「お、これは?」
 ぽっかりと予定のあいた週末を使って、祐一は引っ越し荷物の整理をしている。といっても、日用に使うものは着いてすぐに荷解き済みなので、残っているのは不要不急のものばかりだ。急な引っ越しで慌てて準備したこともあり、何でこんなものをと首を傾げるものも交ざっている。要るんだか要らないんだか分からない、そんなガラクタを広げていると、
「うわ、これは古いなー」
 廃棄の手続きが面倒だという理由で、使うあてもないのに持ってきた骨董品もののパソコンがあった。
 やっぱ、ちゃんと捨てなきゃだめか。こっちのやり方を聞いておかないと。そんなことを思いながら、内部に息を吹き込むと、綿になったホコリがもわっとする。
 お、フロッピーもあるな。
「どれどれ」
 ぴぽっ。

潜入捜査Kanon・僕らのたい焼きドリーム〜記憶の中のエンジェル〜

 そうだ。俺は秘密諜報員だ。
 某機関の腕利きエージェントなのだ。
 平凡な転校生のふりをして、こっそりと校内に潜入している。今回の任務は、陰から学園を支配する生徒会を倒すことだ。しかし、どうもやる気が出ない。
 学校支配と聞いて思い浮かぶのは、ハンで押したようにいつも同じような展開だ。分かりきった段取りを踏み、解決まで予想を裏切ることがない。紋切り型の科白と黒幕。支配してどうするという思惑があるかも怪しいもので、まずは大抵の場合、支配すること自体が目的となっている。刺激の薄いありふれた任務であり、何度もこなして飽きてしまった。だいたい、どうせ支配するなら、卒業したらそれきりの学校よりも、長い間、権力を揮えるような場所の方がマシだろう。もっと役に立つところはいくらもある。
 まったく、そんなつまらんマネをするくらいなら、適当なイベントでも主催して地域の娯楽に貢献すればいいものをと、ぶつぶつこぼしながらあたりを見回した。
 吹きっさらしの前庭で、敷石が雪に埋もれている。白い白いあたりの景色。突き刺さる風に顔がこわばる。やる気の出ないもうひとつの原因がこれだ。
 さっさと終わらせて帰ろう、と震えていると、
「あ」
 洩れるような少女の声が聞こえる。
 振り返ると、色白で小柄な女の子がびっくりしたような顔でこちらを見ていた。
 なんだ?
 探る視線を向けると、にんまりと笑いを浮かべ、物怖じもせず声を掛けてくる。
「こんにちは、秘密諜報員さん」
「人違いだ」
「こんなところで会えるなんて」
「目の錯覚だ」
「探す手間が省けました」
「赤の他人だ」
「これはもう運命ですね」
「気のせいだ」
 さっそく正体がばれていた。まずい。任務に影響が出るかもしれない。話題の方向を変えて、どうにか逃げ切らねば。
「そういえば、もう風邪はいいのか?」
「はい、おかげさまで」
 ぴょこんと頭をさげ、こんなに元気です、とポーズをとった。よかった、よかった。うんうん。こじらせると命にかかわるからな。
「そうか、それじゃ」
「あ、待ってください」
 呼び止められる。
 流れでうやむやにする作戦は失敗のようだ。何事もなしでは通してもらえないらしい。口止めできればいいが、もし、それが不可能なら……。
「えへへ。実は生徒会に頼まれちゃいました。私の進級がかかってたりしまして、恨みはないですが、倒されてください」
 戦いなど向いてなさそうな少女がにこやかに言う。
 やっぱり敵だったか。
 ごまかしきれず、避けていた事実が突きつけられる。
 知り合いと戦うのはうれしくないし、そもそも戦い自体が望ましくも好ましくもない。出来ればしたくないのだが、避けられないなら覚悟を決めるしかない。
「それで、どうやって戦うつもりだ?」
「雪合戦です」
 吹きすぎる風が体温を奪ってゆく。冬らしすぎる勝負だった。
「――じゃあな」
「わー、何事もなかったように立ち去らないでください」
「俺、寒いの苦手なんだ」
「む、乗り気じゃありませんね? 病弱で外に出られない幸薄い少女のたったひとつの願いなのに……。これは、あくまで仮定の話ですけど、どうしようもなくなってから悔やむのってきっと辛いですよ。あのとき、何で望みを叶えてあげなかったんだろうって、過去の選択を悔いながら毎日を送っていくんです。ああ、なんて悲しいんでしょう――悲しいですよね?」
 わざとらしく遠い目をしてみせる。
 罪悪感に訴える、どうして立派な心理作戦だ。仕方ない。寒いのはイヤだが、この程度で済んでよかったと思うべきだろう。本気の潰し合いにでもなったら困るし。
「わかったわかった。付き合ってやるから、そういうのは勘弁してくれ」
「じゃ、いきますね」
 ころっと表情を変えて、しゃがんで足もとの雪を丸め始めた。山のように作った雪玉を一列に植えつけると、盛り上がった地面から雪だるまが生まれてくる。敵の部隊が出来あがった。居並ぶ雪だるまの無表情からは、なぜかやる気が満々と感じられる。適当に付き合って、さっさと先に進むつもりだったが、本気でも危ないかもしれない。
「ちょっと待て。多勢に無勢は卑怯だろう」
「ハンデです。いきますよー」
 少女の攻撃は可愛いものだが、雪だるまのそれには容赦がない。うっかり立ち止まれば、たちどころに集中砲火が飛んでくる。
 華麗な身のこなしで雪玉を避け、死角をついて、狙い済ました渾身の一撃!――のっそりと振り返る、ゆきだるま。って、こいつら雪があたっても平気じゃん!? いかん、こりゃマジでいかないとやられるぞ。もうやけだ。とことんやってやる。
 殴りつけ、蹴り飛ばして、やっとのことで一体を倒す。その屍を乗り越えて、次々と新手が押し寄せる。一糸乱れぬ統制ぶりで果敢に攻めかかってくる。いくら倒しても、きりがない。
 奮戦して時間を忘れ、被害をかえりみず敵と戦う。倒しても倒しても敵は現れ、まったく敵いそうもなかったが、それでも少しずつ数が減ってくる。
 気づくともう敵はおらず、少女は肩で大きく息をして、満足したような顔をみせていた。やっと打ち止めらしい。
 気が抜けると、忘れていた寒さが戻ってくる。いい具合に運動になり、体もほぐれ、身のこなしも軽くなった気がするが、融けた雪と汗とで服が濡れてしまった。
 つ、冷たい。
 そうやって、情けない姿をさらしていると、彼女の首回りに巻かれた暖かそうなストールが目にはいる。ずいぶんとよさそうなもの持ってるじゃないか。
「ちょうどいい、それ貸してくれ」
「大事なものだからダメです。その代わり、これをどうぞ」
 と、差し出したものがある。たい焼き色のコート、羽付きのリュックと手袋。どこかで見たような代物だ。
 で、どうしろと?
 表情を窺うが、にこにこしているばかりでさっぱり要領を得ない。まさか着替ろっていうんじゃないだろうな。しかし、見覚え通りのものだとしたら、いくらなんでも不可能というものだ。
「いや、これは着られないだろう。サイズが違いすぎる」
「がんばればなんとかなりませんか?」
「っていうか、たぶん持ち主が困ってるから返して来い」
 この天気でコート無しはきついだろう。いまごろどこかで凍ってるんじゃないか。
「これ、下駄箱で拾ったんです」
 どうしようかと、とまどった顔をする。
「置いてあったんじゃないのか?
