北川潤が亡くなったという知らせは、彼のひ孫である亮輔をある程度は悲しませたが、それでも立ち直るのに数日を要する、というほどではなかった。北川潤が亮輔に嫌われていた、というわけでは決してない。だが、既に平均年齢を大きく超え、しかも身体中を病に冒され、先が見えている老人に対しては、若者は生きていて欲しいと思うよりは、苦しまずに逝って欲しいと思うものである。亮輔はだから、安らかな表情で逝けた、という潤にとっては孫の、亮輔にとっては母親の泣き腫らした目を見つめて、そう、と一言だけ呟いた。哀しさはある。寂しさもある。しかしそれよりも、奇妙な安心感の方が大きかった。潤爺に苦しいのとか、辛いのは似合わない。亮輔はそう心から信じている。
「ところで、亮輔」
 まだぐすぐす言いながらも少し口調を変えた母親に、亮輔は何、と応える。亮輔にとって、母親はいささか感情的で、しかも泣き虫である。彼が地球を離れ、月のハイスクールに通うことになったときも、一番反対したのはこの母親だった。光回線を使えば、ほぼ誤差なしの映像電話を引くことが出来る、という説明にも聞く耳を持たなかった。
 そういえば、とふと亮輔は思う。あの時が潤爺に会った最後だっけ。病気の身体をおしてわざわざ亮輔の家まで来た潤は、あの老人にしては茶目っ気のありすぎる笑顔で、亮輔の背中を押したのだ。行って来い。亮輔が行くべきと思ったのなら、行って来い。生涯忘れないだろう、と亮輔に思わせた声は、やはり今でも亮輔の頭に刻み込まれている。
 相当のお爺ちゃん子で、その時も潤に縋って泣いていた亮輔の母親はそして、物思いにふける様子の息子に、本日の2番目の用件を切り出したのだった。






“ネバー・エンディング・ストーリー”





『きっと元気に違いない亮輔へ、既にこの世にはいない北川潤より。随分と書き出しには悩んだが、ようやくこれに決まった。我ながら芸がないが、仕方がない。私はこういうのが上手い人間ではなかったし、きっと亮輔、お前も上手くはないのだろう』


 その通りだよ、潤爺。苦笑して亮輔は立ち上がる。厚い封筒を見たときに予想はしていたが、やはり随分と長い手紙のようだ。今のうちにお茶を沸かしておこう。亮輔は部屋の隅の装置に向かう。地球時代ならヤカンを火にかければすむが、月面のこの街ではそうもいかない。一度も地球から出てない潤爺がこういうのを見ると、きっと大げさにがっかりするんだろうな。また苦笑いをひとつして、亮輔は机へと戻る。
 子供、孫、ひ孫全員に遺書を書いていた、という母親の知らせに、亮輔はそれほど驚きはしなかった。亮輔が知っている潤は確かに老人だったが、それでも表情はいつも明るかったし、終始いたずらを考えている様子でもあった。一度潤も、その餌食になったことがある。ジュニアスクールの卒業祝いに、一緒に食事に行ったときだ。そこそこ名の通ったレストランだというのに、潤は亮輔の席にブーブークッションを仕掛けたのである。顔を真っ赤にする亮輔と、きょとんとした表情のウェイター。してやったり、という風情の潤を呆れたように叩いた曽祖母の姿は、亮輔は今でも簡単に思い出せる。自分の顔の発熱を犠牲にしなければならないが。とはいえ、本気で人の嫌がることはしないし、またその行いそのものも潤の人柄によって、人々から許されてしまう類のものだ。潤爺は相変わらず過ぎるよなあ。亮輔はため息混じりにそう思う。
 そもそも、この宇宙時代に手紙を使う辺りが、かなり潤爺らしい。映像に吹き込むとか、いくらでも手はあるだろうに。わざわざ紙に書く、など一体誰がするだろうか。そう思いつつ、床について、のんびりと自分のために便箋に筆を走らせる曽祖父を幻視し、少しだけ亮輔の鼻の奥がつんとなった。
 人は宇宙に上がり、大きく変わったと言われている。しかしそれでも、地球時代の行動を変えない人は多い。潤もその一人だった。このようにわざわざ手紙などを書いたり、映像電話にあまり出てこなかったり。亮輔から見ればあまりにも懐古主義的に見えるそれらのことも、月のハイスクールに来て、なんとなく気持ちが分かったような気になっている。人間、慣れ親しんだものは、そう簡単には変えられないものだ、と。
 ぴー、と装置の甲高い音で、お茶がいい具合に温まったのを知る。亮輔は立ち上がり、中は温まり、外は人肌の温度になっているお茶のパッケージを装置から取り出した。お茶はコーヒーや紅茶よりも、月面では様々な理由から栽培量が少なくなる。そのせいで値段が高くなるが、しかしこれも、地球でいつも飲んでいたものだ。やはり、容易く変わる習慣ではない。


