雪が降っていた。
 重く曇った空から、真っ白な雪がゆらゆらと舞い降りていた。
 冷たく澄んだ空気に、降ってきた雪が溶けた所為でまるで天露に濡れたかのような茶色い草。
「……」
 そんな中をぼくは仏頂面で歩く。
 歩き続けてしばらく。
 急に草や木々がとぎれ開けた場所にでる。
 そこに目的の相手がいた。
 何をするわけでもなく、座り込んだままぼーっと空を見上げて動かない。
 時折鼻や尻尾を動かしているのを気付かなければ、生きてるのか疑う奴がいたっておかしくないほどだった。
「首尾はどうだ?」
「あ、お兄ちゃん」
 ぼくの声に反応して、少し小柄な体躯の狐がくるりと振り向く。
 お兄ちゃんと呼ばれた事からわかるとは思うが、こいつはぼくの血を分けた妹だ。
 ちなみに妹はみんなから『丘の子』と呼ばれている。
 これは名前という物ではなくて通称である。
 ぼくらはニンゲンのように名前を持たない。
 だから体の特徴や匂い、などで適当な通称を付けるのだ。
 ちなみに妹はいつもこの丘にいるから『丘の子』と呼ばれている。
 もっともぼくは通称ですら呼ばないけど。
 なぜなら、そういうの無しで話をする時はたいてい妹にむけてだからだ。
 どうしても呼ばないといけないときは『妹』で済ましてしまうって所も大きい。
 そんなわけでぼくらはずいぶんと仲の良い兄妹だねとよく言われる。
 でも、仲が良い以外にも理由はちゃんとあったりする。
 それは普通とは違い双子なのだ。
 まさに片割れとか半身とか言っても良い存在である。
 親が既に他界してしまっている事も関係して、ともかく近すぎるのだ。
 そのため相手をあらたまって呼ばないといけないほどの意識がない。
 だから妹を妹としてしか呼ばないように、こいつもぼくのことをお兄ちゃんとしてしか呼ばないのだ。
 ちなみに話は変わるが、双子というのはぼくらの間ではかなり珍しかったりする。
 三つ子になるとここ50年はうまれてないと聞いた事があるぐらいだ。
 もっとも、他の山に住む狐たちは変わっていて、双子や三つ子をばんばん生むらしい。
 そのことを考えると、もしかしたら少数派であるぼくたちの方こそ変わっているという言葉がふさわしいのかも知れない。
 まぁ、でもどっちがどっちだろうが大差ない事だ。
 だいたい、他の山に住む狐たちが変わっているのはもっともっとあるのだし。
そもそもあいつらとは、話すら通じない。話すことが出来ないんじゃないかとも思う。
 さて、そんなどうでもいい事は置いておいてぼくの方へと振り向いた妹はかなり不機嫌そうな顔をしていた。
 聞くまでもなく相変わらずらしい。
 もっとも、ここ数年ずっと毎日こうなので今更何とも思わないが。
「ほら、今日はうさぎだ、好きだろ」
 そう言いながら僕は先程狩ってきたウサギを妹の前に置く。
「うん」
 返事はしたが、うさぎをちらっと見ただけで、すぐ視線を戻してしまう。
 ぼくはため息をつきながら、その横にどかっと座り込む。
「もう、いいかげんに……」
「聞き飽きたわよ」
 言い終わる前に、一刀両断。
 これも相変わらずだ。
 まぁ、こうなると分かっていながら言わずにはおれないぼくが悪いのかも知れない。
 いや、ぼくが言う事は正しいはずなのだから、悪いのは諦めだろうか。
 現状ではどっちでも大差ないんだけど。
 それからしばらくぼくたちはぼーっとたたずむ。
 もちろんぼーっとしているのは、ぼくだけなのだろう。
 その証拠に妹は天を仰ぎ、鼻をひくひくと動かしている。
 別に鼻がむずむずするとかクシャミがでそうというわけではない。
 風に乗ってやってくるニンゲンが暮らす集落からの臭いを探っているのだ。
 そうなのだ。
 この丘はそうやってヒトの臭いが漂ってくるのだ。
 もちろんヒトの臭いというのも色々ある。
 冷たかったり温かかったり、優しい臭いだったり気持ち悪くなるような臭いだったり。
 もちろん、臭いに温度とかあるわけではないけれど、まぁ、そんな風にいうのが一番しっくりくるのだ。
 もっとも、妹はその臭いを楽しんでいるわけではない。
 臭いで一人のニンゲンをずっとずっと探している。
 朝から晩まで。
 月が出ようが、星が瞬こうが関係なく。
 お腹がへったらぼくの持ってきたものを食べ。
 眠くなったら、うとうとしながら。
 雨が降っていたりする時以外はずっと何年もそんな事をしているのだ。
 もっとも雨が降っている時だけ休むのだって、別に濡れるのが嫌だからじゃない。
 雨は町からの臭いを消してしまうからというだけの理由だ。
 だから雨ではなく今日のような雪の日もずっと妹はここにいるのだ。
 体にいくらかの雪を積もらせながら。
 しばらくその様子を眺めていたぼくは、なんとはなしに思い出し始めていた。
 妹がこうなった日の事を。



