『もーいーいかーい……』

 薄く眼を開いた。
 赤い。目の前を赤い闇が覆っている。
 目が慣れてくるにつれ、その下にもう一つの色が浮かび上がる。
 再び瞼を閉じそうになるのを堪え、私はもう一度呼びかけた。

『もーいーいかーい……』

 地平線で切り分けられた二つの色。地上を這う黄金色と、世界を包み込む空の赤。流れ落ちる血のようなその赤はとても綺麗で、でもとても恐ろしくて――。
 気がつけば私は薄赤色に輝く麦畑の中を一人、駆けていた。

『もーいーかいっ…… もーいーかいっ……』

 幾度となく声を上げながら走り続ける。答えはない。そんなこと知っていた。答えてくれる人なんていない。そんなことは分かっていた。
 だれか……だれか……。
 私は目を閉じた。暗闇の中を走りながら、何度も叫び続けた。

『もーいーかい……』

 瞼の隙間から流れ込む真っ赤な夕映えが体に滲み、心に滲み、私のすべてを赤黒く染め上げた。


   §   §   §


 はっと顔を上げた。
 反射的に傍らの剣を掴み、周囲に神経を張り巡らせる。
 握りなれた柄の感触が淀んだ意識を急速に引き戻す。速く、強く、心臓が叫び声を上げている。手のひらに滲み出した生温かい汗を拭き取るように、私はもう一度剣の柄を握り直した。
 階段の上、下。廊下の奥。素早く視線と意識を巡らせる。だが気配はない。私は耳元で鳴る心臓の音をかき消すように、大きく息を吐いた。
「寝てたろ、舞」
 その声に私は振り向かずに答える。
「……寝てない」
「嘘つけ。よだれ、垂れてるぞ」
 慌てて口元を制服の袖で拭う。だがその袖口が乾いている。私は声のほうへと振り返る。薄い月明かりに温かい眼差しが浮かび上がった。
「冗談だ」
 私はまっすぐ右手を掲げた。そしてその顔の中央に手刀を叩き込んだ。

「痛い……」
「祐一が悪い」
 緊張感のない声に私は冷たく言い放つ。治まりかけたかに思えた心臓の音が、再び大きく鳴り響いている。私は顔色を悟られぬよう祐一に背を向け、長く伸びる廊下の暗闇をじっと睨みつけた。

 こんな気持ちになってしまったのはいつからだろう。はっきりとは分からない。いつの間にか――そんな言葉でしか説明できない温かな気持ちが、今では私の胸の中の大きな部分を占めてしまっている。
 いや、それ自体が問題なのではない。
 魔物の気配がすでに絶えていたとはいえ、戦場でまどろみに落ちてしまった。以前の私であれば到底考えられないことだ。
「――たるんでる」
 口に出してしまってから、改めてそう思った。
 その原因は分かっている。

「そんなこと言われてもな、舞。お前が寝てたのは本当だぞ」
 背後で「原因」が泣き言を言う。
 分かっている。私は祐一に甘えすぎている。祐一を危険に巻き込みたくないと思いながら、本当は祐一との関係が切れてしまうことを何よりも恐れている。
「……修行が足りない」
 小さな心地よさを背中に感じながら、半分は自分に向けてそう呟いた。








  

鬼さんこちら










   §   §   §


「奇跡を起こす子どもって、聞いたことない?」

 夏休みも半ばを過ぎた晴れた日の午後。遊び疲れた私たちは、桜の木陰に座り込んでいた。目の前には収穫前の麦の穂が生垣のように連なっている。地平線の向こうから吹き付けてくる心地よい風が私の髪を揺らすと同時に、黄金色の麦たちが一斉になびき、さらさらと歌いはじめた。
 隣に座った男の子が半ズボンのポケットからハンカチを取り出し、汗を拭う。
「この街にね、いるって噂なんだけど」
「俺、この街には初めて来たし」男の子はそう言うとハンカチをくしゃくしゃに丸めてポケットにねじ込んだ。
「それでその子どもってね、さわらないで物を動かしたりとか、雨や雪を降らせたりとか……強く念じるだけで色んなことができるんだって」
「それって神様じゃん」
「……そこまですごくないと思うけど」

 胸の奥の誇らしげな気持ちを隠しつつ、私は話し続けた。
 夏休みの間だけこちらに来ているというこの男の子との出会いが、私を少しずつ変えようとしていた。初めてできるかもしれない友達。私のことを知っても、逃げ出したり距離を置いたりしない、本当の友達。
 この子なら本当の私を受け入れてくれるかもしれない。そんな想いが私を普段よりも饒舌に変えていた。
 だがそんなささやかな期待も、男の子の何気ない一言に打ち砕かれた。

「でもやっぱり怖いよな」
「……怖い、の?」
 照れ笑いのような表情を浮かべながら言う男の子に、私は問い返した。悪気のない、だが容赦のない言葉が飛ぶ。

「怖いだろ。もし逆らったりしたら、念じるだけで殺されちゃうかもしれないぞ」
「そんなこと……しないよ、きっと」
「俺だってケンカしたやつに、お前なんか死んじゃえーって思ったことあるし。そんなこと出来るんじゃ、奇跡の子っていうより鬼の子だよな」

 私は言い返せなかった。独りよがりな期待が足の先から溶けてゆくのを感じた。
 しばらくの沈黙の後で、私は恐る恐る言った。

「あのさ、もし……」
「ん?」
「……ううん、何でもない」

 男の子は大きく息を吸って立ち上がり、私の手を掴んだ。
「なあ、次は鬼ごっこしようぜ。最初は俺が鬼。次は――お前が鬼な」
 私は黙って頷いた。胸の奥が釘で刺されたように、ずきりと痛んだ。だが今はただ一秒でも長く、この男の子と遊んでいたかった。

 ――もし私がその鬼の子だったら、どうする?
 そんな問いを、私は結局言葉にできなかった。

 夏の太陽の光を映し込んだ黄金色の麦を掻き分けながら、私たちは青空の下へと駆け出していった。


   §   §   §


 空が青い。
 いつ見ても雲ひとつない鮮やかな冬空は、きっと昨日の空と取り替えても誰も気がつかない。
 まるで人工的に造られた映像かと思うほどに画一的な青が、頭の上に広がっている。
 パーフェクト・ブルー。そんな単語が頭をよぎる。
 すると突然、私の視界いっぱいに黄色い塊が飛び込んできた。
「はい、舞。あーん」
 反射的に開いてしまった口に何かが押し込まれる感触。スポンジケーキのようなふんわりとした舌触りとともに、甘い卵の香りがいっぱいに広がる。そしてひと噛みすると幾重にも重ねられた衣が一息に割り裂かれ、とろけるような濃厚な甘味が少し遅れてやってくる。
 私の好みに合った、見事なお手前。

「おいしい、舞? 今日の卵焼きはね、蜂蜜を使ってみたんだよ」
「……かなり、嫌いじゃない」
「あははっ。それじゃ佐祐理の分も舞にあげるね」
 私はこくこくと頷いた。

 佐祐理は自分の容器から卵焼きをつまみ上げ、ひょいひょいと私の弁当箱へ移している。弁当箱はたちまち黄色い山に埋もれて白飯を覆い隠した。
 青い空。そして黄金色の卵焼き。瞬間的に交錯したその二つの色の組み合わせに、私は何かを思い出しかけていた。

