諸人こぞりて
ジングルベルの鈴の音が遠く、小さく、風に乗って聞こえてくる。
街が赤と緑と白の三色に彩られ、行き交う人々の心に賑やかなクリスマスソングが染みわたる季節。だがその熱気もここまでは届いていない。
街灯の光が石畳を照らし出し、道に沿いながらぽつりぽつりとまだら模様を描いている。整然と並んだ街路樹は夜に溶け込み、その枝に薄く積もった雪だけが、白くぼんやりと浮かび上がっている。
ほかに通行する人もない郊外の一本道。濡れたベンチの脇を通り過ぎたあたりで、祐一は不意に声を発した。
「懐かしいな、この道」
だがその言葉に返答はなかった。隣を歩く少女は歩を緩めず、その視線は足元の石畳の継ぎ目を追いかけている。祐一は構わず言葉を続けた。
「俺がこの街に来た頃だけどな。ほら、あゆって女の子がいただろ。リュックしょった。覚えてるか?」
少女は無言で歩き続けた。腰まで伸ばした髪は黒いツーピースの生地に溶け込み、夜に溶け込んだ。
「初めて会ったときにいろいろあってな。二人でこの辺に迷い込んだんだ。あいつ今、どうしてるかな」
黒ネクタイの先を指でもてあそびながら、祐一はわざととぼけた口調で言った。そのとき、少女の口からため息にも似た声が漏れた。
「今日は、本当にありがとね」
「――ああ」
「きっとわたし一人じゃ、何もできなかった」
祐一は少女の顔を見た。その表情は力なく沈み込み、次の瞬間にも砕け散ってしまいそうな、そんな危うさを湛えていた。
「気にするなよ、名雪。俺たち――いとこ同士だろ」
「……そうだね」
その小さな声は、遠いクリスマスソングに掻き消された。
名雪の母、秋子の葬儀はごく小さな規模で執り行われた。秋子の姉である祐一の母親の帰国が間に合わなかったため、娘の名雪は高校生ながらも喪主としての役目を果たさなければならなかった。
事故から半年という時間は最悪の結末を覚悟するは十分に長かった。だが絶望を薄れさせるには、あまりにも短かったのだ。
「なあ、名雪」
祐一は立ち止まった。何かを予感して、名雪は肩をこわばらせた。
「三人で話し合って決めたことなんだ。名雪にとっても悪い話じゃないと思う」
数歩先で名雪は振り返らずに立ち止まっている。まるで次に発せられる言葉がわかっているかのように、その両手はぎゅっと握り締められていた。
「――俺たちと、一緒に暮らさないか?」
クリスマスソングはフィナーレを迎えていた。一定のリズムを刻む鈴の音がフェードアウトしてゆく。
「なんで、そんなこと言うの?」
前を向いたまま、名雪は祐一に言葉をぶつけた。
「先輩たちと一緒に暮らすって、家を出て行ったのは祐一だよ? 今更そんなこと言うなんて……ひどいよ」
力なく震える声を背中越しに投げつけ、名雪は俯いた。
かすかに聴こえていたクリスマスソングが終わり、無慈悲な静寂は空気までも凍りつかせていった。
そのとき、二人の間に小さな光が舞い落ちた。
「雪?」
祐一は空を見上げた。漆黒の闇はどこまでも深く、予想された白い輝きはその気配すら感じられない。視線を戻した祐一の目の前で、淡い緑色の光が宙を舞っている。
「蛍……?」
その声に名雪が振り返る。
「なんでだよ。今は冬だろ?」
呆然とする祐一の前で蛍はついと宙を滑り、名雪の肩に止まった。その儚い光を愛しげに見つめながら名雪は言った。
「聞いたことあるよ。たまにね、あるんだって。桜の狂い咲きみたいに、水温のちょっとした変化で本来の季節から外れて成長しちゃうことが」
「それにしたって外れ過ぎだろ。冬の蛍なんて」
信じられないといった表情で、祐一はその光に見入っていた。撫でるように指を近づけ名雪が呟く。
「普通、季節外れの虫はすぐ死んじゃうんだよ。この子は運がよかったんだね」
だがすぐに瞳を曇らせ、沈む声で言った。
「――違うよね。運が、悪かったんだよね」
名雪のその表情に、祐一は息を呑んだ。光が失われたその瞳には蛍の燐光が飲み込まれ、別の生き物のように鈍く輝いている。
「お前の仲間はもういないよ。いくら探しても、もうお前はひとりぼっちなんだよ。運が悪かったよね。ほんの少しだけ、間違えちゃったよね」
