信号炎管
学校では生徒会による川澄舞退学のドタバタ劇は、学校側の処分、即ち舞の卒業式までの停学処分により収まり、既に進路決定済みで、3学期は自由登校の身となった佐祐理は、どちらかの家か、商店街等で舞と会うようになっていた。
また、2月下旬から選挙戦が始まるため、倉田家では運動資金を蓄えるため、倹約令が出ていた。
さらに、今日は地元の後援会長である、生徒会長の久瀬の父が佐祐理の家に来ている。
そのため、接客中の母親に代って、駅前まで地元入りする父親の倉田代議士と秘書二名を、昨年の春に両親から言われて自動車運転免許を取得した長女の佐祐理が、自家用車で迎えに行くことになった。
天候は雪、倉田家は他の地区から公園で隔てられた住宅地にあった。住宅地の人口密度が低いこともあり、住宅地内では人通りも自動車の通行量も決して多くは無い。
特に今日のような雪の日は、バス通りでは除雪車が除雪作業を行うが、路面上に残された雪がシャーベット状になることもある。 また、駅からのバス通りが大病院への道へ分岐するまでの区間は交通量が住宅地内に比べて多いので、圧雪路面になっている場合もある。
このため多くの住人は、スリップしやすくなったり、跳ね上げた雪で車が汚れる事を嫌い、駅へは自家用車ではなく積雪量に関係なくタイヤチェーンを取り付けている路線バスを使っていた。
しかし、倹約中の倉田家ではバス代三人分を払うより自家用車を送迎に使用する方が安上がりだったため、佐祐理にとっては初めての雪道運転となるが、駅へ向かうことになった。
出発時点では、四輪駆動車に雪道用タイヤを取り付けてあるので、倉田家に居る者は、皆大丈夫だろうと思っていた。
バス通りに出るまでは、各戸の家の前がきれいに除雪された住宅街の中を低速度で走るので、無雪期と同様にブレーキとハンドルを操作しても、さほど問題なくバス通りへ出られた。
また、バス通りから救急救命センターのある大病院への道の分岐点は青信号だったため、法定速度のまま速度を落とさず、そのまま直進した。
しかし、緩やかな下り坂の左カーブに差し掛かった所で無雪期と同様なブレーキをかけてしまったため、全てのタイヤがロックしてしまった。
佐祐理は慌てて、さらにブレーキペダルを踏み込んだが時既に遅し、ABSが作動する前に制御不能のまま、ペイントだけで区分されている対向車線を越えて歩道と車道を分けるガードレールに突っ込んでしまった。
エアバッグの圧力が抜け、放心状態の佐祐理は徐々に正気を取り戻していった。その過程で、ガードレールにぶつかる直前に人影を見たような気がした。
目の前は上方に盛り上ったボンネットに視界を遮られていたが、僅かな隙間から湯気が見えていた。
車から脱出して状況を確認しようとしたが、前方のドアがガードレールに挟まれたらしく、ドアを開けることは不可能だった。窓から出ようにも窓のボタンを押しても動かない。非常事態を知らせるためハザードランプを点灯させようとしたが反応は無い。
あらゆるスイッチを操作したが反応は無い。この時点でバッテリーが損傷し、車への電力供給が止まったことに佐祐理は気づいた。
放置されれば車内の暖気も抜け、いずれは凍死してしまう。
舞や夭折した一弥は、このまま凍死しても許してくれるかもしれない。しかし、無関係の他人を轢いた可能性がある以上、生還して確認するために多少のリスクを覚悟の上で、発炎筒を密室状態の車の中で使用することを決意した。
ただ、発炎筒はダッシュボードの左下に取り付けられている。
このため、かつて傷めた左手首を伸ばさなければならなかった。このため、途中で落として取れない場所に入り込んだら後は無い。
だが、そのようなことなど気にしている場合ではない、佐祐理は意を決し、シートベルトを外し、トランスミッションレバーの上に横たわるようにして、左手を伸ばす。
佐祐理の左手に鈍い痛みが走る。一瞬、手を引いてしまったが、再度取りにかかる。幸運にも二度目は痛みに耐え、発炎筒を取る事ができた。
一本しかない発炎筒を無事手に入れたのは良いが、発炎筒の燃焼時間内に発見されなければ後は無い。
後は車両若しくは通行人が来るまで待つ事になった。
やがて、左方向に駅から住宅街の折り返し所まで行くバスが見えた。
そこで、佐祐理は発炎筒に着火した。
大量の煙に包まれながらも、強烈な炎を放つ先端部をバスから見えるように左の窓に向けて持っていた。
バスは、2車線を塞ぐ形で大破していた倉田家の乗用車の手前で停車し、運転士が無線で営業所とやり取りをした後、点検用ハンマーを持って車に近づいてきた。
煙に包まれ、ホワイトアウト状態になってきた佐祐理は、後方のガラスが割れる音が聞こえた後、寒気を感じ、加えて煙の密度が下がってきたように感じた。
バスの運転士が車体後部の窓を割って排気口を作ったのである。
「人を轢いたみたいなんですが、誰か倒れていませんか?」
佐祐理は体勢を後ろ向きに変えて咳交じりの声でバスの運転士に聞いた。
周囲には誰も居なかったが、運転士は車体が突っ込んだガードレールに突き刺さった車体の下に、大火傷を負って意識を失って倒れている中年女性と周囲に散乱した苺のケーキを見つけた。
運転士は、即座にバスに戻って、乗客に医者が居ないか尋ねる放送をしたが医者はいなかった。
再び営業所と無線で交信し、負傷者の救出と乗用車の撤去を依頼した。
「前方で大破している車両の撤去作業が完了しないと発車できません。お急ぎの方はこちらで下車していただいて、徒歩にて目的地まで行かれるようお願いします」
その様に放送すると運賃はどうなるのか運転士への問い合わせに乗客が殺到したが、社内の規定で一つ手前の停留所までの運賃でよいことになっていると放送すると、前後ともに開いたバスの乗降口から大勢の客が降りて行った。
学校当局の舞に対する処遇への怒りと、臨時テストのための勉強で夜間に十分な睡眠がとれず、ついには風邪をひいてしまった生徒会長の久瀬は、学校を早退し、不幸にもこの便に乗り合わせてしまった。
復旧の見通しをバスの運転士に聞いたが、見通しは不明という返事であった。
自宅が次の停留所と手前の停留所の間にあるので、久瀬は歩くことにした。
佐祐理は、体勢を後ろ向きにしたまま、バスから降りて住宅地へ向かう乗客たちの様子を見る事しかできないでいた、心配そうに様子を見る人々や迷惑そうに見る人々がいる。
そんな中、久瀬は自らの不幸を呪うように倉田家の車を蹴飛ばして、リアフェンダーをへこませた。
そして周囲には鈍い金属音が放たれた。
その直後、久瀬の背後から
「久瀬さん、ご迷惑おかけして申し訳ありません」
と咳交じりの佐祐理の声がした。
「えっ、倉田さん?」
感想
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