この箱庭に雪は降り積む

 もろびとこぞりて、迎えまつれ!
 スピーカーからもれる、割れた歌声。
 クリスマスの季節に、賛美歌が流れる。
 やけっぱちの幸福感と中途半端な解放感と。積もってゆく疲労とどこまでも歩いて行きたい気分と。右へ左へふらつく慣性を楽しみながら、ワザとらしく千鳥足となり、道路の幅をいっぱいにして歩いている。
 男どもで集まって騒いだその帰り。へんにカッコつけてイブを避けたが、何、翌日に用があるヤツなんておらず、勧められるまま呑みかつ喰らい、わずかな仮眠を挟んではまた騒ぎ、日ごろの鬱憤を晴らそうとどうでもいい話をしゃべり続けた。そうやって丸一日、話題も出尽くして、さすがに間が持たなくなり、だらだらと散会になった。居場所もなくなって、こうやって暮れの町をぶらついている。
 吐いた息が、背後に押し返される。
 背中を丸め、いい気分になって歩いていた。鳩のように首を引っ込める。冷めた空気がほてりを奪う。じっとりと頭が重く、残りは逆に浮かんでしまいそうで、せわしない呼吸に肺が痛くなる。目が据わって視界は狭く、どこにも焦点は合わず、街の光景を目の端で捉えている。
 今年は雪の少ない暖冬だ、と町の人は口々に言う。たまに降っても次の雪まで持たず、なかなか積もるとまではいかない。日ごと弱々しい湯気をあげ、本格的な雪の到来を待ちながら、埃をかぶって黒く汚れ、日の当たらない場所に逃げ込んでいる。
 俺がこの町にやってきて、もうすぐ一年がたつ。
 雪の似合う、白い少女と出会って、もうそんなになる。大きな雪だるまを作りたがっていた、一週間だけの恋人と出会って、もう一年が経つのだ。
 明るくて、楽しそうに笑う、元気な彼女だったが、こちらが待ち合わせに遅れたり、何かの拍子に席を外したりしてひとりでいる時、街を眺めて穏やかな笑みを浮かべていて、ああ、彼女に残された時間は本当にわずかなのだと実感することがあった。
 彼女がいまどうしているか、俺は知らない。
 あの日、別れてから一度も会っていない。春を待たず学校を辞めた彼女の姉からは、住所のないはがきが届いた。元気です、といとこ宛に。
 まわりの人間は俺を放っておいてくれた。「いつまでもそんなのじゃダメだ」とか「みんなが心配するだろ」とか説教だか自己主張だか判らないものを打っ付けてくるやつもおらず、毎日はただ静かにすぎた。
 前日はいとこの誕生日だ。誘うべきか誘わないべきか悩んでいるらしい様子に気づいて、先手をうって外に出た。自分がいたら祝いにくいだろう。今日のイブもだからやっぱり外に出たまま。あの家なら誕生日とクリスマスを一緒にせず、どちらもちゃんと祝いそうだ。
 祝いの席に俺は相応しくない。
 こうやって外をうろつくのが、俺のことをそっとしておいてくれた、心やさしい母子へのささやかな恩返しだった。
 クリスマスソングの流れる、電飾と万国旗とで賑わう商店街には、帰宅の早い人並みが、いつもよりゆっくりとした流れで動いている。
 途切れ途切れの会話の断片と笑い声の欠けら。美しい街のノイズ。意味もなく中心もなく、ただばらまかれている、掴もうとしても消えてしまうもの。かすかな日常の揺らぎ。何という目的もなく、ただ漠然とそこにあり、気づかれないまま消えてゆく。
 年末のあわただしさも今日はどこか落ち着いている。道行く人はみな機嫌がよさそうで、町の空気自体に笑いが染みついているようだ。
 余所見をして肩をぶつけても、罵声を放ってにらみつける代わりに、恐縮しあって慇懃に詫びをいう。惣菜を売る店などでも、店主が忙しい手を止めてふだんより三言四言余分に声を掛けてくる。街角の募金箱にいくらかの小銭を奮発して、換わりにもらった羽飾りを目立たない上着の隅に留める。誰もが他人恋しい。
 白黒の街に彩りを添える、暮れ方の店々からの明かり。並んだ街路灯がパースをつけて通りの奥へと消えている。何とはなしに敬虔な気持ちになるパイプオルガンの旋律。よく通るハンドベルのひと振り。歪んだスピーカーと街の雑踏。ちかちかと不自然なテンポで瞬くイルミネーション。満艦飾の商店街。