「でも、ずっとそのままでしたよ」
 察するに、走り回って汗をかいたか何かして、脱いだまま校舎にはいったんだろう。そして、そのまますっかり忘れてしまった。ありすぎる。そのダメっぷりが容易に想像できる。いったい、何をやってるやら。
「仕方ない、俺が落とし主を探しといてやろう」
「お願いします」
 というやり取りを経て、コートその他が託された。ついでだ。どの道、いかなきゃならないし。
 ひと通りのイベントが終わり、引き留められるかと思ったがそんな気配もなく、彼女も満足して通してくれる気になったらしい。そろそろ次に向かう頃合いだろう。まったく余計な手間を喰わされた。もっとも、それほど悪い時間でもなかったが。
「早く帰ってあったまれよ」
 立ち去る少女に声をかけると、大きく手を振り返してきた。こちらも軽く手を上げて別れを告げる。
 それにしても寒い。風が冷たく、震えがこみあげる。さっさと屋内に避難しよう。

 昇降口に逃げ込んで、ほっと一息ついた。カビっぽいような湿っぽいような独特の臭気がする。それほど暖かいわけじゃないのに、妙に居心地よく感じるのは外から来たせいだろうか。
 靴箱を開け、上履きに替えようとしたところで、背後からがきんと音がする。調べてみると、入り口の扉がロックされていた。
 閉じ込められた?
 施錠しても内側からなら開けられたはずだ。ゆすってみる。ダメか。噛みこんでるのかもしれない。まあ、出ようと思えばどこからでも出られるし、最悪、ガラスを割るなり何なりすればいい。気にはなるが、とりあえず忘れて先に進もう。
 薄暗い下足場を抜けると、校舎は不自然に静かで、まるで無人の休日のようだ。遠くでひびく声すらない。ここで何か起こってるのは確からしい。異変の手がかりはないかとあたりを探ってみる。本当に無人なのか、それとも?
「遅かったな。待ちくたびれたぞ」
 物陰から誰かが声を掛けてきた。ゆらりと姿を現すと、斜に構えて笑ってみせる。
 それにしても、これからどうするべきか。方針を立てねばなるまい。詰まるまでひと通りイベントを進めてみるか、雑魚敵でも倒してレベル上げをするのがいいか。出来れば、一般生徒と接触するか下っ端を捕まえるかして校内の様子を把握したいところだが、まあ、いつものようにでたとこ任せの行きあたりばったりで。とりあえず、校舎の地図でも作ってみよう。方向感覚に少しだけ問題があり、どうも3Dのマップは不得意なのだ。
「無視するな。反応しろ!」
「あ、悪い。ちょっと考え事が」
「いきなりな反応だな。おまえ、それで一部から評判悪いんだぞ」
「なるほど、真摯な忠告すまん。じゃ、急ぐんで」
 話を振ってもらって悪いが、急がない用件なら遠慮してもらおう。俺にはやらねばならんことがある。任務の前には、友人付き合いなど単なる私事だ。この穴埋めはいずれまた――って、こいつから情報を集めればいいのか。いつもの調子で反射的に返してしまった。これで何度も他人を怒らせてるっていうのに、まったく俺も進歩がない。しかし、いまさらひっこみがつかないし、まあ、適当な情報提供者が見つからなかったら、後で話を聞きに戻ってくればいいか。
 我ながら適当だが、方針に拘らない柔軟な対応、うん、そういうことにしておこう。いい加減にひとり決めして、改めて歩き出そうとすると、
「いかん、いかん。そうやって自分の世界で完結してないで、ちゃんと段取りは踏まないとな。まめに会話してフラグはきっちりつぶしておかないと、後でハマるぞ?」
 廻りこんで、行く手に立ちふさがり、重ねてからんできた。ひょっとして、この執拗さには理由があるのか? 考えられるものとして、それはつまり……。
「まさか、お前も生徒会に雇われてるのか?」
「見そこなっちゃ困る。いつでもオレは一匹狼だ」
 なんなら一匹狼同好会の会員証を見せてやるぞ、と笑う。
 どうもいちいち回りくどい話の進め方で、敵じゃないならもう少してっとりばやくしゃべって欲しいものだ。一匹狼が集まるなよ、と毒づきながら、話を聞く体勢になって待つ。いらついた気持ちが顔に出たのだろうか、
「いいから少し落ち着け。オレはお前に助言をあたえるために待っていた。ま、謎の情報屋って役どころだな。しっかり聞いておいたほうがいいぞ。シナリオが途中で進まなくなると面倒だし、つまらない危険は冒さない方がいいだろ?」
 ふふん、とまたもったいぶってみせると、やっと情報とやらを語り始めた。
 曰く、この学校にはある予言が残されていて、それによれば、天使の人形、カチューシャ、羽リュック。みっつの品物を揃えれば、天使が呼び出されるという。召喚された天使は願い事をひとつだけ叶えてくれるらしい。この先、迎え撃つ敵は手ごわく、天使の助けでもなければ学園を開放することは困難だろうというのだが――、
「……そりゃ、またいくらなんでもずいぶん当てにならなそうな天使がいたもんだな」
 つかむには細すぎる頼みの綱だった。何の役にも立たないくらいならまだいいが、やる気が裏目に出たり、猫の手のほうがマシだったりしそうな予感がぷんぷんとする。それでも、まあ、どんなに頼りなくとも一応は手がかりだ。役に立とうと立つまいと、当てがあるのはないよりも遥かにいいし、そう思ったから、わざわざ情報を伝えてくれたんだろう。親切というものが身に沁みる。
「すまないな」
「何、気にするな。いまの学園をいいと思ってないのはおまえだけじゃないってことよ」
 肩をすくめて去っていった。かっこいいやつだ。でも、どうせなら手伝ってほしかったぞ。

 気合いをいれなおして一階の探索を始める。静かなのは相変わらずで、聞こえるのは押し殺した自分の足音ばかり。静けさに釣られ寒けがよみがえってきた。
 手近な教室を覗いてみると、生徒がみな居眠りしている。隣の教室も見る。どの教室でも同じく集団睡眠だ。目覚めている生徒を探して歩く。と、どんと衝撃。
「おっと、悪い」
 反射的に謝ってから、ぶつかった相手を見た。
 廊下にぺたりと腰を落とし、とがめるような目でこちらを睨んでいる。鉄の鎧にとげを植えたようなひどく近寄りにくい雰囲気だ。運んでいたらしい大量のプリントがあたりに散らばっている。
「あ、すまん」
 慌てて拾い集めるのを手伝った。女生徒はむっつりと押し黙って手を動かす。その沈黙に耐えかねて、
「こんなところで何をやってるんだ?」
「……何って、授業を受けてます。学校ですから」
 こちらには顔も向けない。
 プリントが集め終わると、自然に手伝う形になった。彼女はこちらに軽く視線をあてただけで、何も言わず先にたつ。そのうち、まだ調べていない教室に着いた。ここでもやはり机につっぷすようにして生徒たちが眠っている。
 少女はプリントを教卓におくと、当たり前のように席についた。
 室内には暖房がはいっている。ぬれた服に温風を通して、少しでも暖を採ろうとする。しばらくすると、やっと生乾きくらいまで回復した。
「――それにしてもへんだな。何でみんな寝てるんだ」
「………」
「そうですね、とか、そんなことないです、とか何か反応が欲しいんだが」
「そんなことないです」
「いや、気になるだろ?」
「静かでいいです」
 きっぱりと会話を打ち切って、課題らしいプリントを埋め始める。他人に見られながらよくできるもんだと、ずいぶんピント外れな感心をする。顔もあげず、手だけを動かしていた彼女が、ほとんどひとり言のようにつけくわえた。
「この街は、不思議なことのある街です。例えば、丘から降りてきた狐がこっそり人間の暮らしにまぎれていたり、空から飴玉が降ってきたり、あの世とこの世の境目があやふやになったり、ひとの想いがいつまでも消えずに残ったり。だから、何があっても気にする必要なんてないんです」
 そんな突拍子もない話を信じているのか、それともうまくあしらわれただけなのか。硬い横顔からは、その本心を窺うことができなかった。
 ん?
