序

 子供の頃、夏になるとよく自宅のベランダから星を眺めた。住宅が増え、街灯や店の灯りが深夜でも街を明るく映すようになって、視界に入る星の数も減ったのだろうか。今では僅かに星座を形づくる数個の星しか発見できない。それでもなお夜空を見上げれば、僕の脳裏に満天の星空が鮮やかに蘇る。
 宇宙はかつて、高温・高密度の小さな密集体だったと考えられている。ビッグバンと呼ばれる大規模な爆発によって無の状態から発生した宇宙は、それから膨張しつづけているという。ハッブルは銀河の後退速度を観測して、距離が遠い銀河ほど大きな速度で僕たちから遠ざかっていることを発見した。膨張のスピードは光より速いのかもしれない。だから宇宙の果てと言うものがもしあったとしても、僕たちにはそれを観測することができない。相対的にみれば、僕たちが宇宙の果てであるとも考えられる。
 星空を眺めていると、漆黒の宇宙へ吸い込まれるような錯覚に陥ることがある。何でも物質が存在するとその周りの時空を歪め、その歪みが重力となって各点に加速度系を引き起こす。歪みの中を、物体はそれぞれ最も直線に近い運動をしようとする。だから地球などは自然に太陽を回る軌道を描くことになるし、光の軌跡も重力で偏向を受ける。見上げる夜空に瞬く星は、現在、そこに在るとは限らない。僕たちが見ているのものは、時間を、空間を、様々な干渉を超えて届けられた姿の一瞬でしかない。
 ――もし本当にそうであるなら。僕たちが目にしているもの、そして信じているもの、そういったもの全てが、ぐるぐると巡る何時か何処かにあった記憶なのかもしれない。



 1.
 
 光が眩しい。ここは何処なのだろう。なんだか大きな野外ホールに僕は座っている。しかし楽しんでいる訳でも、そこに居たいとも思っていない。ただ何かを待っている。周りには誰も居ない。一人きりで空を見上げる。真っ青な夏の空、ひっそりと静まり返った観客席。手入れの行き届いていない芝生。堅いベンチに座って待ち続けている。
 だが、いったい何を。僕らしくないことだ。それでも気分は良い。自分にそんな感情があったことを我ながら不思議に思う。何かを待っている、誰かを?
 ふと視線を上げると、空からゆらゆら降りてくる。僕は何故か興味をもって手を差しのべた。ゆらゆらゆらゆら。風に舞いながら、じれったいほどゆっくりとこちらに向かってくる、青。青い、服? よく晴れた空にも映える青。僕には何と呼べば良いのかわからない。ふわりふわりと、儚げに、物憂げに。風に翻弄されながら、ひらひらと舞い続ける青。指先に触れたと思った瞬間――今日も目が醒めた。

 ベッド脇の灯りを点けて、時計を見る。午前4時20分。受け入れたくない時間だった。早朝、外はまだ薄暗い。何度も見た夢。この夢を見た時は、決まって変な時間に目が醒める……。登校するにはあまりにも早い。もう一度寝直すか。
 目を瞑ってみるが、足りないはずの睡眠への欲求は起こらない。完全に目が冴えてしまった。少し早過ぎるが、散歩がてらいつもの店で朝食でも食べて行くとしよう。そう考えてベッドから起き出し、身支度を整える。といっても特に身だしなみに気を付けている方ではないので、寝癖のついた髪を直して制服を着るだけだ。
 足音を忍ばせて一階へ下りて顔を洗い、歯を磨く。別にやましい事がある訳ではないが、父親に見つかると煩わしい。できれば顔を会わせたくないし、話もしたくはない。向こうも避けていることに気付いているのだろう、毎日のように朝早くから家を出ても何も言わない。何故、あんな男と二人きりで食事をしなければならない理由があるんだ。

 鞄を持って家を出ると、まだ薄暗い空に金星が儚く輝いていた。



 2.

 二十分ほど歩き、小さなこの街の駅前で一軒だけ24時間営業しているファミリーレストランへ入る。店内にあまり客は居ない。奥の窓際の席が、自分の定位置になっている。向かい合わせになった4人掛けのテーブルに独りで座ると、話をしたことはないが見慣れたウエイターが注文を取りに来た。
「モーニングセットB」
 メニューも見ないでそう伝える。もともと朝のセットメニューは限られているし、ほとんど毎日来ている身なので一々考えることもない。いつも同じ物を食べている気がして自分の生活に疑問を感じることもあるが、仕方のないことだ。食べる前から味が解っているのも、濃い味付けに喉が渇くのも、そういうものだと諦めている。
 たまには子供の頃のように家庭的な手料理を食べたいと思うこともある。芋の煮っ転がしや、魚の煮付け。いや、漬け物とみそ汁だけでも良い。そんな空想をしていると、いつでもお代わりをよそってくれる母親の姿が浮かんでくる。痩せた、青白いほどの腕と地味な和服。苦しそうに咳き込む姿と、その後、にっこりと微笑んでみせるあの優しい眼差し……。
「お待たせしました」
 想像を遮るように、目の前へ無造作にプレートが置かれた。早さと手軽さだけが自慢のファーストフード。ベーコンの脂っこい匂いが食欲をそぐ。苦笑いを漏らしながら伝票を受け取る。まあ、贅沢を言ってもしょうがない。

 今日はいつもより時間があるので、新聞を広げながら焼けすぎの目玉焼きをつつき、胃がもたれそうなコーヒーでトーストを流し込む。何気なく外を眺めると、見慣れた制服が目に入った。道路を挟んで向かい側の歩道を、とぼとぼと歩いて行く生徒がいる。顔つきや細かい特徴は見分けられないが、始発もまだ動いていない時間に変な奴だ。こんなに朝早くから何をしているのだろう。単なる変わり者か? 見知らぬ生徒を目で追いながら気が付く、他人から見れば自分もそうなんだと。
 再び新聞に目を落とすと、地方ニュース欄に父親の写真が載っていた。見たくもない顔だが記事をざっと眺めてみる。「久瀬氏は冒頭の挨拶で子供の健全育成と親子のコミュニケーションは……」「この施設の完成によって、地域の皆様方の……」そこまで斜め読みして新聞を投げ出す。ふん、偽善者が。今回は幾ら出したんだよ、久瀬社長さん。
 新聞を丸めて脇へ置き、鞄から本を取り出す。学校の始業までは3時間近くある。読書には充分すぎる時間だ。今日持ってきているのは宇宙の構造という古本。なんとはなしに買ってから読まずにいた。

『――ビッグバンモデルは、宇宙背景放射や軽元素の存在比率をよく説明できる。しかしこの説によれば宇宙の発生と発展は全くの偶然ということになる。対消滅で物質が残ったのは引力・電磁気力・強い力・弱い力が分岐発生したのとは違う、別の宇宙が存在する可能性もあると考えられる。ビッグクランチとは、予測される宇宙終焉の一形態を指す。ビッグバンによって始まった宇宙の膨張が宇宙自身の持つ重力によって膨張から収縮に転じて、全ての物質と時空が無次元の特異点に収束するという考え方。ただし宇宙が十分小さくなったときの理論的取り扱いには、一般相対性理論で無視されている量子力学的な効果を取り入れる必要がある。この収縮による結果、何が起こるかは明確でない。宇宙がビッグクランチを迎えるのか、それとも永遠に膨張を続けるのか、または振動宇宙として膨張と収縮を繰り返すのか。それは宇宙に存在する質量と、宇宙項と呼ばれる重力に対抗する力の大きさにかかっている――。』



 3.

 頭が痛くなりそうな本でどうにか時間を潰し、店を出る。通りにはぽつりぽつりと人通りが出てきたが、それでも疎らな流れでしかない。まだ早朝と言ってもいい時間だ。そんな数少ない人たちの中に見知った顔があった。つい数ヶ月前に入学してきた一年生、生徒会の後輩だった。 
「おはよう天野君」
「久瀬さん、今朝は早いですね」
「変な時間に目が冴えてしまって、商店街の店で時間を潰していたんだよ」
「……朝からですか」
「うん、僕はほとんど家では食事をしない。まあ家庭の事情という奴だよ。玄関まで一緒に行くかい?」
「はい」
 他愛のない話をしながら、後輩と通学路を歩いていく。
「そういえば、そろそろ舞踏会の準備が始まる時期だね」
「ええ」
「取り仕切るのは一年生だから、しっかり頼むよ」
「入学したばかりで、いきなり大変です」
「これも伝統だよ。しかし誰一人感謝してくれないのだからな、陰の功労者は生徒会なんだけど」
「別に、気にしていません」
 無口であまり愛想の良い方ではない天野君だが、仕事は的確だし何より真面目だ。彼女には裏方のような仕事が似合っているのかもしれない。実務家といったところか。もう少し年相応の華やかさや笑顔があっても良いと思うが。話をしながら校門をくぐり、昇降口に到着した。
「それじゃあ、放課後。今日は定例の会議だからね」
「はい」
 軽く会釈する彼女と別れ、自分の下駄箱から上履きを取り出す。

「えっ」
 天野君の声だった。何事かと急いで靴を履き替えて廊下へ向かう。
「どうしたんだ、天野君」
「……酷い有様です」
 一階の廊下、中庭に面した廊下のガラスがことごとく割れている。散乱した破片がリノリウムの床一面に散らかっていた。そんな状況を見て、直ぐに思い浮かぶ人物がいる。昇降口へ戻って3年の下駄箱をから目的の名前を探し、上履きの底に指をなぞってみた。ざらっとした感触。指にはガラスを踏み砕いた破片が残った。
「久瀬さん、これはどういう事なのでしょうか」
「派手にやらかしたものだ。一時は落ち着いたと思っていたんだが……」
「はい?」
「天野君、君は知らないだろうがこの学園には有名な問題児がいるんだよ」
 思い返してみると、今朝早く店から見た生徒は女性だったような気がする。身なりや雰囲気も似ていたかもしれない。
「川澄舞という生徒だ」



 4.