 ――最近よく見る、あの夢。

 遠い昔に見たはずの記憶。風にざわめく一面の麦畑。そこで一緒に遊ぶ私と、もう一人の子ども。おぼろげながらそれは覚えている。
 だがあの日に見たはずの空の色が――どうしても思い出せない。この冬空のような青空だったのか、それとも……。

「佐祐理さん。あーん」
 隣から間の抜けた声が聞こえる。横目で見ると、輪をかけて間抜けな顔が口を大きく開けている。
「祐一、意地汚いよ。お昼ごはん、もう食べたでしょ」
「そう言うな。育ち盛りの男子にとって、学食のランチなど間食のようなものだ」
「ごめんなさい、祐一さん。舞にあげた分で品切れなんです。」
 祐一が露骨に泣きそうな顔をする。
「佐祐理さん。俺が卒業するまで毎日弁当を作ってください」
「わがまま言わないの。先輩たちは三月で卒業なんだから」
「なら名雪、お前が佐祐理さんの弁当を再現しろ」
「無茶言わないで……」

 ずっと二人きりだった私たちの昼食風景には、少し前から新しいメンバーが加わっている。
 祐一。
 忘れ物を取りに夜の学校へ忍び込んできた、一つ年下の二年生。もともと調子のいい性格だったのだろう、いつの間にか私たちの食事に紛れ込んでしまっている。

 冬の間は屋上には出ずに、階段の踊り場で昼食をとるのがそれまでの私と佐祐理の日常だった。狭い階段に三人で腰掛けるよりは、という佐祐理の提案だったが、予想通りこの寒風の下で弁当を広げる生徒は私たちのほかには誰もいない。
 そして先日からさらにもう一人、祐一の従姉妹の名雪がこの昼食の輪に加わっている。人数が多いほうが楽しいから、と祐一が無理に連れてきたらしい。寒いと不満を言いつつも、彼女もまた大勢で食事をすることにはまんざらでもない様子だった。

 食事を終えた佐祐理に祐一が話しかけた。
「そういえば聞いてなかったけど、舞と佐祐理さんって進路はどうなってるんだ?」
「佐祐理はこの街に残りますよ」
 その言葉に名雪が上ずった声を上げた。
「進学しないんですか? 先輩ってすごく成績がいいって聞いてるんですけど」
 はい、と佐祐理は嬉しそうに言った。
「家事手伝い――俗に言う花嫁修業ですね」
「佐祐理さん。俺が幸せにします」
「あははーっ」

 他愛のない冗談が飛び交う昼食風景。佐祐理と二人だけのときは、これほど楽しい時間ではなかったように思う。佐祐理が不満なわけではない。それはきっと祐一の存在が、私の中でとても大きくなってしまっているからだ。

「佐祐理さんのお父さんって市会議員だろ? 後を継いで政界に打って出るとかしないのか」
「そんなの佐祐理は柄じゃないですよ」
「舞はどうするんだ?」
 話を振られて、私は口に入れていた卵焼きを急いで飲み下した。
 進路なんて考えたこともなかった。卒業した後でも私の使命が終わることはない。私にはやることが、やり続けなければならないことがある。
「私も佐祐理と同じ。この街に残る」
「俗に言う、無職ってやつだな」
「祐一さん、舞をいじめたら佐祐理が許しませんよー」

 校舎の間から吹き上がった寒風は屋上を囲むフェンスをものともせずに、私たちにまとわりつく。それでもこの暖かな空気の前には退散するしかない。まだ僅かに雪の残る屋上で、この一画だけが春の風に包まれていた。
 心地よい空間。温かい人の輪。心休まるひと時。
 だがこれも束の間の休息だ。夜になればまた、戦いへと身を投じなければならない。
 ふと、思った。
 ――私はいつまで戦い続ければよいのだろう。
 冬空は変わらぬ色を頭上に横たえたまま、何も答えてはくれなかった。


   §   §   §


「もーいーかーい」
「まーだーだよ」

 男の子は毎日姿を見せた。私一人の遊び場所だった麦畑は、いつしか二人だけの秘密の場所へと変わっていた。
 正直に私の力のことを話してしまおう。そんな気持ちも、もう忘れてしまっていた。
 こんな日々がずっと続けばいい。ただそう思っていた。

 その日もいつものように隠れんぼが始まっていた。
「見つけたっ」
 不意に立ち上がった男の子を指差しながら、私は麦の穂を掻き分けて近づいた。だが男の子の反応はない。私の声が聞こえないかのように立ち尽くしたまま、辺りをきょろきょろと見回している。そして遠くを見つめたまま私に聞いた。
「なあ。声、聴こえないか? なんか……泣いてるみたいな」
 私は耳を澄ました。
 小さなか細い声が、風の音の合間からかすかに聴こえてくる。必死な、でもどこかあきらめの混じったような物悲しい声だった。

「あの木だ」
 そう呟くと男の子は駆け出した。
「待って」
 私は叫んだ。彼に追いつこうとしたのではなかった。私は彼を止めようとしていたのだ。どうしてかは分からない。とにかく彼を行かせてはいけない。そんな気持ちが、苦しいほどに胸を締め付けていた。
「行かないで」
 もう一度、私は叫んだ。だが男の子は振り返らなかった。伸ばした手の向こうで、揺れる背中が見る見る小さくなっていった。

 楽しい時にはいつか終わりが来る。おしまいの日がやってきた予感を、私はその背中に感じ取っていた。


   §   §   §


 体重の乗った一撃が宙を切り裂いた。衝撃が刀身から指先を通り、肩へと突き抜ける。力を断ち切る確かな手ごたえが周囲の空気までも震わせる。
 直後の反撃を警戒し、私は振りぬいた剣を素早く水平に構え直した。が、それは杞憂だった。何もない空中に浮かび上がった大きな傷がねじれるように揺らめいた直後、断末魔にも似た低音の唸りが廊下に響き渡った。そして不快な残響音を撒き散らしながら、魔物の気配は闇に溶けるように四散していった。

「舞っ」
 真新しい木刀を手に、祐一が駆け寄ってくる。私は彼を一瞥して言った。
「終わった。今ので終わり」
 祐一は大きく息をつき「お疲れさん」と私に言った。

「舞は今までで、どのくらい魔物を倒したんだ?」
 夜の廊下を歩きながら祐一が問いかけた。
「……わからない」
 私は指折り数えてみる。
「週に三、四体は仕留めてる。一年で……二百体くらい?」
「キリがないな」
 疲れた表情で祐一がため息をつきながら言った。
「なあ舞。魔物にはボスとかはいないのか」
「……ボス?」
 オウム返しに言葉を聞き返すと、祐一は身を乗り出して言った。
「親玉ってことだ。だいたい、おかしいだろ。そんなにたくさん魔物がいるなら一斉に襲い掛かってくればいい。そうしないのは、舞に倒された分だけ何者かが魔物を生み出しているからじゃないのか」
 私は少し考えて言った。
「わからない」
 祐一は肩をすくめ「仕方ないな。地道にやるか」と私に笑いかけた。

 祐一の言うことにも一理ある。確かに出現する魔物は多くても一晩で五、六体。現れない日もあるが、対処しきれないほど出現する日は無い。そしてどれほど優勢に戦いを進めていても、一体が倒されると全ての魔物が撤退してしまう。
 ――まるで手加減でもしているように。