 赤いちょうちんの軽が歩道に停まり、石焼きいもの路上販売をしていた。時節柄、周囲の空気に配慮してか、じゃがバターなんかを一緒に売っているのが頬笑ましい。
 洋菓子屋の前ではサンタとトナカイが客引きをしている。ふっきったように饒舌なサンタ。仕事だからとおざなりにつきあっている様子のトナカイ。少し離れた場所から、小さな子どもが表情も変えぬままじっと見ている。
 恋人だった一週間の始まりの日、どうせならクリスマスだったらいいと彼女は言った。その時はぴんとこなかった言葉の意味も、いまなら分かる気がする。
 そんな、浮かれた街の一角で、小さな女の子を見かけた。
 裏通りから飛び出しかけて、危ういところで踏みとどまると、慌てて左右の確認をし、振り返ってはやくはやくと呼びかける。遅れて現れた父親の気を付けるようにとの注意も聞き流し、待ちきれないように先を覗きこんでいる。
 肩掛けと大きめのブーツと、童話から抜け出たようなふわふわの装いと。コート姿の父親と手をつなぎ、きょとんとした大きな目を見開くようにして、まだ驚きと発見に満ちているだろう世界に心を奪われている。
 そうやって、やたら急いでいるふうだったのに、いざ通りに踏み込むと興味はすぐ脇にそれ、居並ぶ店々のショーウィンドウに張り付いて、苦笑する父親に見守られながら、クリスマスの飾り付けにじっと見入ってしまう。
 指差したり、うなづいてみたり、両の手を打ち付けたり、わあっと腕を広げたり、ひざを使って全身を揺らしたり、オーバーなアクションで感心しては、背後に侍る父親の同意を取り付けようとする。問われた父親は適当に相槌を打ってみせるが、その声も少女の耳には届かない。凄いね、キレイだね、楽しいね、おいしそうだね、と何度も繰り返すばかりだ。父親は困ったようないとおしいような目付きで少女を見守っている。
 ひとつに飽きればまた隣、じっくり時間を掛けてそのまた隣、歳末の商店街を吟味して、一ブロックほども寄り道したあげく、最初からそこが目当てだったのか、見ているうちに気に入ったのか、やっと目的らしい場所にたどり着いた。
 おとぎの城を模したような派手な装飾。暖かな白熱灯の灯りが煌々とあふれる。店先には、電飾とモールに飾られたガラスの商品棚。ジグソー。縫いぐるみ。模型の飛行機。擬人化された小動物の一家が暮らすドールハウス。いたずら用の小道具たち。ずらりと揃った巻き毛の人形。彩色された陶器の象。浮かべて遊ぶボート。足こぎの自動車。サルの人形がぽかちゃかと太鼓を叩き、ラッパを持った兵隊がいったりきたりしている。壁にはダーツの的とリースとキャンドル。吊るされた巨大な靴下には、しっかり値札がついている。
 クリスマスだもんな、と思う。どこかほっとする光景だった。
 行き交う人もふと足を止め、胸の中に何かを思いだすような懐かしい顔をする。しばらくして、我に返ると、照れ笑いを浮かべたり、見知らぬ人とばつが悪げに笑いあったり、連れの耳に何かささやいて、照れたように肘でこづいたりする。そうして、もう一度、目を細め、頭を振り、どこかすっきりとした表情で立ち去ってゆく。
 俺はといえば、贈り物を渡す相手もおらず、もちろん自分で買う気にもなれず、だけど、立ち去ることも出来かねて、ただじっと店の灯りを眺めていた。
 何度目かのベルの音がして、大きな包みを抱えた女の子が弾むように店を出てくる。もらいたてのプレゼントをしっかりと胸に抱きしめて、満足そのものの顔をしている。
 目が合った。
 視線を外すタイミングを失って、いまさら逃げることも出来なくなり、ばかみたいな顔で棒立ちになってしまう。
 しばらくそのまま見合っていたが、やがて、ととと、と駆け寄ってくると、ごそごそとポケットを探し、はい、と手を伸ばしてきた。戸惑っていると、む、と困った顔をして、握ったこぶしを上下してみせる。何のことか分からぬまま、こっちも手を伸ばしてみる。手のひらに何かを載せられた。女の子がにっこりと笑う。
 また扉のベルが鳴って、会計を済ませたらしい父親が出てくると、女の子は急に興味を失ったようで、一瞬後には翻るようにいなくなってしまった。