 話は八年前に遡る。
 ぼくたちが生まれてから二年ほどしたときのことだ。
 まだまだ子供で、狩りもほとんど出来なかった。
 そして、その頃には両親が他界してしまっていたぼくらは、結果的に山のみんなによって育てられていた。
 最もそれは仕方がないと思う。
 ぼくらは大体生まれてから12年ほどで独り立ちをするのだ。
 二歳なんてやっと野山を自由に駆け回れるようになったぐらいなのだから。
 まぁ、他の山には1年と経たずに独り立ちをしているらしい、とんでもない連中もいるらしいのだけれど。
 ともかく、ぼくらの山ではそれが普通だった。
 そんなこんなで、ぼく達はみんなのおかげで成長し、穏やかな日々を過ごしていた。
 春には野山を駆けめぐり、夏には水場で戯れて、秋には美味しい果実を沢山食べて、そして冬には二人で寄り添って暮らしていた。
 だけど、事件はそんな冬に起こった。
 ある時、ぼくらはお腹が減った為だれかに食べ物を分けてもらおうと山の中をあるいていた。
 そんな時に奴があらわれた。
 真っ黒な体躯にぎろりぎょろりとした鋭い眼。
 地面を揺らすかのような足下から響くうなり声。
 舌が妙に赤く、それにくわえて火でも吐きそうなほど熱そうな大きな口を持つ獣。
 それは犬という生物だった。
 とても獰猛で、ときおりぼくらの山に紛れ込んでは山の仲間達を襲う化け物らしい。
 後で聞いた話によればぼくらの両親もこの化け物にやられたという事だった。
 もっとも当時の親というものがいまいちわかっていなかったぼくらにはよく解らない話だったのだけど。
 ただ、両親はぼくらを守る為にこいつらと闘って、相打ちになったのだと他の大人が寂しそうに笑って教えてくれたのを、なんだか忘れられないでいる。
 さて、話を戻そう。
 この恐ろしい獣と遭遇したぼくらだが。
 その事以上に恐ろしいことが一つだけあった。
 それは当時のぼくらがこの生き物の事をまったく知らなかったということだ。
 もっとも初めて見た瞬間にぼくも妹も尻尾が縮んで消えてしまうんじゃないかと思ったぐらいの恐怖を味わっていたのだけど。
 でも、そういう事じゃない。
 確かに犬は恐ろしい生き物ではあるがが、上手くやればいくらでもやり過ごせる存在だったのだ。
 ただ、目の前にいる生き物をしらないぼくらは当然どうすればいいのかわからなかった。
 でも、体をものすごい恐怖が支配していた。
 だから、間違った。
 パニックになって妹は叫び声をあげながらウサギなんかよりよっぽど速く逃げ出したのだ。
 もちろんぼくもわけのわからないままにそれに続いた。
 そう、間違えたのはこれである。
 奴はこの瞬間にぼくらを得体の知れない敵ではなく、狩るべき獲物として理解してしまった。
 そしてぼくらは、そうだと言う事を教えてしまっていた。
 本来ならば、奴の目をにらみ返しながらゆっくりと距離を取れば、大抵の場合はどうにかなるらしい。
 でも、それが出来なかったぼくらには生死を賭けた逃走劇を強いられる事になったのだ。
 ぼくらは必死で逃げた。
 足は体の大きさが違う所為で向こうの方が何倍も速かった。
 ただ、その分ぼくらは小回りがきいた。
 あと、ぼくらの大きな尻尾がそれを助けてくれていた。
 尻尾をぶんと振り回せば、体が反動で振り回されてものすごい速さで曲がる事が出来たのだ。
 とても乱暴な方法ではあったのだけど、そのおかげで何度も犬の牙をかわせていた。
 そんな風にかなりの距離を走った時。
 ぼくらはこのままいけば何とか振り切れるだろうと思って少しだけ余裕が出てきていたのだけれど。
 それは余裕ではなく油断だった。
 だから、ある崖のそばを通った瞬間、妹の体が宙を舞った。
 そしてそのまま風に流されるように視界の横に消えていく。
 通り過ぎてざらじゃらと言う何かが滑り落ちるかのような音。
 その瞬間になって初めて気付いた。
 妹は崖から足を踏み外したのだと。
 その後、ぼくはなんとか犬を振り切って、その崖にへとへとな体で戻ってきた。
 崖は思っていたよりもはるかになだらかで、なんとか今のぼくでも下れそうなぐらいだった。
 これならば妹もなんとか無事だろうとぼくはゆっくりと崖を下る。
 だけど、そこには妹の姿が無い。
 何処か移動したのかも知れない。
 そう思いかなりの間探し回ったのだけれど、結局妹の姿は見つからなかった。
 でも、ぼくは諦めきれず一生懸命辺りを探す。
 気がつけば日が変わり、いつの間にか仲間達に手伝ってもらって、何日も何日もかけた。
 色々な手を尽くし、ぼくはニンゲンの里まで下りたりもした。
 そんな風に一生懸命探したけど結局駄目だった。
 でも、妹の行方がわからなくってから、月の満ち欠けが一周したぐらいの日。
 絶望感に支配されていたぼくはふらふらと何がなんだかわからないままさまよい続けていた。
 周りが心配する声も耳に入らないそんな状態で。
 でも、そんな状態だったからこそなにかに導かれたのかも知れない。
 ぼくはこの丘へとたどり着いた。
 そして、行方不明の妹を見つけたのだ。
 その時は絶望なんてものも忘れ、思わず喜びいっぱいになって駆け寄ったのを今でも覚えている。
 でも、走り寄ったぼくは愕然とする。
 妹は大粒の涙をぽろぽろと零し続けているのだから。
 しかも、腕には真っ白い布を巻いて。
 その日からである。
 妹がここを離れなくなったのは。
 詳しい話は遂に教えてくれたわけじゃない。
 ただ、一人の人間をずっとこの丘で待ち続けるようになった。
 それから長い年月が流れ。
 今日も妹は一人の人間を待ち続けている。

 復讐する為に。

 ふいに妹が立ち上がる。
 ぼくは考え事を中断して思わず振り向く。
「っくう」
 妹ののど元から息を堪えるような声が漏れる。
 そしてその目からはぼろぼろと涙が流れ落ちていた。
「どうしたんだ?」
 自分の声ながらずいぶんと素っ頓狂だったと思う。
 でも、この瞬間とても嫌な予感がしたのだ。
 先程まで昔の事を思い出していたからかもしれない。
 あのときの姿と妹がだぶって見える。
 だけど妹は言葉にならないらしく頭を振る。
 しばらくそのまま泣き続け、少しだけ落ち着くと絞り出すような声を出した。
「……つけた」
 嫌な予感が強くなっていく。
「やっと見つけた」
 その言葉を聞いた瞬間目の前が真っ暗になる。
 ずっとこなければいいと思っていた日が来てしまったのだから当然だろう。
 そしてこの後どうなるのかも分かっている。
 妹が口癖のように言ってるのだからあたりまえだ。
 もっと他に幸せがあるのに。
 もっと他に楽しい事があるのに。
 そんなくだらない願いなんか捨ててしまえと思いながら。
 ぼくは走り出す。
 既に走り出している妹を追って。
 
 
 