『もう潤子……お前の母親から聞いてると思うが、私は自分が死ぬにあたって、子供たち全員に手紙を送った。内容は色々だ。深い意味があるのも、ないのもある。潤子には昔貰った肩叩き券と、そのお礼の手紙を送っておいた。きっと潤子はまた泣くのだろう。それは少し不憫だが、可愛い孫が自分のために泣いてくれている、と想像するのは、妙に嬉しいことでもある。
 さて、亮輔。私はお前に、若かった頃の大切だったことと、それに付随するいくつかのことを話したい。
 今まで1世紀ほど生きてきて、私は色々な人と出会い、色々な人と別れた。妻との、お前の曾お婆さんとの出会いは特に素晴らしいものだったし、子供が、お前のお爺ちゃんのように3人とも元気に生まれ、育ってくれたことは、本当に嬉しかった。私の人生は、世界で一番の金持ちにも、例えばあの企業の社長にだってすら、自慢できるものだ。勿論その中には、亮輔、お前もいる。お前は私の自慢もひ孫だ。きっと月ではあまり勉強せず、適当に羽を伸ばしているのだろうがな』


 亮輔はまた苦笑いした。まったくその通りだ。潤爺が千里眼の持ち主だったとはね。是非もない想像を一瞬だけひらめかせて、また亮輔は手紙に戻った。


『実際、私がお前の歳だった頃は、それはもうひどかったものだ。あの当時はまだ人間は宇宙には上がっていなかった。あの企業もそれほどに名前は響いてなかった頃だったな。歴史の教科書には古きよき時代、とでも載っているようだ。あの頃は私の祖父も、自分の思い出話をする時にそのようなことを言っていた。なんだよ年寄りめ、などと若い頃は悪態をついていたものだが、いや確かに、自分が老人になってみるとわかるものだ。あの頃。何も考えずに友達と走り回り、遊ぶことと女の子のことしか考えていなかったあの頃が、ひどくいい時代だったように思えてくるよ。
 私が亮輔に書いておきたいのは、その私がお前の歳くらいだった頃に、好きだった人のことだ。
 きっと知っていると思う。その人の名前は、相沢香里というんだ』
 

 今までのセピア色の気分が、その一文で亮輔から吹っ飛んだ。あやうく便箋を取り落としそうになる。相沢香里。それは少なくとも中学生以上なら、誰もが知っている名前だろう。あのブラックサタデー事件の主犯人。60年前の、あの人工衛星からの大規模な有害ウイルス散布事件は、たいていの歴史の教科書には載っていることだ。個人の力で、あるいは全人類が死に追いやられたかもしれなかったという事件は、人類の歴史でも前代未聞だと聞いている。しかしまさか、自分の曽祖父がその関係者と知り合いだったとは。お茶を啜りつつ、驚きに支配されて、亮輔は便箋に向き直った。


