だからさ、おまえが笑ってるだけで俺は満足なんだ。
 耳をふさいで話を聞いてくれないから紙に書いた。紙に書いても目を閉じて読んでくれないから抱き締めた。抱き締めても反応してくれなかった。手詰まりだった。なんだ、こんなことで手詰まりになっちまうような関係だったのか。違うか、ええ。なあ、どう思う。だって俺、何々してくれなかった、くれなかった、くれなかったって、全部あいつが悪いみたいに言ってる。そんな体たらくであいつを、あゆをどうするって? 笑わせるんじゃない。いや、せめて笑わせてみろよ。それくらいやってみせろよ、相沢祐一。自分さえ笑わせられないようなやつが一体ほかの誰を笑顔にできるっていうんだ。口と頬がつり上がってさえいれば笑顔なのか。だったら目の前のあゆのほっぺたを掴めばいいだろう。親指で頬を押し上げればいいじゃないか。それが笑顔だっていうのなら。
 ほら。
 ほら。
 満足か。



 枕を両手で揉んでいる、嫌な目覚めだった。
 汗を吸ったシャツを洗濯機に放り込んで上半身裸のまま顔を洗い終えたころには、夢の内容よりも今日の天気の方が気になっていた。いつものことだ。それでもテレビをつける気にはなれず、かといってカーテンを引くのもめんどくさくて、文字入りのシャツを頭からかぶって財布ひとつポケットにねじ込み、サンダルをつっかけてアパートを出た。最後に残ったレポートも昨日提出して、名実ともに夏休みに入ったばかり。雨なんか降っているわけがない。
 コンビニで朝食を見繕いながらこのところよく見る夢について考えたが、好物の弁当が売り切れていたのでたちまち意識が移った。なんだよ、二回に一回は売り切れてるじゃないか、ここのシャケ弁。スタッフが裏に隠してこっそり廃棄にしてるんじゃないだろうな。そんなことをしていたら承知しないぞ、俺は。とは言っても何もできないのだが、まあ、お天道様がなんとかしてくれるだろう。もしくはそれに準ずる存在。たとえば……たとえばだ。たとえば、天使とか……そう、天使。天使あたりが。シャケ弁好きな天使も、いるかもしれないし。
 じゃなくて。夢の話だよ、と思い出すころには、喉に詰まるおにぎりをお茶で押し流しながらながら駅に向かっていた。急だけど、今日そっち行くから。用件だけを手短に送信する。急行に乗り込んで二駅ほど過ぎてから返事がきた。引き返さずにすんだことを安心する余裕もなかった。
 ただ、台所の下で眠らせたままの日本酒でも持ち出してくればよかったかもしれない、とは思った。












