硝子の向こう





 目を瞑った暗闇の向こうに、様々な硝子の破片を想像する。
 そしてゆっくりと、散らばる破片を手にとって覗き込む。
 色のない破片はなかった。破片の数だけ色はあって、同じ色は一つもない。似たような青色の詰まった破片でも、沈んだ深い海の底のような色もあれば、突き抜けた青空のようなクリアなものもある。
 手を伸ばせば、そこにはいつだって破片がある。
 たとえそれが、目を瞑り、現実から少しだけ遠くへ離れたいと思っただけだとしても。目を背け、ただ自分自身を喪失するためであるとしても、変わらず、破片はいつでも散らばっている。
 破片――ということは、それには元になる一つのかたちがあるはずだった。時間の流れと一緒に、確実に増えていっている破片の数。おそらくは比例して、元のかたちもどんどんと大きくなっている。
 でもそれに反するように、前あった破片が見当たらなくもなっていた。
 思われなく、思い出されなくなって、ひっそりと姿を消していくいつかの破片。それはつまり、元のかたちの復元は不可能なことを示していた。
 忘れないように。そう大切にしまった破片の陰で、少しずつ忘れられていった破片を、一体どれほどつくってきたのだろう。
 数えることはできない。忘れてしまったのだから。
 悲しくもない。忘れたいと願ったものもあっただろうから。



   *



 電車を降りて、一人改札をくぐる。だらだらと続く人の流れから飛び出して、見つけた空間に立ち止まる。携帯で確認した時間は、約束の時間には十分間に合うことを教えてくれた。
 隣の県の大学へ行ってからは、来る度にこの駅を懐かしく思えるようになった。失ってからはじめて気づくというわけじゃないが、離れてみてはじめてわかることもあるらしかった。
 駅前の空は高く澄んだいい天気だった。見上げながら、ベンチにゆっくりと腰を下ろす。休日でも、駅の中へ急ぎながら駆けていく人が何人もいた。
 この街のことだ。きっと雪の降る季節になれば、電車もちょくちょくと遅れたりもするだろう。そうなれば、あの人たちは今よりももっと急がなくてはならなくなるのかもしれない。そう思うと、少しだけ同情できるような気がした。
 でもさすがにこの街も、秋に雪が降るなんてことはないようだった。夏ほど暑くもなく、冬ほど澄みきってもいない秋空。この街は割と自然が多いので、歩いていれば綺麗な紅葉も見ることができる。
 と、視界の端に見覚えのある三人が現れた。あたしがベンチから立ち上がると、向こうもこちらに気がついたらしく、大きく手を振ってきた。あたしもそれに二、三回手を振って応える。
「お姉ちゃんっ」と最初に言ったのは栞だった。
「香里、久しぶりだね」
 続いた名雪に、「そうね」とあたしは小さく頷いて返す。
「よう。何も変わってないな」
 挨拶にしては不躾過ぎるんじゃないだろうか。そんな考えをほんの少し表情にのせて、あたしは言う。
「相沢君。人なんて十年経たないと変わらないわよ」
「髪でも切ればいいだろ」
「髪なんてもう何度も切ってるわよ」と呆れたようにあたしは言った。「それに、それで変わるのは人じゃなくて髪型じゃない」
 そう言われればそうか。何も言ってはいなかったけれど、耳を澄ませばそんな声が聞こえてきそうな表情を相沢君は浮かべた。
「祐一さんって、案外抜けてるところがありますよね」
「栞ちゃん、きっとそれが祐一のいいところなんだよ」
「栞な、自分の彼氏にそれはないだろ。つーか、名雪はあんまりフォローになってない」
「だって本当のことだよ」
 ここぞとばかりにあたしも頷く。
「確かに、本当のことね」
 相沢君は何か言おうとして口を開いた後、結局は言いかけのまま何も言わずに口を閉じた。栞の彼氏は、それほど口が達者なわけではないようだ。
 それぞれが視線だけで会話をする。一瞬の沈黙をくぐり抜けて、みんなほとんど一緒のタイミングで笑った。秋の空にひびいた笑い声は、どこか懐かしい感覚だった。
 偶然こうやってどこかで出会えたのなら、それはそれでいいのだろうし、素敵なんだろうけど、今回は違った。あたしに連絡があったのは、一週間くらい前のことだった。
 電話は名雪から。携帯を持ってからは毎日ではないにしろ、それでも頻繁に連絡を取り合っていたから、あたしはその日も普通に電話に出た。
 電話での会話の出端によく使われる『今大丈夫?』とかの決まり文句を抜きに、名雪は最初から用件で会話を始めた。内容はひたすら簡潔で、『とにかく大変だから、週末にこっちに来て!』ということだった。簡潔すぎて意味がわからなかった。
