あたしは栞が二階から下りて来る所を想像するんだ。紺色の靴下を履いて、フローリングの冷たい廊下を一歩ずつ、たん、たん、たん、と足裏で叩く、くぐもって乾いた足音が規則正しく、あたしの居る部屋から遠ざかっていくのを聞いている。壁についている手すりを小さな手で掴んでいて、移動に合わせてそこに摩擦が生じるんだ。その時に生まれた熱はどれぐらいだろう。その熱は栞の手のひらと手すりに、何対何の割合で残るのだろう。いずれにせよ、それはすぐに冬の寒気や栞の体温に吸収されてしまう。かつてはワニスに覆われていた手すりも長い年月を経てその光沢を失い、表面に様々な凹凸を増やしていたずらに尖っている。それがより大きな熱を生む原因になるのだ。世の中に泰然と存在する自然現象を建前に、栞の手を構成する様々な分子は急速に振動させられ、皮膚から血管、内部組織へと次第に伝播していく。揺れる。血液が揺れる。血漿が揺れる。赤血球が揺れる。収まる。振動が収まる。地震が収まる。性欲が収まる。あたしも収まりたいものだ。収まれ。収まっていく。かな?
 収まっていく。やれやれ、熱というものはよくもまあこう断続的に発生するものだ。この恒温動物め。いつでも生物は、マクロ的視点でもミクロ的視点でも忙しなく動いている。南極がいい。静かなものだ。栞と一緒に南極に行きたい。南極に向かう飛行機はあるだろうか。添乗員が運ぶビーフ・オア・チキンもまとめて、南極点で仲睦まじく生活をすればいい。あたしと栞のように。刺すように冷たい風にくるまれて、あたし達はどんどん静かになっていけるだろう。人間が成長することで落ち着きというものを修得していくように、あたし達は二人して驚異的な進化を遂げる。そしてあたしは栞の、栞はあたしの観測者となって、お互いが緩やかに気品を獲得していくさまを称え合うのだ。裸で抱き合うのがいい。乳房と乳房をぴったりと重ねて、お互いの心臓がゆっくりと静かになっていくのを確認しながら、絶対零度の安寧を夢見てにこやかに貧乏ゆすりをやめるのだ。(BAD END)
 収まらない。途切れることのないあたしの性欲は、とうとうあたしの檻を出てあたしの目の前に現れる。あたしは自分からどれほどの熱量が奪われてそれが形成されたのかを考える。きっと108ジュールほどだ。あたしは初めてそいつを客観視した。そいつはよく知るクラスメートの顔をして、青っ洟を垂らしている。そいつはギンギンに反り返ったナニヌネノを思い切り左右に振り回し、体液を撒き散らす。それは軟らかくあたしの陰唇に降りかかり、7ジュールほど返してもらう。ありがとう。彼はドタドタとうるさく階段を駆け下り、何も知らない栞の前に立ちはだかる。横っ面を張り倒し、暴虐の限りを尽くして栞の熱量を奪おうとする。馬鹿な。あたしは学んだはずなのだが。我ながら倒錯している。破壊は一種の愛情表現だが、命を摘み取ってしまってはそれもままならないだろう。有象無象が共有する空気ごときに、愛しい栞の熱を放散してしまうことはない。どうせなら彼女のマミムメモにナニヌネノを突っ込んで、善がっている方がまだいいのに。散り際にそれぐらいしておいた方がいい。さんざ繰り返した月一の苦痛に見合う代償を、逝く前に堪能したって構うまい。だがもう遅い。開かれた腹腔から覗く臓物に湯気が立っている。この白煙があの忌まわしい病巣を道連れに消えていってるのだとすれば、あたしにとってせめてもの救いになるのだが。(BAD END)
 静けさは好きだが、それもTPOを踏まえてのことだ。あたしと栞の間柄がそうである必要は絶対ではない。いっそ南国へ行こう。眩いエフェクトがかかった太陽の下、椰子の木と海と白い砂浜が一面に広がる殺風景な常夏の島へ遊びに出よう。雪国で育ったあたし達の白い肌を、滑らかな褐色に染めてみたらどうか。生来、泳ぎなどおよそ経験したことのないあたしと栞は海には入らず、もっぱら陸地でこのシチュエーションを楽しむことになる。ボールを使って遊んだり、砂の城を作ったり、物を食べたりする。