「久瀬、今朝のことだけど」
 その日の放課後、生徒会室で会議の準備をしていると役員の斉藤が話しかけてきた。
「あれは誰の仕業だと思う?」
「川澄さんだ、間違いない。あの人以外に考えられないね」
「でも証拠は?」
「僕と天野君が最初に現場を見つけた時、川澄さんの上履きにはもうガラスを踏んだ跡が残っていたよ」
「今回はさすがに停学かな」
「普通ならそのような寛大な処置で済めば良い方だ。しかし、川澄さんには倉田さんが付いているからな」
「ああ、議員の倉田さんか」
「取りあえずは訓戒くらいで収まるだろう。腹立たしいことだが」
「親の七光りかぁ」
「だが斉藤、いつまでも許されると思ったら大間違いだ。少なくとも僕は、そんな行為を許す気はさらさらない」
「でも、ガラス代は前みたいに弁償するんだろ?」
「金の問題ではないんだよ、斉藤」

 話をしながら会議資料をホチキスで留めていると、天野君をはじめとして生徒会のメンバーが集まってくる。今日の議題は舞踏会の準備について。企画運営を任される一年生は戸惑うだろうが、そういった活動を成し遂げることで自信と連帯感が生まれる。まあ、肝心な部分は上級生が教えたり、知恵を貸すから心配はない。
 今日の打ち合わせでは、一年生メンバーの代表を決めることも重要だった。僕としては天野君を推すつもりだ。人見知りの激しい彼女は、もう少し人の中に入った方が良い。
「おっ、みんな集まってるな〜」
 やや軽い雰囲気で生徒会室に入ってきたのは、顧問の石橋教諭。大した男ではない。主体性を伸ばすといって仕事は全て生徒にやらせ、そして僅かな主任手当で満足しているような小物だと評価している。僕はこの教師をあまり信頼していない。

「それじゃあ、打ち合わせを始めようか。久瀬、何かあるか?」
「先生、みな忙しい中で時間を合わせて集まっているのです。遅刻せずにきちんと出席してくれなくては困ります」
「ははは。すまん、すまん」
 こいつには糠に釘だろうが、会長として言っておかなくてはならない。やれやれだ。資料を手にとって説明を始める前に訊いてみた。
「石橋先生、今朝のガラスの一件はどうなりました?」
「証拠不十分。川澄を呼んで話を聞こうとしたが、全く何も言わない」
「またですか」
「それになぁ、もし川澄だとしてもだ。学園側が処分を下すかどうかは疑わしい」
「集団生活のルールを守れない者は、排除すべきです」
「学校とはそういうところではないだろう、久瀬」
「親が議員だろうと何だろうと、規則に則して罰するべきだと思いますが」
「久瀬、お前がそんなことを言うとは先生ちょっと可笑しいぞ」
「何故です」
「お前だって、学園から特別視されている生徒なんだぞ。今日の朝刊を見たか? お前の親父さんはこの街の有名人だ。なかなか慈善活動に理解のある精力的な人らしい」
「…………」
 僕はそんな父親が、その息子であることが大嫌いだった。
「それで今日の会議は舞踏会の準備委員会立ち上げと、その代表者の選出だったっけ?」
「そうです、先生」
「主要メンバーは一年生で、代表もそこから選ぶんだったな。先生ちょっとこのあと用事があるから代表だけ先に決めてくれ。学園側に報告しなきゃならないから」
 石橋は終始笑顔で一同を見渡す。
「誰か居ないか?」
 進んで手を挙げる者は居ない。
「ん、立候補者はなし、っと。なら誰か推薦してくれ」
「僕は天野さんが適任だと考えます」
「ほう、久瀬自らの推薦か。じゃあ決まりだな」
 そんなに簡単に決めてはいけないだろう、石橋。本人の意向もあるだろうし、これから力を合わせて準備を進めていく為には全員で話し合って納得する必要がある。
「良かったな、天野。久瀬に気に入られたようじゃないか」
「…………」
 天野君は俯いて何も言わない。この状況は拙い。
「先生、天野君を推薦したのは僕の意見に過ぎません。彼女が適任かどうかは、メンバー全員に諮って判断してもらいます」
「面倒だな……」
「重要なことです」
「久瀬、お前が決めたんなら誰も異議はないだろう。天野も引き受けてくれるよな?」
 俯いたままの天野君が小声で答えた。
「いいえ、申し訳ありませんがお断りします……」



 5.

 気分が悪い、それに腹立たしい。自分の父親のことを言われたのも不快だったが、せっかく良い機会だと思っていたのに天野君は辞退してしまった。僕が推薦したことで、却って孤立を深めてしまったかもしれない。石橋も教師としてああいう態度はないだろう。
 結局、代表者を決めることは出来なかった。準備が遅れ、面倒なことになる。誰か他にとも考えたが、天野君以上に能力がある役員は思いつかない。別に僕は天野君を贔屓している訳でないし、個人的に気に入っているというような感情で見ているのではない。倉田さんが川澄さんを庇うような私的な理由など、僕の立場では持つことができない。
「久瀬、失敗だったね」
 会議を終え、並んで廊下を歩いている斉藤が言った。
「ああいう誘導をされたら、天野君の性格では引き受けるはずがない」
「どうする?」
「天野君を説得してから、また会議にかけよう」
「久瀬、お前の力で押せばメンバーから文句は出ないと思うよ」
「僕はそういう方法が正しいとは思わないんだ、斉藤」
 どうして僕はこう面倒を背負いたがるのだろう。苦労性なのかな。自分も父親の影響力を通して見られていることには気付いている。だが、進んでそれを利用しようとか、取引の材料にはしたくない。できるだけ排除して自分を観て欲しいと思っている。
 それでも他人から見れば何も変わらないのだろう。倉田さんの存在がある川澄さんと、父親の金を背景にした自分。いや、違う。僕はそういう力に甘えることはしないし、極力、相手に感じさせないようにしている。僕と川澄さんは違う。川澄さんは学園の治安を乱す問題視だ。そう、卑怯に何も語らず罪を逃れる不良だ。

「天野さんは有能だと思うけどね」
「斉藤、他に適任者がいるか?」
「……そうだなぁ、あれ?」
 斉藤の視線の先には、一人の生徒が居た。今度は見間違えるはずもない。川澄さんだ。無表情に歩いてくる川澄さんは、僕たちが目に入らないかのように脇をすり抜けていく。すれ違った時、ほのかに石けんの匂いがした。
 無視されたことがとても不快で、先程の怒りも手伝ってイライラが高まる。十数枚のガラスを打ち壊すような乱暴を働いておきながら、反省も罪悪感もないのだろうか。何かひとこと言ってやらなければ気が済まない。
「斉藤、少しここで待っていてくれないか」
「え?」
「あの不良に嫌みの一つでも言ってやる」
「おい、久瀬っ」
 斉藤の制止を振り切って、川澄さんの後を追う。
「ちょっと待て!」
「…………」
 僕の声が聞こえていないのか、川澄さんは振り返ることなく歩き続ける。そんな態度がさらに僕の癇癪にさわる。後ろから肩を掴んで、無理矢理こちらを向かせた。
 初めて面と向かった川澄さんは、こんな場合でなければまあ美人といってもいい顔立ちだ。女性にしては身長が高いが、細い肩から、この腕でガラスを叩き割る姿は想像できない。素行からもう少し猛々しい人だと考えていたのに、そんなイメージは全く似合わないごく普通の生徒だった。拍子抜けしてしまったが、しかし言いたいことは言わせてもらおう。
「待てと言っているんだよ」
「…………」 
「あなたがやったのだろう、川澄さん?」
 返事はない。
「何故、何も言わない」
「…………」
「倉田さんの親友だからといって、誰でもあなたを許す訳じゃないんだよ。よく覚えておくんだな」
 川澄さんがぽつりと呟いた。小さく、内気そうな声だった。
「……関係ない」
「なに?」
「……佐祐理は関係ない」
 それだけ言って、川澄さんは無表情のまま昇降口へ向かっていった。

「どうだった、久瀬」
「何を考えているのか解らない人だ」
「そう、だから倉田さん以外に友達も居ないそうだよ」
「斉藤、どう思う?」
「綺麗な人だとは思うけど、危ない人だ。川澄さんは何も弁解しないし、理由も言わない。ただ処分を受け入れて弁償するらしいよ。気味が悪いっていう生徒も多いね」
 不思議な人だ。何故だ。自分の想像を超えた異質なものを感じる。
「初めて話をしてみたが、どうもおかしい」
「おかしい人なんだよ、川澄さんは」
「そうじゃない、なにか気になるんだ」
「そんなに気になるなら、確かめてみればいい。夜中にさ、本当に川澄さんが暴れているのか隠れて現場を押さえれば良いんだよ」
「一晩中か?」
「ああ、そうなるだろうね」
「一緒に行ってみるか? 斉藤」
「久瀬……冗談だよ、冗談。どうして僕たちがそこまでしなくちゃならないんだ。それに僕は生徒会の他にも部活があるよ」



 6.