名雪は祐一に向き直った。その瞳には諦めにも似た光が戻っている。
「わたし、祐一たちと一緒には暮らせないよ」
そして自嘲気味に微笑んだ。
「わたしもこの子とおんなじ。季節を間違えた蛍だもん。場違いだよ」
「……祐一」
呼びかける声とともに、街路樹の後ろから二つの人影が姿を見せた。
「待ってたんですよ。祐一さん一人じゃ説得できないかもしれないって」
「舞。佐祐理さん。実は……」
黒いワンピースに身を包んだ二人の少女は互いに顔を見合わせ、どちらからともなく頷いた。
「ごめんなさい、祐一さん。ここで舞と聞いてたんです。蛍の話も」
「……何かあると思ったから。だから、ここで待ってた」
そして舞はすっと手を伸ばし、暗闇の中を指差した。
「……たぶん、あれがその答え」
舞が指差したのは一本の木だった。うっすらと積もった雪の間から濃い緑色の葉が覗いている。そしてその陰にひとつ、淡い緑の光点がぼんやりと輝いていた。
その光は強く、弱く、ふいごのように明暗を繰り返している。名雪の肩に止まった蛍が呼応するように光を強めた。
「もう一匹、蛍が……」
そこで名雪は声を詰まらせた。
「そんな……こんなことって」
大きく目を見開きながら、目の前の光景に名雪は声を震わせた。
「こんなこと、あるはずないのに。あるはず……」
最初の光の隣にもうひとつ、小さな緑の光点が現れていた。その光はまるで隣の光に話しかけるかのように、ゆっくりと脈動している。それだけではなかった。上のほうにもひとつ、右側にひとつ、左にひとつ――淡い燐光は次々にその数を増やしてゆく。その一つ一つが寄せて引く波のように、心臓の鼓動のように、思い思いのリズムで光を紡いでいる。
「蛍だ。こんなにたくさん」
我に返ったように祐一は言った。
大きな光、小さな光――強い光、弱い光――淡い光、鋭い光――
無数の光の群れは木を覆い尽くすほどに集い、やがて薄闇の中に樹木の輪郭までをも浮かび上がらせた。
諸人こぞりて…… 迎えまつれ……
風に乗って讃美歌が聴こえてくる。とぎれとぎれの歌声は遠く、だがそのメロディーは温かく、氷を解かすように心に染み込んでゆく。
ため息とともに佐祐理が声を漏らした。
「クリスマスツリー……みたいですね」
確かにそれはクリスマスツリーだった。色とりどりのペッパーランプではなく、薄緑一色の小さな光。だがその一つ一つが思い思いに輝きを創り出している。一人静かに点滅する光、遠くの光と歩調をあわせる光、小さな集団で一斉に輝く光――
主は来ませり…… 主は来ませり……
かすかなメロディーにあわせて佐祐理が賛美歌を口ずさむ。すると小さいながらも透き通ったその歌声に導かれるように、名雪の肩に止まっていた蛍がふわりと浮き上がった。その光は目の前で手を振るように二度、三度と往復し、くるりと円を描くと仲間の待つ光の集団へと飛び去った。
「……みんな、待ってた」
ツリーの灯を瞳に映しながら、舞は囁いた。
「……だから名雪もおんなじ」
「違う……わたしとは違う。わたしには、待っててくれる人なんて……」
「ううん、おんなじ」
舞が名雪の言葉をさえぎった。
「……人が困っているのを、苦しんでいるのを、周りの人はほうっておかない。みんなこぞって手を差し伸べる。それが当たり前」
冬の蛍たちを見つめる舞の横顔はどこまでも優しく、穏やかな笑みを湛えている。
「……だから、おんなじ」
子どもに語りかける聖母のようなその横顔に、名雪は在りし日の母親の姿を見たような気がした。
やがて蛍は一匹、また一匹とその木を離れた。周囲には無数の光が飛び交い、辺りを小さな光の粒で埋め尽くしている。そして最後の一匹が飛び立ったとき、蛍たちは上空へと一斉に舞い上がった。
「帰ってく……」
名雪は声を震わせた。
それは光の洪水。いや、命の洪水だった。緑色の光の点は空と地面をつなぐ光の線となり、舞い落ちる雪の軌跡のように、冬の花火のように、藍色の夜空を明るく照らし出した。
ふと、名雪の右手に温かいものが触れた。そしてほぼ同時に左手もまた温もりに包まれる。いつの間にか、舞と佐祐理が名雪を挟むように両脇に立っていた。それぞれが名雪の手を握り締めながら微笑んでいる。
