで行くんですか」
「あそこです」
 彼女が指差す先に一面だけ、真新しいフェンスがあることに気づく。他のものとは違い、錆びも劣化もなく、綺麗な青緑色をしていた。彼女はそのフェンスの前に立ち、片手で触れた。
 祐一は思い出す。何ヶ月か前に、ここから飛び降りた女生徒がいると誰かに聞いた。その頃祐一は祐一でそれどころではなかったので全く興味を抱けなかったが、そのとき飛び降りる様子を見ていた女生徒がいたとも聞いた。気がした。
「ねえ佐祐理さん」
「そうですよ」
「じゃあ、ここで」
「はい」
 しゃがんだ佐祐理はそのフェンスの真ん前に花束を置いて、手を合わせた。祐一は瞳を閉じて、俯いた。沈黙の時間が流れる。やがて小さな嗚咽が静寂を破る。佐祐理が肩を震わせている。
「舞はここで」
 祐一は彼女に近寄り、手を取って立たせてやる。柔らかい手のひらには微熱が感じられた。「ありがとうございます」と言い、フェンス越しに懐かしそうに遥か下の地面を見下ろす。
 舞というのが死んだ女生徒なのだろう。しかし佐祐理はそれ以上は何も言わず、祐一も聞こうとしなかった。彼女の佇まいを見ていれば、おぼろげながらも気持ちは理解できた。祐一も一緒になって地上を見下ろした。ものみの丘から町並みを見下ろしたときのような気持ちになれた。また無言のときが流れる。
 ふと祐一は輝く何かの存在に気づく。中庭に植えられている木々の周りは草むらになっているが、その中にきらきらと涙のように輝いている何かがある。祐一は目を凝らすが、それが何であるかはわからなかった。ただ「何だあれ」と口にした。
「ふぇ?」
「いや、あそこ」
 祐一が指差す先を佐祐理が見る。しばらく目を凝らしていたが、やがて光を見つけると、「あ!」と声を上げた。
「え? 何?」
「……ピアスだ」
「は? ピアス?」
「ピアス。蝶々の」
「……あんた目いいな」
 踵を返して走り出そうとするが、タイルの切れ目に足を取られて転倒する。慌てて祐一が抱き起こすと、「痛いです」と涙目で言う。
「そりゃ痛いだろうな」
「あははは……」
「肩貸すよ。足悪いんだろ」
「あ、はい。その、ありがとうございます」
 二人は階段を下りる。肩を貸すといったものの佐祐理は階段の上り下りに慣れているようで、両手が自由になるのであれば、特に辛いこともなさそうだった。ただ駆け下りるわけにはいかず、やはり一段一段をしっかり踏んでいる。「階段……下りれた」と一階に辿り着いたとき、佐祐理は呟いた。
 重い扉を開くと、そこは中庭だった。佐祐理はきょろきょろと周囲を見渡しながら、屋上から見えた光を探す。茂みの中に頭を突っ込んで、「あ」、「あ」、「あー!」と声を出している。祐一は一緒には探さずにただ彼女の様子を見守っている。やがて茂みの小枝に引っかかって彼女のスカートがめくれる。下着が丸見えになる。しかも下着の生地が尻に食い込んでTバックのようになってしまっている。
「……エロい」
「ふぇ?」
「あ、いや、佐祐理さん、スカートめくれてる」
「え? ええ?」
 驚いて臀部へ手を伸ばした瞬間、彼女は体勢を崩して木の根元へ倒れ込んだ。そして「あった!」と言った。祐一はすかさず駆けつけ、彼女を立ち上がらせる。白を基調に重ね着しているキャミソールとブラウスが土や葉の緑で汚れてしまっているが、彼女の小さな手のひらには言った通り町長がデザインされたピアスが乗せられていた。
 佐祐理は何も言わずに髪をかき上げる。右耳に全く同じデザインのピアスが刺さっている。
「同じなんだ」
「お揃いなんです。舞と私のです。あのとき、耳から外れて、ずっとここで」
 そしてわっと泣き始める。草むらの中で、祐一は彼女を見守っている。彼女が落ち着いてから、二人は中庭から校内へ戻ろうとするが、すっかり姿は汚れてしまっていて苦笑する。扉を閉めたところで「相沢」と声をかけられる。
「北川」
「お前何してんだよ」
 佐祐理を見て、続ける。
「変態が!」
「変態じゃねえよ。むしろまっとうなことをしたよ」
 佐祐理は泣きながらも笑顔を作って、「ありがとうございました、祐一さん」と言った。「ほら」と胸を張る祐一だが、北川は「はいはい」と相手にしない。カチンと来た祐一は今までの出来事を語り始めるが、聞き終えるなり北川が言う。
「お前そんなことより補講」
「あ、忘れてた」
「行くぞ」
「行きたくねえよ」
「オレだって行きたくねえよ」
「サボらねえ?」
「そう言うと思った」
 と北川は鞄を投げてよこす。祐一の鞄だった。
「え?」
「たまにはいいんじゃねえの」
 祐一と佐祐理の頭からつま先までを見て、「何か汚ねえし」と笑う。
三人は廊下に汚れが移らない内に、急ぎ昇降口まで移動した。祐一たちはローファーに履き替え、佐祐理は借り物のスリッパを元の場所に戻し、スニーカーを履く。
 昇降口を抜けると、佐祐理は歩みを止め、先程からずっと握り締めていた光にピアスをかざした。かすかに血のようなものが付着していた。佐祐理はそれを指でこすって拭い取る。蝶々のピアス。私はこれを自分の身体に埋め込もう。そう考える。
「佐祐理さん?」
「あ、え、はい?」
「どうしたの?」
「いえ、このピアスを大事にしようって思って」
 また少し声が震え始めた佐祐理を気遣い、二人は何も言わずに頷く。
 そのときだった。「待ってー」と名雪が三人を追いかけてくる。
「水瀬」
「何だ。どうしたんだよ」
「祐一、北川くん、えっと、え?」
 名雪は佐祐理を見て、目をぱちくりさせる。
「誰?」
 首を振る。
「誰でもいい! 見てて祐一、北川くん!」
名雪は意を決したように息を吸って、「コマネチ!」と叫びながら両手で股間の辺りをV字に切った。キレのあるコマネチだった。
 しかし、そのキレの良さとは裏腹に、その渾身の一瞬は沈黙のみを生んだ。
祐一が呆れたように言う。
「名雪、いいコマネチだったけど、今そういう空気じゃねえだろ。台無しだよ……台無しだよ!」
「え? え、え、うそ、どうしよ」
「そのリアクションもダメだ。北川やってやれ。こういうときはどうフォローすればいいんだ」
 北川は咳払いをしてから口を開いた。
「あ、お呼びでない? こりゃまた失礼しました」
「それだよ」
 祐一と北川はハイタッチをしながら、ゲラゲラ笑う。名雪は呆れ顔で二人を見ているが、やがて同じように笑い始める。通りすがりの生徒たちが不審そうに横目でちらちらと気にするが、関わりあいにならないほうがいいとばかりに足早に去っていく。
 佐祐理は左耳に開けようと考える。蝶々が両耳にあると思えば、少しだけ身体と思いが軽くなってくれるような気がした。今この瞬間に勢いで穴を開けてしまいそうだったので、誰にも見られないように軽い口付けをして、スカートのポケットに落とした。


(了)

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