「名雪、落ち着いて。何がそんなに大変なのよ?」
『百貨屋が大変なんだよ!』
 とりあえず落ち着かせるのを諦めてから、あたしは考えた。
 百貨屋が一体どうしたというんだろう。記憶の中から情報を引き出して、大変な百貨屋をとっさにあたしは想像してみる。
 ……火事でもあったんだろうか。もしそれでストロベリーサンデーが食べられないとしたら、それは確かに名雪にとって大変なことだ。
 その予想はあながち的を外しているようにも思えなくて、あたしは小さく頷いた。
「百貨屋がどうしたのよ?」後は答え合わせだけのはずだった。
『スポーツ大会の賞品が凄いんだよ!』
 スポーツ大会? どうやらあたしが考えたこととは、全く違う種類の内容のようだった。
 もう一度電話越しに名雪を落ち着かせながら、内容を着実に汲み取っていく。事情を把握するのに最終的に三十分以上かかってしまった。
「なるほど、ね」
 内容をまとめるとこういうことらしかった。
 来週末に地域のスポーツ大会のようなものがあって、そのスポンサー的な位置に百貨屋が付いている。賞品には百貨屋の商品の無料券(実物ということはないだろう)が用意されている。そして名雪は、その宣伝のビラを見た瞬間にやる気のゲージをMAXの方へと振り切った。
 ところが、この大会は四人一組のチームで協力して競わなければならないらしく、名雪一人ではどうしようもならなかった。
 そこでまずは同じ地元の大学に通っている相沢君と、セットで栞を引き込んだ。そして残りの一人を求めて、あたしに連絡してきたということだった。後で聞いた話だと、北川君には単位ぎりぎりの科目の試験があるということで断られたらしい。
『お願いできるかな……』
 今にも泣き出してしまいそうなくらいに切ない声で名雪が言う。電話越しだというのに、あたしにはその様子が手に取るようにわかってしまった。
 音が届かないように携帯を手で押さえてから、短く浅いため息をつく。
「もう」とあたしは呟いた。「仕方ないわね」
 その後は名雪がこれ以上ないくらいに嬉しそうな声を上げて、電話は終わった。用件以外に内容はなく、まるで切羽詰った業務連絡のようだった。
 それがだいたい一週間ほど前のこと。その電話の主は今も、あたしの隣で嬉しそうに口元をほころばせている。
「香里に会えて、大会にも参加できて、後は明日優勝するだけだね」
 テンションが上がっているのか、そうなるのが当たり前のように名雪は言う。足取りも、四人の中で一番弾んでいた。
「そんなに簡単には優勝なんてできないでしょ」
「みんなで頑張れば、きっと大丈夫だよ」
「応援してるぞ、頑張ってくれ」
「祐一も頑張るの」
「俺には頑張る理由がない」
 何となく、あたしはその言葉に共感を覚えた。考えてみれば、あたしにも頑張る理由はどこにも見当たらなかった。そもそも、名雪以外は頑張る理由は何もない。
「え、祐一さん。私バニラアイス食べたいです」
「百貨屋にバニラアイスなんてないだろ?」
 嬉しさと悪戯っぽさを混ぜたような笑いを名雪は浮かべた。
「祐一は知らないだろうけど、この前新しくメニューに入ったんだよ」
 それでこの間一緒に食べに行ったんだよねー。とあたしの左から名雪が、相沢君の右からは栞が、声を合わせて一緒に頷く。
 名雪と相沢君はこの地域にある大学に通っているし、栞はあの高校に通っている。会おうと思えばいつでも会えるし、一緒に百貨屋に行きたいと思えば行くこともできるんだろう。
「祐一さん、頑張ってください」
 相沢君は言い返すことができるはずもなく、しばらくしてから小さくため息を吐いた。それがある種の納得のため息なのか、あきらめのため息かは微妙なところだった。
「あるかないかの甲斐性の見せ所ね、相沢君」
 少し意地悪にあたしは追い討ちをかけてみる。
「そうだよ、祐一。やっぱり頑張らないと」
「うるせ、ちゃんと甲斐性ぐらいある」
 ふーんと頷いてから、わざとらしくあたしは栞の方へ顔を向ける。
「……って、栞はそこで頷いてくれ!」
 くすくすとあたしと名雪は顔を見合わせて笑い合う。すぐにそれに栞も合流したけれど、相沢君だけは不満そうな表情をつくっていた。無理もないのだけれど、あたしたちにはそれが逆に可笑しかった。
 しばらくして、あたしたちは別れて帰り道を歩き出した。一人暮らしをしていればそれが普通なんだろうけど、久しぶりに帰る実家だった。
 集合は明日の朝、水瀬家に。
 懐かしさを覚える帰り道を、栞と歩調を合わせながら、ゆっくりとあたしは歩いた。



