ゴロゴロゴロ。
「う〜、あちい〜、あち〜」
 ゴロゴロゴロ。
「祐一、うるさいよ」
 暑さに耐えかね絨毯の上を転がり続ける祐一に、ソファーに沈み込むように読書を嗜んでいた名雪がうんざりしたように声をかける。
 夏の午後は気だるくて不快で、少々のことにも気が立ってしまう。まだまだ自分の母親の境地に達するのには時間がかかりそうかなと、名雪はみっともなく床を転がる恋人兼従兄弟の姿に呆れ顔を隠せなかった。
「…………」
「…………」
 名雪は再び読書に戻ろうとしたが、ゴロゴロという鬱陶しい音はしなくなった代わりに、じめっとした視線が苛んできた。
「…………」
「…………」
「…………」
「……なに?」
 根比べに負けてしまった名雪は仕方なく読んでいた雑誌から目を離す。 
「冬はあんなに寒いのに、こんなに暑くなるなんて聞いてないぞ、詐欺だ。クーリングオフを要求する」
「そんなこと言われても……大体祐一の方が暑さには慣れているんじゃないかな?」
 祐一の言いがかりにため息混じりに答える。子供の理論にまともに付き合うほど馬鹿馬鹿しいものはない。
「名雪、なんとかしろ」
「ええっ! どうしてわたしなんだよ〜」
「なんとなくだ」
 はあっと先ほどよりも重々しいため息をついて、嫌々ながら口を開きかけた名雪が、今度は一転してぱあっと表情を輝かせる。
「じゃあさ」
「却下だ」
「……まだ何も言ってないよ」
 今度は名雪がじめっとした視線を祐一に向けた。
「どうせお前のことだから、『百花屋へ行ってイチゴサンデー食べればきっと涼しくなれるよ〜』とでも言うんだろ」
「わ、すごい、祐一ってエスパー?」
「なんでだ!」
「でも、さ、『この味がいいねとなゆちゃん言ったからいつでもどこでもイチゴ記念日』ってあるよね」
「あるかいっ!」
 すっかり名雪の欲望に火がついてしまったようで、心はすでに百花屋に飛んでいる。こうなると自分では止めることができない。祐一は自分の失敗を悟った。
「う〜、イチゴ〜、イチゴ〜」
「……しまった」
 今度は祐一が閉口する。家の中は名雪の独唱。そして家の外は喧しいセミ達の大合唱。とてもとても長い道のりを歩いていくだけの気力はない。こっそりと逃げようとしたが、しっかりと裾を名雪に掴まれてしまっては、とても解放されるとは思えなかった。
「あらあら、名雪ったら子供みたいね……そうね、かき氷でもいかがです。イチゴ味のシロップもありますよ」
 天の助けはいつもいいタイミングでやってくる。ただ、いいタイミング過ぎるところが時にふたりを困った立場に追い詰めたりもする。
「えっ、ほんと〜? やった〜」
 両手を上げて喜ぶ名雪に、解放された祐一が呆れたような目を向けるが、当然気にもしない。自分に都合が悪いことは簡単に存在を消し去ることができる。
「ったく現金なやつ」
