「なんて顔してんだよ」
 診察室を出た俺をあゆが青ざめた顔で迎えてくれた。俺の様子を見て一瞬目を丸くして、また細める。目の周りは少し赤いようだ。
「だって……」とあゆ。
 俺は苦笑して左手であゆの頭をくしゃくしゃと撫でてやった。右腕は胸のあたりで包帯で固定されていたからだ。





 左手で繋ぎたい





 病院を出たところで女性は再度「今日は本当にごめんなさい」と深々と謝った。
「いや、こいつもちょっと不注意なところあったと思います」俺は右肩で横にいたあゆを軽く小突く。振動が右腕にも伝わり、やるんじゃなかったと思った。
「でも、今回のことは本当に私の運転のせいですから。万が一症状が悪化したりしたらお渡しした電話番号にご連絡をお願いします。完治するまでは治療費をお支払いいたしますので……」
 女性は心底申し訳なさそうに、明らかに年下の俺に物腰低く話した。病院から水瀬家までは女性が車で送ってくれて、出迎えてくれた秋子さんと名雪にも何度も謝りながら必要な情報交換をし、ぺこぺこと最後まで頭を下げつつ車で帰って行った。
 その間あゆはずっと無言だった。
「あゆ」車が見えなくなってから俺は話しかける。「俺はただの捻挫だからさ。そんな気にするなよ。あゆにケガがなくて本当によかったと思ってんだよ。見た目は大げさだけど医者も2週間もすれば治るって言ってたしな。家入ろうぜ」
 俺は左手であゆの肩に触れ先に玄関をくぐる。横目で秋子さんがあゆの背中を押すようにして家に迎え入れているのがわかった。


 今日は、俺とあゆで商店街に向かって歩いている途中だった。あゆは名雪に選んでもらったというレースのワンピにスカートを履きカーディガンをあわせた格好で、子犬がじゃれつくように俺の前後左右にくるくると向きを変え、ひっきりなしに俺に喋りかけていた。内容の大半は食い物関係だ。
 まるい陽が頬に感じられる散歩にぴったりの昼下がりだった。雪もほぼ完全に溶けてなくなってしまい、いくらあゆでもよっぽどのことがない限り滑って転んだりはしないだろう。
 帽子はもうかぶっていない。だいぶ伸びた髪の毛を美容院で整えてもらったばかりだ。
「もっとちゃんと歩けって」
「だって、なんか体が落ち着かないんだもん」とあゆ。
「身体からワクワクがだだ漏れ過ぎなんだよ。いっそプカプカ空でも飛んでろ」
「飛べたら気持ちいいだろうね。こんなに天気いいし」
 皮肉ものれんに腕押しだ。
 まあ、これは、デートだからな。俺だってどっちかといえばあゆと同じ気分だ。だが限度もあるだろう。
「横を歩けよ」と俺は言う。「落ち着かないなら俺が繋いどいてやる。ほら」
 そう言っておれはあゆに右手を伸ばす。
「えっ」あゆは俺をきょとんと見る。
「ほら。手出して」俺はもう一度促す。「付きあってんだから手ぐらい繋いでも普通だろう」
 多少の沈黙のあと、あゆに赤みが差すのがわかった。
「うわっ……なんか、恥ずかしいよー」
 そう言って俺よりも数歩先へ遠ざかる。
「小学生かい。何度も言わせるなよ、俺まで恥ずかしくなる」と俺は右手をひらひらさせた。
 いつまでたってもあゆが距離を詰めようとしないので俺から近づく。伸ばす手をあゆはすり抜ける。逃げまわるあゆにあわせて俺まで小走りになる。
「待てよ」
「あはっ」
 笑いながら後ろ向きで歩くあゆをあまり追いつく気もなく追いかけながら俺はいま何をしているのだろうという気分になる。死ぬほど手垢にまみれた展開じゃないか。自分がやるとなるとかなり恥ずかしいが、まあ、決定的に悪いとは思わない。
 だが一瞬でそんな気分も冷めてしまった。右の脇道から車がせり出してくるのが視界をかすめたからだ。
 車は停止線で完全な一時停止をしなかった。すでにスピードを落としかけてはいるが歩道の切れ目に立った人間に大けがを負わせるには十分な速度だと感じた。車の進行方向のど真ん中にはあゆがいる。
「あゆ!」
 叫ぶと同時に俺はかけだしていた。すでに車とあゆとの距離は1メートルを切っている。次の瞬間には接触してしまう。ぼーっとしているあゆをかっさらうようにして車の正面から逃げるだけのヒマはどう考えてもない。
 とっさに俺はあゆに飛びつき、固く抱きしめてせめて背中にかばおうとした。だが完全には間に合わず俺は自分の身体の右側面を車に打ち付けていた。
 もう2つ3つT字路を抜ければその先にいつもの商店街のアーケードが見えるはずだった。
 あゆはきょとんとした目でつい先ほどまで俺のいた場所を見つめていた。


