私は普段お酒を飲まない。酔うとすぐに眠くなってしまうからだ。以前そんな話になったとき、「わたしと一緒だね」と言って名雪はふんわりと微笑んだのだった。あれはいつのことだっただろう。ずっと昔だったような気がする。つい最近だったような気もする。
 時の流れは、私が思うよりもずっとずっと早いようだ。おかあさんおかあさんといつも私の足下に纏わりついていた名雪も、今ではもう立派な大人の女性となっている。それはとても嬉しいことに違いなくて、でも、同時に、少しだけ寂しい気持ちが、確かにあった。

 明日は名雪の結婚式。
 私は、一人、お酒を飲む。












   琥珀色の幸せ













 覚えていることがある。
 お腹の子どものお祝いに、彼がいつもよりずっとずっと高いウイスキーを買った日のことだ。嬉しいお酒が一番美味しいんだよ、と彼は本当に嬉しそうに微笑んだのだった。
 二本買った内の一本を開けて、彼は私にその香りをかぐように言った。疑うでもなく言う通りにした私は、今考えてもあまりに素直過ぎたのだと思う。襲って来た強い香りに涙を浮かべた私を、あの人は楽しそうに笑いながら見ていたのだ。

 そんなことを思い出しながら、私は目の前の蓋を回す。ぎり、ぎり、とちょっと小気味のいい音がした。
 封の開いたそれに、私は鼻を近づけてみた。とても強くて、でもだからこそあの時を思い出させる香り。私は、やっぱりあの時と同じように涙目になってしまった。
 瓶を傾けると、とくとくとく、と小さいけれど不思議と響く音。記憶にあるそのままに、とても懐かしい音だった。私はこの音が好きだった。あの人が新しい瓶を空ける度に、わざわざ近くに寄って耳をそばだてていた。
 用意しておいたチューリップ形のグラスは、あの人がいつも使っていたものだった。ペアになった二つの内、片方のグラス。一人でお酒を飲むのはちょっと寂しいから、少しの間だけ借りることにしたのだ。遠い遠い間接キス。年甲斐も無くそんなことを考えてしまうのは、やっぱり明日が特別な日だからだろうか。

 ねえ、あなた。
 明日は、名雪の結婚式なんですよ。あんなに小さかった名雪が、もう結婚だなんて、ちょっと信じられないことでしょう?
 少し寂しいけれど、でもとてもおめでたいことだから、それにあなたとの約束だから、いつもは飲まないお酒をこうして飲もうと思います。

 両手に持ったグラスをちょんと突き出して、私は見えないあの人と乾杯した。喉に入ったほんの少しのウイスキーはストレートだけあってとても強くて、だから私は咳き込んでしまった。ちょっと涙が出てしまったけれど、それは咳をしたからしょうがないことだった。





 結婚したいと思っています。
 緊張しているのだろう、そう言う祐一さんの表情は普段になく硬いものだった。その隣に座った名雪は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
 とうとうこの日が来たんだな、と私は思った。甥にあたる祐一さんと娘の名雪が恋人同士であることは、もう随分と前から承知していた。祐一さんの口から明確に名雪と付き合っていることを告げられる以前から気づいていたことだった。可愛い娘と甥っ子は、その手の隠し事がとても上手だとはいえなかったから。
 いつかは来ると思っていた。大学を出て無事就職を果たした祐一さんだったから、もういつその日が来てもおかしくないと思っていた。
 我慢しないで、泣いてもいいのよ、名雪。
 祐一さんの言葉を受けて、私はそう口にしていた。
 とても嬉しいことなんだから。我慢しなくていいのよ、名雪。
 もしかしたら、あの時私は少しでも返事を先延ばしにしたかったのかもしれない。今となって、そんなことを思うのだ。
 泣き出した名雪の、その肩をしっかりと抱く祐一さん。不安なんて無かった。この二人ならきっと誰よりも幸せになれると、そんな確信があった。
 幸せになってくださいね、二人とも。
 私がそう言った瞬間、祐一さんは大きく目を見開いて、それからぐっと頭を下げた。
 名雪も、俺も、絶対に、幸せになってみせます。
 祐一さんが頭を下げている間に、私は目じりを拭った。娘にあんなことを言っておいて、でも私は親として小さな意地を張り続けていた。





