Actually


 階下でおこなわれている口論を、栞は横たわって聞いている。
 母も姉も、上で寝ている栞の存在を忘れているわけではない。その証拠に、こんな口論がおこなわれるとしても五分と続かないのが常である。いや、あるいは、すっかり忘れているのかもしれない。だとすれば、ふたりの口論が早々に終わるのは、結局この母娘のあいだに相互理解の意思がないということだ。徹底的に戦うことを、もはや無駄だと感じているということだ。だから栞は、口論の終了を、自分への思いやりがそうさせるのだと信ずることにしている。
 姉が母から、妹の無視をなじられる。「あんたお姉ちゃんでしょ」。ひび割れた声が返す。「好きであの子の姉になったわけじゃないわ」――そんな売り言葉に買い言葉の応酬は、確かに早々に切り上げられるにふさわしいほど不毛だ。
 バックグラウンドノイズのなか、栞は身体をおこして窓に歩みよった。ほんとうは屋外に出たかったが、一階に姉も母もいるとなると、忍ぶのはむずかしい。窓にかかったカーテンを開け放つと、ガラス一枚のむこうには、あいもかわらぬ世界が見える。仮に栞ひとりがいなくなっても、なにひとつ変わりない世界だ。としたら栞の存在には意味がないのか――否、と病院で知りあったカトリックの先生は言った。栞は思う、そうかもしれない――ということは、そうでないかもしれない。なんのために生まれたのかさえわからないのだとすれば、カッターナイフが福音ではなかったなどと、誰であれば言えるだろう。神さま? むなしさがさざなみのように頬をゆらせた。
 サッシを開放して栞は直下を見た。屋根があり、そしてそこにはいつも、一匹の野良猫が餌をもとめてやってくる。雪の季節にはなおのことだ。果たして今日もそこにいた。
「いらっしゃい」
 栞は笑顔で歓迎する。猫は甘えてにゃあと鳴く。挨拶などではない。ただ、はやくメシをよこせと要求しているにすぎない。それでも栞は笑顔で、
「こんにちは、元気だった?」
 と、愚かしいことを尋ねた。
 猫は元気などではなかった。
「はいはいご飯ね、ちょっとまって」
 と言って栞が与えたのは、自分が食べたお菓子の残りだった。
『栞』かつて、まだ幼かったころ、こんなふうに猫にお菓子を与えたとき、栞は姉から諭されたことがある。『猫にお菓子をあげちゃだめ』
『なんで?』
『人にはよくても、お菓子なんて猫には毒だわ』――
 まったく昔から、と栞は微笑を浮かべる。分別くさい姉だった。そのくせわりとうすっぺらいのだ。
 いま栞は、毒を、わかっていて窓の下にやってくる猫に与えていることになる。あるいは猫が健康であったなら、たとえどんなにみすぼらしく痩せ細っていてさえ、餓死の恐れがあったとしても、そんなことはしなかったにちがいない。
 その猫は鼻水とよだれで口のまわりを凍らせ、耳に垢をため、目ヤニで目が半分ふさがっていた。毛には艶がなく、ところどころ禿げていた。
 もう、終わる猫だった。
「長くない命だもんね、シオリ」
 それは栞が、その猫につけた名前だった。栞はシオリに語りかける。
「遠くない日に死ぬのなら、別にどうだって、ねえ」シオリに語る。
「あなた、いつ死ぬの?」シオリに語る。
「ダメよ。はやく死ななきゃ」シオリに語る。
 うっとり語る。頬をとろかせ、くちびるを甘くして、だけど瞳だけは雪みたいにつめたい。望むものが得られないのだとすれば、その場にうずくまっている以外、いったい何ができるだろう。
 栞は、シオリに語る。
「――怖いのね」
 そうつぶやいて、てのひらに顔をうずめる。栞の痩せたちいさなてのひらは、骨ばってばかりいて、すこしも心地よくない。
 そのときバックグラウンドノイズが消えた。このあと起こることはわかりきっている。栞はあわてて窓を閉め、しかしカーテンは完全に閉めなかった。わずかな隙間から外を見下ろす。安普請の家がかすかに揺れ、直後、玄関からとびだしてくる香里が見えた。妹に見おろされていることなど、興奮していて気づきもしない。門扉のところで立ち止まり、きれいな靴で何度も門扉を蹴りつけた。そのとき猫が、香里にむかってにゃあと鳴いた。姉ががこちらを見た――栞は胸を鳴らせた。しかし香里は、猫を見たまでだった。一部始終を畜生に見られていたことに気づくと、羞恥と逆恨みで顔を赤くして、
「――猫!」
 するどく叫び、きれいに雪かきされた地面から石をとり投げつけた。不器用な投げ方に石は屋根のへりにあたり、あさっての方向へ跳ねかえって落ちた。それでもシオリは、恐れ、木にとびうつり、どこかへ去った。香里は満足したどころか、かえって苛立ちを募らせたように、濡れて砂利のついた指を癇症にぬぐうと、顔だけを平静に塗り替えて、栞の視界の外へと消えた。
 栞はふたたび窓をあけ、姉もシオリもいなくなっても、何もかわらぬ世界をじっと見つめた。むかいの公園には、立派な楡の並木がある。すっかり葉を落とした冬の楡は、太い幹から何本もの太い枝を生み、そこからいくつもの細い枝を、届かない空にむかって無数に張りめぐらせている。まるで人間の手みたいだと栞は思う。ねじれて、いびつで、あさっての方向へ手を伸ばしているところなんて、ほんとうにそっくりだ。まっすぐ、純粋に求めれば、得られるかもしれないのに。わざわざ自ら逃すみたいに不器用に。そのグロテスクな影を、いったいどれだけの人が願いの象徴だと理解するだろう。
 そのとき栞の頬に浮かんだ儚い微笑は、けっして皮肉などではない。いじけた願い、ねじれた手、できそこなった人の心を担うみたいな楡の大樹が、栞にはほんとうに、いとおしく感ぜられてしかたなかったまでである。