名雪の右手を手のひらで優しく挟みながら、舞は目を細めて言った。
「……一緒に、暮らそ」
あふれ出る涙が蛍たちの光を七色にはじき、夜空に虹を架けた。
「川澄先輩」
名雪はそう呼びかけた。先輩と二人でお話したいから、と祐一と佐祐理を先に行かせ、名雪は正面の舞に真面目な口調で言った。
「わたし、祐一のことが好きです」
舞は黙ってその言葉を聞いていた。
「子どもの頃からずっと好きでした。祐一が先輩たちと暮らすようになった今でも、たぶん、わたしはまだ祐一のことが好きなんです」
寒さのせいだけでなく、頬に朱を散らせながら名雪は言葉を紡いだ。白い息の向こうで、舞はじっと名雪を見つめている。
「それでもいいんですか? こんなあきらめの悪い、嫌な女の子が一緒にいて、いいんですか?」
「……それなら私もおんなじ。私もずっと、あきらめられなかった」
遠い目をしながら舞が言った。だがすぐに口の端に微笑を乗せ、諭すように言葉を続ける。
「……だから、私たちはライバル……ね?」
最後にすこしだけ小首をかしげた舞に、名雪はくすりと笑いながら言った。
「わたし、負けませんから」
いつの間にか、名雪の瞳にはかすかな輝きが戻っていた。それは諦めの光ではなく、ましてや憎悪の光でもなかった。彼女をよく知る人や彼女のいとこにとってごくありふれた、当たり前の輝きだった。
舞はその輝きをまっすぐに見つめ、小さく頷いた。が、すぐに眼をそらして顔を赤らめた。
「……ほんとは、ちょっとだけ困る。ライバルが一人、増えちゃうから」
その言葉に不思議そうな顔をした名雪だったが、すぐにその意味に気づきいわくありげに微笑んだ。
「よかったんですか? 祐一と、佐祐理さんを二人きりにしちゃって」
舞は少し考えるように宙を見つめ、やがて視線を戻すと泣き出しそうな顔でふるふると首を振った。
「……駄目かも」
名雪は舞の手を取り強く引いた。
「行きましょ、舞さん。祐一の浮気を阻止しなきゃ」
そして驚く舞の手を掴んだまま駆けだした。二つの小さな手がしっかりと握られ、体温が通い合う。遠い記憶の中の思い出。その凍りついた時間のひとつが、手のひらの中で解けて消えてゆくような、そんな気がした。
名雪は振り返らずに小さく呟いた。
「よかった」
舞からの返事がないのを確かめると、名雪はさらに声を落として言った。
「祐一が好きになった人が、舞さんでよかった」
舞は、聞こえないふりをした。
少女たちが去り、道は平穏を取り戻していた。
相変わらず人通りはなく、石畳には街灯の白い光だけが流れ落ちている。無数の蛍に彩られたあの街路樹もまた、クリスマスを終えたツリーのように平凡な姿で闇の中に立ち尽くしている。
――いや、その姿にはひとつだけ変化があった。蛍光灯の明かりとも違う、白いやわらかな光がぼんやりと根元を照らしているのだ。注意して見ればその光が地面の下から漏れ出ていることがわかるだろう。その光は呼吸するように明暗を繰り返している。
すると木の枝の隙間からもうひとつ、小さな緑の光が舞い降りた。それは一匹の蛍だった。蛍は根元の白い光に引き寄せられるように地面擦れ擦れを飛び回り、強い輝きがその小さな光を飲み込んだ。地面の光が弱まると蛍は強く、地面の光が強まると蛍は弱く、二つの光はまるで会話をするように点滅を繰り返す。
どれほどそれが続いただろう。やがて蛍はおやすみのキスをするようについ、と一度だけ地面に触れ、そのままゆっくり上空へと昇っていった。左右に揺れながら小さくなる光点を見守りながら、地面の下の白光は眠りにつくかのように弱まってゆく。そして光はやがて消え去り、辺りは再び降り積もる夜の中へと飲み込まれていった。
風が木々の葉を揺らす。その力強く、優しい夜風は街の匂いと賛美歌をこの道へと運んでくる。
いつの間にか、そのメロディーは「きよしこの夜」に変わっていた。
感想
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