 見に行ってみれば解る、冗談だったのだろうが確かに斉藤の言うとおりだ。ベッド脇の灯りを点けて時計を見る。時間は午前2時。この夢を見た時は決まって早く起きてしまう。というか今日に限ってはまだ夜と言っていい時間だ。
 どうしたものか。今日現れるとは限らないだろうし、何時に学校へ来るのかもわからない。一晩中、どこかに隠れているなど非生産的きわまる行為だ。こそこそ隠れるなど、なんとなく後ろめたい感じもする。馬鹿馬鹿しい。もう一度寝直そう。そう思って目を瞑るが、いつものように眠気は訪れない。かちかちと時を刻む時計の音が神経を逆なでる。馬鹿みたいじゃないか。自分でもそう思う。そう思いながら、ハンガーに掛けてある制服に手を伸ばした。

 深夜、暑さは幾分ましになってきているが、高い湿度のせいでむっとする。若干気温が下がったせいなのか、所々に霧のような靄がかかっていた。低く窪んだところでは街灯の光がぼんやりと浮かび、神秘的な幻想を醸し出している。
 校門から見る夜の校舎は不気味な霧にすっぽり包まれていた。濃い乳白色のヴェールがゆっくりと移動して、濃淡の模様が生き物のように変化する。詩人であればもっと複雑な表現をするのだろうが、自分にとってはただの自然現象に過ぎない。少しだけ気味が悪いという心理影響を及ぼしただけだ。
 普段登校するように生徒玄関へ向かってみる。当然のように入り口は施錠されていた。開けようとして初めて気が付いた自分が情けない。川澄さんだろうと、僕だろうと、泥棒だろうと、こんな時間に校舎へ入ることはできないはずだ。愚かな自分を自嘲しながら帰りかけると、妙な物音がした。

 何かを食べ散らかしているような、引っかき回すような音。音のする方へ向かってみる。視界が悪いのでかなり苦心したが、ようやく音の発生源を見つける。犬が――野犬だろうか、痩せた犬が餌に食いついていた。散らかっている食べ物を見ると、ご飯や漬け物、唐揚げや煮物がある。犬に与えるようなものではない。どちらかというと弁当にでも入れる料理だった。体育館の裏手のこの場所は、昼間なら生徒達が弁当を広げる中庭に繋がっている。何かの理由で捨てられた残飯でも見つけたのだろう。くだらないことに時間を潰してしまった。
「ガルルルル……」
「心配するな、お前の食い物なんて僕は取らない」
「グルルル」
「まったく、こんな夜中に馬鹿らしい」
 そう思った僕の目の前に、体育館の用具倉庫のドアがあった。体育館内とも繋がっているが、まさかな。ドアノブが回らないことを確信していながら、扉に近寄る。

 扉は――少し触れただけで音も立てずに内側に開いた。大きく開いたドアの隙間、開口部の闇が僕を招いているような気がした。

 倉庫から体育館を抜け、校内に入った。不用心にも程がある。宿直や警備員もいないとは、学園の管理者は何を考えているのか。そういう隙があるから、川澄さんのような不良にあのような事件を起こさせるのだ。
 新校舎の一階から四階までをぐるっと歩き、何もないことを確かめる。何もないのが当たり前だ。階段などの暗いところは多少危なかったが、外からの光が廊下へ入り込んでいるのでそれほど歩くのに困難を感じない。残るは旧校舎だが、古い建物をさらに増築しているため、新米の教師などは教室を迷うほど不可解な造りになっている。一つの建物に階段が数カ所あり、それも全部が1階から最上階へ続いている訳ではない。取って付けたような建て増し部分や直角に曲がっている廊下、渡り廊下で新校舎へ繋がる数カ所の通路など、全てを回るのは時間がかかる。
 そのまま帰ろうとさえ思ったが、ざっと一週してみようと考え直す。せっかくここまで来たのだから。明日、斉藤へ話す時には全部見回ったと言ってやりたい。新校舎の2階から旧校舎の3階へ続く渡り廊下を歩く。よくこんな無駄な物を作ったものだ。快適な新校舎は主に一般教室に使われ、旧校舎は科目毎の特別教室や部活動の部室として使われている。

 音楽室の前を通りかかったとき、ふと好奇心が湧いてきた。誰もいないのなら、誰も聞く人間はいないということだ。子供の頃、母親からピアノを習っていたことがある。今でも家に置いてあるが、誰も弾く者はいない。はっきり言って僕は下手だ。それに自宅でピアノを弾けば、僕も、父親も、思い出してしまう。昔、母はグランドピアノを買いたいと話していたことがあった。僕にはよくわからないが、音の響きが違うのだという。あの頃は父親もそんなに嫌いではなかった。母の頼みに応えて本当に買おうという所まで話は進んだが、結局それは僕の家に届かなかった。弾き手がいなくなってしまったから。必要とした人がいなくなってしまったから。母が僕に聞かせたかった音とはどんな物なのだろうか。



 7.

 音楽教室にあるのは、一応グランドピアノのはずだった。静かに引き戸を滑らせ、教室の中へ入る。大きな黒板には五線譜が引かれており、石膏像のバッハやモーッアルト、パッヘルベルが棚に並んで平面な瞳で僕を見下ろす。母が望んでいた音の響きとはどんな物なのだろうか。興味をもってスツールへ座り、カバーを上げた。
 あまり使われないのだろうか、埃が多い。感触に頼って暗い足下でペダルの位置を確認する。静まり返って物音ひとつしない校舎に響かせる音を想像し、いざとなって緊張してしまう。指をほぐして簡単な和音の形を作って鍵盤に乗せた。押せば音が出る。誰も聞いている訳がない。意を決して鍵盤を押し込もうとしたとき――。
”ガシャン”
 物音にビクッと反応して、指の動きを止めてしまう。心臓が早鐘を打つように鼓動する。誰もいないと思っていたのに脅かすじゃないか。急に現実に引き戻された感じだ。僕はピアノを弾きにわざわざ出かけてきた訳じゃない。音を立てないようにカーバーを戻し、ゆっくりと音楽室を後にする。
 戸を閉めようと最後に見た景色は、月光に照らされて神秘的に浮かび上がる、弾くことの無かったピアノだった。

 何度か転びそうになりながら、一階を目指して階段を下りる。今でははっきり解る、ガラスを叩き割る音が僕の耳に聞こえていた。今日こそ犯人を見つけて罪を償ってもらおう。本当に川澄さんなのか。僕は確かめなくてはならない。
”ピキッ”
 もうすぐ一階へ辿り着くというときに、背後に気配を感じた。犯人は川澄さん一人ではなかったのか? 振り向こうとすると、いきなり突き飛ばされて廊下へ投げ出された。痛む腰をさすりながら立ち上がると――そこにいた。朧気な月の光に身を映し、剣を構える川澄さんが。その姿は幻想的で……いや、非現実的と言った方が良い。手に持っている不自然な存在が、違和感を強くする。刃物を構える女子高生など非常識にも程がある。昼間の表情とは違い、瞳に力のある川澄さんがこちらへ厳しい視線を投げかけている。真剣か? まさか。噂には聞いていたが、本当だったとは。
「か、川澄さん」
 問いかけてみるが返事はない。真っ直ぐ僕を、いや、僕の背後のその先を凝視している。その瞳は僕のことなど観ていないようだ。振り返って確認してみるが僕の後ろにはなにもない。しかし敵視とも、友好的ともとれない瞳で川澄さんはこちらを向いて剣を構えている。
「君はこんなところで何をしようと……」
 しているのか。そう言いたかったが、僕の言葉は途中で遮られた。浮遊感は一瞬だ。パキパキという音が聞こえ、いきなり僕の体は壁に叩き付けられた。気を失いかけ、目の前が真っ暗になる。恐怖を感じてむりやり頭を振って目を見開いた。