 冬は深まる。栞は新しいひとと知り合い、だけど別れなければならない。しあわせは生の理由ではないのだ。
 いまさら文句など言うつもりもない。未練もない。つめたい刃に福音を思う熱情さえ、とうに消えた。シオリもいない。もうずっと、姿を見せない。きっと、あるべき場所にあるのだろう。それはここではないどこかだ。
 ただ、世界が輝いている。
 栞はもう、なにも望まない。空に手をのばしても、指に触れるのは冷たい雪だけだ。

『栞は……あたしの妹なんだから』
『その夜、本当に久しぶりに、お姉ちゃんとお話しできました』

 それだけで、もう満ち足りている。生きるごとに細くなり、すっかりちいさくなった栞には、そんなことで充分だ。視界が混ざり、とけてゆき、なにもかもがひとつになる。ぐるぐると渦を描く大理石模様が、暗く、明るく、青く、赤く、錆びつき、あるいは清められてゆく。
「ねえ、お姉ちゃん」
「なに」
「――怖いのかな?」
「大丈夫よ」姉は笑って言った。「怖くなんてないわ」
「ほんとう?」
「ええ」
「どうして?」
「どのいのちも終わるから。――あたしも、いつか……」
「うん――そっか。そうなんだ」
 そして栞は、そっと手ばなす。すくなくとも栞にとって、世界でいちばん大事なものを、――ああ、あやまりだった。栞は気づいた。だって大事なものは手ばなしたはずだのに、まだこの手には、なにがしか残っていたのだから。やわらかく、あたたかく、かけがえのない。
 だから栞は、もう、怖くなかった。死の影でさえ、もやはその笑顔を犯せない。





