紫陽花の歌
水瀬秋子はいつもの様に日の出より少し前に目を覚ました。
彼女は娘の名雪と違って朝は強いほうだった。
「んっ……」
ベッドの上で大きく伸びをする。
部屋の小窓のカーテンを開けると、そこには暗い庭があった。
空を見てみればどんよりと曇っていて、今にも雨が降りそうだった。
「梅雨の時季だから仕方ないのだけど……」
秋子は空のご機嫌を伺いながらぽつりと呟いた。
雨の日はあまり好きではなかった。
それには洗濯物が乾かないという主婦である秋子ならではの理由もあったが、もうひとつ別の理由によるところが大きかった。
「あら?」
ふと秋子の目の端に紫と赤の紫陽花が映った。
一つ一つの小さな花が揃って咲き誇り、大輪の花を咲かせている。
最近は色々と忙しくて、世話をしてあげられなかったのだけど、どうやら無事にいつの間にか咲いていたようだ。
紫陽花の大きな真緑の葉に小さなカタツムリが一匹ちょこんと乗っている。
秋子はたくましい大輪の花たちをぼんやりと見つめながら、最近夫の墓参りに行っていなかったことに気づいた。
――ちょうど今日は仕事が休みなので午後から行ってみようかしら。
そう心の中で呟いて、まずはいつものように朝食を作って名雪と祐一を学校へ送り届けるため、秋子一人には少し広い寝室を出た。
相沢祐一は朝食のテーブルに並んだモノを見てギョッとした。
カリカリに焼かれたこんがりトーストと淹れたてのコーヒー。
どちらもいい匂いを漂わせ、祐一の食指を早く食べてと刺激する。
と、これはいい、いたっていつもの光景だ。
秋子の料理が美味しいのはある“例外”を除いたら、最早不変の真理にまで至っている。
しかし今日に限ってその“例外”がさも当然のように、デン、と食卓に鎮座していた。
――いつもは秋子さんが何かの拍子に取り出さない限り食卓に並ぶことはないはずなのに。
祐一はその“オレンジのジャム”をちらちらと見ながら思った。
いったいこれはどういうことなのだろう?
秋子の様子をこっそりと伺ってみても、彼女は台所で何やら作業をしていて表情はうかがい知ることが出来ない。
「おい、名雪、これは一体どう言うことだよ?」
祐一は隣に座る名雪に、小声で尋ねた。
「わたしも分からないよ……」
名雪は眉をひそめて小さく答えた。
その様子からして嘘を吐いているようではないようだ。
二人は顔を見合わせ、視線を交し合うと、なにかを決心したように同時に頷いた。
そして、自分の分のトーストに祐一はマーガリンを、名雪はイチゴジャムを塗り始めた。
目の前にあるオレンジのジャムを二人とも意識して見ないようにしている。
祐一はサクッと、一口トーストを食べながら、ふと視線を感じた。
横目で見てみると、秋子がこちらをぼんやりと見つめていた。
彼女の表情は至っていつも通りに思えるが、よく見ると何か――悲しさや寂しさといった成分を含んでいるようにも感じられた。
(ふむ……)
祐一はパンを咀嚼しながらしばらく考え、やがて決心したようにパンを飲み込むと、おもむろにオレンジ色のジャムに手を伸ばし、自分のトーストに満遍なく塗り始めた。
そして驚いたような名雪と秋子の視線を感じながら、勢いに任せて一気にそのパンを口の中に放り込んだ。
分かっていたことだが、当然そのジャムはマーマレードではなく、口の中に奇妙としか言いようのない味が口の中に広がった。
決して美味しくはないのだが、食べられないほどでもなかった。
「何ていうか……やっぱり、不思議な味ですね」
そう言って祐一は秋子に向かって作り笑いを浮かべた。
「行ってきます」
祐一と名雪は家の外に出て、学校へ向かう。
今日はいつもと違って時間に余裕があるので、走る必要はなかった。
水瀬家から数分歩いたところで、祐一は後ろを歩く名雪を振り返った。
「何だよ、さっきからニヤニヤして」
朝食を食べ終わったときから、名雪は何やらニコニコと祐一を見ていた。
「ん〜、だって、祐一優しいなって」
「何言ってるんだか」
祐一は一笑に付して見せたが、名雪はその仕草さえニコニコと見ている。
「お母さんのジャム食べてあげたんでしょ?なんかお母さん今日さびしそうな顔してたから」
「何だ気づいていたなら名雪が食べてやればよかっただろ」
「うん、そうなんだけどね……何となく祐一が食べてくれるんじゃないかなって思って」
祐一は意地悪だけど基本的には優しいから、と名雪が言う。
祐一は顔を赤くして、そっぽを向いて早足で歩き出した。