遊び疲れてしまったあたしは火照った熱っぽい身体を、ミネラルウォーターをぐびぐびと飲み干すことで冷まし、官能的な気分のままビーチで背中を焼き始める。じりじりと注がれる太陽熱はあたしの五体を鈍く突き、鈍く突き、鈍く突き上げる。今ここで両腕を地面に突き立てれば、活発になったあたしの細胞が勢い余って遙かなる跳躍を実現するのではないか。特に髪は熱を帯び、羽根のように浮遊を助けてくれそうだとあたしは思案している。そこに暇を持て余した悪戯好きの栞がやって来て、どこに持っていたのか虫眼鏡を使って熱を集め、あたしのうなじを焦がす。痛みに飛び上がったあたしは眉を吊って怒り、黄色い声を上げながら脱兎の如く逃げる栞を執拗に追い回すのだ。これはいい。ぬるい汗を掻く。肌から粗相をする。笑顔で妹の名前を叫びながら細かい砂の粒子を踏みしめるあたしは、しかし凝縮された紫外線にあてられて癌に罹り、栞と仲良く病院で息を引き取る。(BAD END)
 ナタリの映画を観ている時は、よく粉末のコーンポタージュを湯に溶かして飲む。ポットに水道水を汲んで電源を入れても、氷点に近いほど冷たいからなかなか沸き上がらない。画面に展開していく物語と平行して、あたしはポットも観察していた。地の底からガスが湧き出るような音が段々と大きくなって来るのだ。迫力がある。プラスチックと機械から成る分厚い壁の中で、痛いほど冷たかったはずの水が煮沸される。無数のH2Oが振動の度合いを上げていく。あたしにはそれが見えない。排気口から蒸気が立ち上る。どこに消えていくというのか。やがてポット自身が恐慌を起こしたようにガタガタと前後に細かく揺れ出し、百度になったことを知らせるランプが点灯する。まだ暫くは揺れている。熱を持つものはやはり、何でもマクロ/ミクロの両方で振動するのだ。ニュートン力学と量子力学は乖離しているわけではない。では因果律はどうか。熱を持っているものが遍く振動するというのなら、熱を持つことをやめれば振動せずに済むのだろうか。あたしはポットの湯を流しに捨て、蛇口からコップに水を注いでカルピスを作る。盛大な湯気に塗れながらそれを呷った。ごく、ごくと喉を鳴らしてそれを嚥下する。食道を落ちていく、やや粘り気のある液体の冷えた感触に自然体で耐える。もちろん意味はない。肩の力を抜いてテレビを見やるとスタッフロールが流れている。もう三度目になるか。あたしは外套を羽織り、栞の後を追った。
 病院に着いたあたしは一階の待合室を素通りし、エレベーターに乗り込む。三階まで上がると、痩せた老婆が一人、点滴を引きずって入って来た。会釈をされたので倣って返礼すると、寒いね。暖かそうなマフラーだね。と話しかけられたので、赤が好きなんです。と頓珍漢な回答をした。恥ずかしくなってあたしは五階で降りた。階段で八階まで昇って、栞が居るはずの診察室の前に向かった。入院病棟ではないからといって極端に狭い廊下は、壁沿いに設置されたちゃちな長椅子のせいで一層窮屈に見える。ここに姿がないということは、既に栞は診察を受けているのだろうと思い、あたしはその椅子に腰掛けて待つことにした。室内とこちらを隔てる薄黄色のカーテンが頼りなげに揺れている。老婆に指摘されたマフラーを首から外し、膝の上に置いた。末端が解れている。使い古した証拠だ。幾年もあたしを、冬の外気から守ってくれた防寒具である。熱を奪われないように。熱を身体の内に保っていられるように。何の為に? 生きる為に。そうか、熱がなければ生きられないのだものね。やっぱりあたし達は、年がら年中ごそごそと動き回らないといられないんだね。生きていけないんだね。もっと静かに、不満も言わず、欲も出さず、零とは言わないけど273.15ケルビンぐらいの心積もりでいれば、あたし達はよかったのかもしれないね。でも栞はお母さんに連れられて家を出て、三駅も離れたこんな病院に、毎週三度も通わなくてはいけないんだ。バタバタと動き回って。いいやそれは栞が生きる為に必要なことなのだから仕方ないじゃないか。生きる為に。みんなと同じなんだね。地球だって自分を維持する為に寸分の狂いも許されない道筋の上を走りながら太陽の周りをぐるぐると回っているんだ。