リビングから廊下に出ると、肌を撫でる寒さに軽く身震いする。十一月も半ばになり、季節は冬へと変わろうとしていた。寒さは日一日に増し、それは家の中でも感じられるようになっている。キッチンとリビングの消灯を終え、お母さんが廊下に出てきた。

「あまり根をつめ過ぎないように、祐一さんに言っておいて」
「うん、わかったよ」
「それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」

手すりに掴まりながら廊下を進むお母さんが自室に入るのを見届けると、階段を上り始める。肩から下げられたハンディポットが腰のあたりで前後に揺れる。手に持ったお皿の上には、祐一の夜食用にと、お母さんと私で半分ずつ握ったおにぎりが並んでいた。
階段を上りきり、祐一の部屋の前で立ち止まると、扉をトントンと叩く。

「祐一〜?」

返事は返ってこない。最近では特別珍しいことではないので「入るよ〜」と断り扉を開け、右手におにぎりのお皿、左手にお茶を入れたステンレス製のハンディポットを得意げに掲げてみせた。

「えへへ、お母さんと一緒に、お夜食つくってみたんだけど…あれ?」

机に向かって勉強している祐一の姿を想像していたのに、そこには誰もいなかった。

「もしかして、寝ちゃった?」

ベッドに視線を移すが、人の気配はない。
寝る間も惜しんで勉強にいそしんでいるはずの祐一は、なんと、部屋にいなかった。
肩の力が抜け、行き場を失った期待感をため息で流すと、愚痴がこぼれる。

「もう、せっかく作ったのに」

部屋に入り扉を閉め、ベッドの脇にある目覚まし時計を確認する。
時間は夜の9時25分を回ったところ。晩御飯も食べたし、お風呂も済んでいるんだからお手洗いかな?頭の中で指折り数えると、それならすぐ戻るだろうと、このまま部屋で待つことにした。
おにぎりとハンディポットを机の上に置き、ベッドにごろんと寝転ぶ。布団の中でまで読んでいたのか、枕元に数冊の参考書が目に入った。手持ち無沙汰に手近な一冊を開く。

「うー」

そこには難解な日本語の羅列があり、読むどころか見ているだけでも眠気に誘われるような内容に思わず目を閉じる。祐一の希望する進学先はレベルが高い。実のところ、私も一度はその高みを仰ぎ見たのだけれど、自己の性格と成績と向き合った末、同じ色の別の山を目指すことに決めたのだった。

 あの日。

お母さんが事故に遭うまでは、将来のことなんて『まだ先のこと』と現実味を帯びていなくて、日常の忙しない平凡に身をゆだねているだけで良かった。それがたった一通の電話で全てが崩れ去った。病院に駆けつけるも意識不明の危険な状態が続き、実の娘である私ですら面会することも叶わない。そして、夜遅くになると、私が未成年である事や病院の規則を理由に、側に居る事も許されず病院を追われた。何も出来ない自分への絶望、そしてお母さんの居ない日常を想像するのが怖くて塞ぎ込んだ。支えを失った私は暗い泥沼に落ち、そのまま沈んでいくことを躊躇わなかったろう。目覚し時計から流れる祐一の告白がなければ。

参考書を閉じて、時計を確認する。9時30分。
一人でいる心細さに耐えられず、部屋を出て捜す事にした。二階の部屋を全て回り、お手洗いまで確認してみたけれど、何処にもいない。

おかしい。

祐一が寝るには早いけど、出かけるには遅い時間。玄関から出て行ったのなら、一階で夜食を作っていた(私はともかく)お母さんが気付かないはずがない。念のために玄関を確認してみたけれど、鍵は施錠され、祐一用の家の鍵も靴も、いつもの場所に置いてあった。玄関から出かけた様子はない。もう一度二階を見て回ろうとしたその時、下駄箱の脇に立てかけられた回覧板に目が留まる。正確には、回覧の見出しに目が止まった。それは、最近出没するようになった下着泥棒に対する注意書きで、夜の10時から明け方とかなり大雑把な犯行時間が書かれていた。



えっと、その、なんだっけ?
そ、そうだ、祐一。祐一は何処へ行ったんだろう?


今は夜の9時30分過ぎで、

回覧に下着泥棒の注意が書いてあって、

祐一は家にいない。

つまり、祐一が?