「うわっ」
 昇降口から中庭に抜ける道で祐一が声を上げた。
 振り返る私に、太い桜の幹に手をつきながら祐一が照れたように笑う。
「大丈夫だ。ちょっと滑った」
 祐一の足元には溶けかけた雪の塊があった。月明かりにぼうっと白く輝くその雪はところどころに泥が混じり、下のほうにはついたばかりの靴跡が見える。よく見ればその塊の真ん中には赤い南天の実が二つ、目玉のように並んでいる。その赤い目の下には万歳をするかのように二本の枝が差し込まれている。
「雪だるまだな。ほとんど溶けてるけど」
「かわいそう……直す」
 おいおい、と祐一はため息をついた。

 この辺りは昼に陽が当たるようで、周囲にはほとんど雪が残っていない。小さな雪だるまに作り直そうか。そう思った私の頭に、ひとつの考えがひらめいた。
「祐一、持ってて」
 私は剣を鞘ごと差し出した。そしていぶかしがる彼の手に剣を握らせ、その場に屈みこんだ。
 ちょっとしたいたずら心。
 私は残り少ない雪を両手にすくった。直接手に触れた雪は思っていたよりもずっと冷たく、たちまち指先の感覚を奪ってゆく。不思議と心地よいその冷たさに戸惑いながら、私はその雪を桜の木の陰に移した。ここならそう簡単に溶けることもないだろう。私は作業を続けた。
 雪だるまの目玉と手を外し楕円形に形を作り変える。黙々と作業を続ける私を、祐一は隣で屈みながら見守っている。
 そして数分後。
「できた」
 溶けかけていた雪だるまは雪うさぎへと生まれ変わった。できる限り綺麗な雪で表面を覆った真っ白な体が暗闇に浮かび上がる。南天の赤い目玉に小枝の耳。枝分かれしたその耳はまるでトナカイの角のようにも見える。
 上々の出来ばえ。
 でも桜の木の陰に一匹でじっとうずくまるその姿は、どこか寒々しい。
「寂しそう」
「ウサギってな、寂しいと死んじゃうんだぞ」
 にやけた顔で祐一がそんなことを言う。
 私はその頭のてっぺんを手刀で叩いた。こういうとき、祐一はデリカシーが無さ過ぎる。小さな子どもが駄々をこねるように、私はその頭を叩き続けた。

「分かった、分かったって」
 しょうがないな、と祐一は立ち上がった。
「ちょっと待ってろ――よっと」
 そう言うと彼はおもむろに桜の幹を靴の裏で蹴飛ばした。伝わる衝撃が枝を振るわせる。溶け残った雪がたちまち大量の水滴とともに弾き飛ばされ、夕立のように降り注いだ。
 とっさに飛び退いた私の目の前を大きな雪の塊が掠めた。落とされた雪はあちこちに散らばり、地面に降り積もっている。
「これだけあれば十分だろ」
 周辺の惨状に目もくれず、祐一は落下した雪を掻き集めている。私はその背中を睨みながら言った。
「祐一は、乱暴すぎる」
「いいじゃないか。綺麗な雪も手に入ったし」
「木がかわいそう」

 不満をぶつける私をよそに祐一は集めた雪を一箇所に固めている。そして私の雪うさぎの隣に、それよりも一回り大きいもうひとつの塊を作り上げた。
「ほら、これで寂しくないだろ?」
 私の作った雪うさぎの隣に、少し大きな雪うさぎが姿を現した。二匹の雪うさぎには、目も、耳も、それぞれ片方づつしかなかった。それでもお互いの欠けた部分を補い合うように、ぴったりと寄り添うように並んでいる。
「……よかった」

「なあ、舞」
 二匹の雪うさぎを見つめる私に、不意に祐一が真面目な顔で言った。
「お前が夜中に魔物と戦っていること、佐祐理さんは知らないのか?」
「当たり前。佐祐理には関係ない」
 祐一の目がまっすぐに私を見つめている。その射すくめられるような視線に私は一瞬たじろいだ。
「例えばさ、お前が佐祐理さんに魔物のことを打ち明けたとして、佐祐理さんと今までどおりに接することができなくなったらどうしようとか、考えたことないか? それならいっそ秘密にしたまま、ずっと今の関係を続けていこうとか思わないか?」

 妙に真剣な顔で祐一がまくし立てる。らしくないな、と思った。だが私は自分の正直な考えを言葉にした。
「佐祐理を危ない目にあわせるわけにはいかない」
 そう言いつつも私は言葉を続けた。
「それでも自分で一歩を踏み出す覚悟は決めないと駄目。平穏な日々にも必ず終わりが来る。そのとき後悔するのは、自分」

 ふと、気づいた。
 一歩を踏み出せないでいるのは私だ。佐祐理のことだけじゃない。魔物に切り込む勇気はあっても、目の前の胸に飛び込む勇気はない。この夜がずっと明けなければいい。そう思っているだけ。この幸せな夜がずっと続けばいい。ただそう思っている。でも――
「明けない夜なんて、ないから」
 そう自分にも言い聞かせた。

 祐一の顔が綻び「そっか」と呟いた。先ほどまでの憂いを含んだ表情はどこかへ消え去り、いつもの飄々とした雰囲気が戻る。
「ありがとな、舞」
 何かが吹っ切れたように祐一の声は弾んでいる。
「お前もいつか、佐祐理さんに全部打ち明けられるようになるといいな」
 斜めに差す月の光が逆光となり彼の表情は暗がりに見えなくなった。それでも光を失わないその瞳をまっすぐに見つめて、私は強く頷いた。

「ところで舞。水を差すようで悪いんだが」
「……何?」
 急に顔を近づけてきた祐一に私の声が少し裏返った。その視線が不意に上にずれる。
「雪、積もってるぞ」
「…………」
 私は自分の頭を手で払った。水気を含んだ雪がべちゃりと足元に落ちる。前髪を伝い流れる水滴の向こうで、祐一が肩を震わせて笑いを噛み殺している。
 私はその顔の中心に狙いを定め、かなり強く手刀を叩き込んだ。


   §   §   §


 風は止んでいなかったと思う。
 だが擦れあう葉のざわめきは聴こえなかった。
 まるで夢の中のような静寂の世界。生い茂る葉の隙間から夏の陽光が差し込む、光と影の世界。空中で仰向けになった男の子の白いシャツがだけが、妙に眩しく見えた。

 枝の先で鳴く子猫に、男の子は脇目も振らずその木によじ登った。彼は自分の出来ることを精一杯果たそうとしていた。
 でも彼の両腕がその小さな体を抱きとめたのを、子猫の後ろ足が彼の腕を蹴ったのを、バランスを崩した彼の指が宙を掴むのを、私はただ眺めていただけだった。

 男の子の小さな体が枝を離れた。
 私は手を伸ばした。今なら間に合う。私の力なら、助けられる。
 でも、できなかった。
 私はその背中を見つめていた。見つめ続けていた。声も出せず、瞬きもできず、あっという間に近づいてくる背中を、ただ呆然と眺めていた。
 そして――とさり、とあっけないほどに小さな音を立てて、少年の体は地面に打ち付けられた。