サンダルが飛ぶ夏















 改札を抜けて駅を出ると、ベンチに露出度の高いシャツを着た金髪が座っていて、目が合うなりひょいと右手を上げた。前会ったときよりも、全体的に遊び人に向かっているようだった。
 上着に加えて下のファスナーまで全開だったが、あえて触れない。ファッションの可能性に賭ける。
「久しぶりだな。うむ、壮健そうで何よりだ」
「相沢……どこで吹き替えられてきた」
「そこの改札で」
「いつも通ってるけど、なったことないぞ」
「そりゃ運がよかったんだろ。駅員さんに要注意だ」
「そんな無意味に高機能な人じゃなかった気がするけどなあ」
 軽口を叩きあって、変わらないものを確認する。
「あ、そうだそうだ、土産はない」
「期待してないって。で、そっちはまったく全然元気そうじゃないな」
「……そうか」
「見ればわかる。で……どうする? 部屋、行くか?」
「いや、とりあえずどこでもいい」
「じゃあさ、百花屋行こうぜ。ちょうど新メニューが出たとこなんだ。今のうちに試しときたいしな」
「おまかせする。つーかエスコートの腕が上がってないか。慣れか」
「もちろんだ」
 親指を立てて見せる北川を軽く流して先に立ち、てっぺんで激しく自己主張しているお天道様を一瞥する。夏が暑いのはわかったから、せめて冬にもうちょっと頑張ってくれないもんか。
 百花屋のドアをくぐっても懐かしいとは思わなかった。まだまだ常連気分が残っている。座る前から椅子の感覚が思い出せる。観葉植物の位置からお冷やの氷の数、メニューの大半もそらで言える。新メニューも一発でわかった。
 わかったのだが。
「……なあ、この、ストロベリーパフェって」
「そうそう、これだ。新メニューなんだ」
「イチゴサンデーはどうなった」
「あるぞ、普通に」
 言葉の通り、名雪の半身と言っていいそれは定番メニューとして最後のページに君臨している。
「なにが違うんだ……?」
「いや、一文字もかぶってないぞ?」
「そういうことじゃなくてだな」
 とんちをやっても仕方ない。あきらめてコーヒーだけ注文する。
「好きだな、それ」
「大好物ってわけでもないけどな」
 コーヒー一杯でどこまで粘れるか試したこともある。最高記録は14時間。横をうろつくのがウエイターから店長に替わってからが本当の勝負だ。
 ……昔から、百花屋の窓から外を眺めるのが好きだった。駅前から商店街に連なる、平成と昭和の間を取ったような一帯。見慣れた風景。放課後に利用することが多かったせいか、建物を飛び越えたずっと先、山の向こうに沈んでいく夕日の赤が一番印象に残っている。
「なんか、ここ来ると、帰ってきたって思うよなあ」
「それなら普通、改札を抜けたあたりでそう思うんじゃないか?」
 駅前にはもとからそんなに縁があるわけじゃない。既視感を覚えることは稀にあるが、いくつかの条件が揃っている必要があるらしい。それだって今年の正月にようやくわかったことだ。
 大学まで電車を利用してる俺の方がまだ駅に詳しいな。半年ぶりに会う北川はそう言って笑った。メールしているとよくわかるが、いくら服装が派手になっても中身はあいかわらずだった。
「こないだメールで言ってた子はどうなったんだ?」
「ん? すぐ別れた」
「またかよ」
「軽いのをなんとかして、って言われちゃあなあ」
「そりゃまあそうか」
 くわえたストローを天井に向けて動かしながら、頭の後ろで腕を組む。悩んでいるようにはさっぱり見えないが、こいつはこれで真剣に考え悩んでいる。浅はかで不誠実に見られてしまうのが目下の最大の悩みらしい。軽薄と軽快の違いがわからないようでは、北川と深く付き合うことはできないだろう。
「別れる前に香里に相談してみたか?」
「だって、こんなことで相談するのって情けなくないか?」
「……おまえは、手馴れてんだかそうじゃないんだか……」
 事あるごとに、揺さぶりかけてみろと口をすっぱくして言ってるのに、そのたびにあーだこーだと理由をつけて動こうとしない。このへんも高校時代から変わらないところだ。
「でも、美坂には昨日会ったぞ。そのときに相談した」
「終わってから相談してどうする……」
「はじめはするつもりはなかったんだけど、あっちの愚痴に付き合ってるうちに、流れで」
「……はぁ」
 どちらかが失恋するたびに会って愚痴を言ったり聞いたりしてもらう男女の関係をなんと呼べばいいのか。ロストラヴフレンド? バッドフレンズ? カタカナにすればいいと思った俺が甘かった。
 この手の話だってもう一度や二度じゃない。三度や四度でもない。しばらくは当人に任せてほうっておこうと決意を固めて二年たつが、もういいかげんとっととくっついちまえよ、と二人の目の前で言ってやろうか本気で悩む。
「で、香里になんて言われたんだよ」
「そういう服装してるからでしょ、って」
「返す言葉もないなあ」
「正論ってなんであんなに心に響くんだろうな」
「正論だからだろ」
「やっぱりかー」
「つーか、俺も聞きたい。なんだよ、その、肉を全面にアピールしたような服は。腹筋が7つに割れてるのはわかったから、もっと地味メン路線でいけばいいだろ」
「それ一個ヘソだぞ。いや、俺もべつに派手好きってわけじゃないけど」
 股間で社会にファックユーしている人間の台詞ではない。
「その矛盾のいきさつを教えてもらおうか」
「俺、考えたんだ。これは内面の問題じゃないか。内面の問題は逆療法しかないってのが持論でさ」
「じゃあ、ふられるたびにいちいちショック受けて自棄酒するなよ。その外見になびいて誠実さを要求する相手も相手だけど、半分は自業自得だろ」
「そうは言っても、やっぱつらいだろ」
「甘えるな」
「くっそう、相沢が冷たい……あ、すいませーん、この人冷たいんですけど!」
「は? え? はい、あのー……ええ?」
 白昼堂々解決不可能な用件をウエイトレスを突きつけた軽そうな脳みそを殴って矯正する。実際軽かった。
「それ居酒屋ノリだろうが」
「は、そうだった」
「そろそろぶっちゃけちゃっていいか?」
「いいぞ。女っ気のない相沢の言葉ごときで倒れる俺じゃない」
「俺はおまえのことを軽い奴だと思ったことはないけど、ことごとくそういう理由でふられてるんだよな、なぜか」
「……やっぱりこの服装のせいか?」
「そうしときゃおまえは楽だよなあ」
「む。じゃあ、なんだよ」
「実際に軽い気持ちで付き合ってるからだろ。服装なんて付き合い始めればそんなに重要じゃない。中身も薄っぺらいまま……もっと言えば、他の誰かが頭の中にいる状態で付き合ってるわけだよ」
「う」
「そりゃおまえに本気になった子ならすぐわかるさ。相手が本気か本気じゃないかなんて。大方、あれだろ、形式的なメールしながら一定の頻度で誘って遊んで、ちょっとでも重い話題になったら適当にあしらったりはぐらかしたりしてるんだろ?」
「うう」
「イエスかはいかどっちだ」
「た、正しすぎる男は嫌われるんだぞ」
「まあいいや、次。なぜ逆療法なんて都合のいい言い訳を持ち出してまでそんなことをするかだけど」
「ま、まだあるんですか相沢先生」
「まだっていうかここからが本題なんだが……嫌ならここでやめるぞ。俺はそれでもかまわないし」
「いや、続けることについては問題ないんだけどさ、なんていうか」
「なんだよ」
「いったん場所、変えないか」
「…………あ」
 思いっきり忘れていた。ここはティーンの巣、百花屋だった。冷静に店内を見回せば、夏休みに入ったばかりで私服姿の、おそらく高校の後輩たちがあちらこちらで聞き耳を立てているのがわかる。さっき北川が呼び止めたウエイトレスも観葉植物の裏で耳に手を当てている。
 よく見たら、高校時代から馴染みのある顔だった。
「悪い、これこそ夜の話題だった」
「いや、俺がふったようなもんだし……お詫びじゃないけどここ奢りな」
「ごっそさん」
 すでに一分一秒でも早く脱出したい空気だったので、会計を北川に任せて店を出ることにした。途中でさっきのウエイトレスが寄ってきて、「あの、相沢さん」と声をかけられた。なんてこった、名前まで知られているとは。動揺をなるべく顔に出さないように心がけつつ「騒がせちゃって悪いな」と侘びを入れる。すると、「それは全然いいんですけど、北川さんのチャック、全開ですよ」と返された。北川への礼も兼ねて、「あれが今年の流行らしい」と説明しておいた。俺の返答に彼女は目を見開き、「へー、はーー」と舐めるように北川を見ていた。北川の下半身を。
 入口の前のガードレールに腰かけて、落ち着こうとポケットに手を伸ばす。煙草はない。もちろんライターもない。財布しか持たなかったことを思い出し、舌打ちが洩れる。
「……人のことどうこう言える立場かよ、俺」
 ここでこうしている時点で、俺だってすでに。





 なんでもない日常がそこにあった。
 名雪を起こして、走って登校して、クラスメイトと馬鹿やって、放課後になって、部活に行く名雪に一声かけて、北川と一緒に商店街に繰り出して、家に帰るとちょうど部活帰りの名雪が歩いてきて、玄関に入ると秋子さんがお帰りなさいと言ってくれて、あたたかい食事が用意してあって。俺が転校してからほとんどの月日は、そんなふうに過ぎていった。
 そして俺も、それを不満に思ったことは一度もない。
 ……じゃあ、この心にこびりついて離れない膜はなんだ? 楽しかった高校時代じゃないか。何が引っかかっているんだ。原因と理由があるだろう。たまにこの街を思い出すときは、決まってそんな薄暗いことを考えた。
 原因はわかっていたが、その理由は長いことわからないでいた。
 思い出したきっかけは特にない。
 論文が終わらないとか雨が降っているとかテレビがうるさいとか、きっとそんな理由だろうし、それでいいと思う。