 剣を引いた格好で猛然と向かってくる川澄さんの姿が見えた。そして眼前に迫った彼女の体が僕の脇をすり抜け、長い髪が僕の顔を掠めた。角度を下げた体勢で駆け込んできた川澄さんは、手に持つ刃を水平に薙ぐ。異質な音。目の前の空間が裂けた。矢継ぎ早に大振りの剣がその空間の肩口へと振り下ろされる。僕には何も見えないが、川澄さんは何かに斬りかかっていた。何もない空間に振り下ろされた剣が、衝撃と異質な音を伴って弾き返される。
 一瞬ひるんだ川澄さんは、片手で剣を持ち直すと下からすくい上げるように大きく剣を振り上げた。が、今度は手応えが感じられず、すっぽ抜けたように手を離れた剣が弧を描いて廊下へ突き刺ささる。そして、割れたガラスを踏みつける足音が誰もいないはずの廊下を遠ざかっていった。
「逃がした……」
 剣は廊下に突き立ったまま、全ての物音が止む。あたかも止まっていた時間が再び動き出したかのように生ぬるい夏の気温を感じ、夜の静けさが再び訪れる。忘れかけていた呼吸が戻ってくる。同時に酷い頭痛と耳鳴りを覚えた。剣を引き抜いた川澄さんは、壁にもたれて蹲ったままの僕に一瞥をくれて、何も言わずに背中を向ける。一瞬目があった彼女の表情に、諦めのような無表情と少しだけ寂しさが感じられた。
「川澄さん、これはどういうことなんだ」
「……あなたじゃない」
「なに?」
「……あなたに話す事は何もないから」
 川澄さんの後を追おうとも思ったが、情けないことに立ち上がることができなかった。それに妙な体験と信じられない出来事で神経が参ってしまった。ぼうっとガラスの割れた惨状を目にしながら、這うように新校舎まで引き返し、昇降口の玄関マットへ倒れ込むようにして身を休める。あれは一体なんだったんだ。それに川澄さんの言葉は……。
 少し落ち着いてくると、様々な疑問が湧いてくる。それに、口中へ広がる不快な血の味や、痛む頬が腫れていることにも気付く。上着のボタンは辛うじて数本の糸で繋がっていた。つい先程の出来事は非現実的としか考えられない。しかし、現実にそれが起きたことは間違いない。僕がいま、廊下で仰向けになって痛む体をさすりながら天井を見上げているのなら。

 玄関脇の傘立てから、もうずっと使われていないような汚い傘を引き抜き、杖代わりにする。なんとか歩けそうだ。ようやく校舎の外へ出ると、辺りはすっかり明るくなっていた。夕焼けのように雲が不気味に赤く染まっている。家には帰らず、僕はいつもの店へ向かって歩き出した。痛む足を引きずりながら。



 8.

 今日も店内にあまり客は居ない。自分の定位置になっている窓際の席へ腰を下ろし、大きく息を吐いた。見慣れたウエイターが注文を取りに来る。
「モーニングセットA」
「あの、大変失礼かと存じますが……」
「なにか?」
 今までに無いことだった。この人が僕に必要以上のことを話しかけてくるなんて。
「おしぼりをもう何枚か……それとも氷をお持ちしましょうか?」
「え?」
「酷く腫れますし、血が出てますよ。何か事故にでも遭われたのですか」
「いや、暗がりで…その、顔から壁にぶつかったんだ。交通事故とか、なにか犯罪と関係がある怪我ではないから安心してください」
「本当ですね」
「できれば腫れを冷やすのに氷が欲しいが……汚してしまうのは申し訳ない」
「構いませんよ、少々お待ち下さい」
 意外といい人だったようだ。しかし、そんなに酷い顔つきになってしまったのか。もともとそれほど整った顔ではないというのに。やれやれだ。

 片手で氷を包んだタオルを持ち、顔を冷やしながら朝食をとる。「久瀬建設経営危機か」そんな新聞の見出しを目にして、記事をざっと読んだ。内容は贈収賄疑惑と不正入札に対する行政処分について書かれていた。しかし全てが思惑の範囲を出ていない内容で、憶測というか関係者のうわさ話のような仕立てになっている。まあ、叩けば埃はいくらでも出てくるだろう。それはこの会社だけに限った事じゃない。ふんっと鼻を鳴らすと、腫れた頬に痛みが走る。
 読み終わった新聞を脇に置き、上着のポケットから持ってきた本を取り出す。一晩中待っているなど退屈だと思って持ってきた読みかけの本。鞄は面倒なので学校へ置いてきた。

『――ビッグバンによって始まった純粋なエネルギーである宇宙は、やがて素粒子を生み出し、素粒子が結合して原子を形成する。宇宙誕生の初期には水素やヘリウムといった最も軽い元素が作られた。軽元素からなる雲は重力によって収縮して、圧力と温度が上昇した中心部では核融合が始まる。これが原始星である。核融合が始まると熱的な膨張力が発生して重力による収縮に拮抗する力を発生させ、熱による膨張と重力による収縮がつりあった時点で星は安定する。また、核融合による光子は星の表面から放出されて、星は明るく輝く。恒星が核融合で水素を使い果たして主系列星の時代を終えると、星は次の段階に変化する――。』



 9.

「久瀬さん、その顔はどうされたのですか……」
 店を出て、校門で会った天野君は開口一番そう言った。怪訝そうな顔で僕を見つめる。
「そんなに酷いかな」
「ケンカでもしたのですか?」
「いや、違うよ。相手は見えなかったし、突き飛ばされただけなんだ」
「はい?」
「話が見えないだろう、天野君。実は本人の僕も良くわからない」
「これを使ってください」 
 天野君が鞄から取り出したのは、大きな絆創膏だった。
「少しは目立たなくなりますから」
「あ、ありがとう」
「いえ……それと、昨日はすいませんでした」
「どうして君が謝る?」
「せっかく推薦していただいたのに」
「僕の方こそ迷惑をかけてすまなかった。その事で今度、時間をとれないかな。斉藤にも来てもらって天野君と話がしたいんだけど」
「明後日でしたら、大丈夫です」
「それじゃあ、放課後に喫茶店で待ち合わせにしよう。百花屋は知っているかな」
「ええ、授業が終わりましたら伺います」
 もう一度説得する為の約束をとりつけて、昇降口で彼女と別れた。冷たいような感じもする天野君だが、女の子らしいところもあるようだ。絆創膏にイラストされた可愛いキャラクターを見て、そう思う。しかしこれを貼るのか……。余計に目立つんじゃないか? 天野君。

 つまらない午前の授業が終わり、昼休みになる。学食へ向かって廊下を歩いている途中で川澄さんを見かけた。珍しい光景だ。川澄さんが見知らぬ男子生徒と話をしている。二言、三言。会話はとても短かった。
 話し終わった男がこちらに歩いてくるので、廊下の角で待ち伏せて川澄さんに悟られないようにその男を捕まえた。もしかしたら昨日の共犯者はこいつかもしれない。
「君は誰だ」
「おいっ、いきなりなんだよ、離せ」
「見ない顔だが、川澄さんとは知り合いなのか」
「名前なんて知らない。ちょっと話してただけだっ」
 暴れる男はそう言った。僕の早とちりだったのか?
「俺は何日か前に転校してきたばかりで、上級生に知り合いなんていない。さっさと離せよ」
「そうか、悪かった」
「いったい何なんだよ、お前……」
 背後から、間延びしたというか、のんびりとした声が聞こえた。
「祐一、お待たせなんだよ〜」
「先に食べててくれても良かったのに、律儀なのね相沢君」
「相沢、誰だこいつ?」
 友達なのだろうか、一人の生徒が僕を指さす。
「俺に聞くなよ、北川」
「えーと、確か生徒会長の久瀬君だったかしら」
「会長さんが祐一に何か用なのかな?」
「いや、勘違いだった。すまない」
「別に気にしてないからいいけど……」
「祐一、早くお昼にしようよ〜」
「そうだったな、名雪」
 迷惑を掛けてしまった男にもう一度謝り、その場を離れる。僕らしくない軽率だった。もう少し考えてから行動しないと、僕の体面に関わる。しかし川澄さんが倉田さん以外の人間と話すなど、普通では考えられないことに思われた。転校生なら川澄さんには無関係だと考えて良い。彼女だって声を掛けられることもあるだろうし、素行や噂を知らない人間なら誘いをかける男もいるだろう。なにしろ見た目は神秘的なほど綺麗なのだから。いや、僕は何を考えているんだ……。

 気を取り直して廊下の角を曲がると、いきなり目の前に当の本人である川澄さんの顔があった。気配を感じさせず、いきなり出てくるので心臓が止まるかと思った。
「…………」
「…………」
「……通れない」
「は?」
 出会い頭に対面してしまった川澄さんが、ぼそっと呟く。こう言うところが可愛くないのだと思う。動揺を隠して話しかけてみる。 
「昨晩、会いましたね」
「…………」
「できれば納得のいく説明をして欲しいな」
「……どいて」
「川澄さん、あなたは何をしていたんだ」
 川澄さんの視線がすっと移動した。
「はえ〜、どちらさまでしょう」
「ん?」
 大きな荷物を提げた倉田さんが、僕を見て途端に顔色を曇らせる。
「久瀬さん、でしたか……」
「初めましてになるのかな、倉田さん」
「あの、舞がまた何か問題を起こしたのでしょうか」
「今日はそういう訳じゃないよ。ちょっと話がしたくてね」
「はえ〜」
 倉田さんが大きな瞳を一層大きくして僕の顔色を窺う。何か変なことを言っただろうか。
「久瀬さんが舞とお話しですか」
「そう、何か可笑しいかい」
「あはははーっ、でしたら一緒にお昼ご飯はいかがですか〜」
「え?」
 倉田さんは妙に明るい笑い声を上げて微笑む。どうしてそうなるんだ。倉田さんの性格はいまいち理解に苦しむ。この状況でどうしてそういう結論に達するのだろう。
「舞のお友達はいつでも大歓迎ですよ〜」
 いや、僕は川澄さんの”お友達”じゃないと思う。どちらかというと嫌われているはずだ。倉田さんだってそれを知らないはずがない。いくら倉田さんがそう思っていても、川澄さんが何か言うだろう。さすがに僕と一緒に食事をするなんて嫌だと。
「…………」
 なぜ無言なんだ。
「舞も久瀬さんと一緒で良いよね〜」
「……きつねさん」
「あ、ホントに狐ですね〜」
 倉田さんが僕の顔を覗き込む。二人が言っているのは、僕の絆創膏のことだった。
「……(こくり)」
「あはははーっ、それでは久瀬さんはこれを持ってくださいね〜」
「え、え?」
「早く食べないとお昼休みが終わっちゃいますよ〜」 



 10.