 そして香里は、この街を去る。
 見送りの名雪が、もの問いたげな目で香里を見つめる。やさしい苦笑が自然に浮かび、香里は、友人の知りたいことを答えてやろうと思った。隠すようなことではない。恥ずべきことでもない。悲しくもない。あるいは、さびしいことであるのかもしれないとしても。
「妹のことは関係ないの。ほんとうよ」
 名雪はさっと顔を赤らめた。おそらく尋ねるべきではないことが自分の表情に浮かんでしまったということは、冷や汗のでるような経験である。
「お父さんの仕事のつごうなの。もともとこの家、借家だったしね。いつか、ここから去ることだけはわかってた。それがたまたま今だっただけ」
 北国の三月を冬の終わりと呼ぶのはおこがましい。それでも暦は、さえずる鳥みたいに、せっかちに春を告げようとする。
 いま、香里の心は、友人への感謝に満ちている。友人ヅラをしていながらほんとうに大事なことは何ひとつ告白しなかった香里を、名雪はすべて受けいれてくれた。たとえどんなに呆けていて足らないところがあるのだとしても、なるほどこの少女は、たしかにあの母の娘だったのだ――そんな今さらの発見を、香里は心底うれしく思う。
「ね、香里、連絡ちょうだいね」
「気がむいたらね」
 そんなふうにつっけんどんに答えるのも、だから、無愛想のためではなくて、むしろまったく反対の理由からだった。
「わたしはするからね」
「好きになさいな」
「香里ったら、そんなことばっかり。いいもん、わたし、毎日だって――っくしゅん!」
「風邪? もう冬も終わるのに」
「ううん、ちがうよ。この感じは、」
 名雪は目をさまよわせ、もう香里のではなくなる家の、ひとつの窓の直下にある屋根に、
「猫」
「――猫?」
 果たしてそこには猫がいた。その猫に栞が餌をあたえていたことを、香里は知っていた。知っていたから、その姿を見るとつらくなったものだった。だけどいまは、苦しくも切なくもなく、ただ懐かしさだけがおだやかに満ちてきた。
 冬が深まるとともに姿が見えなくなり、妹とともに他界への舟にゆられたのだとして、なんのふしぎもないはずだった。野良猫にとって、冬を越すのがどれだけ難しいかくらい知っている。まして病気の猫なのに。
 でも生きていた。いま、生きて、屋根の上に立ち、去りゆく香里をじっと見つめている。
「――栞!」香里は、知らず叫んだ。「おいで」
 香里は手をのばす、ほしいものを求めて、なぜそれを栞と呼ぶのか、そんなこともわからないままで――冬枯れの楡のように。
 シオリはあくびをして、その場に丸くなっただけだった。
 手を空に透かせたままで、香里は静かに告白した。
「ねえ、名雪」
「なに?」
「あたし、栞が亡くなったのを、別に悲しくは思っていないのよ」
「え、――」
「ほんとうよ。強がってるわけじゃないわ。悪ぶってるわけでもない。ほんとうに悲しくなんてない、ただ、栞を見てたら、ああ次はあたしの番なんだなって、そう思ったの――そしたら、死なんて悲しくもつらくもなかった。そうではなくて、それは、……」
 あとは言葉にならないまま、香里は口を閉じた。悲しくてもうこの街にはいられないなんて思っていた自分が、まさか、悲しくもなんともないのにこの街を去るなんて。自分でも嘘のようだと思う。あんなにも怖れていた袋小路が、こんなにもおだやかに輝くなんて。
 すとんと音をたてて手をおとし、香里は微笑した。それは自嘲ではない、卑屈でもない、葉を落とした楡の梢にはなんの恥ずべきものもなく、ただあたらしい春を待つだけの、そんな笑顔だった。
 そしてそんな春さえ、いつか終わることを知っている、年老いた微笑だった。
「名雪」
「なに」
「のばした手って、楡の枝に似ていると思わない?」
「――そうかな」
 名雪は呆然と楡を見あげた。それはただ楡だ。名雪の目にはそうとしか映らなかった。ねじれた枝、奇怪な影が、人間の純粋な希求と似ているところがあるなんて、まっすぐな彼女には思いもよらないことだった。
 香里の心は静かだった――静かにこう思った。いつか名雪も気づくのだろうか、ねじれた手でも空を指すには充分なのだと。それとも、ひょっとしたら、自分がちがってしまっただけなのだろうか。香里にはわからない。しかし、自分の知恵をこえた疑問を抱くことが、一体なんのためになるだろう。
 だから香里は別れを告げる。ふたたび会うとき、解答のためのなにがしかが、自分の手にあることを願って。――ああきっと、これもまた、届かぬいびつな願いなのだろう。
「じゃあね」
「うん。バイバイ」
 そして香里をのせた車がゆく。未練を残した速度で離れてゆく。すっかり見えなくなるまで名雪は見送る。やがてその名雪もいなくなる。シオリが糸の目で誰もいなくなった空を見あげたとき、楡のような人の手が、数えきれないくらい空に向けられているのを見て、哀切ににゃあと鳴いた。
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