「あ、待ってよ、祐一〜〜」
名雪があわてたように追いかける。
その声は甘えるような響きを含んでいる。
「……秋子さんには、迷惑かけっぱなしだからな」
名雪が祐一の隣に立つと、祐一はぽつりと呟いた。
「うん?」
「だから、偶には恩返ししないといけないんだよ」
あれくらいで、恩返しとは言えないだろうけどな、と言い訳っぽく言う祐一。
「うん、そうだね」
まだ顔を赤くしている彼を、苦笑を我慢して見つめながら、名雪は嬉しそうに頷いた。
祐一と名雪を送り出した後、秋子は残った家事を済ませ、昼食を簡単に作って食べた後家を出た。
町外れのほうへ1時間ほど歩くと、目的地である墓地に着いた。
『水瀬家之墓』と刻まれたその墓石の下に秋子の夫は眠っている。
「貴方、最近来ることが出来なくてごめんなさいね」
秋子はその石の前にしゃがみこみ、庭から取ってきた紫陽花を添えるようにして置いた。
この花は、夫が一番好きな花だった。
「あのジャムも出来れば一緒に持ってきたかったのだけど、やっぱり腐れちゃうから持ってこなかったわ」
線香をあげようか少し迷ったが、雨が降りそうなのでやめておくことにした。
そっと目を閉じて、手を合わせる。
「そう言えば、名雪に恋人が出来たのよ。相沢祐一さんって言って私の自慢の甥なの」
とても優しくて、温かい男の子。
雰囲気がどこか、夫のそれと似ているようにも思える。
「きっと彼なら貴方が私にしてくれたように名雪を幸せにしてくれるわ」
秋子の瞼の裏に夫と過ごした日々が蘇ったように流れていく。
もう彼が死んでから大分経つというのにそれらは色褪せることなく、まるで彼がすぐ其処にいるようで。
思い浮かべるだけで秋子の胸は熱く焦がされる。
そっと閉じたまぶたから涙が溢れてくる。
秋子はそれを拭おうとはしなかった。
今秋子の周りには人影はない。
もう少し、あと少しだけ夫との思い出に浸って涙を流していたかった。
そのまま数分が経ち、やがてポツリ、ポツリと雨が降り始めた。
「あら、雨……」
秋子は目を開けて立ち上がった。
静かに雨を降らせる空を仰ぐ。
冬の雨よりは幾分ましだが、やはり雨は冷たい。
雨は好きじゃない。
夫が交通事故で死んだ日も雨が降っていた。
雨に濡れていると、あの日帰ることのない夫を雨に濡れながら待ち続けていた惨めな自分を思い出す。
――幾つもの雨が秋子に、墓石に、地面に、等しく静かに降り注ぐ。
雨はやっぱり冷たくて好きにはなれないけれど、涙も流してくれるこの雨が今は少し心地よくも感じた。
「うっ……っく、ぅう……」
秋子は持ってきた傘をさそうともせず、しばらく思いっきり涙を流した。
紫陽花がだんだんと強くなってきた雨に打たれて音を立てる。
カタツムリが嬉しそうに葉の上を動き始めた。
「あ、秋子さん……って、どうしたんですか、びしょ濡れじゃないですか!」
秋子が家に帰るとすでに祐一と名雪も帰っていた。
祐一は秋子に駆け寄り、困惑気味な顔をした。
「……っと、まずは名雪、バスタオルを持ってきてくれ」
「うん」
祐一に言われて名雪が少し慌てたようにバスタオルを持ってきた。
「はい、お母さん」
「ありがとう、名雪」
秋子はバスタオルを受け取り、自分の体を服の上から拭いた。
「あ、俺、風呂沸かしてきますね」
「待って、祐一」
「ん、名雪?」
秋子の雨に濡れて図らずとも色っぽく見えるその姿から逃げるように風呂場へと向かおうとした祐一を名雪が止めた。
「お母さん」
名雪がどこか真剣な声で言った。
その表情も少し真剣みを帯びている。
秋子が名雪を見る。
すると名雪は表情を緩めて、
「おかえり、お母さん」
と、ふわりと微笑んだ。
「ほら祐一も」
「え、あ、ああ、おかえりなさい、秋子さん」
名雪に急かされて、祐一もぎこちない笑みを浮かべた。
秋子はまた目頭が熱くなってきたのを感じた。
ともすれば溢れ出しそうな涙をこらえる。
今日はもう十分というほど涙を流した。
だから今は泣くのではなく、自分の胸を満たすこの暖かな気持ちを素直に表すほうがいいだろう。
そっと、秋子は目の端に浮かんだ涙の粒を拭って。
「ただいま」
と、最愛の二人の家族に向かって微笑んで見せた。
まだ相変わらず外では雨が降っていたが、それもじきに止むだろう。
秋子は少しだけ、雨の日が好きになれる気がした。
感想
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