 妹を追ってぼくがたどり着いたのは大きな岩陰にある小さな洞穴だった。
 見た感じにはみすぼらしいところなのだけれど、ぼくらこの山に住む狐達には特別な場所である。
「大婆様入ります」
 ぼくはそう声をかけて中へと入る。
 もちろん妹は既に中にいた。
 そして一匹の古狐に詰め寄っている。
「こら、大婆様に失礼をするな」
 必死になってなにかをまくし立てている妹をそう言いながら引きはがす。
 最初は暴れたが、狩りもしないでいた奴だ。
 結局ぼくの力にかなわず大婆様の前にしぶしぶ座った。
「すいません。迷惑かけて」
 ぼくがそう言って頭を下げると、大婆様は朗らかに笑って
「よいよい」
 そんな一言で済ませてしまった。
 久しぶりに会ったけれど、何ら変わらず相も変わらずらしい。
「だめですよ、ちゃんと怒ってやってください」
「別に怒る事でもなかろうて」
「うちの妹に甘すぎます」
「仕方がなかろう、可愛い物は可愛いのじゃから」
 むろんお主もな、と大婆様はもう一度その小さな体を揺らす。
「それにの、孫に何かをねだられるのは年寄りの本懐と言うではないか」
「そんなの初耳ですよ」
「じゃあ、今からようつかえばええ」
 そんな言葉にぼくは何も言えなくなって黙り込む。
 大婆様は目を細めると満足そうに座り直した。
 ぼくは改めて大婆様に向き直る。
 よぼよぼの幾月もの年を感じさせる細い体。
 でも、そのわりには針金でも入っているかのようにからだはぴしゃんとしている。
 そんな姿を見てきてもう何年になるだろうか。
 いや、考えるのも馬鹿らしい。
 物心ついた頃からこの姿は幾分も変わっていないのだから。
 それもそのはず、大婆様はぼくらには見当すら及ばないぐらいの長い年月をすごしてきている。
 話に聞いただけでしかないが、もっとも古く覚えている記憶は1000年も前の事らしい。
 その頃にした大恋愛の事とか、いろんな意味で戦慄する昔話を聞かされた事があるぐらいなのだ。
 ちなみにこの山の狐たちはみんな大婆様の血を引いている。
 といっても遠い遠いご先祖様だという事なのだけど。
 でも肝心の本人が目の前にいる為にその認識は皆一様にして薄い。
 まぁ、だから誰から見ても大婆様はお婆ちゃんという感じである。
 また、大婆様は誰を見ても孫と言っている。
 おかげで誰に対してもずいぶんと甘いんだけど。
「……もう良い?」
 黙り込んだぼくらの様子を伺うように、妹が声を出す。
 そわそわと体を揺らして今でももう我慢できなさそうだ。
 まぁ、見た目以上に中身が子供なこいつにしては我慢できた方なのだろう。
 ぼくはもういいよと許可を出す。
 ただし、落ち着いて話せと釘を刺して。
「あのね、おばあちゃんお願いがあるの」
 妹だけは大婆様のことをいまだにおばあちゃんと呼ぶ。
 大婆様はそれがとても嬉しいらしく、その言葉を聞くと毎回いつも以上に顔を綻ばせている。
「ああ、よいぞ」
「大婆様、せめて話を聞いて、考えてからにしてください」
 ちなみに余談ではあるが、これで大婆様は3割増しで、妹に甘くなる。
 具体的に言うならば、こんな風に話を聞く前に許可してしまうぐらいにだ。
 そんなぼくらのやりとりを意に介した様子も見せず、妹は言葉を続ける。
 真剣に。
 壊れそうぐらい悲壮な覚悟で。
「あたしニンゲンになりたい」
「駄目じゃ」
 びっくりするほど即答だった。
 そして、普段の様子からは信じられないほどの鋭い表情。
 いつもの細い目はしっかりと開かれ見ている物を射抜くかのような眼孔を放っている。
 何年ぶりだろうか。
 大婆様のこの顔を見るのは。
 この方は大抵の事には甘いのだがこれに関しては鬼のように厳しいのだ。
 だが、妹はそんな大婆様に全く怯む様子も見せない。
 空気が読めないだけだろう。
 ……そうであって欲しい。
「どうして駄目なの?」
「狐がニンゲンなぞになっても不幸になるだけだからじゃ」
 その言葉にはぼくも諸手をあげて賛成したいところだ。
 だから、ぼくはずっと妹がニンゲンになりたいと言うのを反対し続けてきた。
 時には叱り。
 時には宥め。
 そして時には慰めて。
 でも、結局ぼくは今日この日までその願いを消す事だけはできないできていた。
 そして、妹はやっぱり引き下がらなかった。
「でも、あたしはなりたいの」
「そうか」
 大婆様はあっさりとそう言って肩を落とす。
 それを見てぼくは落胆をするが、どうせこうなるとも思っていた。
 理由は簡単だ。
 大婆様にとってはこれが初めてじゃないからだ。
 だから、どの程度の決意かはこの程度のやりとりで分かってしまうらしい。
「なぜ、そうまでしてお主は人の体を求める?」
 その言葉は訪ねるというよりは確認に近い。
 あまりにも確認に近い。
 ぼくは耳を覆いたくなる。
「復讐するの」
 そしてもっと痛烈な言葉が飛び込んでくる。
 明確で単純で淡々とした一言。
 この言葉がまだ憎々しいという炎を帯びていたらぼくもいくらか救われたろうに。
 でも、悲しいぐらい悲痛な憎しみはまるで涙のように感じられた。
「そうか」
 大婆様はまた、一言で終わらしてしまう。
 ぼくはなにかを言いたくて口を開きはした物の声がなにもでなかった。
「ならば、お主に試験を受けてもらう」
「試験?」
「そう、試験じゃ」
 そういって大婆様は天を仰ぐ。
「何故だかは知らぬ。だが、一つの事実が我らにはある」
 唐突な大婆様の言葉に首をかしげる妹。
 だが、大婆様の言葉はゆっくりと続く。
「本当に何故かのぅ……我らはニンゲンになりたがるものが多いのじゃ」
 その通りだった。
 今まで、たくさんの仲間がそれを望んで大婆様にお願いしにいった事があるのだ。
「だからのう、ニンゲンになるのかがふさわしいかどうか見極める為に試験をすることにしてるのじゃ」
 そしてこれが大婆様が考え出した対処法だった。
「なにをすればいいの?」
「ニンゲンになって人里で暮らしてもらおう」
「試験なのにニンゲンになるの?」
 妹は不思議そうに聞く。
 まぁ、当たり前だろう。
 ニンゲンになる為にニンゲンになるというのはとても言葉としておかしい。
「なぁ、丘の子よ。我らの力の事はいくらお前でも知っておろう?」
「うん」
 我らの力。
 それはぼくらこの山に住む狐たちが一様にして持つ不思議な神通力のことだ。
 原理とか理屈は分からない。
 ただ、だれでも必ず使えたし、誰でもどういう力なのか知っていた。
 それは願いを叶える力。
 といってもたいしたことが出来るわけではない。
 お腹が空いたとおもえば、わずかばかりの食料が目の前に現れる。
 怪我が治って欲しいと思えば、苦痛が多少和らぐ。
 その程度のささやかことしか出来ない。
 しかも、力を一度使うとかなりの間、力は使えなくなってしまうのだ。
 さらに言うならば力が戻るまでの間、体調も崩しやすくなったりと色々ある。
 そんなあまりにもささやかすぎる奇跡なのだ。
「ニンゲンになるには山中の狐たちの力を借りて初めて成功するのじゃよ」
「うん」
「じゃが、たった一つの願いを叶える為にそれだけの事をするべきかどうか」
「……うん」
「それを見極める為の試験なのじゃよ」
「でも、試験でニンゲンになるんでしょ?」
「ああ、そうじゃ」
 妹は自分自身ににつままれたかのような顔をする。
「ニンゲンになる事がふさわしいかどうかは、実際にニンゲンとして暮らしてみないとわかるまいて」
 まぁ、その考え方は当たり前の事だ。
 大きな矛盾こそあるが、実際にやってみて初めて分かる事なのだから。
「だから、お試し期間みたいなものじゃな」
「お試し期間?」
「そうじゃ、今からお主に夢見の法という術を授けよう、それを使ってニンゲンになって人里で暮らせ」
 そう言って大婆様は妹に近づくと額をくっつける。
 そして目を閉じて何かに集中し始める。
「なんか頭に入ってくる……」
 妹が夢見心地でぽつりとつぶやいた。
 そうなのだ、これは大婆様が持つ神通力の一つで夢移しと呼ばれる物なのだ。
 相手に自分の記憶や夢などをそのまま移す神通力。
 ぼくや他の狐たちはとうてい出来ない事なのだけれど、大婆様はこういう不思議な事が沢山出来たりする。
「これが、夢見の法」
「そうじゃ、それを使って一時的にニンゲンになるがよい。それで我が判断する」
「うん、わかった」
 そう言って妹は大婆様から離れる。
「ねぇ、お婆ちゃん。一つだけ聞いて良い?」
「なんじゃ」
「復讐の為にニンゲンになっても良いの?」
 妹はそんな事を言った。
 復讐が悪い事だという自覚はあるらしい。
 ならやめればいいのに。
 それとも、分かっていてやめられないほど、妹が求めるニンゲンは、こいつに酷い事をしたのだろうか?
 だが、大婆様は特に気にした様子も見せなかった。
 真意を探ろうとさえしなかった。
 ただ、淡々と
「別にかわらんよ。憎しみだろうが愛だろうがニンゲンにはな」
 少し何かを懐かしむ表情でそんな事をつぶやいただけだ。
「ふぅん」
 納得した表情には見えなかったが妹にはもう興味は失われたらしい。
 洞穴の隅まで行くと丸まってしまう。
 どうやら、すぐに夢見の法を使うらしい。
「なぁ」
 事の成り行きをずっと無言で見守っていたぼくは妹に声をかける。
「期間限定とはいえニンゲンになるんだから、その間に復讐なんて終わらせろよ」
 それだけ言った。
 そうすれば試験が終わった後はニンゲンになりたいなんて言わなくても良いだろう?
 その言葉は飲み込んで。
 でも、妹は
「そうだね」
 寝ぼけたようにつぶやいて目を閉じる。
 そしてそのまま夢の世界へ旅立った。
 まるで抜け殻のような体を残して。
 なぁ、その言葉は肯定の言葉じゃないだろう。
 ぼくは心の中でだけ、またつぶやいた。