 転校してひと月足らずでクラスに、季節が変わるころには街そのものに馴染んだ俺だが、大事なのは馴染む前。まだ、商店街にどんな店があるのかわからず、通学路の雪が気になりすぎ、学校の広さに辟易していたころ。
 生活の中に、名雪や秋子さんじゃない。香里や北川でもない人がそこにいた。
 そいつは商店街によく出没する奴で、まるで毎日朝から夜までうろついてるんじゃないかってくらい、休日も平日も関係なく会った。
 そして、それまでがまるで夢だったかのように、ある日を境にぱったりと会わなくなった。
 ……もう二年以上たつのに、ただの一度も。
「おお、おしぼり、おまえはどうしておしぼりなんだ。俺と結婚するかい?」
 アツシボを口説きにかかっている頭を引っぱたいて、こっちを向かせる。
「口実がほしかっただけだよ、おまえは。香里とサシで飲むための。そのためだけにたいして好きでもない相手と付き合ってはのらりくらりと自分が傷つかないやり口で、相手が先に愛想を尽かせるように仕向けるんだ。で、うわー、またふられた。美坂、飲もう。それを何回も繰り返してるだけだ」
「あー、あーあーあー! 聞きたくない」
「で、本当の自分と向き合うため、とかいう大層な名目を引っさげて正当化したつもりになって、のうのうと続けているわけだ」
「わかってるよ、いやわかってなかったけど、もうわかった。やめてくれ」
「かと言って今の香里との飲み友達のような関係が壊れるのが一番怖いから、自分から関係を変えようとはしないし、向こうから切り出してくれればなあ、なんて思いながら、明日も他の女と肩を並べて笑うんだな」
「やめてくれって言ってるだろー!」
「じゃ、あとひとつだけ言っておく」
「なんだよ」
「そういうのを、世間では女の敵と言うんだ」
「いっそ殺してくれ…」
 酒の上でなければ言えないような容赦のない言葉を続けながら、俺はたった今自分の口から飛び出した単語たちに取り囲まれていた。見ようによっては北川は、好きな女と会う口実を作り出して、実際に定期的に会っている。それは一種のステップアップと言えるのではないか。やり方に問題があるにせよ、それだけ香里のことしか見えてない、一途さの現れでもある。不特定多数の女の敵であろうと、相手が香里である限り北川は絶対に味方で、それは間違いない。
「……べつにおまえが誰と付き合おうがかまわないけどさ」
 いつの間にか北川の手が止まっている。ピッチャーから継ぎ足しながら、続ける。
「ようするに俺の言いたいことはだな、そのたびに香里がどんな心境になるのか考えてるのかってことだよ」
「美坂の、心境?」
「なるべくなら言わないでおきたかったけど」
「……」
「香里もおまえと同じ理由なんじゃないのか」
「どういうことだ、それ?」
「半分気づいてるんだろ? 自分で打ち消してるだけで」
「……いや、まあ、そりゃ」
 香里も香里で、大学に入ってから何人もの男と付き合っている。そして長続きせずに別れては、名雪や北川と飲み歩く。
「新しい彼氏できたよーって香里が笑ってる姿を見て、どう思う?」
「どうせ長続きしないだろうなあって」
「それだけか」
「……とっとと別れて愚痴ってほしい」
「あとは」
「俺がその位置に行きたいなあ、とか」
「そうか、だったら話は早いな」
「……そうだな」
 話は早い、なんて二秒で言い切ってしまえる状況がどれだけ恵まれていてどれほど貴重なのか、こいつはもっと知るべきだし、たぶん、それさえ知れば弱点がひとつ減る。


「そうだよ、俺、はじめ、相沢が硬派なんだか軟派なんだかわからなかったんだよなぁ」
 吹っ切れたのかやけくそなのか、ペースを上げてぐびぐびジョッキを空にしている。桃色の話題も灰色の話題ももってこいな時間帯、そして場所。いいペースで出来上がってる男に適当に合わせながら、転校してきたばかりのころを思い返す。学校、というより街そのものに馴染めなくて、投げやりに日々を過ごしていた時期があった。
「友達いりませんオーラ出してるくせに、やたら手が早かったりするしさぁ。いつだっけな、雪が積もってて、裏庭に女の子が来てたとき」
「土曜日じゃなかったか」
「そうそう、昼で終わりだった。あの子、朝から昼までいたんだよな……で、ホームルームそっちのけで飛び出してく相沢を見て俺は思ったんだよ。こいつ、絶対にモノにするって」
「いきなりそれは買いかぶりすぎだろ」
「いや、普段は冷静なくせに思い立ったら一直線なところがさ。直情型っていうのか? 女の子ってそういうのに弱いじゃんか」
「そんなん人によるだろ」
「そうだけど、それでもあそこでクソ寒い裏庭まで行ける奴なんてなかなかいないって。あれで一途さがあったら俺は相沢に惚れてたかもしれない」
 気持ち悪いのは置いといて、まるで一途じゃないような言い方だ。
「なんだよ、名雪のことか」
「いや、一時期さ、三年の先輩とお昼一緒してたろ。その間もあの子裏庭に来てたんだぞ? それに、知らない女の子と一緒にいるところを商店街で見たこともあるし。ちなみに二度。どっちも違う子だった」
「おいおいおい、待て。ちょっと待て」
「うち一人には相沢思いっきり怒鳴ってたし、殴りかかろうとしてたぞ。歩道橋の上だったから覚えてる。で、ひょっとしてこいつ真性の女垂らしか、と」
「いや、あれはなんつーか、不可抗力というか、向こうが悪いというか」
 もう、きっかけがなければ思い出しもしない顔と声。沢渡真琴。あれから一度だけ商店街で見かけたが、ちゃんと家に帰ったようだった。まだ元気にしているのだろうか。ひょっとすると俺たちの後輩になっていたりするのかもしれない。そして、美坂栞。風邪はちゃんと治ったのだろうか。同じ学校なら一度くらい校内で会ってもよさそうなものだが、何度か昼に一緒しただけで、結局、一度を除いて裏庭以外で彼女を見ることはなかった。先輩二人も、あれから仲良くやっているのか。舞は魔物とやらと決着をつけることができたのか。誰も彼も、同じ時期に仲良くなった人たちだった。
「ずっと気になってたけどさ、あれはなんなんだ。気になった女を手当たり次第に口説きにかかったわけじゃないのか?」
「……べつに口説きにかかってたわけじゃない」
「朝は美人な同居人、昼は美人な先輩かかわいい下級生、放課後も私服のかわいい女の子とムフフ」
「なんだその女ったらしハーレム生活は?」
「当時の相沢。相沢。相沢。三回言えばわかるか? いやわかれ! 俺の思い!」
「うわぁ……」
 自分でもげんなりする。今にして思うと、きっかけが何にしろ、手当たり次第という表現そのままの行動だった。そこで知り合った色んな人たち。どの子ともそれなりに仲良くなった。でも、それだけ、それきりだった。北川の言うように、他の子との予定を優先して別の子を流したことは紛れもない事実で、もし、誰か一人に集中していたら、と考えたこともないわけじゃない。
「俺は別に責めてるわけじゃないぞ、責めてるけど」
「わかってる」
「ただ、それだけ行動力ある相沢が、そっからまったく色っぽい話題と無縁なんだもんなー」
「だから、人を色魔みたいに言うなよと……聞いてるか? 人の話」
「そりゃあ、あのころはすぐ受験生になっちまったわけだし、別におかしいってほどじゃなかったけど……でも、もう、大学に入って二年目だぞ? そっちには可愛い子がいないとか? なんなら紹介するぞ?」
「ひとまず、落ち着け」
 友人も普通にいるし、北川ほどではないが合コンに誘われることも多い。ただ、特定の誰かと必要以上に親密になる気がまったく起きないだけだ。
「健全な男子としては、やっぱり恋愛してナンボだと思うんだけど、俺みたいな変なあれはともかく、普通に恋愛しようぜ」
「とりあえず水でも飲んどけ。ほら、水だぞ。うまいぞ」
「一体なんだって、そんなに興味なくなっちまったんだよー」
「だから、興味ないわけじゃないんだっての……ああもういいや、めんどくせえ」
「水うまい、相沢この水うまいぞ」
「そらよかったな」
 長いこと自分自身でわからなかった気持ち。ついこのあいだ思い出すまで、出口が見つからなかった想い。
 すっかり愚痴モードに入ってしまっている北川の頭を押さえつけて、一回しか言わないからなと前置きして、俺は言った。
「好きな子が、いるんだ」