 教室の外で何かの音がした。
 がらりと後ろの戸を開けて、そろそろと誰かが侵入してくる。頭から毛布を引っかぶったオバケのような姿だ。
 なんだ、なんだ?
 不審の声をあげようとするのを、少女に目顔で止められた。そっちに頭を向けるな、気づかないふりをしろ、ということらしい。横目でこっそり窺うと、侵入者は毛布の陰からじっとこちらを見つめているようだ。その視線の圧力に平然と耐えて、少女は気にもせずにプリントを続けている。ここまでくると、もう立派としか言いようがない。
 じれてきたのか、毛布オバケは机と椅子をがたがた揺らしはじめた。無視していると、だんだん動かし方が激しくなって、やがてぴたっと止めてしまう。その後、しばらく何かごそごそとやっていたようだが、
 うひゃ。
 横顔に冷たいものがあたった。
 なんとか声を抑えて、横目のまま睨みつけると、竿の先に紐をつけてぐにゃりとしたものをぶらさげていた。――こんにゃく?
「おい、こらっ」
 我慢できずに声を出すと、がたっと音を立てて逃げ出した。
「……なんなんだ、あれは」
「ときどき、ああやって覗きに来るんです」
「うるさくないか?」
「そうですね。ちょっと困るかもしれません」
 わずかに頬をゆるめた。そういう顔をすると、どことなく子どもっぽい雰囲気になる。意外な発見だ。案外、そういうのが本質なのかもしれない。
 しばらくすると、恐る恐るといった様子で気配が戻ってきた。懲りずに覗きに来たようだ。引き戸の陰から毛布がはみ出している。また変なちょっかいをしかけてくるつもりだろう。
 近づくと、廊下に逃げる。
 時間をおいて、また戻ってくる。
 近寄る。逃げる。
 何度か繰り返して、コツのようなものをつかんだ。
 視線を向けないようにして、そ知らぬ顔で寄っていく。気づかれないようにじわじわと。だるまさんが転んだ。うん、まだ気配がする。よしっ。
 ぶわさ。
「わー」
 ばたばた。
 毛布の下で派手に暴れる。
 押さえつけて布をはぐと、女の子が出てきた。下の学校くらいの年齢だろうか。
「ゆるさないんだからー」
 ぽかぽか。
 めったやたらと両手を振り回す。大した力はないのだが、当たり所が悪いと多少のダメージを受ける。あまりの扱いづらさに辟易としながら、気のおさまるのを待つ。そのうち、暴れ疲れたのかやっと静かになった。床の上に腰をおろして、しょんぼりとうなだれている。ときどきちらちらともの言いたげな視線を向けてくるのだが、
「なんで騒ぎを起こすんだ?」
 と聞いてみても、あーだのうーだの唸るばかりで、一向に要領を得ない。
「黙ってちゃ分からんぞ」
 おどおどした姿を前にすると、どうも自分が悪役に思えて必要以上に声がきつくなる。それがますます相手を怯えさせるという悪循環だった。
 成り行きで捕まえてしまったが、どうしようという考えがあったわけでもない。目の前のイベントに跳びついただけだ。また考え無しな行動をしたらしい。これは困った。途方にくれる。もう何度目かの後悔だ。
 困惑する様子を見かねたのか、下級生の少女が前に出た。しゃがんで女の子に視線を合わせ、ゆっくりと話しかける。
「さびしかったんですね。そう言ってくれればよかったんです」
「……だって、忙しそうだったから」
「ええ、いつもというわけにはいきませんが、時間をあけることだって出来るかもしれません。まずは聞いてみることからはじめませんと。分かりましたね」
 女の子はぽつりぽつりと少女の言葉に反応し始め、ふたりのあいだでは何とか会話が成立しているようだ。
 根気がいいなと感心する。面倒見のいいタイプなのかもしれない。最初はずいぶん冷たそうに見えたが、初対面の印象というのも当てにならないもんだ。
「では、今日はこれから一緒に遊ぶことにしましょう」
 そんな提案に、うん、と女の子はちいさく頷いた。
 思わず笑いの浮かぶような、ふたりの世界が出来ている。何とか小康状態に落ち着いて、よかったよかった。面倒ごとを押し付けて、それじゃ、と立ち去ろうとする。目立たないよう、気づかないよう、徐々に……。
「あ、ちょっと待ってください」
 見つかってしまった。
 びくっと足を止める。恐る恐る振り返ると、彼女が通学鞄から何かを取り出しているところだった。
 赤いカチューシャ。
「これ、差し上げます。私には似合いませんので」
 うっかり同意しそうになって、慌ててごまかした。肯いたりしたらひどい目にあいそうだ。せっかくうまくいってるのにそんな危険なことは出来ない。
 贈り物を作り笑いで受け取ると、遊び始めたふたりを残して、そっと教室を離れた。

 その後、ひと通りフロアを回ってみたが、他の教室も生徒が寝ているばかりで取り立てて手がかりはなかった。次の階に向かおうと、階段のところまでやってきた。
 足を踏み出すと、行く手を誰かにさえぎられる。階段の登りの真ん中に女生徒が座っていた。見知った相手だ。視線があうと、にっこり笑う。そうやって、にっこりするのはいいのだが、
「ずいぶんかわったカッコしてるな」
 どこから引っ張り出したのか、わけの分からない被り物をしている。化け物のたぐいらしい。何のつもりだろう。転校の初日にいきなり俺の正体を見破りかけたほどの人物だ。この恰好にも何か意味があるのかもしれないが。――んなわけないか。
「あら、早かったのね。もっとゆっくりかと思ったわ」
 着ぐるみがしゃべりだす。こっちの視線に気づいたらしく、
「あ、これ? がしゃどくろのがしゃ子さん。演劇部の倉庫から借りてきたの。去年の出し物がきもだめしだったから。かわいいでしょ?」
「なんでまた」
「ほら、一応、モンスターの役だから。似合う?」
「ああ、いや」
 からかうような笑みを崩さず、韜晦した口ぶりで、こういうふうに楽しげなのは、きっと何かいたずらを思いついたときだ。うさんくさい。何をたくらんでるんだ?