 妹が夢見の法を使ってからから十日ほど。
 ぼくはふらふらと人里を彷徨っていた。
 そう人里。
 間違いとかではなく、ぼくはとある目的のために山を下ったのだ。
 まぁ、とある目的なんて回りくどい言葉を使う必要はないかもしれない。
 言うまでもなく妹を追ってきたのだから。
 ぼく自身も夢見の法を使って。
 もちろん妹の事が心配だからという理由ではあるのだが、下りるきっかけとなった事は違う。
 ぼくは山の狐の代表として試験官兼補佐官に抜擢されたのだ。
 役割は読んで字の如く。
 妹がニンゲンになるのがふさわしいかかどうか見極める事。
 妹の試験が上手くいくようにサポートすること。
 この二つである。
 ぼく自身はこの役割についてかなり消極的ではあった。
 だが、こういう事に私情をあまり挟んではいけないとわかっている。
 だから、今日この日まで確実に役割をこなしてきた。
 ……と言いたい事だけど。
 ぐきゅるるぴーっとぼくのお腹が鳴った。
「にゃぁ〜」
 情けない声がぼくの口から漏れる。
 それにしても相変わらず自分の声とは思えないような変な声だった。
 まぁ、仕方がない。
 ぼくは今ぼくではないのだから。
 別にこれは謎賭けと言うわけではない。
 言葉通りである。
 夢見の法……この術を知るものの間では変化の法とも言われる。
 術としてはかなり特殊なもので、この術を使った者は『なりたい者』になれるのだ。
 といっても、夢の中だけだが。
 ただ、夢の中だけといっても、それがもし現実に影響を及ぼせるとしたらどうだろう?
 夢が現実に。
 現実が夢に。
 そんな幻想めいた法術なのである。
 もっとも基本的にそんな無茶がいつまでも続くわけではない。
 数週間で力を使い果たす事になる。
 その為、力を使い果たす寸前には熱に浮かされ、苦痛に苦しみ、理性すら失う。
 といっても術がきれる直前だけの話ではあるのだが。
 夢の終わりは悪夢で終わる事が決まっている。
 まぁ、厳密に言えば少しちがうのだがそんな所だ。
 逆にいえばこれほどの術を使ってもリスクはそれだけで済むとも言える。
 実際に夢見の法が解ければ、ぼくらはただの狐へともどり、後遺症とかそんなものは全く残らずに暮らせるのだから。
 ……いや、リスクはそれだけではないか。
 この術は見る夢を使う。
 そのためにものすごく不安定なのである。
 なんというか『夢』である影響をすごく強く受けるのだ。
 たとえば狐である時の記憶を失ったりする。
 いや、失うというのは適切ではないか。
 誰しも夢を見ている時は、そこでどんな不思議な事が起こっても何故かそういうものだと納得してしまう。
 それが夢であると気付かない時ほど特に。
 まぁ、つまり自分がニンゲンである事に疑いを持たないようにする為に、無意識のうちに記憶を操作してしまったりするのだと大婆様が以前仰っていた。
 特にニンゲンなどの、身体的にぼくらとかけ離れた存在になった時ほどそうなる可能性が高いらしい。
 しかも、かけ離れた存在ほど術を使っていられる時間も短くなるそうだ。
 逆にいえば、身体的にぼくらに近い姿のものならそういうリスクがだいぶ軽減されるわけだが。
 まぁ、長々とした説明はこれぐらいにしようか。
 そんなこんなで話をもどすと、ぼくは猫という生物に、今なっていた。
 この生物は人里に住む生き物で身軽な体躯としなやかな運動神経を持つ。
 体つきなどもぼくらに近いため、狐であった頃の記憶などを失うことなく変化ができる。
 そういうわけで、役割を果たす為にぴったりな猫になっていた。
 なっていたのだが……
「にゃぁ〜」
 また、口から情けない声が漏れた。
 でも、こんな声を出してしまってもしょうがないと思う。
 なんというか、実を言うと。
 いや、実に恥ずかしい事に。
 いやいや、情けない事に、だが、早い話がぼくは現在役割が果たせていない。
 そして、餓死するんじゃないかというほどお腹が減っていた。
 まぁ、言い訳というかなんというか、別にぼくの怠慢というわけではない。
 妹を追って夢見の法を使った直後。
 ぼくは優秀な頭脳をもってして、すぐ妹を見つけ出した。
 お金というニンゲンには欠かせないものを用意してやったり、体が冷えないようにぼろぼろではあったが温かい布も見つけ出してきてやった。
 が、そこまで用意してやったのが逆に仇になった。
 術の影響か眠り続ける妹が目覚めるのを待っていたのだが、そのうちに疲れが出てぼくは眠ってしまったのだ。
 そして、うとうととした浅い眠りから、はっと目が覚めるともうそこにはだれもいなかった。
 おかげぼくはずっと妹を捜して、不眠不休の飲まず食わずで彷徨う羽目になったのである。
 でも、いいかげんそれも限界だった。
 ぼくはもう、へとへとのぺこぺこで今にも倒れそうなのだ。
 そうおもった瞬間、ぼくはそのばにへたり込んでしまう。
 うう、ひもじい……そんな事を考えながらぼくのいしきはフェードアウトしていった。