『美坂を、ああ、相沢は結婚してからの名前だからな。ここでは私の都合に合わせて、美坂と呼ばせてもらう。美坂を私は本当に好きだった。勿論、10代の好きだ。お前は怒るかもしれないが、10代の恋など、ままごとのようなものだ。だが、少なくともその当時は間違いなく本気だったし、今でも、妻には悪いが、その当時を思い出すと真っ先に出てくるのは美坂のことだ。美坂は歳のわりに大人っぽい美人で、成績も凄かった。お前も知っている通り、あの企業でも将来の幹部を約束されるほどだった。あの頃は美坂はみんなの憧れの的だったな。まあ、クラスの人気投票ではいつも2位だったのはご愛嬌という奴だ。憧れと人気とは、一致しないことも多い。特に男は優秀な女をむしろ嫌う傾向にあるものだ。そういう部分で美坂は不利だったが、そもそも美坂はそういうことはなんとも思ってないようではあった。そういう奴だった。
 私が妻の他に好きになったのは、この美坂香里だけだ。好きになったことと、付き合ったことが、かな。美坂が私を本当に好きだったかどうかは、まあ人の心は闇だ。どうか分からない。分からない、が、美坂の結婚相手である相沢祐一と私は、度々似ていると美坂に言われていた。だからきっと、相沢のことを好きだったように、私のことも好きでいてくれていたと信じている。死を目前にした今でもそう思ってしまうくらい、私は真剣だった。妻を貰って、子供も授かり、こんな歳になってなお、あの頃の胸の高鳴りは、はっきりと思い出すことが出来るのだ。だからそれが、本物だったと信じたいのだ。歳をとっても、変わらない部分は変わらない。もしくは、私が変わりたくないと思っている部分は、変わっていない。そんなものだよ、男とはね。言われたくはないが、馬鹿なんだ。
 あの頃はいつも4人でいたものだ。私に美坂香里、その未来の夫の相沢祐一に、もう一人は水瀬名雪だ。お前はきっと水瀬のことは知らないだろうが、彼女は私の大切な親友の一人だった。お前の母さんが子供だった頃まで、年に1度、美味い苺を届けてくれていたものだ。お前が産まれる大分前に、既に逝ってしまった。今は水瀬と会うのも、冥土行きの楽しみの一つだ。あいつもいい奴だったよ。とはいえ、それはこの本筋ではない。水瀬のことを詳しく知りたいと思ったのなら、別の誰かにでも聞いて欲しい。だがあいつはずっと独り者だったから、それも難しいのかもしれないな。
 きっとお前は知っているだろうが、美坂は高校、お前たちの言うハイスクール時代に妹を亡くしている。美坂の様々なことは、例のブラックサタデー事件の時に大きく広まった。私は先ほど、美坂と私が付き合っていたことがあると書いた。それは事実であると私は信じている。しかし私は、その時分に美坂が妹を亡くしていたことなど、全くもって知らなかったのだ。実に1日の半分ほども一緒にいたというのに、私は何も知らされていなかった。水瀬にそのことを聞くまでは、妹のことは本当に何も知らなかったんだ。自分は美坂にとってなんだったのか、などと、ブラックマンデー事件まで私は非常に悩むことになった。
 義務過程を終了し、宇宙に上がったお前なら、既に感じているだろう、環境の変化と人間関係の変化とは一致する、ということを。俺は美坂とは別の大学に行き、そこで愛情のつながりは途切れた。多くの場合で、恋愛の持続性と二人との距離は反比例するものらしい、と私が学んだのはその経験からだ。だから私は単身赴任など一切しなかった。亮輔、お前にももし恋人が出来たなら、その人を本当に大事だと思うのなら、心も身体も、決して手放してはいけない。まあ、そこで取り返しがつかなくなることも、青春の一粒であるとはいえるがな』


 余計なことを、と亮輔はため息をつく。そもそも亮輔に恋人などいたことがない。母親の潤子にしても、それほどもてていたということは父親でさえ言っていないのだ。北川家はあまり異性に興味をもたれない血筋なのだろう、などと自虐っぽく考えてもみたくなる。その青春の一粒とやらは、どうにも味わえそうにない。とこんな風に。
 ともあれ潤爺はかなり情熱的で、しかもロマンチストだったらしい。ふうむ、と、北川家の中ではかなり現実的な方だ、と自分で思い込んでいる亮輔などは考えてしまう。特に女の子とは縁がない自分には、残念だけど大きなお世話だな、と。とはいえ、年寄りの言うことを聞くべきだと言うことは、いつの時代でも、人間が地球にいようが月にいようが、多分この銀河系を離れても至言であり続けるだろうとも思う。だから潤の言葉は素直に聞いておこう、と亮輔は自分を納得させた。それよりも続きだ。えらく気合が入っているのか、まだまだ手紙は続いていた。