 地面に倒れたまま微動だにしない男の子の姿は、夢の中の景色のようにかすんで見えた。私は恐る恐るその体に近づいた。声をかけた。名を呼んだ。
 血の滲んだ腕が、ごろりと地面に投げ出された。

 気がつけば私は走り出していた。いや、逃げ出していた。頭を垂れる麦の穂を掻き分け、踏みつけ、泣きながら走り続けた。
 あの一瞬の光景がビデオテープのように、何度も頭の中で繰り返される。あの瞬間、私は動かなかった。力を使わずに済む方法だけを考えていた。彼に避けられたくないという自分勝手な理由で、逃げ道だけを探していた。
 この麦畑は私のたった一人の遊び場所だった。それはいつしか男の子と二人の秘密の場所になった。だが今は、一刻も早くこの場所から逃げ出したかった。


 それからどうしたかは覚えていない。大人たちが騒ぎ始め、救急車のサイレンが遠くかすかに消えていくのを、私は自分の部屋で震えながら聴いていたように思う。


 翌日、あの男の子の怪我が軽い打撲と擦り傷であったことを母から聞かされた。
 それから一週間もしないうちに、私はあの麦畑が無くなることを知った。父が世間体を気にすることも、その理由も分かっていた。あの場所はもともと、新しい学校を建てる土地の候補になっていたらしい。それが急に決定した理由は分からなかったが、あの事故が関係していることだけは想像できた。
 そしてそれは、二人を結びつける二人だけの遊び場所がなくなることを意味していた。それは大切な場所と大切な人を、同時に失うことだった。

 だから私は、あの嘘をついた。


   §   §   §


「何かいいこと、あった?」
「……ちょっと」
 校門をくぐるときに佐祐理が言った。否定はしない。一緒に登校している間、ずっと喋りたくて仕方なかったのだ。佐祐理が私の様子に気づいても不思議じゃない。
「佐祐理に、見せたいものがある」
 私は子どものように浮かれていた。新しく手に入れた玩具を自慢するような、そんな気持ち。

 だが桜の根元にたどり着いた時、私はその光景に声を失った。
 雪うさぎは粉々に砕け、その原形をとどめていなかった。目玉の一つはどこかへ吹き飛び小枝の耳は折れて脇に転がっている。そして残骸の真ん中には二匹を引き裂くように大きな足跡が残されている。

「壊れちゃってるね」
 佐祐理の言葉に小さく頷く。
「舞が作ったの?」
 もう一度頷いてから私は言った。
「直す」
 私はすぐに動いた。綺麗な雪を探さなければならない。綺麗な雪が、どこかに――記憶の中に一つの場所が浮かんだ。
 私は校舎に飛び込んだ。掃除用具置き場から鉄のバケツを調達し、階段を駆け上がった。


 雪を手に入れた私に、昇降口で佐祐理が声をかけてきた。
「はい、舞。よかったらこれ使って」
 佐祐理が差し出した手のひらの上には南天の実が四つ、そしてどこから調達してきたのか楕円形の葉が四枚、きれいに重ねられていた。
 私はこくんと頷いてそれを受け取った。
「先に教室に行ってるよ。出来上がったら一番に見せてね」
 佐祐理はそのまま教室へと向かっていった。
 これで雪うさぎを直せる。祐一との大切な思い出を修復できる。それだけじゃない。今度は佐祐理が見つけてくれた材料がある。これがあればもっと綺麗な雪うさぎにできる。
 足取りは軽かった。屋上の雪が詰まったバケツも、その重さを感じさせなかった。


 桜の見える角を曲がったとき、私はその根元にいる二つの人影に気がついた。一人は雪うさぎがいた辺りに屈みこみ、手を動かしている。
 私は慌てて校舎の陰に身を隠した。長い髪のその横顔には見覚えがあった。

「あんたも物好きよね。珍しく早く登校したと思ったら雪遊びなんて」
 少女の友人らしい二年生が腕を組みながらもう一人を見守っている。ウェーブのかかった長い髪が風に揺れている。
「ちがうよ。たまたま見かけただけ。壊れたままじゃかわいそうだから」
 友人はしばらくの沈黙の後で思い切ったように言った。
「ね、名雪。昨日何かあったの?」
 少女の――名雪の手が止まった。そして視線をそらさずにこくんと頷いた。

 そのとき私は初めて彼女の手元にあるものを見た。そこに雪うさぎはなかった。二つの雪うさぎの残骸は重ねあわされ、それらは体と頭の二つの部品へと変えられていた。
 それは――雪だるま。
 昨日の夜に見た溶けかかった雪だるまの顔が、幻のように浮かんで消えた。

 名雪は雪だるまを作る手を止めて言った。
「昨日の夜ね、祐一がわたしの部屋に来て言ったんだよ。わたしのこと……好きだって」

 どくん、と音がした。
 体の中に入ってきた何か冷たいものが、背中を通して体を駆け巡った。

「すぐにじゃなくていいから、返事が欲しいって」
「そうなんだ……相沢くん、思い切ったわね」

 指から力が抜けてゆく。取り落としそうになるバケツのつるを慌てて両手で持ち直す。

「気づいてないのかなとは思ってたけど。相沢くん最近、名雪のことすごく意識してたわよ。名雪だって結構前から、相沢くんのこと気にしてたでしょう?」
「わたし、わからないよ」

 わからない……ワカラナイ……

「わたしね、子どもの頃に一度、祐一に振られてるんだ。だから……ショックだった。あの頃の気持ちは、あの頃に置いてきたつもりだったから。ただの従姉妹としてなら、これからも今までどおりに祐一と接することができるって思ってたから」

 名雪が喋る。

「ねえ。わたし、どうしたらいいのかな。どう返事したらいいのかな。どんな顔で、祐一に会えばいいのかな」
「……自分の今の気持ちに、正直になりなさいな」
 一時間目は移動教室だから急ぎなさいね、と言い残してその友人は去っていく。


 言葉が、回っている。
『いっそ秘密にしたまま、ずっと今の関係を続けていこうとか思わないか?』『そのとき後悔するのは、自分』『明けない夜なんて、ないから』『わたしのこと……好きだって』

 祐一の……背中を……

 自分の体から大きな黒い塊が膨れ上がり、破裂した。私はそれを感じていた。そのこと自体に私は何の感情も抱かなかった。

 ワタシガ……押シタ……?

