「十月八日、日曜日。空は気持ちいいくらいの秋晴れです。今日は水瀬家の皆でデパートに来ています」
「誰に解説してるんですか?」
 駅から歩いて15分の位置に、全国的に有名な大型店舗が開店したのはほんの一週間前の話だった。守口市商店街は強力なライバルが現れたことで随分と泡を食ったようである。自営業者が一介になって『大型店舗誘致を白紙に戻せ!』『行政は地元産業の保護を!』のキャンペーンを打ち立てたのも記憶に新しいが、一介の消費者の側からすれば買い物の選択肢が増えただけのことで、暢気なものだった。
「あゆちゃん、真琴ちゃん、はぐれないでね」
「真琴を子ども扱いしないでっ。あゆあゆじゃないんだから」
「ちょ、それは酷いよ真琴ちゃん! ボク一応真琴ちゃんより年上なんだよ」
「へへへ、真琴の方が背が高いもーん」
 うぐぅと言いながらぴょんぴょん跳ねるあゆだった。そのまま真琴とけんかになる。あらあら、と秋子さんがそれを見ている。祐一と名雪は苦笑いしながら顔を合わせる。
「一応外なんだから、あんまりはしゃぐなよ」
 祐一があゆの、名雪が真琴の襟をつかんで、ネコの子をつまむように引き離した。凶暴なネコの子なので当然のように反撃が来たが、リーチが短いネコの子なので全く当たらなかった。
「ネコ……」
「あうーっ、なんで抱きしめるのよぅ……」
 真琴が暴れた。しかし名雪は止まらない。後ろからきゅっ……と優しく真琴の髪に鼻をつけた。ねこみみ、とか言いながら真琴の耳に吐息を掛ける。あ、と声を出して真琴の動きが鈍くなる。名雪の白い手が真琴の撫で肩を滑り落ちていく。あゆと祐一がドキドキしながら見ている。
「ゆ、祐一君もああいうふうにしてくれないかな」
「だからここ外」
「了承」
「なんでですか!?」
 秋子さんは何が楽しいのか、最近よく色々なことを了承するようになった。月一の外食とか、祐一とあゆを同じ部屋に住ませるとか、祐一のめくるめく女装癖とか。
「最後のはない、決してない」
「白ロリと黒ロリならどっちがいいです?」
「いい加減にしてくださいよ。早く行かないと時間が勿体無いですよ。ほら、あゆも行くぞ」
 だがあゆは動かない。
「あゆ?」
「え、だって、秋子さんの了承が出たんだし」期待に満ちた瞳。
「……」
「ね、早くっ」
 祐一はあゆの両脇に手を入れた。「うわ、いきなりそんなところ……(ドキドキ☆)」とうろたえるあゆを見ながら、祐一はゆっくり腰を落とす。
「ゆぅいち、くん……」
「あゆ……」
 あゆは目を閉じた。祐一君になら何をされても平気だよという顔だった。祐一は優しく笑顔を作りながら思い切り腰を突き上げた。バネを活かした祐一の背筋が跳ね上がり、あゆの身体が宙を舞った。

 ☆ ☆ ☆

「……祐一君のばか」
 後頭部に巨大な絆創膏を貼り付けたあゆが、秋子さんの後ろに隠れている。
「愛があるなら人の目なんて気にならないはずだよっ。祐一君はボクのこと愛してないんだ」
「違う、あれは愛情表現なんだ。ああいうの好きだと思って」
「彼氏にバックドロップされて喜ぶ女の子なんていないよっ!」
「私的に了承」
「秋子さん!?」
「冗談よ」
 秋子さんがにっこり笑う。「それで、最初は何処に行くの?」
 二階は女性用ファッションとインテリアのフロアで、名雪と真琴が連れ立って秋物の服を見に行った。「あゆちゃんは行かないの?」と秋子に尋ねられ、「うん、祐一君、困りそうだから」と答える。
「俺は別に平気だけど」
「下着売り場とかあるんだよ?」
「……無理だな」
「それじゃあ、ここから別行動ですね」
 秋子さんが意味ありげに笑っていた。「四階にアミューズメントフロアがあるらしいから、楽しんでらっしゃい」
「秋子さんは?」
「そうね、久しぶりに名雪たちと、女らしいことでもしようかな」
「浪費するんですか」
「節度は弁えていますから、安心してください」
 にっこり笑う。主婦がそういうふうに言うと非常に説得力があった。
「さて、俺たちはどうする?」
「……女らしいこと?」
「俺は男だぞ」
「じゃあ、祐一君は男らしくしていればいいよ」あゆが笑う。「で、ボクと並んで遊びに行くの」
「つまり、デートか」
「デートだね」
 祐一は苦笑した。そのつもりだったが、誰が見ても照れ笑いにしか見えない。