 気づいても、見たくなかった。目を逸らしたままでいたかった。もちろん弱音だった。自分でもわかっていた。けれど、その上で、弱虫と罵られてもいいから、直視だけはしたくなかった。再会したって言ったのに。あゆはそこまで言ってくれたのに。そして俺もあゆのことをわかったのに、思い出さなかった。ただの昔馴染みくらいにしか認識していなかった。あまつさえ、そのころ俺がしていたことときたらなんだ。毎日違う女の子と過ごしていたって? 笑うしかない。けれど何より一番腹が立ったのは、こうして思い出すまでそれすら気づかなかったことだ。
 大学が決まり、卒業してあの街を離れるとき、思うところがないわけじゃなかった。なにか、やり残していることがあるんじゃないのか。誰に言われたわけではないが、自分自身でそんな思いを抱いていた。けれど時間は容赦なく過ぎてゆき、いざ行動に移すには、その焦燥感はあまりにも漠然としすぎていて、正体がわからないままうやむやにするしかなかった。
 遅いだろうか、今さらこうして行動に移したところで。
 過去の失敗談として、誰かに笑って話せるようになるまで胸の中だけにとどめておくべきなのだろうか。
 でも、深く考える前に体が動いて電車に乗り込んでいた。
 ……こうなったら腹をくくるしかない。


「そういうことなら応援するぞ。というかだな、ずっと応援しようと思ってたんだぞ、俺は。機会がこないんだもんな」
「悪かったよ、だからこうして来たんじゃないか」
 一人暮らしの学生アパートと言っても俺が住んでいるところとは雲泥の差だった。音も漏れないし部屋も広い。バスもトイレもキッチンもついているときた。来るたびに思うが、どれかひとつくらい譲ってほしい。
「こんなのはアパートじゃない。アパートの形をしたなにかだ」
「相沢にしちゃ思いきった洞察だな」
 居酒屋から部屋まで歩きながら、俺は北川に知っているすべてを話した。商店街で一度見たという相手こそが意中の相手、月宮あゆであること。出会いから、最後になるとは思わなかった最後の日まで。
 北川は酔いやすいかわりにに醒めるのも早い。話し始めて一時間もたったころには顔色も戻り、俺と床と蛍光灯のひもを交互に見ながら黙って話を聞いていた。泥酔しているときは別だが、こいつはいつもこんなふうに、人の話を聞きながら色々と考える。切り返しが鋭いのはそのせいだ。
「……おかしいか? 十年も前、それもちょっとの間だけ一緒にいた相手に惚れて、それが忘れられないって」
「いや」
 相沢らしくていいんじゃないか。キッチンに立って酔いざましのコーヒーをカップに注ぎながら、北川は上機嫌に笑った。
「まあ、ついこの間まで忘れていた奴のせりふじゃないけどな」
「いいんじゃないか? 思い出したんなら」
「そりゃ結果だけ見ればそうだけど」
「じゃあ、建設的な話をしないとな」
 これまでの話ではなく、これからの話を。
「聞いた話を総合すると、とっくに傷が癒えて普通に生活してるってことになるんだけど……なんか変じゃないか」
「変?」
「お互いに変だぞ。だって、おまえら、十年前は好き合っていたんだよな? それにしちゃあ、忘れていた相沢はともかく、月宮さんの対応がおかしいだろ」
「……言われてみれば」
「俺だったら、再会してまず一発目に、怪我について訊くけどな」
 その指摘は、俺が抱いていた違和感をそのままなぞっていた。
 あの日あの時あの場所で、あゆは一体何をしていたんだ? 探し物をしていると本人は言った。でも落し物が自分でもわからないとも言った。今だからわかる。あの時のあゆの行動の支離滅裂さが。強迫観念に駆り立てられるように、商店街をうろついていた。なのに、落とした物がわからない。そして唐突に姿を消した。
「闇雲に考えても埒があかない。ってことでいくつか仮説を立ててみた」
「ああ」
「月宮さんも相沢と同じように、当時のことを忘れていたんじゃないか?」
「俺と同じ?」
「精神的ショックを受けた相沢が記憶を失うんなら、肉体的外傷を負った月宮さんだって記憶を失っておかしくないんじゃないかって。打ったのが頭なら、なおさらだ」
「確かに、その可能性はある……のかもしれない」
 ようやく、見かけだけでも平静を保ったまま思い出せるようになった光景。コマ送りの風景の中、ことさらゆっくりと地上に向かって落ちていくあゆの体。広がる赤い染み。
「肝心なところだけすっぽり忘れるのは、やっぱり、精神的に負担がかかるからか?」
「いや、俺の場合、当時のことは本当にほとんど忘れてたんだ。転校してきて少しずつ思い出していって、こないだ、最後に思い出したのがそこだった」
「そのへんは専門家じゃないとちょっとわからないな」
「……当時のあゆは、母親を亡くした直後みたいだった。だから、俺のことだけ覚えていて、そのへんもひっくるめて、辛い体験は全部忘れちまったのかもしれない」
 そうだ。だって、あいつ、十年前はあんなに明るい奴じゃなかった。母親とのことも忘れて、生来の性格が出ていたのだろうか? それとも、とっくに思い出して乗り越えたのか? 仮説ならいくつも立つ。が、仮説の粋を出ない。
「んー」
 唸り声を上げて、北川が立ち上がった。壁にかけてあったサングラスを取って、ポケットにかける。その足でトイレへ。五秒、十秒、十五秒。出てきた。俺を手招きした。
「なんだ?」
「ここに座って考えてたって解決しないみたいだしな」
「そりゃそうだけど」
「相沢らしくないぞ、俺に先に行動されるなんて」
「心当たりでもあるのか?」
「……行きたかないのはわかるけどさ」
 見ないようにしていた。そうだ、一刻も早い解決を望むなら、北川に会う必要すらなかった。はじめからわかっていた。きっかけがほしかった。きっかけ。これはきっかけにはならないのか?
「まあ、取っ組み合いになったら仲裁してやるから」
「つまり、自分でなんとかしろってことだろ」
「そういうことだ」
 たまにこいつの笑顔はしばきたくなる。
 香里なら同意してくれるだろう。