 隣で窓が爆発したのにも気づいていた。次々と砕け散るガラスの誘爆が名雪に近づくのも見ていた。私はそれをただ、夢の中の出来事のように見つめていた。
 砕けたガラスの欠片が舞う。朝の光をきらきらと散らしながら、粉雪のように降り注ぐ。

 ナンテ、綺麗。

 砕け散るガラスがこれほど綺麗ならば、砕け散る私の心はどんなに綺麗に見えるだろう。
 桜の木が根元から爆ぜて少女に向かって倒れるのも私は見ていた。不思議な高揚感に包まれながら、私は見ていた。
 名雪が振り向いた。車道に飛び出した子猫のようにその体が固まる。その瞳に映るのは自分に向かって落ちてくる巨大な樹。彼女は逃げない。もう逃げられない。

 砕ケ散ル少女ノ体ハ、ドンナニ綺麗ニ見エルダロウ――

 どこかで叫び声が聴こえる。しかしその声は倒れ行く樹木の最後の悲鳴にかき消された。轟音が、割れ残った窓ガラスを振るわせた。
 宙を舞う巨大な質量と化した樹が名雪の小さな体を押し潰した――かに見えた。刹那、少女の体は横に大きく弾かれた。そして車に跳ねられたように二度、三度と地面を転がった。

 カラン、と響く乾いた音に私の意識は急速に覚醒した。つま先の鈍い痛みに足元を見ると、手にしていたはずのバケツが地面に転がっている。雪はこぼれ、バケツは不規則に揺れながら弧を描いている。

「嫌……いやだよ」
 名雪が這うようにして木に近づくのが見える。倒れた木の下から、二本の足が突き出ているのが見える。
「祐一……ゆういちっ」
 泣き叫ぶ名雪の傍らには、幹の根元から折れた桜の木が倒れている。そして、その木が押し潰しているのは――


   §   §   §


 夏休み最後の日。麦畑にやってきた男の子に私は言った。
「魔物が来るのっ」
 私は叫んだ。精一杯の嘘を、叫び続けた。他愛もない矛盾だらけの嘘を、心から願い続けた。
「魔物が来て、この場所を奪いに来るの。だからお願い、一緒に戦って。一緒にこの場所を守って」
 まくしたてる私を見つめる男の子が、少し困ったような笑顔を見せた。
「ごめん。俺……奇跡の子じゃないから」

 少年の姿が遠くなってゆく。
「ゆ……くんっ」
 私はそのとき確かに彼の名前を呼んだと思う。麦畑を挟んだ向こう側でその影は振り返り、一度だけ手を振った。
 赤く染まる空に溶けるように消えて行く後姿を眺めながら、私は叫ぶことも忘れて立ち尽くしていた。


   §   §   §


「祐一さん、足の骨折だって」
 佐祐理の言葉を私は上の空で聞いていた。濡れているベンチからスカートを通して、嫌な冷たさが肌に染み込む。だがそんなことはどうでもよかった。
「先生の話だと、雷じゃないかって。近くの窓ガラスもほとんど割れちゃったみたいだよ」
 佐祐理は濡れたベンチに少しためらう素振りを見せたが、私の隣に寄り添うように浅く腰掛けて言った。
「でもね、あれだけの事故で骨折ですんだのは本当に奇跡だって。祐一さんって、神様に守られてるのかな」
 そう、と私は人ごとのように頷いた。

 あれは私の力だ。
 落雷でも、ましてや魔物の仕業でもない。私はあの時確かに、体の内側で真っ黒な力が膨らみ、弾け飛ぶのを感じた。
 あの一瞬、私は本気で名雪を傷つけようとした。自分が普通の人間ではないことを忘れ、片思いであることも忘れ、膨れ上がる嫉妬の心に我を忘れた。
 そして、祐一を傷つけた。

 そんな私の心の内を見透かしたように佐祐理が言った。
「舞のせいじゃないよ」
 よほど悲痛な顔をしていたに違いない。佐祐理が心配そうに覗き込む。気丈そうに振舞ってはいても、その唇は青ざめ小刻みに震えている。

 祐一だけじゃない。名雪にも、佐祐理にも、私は迷惑をかけてしまった。夜の学校で魔物と戦っているような普通じゃない女の子。人と違う力を持った人間が、普通の人間と交じり合えるはずがない。最初から住む世界が違う人間を巻き込めば、いつかこんな日が来てしまうことは分かっていたはずだった。だから私は魔物のことを佐祐理に打ち明けなかった。大切な人を傷つけてしまうことは絶対に避けたかったから。

 でも、それでも――

 それでも私は、祐一に傍にいて欲しかったのだ。
 一緒に魔物と戦っているときでも、その危険は承知していた。だが祐一が魔物に傷つけられる可能性があると知りながら、私は自分の幼稚な感情を優先したのだ。
 これが魔物の仕業によるものであったなら、私は祐一を守れなかった自分を責めつつも憎しみを魔物にぶつけることができただろう。だがそんな逃げ道はもう無かった。
 ――私の、せいだ。

「元気出して、舞」
 佐祐理が私の肩に手を置いて言う。
「もう少ししたら、一緒に祐一さんのお見舞いに行こうよ」
 手のひらから伝わる体温を感じながら、私は力なく頷いた。そして「また明日ね」と遠慮がちに手を振って校門のほうへ駆けて行く佐祐理を、私は呆然と見送っていた。

 佐祐理の姿が消えるのを見届け、私はふらりと立ち上がった。
 足は自然とあの桜の木へと向かった。
 周囲には黄と黒のロープが張り巡らされ、立ち入り禁止の札が下げられている。私はかまわずそのロープをくぐり、横たわる桜の倒木へと近づいた。


 雪だるまは、まだそこにいた。
 小枝で作られた両腕はどこかへ吹き飛び南天の赤い目は体の横に転げ落ちている。だがそれでも、雪だるまは残っていた。たった一晩で踏み潰されてしまった雪うさぎと対照的に、あれほどの惨劇に巻き込まれながらも雪だるまはその形を崩さなかった。

 私は雪だるまの前に屈みこんだ。その白いのっぺらぼうの顔を見ていると、祐一に対して抱いていた感情が次々に浮かび上がってくる。
 生まれて初めて感じた温かい気持ち。胸が振るえ、焦がされるような気持ち。そして、その全てが否定されたあの一瞬。

 私は握り締めた手を振り上げた。
 この手を振り下ろせば、名雪が作り変えた雪だるまは微塵に砕けるだろう。もしかしたら祐一の彼女への気持ちも一緒に霧散してしまうかもしれない。
 ためらう理由なんてない。想いが込められた雪だるまじゃない。ただの雪の塊を打ち砕く、それだけのこと。
 ――でも、私にはできなかった。
 
 あの時飛び込んできた祐一に私は気づかなかった。気配すら捉えられなかった。祐一もまた私のことには気づいていなかったに違いない。あの一瞬で全てを悟ってしまった。祐一の瞳に私は映っていなかった。祐一は最初からずっと、あの従姉妹のことだけをまっすぐに見つめていたのだ。

 私が雪うさぎなんて作らなければ、あんなことにはならなかったのだろうか。祐一が告白する決心をすることも、壊れた雪うさぎを名雪が直そうとすることも、なかったのだろうか。
 雪うさぎなんて、作らなければ――


 ――雪うさぎ?


