暖かな夜、寂しい女の子
夕陽はもう沈んでしまった。
ショーウィンドウに映る空は、濃い藍色。
その中にあの子の姿が見あたらなくて、あたしは周りを見渡した。
クリスマスイブのざわめきから少し離れた道角で、ぽつんと小さなピエロがパントマイムを演じている。名雪はそれにジッと見入っていた。
ときおり、立ち止まってそちらに目をやる人もいた。でも、恋人や家族に遅れないために、何か用事を果たすために、すぐに人の群れに戻ってしまう。
――こんな夜だもの。
――わざわざ暖かいところから離れて、人の集まらない、ピエロのぎこちない演技を見ようなんて、誰も思わないわよね。
そのピエロは、何か不出来なものを演じていた。
動きは不出来な人形のようで、透明な檻に閉じこめられているようにも見えた。
玉に乗ろうとしては失敗し、バトンをキャッチしようとしては失敗し、何かを見つけたかのような仕草をしては、やがてそれが間違いだと気付いてしょぼくれた。
その一つ一つの動作に誇張が含まれていたので、それは演技だと分かる。
あのピエロを演じている人は、何を表現したいのだろう。
「名雪」
呼びかけて、そっと腕を引く。名雪は動かなかった。
「もうちょっとだけ、見させて」
「百花屋のトナカイチゴサンデー、売り切れちゃうかもしれないわよ」
うー。名雪が困った顔をした。
「だって、このピエロさん、可愛いんだもん」
「可愛い?」
唯一の見物客である名雪がツレに奪われそうなのに、こちらを一瞥すらせずに演技を続けているピエロは、ある意味気高い。そして、だからこそ不気味だ。
「ほら、羽も生えてるんだよ」
また玉から転げ落ちたピエロは、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。確かにその背中に、小さな羽の模造が付いていた。
ぎぎ、ぎぎ、と這い上がるようにして、またピエロは立ち上がる――というよりも、上を目指した。
「あっ」
そこでまた力尽きて、ピエロは再びボールに抱きつくような格好になる。
「ピエロさん、ふぁいとっ」
名雪は一生懸命応援した。
それから、くるっと振り返って、
「香里、先に百花屋行って、わたしの分も頼んでおいてくれないかな」
小さな両手を、胸の前で合わせた。
「いいけど」
渋ったつもりはなかった。でも、名雪にはそうは見えなかったらしい。
「じゃあ、香里の分のイチゴサンデーもおごるから」
「いいの?」
意地の悪そうな笑みをあたしは浮かべた。もちろん、名雪がやっぱり嫌、と言ったらタダで行ってあげるつもりだった。
「うん、お願いするよ」
あたしの予想に反して、彼女は素直に肯定の笑みを浮かべた。
こうなると、百花屋に行かずに一緒にいるわけにもいかない。
「確か1000円よ、あれ」
「うー、覚悟するよ」
あたしはひとつ、溜息を吐いた。
「分かったわ。その代わり早く来るのよ」
「うんっ」
人混みに合流して、もう一度名雪の方を見た。
やはりそこには、彼女とピエロの二人きりしかいなかった。
一人で入るのは初めてだな、と思いながら、百花屋の扉を開ける。
鈴の鳴る音、暖かな空気、サンタクロースの衣装で着飾った店員。
「いらっしゃいませ……あれ、美坂先輩?」
「あ、久瀬さん」
あたしの部に今年入ってきた一年生だった。
前生徒会長の妹さんだ。
「お一人ですか?」
「ええ」
「お仲間ですね」
「後でもう一人来るわよ」
彼女の瞳が、好奇心で光った。
「それって、男の人ってことですよね」
「友達よ。残念ながら」
三年の部活は秋で終わりなので、彼女に会うのは久しぶりだ。積もる話は沢山あったのだろう、席に案内する間も彼女は話を止めなかった。
「――というわけで、家にいると兄が五月蠅いんですよね。今日だけ臨時のバイトですから、先生とかには内緒にして下さい」
「分かってるわよ。どうせみんなやってるわけだし」
「流石先輩、話せるー」
彼女は二年の頃のあたしを知らない。だから気が置けない先輩だと思っているようで、ついつい可愛く思ってしまう。
「美坂先輩がお姉ちゃんだったら良かったのに」
何気なく放ったのだろう言葉に、鼓動が一度高く鳴った。
「どうかしら、身内だと、案外嫌な面も見えてくるかもしれないわよ」