 今回のことは、俺としては最善とはいかなくてもだいぶマシ程度には考えていいと思う。あゆは無傷だし、俺もなんとか軽傷の部類に入れられるケガだけで済んだ。ほかには特に外傷もなし、歩行も問題ないしかったるい学校の体育だって堂々と休める。
 問題があるとすれば、捻挫したのが利き腕だったということ。いままで無意識に行っていた自室のドアノブをひねる行為さえ意識的に左手を動かさなければうまくいかない。ドアを開ける程度で自覚してしまうのだから、ケガが治るまでの2,3週間程度、俺はどれほどの無意識に気づくことになるのか。
 包帯で固定された白い右腕を見ながら思案に暮れていると控えめなノックの音がした。
「ボクだけど」あゆの声。
「ああ」俺はベッドに腰掛けていた身体を起こしてドアの前まで歩く。たどり着く前にドアは外側から開く。
「秋子さんがご飯の支度できたって」
「もうそんな時間か」
「帰ったの遅くなっちゃったし」
「じゃ降りるか」
「うん」頷くあゆの横をすり抜けるようにして前を歩くとあゆが後ろからついてくる。
「ボクのせいで、本当にごめんね」階段を下りているとき、上からそんな声がかかる。
「本当に気にするなよ。もうボクのせいボクのせいはなしな。結構楽しんでるんだよ。左手しか使えないってのもある意味貴重な経験だと思うし」
 つとめて明るく言うと、「祐一くんは前向きだよね」とようやくあゆも声に笑いのニュアンスを含ませてくれた。
「そういえばお前左利きだったよな」
「うん」あゆが頷く。
「おそろいか」
「おそろいとか、そういうのとは違うような」
「この機会に左利き用ギターでもマスターするか。俺の好きなバンドにレフティーギターのやつがいるんだよな」
「ギターは右手も使うよね」
「そうだったな」
 リビングの前であゆは俺を追い越し、ドアを開けてくれる。「くるしゅうない」と言う俺に少し笑う。
 ダイニングテーブルの前では秋子さんがご飯をよそっていて、名雪がそれぞれの席に料理と箸を並べていた。ただし俺だけ箸じゃなくてスプーンとフォークだ。メニューはご飯に焼いた塩ジャケ、キノコとほうれん草のみそ汁などのごく普通の和食だった。
「本当はカレーにでも変えようかと思ったのだけど、ごめんなさいね」と秋子さん。
「全然かまわないですよ。名雪、俺も箸でいい」
「え? だいじょうぶなの?」名雪が心配そうに訊いてくる。俺は自分で台所に行き箸を取ってきて椅子に腰掛けた。
「楽勝。うぐぅに使えて俺にできないはずがない」俺は箸を隣の名雪に見えるように構えてみせる。だいぶ力を入れていないと型がキープできないわけだが。
「ボク左でしか使えないもん」俺の向かい斜めに腰掛けたあゆが言う。
「無理しないでね」と名雪。
 俺は名雪に頷きいただきますと言う。
 お椀に口をつけてみそ汁を一口飲む。それからさも当たり前のようにご飯を箸ですくおうとするがここでまずつまずいた。左手の筋に痛いほど力を入れて何度もチャレンジし、ようやくわずかな量をすくうとなんとか途中でこぼさずに口に入れる。その後も不器用にシャケをほぐしたり、何度も箸の持ちかたを訂正する。食べようとしたときに左ヒジが何度か名雪の右肘にぶつかった。
 対面する秋子さんとは鏡のようだがその箸さばきには見るからに雲泥の差がある。あゆと名雪がときどき心配そうにこちらを見ていた。
「あの」とあゆが口を挟む。「ボク、祐一くんの隣に行こうか?」
「そうだな……横で手本見せてくれるとありがたいな。じゃあ頼むよ。名雪、悪いんだけどいいかな」
「素直にスプーン使えばいいのに……」しぶしぶ名雪は席を立ち、食器をあゆのものと入れ替える。
「これはもう男の意地だな。自分との戦いっていうか」
「祐一さんも大変ですね」箸を止めていた秋子さんが微笑む。
「すみません、ばたばたして。これっきりにしますから」と俺は秋子さんに頭を下げる。秋子さんは叱るべきタイミングで優しく笑ってくれたりするから、ときどき余計に堪える。子供のころはそんなこと考えもしなかったけどな。
 俺の隣に座り直したあゆが箸を構える。俺はそれを注意深く観察し、できる限り真似してみる。当たり前だがあゆは左手で自然に箸を使いこなす。みそ汁の具をつまむときも、浅漬けを一切れ取るときも余計な力は少しも入っていない。必要最低限の動作ですべてをこなしている。
 俺の視線に気づいたあゆが俺に見えるように自分の構えた箸を見せる。
「こうだよ」
 俺はそれを見て自分の左手の箸を訂正する。あゆの持つように構えてみるとひどく不安定で力が入らなくなる。
「そうそう」とあゆが笑う。あゆに子供扱いされるとはな。
「ゆっくりでいいから確実に動かせばだいじょうぶ。力はぜんぜんいらないんだよ」
 あ、そうか。
 簡単なアドバイスだが指摘されるまで気づかなかった。俺は右手で食べるときに力なんて使わない。やってることは同じなんだから、左手でも同じことじゃないか。
 右手と同じように普通に動かせばそれでいいんだ。ゆっくりかもしれないが、確実にうまくいく。
 そうしてなんとなくコツを掴みかけたかと思ったところで俺は目の前のものを食べ尽くしていた。みんなはすでにもう食べ終わっている。
「ごちそうさま」
「はい、おそまつさま」と秋子さん。
 また明日だな。