 どうして僕はここに座っているのだろう。屋上へ向かう廊下の踊り場で、運ぶのを手伝わされたビニールシートを敷いて座っているのだろう。倉田さんが取り分けてくれた弁当を食べているのだろう。あまつさえ美味いと感じてお代わりを頼んでしまったのだろうか。
「たくさんありますから、遠慮しないでくださいね〜」
 まったく、倉田さんの笑みというのは場を和ませるようだ。居心地が悪いと思ったのは最初だけで、全てを包んでしまうような倉田さんの朗らかなペースを喜んで受け入れてしまう。比べて川澄さんは……場の雰囲気などお構いなしに黙々と箸を運んでいる。マイペースというか、なんというか。専心、自分の分のご飯を食べ、倉田さんが用意した茶を飲んでいる。
「久瀬さんとお話しするのは初めてですね」
「初めましてとは、ちょっと違和感があるかもね。あなたのことは色々と聞いているから」
「お父様からですか」
「うん、それもあるし、川澄さんのことでもね」
「あまり良い噂ではありませんよね」
「そうだね、あまり良くはない」
 ひとり黙々と弁当箱を突いている川澄さんを見る。全く無視されていた。
「いろいろ舞のことでご迷惑をおかけしてます」
「まったくその通りだよ」
「ふぇ……」
 ちらっと川澄さんが僕を見る。
「大人しそうな顔をしてガラスを叩き割る、校内の器物を壊す。剣を持ち歩いているという噂もある」
「佐祐理もそういう噂は知っています」
「典型的な不良ではないかな、そんな生徒が学園にいると他の生徒へ悪影響を及ぼす」
「ですけど、きっと舞にはなにか理由があるんです」
 僕が知りたいのも、そこなんだよ倉田さん。
「そう、何か理由があるのだと僕も思うよ」
「わかってくれるんですね、久瀬さん」
「勘違いしてもらっては困るな、倉田さん。僕は川澄さんのやったことに腹を立てているし、これからも目を離さないようにするつもりだよ」
「でも、久瀬さんがそう思ってくれるだけでも佐祐理は嬉しいですよ〜」

 会話として破綻している気がするが、倉田さんは終始笑顔で話しかけてくる。が、当の本人が横にいるのに何も言わないとはどういうことだ。自分の意志というのもが無いのだろうか。ただ不器用なだけか。
「川澄さん、あなたは無口な人だね」
「…………」
「昨日のことだけど」
「佐祐理は知らない……」
「それはそうだろうね」
「……だから話しちゃ駄目」
 意外と口調が子供っぽくて笑いそうになる。タコ型に切り目を入れたウインナーを頬張る姿もあどけない。
「あははーっ、佐祐理に隠れてこそこそ何を話しているんですか〜」
「……ボタン」
「うん?」
「ふえ〜、落ちちゃいそうですね」
 二人が言っているのは、僕の上着のボタンの事だった。
「付けてあげる……」
「舞って、お裁縫得意でしたっけ?」
「…………」
 川澄さんが僕の上着の裾を引っ張った。
「そのままじゃできないから……」

 どうして僕は上着を脱いでここに座っているのだろう。屋上へ向かう廊下の踊り場で、川澄さんが僕のボタンを付け直すのを黙って見つめているのだろう。僕を嫌っているはずの倉田さんがニコニコ笑っているのだろう。あまつさえ――何故彼女は、上着を返しながら「ごめんなさい」と呟いたのだろうか。



 11.

「倉田さん、あなたはどうしてそこまで川澄さんを庇うのかな」
「はえ?」
 教室へ戻る途中、畳んだビニールシートを持たされて倉田さんと廊下を歩く。川澄さんは教室が違うのでさっき別れた。本人のいないところで倉田さんの考えを聞いてみたかった。
「誰でも、舞のことを好きにならずにいられませんよ〜」
 倉田さんはそう言うが、現実には川澄さんを好きなのは倉田さんしかいない。
「それはどうかと僕は思うけど、倉田さんはどんなところが好だと?」
「初めて会ったとき、佐祐理は舞のことが好きになっちゃいましたから」
「どんな出会いだったのかな」
「えーとですね、確かこの学園に入学してすぐの頃です……」

 倉田さんの話はこうだった。ある日、いつものように登校すると、学園の玄関に一匹の犬がいた。山から下りてきた犬は凶暴そうで、生徒は遠巻きに眺めて校内に入れなかった。一人の教師が追い払おうと威嚇したが逆に犬を興奮させてしまう。倉田さんは離れて見ていたそうだが、そんな状況で犬に近づく生徒がいた。それが川澄さんだった。
 川澄さんはその辺にあったスコップを構えて犬を打ち据えた。周りの生徒は驚いて川澄さんの行動を見ていたという。倉田さんも少し怖くなったらしいが、空腹で街へ降りてきてしまった野犬に自分の腕を食べさせた川澄さんの信じられない行動に、倉田さんは川澄さんの「心優しさ」を感じたという。僕にはちょっと理解しがたいが。しかし川澄さんの性格ならもしかしてとも思える。そのとき、倉田さんが自分の弁当を取りだして「これを食べさせてあげてください」と渡したそうだ。二人の付き合いはそこから始まったらしい。奇妙な関係だと思っていたが、聞いてみると始まりもそうだった。

「それに、なんだか佐祐理に似ている気がしたんです」
「川澄さんと倉田さんが? 僕には正反対に見えるね」
「外に出るものじゃないんです。良く解らないんですけど背負っていた物が、でしょうか。雰囲気みたいなものですね」
「雰囲気?」
「お腹が空いた山犬さんの気持ちを、解ってあげられるんですから」
「しかし、スコップで叩いたんだろう? ちょっと残酷だね」
「舞に言わせると”悪い事をしたらお仕置きが必要”なんだそうですよ」
「じゃあ、どうして自分はあんな事を繰り返すんだ」
「はえ?」
「悪いことをしてはいけないと解っている川澄さんが、なぜあんな真似をするんだろう」
「それは、きっと……」
「何か訳があるのかもしれない。だけどそれを知らない限り、僕には手助けすることはできないね」
 いつの間にか、廊下に立ち止まって倉田さんと話し込んでいた。チャイムが鳴る。僕は丸めたシートを倉田さんへ渡してお礼を言った。
「じゃあ、僕はこれで自分の教室に戻る。今日はごちそうさま」
「あの、久瀬さん?」
「何です?」
「明日もどうでしょうか、お昼ご飯」
 僕は苦笑いを浮かべて首を横に振って見せた。



 12.

 今夜も川澄さんは夜の校舎に佇んでいた。そして僕は何故か今日もここにいる。もう来ないはずだったのに、父親との口論から家を飛び出してしまった。珍しく早く帰ってきたあの男は怒鳴りちらし、僕の生活態度がどうだとか、成績がどうとか、汚い言葉で罵った。多分、何処かの宴席で酒を飲んできたのだろう。そんな侮辱を受けて、黙っているのほど僕は坊ちゃんじゃない。
 コンビニで夕食を買って校舎に入ると、やはり川澄さんは昨日と同じようにそこにいた。

「……ありがとう」
 今日は直ぐに僕のことを見つけてくれた。
「何のことかな」
「佐祐理に内緒にしてくれたから……」
「個人のプライバシーに立ち入るのは、あまり好きではないからね」
「……だけど、もうこないで」
「僕がいると何か困るのか」
「…………」
「学園に報告するとでも思っているんだね。だけど、本当の話をして誰が信じてくれる?」
「私は……」
「ん?」
「……なんでもない。あなたには関係のないことだから」
 言葉を言い終えた途端、いきなり川澄さんが僕の肩に手をかける。そして僕を支えにして跳躍した。昨日、僕を突き飛ばした「何か」が現れたのだろうか。それにしてもいつも肝心なところで出現する奴だ。見えない影は川澄さんが倒そうとしているもの、そして僕をここから追い出そうとしているもの。その正体はまだわからない。
 体重を支えきると、川澄さんの身体は天井ぎりぎりの高さに舞った。そして渾身の力を込めてその高さから一気に剣を振り下ろす。凄い運動神経だ。昨日も思ったが、こんな才能があるなら、もっと他に力を発揮できるだろう。そんな川澄さんの姿に見とれていると、床が湾曲するかと思うほどの衝撃が僕の足にまで伝わってきた。
「……逃がした」
 川澄さんはそう言って振り向く。平然とした表情で。息も全く上がっていない。逃がしたと言っているからには、彼女には何かが見えるのか?
「もう今日は現れないのかい」
「…………」
「じゃあ、もうここに居ても仕方がないのだろう」
「わからない」
「僕は理由を知りたい。あなたが戦っているものが何なのかを知りたい。どこかに寄って晩ご飯、いや夜食でも食べながら話を聞かせてくれないか」
「…………」
「どうかな?」
「……一人で行って」
 どうやら、嫌われてはいなくても信頼されるまでには至っていない。
「川澄さん、昨日会った時”あなたじゃない”と僕に言ったね」
「…………」
「それは誰のことなんだ。誰ならあなたは話すというんだ」
「……わからない」
「解らない?」
 彼女の心を開いていくれる人間が、何処かにいるはずだ。なのに彼女は知らない。そんなことがあり得るだろうか。
「いつまで待つつもりだ、その、知らない誰かを」
「…………」
「僕では信用できないと言うことか」
「…………」
 川澄さんは口をつぐんでしまった。これ以上責めても頑固な彼女から満足な話は期待できない。一度、ゆっくり話をしてみたかったのに。
「今日はこれで帰るよ」
「私は……」
「ん?」
「私は、ここに居ないと……」
「ならこれを置いていくから、あとで食べるといい」
「……あなたは?」
「僕はどこへでも行って、勝手に食べるよ」
 コンビニの袋を川澄さんに握らせ、僕は校舎を後にした。格好を付けてしまったが、ここ以外の行き場所はいつものファミリーレストランしか思いつかなかった。