「んー、でも、栞ちゃんも素晴らしい姉だって言ってましたよ」
「久瀬さん、そろそろ仕事に戻ったらどうかしら。それから、コーヒーとトナカイチゴサンデーを、連れが来てから用意して」
「はい、かしこまりました」
恭しく頭を下げ、彼女は厨房に入っていった。
案外、意地を張っていても、クリスマスイブに一人だったのが寂しかったのかもしれない。
去年の今頃、あたしは独りぼっちだった。栞も独りぼっちだった。
次の誕生日まで生きられないかもしれない、訊かれたからそう答えた。そして、あたしと栞の心は分かれた。
自分から栞にひどいことをしておいて、相沢君にすがろうとした。
栞は手首の傷をあたしに見せないように気を遣っている。あたしは全然良い姉じゃない。
「何難しい顔してるの?」
「えっ」
顔を上げると、いるはずのない人物がいた。
「栞」
「わたしは栞ちゃんじゃないよ……」
「あら、早かったじゃない」
「香里、最近祐一に似てきたよ……」
「それは嫌ね」
久瀬さんが水とおしぼりを運んできた。今度は気を遣ってか、何も言わずに席を離れていく。
「でも、早かったわね」
「うん。香里が行ってからすぐにピエロさんの演技が終わったから。それで、こんなの貰っちゃった」
そう言って名雪がバッグから取り出したのは、小さな天使の人形だった。
「へー、可愛いじゃない」
「うん、ピエロさんの演技も観れたし、今日はとってもらっきーだよ」
「昨日はあなたの誕生日だったしね」
「うんっ」
名雪は天使の羽をつんつんと突く。天使はにこやかに笑っていた。
「ところで、ここを出たらどうするの?」
「えっと、カラオケにでも行こうか?」
「つまり……やっぱり家に帰るつもりはないってわけね」
「付き合わせちゃって、迷惑だったかな?」
「そんなことはないわよ。でも、秋子さんが心配するんじゃないかしら」
「大丈夫だよ。今日はお母さんも家にいないから」
「じゃあ、栞と相沢君の二人っきりってわけね」
「うん、邪魔しちゃ悪いよ」
「名雪の気持ちは良いことだと思うけど、遠慮ってね、された方も結構迷惑だったりするのよ」
彼女が相沢君のことを好きだってことは、きっと栞も気付いていた。
「でも、香里も一緒だし」
――あたしも、名雪と同じかもしれない。
「あっ」
名雪が短い声をあげる。振り返ると、雪が降り始めていた。
雪は白かった。
とても白かった。
「あのー、雪見てる最中に申し訳ないんですけど」
振り返る必要はなかった。窓ガラスに映っているのは久瀬さんの姿だ。
「ええ、トナカイチゴサンデー持ってきていいわよ」
「えっと、そうではなくてですねー」
彼女の脇から、もう一つの顔が覗いた。
妹の顔だった。
「お姉ちゃん、私に黙って美味しいものを食べに来るなんて、ずるいですよ」
「まったく、一言声をかけてくれてくれたっていいじゃないか」
名雪の隣で相沢君が苦笑していた。
多分、どうしてあたしたちが二人でここにいるのか、彼にはその理由が分かっているのだろう。
「そういうわけで、席を移って欲しいんですけど」
「そういうことね」
4人が坐れる席は窓際ではないボックス席になるので、雪が見られなくなるのが名残惜しいけれど、
「もし雪を見たいんでしたら、空いたときにご案内しましょうか?」
「いいわよ。雪なんてもう見慣れてるし。気を遣わせちゃって悪かったわね」
「あ、いえ」
他の3人はもう席を移っている。栞が名雪の人形を手に取っていた。
「これ、何だかあの人に似てませんか?」
「だれ? あの人って」
名雪が訊ねる。
「えっと……あれ、祐一さんは覚えてますよね。背中に羽の生えた」
「ああ、あいつか。えっと……何て言ったっけ、俺も覚えてない」
「背中に羽の生えた人なんて、いるの?」
名雪は首を傾げている。
その様子を、にこにこと栞と相沢君が見つめている。
二人は、今や本当にお似合いになっていた。端から見ても、栞と相沢君が恋人で、名雪は違うんだって分かるくらいに。
ふと、彼女が――栞がいたせいで、相沢君と想いを遂げられなかった彼女が――可哀想になって、名雪の隣に坐りながらあたしは言った。
「きっと、あなたのことじゃないかしら。名雪」
感想
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