 家に着くと、もうすっかり夕食の準備がしてあった。しかもあたしの記憶にある夕食と比べれば、それはかなり豪勢な彩りをしていた。
 何も変わっていなかった――本当に何一つ変わった様子はなかった――自分の部屋に荷物を置いて、食卓へ戻る。椅子に座った視点から見ると、並んだ料理にはさっきよりも増して存在感があった。
「お母さん嬉しかったみたいです。お姉ちゃんが帰ってくるって聞いて」
 母が台所へ行っているのを見てから、耳元で栞がささやいた。
「それにしたって、これは作りすぎじゃない?」あたしもささやき返す。
「それだけ嬉しくて、今まで寂しかったって言うことじゃないんですか。あ、お姉ちゃんそのウサギさんになってるリンゴ、私が作ったんですよ」
 指差されたリンゴウサギの群れから、あたしは一匹を無造作に掴んだ。何をするわけでもなくしばらく眺めてみる。いつの間にスキルアップしたのか、耳は欠けることなくほとんど左右対称で、どこからどう見てもウサギだった。
 ちらりと横を見ると、緊張した栞の視線があった。あたしがリンゴを眺めているのと同じように、栞もあたしとリンゴウサギを眺めているようだった。
「……目がないわ」とあたしは言った。「栞、ちょっと爪楊枝貸して」
 一度、不思議そうな声を上げてから、栞は爪楊枝をあたしに手渡した。
 あたしは綺麗な円になるように、リンゴの赤い皮に細かく点を打っていった。一つ終わってからはもう一つ、左右対称に点でできた小さな円を作る。
 最後にゆっくりとその点をなぞって、あたしはリンゴの皮から円を取り外した。その下にはリンゴの果実が覗き、リンゴウサギには大体あたしが想像した通りの『目』が出来上がっていた。
「ほら」
 出来上がったリンゴを栞に手渡す。栞はじいっと眺めてから、「すごい」と随分大げさに驚いた。
「お姉ちゃん、やっぱりすごいです」
 やっぱり、はどういう意味で言っているのだろうと考えたけれど、ここは突っ込まないことにした。とても高校生とは思えない幼さで喜ぶ妹に、そんなことを言う気にはならなかった。
「あ、でも」と栞は小さく呟いた。その声には、言葉に出してしまったことへのほんの少しの後悔があるのがあたしにはわかった。
「でも?」と続きを促す。
「……白目向いてます。このウサギさん」
 ほんの少しの間の沈黙。その間に母が戻ってきたおかげで、妙に気まずくなってしまった空気はどこかへと流れていった。
 やっぱり、と今度はあたしが思った。やっぱり、どういう意味か突っ込んでおけばよかったかもしれない。



 夕食は美味しかった。ぼんやりとこれが懐かしさの味なのも、なんて考えたりもしたのだけれど、結局全て食べることはできなかった。こればっかりは、あたしも栞も小食だから仕方がない。
 明日は朝が早いこともあって、あたしと栞はその後すぐにお風呂へ入って、それぞれの部屋に戻った。
 薄暗い部屋の窓からは微かな月明かりが届いていた。そこまで広くない部屋にはそれは十分に明るく、どうせ寝るのだからと、あたしは電気をつけないままベッドに腰を下ろした。
 変わらない部屋だった。一人暮らしをしている部屋には、必要最低限の物しか持って行っていない。だからなのか、目覚まし時計やCDコンポなどはなくなっているけれど、部屋の雰囲気は本当に何も変わっていなかった。埃もたまっていないところを見ると、きっと母が掃除をしてくれているんだろう。
 もし――この部屋に変わってしまったものがあるとすれば、それはこの部屋にずっといなかった、あたし自身だろうと思った。
「……お姉ちゃん?」
 いつからそこにいたのだろう。開いたドアの僅かな隙間から差し込む光と一緒に、栞の顔がひょっこりと飛び出ていた。
 一瞬、突然の声に驚いたけれど、その光景を見た瞬間にするすると気が抜けていくのがわかった。
「どうしたのよ?」
「ううん、別に何でもないんです」そう言いながらも栞は部屋に入ってきた。「明かりは?」
「あ、いいのよ。月明かりで十分明るいから」
 栞は頷いてからゆっくりとあたしに近づいて、隣へと同じように腰を下ろした。
「お姉ちゃん知ってました?」
 窺うように下からあたしを覗き込んで、栞は言った。
「何のこと?」
「そうですね……」と栞は逡巡してから、悪戯っぽく笑った。「この部屋の、秘密についてです」
 この部屋の秘密。秘密の部屋。魔法使いでも出てきたら面白いのだけれど、そんなはずはない。
「かつて、ここはバニラアイスの貯蔵庫に使われていた」
「え、そうだったんですか?」
