―――夜遅く。


皆が寝静まった水瀬家で、祐一は必死に睡魔と戦っていた。
崇高なる――と彼は思っている――目的のために、缶コーヒーを買い溜めたほどだ。
が、コーヒーも飲みすぎれば今度は満腹による眠気に取って代わる。
そのあたりを考えないあたり、やはり彼は行き当たりバッタリの性格なのかもしれない。

だが眠ることは出来ない。出来や、しない。
ここで眠ってしまえば、朝になって自分は後悔するだろう。
己に課したハードルは高く、厳しく。
だがその向こう側にはきっと新たな世界が待ち受けているはずだ。

そんなことを考えながらコーヒーを胃に収める祐一は、とうに壊れてるのかもしれないが。








教えてあげません♪







それはある一言から始まった。


「俺は知りたいんだ」


無論、それで何が分かろうはずもない。
突然発言した男の従兄妹であり仄かに想いをよせている少女―水瀬名雪はただ首を傾げるばかりだ。
同級生でもある美坂香里、北川潤も目を開いて首をかしげている。
いきなりなんだろうか。というか何を知りたいんだろうか。
相変わらず祐一の言うことは突拍子もないなー、なんて思いながら箸をAランチに伸ばす。
その視界の隅にイチゴムースが2つ3つ重なっているのは目の錯覚だろう。きっと。
この少女が無類のイチゴ好きであって、なおかつイチゴムースを半ば強制的に目の前の男から奪ったとしても、
それは今回の話とは何ら関係ない。


閑話休題。


「なぁ、みんなだって気になるだろう? 秋子さんの最大の謎、あのオレンジのジャムの材料が!」


「ゆ、祐一っ! お昼ごはんの時にその話は極悪だよっ!」


慌てた拍子にイチゴムースが崩れて転がる。が、今の彼女にはそんなもの目に入らない。
普段ならありえない光景だろうが、彼女の頭の中には今やオレンジの悪夢しか映っていないだろう。
何せ数日前に自分自身でその威力を味わっているのだ。
他ならぬ、彼女の寝坊によって。

ガタガタ震えながらテーブルを掴む名雪に対し、祐一は特に気にした風もなくスパゲッティを食べる。
言うまでもないが、香里は平静を装いながら震える手でスプーンを動かしているし、
北川は何も知らないがゆえに興味津々で耳を傾けている。


「で、だ。唐突かもしれんが、アレの材料を俺は知りたくなったんだ」


スパゲッティを腹に収めた祐一がそう言うと、名雪は半目で彼を睨む。
この男は何を考えて発言してるのか? そういった意味が多分に含まれる視線だった。
それほどまでに無謀な発言であることは、彼だって分かっているはずだろう。
あの存在そのものがタブーであるというのに。


「俺が思うに、あのジャムは朝方。それも4時から5時くらいの早朝に作られているはずだ」


「……どうして?」


あまり乗りたくない話ではあったが名雪は聞いてみた。
実のところ名雪自身も悪夢の正体を知ってみたいという欲求があったのかもしれないが。


「名雪が絶対に起きてこない時間だということだな。まぁ、こんな時間に名雪が起きたら、その日は真夏日だろうけどな」


一言多いよ祐一。そう名雪は思い、Aランチを食べ終わってイチゴムースを掴む。
笑顔がやけに際立っていたのも、ムースの容器がすこし変形して見えるのは気のせいだと思いたい。

無論、この時点で名雪は祐一の言った言葉が実行されることはないだろうと思っていた。
彼女からすれば母親である秋子の目を掻い潜って行動するなどほぼ不可能。
第一、祐一が言ったとおりその時間に自分が起きられるわけがない。悔しいが事実である。
さらに言えば祐一だって朝に強いわけではない。
つまるところこの計画を知っていて実行出来る人間は、水瀬家には存在しないわけだ。

が、学年始めの日にデカデカと「有言実行」と書いた祐一のヴァイタリティーは彼女の予想を裏切る。


「要は起きられないなら、寝なければいい」


単純なようだが、彼女にとっては天地がひっくり返るくらいの難業だ。
悲しいが自分の睡眠時間の必要性を知っているかぎり、胸を張って無理だと言える。
無理やり、何かしらの方法を使って起きていたにしても、その後が怖い。

つまり実行は祐一一人によるもので、サポートなどは一切なし。


「頑張ってね」


哀れみを幾分か篭めた目でそう言う。
どういうわけか彼に死相が浮かんでいる気もするが、名雪は鮮やかにスルーしてみた。

明日から祐一が祐一じゃなくなっても、私は祐一の味方だよ……。


「やってみせるさ……この命にかけてもな」








徹夜とこの後に待ち受ける運命のどちらに命をかけるのかは分からないが、祐一は空になった缶コーヒーを捨てる。
これで大丈夫、まだ俺は頑張れる。
と、何度目かの睡魔に打ち勝った瞬間、何か物音が聞こえた。