 心臓がどくりと鳴った。
 嫌な感じ。魔物の気配が現れる直前のような、まとわりつくような空気。何だろう。この感じ。

 ――思い出すな。

 私の中で何かが囁く。冷たい汗が、手のひらに滲む。
 二匹の雪うさぎ。雪だるま。南天の目。四枚の葉――。
 周りの景色がぐらりと、揺れた。
 遠い記憶がおぼろげに、でも確実に、私の中で大きく膨らんでゆく。

 ――忘れてしまえ。

 がくりと膝が落ちた。濡れた地面に両手をつき、息を整える。耳のそばで心臓が狂ったように騒ぐ。魔物と戦っているときとは比べ物にならないほどに強く、速く、不安定に暴れまわる。
 静まれ、静まれ。
 そんな上辺だけの言葉に私の心臓は耳を傾けなかった。その理由は分かっている。私は気づいてしまったのだ。思い出してしまったのだ。後戻りのできない一歩を、踏み出してしまったのだ。

 夕映えに照らされた雪だるまは鮮やかな赤に染まっている。溶けはじめたその体から流れ落ちる血の雫が、一滴また一滴と地面へ吸い込まれてゆく。

 顔のない雪だるまがこちらを向き、かすかに笑ったように思えた。


   §   §   §


『もーいーいかーい……』

 私は駆け出していた。赤く輝く太陽が、焼けるような空が、麦の穂に顔を埋めても目を閉じても、私を追いかけてくるようで――

 全てが怖かった。夕焼け空が、麦畑が、男の子との思い出が怖かった。そして何よりも、人と違う力を持つ自分が怖かった。力を持ちながら人と同じように生きられると思っていた自分が怖かった。

 ふと、私は足を止めた。

 麦畑の中から女の子が私を見つめていた。腰まで届く長い髪が風にゆれ、白いワンピースの後ろでひらひらとなびいている。

「あなた、誰?」
 見たことのない子どもだった。学校の少ないこの辺りでは同じ年頃の子どもはみんな顔見知りだ。ということはあの男の子のように、夏休みにだけ遊びに来ている子なのだろうか。
 女の子は目の端を細めてじっと黙っている。そして急にくるりと背を向けると麦の穂を掻き分け、黄金色の海の中へと消えていった。
「待って」
 気がついたときには叫んでいた。女の子が立ち止まり、ちらりとこちらに目をやる。だがすぐに前へ向きなおし、どんどん麦畑の奥へと入ってゆく。
 私は走り出した。黄色い波に飲まれて消えそうになる影を見失わないように、瞬きすることも恐れて追いかけた。

 麦畑は夕日を浴びて赤く染まり始めていた。でもそんなことは気にならなかった。時折こちらを振り向いて笑いかける女の子の姿だけを瞳に焼き付け、私は風にそよぐ麦の海を泳ぎ続けた。


   §   §   §


 普段どおりの夜の廊下だった。
 消火栓の赤いランプの灯が床に落ち、月明かりの白と朧に交じり合っている。
 私は一歩踏み出した。上履きのゴム底と床が擦れる甲高い音が鳴る。普段の私なら絶対に立てない音だ。長い戦いの中で、音を立てない歩き方は身についている。だが今日は違う。魔物に発見されないように歩く必要など無いのだ。

 私は歩を止めた。そして廊下の先に目を凝らす。奥のほうまでは外の月明かりも届かず、曲がり角のあたりは深い藍に沈んでいる。
 魔物の気配は無い。
 私は左手の階段を昇った。最上階を過ぎると佐祐理と一緒に昼食をとっていた踊り場がある。深い夜に沈むその先には、屋上へと続くドアが見える。
 ドアの上部では曇りガラスをはめ込んだ天窓がぼんやりと光っている。満月の光を朧に散乱させたその白い光が、暗闇に銀色の扉を浮かび上がらせる。

 私はドアの前に立ち、手をかけた。鍵はかかっておらずノブはきしむような金属音を立てて軽く回る。私は体重をかけるようにしてその重いドアを開けた。
 冷たい夜風が校舎の中へと吹き込んでくる。風の強さに重みを増すドアの隙間に体を滑り込ませ、屋上へと出る。そのまま数歩足を踏み出すと、背後で扉の閉まる大きな音がした。

 そこは白い平原だった。真冬の闇に浮かび上がる、コンクリートの平原。暗闇に慣れた目には眩しいほどに輝く満月が、周りを囲う緑色のフェンスの遥か上にまで昇っている。
 吹きつける冷たい風が、頬と素足を刺す痛みとともに髪を舞い上げた。

 風に暴れる髪をそっと押さえて私は歩を進めた。一歩を踏みしめるごとに、屋上の床を通して様々な記憶がよみがえってくる。

 佐祐理と二人きりで食べたお弁当。
 日ごとに上達する佐祐理の料理。
 突然入り込んできた不思議な下級生。
 三人になった場所。
 四人になった時間。
 幸せそうに笑う佐祐理。
 意地悪そうに笑う祐一。
 呆れたように笑う名雪。
 ぎこちなく、でも心から笑う――私。

 そう。ここには楽しい思い出しかなかった。
 だから私は――この場所を選んだ。
 中央まで歩いたところで、私は急に足を止めて後ろを振り返った。
「出てきて。いるのはわかってる」
 返事はない。私は先ほど自分が出てきた鉄の扉を凝視していた。そしてもう一度、今度は語気を荒げて叫ぶ。
「出てきて」
 やはり返事はなかった。だが私の目はそのわずかな変化を見逃さなかった。

 辺りに気配はない。人はおろか、魔物の気配すらない。
 だが音を立てて閉じたはずの扉は細く開いていた。淡い月明かりの筋が床を這い、うっすらと扉の内側へと続いている。
 私はその数センチの隙間をじっと見据えた。
 そして、私たちは目が合った。
 その人影は扉に半分だけ顔を隠して、じっとこちらを眺めている。

 私はスカートのポケットに入れていた左手を抜いた。そしてその手を握ったまま前に突き出しゆっくり指を開く。月明かりに白く照らされたコンクリートにひとつ、真っ赤な南天の実がこぼれ落ちた。

 赤い実は次々に落ちてゆく。私の指から抜け落ちる血の滴りのように、私の心から流れ落ちる涙のように、赤い南天の実が床に跳ねる。そして四つめの南天が落ちるのと同時に緑色の葉が四枚、ぱらぱらと舞い落ちた。
 私は闇に潜む人影をじっと見据えて言った。

「答えて。どうして昨日の夜、学校にいたの」

 彼女は頭がいい。だからこれだけで十分だった。
 あの雪うさぎは、私と祐一が昨日の夜に作ったものだ。
 名雪は雪うさぎのことを知らなかった。もしかしたら前日に溶け落ちる前の雪だるまを見ていたのかもしれない。だから彼女はあの残骸を、雪だるまだと思って直した。

 でも――その残骸が雪うさぎだと知っている人物がいた。
 私はあの朝、雪うさぎのことは一言も言わなかった。しかも私と一緒に登校してきた彼女には、踏み潰される前の雪うさぎを見る機会などなかった。あれが雪うさぎの残骸であることなど、彼女が知っているはずがないのだ。
 だから雪うさぎの材料など――私に渡せるはずがないのだ。

「もういい。私はもう全部、思い出したから」

 扉の向こうで空気が変わったのが分かった。
 完全に絶たれていたはずの気配が、渦を巻いて周囲に溢れ出ている。人の気配と魔物の気配が滅茶苦茶に入り混じった、今まで感じたこともないほどに強い気配。
 ――動揺している。
 私は大きく息を吐いた。耳障りな心臓の音はどんどん強くなってゆく。だが不思議なほどに、私の心は静かだった。
 横殴りの風が再び私の髪を巻き上げる。
 私は、彼女の名を呼んだ。
「もう出てきて――佐祐理」