 どうしてこの子は自分から言っておいて、こんなあからさまの嘘に応じてしまうんだろう。小さくため息をついてから、あたしは言った。
「そんなわけないでしょう。で、この部屋にどんな秘密があるの?」
 栞は隠しもせず、思いっきり不満そうな表情を浮かべた。
「お姉ちゃん、本当に変わってないです。祐一さんの言う通りです」
 そう言ってから、今日の事を思い出したのか栞は小さく笑った。
「それで、この部屋の秘密なんですけど……」
「『秘密は秘密のままの方が格好いい』は、なしよ」
「……今日のお姉ちゃん、意地悪すぎです」
「秘密とか言ったのはそっちでしょう。はい」
 そう言ってあたしは続きを促した。ぶつぶつと小さく文句を呟いてから、栞はゆっくりと立ち上がった。くるりと振り返って視線を合わせる。
「お姉ちゃんから見て、この部屋、どこか変わってますか?」
 ついさっき考えていたことが頭の中をちらついて、少し驚く。
「そうね。ほとんど変わってないわ」
「それです」と栞はあたしを指差した。
「それが、この部屋の秘密です」
 さっきも思ったけれど、確かにこの部屋は変わっていない。その変わってない事が、この部屋の秘密。何だかこの部屋の秘密というよりは、この部屋の事実だった。
 秘密。と考えながら部屋を見渡してみる。どこにも秘密が隠れられそうな場所は見当たらない。物の配置もほとんど換わっていないし、埃だって――
「ああ、そういうこと」とあたしは呟いた。
「掃除、してくれてたの?」
 あたしが気づいたことがきっと嬉しかったのだろう。栞は大きく頷いた。
「ありがと。でも、大変でしょ? こんなことやらなくたって」
「いやです。これからも掃除し続けます」
 栞は何か重大な決意をするかのように、そう力強く断言した。よく見てみると栞はこぶしまで握っている。言葉の内容とのギャップからなのか、あたしたちはすぐに笑ってしまった。
「それにしても、栞に借りができちゃったわね」
「これからも増え続けますよ」
「しばらくしたら踏み倒すわ」
「だ、だめです。そんなことしたら」
 あわてて反論する栞に、ついくすくすと笑ってしまう。
 月が雲に隠れたのか、窓から射しこむ月の光の束が、ふわりと薄い暗闇のベールで覆われた。ほんの数秒の間をおいて、また元通りに輝きだす。
「そういえば栞、明日のスポーツ大会本当に大丈夫なの? あなた体弱いんだか」
 そこまで言って、あたしは自分の発言を、どうせならそこまで言ってからでしか気づかないあたしそのものを、どこかに蹴り飛ばしたくなった。それができないのなら、シュレッダーにでもかけて、誰にもわからないようズタズタにしてしまいたかった。
 笑った勢いにしたって悪過ぎた。
「大丈夫です」と栞は頷いた。「きっと大丈夫ですよ、お姉ちゃん」
 栞はあたしの目を見ながら綺麗に笑った。月明かりに良く映える、本当に可愛くて綺麗な笑顔だった。
 そんな表情をされてしまっては、あたしには言い返す言葉はとても見つからなかった。
 いけないな、と思う。これでまた一つ、栞に借りが増えてしまった。
「本当、大変だったら掃除しなくてもいいからね」
「でも」と栞は言った。「やっぱりこうやってお姉ちゃんが突然帰って来たときに、お部屋は綺麗にしておきたいですから」
「お正月ぐらいしか帰ってこないわよ」
「今日帰ってきてます」
「今日は名雪に呼ばれたから」
「じゃあ、私が呼んだら帰ってきてくれますか?」
 それは、とあたしが言い淀んだところに、借り、と笑顔で栞が呟いた。頭を横に振りながら、あたしは小さくため息をつく。これはきっと相沢君の影響だろう。
「お姉ちゃん、雪が降ったら帰ってきてくださいね」
 遠足を待つ小学生のように、栞はそう言った。その口調からすると、雨天延期の可能性はどこにも見当たらないようだ。
「それで、雪だるま作るんです。雪合戦も、かまくらも。あ、祐一さんと名雪さんも呼んだ方が楽しそうです」
「そうね」とあたしは頷く。
「はい」と嬉しそうに栞も頷いた。
 秋月が照らし続ける部屋。この光が冬の月光に変わり、秘密の部屋に雪の影を落とすようになる頃。
 距離にしたら五十センチもなさそうな、そんな随分近い未来のことを、あたしほんの少し想像していた。



   *



 散らばった破片は、あたしのどこかで機を窺うようにずっと隠れていることがある。
 例えば、あたしが夏の暑さを忘れようと、ひんやりと冷えたアイスを手にした時。
 例えば、ゼミでできた友達が、私には妹がいるのと、嬉しそうに笑った時。
 香里は? 