「……?」


耳を澄ましてみるが聞き間違いではない。階下から微かに音がする。
何かが当たる音、さらに金属の擦れ合う音。

眠気など一気に吹っ飛んだ頭で彼は行動を開始する。


――ぬかるなよ、相沢祐一。お前は今から史上最大のミッションを遂行するのだ。


自分に言い聞かせ、抜き足差し足忍び足。
階段が軋まぬよう重心移動には細心の注意を払う。
部屋のドアは閉じて音が立たないように、やわらかい布で対処してある。
残る問題は、リビングに通じる扉が開いているかどうか、だ。
この日はわざわざ深夜番組を見る振りをして最後までリビングに残った。
もちろん、リビングの扉を開けっ放しで二階に行くためだ。
ジャム作りに来た際、秋子が閉じてなければ問題はないのだが。


――オッケー。全て我が計画通り。


階段の脇から扉の方を伺うとしっかり開いており、その向こうから光が漏れている。
そしてふんわり漂う甘い香り。柑橘系だろうか。
それはともかく、これで確信できた。秋子が今、キッチンでジャム作りをしていることが。


高鳴る胸を抑え、足音から呼吸までも注意して進む。
相手はあの完璧超人とまで噂される叔母である。細心に細心を何乗しても物足りないほど、注意をしなければならない。
もはや気持ちだけは闇と、空気と同化する勢いで祐一は進んだ。

開かれたままのドアをくぐり、キッチンからはソファーによって隠れる場所へ。
ゆっくり、顔半分だけを覗かせてキッチンを見る。


そして祐一の視界に入る、見慣れた背中。
淡い色合いの寝巻き、いつもとは違いほどかれた髪。
その手に握られた調理器具が踊るように動く。

その向こう側にあるまな板と、その上に置かれた――


「ふふふ。夜更かしは体に毒ですよ?」


瞬間にして凍りついた祐一。
背を向けたまま謎のプレッシャーを放つ叔母は、ゆっくりと振り向いた。
半身になったことでまな板の上の物体があらわになるのだが、悲しきかな、祐一にはそれを視界に捉えても認識する余裕がない。
今祐一に見える光景は、叔母がおたま片手に微笑んでいる映像だけである。
そこだけがくっきりを浮かび上がるように映り、逆に周囲は全て霞みがかったようにぼんやりしていく。

やばい。これは非常にやばい。
というか言い訳ができない。

0.2秒で思考し、0.1秒で止める。
任務失敗。その四文字が脳裏を駆け巡る中、硬直した祐一に秋子がそっとつぶやいた。



――新しいジャムが出来そうなんです。試してもらえますか?













朝はやってくる。どこにいても、朝はやってくる。
例外に漏れず、水瀬名雪嬢はのんびり目を覚ました。

珍しい。自分が一人で起きるなんて、従兄妹の少年がこの家にきてから数えたら何度あることか。

ゆっくりパジャマのまま部屋を出る。
幸い今日は休日。今が昼だろうが夕方だろうが問題はない。少なくとも、彼女にとっては。


「あら、名雪おはよう」


やんわり微笑んだ母が出迎えてくれる。いつも通りの日常だ。
だが、一つ違うのは悪戯好きな少年の姿がない。
いつもなら「休日だからって寝すぎだろう」と言われるのに。


「あれ? お母さん、祐一は?」


そう言うのと同時に、名雪は視界の隅に何かを捉えた。
テーブルの上に秋子が置いた瓶。

そして、床にほんの少し残っているオレンジ色の液体。


「えっと、寝てるんなら、私起こしてくるねっ」


いつものぽやぽやした頭ではなく、妙に冴え渡った頭で考えることコンマの世界。
ともすれば100mを7秒で駆け抜けるほどの勢いでキッチンから退避しようとする。


「あら、先に食べちゃいなさい」


振り向いた先にはいつもの微笑みを見せる我が母。
しかし逆らいがたいプレッシャーを感じるのは気のせいか、と名雪は冷や汗を流す。
あえて床から目を逸らし、テーブルにつくと目の前にトーストと目玉焼き。
大好物のイチゴジャムもあり、迷わず手に取った。

トーストにこれでもかっと塗りたくり口に運ぶ。
そう、トーストにイチゴジャムがいっぱいあればもうジャムを塗る必要はない。
というかトーストがなければジャムを食べる必要性がない。
普段からその勢いであれば祐一が喜ぶであろう――凄まじい早さでトーストをかじる。

焦っていなければ、名雪はいつものイチゴジャムとは見た目が少し違うと感じたかもしれない。
だが――気付くより早く意識が遠のく。


「そうそう、名雪。一つ言い忘れてたけど」


そこから先の言葉を名雪は覚えていない。
が、断片的に耳に入った気はする。




――イチゴジャムが切れちゃったから、その瓶に新しいジャムを――




その後、休日明けには二人は何事もなく学校に顔を出した。
だが、祐一と名雪はジャムの材料の話をしたことは覚えてなく、休日をどう過ごしたかすら記憶にない。
北川に問われても「お前は何を言ってるんだ?」としか答えない。
さらに言えば、そのことを二人自身が不思議に思ってなかったそうな。




そして今晩もまた、秋子はキッチンで腕を振るう。
時々こうしてつぶやきながら。


「知らないほうがいいことも、あるもんですよ」



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