「思い出したんだね」
 聴き慣れた声と一緒に、頭の奥で音が聴こえた。
 心のどこかですがり付いていた儚い希望が、粉々に砕け散った音だった。

 ドアがゆっくりと開いた。夕方に別れたときと同じ制服姿が闇に浮かぶ。

 私は剣に手をかけた。もう覚悟はできていた。柄を持つ手に力を込め、静かに引き抜く。幾度となく繰り返してきた動作。鞘から抜かれつつある刀身は鏡のように澄み渡り、満月の姿をその身に映しこんでいる。その丸い月光は続いて現れた切っ先に爆ぜ、光の帯となって諸刃の縁へと流れてゆく。
 私は剣を透かすようにして正面を見据えた。

 佐祐理はそこに立っていた。
 優雅さすら感じる気配をその身にまといながら、哀れむような瞳で私を見つめている。

「また、全部忘れることはできるよ? 全部忘れて、今まで通りお友達でいようよ。そうすればまたずっと、一緒にいられるよ?」
「それはできない」

 なぜなら――

 私は剣の鞘を空高く放り投げた。佐祐理がその動きを目で追う。投げ捨てられた鞘はゆっくり回転しながら宙を滑り、私と佐祐理のほぼ中央に落下して甲高い音を響かせた。

「私は、魔物を討つものだから」

 佐祐理が床を蹴った。
 だが私の剣はそれよりも一瞬早く、動きはじめていた。


   §   §   §


「待って」
 私は叫んだ。振り返る長い髪が麦の上で揺れる。こちらを向いた女の子は少し首を傾げながら、近づく私を見つめている。
 あと少し。
 思い切り手を伸ばせば触れられる。そんな距離になったとき、少女はまた前を向いて駆け出した。
「待ってよ」
 もう一度叫んだ。叫びながら手を伸ばした。背中に流れる髪がふわりと浮き上がる。その髪は一杯に伸ばした指の間をするりと抜け、二人の距離はまた遠ざかる。
 追いかける私を横目で見ながら、女の子は麦畑の中を逃げ続けた。
 鬼さんこちら、鬼さんこちら……
 私を誘うそんな声が聞こえたような気がした。その声に誘われるように、私は少女の姿を追い続けた。

 もう少し――
 私の指がまさに女の子の肩に触れようとした、その瞬間だった。
 少女の体が空に跳ねた。踏みしめた足を思い切り伸ばし、大きく体を反らせて麦の穂を跳び越えた。薄闇の混ざった赤い空と金色の大地の間を、白いワンピースがひらめく。
 それはまるで、雲の波間を飛び交う天女の舞。
 綺麗だった。
 私はもう自分が泣いていた理由を忘れていた。夕映えに照らされて赤く火照った少女の白い顔が、なぜかとても近く感じた。この女の子のことをずっと昔から知っていたような、ずっと一緒にいたような、そんな不思議な気持ちに包まれていた。

 太陽が地平線に懸かり空の端が紫色に染まるまで、私たちは遊び続けた。


   §   §   §


 走りながら佐祐理は手を伸ばした。距離はまだある。だがかすかな風圧を頬に感じ、私は体をひねった。瞬間、首の横を何かが掠めて後方へと飛び去る。
 佐祐理の力だ。
 魔物と同じ見えない力の塊が二度、三度と佐祐理から放たれる。紐のように長く伸びたその力は私の剣と手を狙い、動きを封じるように押さえつけてくる。
 だが私の剣はすでに上段に構えられていた。腕を取るように絡みつくその力を撫でるように切り払い、そのまま手首を返して逆手に持ちかえる。

「舞っ」
 悲鳴にも似た叫びが私の耳に届いた。
 佐祐理が近づく。床を蹴る足音。息遣い。彼女の発する音をこの身に受け止めながら、私は剣を持つ両手を高々と掲げた。月光を鈍く反射する刀身の向こう側で、間近に迫った佐祐理の体が大きく跳ねた。
 その刹那、佐祐理と視線が絡んだ。誰よりも近くに感じていたはずのその眼差しが、今は誰よりも遠くに見える。
 住む世界が最初から違っていた。そんなことは分かっていた。でもそれがこんな形で思い知らされるなんて、今日まで考えたこともなかった。

 悲痛な声を上げながら佐祐理は掴みかかるように体を飛び込ませた。その頬に一筋の涙が流れていることに、私は初めて気がついた。

 だが、ためらう気持ちはなかった。

 逆手に握り締めた剣を、私はまっすぐに振り下ろした。
 狙いははずさなかった。
 魔物を斬ったときよりもずっと現実感のある、やわらかい存在を突き刺す手ごたえ。
 瞬間、背中から頭に雷のような衝撃が突き抜けた。ほんの少し遅れて、焼けた鉄の棒を押し付けられたような熱さが下腹部を襲う。
 佐祐理の顔がすぐ近くにある。その目は大きく見開かれている。私は目を細めて佐祐理に微笑みかけた。そして剣を握る手に力を込め、さらに深く押し込んだ。

 その切っ先は最初の狙い通りに、私の腹を深々と貫いていた。


   §   §   §


 遊び疲れた私たちは桜の木陰で休んでいた。ほんの一瞬、あの男の子のことが頭に浮かんだが私はそれ振り払うように女の子の顔を見つめた。
 そして隣に腰掛ける女の子の名を呼ぼうとして、私は気がついた。
「ね、あなたの名前は?」
 突然の問いかけに、女の子は困ったような顔をして私の顔ををじっと見つめた。そしてほんの少し口を開け囁くように言った。
「……わからない」
 予想していたよりもずっと低い、大人びた声。私はその時はじめて、この子の声を聴いた。
「わからないって……あなたの名前でしょ?」
「……ごめんなさい。何も、わからない」

 そのとき私は理解した。この女の子が誰なのか。そして何故ここにいるのか。私の中に眠る力の片鱗が、全てを教えてくれた。
 だとしたら。
 名前を付けてあげるのが、私の義務だ。

 私は先ほどの女の子の動きを思い出していた。黄金色の麦の上を踊るように跳びまわるその姿は、まるで雲の上で踊る天女のようだった。
 まるで、天女の――

「舞」

 俯いていた女の子が顔を上げ、不思議そうに私を見つめる。
「あなたの名前。無いと不便でしょ? だから……舞ってどうかな?」
「舞……舞……」
 何度か噛み締めるように口の中で呟き、女の子は目線を上げた。そして恥ずかしそうに頬を染めながら小さく頷いた。
「ねえ、舞。これからもずっと一緒に遊んでくれる? 佐祐理の、お友達になってくれる?」
 女の子は――舞は、力強く頷いた。

 夕日が私たちを包んでいる。どうしてだろう。あんなに怖かったはずの真っ赤な空が、今はとても温かく思える。
 それはきっと、舞の背中で一番星が輝きはじめたからだ。
 そう思った。


   §   §   §


 佐祐理が泣いている。
 泣き顔を見るのなんて何年ぶりだろう。――いや、私の記憶の中をいくら探してもそれは見つからない。佐祐理はいつも笑っていた。いつも私の隣で、幸せそうに微笑んでいた。
 胸と腹の境目が焼けるように熱い。すでに抜け落ちた剣はその刀身を深紅に染めたまま、傍らに力なく転がっている。
 私の頬に一滴、また一滴と温かい雫が落ちる。
「もういい。もういいよ、佐祐理」
 思うように声が出ない。声の代わりに腹に穿たれた穴から、ごぼりと鮮血が噴き出す。
 私にも赤い血が流れていたんだ。今まで気にも留めなかったことが妙に嬉しかった。私は添えられた佐祐理の手をそっと握り返した。そして喉から搾り出すように言葉を紡いだ。