『もうすぐこの世の住人でなくなる私は、きっと恵まれた生を送っていたのだと思う。実際私に心配事など何もない。妻も私より先に旅立っているし、子供たち、孫たちも、いい人間ばかりだ。友達も、もうこの世よりもあの世の方が多くなった。のんびとしたものだ。きっとこれほどに落ち着いている私は、幸せなのだ。それは亮輔のおかげでもある。ここで一旦礼を書いておこう。
 だから、だと思う。最近の私は、あの時代をよく夢に見るようになった。私が20歳くらいの、あの若く、周りに何でもあり、すべてをしなければならないと思っていた頃のことだ。やることは実に沢山あった。喫茶店でのアルバイト、大学での勉強、友達との旅行や、サークル活動。とはいえ、今の私にそれらのことはあまり思い出せない。ふわふわしすぎていたのだろう。私が思い出すのは、1日に1度は鳴っていた携帯電話(これも歴史の教科書に載っているだろう?)だ。当時のメッセージは声を吹き込むのではなく、文章を文字で作成し、それを電波に乗せて相手の端末に送っていた。返信に時間がかかったし、また電話というものが、当時はひどく金のかかるものだった。私は次第に面倒になっていったのだ。世界で一番大事だ、と思っていた美坂のことが。これは誰にでも起こり得るものだ。お前にもあるだろう。母さんや父さん、それに友達が、理屈もなくわずらわしくなることが。しかし、それは思うだけにして欲しい。絶対にそれを表に出してはいけない。約束して欲しいくらいだ。私は美坂に対してそう感じてしまったことを、今でも夢に見てしまう。私がそう思わなかったら、と後悔してしまう。後悔の種など沢山ある。40年前のあの凱旋門賞のレースなど、なぜあそこであの馬を選ばなかったのか、と1週間は夜も眠れなかったし、30年前の世界野球トーナメントでのトトカルチョに破れたことは、1ヶ月は夢に見続けた。だが、それとこれとは次元が違う。とても苦味が強いものだ。あそこで自分がちゃんとしていれば、あの事件は起こらなかった。いや、美坂もああはならなかったんじゃないか。そう思えてならない。そしてその後悔は、私の人生の中でかなりの強さになっている。
 美坂香里が相沢祐一と付き合いだしたことを聞いたときは、確かに私は落ち込んだものだ。なにせ別れようとも、嫌いだとも言われていなかったのだからな。だがそれも、私からの返信を待つ美坂の落ち込みに比べれば、なんでもないことのようにも思える。ブラックマンデー事件をきっかけにして、あの頃の美坂のことは、勿論ひ孫の亮輔のことほどではないが、ある程度見当がつくようになった。水瀬からも色々と話を聞いて、深い確信にも至った。美坂はきっと、妹のことを忘れたかったんだ。美坂は私といることで、ある程度の救いを得ていたのだろう。私に妹のことを知らせないことで、妹のいない現実を感じられたからだ。だからこそ、私が、自分が縋れる男が離れていくことに耐えられなかった。だから私に不安を感じると、すぐに相沢祐一を求めてしまう結果になってしまったのだ。しかし、そう初めて思い至ったのは、全てが終わった後だった。自分の行いの最終的な結論を見てから、自分が何をしたのかを知ったんだ。
 相沢はいい奴だったよ。面白くて、快活で、見た目も、まあ人それぞれだろうが、いい方だった。私の一番の親友だった奴だ。始めて見た時から、こいつとはいい友達になれる、と確信めいたものを感じたくらいだ。結局あいつ以上に気の会う人間には出会えなかった。それでも、いやそれだからこそ、私は彼らを認めることが出来なかった。美坂のことも、妹のことを知らなかったから、いや知ってからはさらに、理解などはできなかった。そして私も、まだ若かった。お前にも分かることだと思うが、若いということは、妥協ができないということだ。だから私は、彼らとはしばらく疎遠になった。近づきたくはなかった。美坂を相沢に取られたように感じていたんだ。
 まったく、私は自分に呆れてしまうよ。高校時代にいつも一緒にいたというのに、私は彼らの結婚式にすら行かなかったんだ。何度も連絡はあったのにな。美坂からも、相沢からも、共通の友人である水瀬からも。でも、私は行かなかったんだ。どうしてもわだかまりがあってな。困ったものだよ、人間というものは。こんなわだかまりのせいで、いくつもの可能性を棒に振ってしまう。その点私の妻は、とここから嫁自慢でもしたいところだが、そうすると便箋では到底書ききれない量になってしまう。だから話の続きをさっさとしてしまうことにするよ。とにかく今は、私と彼らが、それから数年間疎遠になったことをわかって貰えればいい
 21世紀初頭、人類はいまだ宇宙には出ていなかった。あの当時は、現在のように月面に人の住める場所が点在し、また火星に大規模な移住計画が持ち上がることなど、SFやファンタジーでは語られても、真面目な文脈で議論されることなどは決してなかった。現在の常識は、過去の非常識だ。いやはやまったく、私たちの同年代の誰が、若い頃にひ孫が宇宙で生活していると考えただろうか。本気で考えた奴がいれば、そいつはとんでもない夢想家だと馬鹿にされたものだが、まったく、未来を予想できるのは夢想家の特殊能力なのかもしれないな。ともあれ、私の大切なひ孫も、いまは月にいる。私は行ったことがないが、きっといいところなのだろう。なにせ、月生まれの女の子はとても可愛いらしいからな。おっと、同時に月生まれの男もカッコいい連中ばかりらしいから、亮輔には関係ないことかな』


 さっきからずっと、余計なお世話だと心で愚痴ているな、と亮輔は感じた。さっきからの自分への理解と、書いてる内容から、潤が自分の恋愛を特に気にかけているのだろうとは分かる。分かるがしかし、それが不快だ。そんな恋愛ばかり言わなくてもいいじゃないか、と日頃から言われている亮輔などは思ってしまう。亮輔には宇宙開発の夢がある。それに人生を支えると決めた。だから潤爺のアドバイスも、余計なお世話というものだ。そんな風に思っている。
 今ここにいれば、照れるな照れるな、などと亮輔の頭をぐしゃぐしゃと撫でただろう潤の手紙は、ようやく半分が消化されたところだった。