 転校してから卒業するまでの一年と少しの間、もっとも俺と親しかった女性は間違いなく名雪だった。香里や北川が加わることもあったが、部活がない日は一緒に帰ったし、暇な休日も二人で出かけた。三年になってからは、名雪の部屋で毎日毎晩勉強した。でも、そこに何かあったのかというと、何もなかった。名雪は俺にとって、仲のいいいとこで、家族でもあったけど、それ以外ではなかった。俺はそう思っていた。
「なにも、はじめて帰るわけでもないんだろ」
「まあ……そうだけどさ」
 年末年始やお盆には欠かさず帰るようにしている。逆に言えば、それ以外の名目で帰ったことがない。世間一般に浸透した理由があるからこそ、安心して、なんの気兼ねもなく水瀬家の敷居を跨ぐことができた。けれど今日は違う。
「居候だったって肩身の狭さはわかるけどさあ、そんなに気にすることか?」
「ああ、まだ言ってなかったっけ」
「なに、なんだなんだ」
「なんつうかその……名雪に告白された。卒業式に」
「……初耳だぞ、それ」
「その件については謝る」
「避けてると思ったら、そこかー。水瀬と顔、合わせづらいのか?」
「んー、名雪はあんまり気にしてないみたいだけどな」
 少なくとも表面上は。
「その、聞くまでもないことかもしれないけど」
「その場で断ったよ」
「……悪い、野暮だったか」
「気にすんな」
 言わないでいた俺が悪い。
 蝉の声を全身で浴びながら母校の前を通って、自販機で買ったスポーツドリンクを一瞬で空にして、また歩く。途中、一匹の蝉が地面をのたうっていた。他よりも少しばかり気が早い奴だったんだろう。俺はどうだろうなんて、大学に入ってから、自分と比べてしまうことが増えた。待ちすぎて機を逸してしまうくらいなら、早すぎてでもいいから行動を起こして失敗したい。
 本当は、帰りたくない理由はそれだけではなかった。新しい街の新しい生活に入ってから新しく思い出したこと。三年前と同じように、十年前、駅前のベンチで向かい合う二人がいた。冬。名雪。雪うさぎ。涙。
「……雪は、嫌いだ」
「夏だぞ」
「わかってるよ」
「そして、到着」
「それもわかってる」
 散々飲んだくれた徹夜明けに押しかけるのはいくらなんでも抵抗があり、一度休んで体調を整え、秋子さんが帰宅している時間に合わせて動いた。あらかじめ連絡は入れてある。が、名雪には何も伝えてない。なにしろ、一泊するかどうかもわからない。
「いつも、なんて言って入ってるんだ?」
「ただいま、かな」
 いまだに迷う。秋子さんは笑顔でおかえりと言ってくれるから、それに合わせて俺もただいまと言う。実家でもなければ、今住んでいるわけでもないのに。違和感がないわけではないが、それでも、おじゃまします、と言い切ってしまうよりは、ずっと自然に言えているはずだ。
 鍵は開いていた。いくらなんでも無用心だと思った。
 帰宅の挨拶をして、リビングに顔を出すと、秋子さんがお茶を用意しているところだった。客に対するもてなしを受けたのはこれがはじめてだ。北川がいるからだろうけど、しなくていい想像までしてしまいそうになる。
「あら。はやかったですね」
「ちょっと気が急いてしまって……あの、名雪は?」
「この時間だと、まだバイトじゃないかしら」
「わかりました」
 大事な話があります。来る前にそれだけ伝えておいた。
 俺と北川が並んで座り、向かいに秋子さんが腰を下ろす。俺たちのあらたまった様子に、秋子さんも真剣な顔に変わった。とてもじゃないが、北川を俺にください、なんて言い出せる空気ではない。
 前置きはすっぱりと省いて、要点だけ述べることにした。
「えっと、思い出しました」
「……十年前ですか」
「はい。あゆのことや、名雪のことや」
「そうですか……」
「向こうに行ってから段々とは思い出していたんですけど、最近になって全部……全部っていうか、たぶんですけど。それで、どうしても気になって」
 三年前に会った月宮あゆについて。俺の記憶について。十年前について。



 もし、実際にこの目で見ていなかったら、どれほど話は簡単だったろう。花屋と菓子屋に寄って好きそうなものを買い込み、眉を下げながら病室のドアを開ければそれですんだはずだった。人形のように動かないあゆを見て目を見開き、悲しみ、思い出さなかった自分を責め、とことんまで落ち込んで、やがて持ち直し、これからはなるべくお見舞いに足を運ぶことにしよう、なんてもっともらしい決意を掲げて電車に乗り、アパートへと帰っていく。それでよかった。
 でも、俺も北川も違った。
 三年前に実際に会った月宮あゆは、正真正銘ベッドに横たわっている、医者が言うところの、もう十年も寝たきりの月宮あゆだった。
 市内で最も大きい病院、俺たちはそこの中庭のベンチにいる。今しがたあゆを見てきた。父親にも会った。優しそうな人だった。言うべきことはたくさんあった。でも、言葉が溢れすぎて、ほとんど何も言えなかった。
 病室にあゆがいた。
 あゆがいたのに。
 ……いただけった。
「相沢、ひとついいか」
「なんだ」
「たぶん俺も知ってる」
「誰を」
「月宮さん。同じ小学校なんだ。親父さんとちょっと話して学校教えてもらったけど、間違いなかった」
「……そうか」
「三年前にも、あれ?って思ったんだけど、一度きりだったから自信なくて。……気になるか?」
「すげー気になる」
「正直なやつだな」
「ぼこぼこにして埋めてやりたい」
「それはちょっと独占欲強すぎるぞ」
「……」
「相沢?」
「埋める……」
「いや、冗談だぞ。埋めたりするなよ」
 思い出した。場所を。
 噴水のある公園に通じる長い並木道。木がずっと植えてあって、そのうちの一本の根元に埋めたはずだった。
「そうだ、そうだよ。あそこに埋めた」
「たーすけーてー、お医者さんー」
「なにやってんだ、行くぞ」
「あーれー」
 木の影でがたがた震える北川を引きずって病院を後にする。
 社会の窓はまだ全開のままだった。