 手のひらには大きな飴玉。包装を剥いて口に含めば、甘酸っぱいフレーバーが広がる。
 不審そうな父親に手を引かれてゆく、女の子に大きく手を振って別れをつげる。
 もう二度と会うこともないだろう、ささやかな触れ合い。
 喜びのおすそ分け。
 わけもなく暖かな気分になってくる。
 冷えた空が地面まで降りてきて、並んだ街灯が石畳に淡い影を抜いている。格子の排水路。敷石にチョークの落書き。白く乱れる呼気を押し分けながら、人ごみに乗って商店街を抜けてゆく。小雪がちらつき始めていた。
 今日は奇蹟の降る日だ。
 そして、仲のよい姉妹が他人になったりもする。
 クリスマスに悲しいことがあったから、誕生日までのわずかな時間を一緒に過ごしてくれたんだろう。その代償として。でも、やっぱり俺には荷が重すぎた。今日を一緒に過ごせたら、今度こそちゃんと満足させられたかもしれないが。
 でも、そうだ。
 彼女はハッピーエンドが好きだといっていた。
 今日はフィクションに一番近づける日だ。泣き顔もふくれっ面も似合わない。想像の中でくらいは幸せな結末を見つけたっていいだろう。
 いまごろ彼女はどこかの暖かい場所で身体を癒し、なんていうことのない日常を暮らしている。そして、いつかひょっこりと帰ってきて、「びっくりしました?」と笑いかけてくるのだ。
 きっと、サプライズの贈り物が待つはずの、暖かいリビングを目差して歩く。家に帰れば、素的な贈り物が待っている。暖房の効いたリビングのソファに姉妹で座り、いとこがあれこれと問い掛けるのに彼女は照れながら答え、それを姉がいちいち混ぜ返す。お茶を運んできた叔母がくすくすと笑っている。七面鳥とプディングと大きなケーキと甘ったるいミンスパイと。
 そう思ってもいいじゃないか。
 いつの間にか夜は冷たく、人工的な酔いも醒め、降ろうか降るまいか悩んでいた雪は本格的に振りだすことに決めたらしく、シャーベット状のざりざりした路面の上に、解けるよりも速く降り積もってゆく。
 雪の降るのを見ていると、自分のほうが空にあがっているんじゃないかという錯覚にも捉われる。足もとはふらふらと落ち着かず、道路が揺れているのか、自分が揺れているのか、歩きながら右に寄れたり左に寄れたりする。意識すればまっすぐ歩けるが、揺らぐ世界に身を任せる。スイングする。スウィムする。路面が近づいたり、遠ざかったりする。積もり始めた雪を踏み、その分だけ足裏は地面から離れている。そのままどこまでも雪を越え、やがて灰色の空まで行けるだろうか。
 突然、がくっと視界が崩れ、片足に痛みが走った。
 外界への注意を怠って、側溝に足を落としていた。ひねったひざのあたりに違和感がある。力をいれるとじくっと痛む。
 あーあ、と思いながら、立ち直ろうとする。
 と、電柱の根もとに白い箱を見つけた。
 ひしゃげて雪を被っている。
 ケーキの箱だ。
 この大きさは家族向けのものだろう。
 そこにどんなドラマがあったのか分からない。
 どんな気持ちで買って、どんな気持ちになったか。いまどうしているのだろう、待っている人は。だけど、悲しくなる。崩壊のイメージとかそんなものじゃなく、自分以外に悲しい人がいることに。
 浮かれた街にも、悲しみがあるのだ。
 からだの中から苦しいものがこみ上げてきた。
 忘れていた、涙の味だった。
 引きつるような呼吸になった。
 息をするたび、妙な音が漏れる。
 この一年で溜め込んだ、静かな日常が解け出して、その奥にしまってあった大切なものまでが失われてしまう。不思議なほどの解放感。後ろめたい気持ちを他人事のように眺めている。
 頬が冷たい。タールの匂いのする板塀に、寄り掛かるようにして顔を押し付けていた。
 すべての窓辺に幸いあらんと祈る、今日はクリスマスの日だ。悲しみを忘れ、希望だけを信じていればいい。諦めを通り越した向こう側で、頬に自然と笑みは漏れ、世界は安らぎに満ちている。
 どこからかしゃんしゃんと鈴の音がする。
 雪は静々と降っている。
 サイレントナイト、ホーリーナイト。
 メリークリスマス。
感想  home