『私の若い頃は、それほどまでに宇宙は遠いものだった。だからそれを近づける方法も、一部の夢想家以外にはわかっていなかった。非常に広い分野を支配可能で、また非常に高い利益を得た「私企業」が、その資本を利用して何も省みずに強い意志と資力、そして幸運を以って宇宙開発を成功させ、さらにその成果を以って宇宙を中立地帯にする。今では既に歴史になっていることは、当時は誰も考えてはいなかったことだ。某国より先に、私企業がステーション開発にも月開発にも先んじるなんてな。勿論私もそんなことになるとは思ってもいなかった人間の一人だ。とはいえ、あの企業は当時でも凄い企業と認識されていた。社長は覇王などと呼ばれ、よくニュースにも登場していたものだ。だから美坂がそこに入社したことは、やはり私たちを驚かせた。確かに美坂は優秀だったが、まさかそこまで優秀だとは、あまりみんな思っていなかったんだ。美坂が相沢と結婚したのは、その数年後だ。相沢が専業主夫になったのは、ああやっぱり、という感じだったがな。あの二人が並ぶと、人間性はどうであれ明らかに美坂の方が優秀に見えたし、存在感もあったものだ。
 既に私は彼らとは疎遠だったから、それらの知らせは全部水瀬から聞いた。あいつも大した奴だ。ずっと相沢のことが好きだった水瀬は、死ぬまで独身を貫いたのだからな。水瀬は高校のとき、ずっとクラスでの人気が美坂を超えて1番だった。それ以降もずっと、男からは人気があった。お前も実際会ってみれば良く分かるはずだ。あの、なんと例えればいいかわからないが、ぽわわーんとした表情や存在は、確かに男の気を惹くものだったと思う。おおらかというか、母性が有り余っていると言うか、そんな感じだった。見た目はな。最後に会ったのは、お互い65の時だったからも30年近く前になるが、その印象はほとんど変わっていなかったよ。多分あの歳になってももてていただろう。人生の深みを感じさせつつ、何か包んでくれそうなあの空気は、友達として私は少々誇らしい気分になったものだ。私自身が妻に、貴方はいつまでも落ち着きがないんだから、などと逝ってしまう直前まで言われたくらいだったからな。しかし、私には良くわからない。その水瀬は、結局誰とも一緒にならなかった。自分に振り向いてくれなかった男を思い続けて、一生を過ごしたんだ。私にはわからない。妻に仮に振られていたとしても、勿論私にはそれは考えられないことだが、私は他の誰かとまた恋に落ちていただろうと思うのだ。美坂と別れた私が、妻に出会えたように。とはいえ幸せの形なんて、人それぞれで違うものだ。一度妻に水瀬の話をしたことがあるが、あいつは笑ってこう言ったよ。貴方、私が貴方程度で満足してあげているというのに、何か不満でもあるんですか、とな。まったく、美坂といい水瀬といい妻といい、まあ他にも何人かいるが、女というのは男には複雑すぎてよく分からんものだよ。亮輔にはまだわからんかもしれんがな。
 すまない。話がそれてしまった。年甲斐もなく語ってしまったようだな。ともかく、美坂は相沢と結婚し、幸せな生活を送っていたようだった。美坂の一番の親友だった水瀬がそう言ったのだから間違いはないだろう。私も妻とは出会っていなかったが、就職した会社が面白く、また少し歳もとり、心の中のわだかまりも溶け始めた頃だった。
 相沢が事故で死んだ。
 もうこの歳になると、誰それが死んだ、などということに、それほどの衝撃は感じなくなる。老人にとって死は身近なものだ。覚悟もできている。だがしかし、若者に死は遠く、怖く、悲しいものだ。あの知らせを聞いたときを上回る衝撃は、私のやたら長い人生の中にもひとつも見当たりはしない。疎遠になっていたとはいえ、一番若かった時代を一緒に過ごしてきた仲間の死は、それも未だ引きずっていた、好きだった女の旦那の死は、私にひどい衝撃を与えた。知らせを受けて、今までのわだかまりなど全て忘れて、私は相沢の葬式に向かった。
 詳しい葬式の説明は省こう。私はしかし、あの時の美坂はずっと覚えている。生涯忘れないだろうと思い、事実生涯忘れなかったあの美坂は、実に良く脳裏に焼きついている。絶望する人間とはああいう顔をするものだと、私も絶望的な気分になったものだ。何も言えなかった。声などかけられなかったよ。何も出来なかった。儀礼的なことを全てやり終え、美坂の焦点の合っていない瞳を見つめた後、私はただ黙ってその場を去ったのだ。何か私に言えることがあったのだろうか。何か私に出来ることがあったのだろうか。自分の自業自得で、彼女から離れてしまったこの私に。亮輔、お前に書いても仕方のないことではあるが、未だに私はそのような思いに捕らわれてしまう。そのような後悔を夢に見てしまう。このことは、今まで妻以外に話したことはない。しかし亮輔には書いておきたいのだ。ほかならぬ亮輔にはな。その理由は、そうだな、後で書くよ。そんなに深くもない理由だ。
 ブラックサタデー事件が起こったのが、相沢の事故のちょうど1年後だということを、彼らと私の繋がり以外は、お前も推測できただろうと思う。配偶者の死が事件のきっかけ、ということが当時も今も変わらない、美坂の動機の解釈なのだから。あのときはニュースでも大きく報じられた。大げさでなく、まさに全人類の危機だったからな。宇宙時代が間近に迫ったことへの某国の危機意識と、あの恐ろしいウイルス開発との関連性は、当時もよく取り上げられていた。だがそこに接近した一人の女のことと、その女の目的と、所属する部署でしか調達できない衛星図など、普通の人間にも、普通でない人間にも知ることなどできはしなかった。
 ブラックマンデー事件の発覚のきっかけとなった、スイス銀行の数千億円もの電子盗難事件。あの美坂の行動に関しては未だ見解が割れている聞く。なぜ美坂がわざわざスイス銀行から金を盗み、それを全世界にばら撒いたのか。それもかなり危険な橋を渡って。それらの議論を聞くたび、私は複雑な気分になったよ。私の推測する理由とは、全然違うものばかりだったからな。その私なりの理由を、亮輔には書いておこう。私が信じる、私に事件の犯人が確かに美坂なのだと実感させた、その理由だ。この理由に思い至った時、私は事件の犯人が本当にあの美坂なんだと、心の底から確信したものだ。同時に後悔も始まったのだがな。
 あれは私の国の古い伝説で、三途の川を渡るときに必要といわれる、六文銭という金のことだ。自分が死に至らしめようとした地球の人口分をきっちり、美坂は用意したんだ。
 そのニュースを見た時に思い出し、そのせいで忘れられなくなってしまった美坂の表情、そして言葉がある。高校の、ハイスクールの頃のことだ。サのときの場所も時間も状況も覚えていない。しかし美坂がいくらか歪んだ顔つきで、こう言ったのは覚えている。人が死ぬたびに六文銭が取れるなら、あの世は凄くお金持ちの国なんでしょうね。確かに美坂はそう言った。美坂に私が何を言ったのかは、もう覚えてはいない。きっとそんな美坂に、ただ戸惑うだけだったのだろう。しかし今は、あのときの美坂がなぜそんなことを言ったのかを推測できる。多分、ああ美坂が言った時周辺に、美坂の妹が死んだのだろう、と。美坂が妹のことを忘れたがってるということは、その表情を思い出して確信した。あの歪みは、痛みや無念ではなく、空虚なものだったのだから。そしてだからこそ、私は美坂が六文銭を、その一人頭約30円を、世界中の人間に配ったのだと信じている。自分が殺す人間を、確実に三途の川を渡らせるため、この世界から消し去るために。これが馬鹿げた想像だということはわかっている。それでも、あの表情を、あの言葉を知っている私には、それが事実なのだと思えてならない。きっと理不尽に人間を奪うための、美坂なりの儀式なのだ、と。テレビを見ながら、私はそう思った。そしていくらか、ハイスクールの頃にはわからなかった美坂のことを、理解できた気になった。
 美坂の行動には、身近な人の死が密接に関連している。多分近しい人の死を、美坂は受け入れられないんだろう。だがそれでも、妹の死の時には、私が傍にいたから美坂は心の平衡を保てていた。寄りかかる誰かが、妹のことを知らない私が傍にいたから、美坂は妹の死を忘れることが出来た。だが相沢のときは、もう誰もいなかった。美坂の周囲全てが、相沢を思い出させるものばかりだった。それに美坂は耐えられなかったのだ。あの時美坂のお腹には、既に相沢との子供がいた。しかしそれも、きっと美坂にとっての救いなどではなく、相沢を想起させる障害物でしかなかっただろう。そして一度タガが外れれば、何も歯止めにはならない。相沢の死を受け止め切れなかった美坂は、自ら世界を壊そうとした。私はそう考えている。
 数千億円の盗難のこと、連邦警察の捜索でも子供が見つからなかったこと、潜伏先でほとんど食べもせず寝もしなかったこと、殺される間際に、ただため息をついただけだったこと。それら報道されるすべてを、私は美坂らしいと思った。確かに美坂だと思った。罪深いことだが、この事件を通じて、初めて美坂と深く関われたような気すらしたんだ。殺されそうになったのは自分もなのに、恨みなど何も感じなかった。逆に少しの嬉しさすら感じていたよ。おかしいよな、美坂の計画が成功してたら、お前だって産まれてはいなかったし、そもそも妻にも出会えなかったというのに。それを止められなかったことに、深い後悔も覚えているのに。それでもやはり、美坂のやったことが大勢の人間にとってひどいことだったとしても、自分にその責任の一端があったとしても、そんなこととは関係なく、この事件を通じて美坂を理解できたと感じてしまった。それに喜びを覚えてしまった。ははは、女は分からんと書いてはみたものの、私もまた、そんな女に馬鹿な奴だと嘲られる類の男のようだ。愛情が既に切れているというのに、過去の女の、しかも一部を理解できたというだけで、殺されそうになっていても喜びを覚えてしまうのだからな。
 だがまあ、先ほども書いたが、人の心は闇だ。私の推測など当てになるかどうかわからん。だから亮輔、こんなことはレポートになんか書くんじゃないぞ。きっと赤点を取ってしまうからな。もっとも私は、現在にも赤点なんてものがあるのかは知らないんだがな。