 ――そう訊かれた時。
 どこに隠れていたのだろう、とあたしは思う。
 瞳を開けたまま見る夢の世界。そんな異なる世界からの使者のように、破片はあたしのどこかから出てくる。
 悪夢ではなかった。そもそもが夢ですらない。現実であるのは確かだった。目の前には友達がいて、ここにはあたしがいて、でも破片もそこにあって。
 そしてやっぱり、あたしは破片を手にとって覗き込む。
 どんなかたちをしていても破片は綺麗だった。包むように映り込む全てを反射する表面と、奮い立たすように研ぎ澄まされた欠けた切っ先。
 ただ――刀が美しいもの、自分の大切なものを守ることができるもの、というだけじゃなく、他の一つのかたちを破片に変えてしまうことができるように、破片が綺麗なだけではないのも仕方のないことだった。
 破片は綺麗だった。
 ただ、綺麗過ぎることもあった。
 痛みもなく、ほんの少しだけ突き刺さった破片を、そっとあたしは引き抜く。



   *



 翌日、あたしと栞が着いたときには、水瀬家の前にはすでに名雪と相沢君が立っていた。
 まるでそこにゴールがあるかのように、小走りなって栞が近づいていく。走っていく後姿を見て気づいたが、相沢君と栞のジャージは色違いで同じ物のようだった。
 はあ、とため息をついてあたしもその後を追った。こういう時は、ため息をついても仕方がないとあたしは思う。
「おはよ、名雪。相沢君」
「おはよー、香里」そう言って、にこやかに名雪は闘志を燃やす。「今日は、頑張ろうね」
「おっす」
 名雪と比較するわけじゃないが、それは呆れてしまいたくなるくらいにぶっきらぼうな挨拶だった。もちろん、当の本人には特に何も気にしている様子はない。
 あたしは呆れたわけではなく、ため息をついて――この街に着いてから何度目のため息だろう、なんて考えながら――小さな声で言った。
「おっす」
 その言葉は、やる気満々で自分の世界に入っていた名雪と、びっくりするぐらいに大きなあくびをしていた相沢君には聞こえなかったみたいだけれど、栞には聞こえていたようだった。
 言ってみると案外悪くない挨拶だと思った。こちらを向いている栞の視線をわかりながら、あたしは気にせずに言った。
「いつまでもここにいないで、会場、行きましょう」
「あ」と名雪が思い出したように応える。「うん。行こう」
 先を行ったあたしと名雪の後ろを、栞と相沢君が続いてくる。
 歩き出してすぐに、あたしはまだ、会場がどこかを聞いていないことに気がついた。今まで訊いていなかったのも可笑しな話のような気がした。でも、そういうのも悪くないと思ったりもした。結局のところはどちらでもよくて、概ねそのときの気分によるのかもしれない。
 名雪によると、そのスポーツ大会の会場は、あたしたちのよく知っているあの高校だった。あたしと名雪、相沢君は卒業し、栞は今通っている普通よりも大きな学校。考えてみればあの場所以外に、この町でしっかりと大勢が動けるような場所はないのかもしれない。
 いつの間にか、あたし達の隊列は横一列になっていた。道幅を考えるとやめた方がいいのだろうけど、こんな休日の朝早くから動く車もなさそうだった。
 名雪と相沢君から、半歩のまた半分くらい後ろをあたしと栞は歩いていた。毎日通っていたせいなのか、名雪と相沢君の歩く道には無駄がないように思えた。
「何か」ふと嫌なことを相談するかのように、相沢君は言った。
「この道を歩いてると、体が疲れてくる気がする」
 どういうことか一瞬わからなかったけれど、名雪がむうと唸ったのを聞いてすぐに意味がわかった。
 毎日が時間との戦い。それは今でも変わらないんだろうか。歩く道に無駄がなくなったのも、きっと自然に身についていたんだろう。半歩分の差は、きっとその現れだった。
 それから二十分ほどで、あたしたちは学校にたどり着いた。つい腕時計を確認してしまった自分に、どうしようもなく苦笑いがこぼれる。ちらりと見てみると、名雪も同じことをしていたようだった。
 グラウンドにはすでにいくつかのグループの姿があった。親子の姿もあったし、あたしたちよりも若いグループも、年上のグループもいた。
 本部、と書かれたテントに名雪が走っていった。一応は受付があるらしく、あたしたちもそこで名前を書いて登録をした。思っていたよりも、大きなイベントになるのかもしれない。
 他の書類の記入は名雪に任せて、あたしたちはテントを出た。校庭の隅、色づいた大きな木に近づいてゆっくりと座り込む。ここなら日差しを和らげて、昼でも涼しい空間になっているだろう。多少でも運動した後にはベストな場所だ。