『――質量が太陽の8倍を超える重い星の場合、巨星に進化したあとも中心部では核融合によって次々と重い元素が形成される。最終的には鉄からなる中心核が作られ、核融合反応の連鎖が止まって星の中心部は熱源を失い重力によって収縮をはじめる。収縮が進むと鉄の原子核同士が重なり、陽子と電子が結合して中性子になる。そして星の中心部はほとんど中性子だけの核になる。この段階では核全体が中性子の縮退圧によって支えられるため、重力収縮によって核に降り積もる物質は激しく跳ね返されて衝撃波が生じる。これが超新星爆発である。超新星爆発の後には核が中性子星として残され、光やX線を激しく放出するパルサーとなる場合もある。質量が太陽の20倍以上ある星の場合には、中性子からなる核の縮退圧よりも自己重力の方が上回るため、超新星爆発の後も核が収縮しつづけて重力崩壊を起こす。この段階では星の収縮を押し留めるだけの力が存在しないため重力崩壊がどこまでも進むことになり、結果、シュバルツシルト面より小さく収縮した天体がブラックホールと呼ばれるものである――。』



 13.

 三分の一ほど読み進めた本を閉じ、アイスコーヒーを一口啜る。喫茶店「百花屋」の窓から覗く商店街は、夕方近い日の光をいっぱいに受けて余熱を放っているようだった。恐らく気温もまだ高い。数分前に店へ入った時、エアコンが有り難く感じたくらいだ。
 店内の柱時計が大きな鐘を4つ、小さく木霊のような音を2つ叩いた。時間の指定はしなかったが、もう来ても良い時分だ。天野君は何をしているのやら。斉藤もまだ姿を現さない。
「お待たせしてすみません」
 振り向くと、私服の天野君がいた。
「いや、そんなに待った訳ではないけど……家から出直してきたのかな」
「すこし用事がありまして」
「そうか、わざわざすまなかったね」
「久瀬さん、お話しとは何でしょうか」
「本題は斉藤が来てから話したいんだけど……」
「はい?」
「少し、天野君の意見を訊いてみたい。いいかな?」
「なんでしょうか」
 真面目な彼女は、醒めた現実的な目で物事を見ていると思う。そんな物は存在しないと言って欲しかった。僕の錯覚だとか、心理的な影響だと合理的に納得できる答えを期待していた。
「天野君は、その、幽霊とか物の怪みたいなものを信じるかい」
「え?」
「何て言うのか、不思議な存在というものをだよ」
 天野君は驚いたように僕の顔をじっと見つめる。
「妖弧のことでしょうか?」
「え?」
「……私は信じています」
 今度は僕が天野君の顔をまじまじと見つめる。これはどういう事なんだ。彼女らしくない答えだ。それに僕はそんな特定のものを指して話をした訳ではない。
「妖弧――まあ、そういう姿をしていることもあるんだろうけどね」
「…………」
 天野君は無言で鞄から古ぼけた本を取りだした。
「今日、図書館へ返しに行く本ですが、ここを読んでみてください」
 天野君が開いたページを目でなぞってみる。
『ものみの丘には、不思議な獣が住んでいる。古くからそれは妖狐と呼ばれ、姿は狐のそれと同じ。多くの歳を経た狐が、そのような物の怪になると言われている。彼らは人の姿となって現れ、短期間の後、始めから存在していなかった様に消える。』
 この街の伝説か、言い伝えのような物だろうか。
「ありがちな昔話だね」
「そうかもしれませんが、私は信じているんです」
「天野君らしくないね」
「…………」
「もしかして、そんなものを見たことがあるとか?」
「……はい」
「なに?」

 斉藤が店へ来るまで、天野君の話を聞いた。別に隠すことではないと言いながら、辛そうに話す天野君は僕とは違った不思議な体験を持っていた。あの子と呼んでいる存在、そして消えてしまった存在。悲しみだけが残った記憶が彼女を苦しめているようだ。
「久瀬さん、なぜあの子は私の前に現れたのでしょう」
「どうだろうね、僕には判断できないよ」
「消えることが解っているのに、どうして?」
「…………」
「どうして私を悲しませようとするのでしょうか」
「それでも天野君は信じている?」
「はい」
「そんなことは現実に起きるはずがないと、起きなかったのだとは考えようとしないのかい」「ええ、だって……」
「詳しくはわからないけど、その子がいなくなった悲しみを別にして考えてみてはどうだろう。天野君がその子と出会った前と後で、どんな変化があったかを考えてみれば意図のようなものが解るんじゃないかな」
「忘れるなんてできません」
「だから、仮にだよ。考え方としてね」
「…………」
「別れは悲しいことだったのに、天野君は信じたいと思っているんだろう」
「え?」
「悲しくても、寂しくても、その子と一緒にいたことを忘れたくないんだろう」
「久瀬さん、私は……私は信じたいと思っています」
「そういうことなんじゃないかな」
「…………」

「ごめんごめん、遅くなった!」
 そんな大声でテーブルに歩み寄って、頭をかきながら僕の横に座ったのは――しんみりしてしまった場を壊してくれた斉藤だった。
 その後、天野君にはもう一度舞踏会の代表になってもらうように二人から依頼して、一日考えさせて欲しいとの返答をもらった。補佐役に斉藤が付いてくれるというので、少しは肩の荷を軽くしてもらえただろうか。
「それでは、私はこれで失礼します」
「うん、頼むよ天野さん。僕も久瀬も協力するからさ」
「あ、天野君、ちょっと待ってくれないか」
「何でしょうか、久瀬さん」
「もう一つお願いがあるんだ。個人的なことで頼みづらいんだけど……」



 14.

 川澄さんはいる、あの場所に。そんな気がする。いや確信だ。理由はないし証拠もないが、彼女は毎日のように夜の校舎へ赴いているのだと思う。僕たちは何か事件が起こった日にだけ川澄さんが暴れたのだと想像したが、彼女にとって夜の校舎へ赴くことが日常なのではないだろうか。無人の校舎は相変わらずしんとしていて、何かが隠れていてもおかしくないと思わせる曖昧な闇が支配していた。しかしそこに存在する彼女自身は? 非現実な存在とともにいる彼女は現実の世界の存在だ。
 新校舎の一階。窓から差す月明かりを足下に受けて、彼女は佇んでいた。いつもと同じ格好、手には剣を携えて。先日の一件でそれが偽物ではないことは知っている。探せば刃の切れ込みが床に見つかることだろう。
「やあ、川澄さん」
「…………」
 視線がこちらを向く。これだけでも大きな進歩だ。
「今日もこんな時間にご苦労なことだね」
「…………」
「大丈夫、僕はすぐに退散するよ。だけど君にこれを渡したくてね」
 川澄さんへ箱を差し出す。不思議そうに見つめる川澄さんは受け取ろうとしない。
「僕には女性の好みなんてわからないからね、後輩の天野君にたのんで見繕ってもらったよ。ブルーベリーレアチーズ、イチゴのタルト、ガトーショコラ、パウンドケーキとクッキーも入ってる」
 そう言って箱を開けて見せた。
「甘い物は好きじゃないのかな」
「……嫌いじゃない」
「そう、それは良かった。じゃあゆっくり食べるんだね」
「……ちょっと待って」
「なにか?」
「箱を持っていて……」
「え?」
 川澄さんは剣を携えたまま、片手で箱の中からひとつ取りだした。そして、ビニールと銀紙を剥がそうとするが、当たり前のように片手なので上手くいかない。
「川澄さん、剣を一旦置けばいいじゃないか」
「…………」
 頑固というか、意地っ張りというか、僕の言うことなど聞く気がないらしい。
 ”ボタッ”
 川澄さんの手からモンブランが転がり、逆さまに床へ落っこちた。
「ほら、だからそうなるんだ」
「…………」
「剣を置けばいいだろう」
「…………」
 無言で川澄さんが首を横に振る。
「どうしても手放せないのか」
「(こくっ)……」
「じゃあ、ここにおくから勝手に食べるがいい」
 腹が立ったので、そう言い捨てて踵を返した。なんて礼儀知らずな人なんだ。僕がどんなに優しく接しても、あれでは改善する見込みがない。