 と、先ほどの科白に気がついた。早かったのね、ってことは。
「ひょっとして、俺を待ってた?」
「ええ、そうよ」
「じゃ、お前も敵なのか?」
「たぶん、そうでしょうね」
 だが、あまり敵対的な感じはしない。うまくいけば、もめずに通れるかもしれない。
 会話で距離を測りつつ、相手の出方を窺う。
「できれば黙って見逃してほしいんだが」
「それは、何故、通りたいかによるわ」
「といわれても、任務だからなんだけどな。一応、どうせ始まったんだから、終わりまで見てみたいってのはある」
 口に出してみると、どうにも義務的な答えだった。我ながらやる気が感じられない。焦りのような、もう少し微妙な感情があるようにも思うのだがうまく表現できない。
 それを聞いて、ふーん、と彼女は何の感慨もなさげな相槌を打った。
「夢の中で何かをしても、結局、変わることなんてないのよ。それでもいくの?」
「意味があろうとなかろうと、目の前のことから手をつけていかないと落ち着かない性格なんだ」
 謎めかした彼女の言葉に、意味も分からず適当な答えを返す。そうやって分かり難いもの言いをするのは、彼女の癖みたいなもので、いつの間にか慣らされていた。
「貧乏性っていうのよ、それ」
「そうかもな。でも、性分だから仕方ない」
「――うん、じゃ、通っていいわ」
 腕を組んで、考えるしぐさをすると、すぐに決断した。
 意外過ぎる答えで、一瞬意味が分からなかった。
「おい、そんなんでいいのか。自分で言うのもなんだが、あまり熱意に燃えてるように見えないと思うが」
「ほんとうは理由なんてどうでもいいの。通しても通さなくても、たいした違いがあるわけじゃないから」
「……なら、先にいかせてもらうぞ? 後でダメだっていわないでくれよな」
 じゃな、と別れの挨拶をして、着ぐるみ姿の隣を抜けようとしたとき、
「あ、ちょっと待って」
 呼び止められて、がくんとなった。
「おい、いきなり前言撤回かよ。早過ぎるぞ」
「ううん、違うの。これ」
 首を振って、差し出した手のひらにのっている、天使の人形。
「あげるわ」
「俺に?」
「あなたには妹を助けてもらった恩があるから」
「いや、妹がいることすら知らないし」
「そうだったかしら。ま、いいわ。とにかくお礼」
 軽い。古ぼけて、作りも素材もあまり高そうでない。だけど、何か気を惹かれるものがある。いつかどこかで見たような……。
「……もらっていいのか」
 どんな因縁があるのか知らないが、何やら大事なものらしい。本当にもらっていいんだろうか。覚えすらない理由で。
「ええ、たぶん。あたしには使えないもの」
 ひとり言じみて、自嘲する。
 でもなあ……。
「気をつけて。この先の相手は強いわよ」
 とまどう俺の様子を見て、何かをふっきって笑ってみせた。

 上の階にあがると、イベントを求めてあたりをしばらくうろついてみる。何も起こらず、気負っていた分拍子抜けしてしまう。そういえば、必要なアイテムは揃ったが、どこで使うかまでは聞いてなかった気がする。……まあ、呼び出せたところで、あまり助けにはならないだろうが。
 図らずも集まってしまった品々を眺めて途方にくれる。
 これ、どうすればいいんだ?
 持ってるのは少々荷物だが、どうにもならない。いますぐどうこうは諦めて、とりあえず後回しにする。しかるべき場所に来れば、自然に使い道も分かるだろう。まずは行ける場所すべてに行ってみることだ。
 渡り廊下を通って、旧校舎の方に向かう。
 前も後ろもまっすぐな廊下。窓から寒そうな景色が見える。天気は悪化しているようだ。古びた賞状とポスターに混ざって、壁の掲示板に標語が貼ってある。「廊下を走るな」。
 小学生かよ、おい。
 思わず口に出してしまう。
 と、そのとたん。
「どいてどいてっ」
 背後から声がした。
 どこかで聞いたような科白に、脊髄がとっさに反応してしまう。
「こら、走るなって書いてあるのが読めんのか?」
「だれも走らなかったら、そんなこというひといないよっ」
「へりくつを言うなっ」
 お約束のようなやり取りに何だかうれしくなり、振り向いて受け止めようと身構える。と、ぶつかる寸前で急に角度を変え、そのまま傍らを通り過ぎて、いい勢いで壁にぶつかった。
 涙目で振り返る。鼻の頭が赤い。
 何が起こった?
 理解できず、あっけにとられる。
「祐一君が避けると思って先回りしたのに」
「……あのな」
「うう、せっかくの登場シーンが」
「そんなのはどうでもいいが」
「どうでもよくないよっ」
「じゃ、どうでもよくないが」
「うん、そうそう」
 満足そうに頷いて、復活する。
 小学生っていうのが召喚の呪文だったんじゃないだろうな、と邪推したくなるくらいの単純さだった。あまりの騙されやすさに、ごまかしながらも多少気の毒になってしまう。
「一応、念のために聞いておくが、お前、俺の敵じゃないよな?」
「ボクが? たぶん違うと思う」
 本題のまえに一応確認しておく。こんなのが敵でも怖くないが。
「ああ、そりゃよかった。で、やっぱり、願いを叶えてくれる天使ってのはお前なのか?」
「うん、そうだよ」
 やっぱりそうだったのか。声と同時に手に入れたアイテムも消えていて、ひしひしとそんな予感はしてたんだが……。当てになる駒が減ってしまった。出来れば勘違いであって欲しかったが、まあ、しかたない。勝手に期待した方が悪い。こいつのせいってわけじゃない。
 いつの間にか、まじまじと見つめていたらしい。
 見られているのを意識してか、軽く胸を張るようにしていたが、時間がたつにつれ、だんだん自信なさげになってくる。見るからに頼りにならない姿だった。こいつが天使の役だなんて、何かの冗談みたいだ。
「……まあ、いいや。じゃ、さっそくで悪いが助けてくれるか?」
 と頼むと、あっさり笑顔がもどって、変な剣をでろりんと取り出した。
「はい、これ。よく分かんないんだけど、一回だけ奇跡が使えるんだって」
「ふーん、これがねえ」
 ぼろっちい剣だ。刃こぼれしてるし、あまり斬れそうにない。たい焼きでろ、と試しに振ってみた。ぺろん。お、ほんとに出た。しかも、熱々だ。甘ったるい香りがする。
「あの、それ、一回しか」
「ひとつ食べるか?」
「うん。じゃなくて」
 ちゃんと食べられるし、あいつが出したものにしては気が利いている。役立たず扱いしたのは悪かったかもしれない。こころの中だけでひっそりと反省する。
「……もう、祐一君は、ときどき信じられないことするよね」
 あきれたような顔をしてみせるが、しっかり自分の分は確保しているのだった。
 やっぱり、こいつはたい焼きでも喰って平和そうにしてるのがいい。天使なんて、たいそうな役割は似合わない。美味しいねという言葉に、ああ、そうだなと返す。落ち着くような、寂しいような、奇妙に懐かしいやり取りだ。
 用も済んだ。そろそろ行かなきゃならない。
 よっと勢いをつけて、何歩か前に踏み出した。振り向くと、あいつは付いて来ていない。廊下の壁にもたれかかって、こっちを見ている。もじもじと何か言いたそうにしていたが、やっと決心したのか唐突に切り出してきた。
「そういえば、祐一君って映画とか好きだった?」
「まあ、普通じゃないか。わざわざ見に行くほどじゃないけどな」
「そっか。それじゃ、仕方なかったのかな」
 誘われるのかと思えば、それで話題は終わりだった。そういえば、もう何年も行ってない。一緒に観るのも楽しいだろう。ホラーなんていい。慌てる姿が見られそうだ。だが、それも事件が解決してからの話。よし、さっさと終わらせよう。
「じゃ、またな」
「うん」
 少し間があって、応えが返ってくる。

 旧校舎に入ると、急にあたりが冷え冷えとしてきた。古びた印象のせいか、侵入を拒むような威圧感がある。いまにもどこからか何かが出てきそうだ。自分の足音が大きく感じる。間をあけて断続的に水滴の洩れる音。どこかの蛇口がゆるんでいるらしい。さっきまでわずかに聞こえていた外の音もなくなった。
 最初はまたルーチンな任務だと思ったが、結構、妙な展開をしてくれる。どんな結末が用意されているやら。とりあえず、この先には強敵が待っているらしいが……。
 蝶?