 グニュ……!
 ぐえ。
 いきなり背中から強烈な圧迫感をうけ目が覚める。
 それにしても、すさまじく重い。
 声も出せないほど苦しかった。
「あれ? なにか踏んだ……」
「ん?」
 頭上からニンゲンの男と女の声。
 どうやら、どちらかに踏まれたらしい。
 まぁ、でもおかげで助かった。
 乱暴な方法ではあったが朦朧としていた意識がはっきりした。
「仔猫だ……」
「よくそんなもの気づかずに踏めるな、おまえ……」
「こんなところで寝てるからよぅ」
 別に寝ていたわけではないのだが……
 そんなことを思いつつ、しばらく動かなかった所為で固まっていた体をぐっと伸ばす。
 その瞬間、何故かあくびが出た。
 これじゃ、本当に寝ていたみたいじゃないか……
「大丈夫のようだな」
「ほら、ネコの心配なんてしてないで、雪が降ってくる前にいこうよ」
 そんな会話の後、頭上の二人の声が徐々に遠ざかっていこうとする。
 なんとはなしに、ぼくはそいつらを見てやろうとして驚いた。
「うにゃあ」
 驚きのあまり声まで出してしまった。
 でも、かなりぼくは運が良い。
 こんなところで探していた妹に会えたのだから。
 とりあえず役割の為について行く事にする。
「わぁ、ついてきてるっ」
 妹はぼくを見て立ち止まる。
 ぼくはそんな妹に駆け寄り、足下で自分を連れてくように主張する。
「踏んだこと根に持ってるのかなぁ…」
「そんなふうに見えるか?」
 根に持つわけがない。
 可愛い妹のしたことだ。
 兄貴としてはそれぐらい許すのは義務なのである。
「見えないことない」
「無理して見るな。普通に見れば、おまえに懐いてるぞ」
「うーっ…うっとうしい…」
 反抗期なのだろうか?
 うっとうしいは無いだろう、うっとうしいは。
「ほら」
 そう抗議しようとした瞬間。
 体が男の方にひょいっと持ち上げられる。
「わ、なによぅ」
「抱いてみろ」
「ヤだ」
「温かいぞ」
「寒くていいもん」
「いいから」
「ヤだ」
「帰りに肉まん買ってやるから」
「ほんとっ?」
「ああ、約束する」
「じゃ、ちょっとだけね」
 その、言葉と共に妹は嬉しそうにぼくを抱きしめる。
 どうやらやっとぼくという存在をうけいれたようだった。
 とちゅう肉まん云々というよく解らない言葉があったが、まぁ、どうでもいい。
「わぁ、温かいよ」
「だろ」
 次の瞬間ぐんっと体が宙を舞うような感覚に囚われる。
 そう思ったかと思うとぼくは妹の頭の上にのせられていた。
「って、おいっ!」
「ん?」
 男の声に不思議そうな顔をする妹。
 目線の高さが同じぐらいになった所為だろうか。
 とてもその表情がよく見える。
 それにしても、この状態は良い。
 なかなか見晴らしが良くて気持ちよかった。
「ま、いいか……」
 そんな男の台詞の後、そのままぼくらは移動した。
 人通りの多いところを、ぐんぐんと進む。
 それにしてもニンゲンはゆったり歩くくせに足が早いものだ。
 そんな中、途中で男の方が家の中に入った。
 と思ったらすぐに出てきて袋のようなものをもって出てきた。
 どうやらそれを取りに行ってたらしい。
「祐一も食べるの?」
 袋の中身をのぞき、妹が訊く。
 ぼくも覗いてみると白くて丸いものが三つほど入っていた。
 湯気が出ているのをみるとなにやら温かいものらしい。
「当然だ。みっつも食う気か」
 そんな事を良いながら男はわしづかみでその内の一つを取り出す。
 そして、妹へと袋を渡すととりだしたものを一口かじる。
 どうやらあれは食べ物らしかった。
「あぅーっ……」
「そいつにもやれよ」
「そいつ……?」
「頭の上にのっかってる奴だ」
「えぇ〜っ」
「えぇ〜って、なんだ。ふたつもあるんだから、ちょっとぐらいいいだろ」
「食べるのかなぁ……」
「やってみろ」
 男がそう言ったとたん妹はぼくへと白い物をちかづけてくる。
 どうやらくれるらしい。
 それにしてもかなり良い匂いがする。
 くるるるとお腹が鳴った。
 ここ何日か食べてなかった所為でかなり腹が減っていたのを思い出す。
 ならば、せっかくの好意だ。
 さっそくいただくとしよう。
「わっ……」
 妹から白い物を受け取ると、ぼくは地面に降り立つ。
 一口、かじってみると信じられないぐらい美味しかった。
 お腹が減っていた事も手伝って、もう二口目からは周囲が分からなくなるほどの勢いで 目の前のものを食べていく。
 しばらく、熱心に食べ進めるとあっという間に無くなってしまった。
 どうじに久々に満腹感に満たされた。
 ぼくは満足感に満たされたあまり、けふっとげっぷをしてしまう。
 妹はそんなぼくを何故か少し恨めしそうに見つめながら、抱き上げると再び男と連れだって歩きだした。
 しばらくして、ニンゲンの乗り物が沢山行き交う道についた。
 二人はそこをまたぐように駈けられた橋を上っていく。
「さ、肉まんも食べたし、コイツはもう用ナシね」
 橋の途中でいきなり妹がすごい事を言い出す
「おまえ、すごいこと言うよな」
「すごいこと?」
「そこまで懐かれていて、よくそんなこと言えるな、ってことだよ」
 懐くという言葉は少し違うと反論したいところだ。
「そんなことって…祐一はそうは思わないの?」
「なにがだよ」
「動物なんて、結局要らなくなったらポイって」
 ポイって……
 それは大変困る。
 ぼくは役割を果たす為にお前と一緒にいないといけないのに。
 そう思って抗議しようとしたら、男が先に口を挟んでくる。
「そりゃそういうご時世ではあるけどさ、俺はそこまでは思わないよ」
「うそだぁ」
「ほんとだって。そいつも、家に連れていけばいいよ。他に家があるんだったら、出ていくだろう。なかったら飼ってやればいい。どうせ秋子さんも文句言わないよ」
 そいつも、ということは今現在妹はこいつの家で飼われてるのか。
 まぁ、妹の事を飼うなんていう扱いはすこし不本意ではある。
 でも、住居と食事を与えているのだからまぁ、そこらへんは目をつむっても構わないだろう。
 もちろんぼくのことも、そうして欲しいところだ。
 だが、妹は意外な事を言う 
「そんなの可哀想」
「なまじ人に飼われて平和な暮らしを知るよりは、このまま野に返してやるべきよ」
「野ってな、おまえ…」
「それにこいつ、野良猫じゃないぞ」
 まぁ、確かにぼくは猫じゃない。
 でくのぼうのような男ではあったが、なかなか見所があるようだった。
 ぼくは基本的にニンゲンが好きではない。
 でも、この男はなかなか良い奴なのかも知れない。
 さっきも美味しい物をくれたし。
「放したほうが、よっぽど危険だ」
「………」
「おまえが面倒見ればいいじゃないか。な」
「………」
 うん、やはり良い奴のようだった。
 ぼくになぜそこまでしてくれるのかわからないが、なかなか家にまでつれてこうというのは出来る物ではない。
 獰猛で残酷なのがニンゲンなのに。
 この男はそんなニンゲンの中ではめずらしく優しい心を持っているようだった。。
 ふいに、ずきりと胸が痛む。
 遠い昔、この街で出会った。一人の少女を思い出したのだ。
 彼女もこの男のようにとても優しくて、いろいろな事をぼくにしてくれた。
 ああ、そうかとこの瞬間納得した。
 この男が妹の探していた相手なんだろう。
 理屈や理論じゃなく、経験と本能でそう感じた。
 いつだったかこの男のことを恨んでいると妹は言った。
 いつの日にかこの男に復讐をしてやると妹は言った。
 でもいつも口には出さなかった。
それが、ただこの男に会いたいだけなのだとぼくは知っていたのだ。
 妹はいつだって素直じゃなかったから。
 双子であるぼくにはそんな事わからないはずがないのに……
 ぼくは妹が、今どんな顔をしているのかとちらりと伺う。
 目が会った。
 寂しそうな悲しそうな表情。
 毎日のようにあの場所でみていた表情だった。
 何故そんな顔をするんだろう。
 そんな疑問が頭をよぎった時、ぼくの体から支えが急に消える。
 そして、考える暇もなく体が自由落下に囚われた。
「あ、おいッ!」
 男の焦った声。
 焦った顔。
 それがぐんぐんと遠ざかって、ぼくは橋の下を通っていたニンゲンの乗り物の上に補下り出される。
 そしてそのまま二人が遠ざかっていく。
「うにゃあああああぁぁぁぁぁぁぁ……」
 うわああああああぁぁぁぁぁぁぁ……と思わず叫び声をあげてしまった。
 せっかくみつけた妹がまた遠ざかっていく。
 昨日までの地獄を思い出してぼくは目の前が真っ暗になっていくのを感じた。