玄関から外に出ていないとすれば…ベランダ!階段を駆け上るとベランダに飛び出す。

 そして、

 見つけてしまった。

 闇夜に浮かぶ、銀色の伸縮はしごを。

「祐一…」

身を刺すような寒さも今は気にならない。室外機の低い音だけがあたりに響いていた。

だから、つまり、そういうこと?何が?
分かっている。
けれど、祐一に限ってそんな事あるわけがない。だって、私のこと好きだって言ってくれたし、私も好きで相思相愛なわけだし。

それなのに。

祐一は夜な夜な人目を忍んで、女性の下着を…。ショーツを頭から被った祐一を想像してしまい、寒さとは違う身震いの後、眩暈がした。

『でも、それって―――』

と、一つの考えが脳裏を冷たく滑り落ちる。

下着を欲しがる祐一は何かしら欲求不満であって、

でも、祐一には彼女がいて、

それは私であって、

でも、あれ以来情事が無くて、

つまり?



お、落ち着け水瀬名雪。

確かに遅くとも夜の10時には寝てしまうし(早いときは7時)、

了承済みとはいえ一階にはお母さんがいるし、

その、いろいろと、不自由させているかもしれないけれど、

でも、それとこれとは話が違うよっ!


「祐一のバカーーーーーーーーーーーーーー!!」















「…近所迷惑だぞ」
「え?!」

声の主を探そうとあたふたしている私に、続けて救いの言葉が投げかけられた。

「上だよ、上」

素直に顔を上げると、屋根からひょっこり顔を出した祐一がいた。

「わ、な、何してるの?」
「見晴らしがいいぞ、ここ」

ちょいと寒いけどな、と小さく笑う祐一に自然と笑顔を返す。張り詰めた心が緩む。
祐一は何処にも行ってはいなかった。

「名雪もちょっと来てみろよ」

そう言うと、下にではなく、屋根へと続くアルミ製の伸縮はしごをトントンと叩いて見せた。




「うわー」

視界を遮るものがないとここまで世界は広くなる。両の目から零れ落ちそうになるくらいの、一杯な夜景に圧倒されて息を一つ吸い込むと、空を抱えているような感覚を胸に受け止めた。自分の家の屋根で、こんな体験が出来るとは思わなかった。

「結構いいもんだろ?」
「うん。とっても気持ちがいいよ」
「煮詰まると、ここに来るんだ。気分転換にはもってこいだからな」
「いつ頃から?」
「八月くらいか?夏期講習でがんじがらめになってた頃」

そう言うと、部屋から持ち出したであろうクッションに座った。

「私、知らなかった」

ぷうと頬を膨らませ、面白くなさそうな目線を向ける。祐一はばつが悪そうに肩をすくめる仕草をした。

「あー、悪い。でも、ほら、ここって危ないから」

改めて足元を見ると、手すりも何もないから危ないのは間違いない。心配してくれているんだと、素直に受け止めて「うん」と微笑み返す。それに安心した祐一は続けて喋り始めた。

「それに、名雪はこんな所でも寝ちゃいそうだからな。起こしに来るのも一苦労だ」
「もしかして、酷いこと言ってる?」
「滅相も無い。心の底から名雪の身を案じているのさ」
「うー」

笑いを堪えている表情からして、遊ばれちゃっているのは明白。言い返したくても、とっさに言葉が浮かんでこない自分が歯がゆい。それでも、なんとか抗議しようと口を開いたら、

「っくしゅ」

くしゃみが出た。
そういえば、家の中はともかく外に出歩けるような格好をしてない。祐一は苦笑しながら私の手を引くとコートの内側に引き寄せ、腰に手を回し軽く抱きしめた。私は何も言わず、祐一の胸に顔を当て、体を預ける。

「これなら寒くない」
「うん。でも、ちょっと恥ずかしいね」
「確かに」

それきり、会話が無くなり、お互いの体温と鼓動と、息遣い、そして遠くに聞こえる街の雑踏だけになる。
しばらくして、心地よい沈黙を破ったのは祐一だった。

「ところで…」
「うにゅ?」
「おいおい、寝るなよ」
「う、うん。大丈夫」

上目遣いに表情を伺うと、悩んでいるような、困っているような、そう、何か言いたげな様子だった。私は黙って待つことにした。

「あー、えーっと。なんだ。最近出かけてないなーというか、その、今週末あたりどこか行くか?」

デートのお誘いだった。
でも、付き合うようになってからは何回か遊びに行っているし、改めて緊張させるような内容でもない。頭の上にハテナマークを点滅させながらも、週末の予定を思い浮かべる。