 原住民としての北川の知識と嗅覚を頼りに、場所そのものはそれほど手間をかけずに発見することができた。
 途中で買ったスコップを手に持ち、目の前に広がる灰色の地面を見つめながら、俺たちは立ち尽くした。
「……なあ、北川」
「ああ」
「ここって並木道じゃなかったっけ」
「受験のころ、このへんでやたら工事してたろ。たぶんそれだ」
「じゃあ、この道路は」
「全部移動させて敷いたんだろうな」
 レンガはすべてアスファルトに変わり、道幅は倍に増え、並木もそれにともなって道の両端に移動していた。
 木の中に直接埋め込んだのなら、まだ可能性は残されていたかもしれない。
 けれど埋めたのは土の中で、土はアスファルトの下にある。
「なあ、相沢、埋めたのって、その」
「これくらいのビン。割れてるだろうけど」
「そっか……」
「……駄目だな、これは」
 業者が木を引き抜いた際に人形が掘り起こされる可能性。移動した木の根元にそれがご丁寧に埋められる可能性。そもそも同じ木をそのまま移植させたのかどうか。正確な場所まで覚えているわけでもない。そして何より、見つけたからと言ってどうにかなる可能性が、どれくらいある……?
 あゆは人形を探していたんだろう、夢の中で。想いが強すぎて実体化したのか、あゆの夢に俺たちが取り込まれたのかはわからない。そんなことはどうでもいいんだ。
「相沢……あきらめるのか?」
「さすがにこれじゃ、な。思い出の品がひとつなくなるくらいで何が変わるってわけでもないだろ」
 北川以上に自分に言い聞かせる。そうだ、確かに大事な物だった。けれど、たかだか人形だ。あくまであれは人形なんだ……
「うーん……ビンか。ビンを埋めるってのも変な話だよなあ」
「ああ、いや、ビンの中に人形が入ってたんだよ。あのとき、あゆはそれを探してたんだ」
 北川は眉を器用にくねらせた。
「なんの人形だ?」
「天使」
 また眉が器用に波を打った。
「天使って、これくらいのか」
「ああ、片手に乗るくらいの」
「……それ、あったぞ」
「は? どこに」
「月宮さんの病室」
「マジか?」
「マジだ。窓際に、確かにあった」
 駆け出していた。面会時間はまだ大丈夫。過ぎていようと病院の都合など知ったことか。
「戻るのか!」
「戻るっ」
 短く言葉を交わして速度を上げる。身軽な北川はすぐに俺を追い越し、商店街の入口でタクシーを拾って待っていた。さすがに機転が利く。
 病院までは十分もかからなかったが、俺にとっては人生で一番長い数分間だった。頭の中ではタクシーより高速で言葉が走り続ける。人形。天使の人形。あゆのところにある。それは何故だ。答えはひとつ。あゆがあのとき見つけていたんだ、おそらく自力で。あゆ一人で見つけられるような場所だったか。わからないが、埋めたときは二人一緒だったんだ。場所さえ思い出せば、あとは時間さえかければ一人でも掘り起こせるだろう。もともと、工事という例外を除けば、俺が掘り起こすかあゆが掘り起こすか第三者が掘り起こすかしかない。その中じゃあゆが二番目、いや一番可能性が高いじゃないか。

 病室に飛び込んだ。白いカーテン、白い壁、白い天井が痛いくらい目に入る。さっきは色も景色もデザインも何も頭に入らなかったが、少しは現実が見えてきたんだろう。
 窓際の植木鉢にもたれかかるようにして、それはあった。
「……これだ」
「やっぱりそれか」
「ああ。十年前、俺があゆにプレゼントした天使だ」
「あー……なんだ、さすがに小学生に言いたくはないけどさ、もうちょっとセンスってもんを……」
「ばか、プレゼントってのは物より想いなんだよ」
「……最近、相沢の方が正しいのかなあって思うことが増えた」
「正しいかどうかは知らないけど、後悔するのはいつだって何もしなかったときだよ」
「そうなんだよなー……」
 遠い目になった北川の相手はやめて、人形を取る。あちこちに土がついて汚れ、頭の輪っかも取れている。状態の悪さから言って間違いない。
 俺にできることだったら、何でも叶えてくれる人形だ。
 まだ俺は、あゆに願いを聞かされていない。
 ……願うことはひとつしかなかった。
 両手でしっかりと胸に抱き、強く念じる。
 あゆが、目覚めますように。
 あゆが、目覚めますように。
 もう一度、あゆと話せますように。
「…………………………なーんてな」
 五分ほど祈り続け、あった場所に戻す。
 そりゃそうだ、願っただけで起きたら、それこそ医者なんて必要なくなる。
「あれ、もういいのか」
「なんだ、その、察せ」
「……帰るか」
「今日のところはな」
 最後に、あゆの額に手を置いた。
 あたたかい。血が流れている。呼吸だってしている。意識だけがない。じゃあ、何が足りないんだろう。先ほど話したとき、親父さんの口からは、一番聞きたくない、原因不明の四文字が出てきた。
 だから、その、原因不明ってのを抜け出すには、何が足りないんだっていう話だ。
 俺にわからないなら、誰にわかるっていうんだ。


 病院を出たところで北川と別れた。予定が入ってるらしい。お盛んなことだ、なんて皮肉を言うつもりはない。文句ひとつ言わず嫌な顔も見せず、ここまで付き合ってくれただけで十分だ。俺個人の問題から、俺とあゆの問題に変わった境目がここだった。そのへんをわかっているからこそ、あっさりと身を引いたんだろう。
 帰る途中、商店街を通った。たい焼きの屋台を探しながら。
 この真夏にたい焼きが売ってるわけがない。
 かわりにカキ氷の屋台を見つけた。
 暑かったのでメロンを買った。
 あゆなら何を頼むか考え、宇治金時も買った。
 一人でふたつ持ったら食べられなくて、困った。
 渡すべき人は俺の隣にいない。




 その日、俺は夢を見た。
 それが夢であることを俺は知っていた。
 変なリュックを背負った女の子が、でかい木の、これまた太い枝に腰かけて、なにか大事なことを言っていたのかもしれない。声は届いても内容は聞き取れず、顔もよく見えなかったから、いよいよ夢らしい。せっかくだから彼女に愚痴ることにした。聞いても聞いてくれなくてもいい。
 あー、なんだか俺は疲れたよ。思い立った瞬間に戻ってきたから着替えも持ってきてないし、酒飲んだ次の日にあちこち動き回ったし、体も頭も使った。なにかにこんなに必死になったのなんていつ以来だと思う? 小学生のころだよ。そのときも俺はこの街にいたんだけど、なんか元気ない女の子がいてさ、その子をどうにかしてどうにかしようとして、毎日会いに行ったんだ、名雪をほっぽって。名前……名前はなんだったかな、なんかよくわかんない。顔も出てこないな。あ、高校? 高校はどうかな、ぬるま湯に浸かってるような日々だったな。二年のときに転校してるんだけど、前の学校はつまんなかったし、後の学校も……いや後の学校は楽しかったな。楽しかったけど、必死? とは違うような気がするんだ。あ、受験は大変だったよ、それなりに。でもそれは、なんか違うっていうか、根本的すぎるっていうか、義務っていうかさ。大学に入ってからはもう覚えてもいないくらいだな。一番新しい記憶なのに一番薄いんだよ。なんなんだろうな、これ。……あれ、そろそろ時間か。誰だか知らないけど、ありがとな。って聞いてんのか聞いてないのか。まあ、どっちでもいいか。おー。空に行くのか。俺も飛びたいなあ、空。本当に飛べても困るけど、一回くらいはさ…………あ、今、ふと思ったんだけど。
 鳥と話したい。




 話せるわけねーだろ、と自分に突っ込まれる声を聞いて目が覚めた。
 相変わらずしっくりくるベッドからおりて、寝汗で湿った上着を脱ぎ、タオル一枚肩にかけて音を立てないようにベランダに出た。受験生だった夏に取り付けた梯子をのぼって屋根にあがる。すっかり日は落ちて、街灯の明かりがつながって線をつくり、ゆらゆらと揺れていた。背伸びしながら、遠くのビルらしき建物、隣家、元通学路を見ていく。その途中で違和感に気づく。
 そういえば、高所恐怖症だったんだよな、俺。
 以前はベランダに出ただけで恐怖を感じ、梯子をのぼるのもやっとの思いだったものだが、今はどうということはない。いつの間に治ったんだろう。
 これならたぶん、木登りだってできるんじゃないかと思う。
 木には登りたくないけれど。