 次の日ぼくが、目を覚ますととなりに妹がいた。
 いたというか寝ていた。
 不思議に思って辺りを見回す。
 そこはぼくらの住む山。
 そして妹がいつもいた丘だった。
 どういうことだろう。
 思わず首をかしげる。
 昨日、妹とはぐれた後一晩中探し歩いてた。
 だが、結局見つからず何処かの軒下で疲れて眠ったはずだ。
 もしかしたらなにか不思議な力でも働いたのだろうか?
「くちゅっ」
 可愛いクシャミの音。
 振り返ると妹が眠ったままで鼻をむずむずさせていた。
 空を見上げる。
 どうやらもう昼間のようだ。
 しかし、重い雲に覆われて薄暗い。
 髭が重い所を見ると湿度も高いし、心なしか気温も低い。
 このままでは風邪を引いてしまうじゃないか。
 そう思ってぼくは妹を起こす為に口元をぺろぺろと舐める。
「あぅーっ」
 情けない声が漏れる。
 ニンゲンの声ではあったがそれはぼくら狐の言葉とわかる。
 寝ぼけている所為で、もしかしたら狐である記憶が戻っているのかも知れない。
 そんな事を考えながら、舐め続けていると妹はめをしぱしぱさせる。
 やっと目が覚めたようだ。
 ニンゲンになっても必殺口元舐めで必ず起きる辺り、変わらないなぁ、と苦笑してしまう。
「あ、あんた起きたの?」
 目が覚めた妹はぼくをみてそんな事を聞いてくる。
「にゃぁーっ」
 寝てたのはそっちのほうだとぼくは答える。
「そっか、そっか」
 妹はぼくの言葉がわかっているのかいないのか、そんな事を言って頭をなでてくる。
「そういえばお腹空いたね……」
「にゃー」
 確かにお腹が空いた。
「そっか、あんたもか」
「にゃあ」
「私も昨日ずっとあんたを探していたからお腹空いてるの」
 そう言いながら妹はぼくの頭をなで続ける。
 どうやら、不思議な力とかではなく妹がわざわざぼくを見つけてくれたらしい。
 こんな良い妹をもってぼくは果報者じゃないか。
 柄にもなくそんな事を思った。
 ふいに妹が立ち上がる。
 ぼくも立ち上がりついて行こうとすると。
「あ、きみは待ってて」
「にゃあ」
 真意が分からずにどこへ行くのか訪ねる。
「ご飯買ってくるね。すぐ戻ってくるから」
 そういって妹は歩き始めてしまう。
 ぼくはついて行こうとした。
 が、あまり過保護なのは良くないかと思い直しどっかりと座り直した。
「あうぅーっ手がかじかんでるよぉ……」
 風に乗ってそんな情けない声が流れてきた。

 しばらくして、そらに星が出るような時刻になって。
 ようやく妹は戻ってきた。
「あぅ…かじかんだ手、肉まんで温めてたら冷めちゃったよぉ……でも指、動くようになった……」
 ぼくが近寄っていくと情けない声で妹はそんなぼやきを零す。
「ほら、おいで」
「うにゃぁ」
 妹の声に答え膝の上に乗る。
「ごめんね、冷めちゃったけど…お腹すいたでしょ?」
 そういって妹は袋から昨日のすごく美味しい白い物体をとりだす。
「半分ずつね」
「うにゃぁ」
 そして、半分にわってぼくにくれた。
 少し冷めていたが、やっぱりとても美味しくて思わず夢中で頬張る。
 すぐに食べ終えると、ちょうど妹も食べ終えたようだった。
「はぁ…寒い…ほら、おいで」
 ちょこちょこ…ぴょんっ。
 妹の腕の中にぼくがいくと、ぎゅっと抱きしめられる。
「あは、温かい…」
 ぼくのほうもとても温かかった。
 お腹がふくれたからだろうか少し眠くなってくる。
 そんな時妹が寂しそうにぽつりとつぶやく。
「あたしたち、一緒だね。同じ、邪魔者。どこにもいけないんだね…」
 あのニンゲンの男はどうしたのだろうか?
 一緒にいないという事ははぐれたのだろうか?
 まさか、残酷にも追い出されたのか?
 そんな疑問が頭を駆けめぐる。
 でも妹は
「はぁ、寝ようか……夕べもキミを探すのタイヘンだったから寝れなかったし……はぁ…温かいお布団で、寝たい……ね」
 そんな風に言って疲れたように目を閉じてしまう。
 結局、ぼくは尋ねるタイミングを無くしてしまった。
 どうしようかとそらを見ていると、ふっと黒い影が夜空を塗りつぶす。
「おい、真琴」
 あの、ニンゲンの男だった。
「まったく、困った奴だな、おまえは……こんな寒いところで寝ていたら、どうなってたことか……」
 とても、とても優しく温かい声。
 かつてのぼくの記憶すら揺り起こしそうな、ニンゲンのもつぬくもり。
 ニンゲンの男は妹を持ち上げ、おんぶする。
 ぼくはかがんだ男の体を駆け上ってその肩に乗った。
「ほら、帰るぞ」
 そういうと男は歩き出した。
 おそらく、住居へ。
 不意に立ち止まり、
「おまえは俺たちの家族なんだからな」
 男は眠る妹そんな言葉を妹につぶやく。
 ああ、なんだ。
 妹は、はぐれただけだったのか。
 ぼくは安心して、男にもたれるようにして目を閉じる。
 ぼくの妹を心配してくれた優しい匂い。
 ぼくの妹を家族と言ってくれた温かい匂い。
 それが嬉しくて、そして懐かしくて、でも、やっぱり寂しくて。
 ぼくは少しだけ涙を流した。