 それから随分時間をかけて、名雪が戻ってきた。
「結構時間かかったのね」
「考えてたから、時間かかっちゃった」
「考えてた?」と不思議そうに相沢君が言った。「何を?」
「組み合わせだよ。誰が何の種目をやるとか、そういうこと」
「じゃあ、名雪さんが全部決めてきたんですか?」
「うん。ベストを探してたから時間がかかったんだよ」
 そう言って、名雪はどこか誇らしそうに微笑んだ。
 名雪から受け取った種目一覧を見てみると、スポーツ大会というよりかは、若干種目を細かくした運動会という感じだった。どちらにしろ疲れることに変わりはない。
 組み合わせは、あれだけ気合の入っていた名雪が『ベスト』と言っただけあって、その選択は完璧だった。体力の必要になる種目には主に名雪と相沢君が、あたしと栞がやることになっている種目も、何となく性に合っていそうな気がした。
「俺の種目なんでこんなにしんどいのが多いんだ……」
「それは、祐一が男の子だからだよ」
「相沢君は、あたしと栞をそんなに走らせたいのね」
 あたしと名雪が口を揃えて言う。まあ予想はしてたけど、と相沢君は頷いて(うなだれたようにも見えた)、栞は立場上、中途半端な笑みを浮かべていた。
 笑いながら種目一覧に目を向けると、ふと一つの競技が目に留まった。参加する選手はあたしと栞になっていた。視線を送ってみたけれど、栞が気づいている様子はなかった。
 あたしの記憶が確かならば、あれは小学校の運動会だった。
 クラスが一緒だったあたしたちは当然名簿番号も隣で、その競技を姉妹ペアでやることになった。
「栞が結んでよ」
「お姉ちゃんの方が器用だから、お姉ちゃんがやってくださいっ」
 言いながら半ば強引に紐をあたしに押し付ける。その紐は、四つの脚を三つに、同時に走るあたしたちを一つに結びつける紐だった。
 二人三脚は、ほんの一瞬タイミングがずれただけで歯車の狂う種目だった。あたしが焦ってもスピードは落ちたし、栞が遅れたら今度は二人揃って転びそうになった。
 数回の体育の予行練習で知ったその難しさに、あたしたちは驚いていた。見ている分には簡単そうに見えても、やってみるとできないことなんて、今もその頃もたくさんあった。
 だから、あたしたちは運動会まで毎日練習していた。家の外ではもちろん走って、家の中でも紐を結ぶ練習をすることぐらいはいくらでもできた。
 今からすれば、たかがそれだけのことに『だから』の一言で毎日練習できたのは、小学生の特権だったんだろうな、と思ったりする。
 最初は転んだり、紐が解けたり、結ぶのに時間がひどくかかったりしていたけど、その内にスムーズに走ることができるようになっていった。転ばなくもなっていたし、紐も解けずに早く結ぶことができるようにもなっていた。
 自信はあった。基礎的な練習は十分したし、二人の息は――姉妹だからなのかどうかはともかく――合わないことの方が珍しかった。
 ただ、練習は練習で、本番は本番。そういうことだったのだと思う。
 四組のペアが同時に走る中で、あたしたちが前のペアからバトンを受けとったのは、二位と僅差で三位を走っているときだった。練習通りに紐を結んで、タイミングを合わせ、あたしたちは一つになった足を踏み出した。
 練習したおかげの分、紐を結んで走り出した時点で二位を走っていたペアを抜いていた。ほんの少し前には、一位の走る背中が見えた。
 あたしと栞は確実に、そして徐々にテンポを速めていった。少しずつ前との距離も詰まっていった。
 最後のカーブだった。ラストのストレートにはそんなに距離がなく、抜けるとしたらここが勝負。――そう思ったとき、あたしは栞よりもほんのワンテンポ早く、足を踏み出していた。
 今でも思い出す光景だ。盛大に前のめりにこけたあたしたちを、三位四位だったペアが抜いて走っていく。あたしの膝からも、栞の膝からも血が出ていた。
 結局あたしたちは四位で次のペアにバトンを渡すことになった。練習していた時間が、頭の中をぐるぐると回っていたのを、今でも、覚えている。
「そろそろ」と栞の声がした。「開会式みたいですね」
 集合した参加者が、ぞろぞろと本部近くに集まっていた。何人いるかはわからないが、大規模な大会になるのだけは間違いなかった。
 開会式は主催者の初めの挨拶と、集まってくれたことへの感謝と、参加者全員でのラジオ体操で幕を閉じた。