 食事くらいは何とかしようと思っていたが、勉強のほうは俺のやる気を大きく反映して手につくことがなかった。授業中ノートはまったく取らなかったし(もともと取っていたほうではないが)、どうしてもやらなければいけない宿題についてはあゆか名雪に頼んで代筆してもらった。特に名雪に頼むことが多かった。同じクラスだったから宿題の内容が同じだし、答えがすでに埋まっている欄も多かったから楽させてもらった。わからない問題についても2人で考えて答えをわかちあっている感がちょっとあった気がする。
 結果的に同じノートを2回書くことが多くなった名雪は、あとで聞くところによると一時的に成績が上がったそうだ。ちなみに俺は……まあ俺のことはいい。
 2週間もすると右腕が痛むことはもうなくなっていた。おそらくもう治っているのだと思うが、大事を取って次に医者に診せるまでは包帯を巻いたままでいる。
 左手で箸を使うのもだいぶ慣れた。やはりあゆほど上手ではないが、よほど堅いものを断ち切るわけでもなければ問題ない。加えてこの2週間はカレーや丼物などのスプーンや匙で食べるもの、箸を使うにしても柔らかく掴みやすいものばかりが食卓にのぼっていたのでほとんど苦労はなかった。
 明日は診察の日だ。左手で食事するのもおそらく今夜が最後だろう。
「実質あゆ越えたよな。俺は右手でも使えるし」箸で空を掴んだり離したりしながら隣のあゆに話しかける。
「祐一くん器用だよね。ボク子供のころお箸に使えるまでだいぶ時間かかったよ」
「俺だってそうだよ。でもいまならもう二刀流で蟹みたいにがしがし食えるぞ」
「そんなのお行儀悪いよ」と名雪。
「蟹を食べる自信はないけどな」
「あれは集中しちゃうもんね」とあゆ。
「でも話してたら、なんかこう、口が蟹のかたちになってきた」
「よかったら明日の晩ご飯は蟹にしましょうか。祐一さんの復帰祝いに」秋子さんが提案してくれる。
「あー、いいですね。嬉しいです。蟹の話してたら俺なんか食べたくなっちゃいましたよ。じゃあ明日病院の帰りにでも買ってきます。あ、もちろん完治してたらですけどね」
「だいじょうぶだよ」と名雪。
「蟹の口ってどんなかたち?」あゆが訊いてくる。
「話をややこしくするなよ」
「祐一くんが言ったんじゃない……」ぶつぶつとあゆは箸を使い食べ物を口に運ぶ。
「ま、あゆとおそろいも今日までってことだ。自分のケガのぐあいくらいなんとなくわかるし」
 俺はあゆを見て、あゆが食べたものと同じものを箸で掴み口へ運んでみた。俺が右手を使っていれば単なる真似っこだが、技術に裏打ちされた模倣はユニゾンだとか勝手に考える。
 あゆも俺に真似するなとは言わなかった。それどころか心なしかまなざしが優しかった気すらした。
「そういえば」と秋子さんが口にする。「聞いた話だけれど、利き手の差は力とかじゃなくて、腕に通う意識の濃さの違いだそうよ」
「へえ。同じ手でも左右で感じてる量が違うってわけですか」俺はまだ包帯を巻いたままの右手を見てみる。ふと斜め向かいを見ると名雪も箸を持った右手を見ていた。
 あゆは自分の手じゃなくて俺の包帯越しの右手を見つめていた。
「なんだ?」
「なんでもない」あゆはあわててテーブルに向き直る。それから自分の左手を改めて見つめた。