 その日から数日後。
 ぼくは本棚の上から二人を見下ろしていた。
 そこにはベットがあり二人の人間が寄り添い合うように、暖め合うように眠っている。
 一人は妹、もう一人はあの男。
 ぼくは二人を一晩中眺めながら色々な事を思い出していた。
 ほんとうにこの数日、色々な事があった。
 妹にとっては夢のような年月だっただろう。
 8年前から見せなくなった笑顔を振りまき。
 この男とじゃれあうように必死にニンゲンとして生きていた。
 費えそうになる力と闘いながら……
 そう、妹の力は少しずつ減退していた。
 この様子ならば、おそらくあと、数日で夢見の法は解かれるだろう。
 そうならば、妹は狐に戻り、またぼくと一緒に山に暮らす。
 そうなるはずだった。
 そうするつもりだったのだ。
 でも、ぼくはここにきて迷っている。
 ここ数日の妹を見ていたから。
 この男と一緒にいるための必死な努力を見ていたから。
 ねぼすけな妹ががんばって早起きして男と一緒に出かけ。
 失われていく力と共に失われていく器用さを取り戻す為に箸の練習をして。
 二つの足で歩くのもそろそろおぼつかなくなるはずなのに、何度転ぼうとも笑いながら男の元へ駆け寄る。
 ぼくは試験官だ。
 ぼくは兄だ。
 妹を狐のままでいさせる事ができるし、それが兄としてのぼくの望みだった。
 ニンゲンになっても幸せになれない。
 むしろぼくらはお互いを不幸にしてしまう事をしっていたから。
 でも、ぼくは妹に幸せになってほしかった。
 矛盾している事はわかっているが、ニンゲンになるのが妹の一番の幸せなんじゃないかと思い始めていた。
 ぼくはどうすればいいのだろう?
 答えはいまだ出ない。



 数年前。
 妹が失踪した時の話だ。
 ある時ぼくは山の中で探すのをあきらめ、人里に下りた。
 大婆様に頼んで夢見の法をニンゲンに化けて。
 その時ぼくは、大婆様に一度使うとニンゲンになる試験を受けられなくなるよと言われたが、気にしなかった。
 別にニンゲンになりたいなんて思ってなかったからだ。
 そしてぼくはこの町にやってきた。
 初めて見る物が沢山あった、初めてニンゲンがどういうものかを知った。
 そして、そんな中で一人の少女に出会った。
 彷徨っていたぼくにとても優しくしてくれた一人の少女。
 名前は忘れもしない。
 みしお。
 だれもそう呼ぶ者はいなかったけど、それが彼女の名前でぼくは彼女をそう呼んでいた。
 彼女はあんなに優しかったのに、いつも誰ともいようとはしなかった。
 両親も彼女の家にはほとんど寄りつかず、それが彼女をいっそう孤独にしていた。
 ぼくは人間でいる間彼女と共に過ごした。
 いまの妹達のようにとても楽しく。
 妹を捜しもせずに。
 もっとも言い訳をするならば、ぼくは妹の事を忘れていたのだから仕方がない。
何かを探さなければならないとは覚えていたけれど、でもその何かが最後まで思い出せなかったのだ。
 そして、ぼくはその何かすらどうでも良くなって、ずっと彼女と一緒にいたいと思い始めていた。
 でも、それがいけなかったのだろうか?
 それとも、探していた何かを諦めきれていないのがいけなかったのだろうか?
 ぼくがどちらかをきちんと選べていたならば違った未来があったのかもしれない。
 だが、ぼくは結局選べずに悪夢と共に夢は終わりを告げた。
 ぼくは狐に戻り、永久にニンゲンになる機会を失い、そして妹と彼女を失った。
 深い絶望に囚われ、泣き暮らす日々。
 結局、妹は戻ってきた、いまだにどうやって戻ってきたのかはわからないけど、それは確かな事だった。
 ぼくは歓喜し、安堵した。
 孤独と絶望に支配された死んでしまいたい日々が終わると思ったのだ。
 そして確かに孤独は消えた。
 でも、心の奥の絶望はそのまま残った。



 もう一度、妹たちを見下ろす。
 ふたりは相変わらず寄り添うように眠っていた。
 改めて考える。
 こんどこそぼくは選ばなくてはならないはずだ。
 あのときの後悔と、今なお消えない絶望とぼくは闘わなくてはならないはずだ。
 妹がニンゲンになれば、ぼくは永久に自分の半身といってもいい妹を失うだろう。
 妹がニンゲンでなくなれば、おそらくぼくはこれからも孤独に生きる事はないだろう。
 ぼくは妹の顔を見つめる。
 安良かで愛らしい顔。
 世界中の幸せを独占したような寝顔。
 無垢な子供のようで、恋する少女のようで。
 ぼくが初めて見る表情。
 心からの幸せを手に入れているであろうその笑顔。
「うにゃぁ……」
 ふいに涙がこぼれた
 ぼろぼろと。
 ぼとぼとと。
 止まらない。
 止められない。
 世界が何もかも歪んでなにもわからなくなる。
 そしてぼくは理解った。
 ふいに理解してしまった。
 妹はぼくとは違い既に選んでいたのだ。
 ぼくには遂に出来なかった事をしていたのだ。
 ニンゲンに……ただニンゲンになりたいのだ。
 なら、ぼくはそれを奪えるのか?
 遠い昔ぼくが囚われた絶望を彼女に与えるのか?
 そんなの出来るはずがない。
 ぼくはお兄ちゃんなのだ。
 あいつはぼくの大事な妹なのだ。
 幸せになって欲しい。
 どうか幸せになって欲しい。
 ぼくがこれからどれだけ不幸になろうとも。
 それぐらいは我慢してみせる。
 なぜならぼくはあいつの兄貴なのだから。