 その後、最初の種目にエントリーされていた相沢君が、ぶつぶつと文句を言いながらその場所へ向かった。残りの三人は応援に回る。それを人を入れ替えて何回もぐるぐると回しているうちに、残りの種目もどんどんと少なくなっていった。
 後半からの種目は、ペアを組んでやるものが多かった。名雪と相沢君の応援に送り出されて、あたしと栞はスタート地点に向かった。
「お姉ちゃん」
 栞の手には配られた紐が握られていた。その紐を押し付けてきた、いつかの手をふと思い出した。
「はい」とあたしは手を差し出す。「ほら、紐」
 少し驚いたような表情を見せてから、栞は紐をあたしに手渡した。
 あたしたちが走る番まで、後三組だった。一つスタートラインが近づく度に、自分の鼓動が速くなっていくのがわかった。もちろんわかったところで、宥めることができるわけでもない。
「お姉ちゃん」
 聞き逃してしまいそうな音量で栞は言った。
「覚えて、ますか?」
「え?」と質問に対して疑問で返す。「何のこと」
「その……あ」
 栞の言葉が途切れる。あたしたちの前にいた組が走り出し、目の前にはスタートラインがあった。
 右手に紐を握って、ゆっくりと前に進む。紐を結ぶのはスタート地点から数メートル先のポイント。いつかのように結ぶことができるかはわからない。
 視界の端で前のグループがゴールしたのが見えた。
 構えてスタートラインに立つ。パン、といつまでも聞きなれない音が響いて、火薬の臭いがする中を走り抜ける。もう一度立ち止まって、四つの足を三つに、二人を一つに結びつける。
 可もなく不可もなくといった速度であたしは紐を結んだ。タイミングを合わせて足を踏み出す。徐々に徐々にスピードを上げていく。
 あの日の光景と、全く同じだった。あたしたちは二位を走り、一位は目の前にいた。最後のストレートはほとんどなく、その手前のカーブが勝負。
 ほんの一瞬の逡巡だった。でも、そのほんの一瞬が狂っただけで歯車が回らなくなることを、あたしは知っていたはずだった。
 カーブで前を走る背中が見えたとき、あの光景が思い浮かんだ。あの日のぼんやりとした近づいた地面と、追い越していく足音。
 時間にすれば一瞬だったろう。でも、それだけで十分だった。ほんのワンテンポ遅く、あたしの足は出ていた。
 もつれた足から紐が解けて、あたしは転んだ。栞は逆方向に倒れたようだった。少しだけ血が出ていて、捻ったりはしていない。ただ、立つ気がしなかった。
 すっと、地面だけの視界を小さな手が覆った。最初はそれが何か、いまいちよくわからなかった。
 その手には土が付き、指先や手のひらが砂利で擦れて薄っすらと血が滲んでいた。
「お姉ちゃん」
 声の聞こえた方へ顔を向ける。ほんの少しの痛みを携えた栞の笑顔が見えた。
 考えるよりも早く、あたしは栞の手を取っていた。解けた紐をもう一度結んで走り出す。もうコースを走っているのはあたしたちだけだった。
 何か、大切なものに手が届いたような気がした。けど、ゴールする頃には、その感覚はどこかへと去ってしまっていた。
 スタートと全く同じに見えるゴールを越えて、あたしたちはゆっくりと立ち止まった。一度息を整えてから、結ばれた紐に手を伸ばす。名雪たちが遠くから、走って近づいてきているのが見えた。
「また、私たち転んじゃいました」
 まだ息切れの直らない声で栞は言った。
「そうね」と下からあたしは答える。「またビリね」
「でも、これでおあいこです」
「あいこ?」
 なかなか解けない紐を引っ張りながら、あたしは言った。
「前は……えっと、小学生の時には、お姉ちゃんが転んだ私を起こしてくれて、今日は私がお姉ちゃんを起こせたことです」
「……そう、だった?」
「お姉ちゃん、もしかして忘れてたんですか?」
「いや、覚えてるとは思うわ。でも……あれ?」
 むう、と不満そうに栞が頬を膨らませる。
「お姉ちゃん、大事なところ覚えてないなんてひどいです」
「覚えてたって。ほんとよ」
 まだ信じられないといった様子で、栞はあたしを見た。
「本当に本当ですか?」
「本当に本当にほんとよ。きりがないからここまで」
 また膨らみかけた栞の頬を、指先で突いてしぼませた。



   *



 目を瞑って、あの日の破片を探す。
 散らばった破片はどれも同じように見えて、でも一つ一つが確かに違った。この中から目当ての物を見つけるのは、宝くじに当たるのとほとんど同じことだった。何枚か手に取ったところで、あたしは探すのを諦めた。
 確かにあの日、あたしは栞を起こしていた。今は思い出せる。でもさっきまでは忘れていた。……忘れていた? 