 書くべきかどうか迷ったが、やはり書こうと思う。警察にも妻にも言っていないことだ。亮輔はでも、特に気にせずに、そうだな、老人の愚痴とでも思っていて欲しい。世界的テロリストに対して、強い後悔と同時に同じくらい強い喜びを覚えてしまう、愚かな老人の愚痴とな。誰にも話さずいたからこそ、何よりもしっかりと覚えている、私の強い残像だ。焦げ付いて焦げ付いて、それでも焼け残ったフィルムだ。
 事件が事件として報道される2週間ほど前だったと記憶している。私は美坂から電話を受けたんだ。私は驚いた。もう何年も話していなかったからな。そして驚きつつ、電話機の向こうの美坂の声が、記憶の美坂と同じだったことに、安堵を覚えていた。
 北川くん、と美坂は言った。10年も前のように言った。だから私もつい、美坂、と返してしまった。美坂は向こうで軽く笑ったようだった。馬鹿ね、私はもう美坂じゃなくて相沢なんだから。その言葉に、もう私は何を言っていいのか分からなくなり、電話機を握り締めたまま黙り込んでしまった。また向こう側から笑い声が聞こえた。相変わらずなのね、北川くんは。年頃の男に言うには少しばかり残酷な言葉だが、毒や嘲りの調子は全く感じられず、私も自然と答えられた。ああ、ほんとにな。俺はあまり変わってないよ。そう。美坂も自然に答えた。
 あたしは変わったわ。美坂はその調子で続けた。ねえ北川くん。あたし、北川くんが好きだった。ほんとよ。ほんとに、北川くんのことが好きだったわ。だから、ありがとうって言いたかったの。美坂、と私は呟いた。電話口がまた笑った。やっぱりあたしと同じね。あたしも祐一のこと、ずっと相沢くんって呼んでたわ。あたしに子供が出来るまでは、ほとんど毎日そうだったわね。
 子供できてたのか、という私の叫びを、美坂は軽くいなした。今のように映像電話などない時代だ。きっと映像電話なら、美坂の自嘲気味の表情が見えたのだと思う。美坂は言った。いたけど、もういないわ。私に子供なんて、いない。どういうことだよ、という私の言葉に、美坂は答えなかった。伝えたいことは伝えたわ。だからもう切るわね。名雪によろしく。そして、まさに叫ぶ間もなく、そのまま電話は切れた。時間にして1,2分のことだ。私はほとんど何も話せなかった。何も聞けなかった。美坂も大した量の言葉を話す気はない様子だった。しかし美坂にとってはきっと、言葉を交わすことそのものが重要だったのだろう。なんとなく私はそう思っている。
 そして事件は起きた。私はそれを、テレビで知った。