 校舎から外に出ると、件の山犬ががつがつと餌を掻き込んでいた。今日もおかずは弁当のそれだ。ああ、これは川澄さんが持ってきている物なんだろう。こんなに食い散らかして、お前は恥ずかしくないのか、犬よ。お前の主人は自分の弁当を食べさせているんだぞ。
「ガッガッ ガルルル」
「…………」
 余程腹が減っているのか、犬は一心不乱に食べ物を漁っている。川澄さんは怒ることなどないのだろうな。優しさとは、一方的に押しつけることではないはずだ。ちょっとした行動が気に入らないからといって、その人の全てを否定するというのはあまりに大雑把な捉え方。いろいろな考え方や方法があって良い。僕も度量の小さい男だ。好きなように食べてもらえば良かったじゃないか。得体の知れない化け物が出るのだから、剣は一時も離せないという訳なのだろう。そう考え直すと、鞄の中に入っているコーヒーをつめた魔法瓶が急に重たく感じた。渡し忘れたそれが、とても大切な物のような気がしてきた。
 許した訳じゃない。持ってきたコーヒーが無駄になるのが嫌なんだ。そう自分を納得させて校舎へ引き返す。つい先程まで川澄さんが居た一階の廊下には誰も居ない。落としたケーキの跡形もない。もう帰ったのだろうか。いや、外への出入り口は僕が通った用具庫以外にあるとは考えられない。川澄さんを捜して旧校舎を歩き回る。
「川澄さん」
 呼んでも返事はない。おかしいな、どこへいったのだろう。僕があまりきつい言い方をしてしまったから会いたくないのだろうか。それなら仕方がない。
 廊下をとぼとぼ歩いていると、ちょうど音楽室の前に出た。



 15.

 吸い寄せられるように教室の中に入る。今日も月明かりにピアノが見えた。なんとなく不気味な夜の校舎で、この場所だけは、ピアノを見ていると気持ちが落ち着く。非現実的な出来事が続くこの場所で、日常と言っていい僕の生活と重なる世界がある。現実と繋がるイメージがある。今日は邪魔が入ることはないだろう。そう考えながらスツールを引き寄せて腰を下ろした。
 カバーを上げて夜目に鍵盤が見えてくるまで暫く眺める。そして指の関節をもみほぐして、軽く鍵盤を弾く。グランドピアノを弾くのは初めてだった。それ程変わらないと思っていたが、その発色の豊かさと余韻の心地よさに驚く。単純な和音を弾いただけで、違いがはっきり解った。表現が豊かなのだ。繊細さを失わず、しっかりとした力強さも持ち合わせている。普通の家とは違い、天井が高く広い教室であることも関係しているのだろう。

 キーをなで回しながら、何か簡単な曲を弾いてみたくなる。見上げるとパッヘルベルの石膏像がこちらを向いていた。うん、”カノンとジーグ ニ長調”それでいこう。目を閉じて曲のイメージを思い出す。母親と一緒に並んで座って弾いた時の思い出、子供のころの感動と音楽への好奇心をもう一度甦らせる。想像する。願う。もう一度取り戻したい過去の日常を思い浮かべる。そしてそれを旋律に置き換える。
 もう何年も弾いていないが大丈夫だろうか。そんな心配もあったが、身体は忘れていなかった。思い描いた追走曲の、単純でいながら不思議な音と音との重なりが、響きが、僕の体へ、夜校舎へ響く。僕は全く眼を瞑ったまま弾いていた。曲の終わりまで来ると、そのまま戻って最初から弾き始める。今度はもっと気持ちを込めて。

 ふと視線を感じて目を見開いた。川澄さんが直ぐ側に立っている。いきなり現れたその姿も、今は僕を驚かせはしない。ここは僕の描いた旋律が占めている世界だから。右手に剣を携え、左手にはモンブランの残骸を乗せたケーキの箱を抱えた川澄さんが歩み寄ってくる。鍵盤の上を勝手に動く指をそのままに、僕は川澄さんに訊いた。
「まだ居たのかい」
「……うん」
「ケーキは美味しかったかな」
「……まだ、食べてない」
「その辺に魔法瓶があるだろう、勝手に飲んで良いよ。あ、熱いから気をつけた方が良い」
「…………」
「落としたケーキをどうするつもりだ。もうそんな物は食べられないだろう?」
「……せっかく持ってきてくれたから」
「良いんだよ、好きにしてくれて。それで僕に何の用かな」
「…………」
「何も言いたくなければそれでも良いさ」
 いつも僕の方から川澄さんへ語りかけてきた。彼女の方から何かを伝えようとしているのは初めてだ。川澄さんは小声で言った。
「……聞かせて」
 川澄さんは、箱を抱えたまま僕の隣に腰掛けた。彼女の、石けんの匂いを感じる。今、隣に座っている彼女、昼間のものぐさとも思えるほど無関心な彼女、夜の校舎で剣を構える彼女。どれが本当の川澄さんなのだろう。

 その日、川澄さんを襲う「何か」は現れなかった。そろそろ良いだろうと思って横を見ると、川澄さんはそれこそネコのように丸まって寝ていた。あまりに寝顔が安らかなので、起こすのは気が引ける。すーすーと寝息を立てながら大きな箱を抱えている姿は、まるで子供だ。眠りながらも手放さない剣を除けば。毎晩、夜の校舎に立っているのだろう。普通なら眠くなるのが当たり前、昼間の無気力とも取れる姿はこんな生活が続いたせいなのではないだろうか。。川澄さん、あなたは笑わないね。魅力的だと思うが……。
 こくこくと小さく揺れる横顔を眺めながら、僕は同じ曲をくり返しくり返し、朝の光が差し込むまで弾き続けた。



 16.

 昼休み、何故か僕は階段の踊り場で倉田さんの作った漬け物を褒めている。僕ははっきり拒否したつもりだった。なのに今日もビニールシートに座って、手作りの弁当をご馳走になっている。ついでもらった茶を飲みながら、芋の煮っ転がしの微妙な味付けについて倉田さんと意見を交換している。今日は僕用の箸まで用意されていた。
 倉田さんと川澄さんが教室まで迎えに来てしまったのだから仕方がない。そう、仕方が無く僕は付いていったんだ。だけどそんなに意地を張るようなことでもない気がしてきている。
「川澄さんは和食と洋食、どちらが好きなのかな」
「……和食がいい」
「それで倉田さんの弁当はいつも和風なのか」
「はえ、久瀬さんは洋風のほうがお好きですか?」
「僕もこのままの方が良いよ」
「あははーっ、今度の丑の日には鰻にしましょうね〜」
「……鰻さん、嫌いじゃない」
「そのもの自体は、あまり可愛くないと思うけど?」
「天ぷらとか、お寿司も良いかもしれませんね」
「倉田さん、昼のお弁当には似合わないよ」
「そうでしょうか?」
「いや、似合わなくないかも……」
「あはははーっ、久瀬さん、今度がんばって作ってみますね〜」
 この場所でなら、昼の弁当に何が出てきても納得できそうだ。「あはははーっ、今日はお寿司ですよ」「天ぷらは揚げたてが美味しいですよね〜」。うん、倉田さんならやりかねないと思う。
 会話が破綻せずに続くというのが不思議だ。川澄さんが変わったのか、僕自身が変わったのかは解らないが。おかしな事がきっかけで知り合ってしまった仲だが、こんなのも悪くないと思う。とても居心地が良い。ほとんど無言で自分の食事に専念している川澄さんも、まあ、そういう性格なのだと何故か納得できる。興味深い人だ、彼女は。

「そういえば、倉田さんは今年も参加するんだろう?」
「はえ?」
「舞踏会。もう開催は来週だよ」
「佐祐理は今年は出ません」
「え、どうして?」
「誘ったんですけど、舞が参加しませんから……」
 変な友情もあったものだ。
「川澄さんはどうして参加しないのかな?」
「…………」
「今年はいつも以上に準備に念が入ってるから、是非参加して欲しいね。天野君という一年生が仕切ってくれているんだけど、たくさん人が来てくれないと勿体ない」
「舞、やっぱり参加しませんか?」
「……(ふるふる)」
「ちょっと顔を出すだけでも良いんだよ」
「……私には似合わないから」
「ふえ、そんなことありませんよ〜」
「そうだね、川澄さんだって衣装によってはお嬢様みたいになれるよ。着る物がなければ僕が手配するから」
「…………」
「まあ、ゆっくり考えてくれて良いよ」
 今日も一緒に昼ご飯を食べ、夜には人気のない校舎で彼女に会うことになる。そのとき、また訊いてみればいい。無理に引き受けてもらった天野君のためにも、できるだけ盛大な催しにしたいものだ。それに、川澄さんのドレス姿というのも見てみたい気がする。

『――銀河中心部から放出される電波や恒星運動の追跡観測が行なわれ、多くの銀河の中心部に太陽の数百万倍から数十億倍という大質量のブラックホールが存在することが確認された。このことから、銀河の大部分の中心核には超巨大ブラックホールがあると考えられている。ブラックホールに落ち込む物質は強力な潮汐力によって破壊され、ブラックホールを取り巻いて回転する降着円盤を作る。ブラックホールの質量が十分に大きければ、降着円盤を構成するガスは質点の周りのケプラー運動に近い差動回転をする。このため降着円盤のガスは粘性による摩擦を受けて加熱され、X線やγ線を放出する。同時に角運動量を失って次第に中心へ落ちていき、ブラックホールに飲み込まれる。ブラックホールのシュバルツシルト半径は質量に比例するため、ブラックホールが物質を飲み込んで質量が増えると事象の地平面の半径も大きくなる。このような大質量ブラックホールは、恒星進化の終わりに作られるブラックホール同士が階層的に合体して成長したものであると考えられている――。』



 17.