 そして。
 涙が止まった時、ぼくの決心は固まっていた。


 その日の夕方ぼくは大婆様の元へ戻ってきていた。。
「よう、帰ったの」
 大婆様の優しい声。
 ぼくは何も言わず頭を下げ、鼻先を地面にこすりつける。
 そしてぼくは恥も外聞もなく懇願した。
 妹をニンゲンにしてやってください、と。
 妹を幸せにしてやってください、と。
 お願いです、お願いです、と泣きながら。
 なんども、なんども。
 しばらく、黙っていた大婆様は
「そうか」
 と一言言った。
 とても寂しそうに。
 とても悲しそうに。
 でも少しだけ嬉しそうに。
「あの子はニンゲンにふさわしいか」
「はい」
 ぼくは迷わず答える。
 そう、もう迷う必要はない。
 後悔もしない。
 妹も選んだように、この瞬間ぼくはやっと自分で自分の答えを手に入れた。
 心からその選択肢を選び取ったのだ。
「なら、そうするべきじゃろうて」
 大婆様のその言葉にぼくは頭を垂れる。
「ありがとうございます……ありがとうございます……」
「よいよい、他でもないあの子に一番近いお前がいうのじゃ、それが自然だったのだろう」
 大婆様はそんな事を言って遠くを見つめる。
「なぁ、何故我らの一族はニンゲンを求めるのかのぅ」
 そんな言葉をぽつりと漏らす。
 でも、ぼくにはその答えはわからなかった。
「二十年ぶりじゃ、我らの中からニンゲンになるものが出るのは」
「そうなのですか?」
「ああ、今はどうしているのかはしらんがの……」
 幸せに暮らせておるとよいなぁ……と大婆様は続ける。
「もしかしたらここの物はニンゲンの血を引いておるから、ニンゲンに惹かれるのかもしれぬな」
 ぼくはその言葉にびっくりする。
 初耳だったからだ。
「わしもかつては妖狐として名を馳せた頃はニンゲンに憧れた事があったのじゃよ」
 懐かしむような声。
「そのころのわしはニンゲンが嫌いでな人里に下りては悪さばかりしておった」
「今の大婆様からは想像できません」
「そういうものじゃて」
 大婆様は楽しそうに笑う。
「だが、ある時わしは不思議な男に出会った」
 目を細める。
 とても愛おしそうに。
「わしはその男の使う法術に懲らしめられたのじゃが、まぁ、色々あって結局その男に恋をし、結ばれた」
 ぶったまげるような話である。
 本当に想像できなかった。
「わしはのその男が死ぬまで添い遂げたよ。子供もたくさんさずかった。そのうちの何人かはふもとに集落を作り、半分ぐらいはわしとともにこの山に移り住んだ」
「それって……」
「そうじゃよ。それが我が一族の始まりじゃ」
 なるほど、と思う。
 だからぼくらは最初から人間達を嫌いになる事なんてできないんだろう。
 ぼくらは兄弟なのだから。
「でも、大婆様」
「なんじゃ?」
「ぼくらが人間達に惹かれるのは、そんな事は関係ないと思います」
「ふむ」
「ただ、単にニンゲンが好きなんですよ。すごくすごく大好きなんですよ。暖かくて優しいニンゲンが」
「そうじゃな」
 大婆様は目を閉じる。
「そうであろうな」
 そうあって欲しいと願うように。



 数日後、ぼくはまた人里を歩いていた。
 もちろん狐の姿ではない。
 じゃあ、なにかと言うと猫の姿である。
 別にまた誰かの試験とかではない。
 実はあの後、大婆様に言われたのだ。
「役目を果たした褒美じゃ。なにか一つ願いを聞いてやろう」
 っと。
「なんならば、お主にもう一度ニンゲンになる試験を受ける機会を与えてもよいぞ」
 そんな事も言われた。
 それはとてもありがたかった。
 もしかしたら、もう一度みしおの元へいけるかもしれないと言う淡い期待すら持った。
 だけども、ぼくは選ばなかった。
 今度こそ自分の意志で自分の未来を決めた。
 ぼくは忘れたくなかったのだ。
 この冬の思い出を。
 みしおとの思い出を。
 ニンゲンにもしなるならば狐である頃の記憶は戻らない。
 ぼくは手放したくなかったのだ。
 そして、もう一つ。
 ぼくはもう知っている事があった。
 ニンゲンじゃなくてもニンゲンと共にいられるという事を。
 ニンゲンじゃなくてもニンゲンと幸せになれると言う事を。
 だから、ぼくは大婆様にお願いして、みんなの力を借りて正真正銘の猫になった。
 今、ぼくは妹が選んだゆういちというあの男の家で再びお世話になっている。
 みんななかなか良くしてくれてとても幸せに暮らしている。

 ふと匂いがした。
 懐かしい。
 泣きたくなるぐらい懐かしい匂いだった。
 そこには遠い日の記憶に残るあの子がいた。
 大好きな大好きなみしおがいた。
 なぜかゆういちも一緒にいたけど。
 初めて知ったが二人は知り合いなのかもしれない。
 だってとても親しい雰囲気がするのだ。
 ぼくは嬉しくなる。
 ならば、ぼくの大好きな……大好きだったみしおは、もう孤独ではないのだろう。
 いつか怖いと言っていた他人とかつてのぼく以外の相手と向き合えるようになったのだから。
 きっと、昔は持ち得なかった、かけがえのない強さを手に入れて。
 ぼくがもう一度ニンゲンになる必要もなく、みしおは立派に前に向かって歩けていたのだから。
 だから、ぼくは改めてニンゲンにならなくて良かったと思った。
 みしおの事を覚えていられて、こんなみしおがみられて、そう思った。
 それになにより妹の大好きなゆういちが……優しいゆういちが、みしおの友達でいるのがとても嬉しかった。
 ぼくはもうしばらく二人を見ていようと座り込む。
 風に乗って彼等の話が流れてくる。
「あははっ…冗談ですよ。そんなことないです」
「はは…びっくりさせるようなことを言うな。想像してしまっただろ」
「ええ、可笑しかったですよ、今の相沢さんの表情は」
 それは笑い声だった。
 楽しそうでいて、相変わらず二人の声は優しかった。
「でも、あの丘に住む狐が、みんな不思議な力を持ってるのだとしたら……たくさん集まれば、とんでもない奇跡を起こせる、ということなのでしょうね」
 その言葉にびっくりする。
 みしおはどこでそのことを知り得たのだろうか?
 ああ、でもこの街にはぼくらと同じ血を引く兄弟達が何人もいるのだ。
 不思議ではないのかもしれない。
「たとえば…空から、お菓子を降らせてみたり」
 次に発せられた美汐の言葉に思わずわらってしまう。
 昔のみしおはよくそういうことを言っていたのを懐かしく思い出す。
「なんだよ、そりゃ」
「夢ですよ、夢」
「空から、お菓子が降ってきたりすれば、素敵だと思いませんか?」
「思わないね。道に落ちたお菓子は汚いし、交通機関が麻痺してしまうだろ」
 ぼくはそれが素敵な事だと思っていた。
 だって、そうすれば滅多に見られないみしおの笑顔が見られそうだったから。
 だからいつかそんなことが起こればいいねと良くみしおと話してたっけ。
「相沢さんは、現実的すぎます」
「いや、そうでもないよ」
「そうですか?」
 美汐は少しだけ考えると少し残念そうな顔をする。
「……そうですよね」
 だが、すぐに気を取り直してみしおはゆういちへと振り返る
「じゃあ、相沢さんなら、何をお願いしますか?」
「そうだな…」
 しばらく、そう考えゆういちはとてもとても優しい顔をした。
 みしおも同じような顔をしている。
 ぼくはそんな二人を見ながら考える。
 自分なら何を願うだろうか、と。
 そんな事は決まっていた。
 そよそよと流れる風を感じながらぼくは想いを馳せる。
 あと少しで。
 もう少し風が温かくなれば。
 その頃には妹も生まれ変わってここにくる。
 そうすれば、きっと楽しい日々が始まる。
 終わる事のない暖かい日が。
 悲しみなんてこない優しい日々が。
 ずっとずっとそんな毎日が続いて行く。
 終わらない春のような時間が、ぼくはとてもとても楽しみだった。
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