 美坂のことは、これで全部だ。そしてようやく、亮輔に書きたかったことに辿り着いた。まだあるのか、と呆れないで欲しい。私と美坂との想い出は、これから私が頼みたいことに関係しているんだ。私にとって美坂香里がどれほどの女か、ということを知って欲しかった。なにせ私の子供たちの中では、お前が一番若く、また私が美坂たちと過ごした年代に近い。少しくらいは、自分の昔のことを話したくなるというものだ。それに学生のお前には、まだブラックサタデー事件のことについて、考えなければならない課題も出るだろう。そのときの参考にでもしてほしい。参考になるかどうかは、先ほども書いたが亮輔次第だがな。
 私が亮輔に頼みたかったことはふたつある。ひとつは簡単だ。同封している小さな人形、ああ、それはあの時代の携帯電話に飾りとしてつける類のものだが、それを美坂の墓に備えて欲しい。美坂の墓と言っても、連邦警察とかそういう場所にはない。水瀬の墓の隣にあるものだ。生前の水瀬が、密かに作っていた。美坂の知り合いで、事件の後もまだ美坂を友達と思っていた人間は、みんな美坂の墓はあそこだと思っている。私も一度だけ行った。落ち着いて、綺麗で、寂しいところだった。しかし妻と結婚してからは、なんだか後ろめたくて行っていない。だから、亮輔。お前に、時間があるときでいいから、行ってその人形を置いてきてほしいんだ。人形の由来は、まあ恥ずかしいから言わないでおく。でも大切なものだ。私が手放せなかった、大事なものだ。それも、美坂とのことを知ってもらったお前には託せる。是非、頼む。
 もうひとつは、若干複雑なことだ。美坂に子供がいたことは書いたな。結局世界中の捜査の目を掻い潜ったその子も、しかし母親の親友の目だけは誤魔化せなかったようだ。その子のことを、水瀬が見つけたんだ。人の目もあって、表立った接触はしていないが、色々と援助などをしていた。私もある程度のことは、それに付き合った。おっと、勿論妻にはすべて話している。妻はこう言ったよ。貴方のことなんて、私には全部わかってますからね、とね。あいつには文字通り死ぬまで、頭など上がらなかった。しかしまあ、そのことはいいだろう。
 その子も今はこの世にはいない。が、その子もまた、女の子だったが、ある人と結婚して子供を産んだ。歳をとってから授かった子供だ。亮輔には、その子供のことを頼みたい。とはいえ何をして欲しい、とかそういうことじゃない。そういうことじゃないんだが、そうだな、お見合いのようなものだ。その子供も女の子だからな。どの道亮輔には好きな女の子なんていないんだろう。これがいいきっかけになるなら、ちょっと面白いと思ったんだ。勿論会いたくなければ会わなくていいし、無視したって構わない。歳をとると、碌でもないことを考えてしまうものだ。なんとなくな、私の血を引くものと、美坂と相沢の血を引くものがまた仲良くなるのは、悪くないなと思えてしまったのさ。妻はいい顔をしないだろうが、どうせ私も妻も生きちゃいないんだ、構うものか。世界は常に、今生きている人間のためにあるのだから。というわけで、亮輔、これが私の頼みだ。と言っても、その子のことは住所と名前しか知らない。それは書いておくが、しかし奥手の亮輔にそれだけのデータで何が出来るか、それだけが不安だな。それ以外のことなら、私はきっと誰よりも亮輔を信頼しているんだが。
 何せ亮輔、お前が私の子供たちの中では、一番私に似ているんだ。だから私は、お前に美坂のことを話した。ほらな、ささいな理由だっただろう。額にしわを寄せる亮輔の顔が目に浮かぶようだ。私に懐いていた潤子が育てたからかな、私に似ているのは。潤子宛の映像電話をたまに見せてもらっているが、いや、あの頃の私はこんなだったのか、と少し感嘆の念にとらわれたものだ。亮輔は気付いていないのだろうが、お前は私に、よく似ているよ。本当にそっくりだ。
 だから、宜しく頼むな。私に似ているお前なら、きっと美坂と相沢の孫を気に入るだろう。私はそう確信しているよ。
 では、亮輔、元気で。できれば潤子に孫の顔でも見せてやってくれ。間違いなく、あいつなら可愛がってくれるはずだ。じゃあ、また100年後くらいに会おう。