 グラスの中で琥珀色に揺れるウイスキー。少しだけ口に含んで、ふっと目を瞑る。そうすると自然とあの時のことが思い出された。
 しゃくり上げてぽろぽろと涙を流す名雪。優しく、でも力強く名雪の肩を抱く祐一さん。まるで遠い日の私たちを見ているようだった。私たちが両親に結婚のための挨拶に行った時、あの人もそうやって泣きじゃくる私を抱き寄せてくれたのだった。
 口の中のウイスキーをこくりと飲み込む。喉が熱くなって、同時に鼻がつんとなった。ねえあなた、この飲み方、やっぱり私にはちょっときついみたい。そんなことを考えてみたりして。
 グラスを置いて、ふぅと一つ息をつく。何かおつまみも一緒に買ってくるべきだったかもしれない。あまりアルコールに強くない私だからわざわざ用意する必要は無いと思っていたけれど、こうして実際にお酒を飲んでみると普段には無い口元の寂しさを感じるのだった。
 冷蔵庫に何か残っていたかしら。私は椅子から立ち上がり、すぐ隣のキッチンに向かう。と、その時だった。
 ぎぃ、と木の軋む音。
 振り向いた先には、
「――お母さん?」
 猫の絵の半纏を着込んだ名雪の姿があった。


「お母さんも眠れなかったんだね」
「ええ。でも、ねぼすけさんの名雪でも、眠れないことってあるのね」
「うー。お母さんいじわるだよ……」
 むぅ、と私を睨む名雪。そんな顔は、でも可愛いものでしかなくて、私はついくすくすと笑ってしまう。
 向かいの席に座った名雪の手には、私と同じチューリップ形のグラスがある。今私が使っているものと色違いのそれは、元々、あの人が私のために用意してくれたものだった。
「名雪は、ウイスキー、飲んだことあるの?」
「祐一がね、たまには名雪も付き合えー、って」
「祐一さんが?」
「うん、そうなの。でね、祐一ったらひどいんだよ。私こんなに強いお酒飲めないよって言ってるのに、そしたら、名雪は俺のことが嫌いなんだぁって拗ね出しちゃうの」
「ふふ。祐一さんらしいわね」
 その光景を思い浮かべて、私はまたくすくすと笑う。私の可愛い甥っ子は、小さな頃から好んで名雪を振り回していた。それが彼なりの愛情表現なのだろう。今楽しそうに彼の話をする名雪も、もちろんそのことに気付いていたはずだ。
「じゃあ、注ぐわよ?」 と言って、私は瓶を名雪のグラスに近づけていった。
「うん、お願い。何か、ちょっとどきどきするよー」
 嬉しそうに言う名雪に微笑み返して、私は手に持った瓶をゆっくりと傾ける。今度はとくとくという音が聞けなかったのが少しだけ残念だった。
 ちょっとどきどきするよー。名雪のいう気持ちが分かるような気がした。母と娘、夜中に交わすグラス。本当はそんなことないのだけれど、何となく、二人で少しいけないことをしているみたいだった。
「でも」 と、名雪は呟くように言った。「お母さんがウイスキーを飲んでるなんて、わたし、ちょっと意外だったよ」
 瓶を机に置いて、私は自分のグラスを持った。この子に話すとしたら、それは今この瞬間なんだろうと思った。
「このウイスキーはね」
 手の中のグラスを小さく揺らしてみたりして。
 波打つ琥珀色の向こうに、遠いあの人を思い浮かべてみたりして。
「名雪が私のお腹の中にいるって分かった時に、お父さんがお祝いに買って来たものなの」
 この子が結婚する時にもう一本を空けるんだ。その時はまた付き合ってくれよ、秋子。
 そう言ったあの人は、今ここにいないけれど。
 随分と気が早いわね、なんて笑っていた私は、いつの間にかこうやって名雪を送り出す立場になっていたから。
「二本買って、一本はその時に空けたの。もう一本はずっとしまっておいて、名雪が結婚する時に飲もう、って。ちょっと、ロマンチックでしょう?」
 正面にある名雪の目が大きく見開かれていた。それもゆっくりといつもの目に戻る。柔らかい微笑みが浮かぶ。
「そうだったんだ……」
 名雪は、そっと手に持ったグラスを差し出して。
「じゃあ、今日はお父さんと乾杯だね」
 そんな娘の優しさに、また、私は泣きそうになる。
 片親としての不安。これまでずっと抱え続けてきた。親が一人だけだと、子どもに良くない影響があるのではないか。やはり子どもには父親の愛情が必要なのではないか。
 そんな今まで私の中を離れなかった懸念が、名雪の、たった一言で、全部どこかに飛んで行ってしまった。
「……お父さん、ちょっと寂しがり屋さんだったから。名雪がそう言ってくれたら、きっとすごく喜ぶわ」
「うんっ」
 チン、と二つのグラスが小さな音を立てた。