 いや、目の錯覚か?
 ひらひらとした代物が飛んでいった。
 おやっと思ったときにはもう消えてしまい、正体が分からない。最初は幻かとも疑ったが、視界の端をふたつみっつとかすめていって、そのうちいくらでも見つかるようになった。
 ふわふわ。
 ふらふら。
 もやもやとして、見た目は綿がしにそっくりだ。空気の流れに乗って、廊下の向こうから漂ってくる。先に進むと、徐々にしっかりした形が具わってきた。ずいぶんと大きなものもあって、まるで半透明のゴミ袋が飛んでるようだ。
 発生もとを探して、やがて、ある教室の前までたどり着く。廊下いっぱいにもわもわしたものが浮かんでいた。様子を見ていると、教室側の壁からにじみ出るように生まれてくる。
 しまうま。ライオン。きりん。ごりら。こぶた。ピンクの像。子どもの落書きのような動物たち。かわいいのがこの場の雰囲気に似合わず、余計に不気味さを際立てている。生まれたての動物はしばらくその場に浮かんでいたが、そのうち大きな固まりに割れてしまい、形を崩しながら流れていった。
 教室の戸に手をかける。この場所に何かあるらしい。
 踏み込んだ瞬間、金色のひかりで目がくらんだ。え、と振り返って確かめる。ちゃんと廊下がある。もう一度、室内に目を戻すと一面の麦畑だ。
 なんだ、こりゃ。
 ずっと穂先が揺れている。いがらっぽく甘い麦のにおい。麦秋である。何となく見覚えがあるようなないような、へんな気分になる。畑は広く、とうてい教室の中に納まる大きさではない。入り口のところから別の場所につながっているらしい。またずいぶん大掛かりだな、と感心する。
 さわさわと麦稈のすれる音。おかしいくらいのノスタルジー。微風のそよぐ穂群に囲まれて、どうしようもないほどの胸苦しさが迫ってくる。そして、麦穂の波の中、制服姿の女生徒がたっていた。畑の中心で彼女は微動だにしない。彫像のように身じろぎもせず、表情までが固まっている。
 話しかけようとして、金色の海に踏み込んだ。
「なあ、何してるんだ?」
「ここっていったい何なんだ?」
「変な場所だよな」
「誰か待ってるのか?」
「スカートで脚がちくちくしない?」
「トイレとかどうすんの?」
 いくら話しかけても反応がない。
 彼女の周りから動物が生まれ、風に乗ってぽわぽわと外に流れていった。いくつか続けて現れると、しばらく間が空いて、また新しい動物が生まれる。
 指で触れると、一瞬遅れてぱふっと割れる。いくつか壊すと、彼女がぱちぱちと目を瞬いた。最初は眠りから覚めたばかりで視点が定まらなかったが、やがて、ひとみに力が戻り、まっすぐこちらを見つめてきた。吸い寄せられるように目が合うと、ゆらりと体を動かして、片手にさげた長いものを持ちあげる。剣だ。
 剣?
 と、疑問に思ったところで、
 ぶんっ。
 あ、あぶない。
 あたりを踏み荒らして、姿勢を立て直す。
 向き直って、いきなり何をする、と問えば、
「通さない」
 かわいらしくうさみみをつけた女生徒が、やっと発した言葉がそれだ。
 転げるように教室を出る。後ろを見ると、剣を持った女生徒が追ってきている。ここまで来て、はじめて出会った強敵だ。振りおろした剣の勢いがしゃれになっていない。それほど激しい手加減ぬきの一撃だった。まともに喰らったらただじゃ済まない。
 逃げる廊下は灯りもなく、崩れた外の天気を映して薄暗い。何度も角を曲がる。足音がひびく。呼吸が大きい。いつの間にか見えなくなった彼女を感じ、しきりに背後を振り返る。様子を窺う。影に怯える。周囲のすべてが敵になった気がしてくる。
 さんざんに走り回り、こそこそ忍び歩き、めぐりめぐって逃げ惑った挙句、ようやく振り切った――だろう、と思えるようになった。すくなくとも、近くに気配はない。
 ふう、と全身の力を抜いた。
 なんだ、あの危険人物は。生徒会の刺客なのか。なんにせよ、いちいち相手してはいられない。放置して、さっさと先にいってしまおう。気持ちを切り替えて階段に向かう。
 踏み段に足を乗せ、ふと虫の知らせを感じて見上げると、薄暗がりの躍り場で待ちぶせる影がある。目があうと、ゆっくりと剣先を動かした。催眠術にかかったように、その姿に見入っている。
 剣が止まる。
 剣先がこちらを向いたと思うと、ここちよい踏み切りの音を響かせて、宙から女剣士が降ってきた。
 ずむ。
 剣を振りおろすと、空気の圧縮される音がする。とっさに体を投げて、床に倒れこんだ。あやういところで身をかわしたが、体勢を崩したところに剣先が追ってくる。切っ先が床のリノリウムをけずる。
「こらっ、スカートでそんな大暴れするな!」
 必死の説得も、効果はない。剣を構えて、無造作に間合いを詰めてくる。
 何か手はないか。そうだ、これがあった。
 先ほどもらった剣を構えて牽制する。と、さすがに一度引いて、こちらの様子を窺っているようだ。しかし、時間稼ぎにしかならず、再び剣を振りあげて襲い掛かってくる。
 刀身に一撃を受けて、頼みの綱はあっさり跳ね飛ばされた。手がしびれる。ごろごろ転がって、壁際まで追い詰められた。脚が残っていないので、もう逃げられない。
 このままじゃまずい。ジリ貧だ。うまく剣を取り戻せば、奇跡とやらもつかえるが……って、もう回数切れだった。ああ、俺のばか。もうだめだ、くそ、邪魔だ!
 ぽい。
 せっぱ詰まってヤケになった挙句、後生大事に抱えていた紙袋を投げつけた。ぽわん、と袋が破れ、中身が飛びだし、のんきな顔でたい焼きが空中を泳ぎだす。
 なんだ、なんだ?
 尻尾を揺らし、焦んがりと小麦粉の魚体をうねらせて、のたのた彼女の方に向かっていった。やがて、目標に泳ぎついたたい焼きは、周囲を取り巻いて回り始める。彼女はその姿を目で追いながら、
「……おサカナさんすいすい」
 忘我の境地でご満悦だ。ぴくりともせず、たい焼きの泳ぐ様子に見入っている。さっきまでの鬼気迫るような危険人物と同一だとは思えない。
 目の前で手をふっても反応しない。――胸ももめるのでは?