                                                                   北川 潤』


 まったく、と亮輔はため息をついた。パックのお茶の残りは、既にぬるくなっている。まったく、潤爺はこんなものを俺に書いて、一体どうしろっていうんだよ。こんな、ブラックサタデー事件のことなんて、話してくれたこともないのに。しかも俺が全然もてていないみたいにさ……。そこまで考えて、今度は亮輔はため息をついた。彼にとって残念なことに、その部分は純然たる事実だったからだ。頭を振って、思考を切り替える。まあいい、どうせ60年も前の事件のことだ。あまり気にしないでおこう。それより、と手紙をもう一度見つめる。そこに書いてあるのは、例の子の住所と名前だ。どうせ葬式で地球に降りるんだ。ついでにその美坂さんとやらの墓に参って、そしてその子の顔でも見に行くかな。
 可愛い子ならいいな、と思考して、うっかりと亮輔は自分の曽祖父の、あのしてやったり、という顔を想像してしまった。見に行くだけだからな。と想像上のその顔をきつく睨んではみたが、そんなことぐらいでは堪えやしないだろう、ということもわかっている。ともかく、と亮輔は考える。宇宙時代になっても、誰かが亡くなれば葬儀をする習慣も変化はしない。葬式に着ていく喪服を準備しなきゃな。それも、潤爺が安心できるくらいには、上等な奴を。
 何よりもまずは、そのことだった。
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