つまりこの往復は、栞の公転軌道なんだね。あたしはマフラーを右手にぐるぐると巻いてみる。この螺旋があたしの自転だということにしよう。そしてこれが公転だ。肩を回す。徐々に回転を加速させてみる。関節に僅かな熱を感じる。これか。こういうことなのか。結論が出ないまま暫く続けていると、巻きつけていたマフラーが勢い余って手からすっぽ抜けてしまう。あれ。マフラーの塊がぽすっとカーテンに当たって、そのまま床に転がった。カーテンはゆらゆらと波打って揺れている。振動している。そうか。不思議と得心が行く。役目を終えた右手で顎を摩っていると、カーテンがひらりと外れて落ちた。するとその向こうに看護婦が立っている。彼女は紙製の薬袋のようなものを片手に、少し右肩を下げた体勢で居る。骨が歪んでいるのだろうか。「妹さんなら帰られましたよ」。栞は帰ったのか。何だ、じゃああたしがここに来たのは無駄足だったのか。意味のない運動だった。はて、だけどあたしは栞に会って何をするつもりだったのだろう。思いつかない。ならばいずれにせよ意味はなかったのか。だったら構わないか。あたしは地下の食堂に行ってカツ丼を一杯食べる。案外美味い。再び電車に乗って家へ戻る。帰り道、八百屋で檸檬を一つ買った。なるほど、握ると名状しがたい冷たさを感じる。彼の言っていた通りだ。匂いには興味がなかったのでそれきりにした。家の中に入ると誰も居ない。あたしが家を出た時のままだ。コートをハンガーにかける。そういえばマフラーがない。病院の中で落としたままだったか。もったいない。リビングに入るとテレビがついている。ナタリの映画はとっくに終わっているのに、まだ映像が映っている。栞が映っている。栞はあたしが贈ったストールだけを身に着けて、雪の上に横たわっている。吹雪の所為で時々映像が乱雑になる。一体誰がこんなことをしたのか。これはどこだろう。テレビの真前に座って、ペチペチと画面を叩いてみる。何も起こらない。当たり前の話だ。DVDプレイヤーのイジェクトボタンを押す。トレイが出てきたが何も入っていない。そうしている間にも栞は吹雪に曝されている。時折、思い出したようにもぞりと動くが、瞼は閉じられている。栞、そこで何をしているの? あたしが問い掛けると栞は、カレーが食べたいなぁ、と噛み合わない返答をする。あなたカレー嫌いだったでしょう。あたしは言葉を継ぐ。でも少しだけ興味が出たんです。お姉ちゃんがおいしそうに食べるから。あたしが食べてるのはすっごく辛いやつよ。あんたには耐えられないと思う。じゃあ、すっごく甘くして下さい。お砂糖と、蜂蜜と、シロップをたっぷり入れて。そういう発想が料理を不味くする原因なのよ。あんたは大人しく、好物のバニラアイスでも食べてなさい。栞はむくりと起き上がり、栞を映しているフレームの外から何かを持ち出して、また元の場所に腰を下ろす。バニラアイスと木のスプーンだ。「いただきます」。栞はアイスを大きく一掬いし、口の中に収める。それを歯を使わずに舌と上顎で押し潰して食べている。「寒くないの?」。見ているだけで凍えそうになるが、栞は平然として次々にアイスを口に運んでいる。「まだまだ」。栞は二つ目のカップに手をつける。さっきと変わらないペースでがつがつと食べる。三つ目。四つ目。あたしも何だか、食べたくなってきてしまった。「あはは、それじゃさっきと立場が逆ですね」。栞は意地悪を言う。「バニラアイスに七味唐辛子なんてかけないで下さいよ」。あたしは苦笑して、そんなことしないわ、と言った。栞も笑って、「じゃあ、はい。あーん」とアイスの乗ったスプーンをこちらに向かって差し出してくる。その唐突さと気恥ずかしさに少し躊躇していると、再び栞が「あーーん」と言ってどんどん迫ってくる。あたしは意を決して生唾を呑み、大きく口を開けて舌を突き出し、それを舐め取った。ブラウン管の味がした。(BAD END)
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