 いかんいかん、と伸ばしかけた手を押さえる。せっかく気をそらしたのに、正気に戻ったらやっかいだ。刺激しないように、そおっとそっと傍らを抜ける。

 重々しい音を立てて、屋上への扉が開いた。
 普段はあまり利用されていないらしく、金網の被覆があちこちで剥げ、赤さびの浮いたパイプが床を這い、雨だれの染みはべっとり黒く、砂埃が溜まり、枯れワラと鳥の糞とで汚れ、どこからか飛んできたビニルごみも落ちていて、ひと気のない場所特有の荒れっぷりを見せている。
 俺としても、わざわざ来たい場所ではないのだが、悪役というのは高い所(じゃなければ、薄暗い所かじめじめした所)が好きなもので、ここが対決の舞台となることは多い。
 覚悟を決め、寒さを予想しながら外に踏み出した。が、思ったよりも暖かい。生ぬるい風が吹き付ける。どこかおかしい。地上は雪で覆われていたはずだ。
「――待っていたよ」
 階段小屋の向こうから姿を現して、誰かが声をかけてきた。正面に立ちふさがり、皮肉な薄笑いを浮かべ、じろじろと値踏みの視線を向けてくる。
「はじめてお目にかかる。生徒会の久瀬というものだ。試練に耐えて、見事テストに合格してくれたね。けっこう。僕の期待通りだ。無断で試させてもらってすまないが、君のことをもっと知りたかったものでね」
 どこか尊大に名乗り、いやみっぽく頷いてみせる。そして、口を挟む暇もあたえないまま、滔々と演説をぶち始めた。
「さて、本題にはいろう。君はいまの学園をどう思っているかね? あまりにも秩序がないとは思わないか。僕はかねてから強く主張してきた。この学校は変わらねばならない。つまり、必要なのはひとつ。正義によって、学内を浄化するのだ」
 どこか演技じみたポーズをとりつつ、あるべき理想と秩序を弁じたてる。なかなかの雄弁家だ。思わず同意したくなってくる。
 生徒会ということは、こいつがラスボスだろうか。油断なく身構えながら、演説を拝聴する。長科白の途中で襲い掛かりたくなる衝動に駆られるが、がまんがまん。
「……授業中に眠り込むものはおらず、ぎりぎりで始業に駆け込んだりなどせず、毎日ちゃんと出席し、廊下は走らず、学食では厳かに列をなし、上級生には敬意を払い、下級生には慈愛をもって接し、夜の校舎に忍び込んだりせず、当然ながら間違っても秩序の象徴たる窓ガラスを割ったりなどしない。そういう正しい学園を目指すのだ。いや、目指すだけでは足りない。そうあらねばならん。そのために君の助けが欲しい」
 どうやら、行動に向かわせたのは支配欲でなく、偏愛的な自己への執着だったらしい。単純じゃないだけにやっかいだし、根が深い。この手のタイプとは、話し合いの余地はないだろう。妄想が人格の根本部分となっている。他人がどんな主張をもってようと、正直どうでもいいんだが、これも任務だ已むを得ない。敵対するなら倒すしかあるまい。
「今日のところは、まずよくやったと褒めておこう。この調子で学内の不良分子を倒してくれたまえ。そうして、生徒会の指導の下、規律と節度に満ちた理想的学園生活を築くのだ。異分子を排除せよ。相容れない存在を抹消せよ。君ならできる。学園の新秩序を僕とつくろう。さあ、この手をとってくれたまえ。同士として歓迎しよう」
 手を差し出して、さあ、さあと迫力で押してきた。
 か、顔が……。
 視界いっぱいに迫ってきている。
 やるしかないか。覚悟を決め、飛びのいていったん距離をとろうとする。
 と、
 ばふっ。
 横手から何かがすごい勢いで飛んできて、迫りくる顔面に突き刺さった。しばらく間があって、そのままの姿勢でゆっくりと地面に崩れ落ちる。
 やった……?
 助け起こすと、気持ちよさそうに眠っていた。学園のきりつをわがてに……。寝言をいって起きる気配がない。夢を見ているのだろう。とりあえずは大丈夫そうだ。
 飛んできた物体の方を拾って調べる。へなっとした布を縫い合わせ、パンヤ様のふわふわした素材を封入してあるらしい。どことなくよいにおいもする。
 枕?
 なんでまた、こんなものが。
「あーっ、すみませーん」
 パジャマ姿の女性がぱたぱたと現れた。
「ごめんなさい、失敗しちゃいました」
 えへへとかわいらしく笑ってみせる。
 口では謝っているが、笑顔をくずさず、どことなく妙な印象を受ける。そもそも、学校の屋上でパジャマという組み合わせ自体が変だ。その恰好で登校して来たのか? まさか、校舎の中で暮らしてるわけでもないだろうし。いったい、ここで何をしてるんだ?
 気づけば、パジャマの彼女が、小首を傾げ、きょとんとした顔でこちらを見ていた。

 金網に寄りかかり、並んで話をする。体を揺らすと、ぎしぎしと背中がきしる。日差しがすっかり強まって、もうまるで夏の日だ。遠くセミの声さえ聞こえる気がする。上衣を脱いで、涼をとる。じんわりと汗ばんだ。風が涼しい。
 隣には枕を抱いて、パジャマ姿の女性がいる。何だか病院みたいにも思えてくる。
「――それで、いったいどうなさったんですか?」
「学校が占拠されたからって送り込まれたのはいいんだけど、どうもいつもと勝手が違って。敵っぽいのはいても、解決の手がかりがないんだよなあ。校内がこれじゃ困るだろうし、生徒はみんな居眠りしてるし。出来れば、なんとかしたいんだが」
 黒幕らしいのならさっき出てきた(そして、倒された)が、それで任務達成という感じはあまりしない。まだ未解決の問題があるんだろう。実際、ここが変な空間なのも変わっていない。
 屋上は夏のように暑く、金網越しに地上をのぞけば白い雪がまぶしく反射する。そして、――あれ? 俺って高いところダメじゃなかったっけ? 気づいた途端、目の前がくらっとする。慌てて目をつむった。足場がしっかりしてれば、こういう場所でも結構平気なんだが……。
 すると、彼女は大きく頷いて、
「へーっ、そうですか。ご立派です。でも、すこしだけ困っちゃいました」
「……何がです?」
「学校をこうしてるのは佐祐理ですから」
 あっさりした口調で、とんでもないことを言い出した。本気なのか、軽口なのか、表情からは窺えない。あっけらかんとして、天気の話題でもしているかのように悪びれない。
「どうしてそんなことしたんです?」
 話を合わせて先を促すと、作ったように過剰なしぐさで、腕をくんでうーんと考え込む。いちいち反応が大げさなひとだった。
「そうですね、こうやって、ずっとずうっと夢の中で、好きなひと達と一緒にいたいと思いませんか? 遊び続ける限り、世界は終わりません。眠りの中なら、失くしたものも取り戻せるんです。ですから、こんなふうに学校をのっとってみました」
 がしゃんと勢いをつけて跳ね起きると、背中に手を組んでくるっと振り向いた。告白の内容が内容だというのに、ずいぶん悪気のない、からっとした顔つきをしている。
「ひょっとして、佐祐理がお呼びしたからここにいらっしゃったのかもしれませんね。いま、この学校で目覚めているのは、どこか佐祐理と似たところのある方ばかりですから」
「呼ばれたって、俺が?」
 直接その問いには答えず、どこか口もとを和らげて、はぐらかすように覗きこんでくる。
「――だから、枕投げをしませんか? 悲しいことを忘れて、一緒に遊びましょう」
 妙なことを言い出して、いたずらっぽく笑った。

「いきますよー」
 枕を持ちあげてアピールすると、大きく振りかぶって投げつけてきた。
 うわっぷ。ちょっと待って。
 その、いや、うわ。
 いくつもいくつも、続けて枕が飛んでくる。本気の勢いじゃないようだが、少々やっかいだ。いちいち受け止めているうち、だんだんもてあましてくる。両腕が枕でふさがった。足もとに落とすと枕の山が積みあがる。どこからこんなに出てくるんだ?