 しかしうかつなことは言えない。それが身に染みて分かっているはずなのに、うっかり言葉にしてしまった。瞬間、ものすごいスピードで顔を向けられ、その迫力に思わず祐一の体がのけぞっていた。
「う〜、文句があるなら祐一にはイチゴシロップ使わせてあげないもん。祐一には紅しょうがのしぼり汁でかき氷を食べてもらうよ」
「あらあら」
 当事者ではない秋子は気楽なものだ。いついかなる場合にも、ふたりの間の出来事に関して見守って笑みを絶やさない。そう、何をしていても。
「あれ、かき氷を作るやつってどこですか?」
 立場が悪くなった祐一はいつもように話題をそらしてごまかそうとする。こうして弱みを握られていく自分の将来に不安を感じないではないが、今良ければ後は関係ないという一般的な若人のひとりとしては、このまま突っ走るより他にない。
「我が家では自分の手で氷を削る決まりなんですよ」
「冗談でしょ?」
「はい」
 祐一の体から力が抜ける。
「ははは、秋子さんでも冗談をいう時があるんですね」
「うふふ、冗談ではすまないこともありますよね」
「え、な、なにを……」
「あらあら、この間の休日」
「わー! わー!」
 これ以上は口に出さないほうがいいと祐一は思った。
「な、名雪まだかっ、まだ見つからないのかっ」
「う〜、一生懸命探してるのにひどいよー」
「いや、なんかこんなところで俺の人生が決まってしまうような気がするんだ」
「だったら祐一も探してよ。物置かもしれないよ」
「そっか、じゃあそういうことで、秋子さん」
「あら、物置にはありませんよ」
「そうですか……」
 完全に逃げ道を塞がれて、祐一が白旗を揚げようとした時。
「あったよ〜」
 名雪の間延びした声が届いて、祐一は助かったと思った。何から助かったのかは分からないが、とにかく助かった。
「けろぴー?」
 思わず口をついて出る。かき氷を作る器械はカエルを模していて、誰がこれを選んだのかは聞かなくても分かった。
「結構年代物ですね」
「そうですね、でもまだ壊れていませんから」
 流しで軽く洗うと、さっと水を払う。
「わ、氷がいっぱい」
 冷凍庫を覗き込んだ名雪がうれしそうな声を上げる。
「今日は暑くなると聞いたので、朝から冷やしてみたの」
 秋子が器械をテーブルに置き、祐一が瓶と器を手にして続く。
「はい、氷だよー」
「いや、そんなに必要ないだろう」
 山盛りの氷を運んできた名雪に思わず祐一のつっこみが入る。
「では、どうぞ」
「秋子さんからでいいですよ。レディーファーストです」
「あら、お言葉に甘えましょうか」
「……わたしには何も言ってくれないの?」
「名雪が先だと氷を全部使われそうだからな」
「祐一ひどいー」
 言い争うふたりを尻目に秋子は取っ手を回し始めた。騒いでいたふたりも押し黙って、カエルの口から吐き出される氷を見つめている。祐一はちょっとぐろい光景だなと思ったがさすがに何も言わなかった。器に山盛りになったところで交代。こうして3人分のカキ氷が出来上がっていく。