「私は、佐祐理に作られた魔物だから」

 祐一の何げない一言が頭をよぎる。
『ウサギってな、寂しいと死んじゃうんだぞ』
 寂しいウサギはもう一匹のウサギを作った。自分と同じように力を持ったウサギを、無邪気で、幼稚で、でもとても純粋な気持ちで作った。

 私の使命はこの場所を守ることではなかった。この場所を奪い取ることだった。佐祐理と佐祐理の友達から、この場所を奪い取ることだった。
 私はそのために生み出されたのだから。

 もう私には分かっていた。戦うために生まれた魔物は戦うことでしかその存在を維持できない。だから私は戦い続けなければならなかった。
 そして佐祐理もまた、私と戦わなければならなかった。私と戦う魔物を生み出し続けなければならなかった。私を生かし続けるために。ずっと、私たちが一緒にいられるように。
 私はこの場所を守るためにずっと一人で戦ってきたつもりだった。でもそれは違った。

 ――本当に守られていたのは、私のほうだったんだ。

 私たちは、ずっと一緒に戦っていたんだ。
 追いかけて、追いかけられて、追いかけているつもりで追いかけられて。カノンみたいな二人の関係。優しさと誤解の追想曲。

『あははっ、舞ーっ、こっちこっち』

 佐祐理の顔が目の前にある。瞳を潤ませながら私を不安げに覗き込んでいる。その姿に幼い日のはしゃぎ声が重なった。

『鬼さんこちら、鬼さんこちら……』

 でももう鬼ごっこはおしまい。明けない夜がないように、ずっと遊び続けることなんてできない。
 だからもう終わりにしよう――こんな哀しいカノンは。

 伸ばした指に佐祐理の頬が触れた。温かい雫に濡れた頬はかすかに震えている。私は佐祐理の顔を包みこむように、手のひらを頬に押し当てて言った。

「つかまえた――」

 白いもやのかかった風景。画一的な青い空。金色の麦畑。その黄色い海から小さな顔を覗かせて、幼い佐祐理が笑っている。
 私は手を伸ばす。指先が佐祐理の頬に触れる。そのやわらかく温かい感触に私の指先は形を失い、輝く光の粒になる。
 ――ああ、そうか。
 私には分かった。
 帰るんだ。私は佐祐理に、帰るんだ。
 指先から腕へ、足へ、そしてつま先へ。光となった私の体が吸い込まれてゆく。
 そして心地よいまどろみとともに、私の意識は佐祐理の中へと溶けていった。


   §   §   §


 手にした細長い布袋をしっかりと抱きかかえながら、私はその切り株を眺めていた。折れた桜の幹はとうに片付けられ、残された根元は平らに切りなおされている。
 草の伸びはじめた中庭に足を踏み入れて、私は初めて履いた袴の裾が濡れるのもかまわず立ち尽くしていた。

 ふと遠くから名前を呼ぶ声に、私は振り向いた。卒業式という場には似つかわしくない、それでも聞きなれた喧騒がこちらに近づいてくる。
「祐一、重いよ。あんまりこっちに体重かけないで」
「それが命の恩人に言う言葉かっ。それに俺は名雪より軽い」
「わ。嘘つき。わたし、そんなに重くないもん」
「あははっ、二人とも仲良しさんですね」
 私は二人に声をかけた。

「祐一がどうしても『先輩の晴れ着姿を見るんだー』って聞かなくて」
 笑いながらそう言う名雪さんに寄り添うように、松葉杖姿の祐一さんが肩に手を回している。ギプスこそ外れているものの、まだ一人で歩けるほどには回復していない様子だった。
「それでここまで連れて来てくれたんですか? 優しい彼女さんですねー」
 とたんに彼女の頬一面に朱が散る。
「いろいろ聞いてますよ。リハビリに付きっきりだとか、下の世話まで……」
「わ、わ。そんなことしてませんっ」

 彼女が祐一さんと付き合い始めたという話は聞かない。それでも彼女の中で何かが少しずつ変化しているような、そんな印象を言葉の端から受ける。
 人は常に変わりゆくものだ。今日出会った人は昨日とまったく同じではない。同じように見えても一日分だけ、確実にその人は変わっているのだ。ずっと変わらないものなんてない。それは覚悟しなければならない。明けない夜なんてないのだから。

「桜、残念だったよな」
「そうだね……せっかくの卒業式なのに」
 桜の切り株を見ながら祐一さんが呟く。二人にとっては悪夢のような出来事ではあっただろう。だがそれは同時にきっかけとなった出来事でもあるのだ。私はそんな二人の複雑な心の内を想像して目を細めた。

「そういえば、さっきから気になってたんだけど」
 祐一さんが何かを思いついたように言った。
「佐祐理さんって、いつも誰かと一緒にいなかったっけか。二人組って印象があるんだけど」
「そうですか? 佐祐理はずっと一人ですけど」
 私は「不思議ですねー」と、とぼけてみせた。
「そうか? 誰か忘れてるような気がするんだよな。なんかこう……人の頭をぽこぽこ叩くような奴がいたような」
「いないよ。先輩の友達にそんな乱暴な人なんて」

 言い合う二人の間に入るようにして私は言った。
「もしかしてそれは……鬼の子かもしれませんよ」
 鬼の子? と聞き返す二人に私は聞かせた。強く念じることで奇跡を起こせる、不思議な子どもの話を。
「せっかくですから念じてみましょうか。桜がまた咲きますようにって。もしかしたら私たちの近くに鬼の子がいるかもしれませんよー」
 苦笑いをしながら二人が目を閉じる。それを見届けると私もまた、そっと目を閉じた。

 私はまたひとりになった。でも、もう逃げない。心はいつも舞とともにある。これからもずっと一緒に歩いてゆこう。彼女が導く手の鳴るほうへ。
 だから私は心より願う。新しい世界へ歩きはじめる私たちを祝福する、小さな奇跡を――。

「……何も起きないな。ま、そりゃそうか」
「残念ですねー」

 ふと、何かに気づいたように祐一さんが空を見上げる。つられて顔を上げた名雪さんの口から「わあ」と感嘆の声が上がった。私は二人の驚いた顔を確認した後で、ゆっくりと視線を上に向けた。
 桜の花が、降っていた。ひらひらと降り注ぐ無数の白い花びらが私たちを包み込む。もちろん本物の花びらではない。それはほんの少し季節外れの、粉雪の舞。桜吹雪と見まごうほどに空一面を覆い尽くす雪が、春の風に踊りながら降り注いでくる。
 名雪さんがため息をついて言った。
「ホワイト・卒業式だね」
「『卒業式』も英語にしろよ……」

 不満そうに唸る従姉妹を見つめる祐一さんの目は少し意地悪で、それでもとても温かだ。そんな二人を笑いながら見守る今の私の姿は、あの夏に出会った男の子の目にはどう映るのだろう。
 布袋を抱く腕に、私はぎゅっと力を込めた。


 舞い落ちる粉雪のむこうには画一的な青空が広がっている。いつか屋上で見た冬空と同じ、それでもどこかが違う空。
 パーフェクト・ブルー。そんな単語が頭をよぎった。


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