「お待たせ」
 診察室を出て俺は待合室のベンチに腰掛けているあゆに声をかけた。
「あ、どうだった?」
 俺は包帯をしてない右腕を掲げる。
「よかったー……」
「大げさだって。医者はもう来なくても大丈夫だってさ。よっぽどおかしいと思ったときだけもっかい来いって言われた」
 本当はしばらくあまり重いものを持つなとも言われたが、こいつにばかり買い出しで重たいものを押しつけるわけにいかないしな。
 受付で支払いを済ませると病院の出入り口の自動ドアを2人でくぐった。ちょうど電動車イスでスロープをのぼってくる人と目が合い、俺たちは軽く会釈する。
 敷地内にある時計塔を見ると3時を過ぎていた。春先とはいえもう少ししたら日が暮れ始めてしまう。
 ふと隣をあゆが歩いていないことに気づき、俺が振り返るとあゆは数メートル後ろで俺の膝あたりを見ていた。
「どうした?」俺は近づいて声をかける。
「ねえ」とあゆ。
「うん」
「右手」あゆは小さな声で言った。
「右手がどうした?」
「右手、見せて」
 俺はジャケットのポケットから右手を抜き、ゆっくりと手のひらをあゆに向ける。ちょうどあゆの頭のあたりで掲げたから気功治療でもしているような格好だ。現代医学の集積地点でこんなことをするのはいったいどういう冒涜なんだか。
 あゆは両手で俺の右腕をちょうど自分の鎖骨のあたりまで下げ、それから左手を伸ばした。強すぎる刺激を恐れるみたいに、とてもゆっくりと。
 手のひらを俺の右手に伸ばしていたあゆが人差し指以外の指を握って引っ込めてしまい、そっと俺の生命線あたりをなぞるように触れる。
 そんなあゆの左手を俺はさっと掴んでしまう。
 あゆは「ひゃっ」に近い子音の曖昧な声で小さく鳴く。
 俺は余った左手であゆの握りこぶしを開き、俺の右手と手のひらどうしをしっかり合わせて握らせてやった。
「これでよし。急ごうぜ、引っ張ってってやるから。商店街まで行くんだし買い出しだけじゃもったいないだろ。少し遊ぶ時間も作ろう」
「まって、まって、歩くよ。ちゃんと歩くー」


 利き手の差は手に通う意識の差だと秋子さんは言った。
 だから俺の右手とあゆの左手で手を繋げばきっと同じだけおたがいを強く感じられるんだと思う。
 きっとあゆはそんなことを考えているんだ。
 いや、きっとじゃなくて絶対考えてるな。
 だって俺がまったくおんなじことを考えてしまうくらいだからな。





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