 娘と二人。これまでの色々なことを思い出しながらのおしゃべりは、いつまで経っても尽きることなんて無かった。
 二人で料理をしたこと。
 買い物に行ったこと。
 運動会の二人三脚で一等賞を取ったこと。
 遠足の時、名雪のお弁当がみんなから羨ましがられたこと。
 恐い映画を見た後一緒の布団で寝たこと。
 名雪の誕生日にけろぴーをあげたこと。
 私の誕生日に小さなけろぴーをくれたこと。
 猫の絵が入った半纏を作ってあげたこと。
 朝なかなか起きられない名雪を毎日一生懸命起こしたこと。
 風邪を引いた名雪におかゆを作ってあげたこと。
 風邪を引いた私に名雪がおかゆを作ってくれたこと。
 名雪が二十歳になった日、祐一さんを交えて三人一緒にお酒を飲んで、次の日三人揃って布団で唸っていたこと。
 結婚したいと思っています、祐一さんがそう言った日のこと――

 思い出はたくさんあって、話したいことはもっとたくさんあった。でも、それが出来る時間は限られていて。
「ねえ、お母さん?」 と、名雪は言った。
「うん?」
「あのね、私、何て言ったらいいか分からないんだけどね」
 俯いた名雪の頬はほんのりと赤く染まっていた。何かを言いかねているように見えて、でも私は名雪の言葉を待つことにした。
 名雪は手に持ったグラスを口へと持って行く。そして、残っていた琥珀色の液体を一息に飲み干した。
 私がその様子を呆気に取られながら見守る中、案の定、こほこほと咽せる名雪。
「な、名雪? 大丈夫?」
「あ、あのね、お母さん、あのね」
 涙をいっぱいに湛えた目で、でも、しっかりと私を見据えて。
「わたしね、お母さんの娘で良かった。お父さんはずっと昔にいなくなっちゃったけど、お母さんと一緒で、わたし、いっぱいいっぱい幸せだったよ」
 耐え切れない。
 親として、この子を支える親として、ずっと、泣かないようにがんばっていたのに。
「ありがとう。お母さん、ずっと育ててくれてありがとう。ずっと見守っててくれてありがとう」
 違うの、違うのよ、名雪。
 それはね、全部、私の言葉なの。
 私からあなたに伝えたい言葉なの。
「――わたしのお母さんでいてくれて、たくさん、たくさん、ありがとう」
 その言葉で、もう、耐え切れなくなった。
 頬を伝う、冷たいような熱いような感触。
 泣いているんだ、と思った。
 とうとう泣いてしまったんだ、と思った。
「わたしね、幸せになるよ。絶対に、今までよりもっともっと幸せになるよ。だって、私は――」
 名雪は、涙で顔をくしゃくしゃにしながら。
 でも、確かに笑顔で。
「――お母さんの、娘なんだもんっ」
 だから私も、笑いかけて。
 涙は止まりそうもないけれど。
 二人一緒に泣きながら。
「幸せになるのよ、名雪。私も、お父さんも、ずっとずっと応援してるからね」
「うんっ」
 頷く名雪に、私はもう一度微笑んで。


















 二人で、もう一杯ずつだけウイスキーを飲むことにした。
 眠るための道具じゃなくて。寂しさを紛らわせるための道具でもなくて。
 まして、涙を流すための言い訳でもなくて。
 ただ、名雪の門出をお祝いするための乾杯をしたのだ。
 あの人の残した琥珀色に、ありったけの、幸せを込めて。

 ねえ、あなた?
 やっぱり、あなたの言う通りでした。
 嬉しいお酒が一番美味しいんだよ、って。
 今この場にあなたがいないのが残念だけど、あなたは、きっと私たちを見守ってくれている。
 ね、そうでしょう?



 明日は名雪の結婚式。
 私たちは、今、世界で一番美味しいお酒を飲んでいる。






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