 四階にはゲームセンターと雑貨屋が入り混じって、随分と騒がしい状況だった。ゲームセンターはトラウマだったので祐一は意識的に避けた。その袖を引くあゆの目はクレーンゲームに向かっていたので意地になって無視した。
「あゆは、もう慣れたか?」
 振り返るあゆは笑っている。
 その言葉の意味を、祐一とあゆは共通認識として持っている。
 夢から覚めた彼女の暮らしについて。また、突然増えた家族について。
「不思議な感じだね。幸せだと思う。まだ慣れたとは言えないけど……」
「嫌かな」
「そんなことないよ」穏やかに笑う。「秋子さんは優しいし、名雪さんは綺麗だし。真琴ちゃんはちょっと意地悪だけど、それは祐一君のせいだし」
「なんで俺だよ」
「自覚ないんだ?」
 二人は雑貨屋を流して歩く。擦るとカレーの匂いがする消しゴムや、ケツ穴から内臓の飛び出したカエル君や、モヒカンにされたウシ君が並んでいる。祐一はネコ耳のカチューシャを手に取った。
「祐一君はちょっと鈍感だと思うな」
「何だよそれ」
「女の子の気持ちを、もっと汲んであげて欲しいってこと。自分がもててるって事、知らないでしょ?」
「ありえないよ。それに、もし俺がもてるとしても、相手はお前だけで、十分、だ」
 祐一があゆにカチューシャを載せた。それはガラスの靴のようにぴったり嵌った。おおと祐一が感嘆を漏らした。
「祐一君……」
「似合うじゃん」
「あんまり嬉しくないなぁ……」
 困った顔をしながら、あゆは手近な鏡を覗き込んだ。
「あ、可愛い」
「な?」
「うーん、でも、これは付けて歩けないよ。恥ずかしい」
「そうだなぁ。諦めるか……」
「……」
「……」
「……欲しいの?」
「……うん」
「……まあいいけど」
 あゆはやや困った顔をして買い物籠にネコ耳を仕舞った。
「……ちなみに何目的?」
「……いや、ギャグのつもりで」
「……そっか」
 しばらく無言のままで歩く。



「ねこっ!!」
「きゃああああああ!?」
 名雪にせがまれ、あゆのネコ耳姿を見せたのが失敗だった。名雪はあゆにべったりくっついて離れようとしない。嫌がるあゆに頬擦りしながら幸せそうに囁いている。きゅーん、ねこねこー、わーたーしーのーねーこーさーん。
「わたし、あゆちゃんのネコ耳姿でご飯三杯は食べられるよぉ」
「危ないこと言ってないで早く食え……」
 昼食はイタ飯である。料理は随分美味である筈なのにやけに食が進まなかった。
「あゆちゃん、わたしのおっぱい擦っていいよ」
「吸うんじゃないの!? いやどっちにしても危険だけど!?」
「さ、さすがにヤバイな……。秋子さ」
「了承」
「だから何でもかんでも了承するのは止めてくださいッ!」
 ドキドキしながら見ているのは真琴もである。目を合わせない振りをしながらチラ見しているのは間違いない。
「お前も止めてくれよ」
「あと五分……」
「五分も続くのこれ!? くっ、このままだとあゆが危険だ。俺は無理やりでも止めに入るぞ。後ろからそーっと近付いて名雪をあゆから引き剥がすぞ。せぇ……のっ」
 ズバッと引き剥がす。


 その時水瀬名雪は月宮あゆを弄ることに夢中で、背後の気配に気付くことはなかった。引き離された瞬間、彼女の身体は軽々とあゆを離れ、余った慣性は祐一のバランスを崩すための十分なエネルギーを保持していた。
 どたん……と激しい音がする。名雪はその一瞬だけ気を失っていたが、すぐ我に返った。床に仰向けの名雪は反転した視界の中で朦朧とする。わたしは何をしていたんだろう、何かとても気持ちのいいことをしていたのは覚えているんだけど、眩む頭がふと気付く。自分の胸の辺りに重たいものが乗っている。人の頭だ。太腿の辺りにも何だか変な感触がある。ほのかに熱いものが押し当てられていて、それは鼓動のように動いている。何かとても気持ちのいいことをしていたのは覚えているんだけど。言葉がタイプライターの文字列になって頭の中を流れていく。気持ちのいいことをしていたのは覚えているんだけど。気持ちのいいことを。頭が顔を上げる。見慣れた顔。そうだそれは