 汗が引いてから中に戻り、置きっぱなしのシャツの中から適当に選んで袖を通し、部屋を出る。名雪の部屋から光が漏れていないのを確認してはじめて、こわばっていたものが抜けていった。俺がベッドに横になったころ太陽が沈みかけていたから、もう寝ているんだろう。
 一階におりてタオルを洗濯機に放り込み、戻る前にトイレに向かう。その途中、居間から声と光が漏れているのに気づいた。
 今度こそ細心の注意を払ってキッチンから忍び込み、首だけ出して確認すると、壁を背にしてちょこんと座り、ココアのマグカップを膝の上に置いて受話器を耳に当てている名雪がいた。通話相手の声もはっきりと聞こえていた。スピーカーフォンにしたんだよ、と去年言っていたことを思い出す。
「……うわ」
 名雪の格好を見て、俺は仰天した。
 下はパジャマをはいていたが、上はブラ一枚だった。
 自然と前かがみになる。その途中でふと思う。なぜ男はこういうときに前かがみになるのか? 人に見られたくないからだ。では人が見ていない今はどうなのか。隠す必要性はあるか。ない。急にそんな考えが頭を突いて、逆に胸を張って腰を突き出してみる。どうだ、この見事なテントは。今なら名雪くらいは入れるかもしれない。出歯亀祐一、見参だ。
 ……十秒で死にたくなった。
 イチゴ柄のフロントホックという重要な点を確認して、覗きはよくないことなので背を向ける。
 電話の相手は香里だった。
『ところで、名雪はそろそろストロベリーパフェに謝るべきよね』
「うー、邪道だよ」
『同じだから言ってるんじゃない』
「でも、やっぱりイチゴサンデーじゃなきゃだめだよ」
『はぁ……なんでそういうとこだけ頑固なのかしら』
「香里も、へんだよ、イチゴサンデーとあれが一緒だなんて」
『変なのはいつも名雪。あたしじゃなくて、ね』
「またひどいこと言ってる……」
『それはそうと』
「うん」
『相沢くんとはどう?』
 声が出そうになったが、すんでのところで抑えた。
「え? どう、って?」
『これでも気にしてるんだから。やっぱりまだよそよそしいの?』
「でも、お正月は香里も会ったよね? 祐一と」
『……れ。ひょっとしてまだ会ってないとか?』
「なんのこと?」
 やばい。これはまずい。非常にまずい。だが、今部屋に戻ってもすぐに名雪が押しかけてくるだろう。じゃあどうするか。別に避ける必要はないし、普通にベッドで横になっていればいい。だが足が動かない。くそ。
『昨日からそっちに来ているはずよ、相沢君』
「それ、本当に?」
『証人が嘘ついてないなら、ね』
『だから、こんなことで嘘なんかつくわけないだろー。本当に本当だぞ』
『……らしいわ』
 おいこらそこで何やってんだ北川このやろう。
 反射的に抗議のメールを送ろうと思ったが、携帯は部屋に置きっぱなしだ。
「そうなんだ……知らなかったよ」
『昨日まで北川君のところに泊まってたみたいだから、名雪が知らなくても変じゃないけど……ってちょっと待ってね。うん……うん。え? ……はあ、そうだったの』
「香里?」
『証人によると、急用で戻ってきたんだけど、そっちに寄る予定はなかったみたいね。秋子さんにも直前で知らせたって』
「急用……」
『内容は忘れたなんて言ってるけど、どうする? 締め上げる?』
「ううん、北川くんに悪いよ」
『さすがに冗談だけど、まだ起きてるようだったら本人から聞いてみるといいわ』
「うん……」
 急用。
 そうだ、俺は急用があってここに来た。そのはずだった。
 それはとてもとても大事なことで、手ぶらで電車に乗り込んでしまうくらいすべてに優先する……おかしい、おかしいって。
 だって俺、昨日から北川と一緒にいて、今日もずっと二人で行動していた。
 ……何してたんだっけ、今日。
 北川も忘れたらしいが、俺も覚えてない。
 なんだ? 俺は名雪の下着姿を見て錯乱しているのか? 名雪はそんなに恥ずかしいプロポーションか?
 もう一度リビングを覗く。
 恥ずかしいどころか高校時代よりも成長していた。
『……名雪?』
「あ、うん、なにかな?」
『あんたひょっとして……』
「う、うん」
『……またブラ一枚?』
「わ、わ、わ」
『相沢君が転校してきてせっかくつつましくなったと思ったのに、いなくなったとたん元に戻っちゃうんだもんねー』
「うー、今日は下ははいてるよ」
『……今日は? じ、じゃあ、いつもは?』
「あれ? 北川くん?」
『い、いや、なんでもない、今のは忘れてく……アッー!!』
『ごめんね名雪、やっぱり締め上げてくるから』
 よくやった北川。そしてさようなら。
「香里、ほどほどにね……じゃあ、また」
『うん、あ、ちょっと待って』
「どうしたの?」
『今度また、栞の勉強見てやって』
 ん?
 ……栞?
「うん、いいけど……でも、やっぱり、わたしよりも香里に教わった方が絶対いいと思うよ」
『仕方ないじゃない、あたしに教わるのだけは嫌だってごねるんだから』
「あ、じゃあ、北川くんは? 教えるの、うまいと思うよ」
『それこそ一考の余地もないわね』
「……栞ちゃんに取られるみたいで不安なんだよね」
『……ちょっと名雪? なんか言った?』
「なんでもない、なんでもないよー」
『はぁ……とにかく、よろしくね』
「うん、この夏が勝負だからね」
 ガチャ。通話が終わる音。続いてやってくるのは静寂。
 美坂栞。転校したてのころ、何回か中庭で会って話した少女。
 そうか、やっぱり姉妹だったのか。
 彼女は確か俺のひとつ下のはずだが、話から察するに、今年受験らしい。あの性格だから、どうせ風邪が治りきらないうちにまた出歩いて、出席日数が足りなくなったんだろう。北川から聞いた話では、俺が行かなくなってからも何日か中庭に来ていたみたいだから、元を辿っていくと原因は俺にあると言えなくもない。……考えすぎかもしれないが、香里にだけは黙ってよう。
 風邪が原因で留年なんてのもなかなかお目にかかれない話だが、世の中、風邪をこじらせて息を引き取る人もいるし、それに比べればまだ大したことはない。当時はどうだったかわからないが、名雪と香里の口ぶりから、今はそんなに深刻でもなさそうだし、とにかく健康なら何よりだ。


 さすがに疲れていたのか、夕方から何時間か寝ただけではかえって体が重くなった。
 名雪がトイレに行ってる間に部屋へ戻り、横になると、すぐに意識が薄れていって消えた。