 投げつけてきた張本人といえば、
「ちゃんと投げ返さないと負けちゃいますよ?」
 手を止めて、おかしそうに笑っている。
「ひどいなー、いきなり」
「楽しいですねーっ」
「いや、だからさあ」
「あ、やる気ですね。佐祐理だって、負けません!」
 枕投げが再開する。勢いが激しくなった。
 だから、ちょっと待った!
 ばふ。
 口を開くと、ぶつかってくる。のんきにしゃべってる余裕はない。飛んでくる枕を振り払うので精一杯だ。投擲の勢いは止まず、じりじりとフェンス際まで追い詰められる。これ以上さがれない。どうにかしなきゃと思ったところで、枕の雨が急にやんだ。ようやく弾切れになったらしい。やっと一息つけた。
「残念、弾切れだな。枕を拾うあいだ、少し休戦しよう」
「いえいえ、ご心配には及びません」
 大げさな身振りをつけて、えい、と空中で手を振ると、ぱっと枕が現れる。くるっと手を動かすとまた飛び出してくる。何度か繰り返して両手がいっぱいになった。
「はい、これで大丈夫です」
 自ら学校をこうした黒幕と名乗るだけあって、さすがに多彩な技をもっている。
「じゃ、いきますよ」
 楽しげに、得意げに。罪のない笑顔でしんから満足そうに。日差しの照る校舎の屋上で、枕投げをする。両手の枕を投げつくすと、空中に片手を突っ込んで、どこからか新しい枕を引っ張り出し、肩のうえにしょい上げて、えいっと投げつけてくる。子どものように一所懸命で、照れのない生真面目さで、心のそこから楽しんでいる。
「……ずっと、こうやって一緒に遊ぶひとを待っていた気がします」
 ほのかに紅らんだ顔で、そう告白する。本気にしたい気もするが、その目はどこか別のものを見ている。待たれているのは、たぶん俺ではないのだろう。失くしたというからには、一緒に遊びたかった誰かがいて、そして、もう会うことはないのだ。
 なるほど、そうか。不思議と理由が分かる気がする。俺では代わりになれそうもないが、ご所望ならしばらく付き合ってもいい。そうしたい気持ちが、俺の中にもあるらしい。何故だろう、誰だろう。俺にもそんな相手がいたのかもしれない。
 落ちていた枕をひろって投げ返す。一瞬、彼女はきょとんとするが、すぐに状況をつかんで大げさによろこんだ。せなかを丸めて枕を避け、うれしそうに笑う。
「やりましたねー。えいっ、えいっ」
 今度はどこからか水鉄砲を取り出した。二丁拳銃でぴしゅぴしゅと水をかけてくる。飛沫がきらめいて、ぬるい水滴にちいさな虹がかかってみえる。
 笑顔の印象がさっきよりも明るい。どこかやけになった感じもする。水をかけられて、服が重たくなってくる。水流が肌にあたってくすぐったい。こっちもやけになる。
 枕で顔をガードしながら投擲を続けるが、水鉄砲の攻撃がだんだんとエスカレートして、わ、わ、ぼちぼちしゃれにならなくなってきた。
 どざー。
 ずびゅ。
 ぶばばばば。
 普通の水鉄砲にしては水量が多すぎる。前が見えない。まるで放水訓練のようだ。枕も混ざって飛んで来る。相手をするのがつらくなってきた。さすがにもう限界だ。息が苦しい。
 まずい、やられる。
 そのとき、屋上の扉がばんと開いた。リボンで結んだ長い髪が風になぶられる。それは、麦畑の女剣士だ。
 勢いよくさっそうと登場した女生徒は、
 もぐもぐごくん。
 くわえていた、たい焼きの尻尾を呑み込んで、
「私が、私が佐祐理と遊ぶ!」
 高らかに告げる。
 宣言がなされると同時に、あれほど激しかった水鉄砲の攻撃がぴたりととまった。
「――あれ、舞、どうしたの?」
 きょとんとした顔で闖入者を見やり、両手の水鉄砲を不思議そうに眺める。事態が把握できていないようだ。
「あれ? あれ?」
 とまどう彼女に女剣士が近づいて、向こうで遊びが始まった。
 どうやら、これでお役ごめんらしい。
 シャツの袖と裾を絞って水を切る。靴を蹴って水気を飛ばす。濡れた制服がまとわりつく。皮膚が乾いてかゆくなる。夏の名残の水滴が、まぶしい日差しにきらめいた。

「あははーっ」
「………」
「あははーっ」
「………」
「あははーっ」
「………」
「あははーっ」
「………」
 ぐるぐるぐるぐる。
 すっかり夢中になって遊んでいる。
 かーかー。夕焼け小焼けな効果音が流れ、俺はいったい何をしているのだろう。遊びから開放されたのはいいが、まったく立場がない。屋上の床にへたり込む。何かもうどうでもよくなってきた。このまま任務を放棄してもいいような気がしてくる。
「楽しそうね」
 がっくりと脱力していると、頭上から声が降ってきた。気づかないうちに屋上に来ていたらしい。視線を上げると、相変わらず妙ちくりんな着ぐるみ姿だ。わずかに笑みを浮かべて、戯れるふたりを見ている。
「……なんだ香里か」
「なんだとはご挨拶ね」
「用でもあるのか? いまちょっと取り込み中なんだが」
「別に。どうしてるかなと思って」
 といわれても、どうにもなっていない。
「残念ながらご覧のとおりだ」
 気力の尽きた姿をさらして、我ながら情けないが、取り繕う元気もない。
「あら、頼りないのね。これでも少しは期待してたのよ。あなたが何とかしてくれるんじゃないかって」
 澄ました顔で挑発してくる。いじわるなやつだ。
「どうもご期待にそえませんで」
 力なく笑う。
 それにしても困った。どうしていいやら。当初の目的もどこかにいってしまい、途方にくれて、投げやりな気分になる。選択肢としては、屋上のふたりを倒すか、遊び飽きるのを待つか、一階から探索をやり直すか、そのくらいだろう。といっても、ひとりでも持て余すのに、ふたり同時に相手できるか疑問だし、この場を放置して別の場所にも行きにくい。一応、何かのイベント中ではあるわけだ。結局、この事件の黒幕は誰で、原因は何だったんだろう。やっぱり、あのふたりがそうなんだろうか。
 と、控えめな音をたてて扉がひらき、またひとり屋上に現れた。見覚えのある小柄な姿は、一階の廊下でぶつかった下級生だ。こちらに気づいたらしく、ゆっくりと近づいてくる。
「天野さん」
 隣から呼びかけると、向こうもちょこんと会釈した。
「知り合いか?」
「ええ、起きてるひとほとんどいないもの。そりゃ知り合いにもなるわよ。倉田先輩もね」
 変わらず戯れるふたりを指す。どちらかが倉田先輩というらしい。しかし、ほんとうによく続くもんだ。飽きたとか、付き合いでとか、惰性でとか、そういう色がなく、真剣に楽しんでいるのが分かる。よく体力が尽きないな、と感心する以外ない。枕投げ、鬼ごっこ、缶けり、ゴムとび、けんぱ。水鉄砲で水を掛けあい、所狭しと駆け回る。子どものようなパワーだ。なんだか見てるだけで疲れてしまう。