「どうしてゆういちはこないの?」
 何度目か分からない名雪の質問。ぷくっと膨らませた頬は、質問を繰り返すうちにお餅みたいにパンパンになっている。
「急に引越しが決まって、その準備で忙しいみたいなの」
「ひっこし?」
「住んでいたお家からまた別のお家に移ることよ」
「なゆきのおうちにはきてくれないの?」
「遠いから……仕方がないのよ」
「ううー」
 普段はわがままを言わない娘であるが、頑固で思い込むとなかなか後に引かない。しかも一度来るという約束を反故にされてしまっては。
「困ったわね」
 顔を真っ赤にして涙目で見上げる名雪の愛らしさに、口調とは裏腹にその表情に困った様子は見えない。
「ふう、ちょっと待っててね。一緒にかき氷でも食べましょう」
「ひえひえしてあまいやつ?」
「そうよ、名雪の大好きなイチゴ味よ」
「わーい」



「あー、生き返るなぁ」
 祐一の声に秋子もスプーンを手にした。スプーンが氷をすくう時の音は目で楽しみ、音でも楽しむ。年を取っても目の前の器に夢中になってしまうことには変わりがない。
「祐一食べ終わってないのにまた氷入れた、ずるいよ」
「ずるくないっ、どう見てもお前より少ないだろうが」
「ずるい祐一にはこうだよっ」
「あ、俺のカキ氷っ! 自分のがあるだろうが」
 まだ幼い名雪はテーブルに届かず、背の高い椅子に座らせていたことを思い出す。
 あの時使っていた椅子はまだ残っていただろうか、記憶を引っ張り出そうと秋子は頬に手を添えた。
「いいもん、わたしも足そうっと。いっちご、いっちご♪」
「いや、それはさすがに盛りすぎだろ。こぼれるんじゃないか」
「大丈夫だもん」
 山盛りの氷にたっぷりとシロップ。エベレストもかくやという高さに挑戦されたそれはいつ崩れ去ってもおかしくはない。
「いくらなんでもかけすぎじゃないか」
「もー、祐一はいちいちうるさいのっ」
 お楽しみに水を差されて名雪はご機嫌斜め。祐一は肩をすくめると、氷の山にスプーンを突き刺して、口に運んだ。一瞬にして汗が引いていく冷たさと作られた甘さ。
「かき氷って何も食べても同じ味に感じるんですよね」
「あら、じゃあ今度シロップを作ってみましょうか」
「秋子さんがですか?」
「ええ」
 にこにことした笑顔の裏に感じるものがあったのか、祐一は首を振った。



「名雪は本当に苺が好きなのね」
「うん、だいすき」
「祐一さんは?」
「うん、ゆういちもだいすきー。あ、でもいじわるなことをするから、そこはちょっときらいかな」
 手を止めて、渋い表情。
「うふふ、お母さんは?」
「もちろんおかあさんもだいすきだよ」
 大きさを表現するように手を広げてみせる。
「みんな好きなのね」
「うん、そうだよ」
 ほえと首を傾げる名雪に微笑みを返さずにはいられない。
「いつか、その好きの違いを自覚する時が来るのね」
「ちがい?」
「まだ今の名雪には早いかしらね」
 ふうんとうなずくとまたスプーンを動かす。小さな手に握られたスプーンは危なっかしく揺れながら名雪の口元に運ばれていく。
「こんなにおいしいのに、ゆういちはかきごおりをたべられないなんてかわいそうだよね」
「そうね、来年の夏は祐一さんが遊びに来てくれるといいわね」
「うん」



 結局祐一が夏に来ることはなかったのだけど。
「ふう……」
「ん、どうかしましたか、秋子さん」
「ちょっとね、昔のことを思い出しただけですよ」
「昔のことですか?」
「ここも祐一さんのおかげで賑やかになりましたね」
「あはは、そうですか」
「そういえば祐一さんが夏にここで過ごすのは初めてでしたね」
「あー、そう言われてみればそうですね。もう少し涼しいのかと思いましたけど。まあ、これはこれでありなのかもしれませんね」
「名雪も祐一さんと過ごすのを楽しみにしていましたから」
 すっかりかき氷に夢中の娘に視線を向ける。髪形も変わったし、身長も全然違うはずなのに、妙にあの頃と変わらない気がする。
「うーん、おいしいよー、やっぱりいちご味は最高だよー」
「……違いに気づいたのかしらね。それともまだ名雪には難しかったのかしら」
 底に溜まった氷はいつしか溶けて液体に変わっている。恋はこんなに甘いとは限らない、それを知っている秋子の表情は慈しみで溢れていて。
「名雪、あまり食べ過ぎてはだめよ」
「いちごっ、いちごっ。お代わりっ、お代わりっ……今何か言った?」
「何も」
 物静かに首を振る秋子に、その向こうで表情の変化を見ていた祐一が青い顔をしていたが不幸にも名雪は気がつかなかった。 



「祐一さん、名雪、ご飯よ」
「わーい。ごはん、ごはんっ……なにこれ?」
「あら、名雪はかき氷が好きなようだから、夕食もかき氷よ」
「えっ……」
 名雪超土下座。
「わははははっ」
 そしてそれを見て笑った祐一も後で名雪に超土下座。このような調子でゆったりと一日が過ぎていく。今日も水瀬家はおおむね平和であった。

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