 どこをそう思ったのかはわからない。けど、何か違う気がした。
 くるりと、一面に散らばった破片を眺めてみる。
 破片は一つ一つ違った。でもよく似ているのも事実だった。
 だとしたら――いつかの二人三脚のように――同じ破片を違う破片と思って覗いたこともあったのかもしれない。同じ青だったのに、いつかのあたしと、またいつかのあたしは、それを違う青と思ったのかもしれない。
 でも、もし本当にそんなことがあったとしたなら。
 そこには一体、何が映っていたのだろう。



   *



 その後残りの数種目を終えて、大会は閉会式を迎えた。
 結局、あたし達は総合六位だった。六位といっても、参加者の数からすれば十分にすごいのだけど、名雪だけは賞品がないことに文句を言っていた。
 閉会式は開会式と同じ道筋に表彰が追加されたものだった。
 主催者の初めの挨拶と、集まってくれたことへの感謝と、表彰。ただその表彰される中に、チーム代表として名雪の顔が混ざっていた。参加者が予想以上に多かったため、表彰を八位まで増やします、と幸せそうな笑みで主催者の人が宣言していた。
 最後に閉会の宣言とともに、大きな拍手が起きて大会は終わった。六位への賞品は特定のメニューの引換券だった。その中にはイチゴサンデーもバニラアイスもあった。
 名雪と栞の二人が、打ち上げに百貨屋に行こうと意気投合して(もちろんあたしと相沢君の意見は求めずに)先を歩き出した。がやがやとした参加者たちの喧騒の中を歩いていく二人を、苦笑いしながら追いかけた。
 百貨屋には見覚えのある人がたくさんいた。きっと大会に参加していた人は、大概同じ思考にたどり着いたんだろう。
 のんびりと注文したものを食べる。といっても、あたしと相沢君はコーヒーを飲んでいるだけだった。あたしは小さい頃から、運動した後には時々食欲がなくなることがあった。
 幸せそうにバニラアイスとストロベリサンデーを食べる二人を眺めながら、あたしは少し甘めのコーヒーを飲んだ。二人を見ているだけで、十分こっちも幸せになれた。
「香里、これからどうするの?」
 口の端についた生クリームを取りながら、名雪が言った。
「すぐ帰らなくちゃね。明日は講義もあるし」
「大変なんだな」
「相沢君も、でしょ」
 また、そう言われればそうだ。そんな声が聞こえてきそうな表情を、相沢君は浮かべた。
「やっぱり祐一さんって、抜けてるところがありますよね」
「口の端にバニラアイスつけた奴に言われたくないぞ」
 くすりと、つい笑ってしまう。
「確かに、その通りね」
 あたしが寝返ったとかそんな文句を聞きながら、あたしはゆっくりとコーヒーを飲み干した。
 食べ終えてから店を出て、一度家へ向かう。もっとゆっくりしていたい気もしたけれど、今日中に帰らなければいけないのだから、仕方なかった。
 荷物や着替えを済ませて家を出る。今日のことを話しながら歩いていると、いつの間にか駅についてしまっていた。
 来たときと同じように人のいない空間を見つけて、あたしは立ち止まった。
「香里、またね」
「次はもっと違う用件で呼びなさいよ」
「出来る限りは、頑張ってみるよ」
 何をどう頑張ると言うんだろう。気になりもしたけれど、それは次の機会にとっておいた方が面白そうだった。
「お姉ちゃん」と栞が言った「約束。忘れちゃだめですよ」
「約束?」
 と言われて、追いかけるように答えがわかった。「ああ、借りはちゃんと返すわ」
「『借り』ってわざと言わなかったのに……」
 栞は少し残念そうに言ってから、すぐに嬉しそうな表情で言った。
「でも、楽しみにしてます」
「何のことだかわからないけど、気をつけてな」
 最後の最後まで、相沢君はぶっきらぼうだった。ぶっきらぼうというよりは、ただ単に、こういう会話になれていないだけなのかもしれない。
「相沢君も、その内わかるわよ」
 この街に雪の降る季節が来れば、答えはすぐにわかる。
 改札をくぐり抜けると、ほとんど待たずに電車が滑り込んできた。少し恥ずかしい気もしたけれど、もう一度手を振ってから電車に乗り込む。
 大きな窓からも手を振っていると、すぐに駅は視界から流れて、その内にそこにはあたしが映りこんだ。
 あたしがそれに驚くと、向こうのあたしも同じように驚いた。その様子が馬鹿みたいで、今度は笑ってしまうと、やっぱり同じように向こうも笑った。
 何か、そう、何かが、ふとわかった気がした。
 動き出した電車の揺れを感じながら、ゆっくりと目を瞑る。やがて訪れる暗闇の向こうには、様々な硝子の破片を想像する。
 その一つを手にとって覗き込むと、中にいた誰かが、「おっす」と小さく声をかけてきた。あたしもそれに小さく応える。
 なぜだか、それが可笑しくて、ためしに笑ってみると、破片の中の彼女も小さく笑った。
 覗きこんだ破片に映っていたのは、あたしだった。
 いつだって、ただそれだけだったんだと思った。ずっと、覗き込んだどの破片にもあたしが映っているだけだったのだ。
 気づいていたのかもしれなかった。綺麗だと思い込む必要はどこにもないのに、意味もなくそう言い聞かせたあたしの破片。あたしがあたしに刺さったところで、一体何の問題があるだろう。こうして目を背けずにいれば、あたしが笑えば、そこに映るあたしだって笑ってくれる。
 手に取っても、並べてみても、きっとわからない元のかたち。でも、きっとそこには意味はない。大きな窓に映ったあたしも、小さな硝子の破片に映ったあたしも、そこには同じあたしが映っているのだから。
 瞼を開けて窓の外を見つめる。そこにはまだあの町の姿があった。思わずため息をつきたくなるような、鮮やかな姿だった。
 雪が降るのはいつだろう。そう思いながら、あたしは流れていく景色を見つめていた。
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