 この調子じゃ、当分、遊び飽きてくれないだろう。ひょっとして永遠にこのままじゃないか、そんな疑念も生まれてしまう。この任務は俺の手に負えなかったのかもしれない。八方手詰まり、行き止まり、袋小路にはまりこんで、いまや変化を待つだけの傍観者だ。だけど、未練がましく、どこかに抜け道を探している。何かいい手はないだろうか。
「あら、それならほら」
 と、指し示された。
 遊び続けるふたりの向こうで、半透明のぼんやりした巨大な扉が浮かんでいた。目を凝らすと、冗談のようなハート型。少々恥ずかしい見かけだ。
「あれが出口よ」
 どこか含んだ調子で、さらりと言う。
 多少いぶかしくは思ったがせっかくの新展開だ。こうやってあっさり出されるとありがたみも薄れるが、待ち望んだ突破口である。よし、と気合を入れなおして、腰を上げる。
「だけど、あかないわよ。鍵がかかってるから」
 出端をくじいて、してやったりとにんまりする。
「……マジか?」
「マジよ」
 復活しかけた気合いが、どっぷりと失われた。
「これからどうするの? まだ待ってる? ずいぶん待つことになりそうだけど。それとも、いっそのことここで一緒に暮らす?」
 歓迎するわよ、といたずらっぽく付け加える。
 それは魅力的な提案だが、そうもいくまい。
 せっかくの出口だったが、通れなければ意味がない。抜け道がないなら、結局、待つか戻るか戦うかの三択だ。行き詰まっているのは変わらない。だけど、ものは考えようで、これもいいきっかけなのかもしれない。ここまで進めたイベントだが、きっぱり諦めて最初からやり直そう。どこかで何かをとり逃してるんだろう。忘れたものは見つけなければ。もったいながっていたら、いつまで経っても終わらない。
 今度はもっと慎重にやることにしよう。
「そうだな、なんとか出る方法を探すしかないな」
「見つかるかしら?」
「たぶん」
「あたしだって、もうずっと探してるのよ」
「これでも探し物は得意なんだ」
 それにはコメントを返さず、無言で肩をすくめている。まったく期待されていないらしい。何だか少し悲しい。無常をかみしめ、減少傾向のやる気を再び掘り起こしていると、
「――眠ればいいんです」
 ずっと黙っていた下級生の少女が口を開いた。顔を上げず、目も合わせず、半ば自分に向けて言っているかのようだ。
「眠れば別の世界に抜けられます。そのうち、心のどこかで願っていたような、都合のいい夢に着くはずです」
 淡々と続ける。何かを悔やむようでも、自嘲するようでもない、諦めを受け入れきってしまったような、かわいた口調だ。
「夢の中を通れば、ここから出られるでしょう。そこがいいところとは限りませんし、行き止まりかもしれませんが、少なくとも違う場所です。それに、いまだって眠っているようなものですし、誰かの夢じゃないともいえませんから」
 都合のいい夢といっても、強く求めるものはないような気がする。いまの暮らしに満足しているし、別の世界というものがぴんと来ない。あえて願うなら、彼女が欲しいとか、財布が膨らんで欲しいとか――あ、試験は何とかなって欲しい。じゃなければ、いつまでもいまの所にやっかいになるわけにもいかないし、ひとり暮らしとか。しかし、どうにも切実さが不足している。これじゃどこへも行けやしない。眠ればいい、か。いまだって、眠っているようなもんか。だとしたら、俺はいまどこで寝てるんだろう。
 まぶしいくらいの光に包まれて、屋上は静かだ。足音と、呼吸の音と、ときおりの歓声と。時間は流れず、よどみ、たゆたう。むずがゆいくらいに平和な停滞。
 空中に浮かぶドアの下で、女生徒がふたり戯れている。また別のふたりが、ひざの上に両肘を乗せ、頬を支えてその様子を見守っている。いつかどこかで見たような、誰かの夢のまぼろしだ。
 閉ざされた校舎の屋上で、ハート型のドアが俺たちを見おろしている。やがて、扉は真っ白な天使の羽を生やし、ぐんぐんと空に昇っていった。
 あの扉にふさわしい自分ならよかったのに。そう思いながら、空の中に薄れてゆく扉を眺めている。手の届かないものをずっと見ている。

*

 たたんたんと音を立て、名雪は同居しているいとこの部屋までやってきた。軽く扉を叩いて返事を待つ――が、反応がない。しばらく待ってもう一度ノックをし、そろそろと扉を開けて覗き込んだ。
「祐一さん、どうだった?」
 一階に戻ると、台所から母親の声がかかる。もうすぐご飯が出来るからといわれて、二階まで祐一を呼びに行ったのだ。
「毛布かぶって机で寝てた。ゲームしてたみたい。女の子がたくさん出てくるの」
「そう。心配ね、風邪なんて引かないかしら」
「掛けなおしてきたけど……もう少ししたら、また見に行くよ」
「お願いね」
 いくら暖かくなったとはいえ、確かに少し心配だった。気にしてないと、すぐに無茶をするし。しかたないなあ。天井の方をちらっと見て肩をすくめる。
 でも、今日はせっかく先に起きたのになー。そう思うと、いろんなものを棚に上げつつ、声に不満が漏れてしまう。
「もうこんな時間だよ。祐一もおねぼうさんだね」
「ええ、そうね」
「夜更かしのしすぎじゃないかな」
「あらあら。祐一さんにもいろいろ事情があるんですよ。男の子ですから」
 含みのある内容をさらっといわれ、名雪はいたく感心して頷いた。なるほど。男の子っていうのは、そんなものかもしれない。でも、机に突っ伏すまでしなくてもいいのに。いくらなんでも熱中しすぎだと思う。そんなによかったのかな?――夢中になると、それ以外目に入らなくなる性格だもんね。しばらく様子を見なきゃ。無理するなら注意しないといけないし。
 二階で眠気が移ってしまったのか、ふわあ、とあくびが出てきた。早起きだったから、少し寝足りないのかもしれない。
 あ、ご飯のしたく手伝わなきゃ。それに、祐一の毛布も掛けなおさなきゃ。………。流しの音が心地よくひびく。夢見心地でふらふらと歩き出す。まわりの世界が遠く感じる。だんだん、分からなくなってきた。
 それにしても、とぼんやり名雪は思う。楽しそうな寝顔だった。どんな夢を見てるのかな。わたしも見られるといいな。
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