 誰かの笑顔がそこにあった。誰なのかわからない。ぼやけていてよく見えない。水彩をさらに水で引き伸ばしたらこうなるかもしれない。あの茶色いもやもやした塊は顔か? 声もよく聞こえない。口らしいところが動いているから何か喋っているのはわかるのだが、こっちに届くころには声というより音になってしまっている。しかもどんどん離れていく。
 でも、まあ、大事はないだろう。笑顔だし。
 笑顔だけど、離れていく。
 なあ、あんた、俺がどうしてここにいるか知ってるか?
 返ってきたのは沈黙と光だけだった。
 ……そうか、お別れなのか。
 何者かもわからない彼女に、俺は思いきり手を振った。
 彼女も振り返してくれた。俺に負けないくらいに大きく。
 やっぱり知り合いなんだろうか。
 ……それに、なんで“彼女”だとわかったんだ?
 その理由を俺は知らない。
 知らなくてかまわない。

 ひとつ思うことがある。
 俺は記憶力がいい方じゃないから、どうせ起きたらこの内容を忘れてしまっているんだろう。仮に覚えていたとしても、なーんだ、あいつだったのか、なんてガッカリしてひとしきり枕に愚痴り、朝食と引き換えに忘れてしまうんだろう。
 でもたとえば、これが今生の別れだとするなら、むさ苦しい男よりも、女性を希望したい。
 絶対その方がいい。
 絶対にだ。


 ドアをノックする音が聞こえる。瞬間、すべてが動いた。黒が白に、暗が明に、夢が現に変わっていく。それに合わせて、彼女がうっすらと消えていく。ああ、やっぱりお別れなのか。誰だかわからないし、そもそもなんだかわからないけど、待ってほしい。すごく待ってほしいんだ。でも、それは無理な相談なんだろう。
 最後になにか声をかけるべきだと思い、なんて言ったらいいかわからなかったので、一言、じゃあなと叫んだ。
 彼女が返事をしてもしなくても、もう俺には聞こえない。

「祐一? 起きてる? ……入っていいかな?」
「……うーい」
 青天の霹靂か。名雪が俺を起こしにくるなんて。
 起こされる側だととことん粘ってくれるくせに、逆の立場だとこんなにも遠慮がちになるなんて知らなかった。その理由は少し後になってわかった。
 うつ伏せになった体を起こすと、枕がひどく濡れていた。
 涎ではなく涙だった。
「あ。祐一……泣いてた?」
「あー……みたいだな」
「……大丈夫?」
「たぶん」
「えっと……朝ごはんできたから、呼びにきたんだけど……」
「らしくないな、名雪」
「え?」
「朝はおはようございます……だぞ?」
 起きたら、泣いた後だった。
 涙の理由は知らない。
「……うん! おはよう、祐一。あと、ひさしぶり」
「おう。しかし、名雪に起こされるなんて……俺も落ちたもんだ」
「ひどいよ、たまにはわたしも早起きするよ」
「みたいだな……」
「ね、まだ寝惚けてる?」
「いや、そろそろ覚めてきた」
 ベッドに腰かけたままゆらゆらしている俺を尻目に、名雪がカーテンを開ける。俺が閉めた記憶はないから、秋子さんが閉めたんだろう。寝る前のことは覚えてる。寝た後のことは覚えてない。全部覚えてない。
 窓を全開にすると、乾いた空気と鳥の声が飛び込んできた。
 何か喋っているのはわかるのだが、もちろん内容まではわからない。
 名雪と目が合う。さっきとは打って変わって笑顔。この変化もわからない。
 そもそもなんでここで寝ているのかもわからない。
 帰省したからだろうけど、なぜこんなに早く帰省したんだっけ?
 まったく、わからないことだらけだ。
「そういや、それ、めんどくさくないか」
「それって?」
「起きてから窓を開けるってのが、どうにも」
「そんなことないよ。わたしだってできるんだから、祐一だってできるよ」
「……そうか、そうだな。今度からそうする」
「うん、気持ちいいよ」
「そっかー」
 立ち上がって伸びをする。名雪が横に立つ。あらためて並ぶと、やっぱり身長差がある。
「これでも、昔からそうしてるんだよ」
「え、俺がいたころもやってたのか」
「うん。だって祐一、朝はわたしの部屋入らないから」
「あー」
 起こすために入ったことはあったが、さすがに起きてから入り浸る理由はない。


 着替える必要がないので、そのまま一階におりた。
「あれ、祐一?」
 俺はまっすぐ玄関に向かっていた。
 部屋の窓と同じように思いきり開け放ち、外の空気に触れる。
「わ。サンダルで来たんだ」
「夏だしな」
「そっか」
「夏なんだよな」
「うん」
「……夏か」
「……うん」
「…………悪い、ちょっとだけ待っててくれ」
「わかったよ。……ね、ここにいていいよね」
「ああ、そこにいてくれ」
 外に出る。道路の真ん中で止まる。
 左を見る。
 左には商店街や駅がある。
 商店街には店があり、稀に屋台があり、駅には改札があり、ホームがあり、電車がある。
 右を見る。
 右には学校や森がある。
 学校には校庭があり、昇降口があり、教室があり、屋上があり、森には木があり、土があり、草がある。
 上を見る。
 上には空がある。

 空を見る。
 原因は空だった。
 空には何がある?
 その無駄に広い青の中には、いったい何がどれだけあるんだ?
 抜けるような青空なんて、いっそ抜けてしまえばいい。
 抜ける前に教えてくれ。
 教えてくれよ、俺に。

 地面を蹴って、サンダルが高々と宙を舞う。
 十三回転半ひねり五回、それに加えて明日は晴れ。
 仲のいい友人がいる街に帰ってきて、向こう二ヶ月は休み。
 その友人の恋路に明るい兆しがあったばかり。
 気まずかったいとことも、ひさしぶりに普通に話せた。
 家に戻れば、そのいとこが作ったおいしい朝食が待っている。
 なあ、どうだよ、この環境。
 文句なしに完璧だろう。

 ……完璧なのに。
 なぜだろう。鼻の奥がツンとするのは。
 なぜだろう。空が青ければ青いほど喉がふるえるのは。
 なぜだろう。鳥の声を聞くと抱き締めたくなるのは。
 こんなに知りたいのに、その気持ちすらどんどん薄れてゆく。
 朝食を食べ終えたころには綺麗さっぱり忘れてしまうと誰かが言った。
 それは俺なのかもしれず、名雪なのかもしれず、秋子さんや北川なのかもしれず、名前も知らない誰かなのかもしれない。
 でも、誰の言葉だろうと、言ってることは一緒だった。
 同じ台詞なんだから当たり前だ。
 なんでもっと早く気づかなかったんだろう。


 最後に睨みつける。空? 雲? お天道様? シャケ弁? 天使? なんでもいい。誰だっていいよ、そこにいるなら。

 ……俺は確かに、知らないことやわからないことが、人より多いかもしれない。
 嫌なことはすぐ忘れちまうへたれ野郎だし、要領もよくないし不器用だ。
 でも。
 でもさ。
 この感情が悲しみだってことくらいはわかる。
 わかるんだよ。
 ばかやろう。


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