 その時月宮あゆは水瀬名雪から逃れることに夢中で、背後の気配に気付くことはなかった。引き離された名雪の身体は斜め真っ直ぐに床に落ち、あゆの身体は自由になる。やだ、ボク、どきどきしてた。あゆは咄嗟に両頬に手を当てて確かめる。そこには異様なほどの熱量があった。おっぱい吸っておけば良かったかな。二度と出来ない体験だし。明らかに錯乱している。そういえば祐一君に抱きしめられたときよりも柔らかくて素敵な感触だったな。お肌もすべすべだったし。いい匂いがしたし。だめっ、ボク何を考えているの。危険だ。なんだか危険だ。脳内エマージェンシーが鳴り響く。そういえば名雪さんはと床を見る。名雪さんに男の人が取り付いている。男の人の身体はピクピクと痙攣している。名雪さんの胸に顔をうずめている。ピクピクと痙攣している。彼の背になって見えない位置に名雪さんの下半身がある。陰になって見えない。ピクピクと痙攣している。男が頭を上げる。見慣れた後ろ頭。そうだそれは


「ゆ、ゆ、祐一のばかぁぁッ!!」
「祐一君のヘンタイぃっ!!」
 目覚めた瞬間、前後からの謎の衝撃を受け、彼の意識は泥に沈む。


 ☆ ☆ ☆


「頭痛い」
「ごめんなさい……」
 額と後頭部に巨大な絆創膏を貼り付けた祐一が、秋子さんの後ろに隠れながら歩いている。
「俺が名雪を襲おうとしたって? 馬鹿言うなよ。俺がそんな男に見えるのか?」
「見えません。ごめんなさい」
「少なくともそんな甲斐性があるようには」
「黙れ名雪。……第一、俺はあゆ一筋だ。あゆ以外の女なんて知りたくもない」
「え、ゆ、祐一君?」
「あらあら」
「わ、恥ずかしいこと言ってる。殴られて素直になったのかな」
「……(横目でチラ見)」
「ああこの際だから言っておくが俺はあゆが大好きだ。大好きだーっ」
「わーっ、たくさん人がいるのにそんな大きな声でーっ」
「了承」
「秋子さんっ!?」
 あゆは兎のように祐一の周囲を飛び回る。「あの、違うんです違うんです、この人頭打ってちょっとおかしくなっててーっ」なんて叫んでいるあゆは、そんな自分のせいで余計に注目が集まっていることに一切気付かない。増してやネコ耳。
「小柄なあゆが大好きだー。肩まで伸びたやぁらかい髪が大好きだー。風呂上りにちらりと見える細いうなじが大好きだー。抱きしめたときの折れそうな身体が大好きだー」
「と、と、止めてぇっ!!」
「え、何で止めないといけないの?」
「真琴も最後まで聞きたいな」
「秋子さ「了承」ちょっとぉぉっ!?」
 人々がなんだなんだと集まってくる。尚更あゆは必死になる。悪循環が広がって行く。
「ゆ、祐一君」
「自分が悪いときにはすぐ謝れるとことか、他人のために平気で自分を犠牲にしやがるとことか、寂しがりやのくせにいつも笑ってるところとか――」
「……」
「たった一人で、七年間も、生き抜いてきたお前のことが」
「……」
「聞いてるか? 俺は、お前が大好きだよ、あゆ」
「……祐一君」
 きらり、きらりと……夕陽が光っている。巨大な橋の下の豊かな流れに反射して――それは淡いきらめきだった。風が吹くたびに位置を変えて揺れる不安定な宝石だった。まるで人の心を映したような――だから水面は鏡のように見えるのだと。
 それならば、人の気持ちは、人の愛は、この川のように揺らぎ続けるものなのか?
「あゆ……」
「祐一くん……」
 しかし、いまや祐一は秋子の陰を離れ、その身ひとつで月宮あゆの前に立つ。どれだけの痛みを受けるとしても、それを耐え抜くほどの覚悟が彼の中に凛として在るのだ。
 誰もが息を潜めている。一切の雑音を許さぬ神々しさがこの空間で曇っている。
 あゆは祐一の眼前に進む。夕陽を受けて二人が霞む。あゆは小さな身体と小さな両手をゆっくり伸ばしていく。祐一は少しだけ背を屈めて、愛する人を優しく見つめる。
 風が、吹いた、その瞬間に。
「そんな恥ずかしい台詞、こんなところで言うもんじゃない――――ッッ!!」
 祐一の身体が木の葉のように舞った。
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