「香里達との勉強会は?」
「そういやそうだったな…。いや、しかし、最近勉強詰めで二人の時間って少なかったろ?一日くらい羽目を外しても構わないさ」
「それは嬉しいけど。でも、別に気にしてないよ」
「そ、そうなのか?」
「少し寂しいけどね。でも、受験が終わるまでの辛抱だよっ」
「じゃ、いったいなんなんだ…」

祐一はがっくりと頭を落として唸った。何か、深刻な悩みでもあるんだろうか?

「どうしたの?」
「いや、ほら、さっき」
「うん」
「名雪、叫んでたよな?『祐一のバカー』って」
「あ」
「正直心当たりがない。けど、名雪が気分を悪くしたなら謝る。ごめん」

これ以上ないくらい、きっちりと頭を下げる祐一。

唖然と見守る私。

あ、なんだろう。
お腹の底がかすかに震える、この、くすぐったいような感覚は。

「くっ…」
「く?」
「くくくっ、あはははは」
「な、なんだよ、俺は真剣にだな」
「違うの、でも、おかしくて。ぷ、あははは」
「ちぇっ、わけわからん」

ひとしきり笑った後、不貞腐れた祐一に、私の勘違いを白状すると目に見えてガッカリした。

「はぁー。オレって信用されてないのね…」
「御免なさい。でも、祐一だって悪いんだよ?」
「はいはい。今後、一切隠し事は致しません」
「誓いますか?」

先程言いくるめられたお返しではないけれど、少しふざけてみることにした。手のひらを祐一に向けて、胸のところまで右手を上げる。祐一は手を絡めてきた。

「もちろん誓うよ」
「よろしい」

大仰に頷くと、「こいつめ」と頭を突付かれ、2人で笑い合った。
その時、視界に幾すじかの、白い線が流れた。

「あ、雪」
「もうそんな季節か。さて、そろそろ戻ろう」
「ううん、もうちょっとこのまま」

戻ろうとする祐一に縋りつく。祐一は少し驚いたような顔をしたが、すぐに表情を崩すと、よしよしと頭を撫でられた。
雪の量は大したことがなく、ぽつぽつと降っている。ゆらゆらと落ちてくる雪を眺めながら、そういえば私は何故雪が好きなんだろう?と自問した。それはたぶん、祐一が深く関係しているのは間違いない。昔の思い出をスナップ写真に置き換えると、背景のほとんどは雪で飾られているのだから。

「ね、祐一。雪は好き?」
「嫌い」

冷たいし、寒いの苦手だからなと軽く肩をすくめる。

「そっか、そうだったよね」

昔から祐一は雪が嫌いだった。あまり外にも出たがらなかったし。

「でも、名の付くのは好きかな」
「名の付く?」

雪に名前なんてあったかな?と訝しげに振り向くと、祐一の手がすっと伸びて私のおとがいがクンと上を向く。鈍な私でも、次に何がくるか分かった。そっと目を閉じる。

「ん…」

雪のように降りてきた口づけ。乾燥しているからか、ぱさぱさと乾いた感触と、どのくらい外にいたのだろう?冷たさに少し驚きながらも自分から離れようとは思わなかった。

「こっちは、柔らかくて暖かい」
「うん」
「愛してる。名雪」

私もだよ、と頷いた。



祐一の部屋に戻り、お留守番をしていたお夜食を二人で片付けた。ラップをしていなかったので、水分の抜けたおにぎりをポットのお茶で誤魔化しながら。楽しい時間が終わると、急に眠たくなって、時計を見るとビックリ。就寝時間の記録を更新していた。勉強を続ける祐一と別れ自室へ戻ると布団にもぐりこむ。夢の世界へと行く途中、ある事に気が付いて掛け布団を跳ね上げた。

”名の付く”雪が、つまり”私のこと”だと今更ながらに気づく。

屋根での出来事が自然と頭に浮かんで眠れなくなり、更に記録を伸ばすことになった。


おわり
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