 舞踏会を控えた日曜日、今日は午前中から学校へ向かい、天野君をリーダーに準備を進める一年生たちを励ましてスイカを差し入れた。やはり僕の目に狂いはなく、天野君は遅れたスケジュールを取り戻してしっかりと皆を纏めている。だからスイカを見た斉藤が「スイカ割り」をしようと言い出しても、別に構わないと思った。準備は充分進んでいるのだし、当面は問題になるような課題もない。たまに息抜きくらいは必要だ。
「天野君、良いかな?」
「久瀬さんが仰るなら構いません」
「そうじゃなくて、君がリーダーなんだから天野君が決めないと」
「私が、ですか」
「そう」
「やってみましょうか?」
 天野君がにこっと笑う。許しが出たので、メンバーたちは作業の手を止めて歓声を上げる。スイカを冷やし行く者、棒を探し始める者。手際の良いことだ。そんな集団を創り上げるというのは、なかなか難しい。

 スイカを置こうとした斉藤が叩かれたり、天野君が振りかぶった木刀が斉藤の頭を直撃したり、目を回した斉藤が天野君に抱きついたり。最後のはちょっと問題だが。良い気晴らしにはなったようだ。しかし斉藤はああいう性格だったろうか。わざと演じているような気もする。天野君の補佐役として足りない部分を補おうとでもしているのか。まあ、いい感じに纏まっているので今は何も言うまい。
 一時の遊びが終わり、再び真面目に準備を進める一年生たちを手伝った。舞踏会では食事も提供するので、仕舞い込まれていた食器やテーブル用品を調べてきれいに洗う。今日はほとんどその作業で潰された。

 午後九時頃になってようやく目途がつき、メンバーは帰り支度を始める。
「久瀬さんは帰らないのですか」
「ああ、待ち合わせの予定があってね」
「こんな夜に?」
「そう、こんな夜中になんだよ天野君」
「よくわかりませんが、わかりました」
「あ、そうそう」
「はい?」
「斉藤には気を付けた方が良い、奴は天野君が好きなんじゃないかな」
「からかわないでください」
「はははっ、僕にはそう見えるんだけどね。意外と無理してると思うよ彼は」
「……知りませんっ」
 顔を赤くして天野君が駆けだしていく。解りやすい人だな、天野君は。僕は誰も居なくなった校舎で、未だにわからない彼女を待つ。



 18.

「川澄さん、君も休日にご苦労なことだ」
「…………」
「残り物だけど食べるかい、スイカ?」
「……(こくっ)」
 夜の校舎に、しゃくしゃくとスイカを囓る音が響く。川澄さんは今日も片手に剣を持ったままスイカを口にした。立ったまま。縁側に座って花火を見ながら食べるなど、彼女にはあり得ないのだろうか。季節を感じさせない人だ。いや、そんな日常からは遠く隔たった所にいる人なのだ。でも、そんなのは悲しい事じゃないだろうか。夏になれば山や海へ出かけたり、プールで遊んでみたり、頭に響くかき氷の冷たさを感じてみたり。僕たちはそう言うモノから夏を感じるはずだ。
「川澄さん」
「なに……」
「あなたは夏休みにも学校に来るのかい」
「…………」
「花火を見たり、祭りの夜店を覗いたりはしないのかな。みんなで海へ行ったり、旅行したりはしないのかな」
「私は、ここにいなければならないから……」
「出ない日もあるんだったね。なのに毎日来るのかい?」
「…………」
「川澄さんは、何か趣味はないのかな」
「……趣味?」
「そう、何か好きな物とかだよ」
「……星が好き」
 彼女は、そんなところまで夜の日常から離れられないのか。
「どうして星が好きなんだい?」
「……いつもそこにあって、ずっと変わらないから。それに綺麗」
「僕も子供の頃はよく星を見ていたよ」
「私もなりたい……」
「え?」
「……でも、きっと私は弱すぎるのだと思う……」

 見上げる天井、それがピキッっと音をたてた。まるで何かがぶらさがっているように、ぐんっ、と低い音を立ててその先の壁が地震でも起きたかのように揺れた。恐ろしく目に見えない重圧がのしかかってくる。
「…………」
 川澄さんは体を低く落とし、前かがみの姿勢で待ちかまえる。床を這う衝動が僕のふくらはぎを撫でた。すれ違う瞬間、川澄さんは一歩踏みだし剣を薙いだ。甲高い金属音が響き渡り、同時に川澄さんが廊下の先に弾き飛ばされた。
 唖然として眺めていると、僕の脇に置いてあったスイカがぐしゃぐしゃに潰される。危険を感じて逃げようとするが、足を滑らせて廊下を転がってしまう。僕の頭上を何かが高速で通り過ぎた。
 今度は、駆け抜けざまに剣を振り抜いた格好で川澄さんが廊下の先から姿を現す。異質な音と、何もない空間に響く衝撃。剣を振り抜いた姿で着地した川澄さんが、余韻を断ち切ってすくっと立ち上がった。
「……怪我は?」
 そう言って川澄さんが僕に腕を差し延べた。
「ありがとう、大丈夫だよ」
 川澄さんの助けを借りて立ち上がる。握った手は熱く汗をかいていた。平然とした顔や素振りからは解らなかったが、手首に大きく脈打つ鼓動が僕と何も変わらない人間を感じさせる。神秘的に見える彼女だって同じ人間なんだ。怖くなったり緊張することだってあるのだろう。
”パシッ”
 妙な音がした。僕を支えるために川澄さんが片手で持っていた剣が不自然に弾じかれ、けたたましい金属音をたてて、平らな廊下を転がっていく。まるでそれを見計らっていたかのように川澄さんの手から剣が奪われた。
 川澄さんの手が空を掴む。しゅう、と気配を感じる。彼女を攻撃する「何か」には目があるのだろうか。いや、そんなタイミングを計り、不利な状況に追い込む知覚さえもあるのだろう。護りを失った川澄さんに「何か」は細かく攻撃を重ねる。それを受けて川澄さんはじりじりと後退するばかり。廊下を追い詰められていく川澄さんとは反対方向に、転がった剣がある。僕は剣を拾いに走った。格好など気にしていられない。身を低くして転がるように剣に近づく。そして手に取った。

 そんなはずはない! 僕には理解できない。理不尽だ。こんなに非現実的なことがあるだろうか。

 剣を握る僕に、川澄さんがこちらへ駆けながら指で天井を指し示す。僕はそこへ、掴んだ剣を投擲した。空中に投げ出された剣をしっかりと掴む手が見える。その瞬間、刃が怪しく光った気がした。廊下へ降り立つと同時に、刃が垂直に振り下ろされる。そのまま手の甲を返し、今度は水平に。打ち込まれる剣は金属のように鋭利な衝撃音を伴って空間へ振り下ろされる。そして川澄さんは、肩の後ろへ引いて一気に突きだした。気配が消えた。
「…………」
「逃がした、でも、もう虫の息」
「そうか……」
 どういうことだ。川澄さんが手にする剣は、月明かりに金属の煌めきを放っている。そして見えない何かに傷を与えた。しかし僕が実際に持ってみた感覚に間違いはない。あれは……。



 19.

 僕の頭の中に、漠然とだがある理論が浮かんできている。それを確かめるために今日もまた夜の校舎を訪れる。
「昨日はさんざんだったね、川澄さん」
「…………」
「川澄さんが追い詰められるほど、あれは強いのかい」
「わからない……」
「そう、だろうね」
「え?」
「いや、そんな気がしただけだよ」
「それはなに?」
「ああ、今日の差し入れだ。天丼とマグロの山かけ丼だけど、どっちが良いかな?」
「…………」
「…………」
「……やまかけ」
「そっちなのか……」
「じゃあ、天丼」
「はははっ、じゃあって何だよ。好きな方を食べればいい」
 僕は川澄さんに丼を持たせて、割った割り箸を渡す。
「持っているから、ゆっくり食べなよ」
「一人でできる」
「どうやって? 剣を持ったままでは無理だろう」
「…………」
 仕方ないと判断したのか、川澄さんが丼に箸を差し込みご飯を掻き込みだした。
「誰もあなたのご飯を取りはしないから、そんなに急いで食べなくても良いだろう。ほら、鼻についたじゃないか」
 とろろが顔についても、無頓着に川澄さんは食べ続ける。
「ちょっとこっちを向くんだ」
「?………」
 よく解らないまま顔を上げた川澄さんの口元を、ポケットから出したハンカチで拭おうとした。急に川澄さんの表情が変わる。そして丼を僕に押しつけて駆け出そうとする。そんな彼女の肩を掴んで、引き留める。
「こちらから追いかけなくても良いだろう」
「…………」
「それに、そのままだと痒くなってしまうよ」
「構わない……」
「もう少し、身なりや見た目に気を遣ってはどうだ。まったくあなたは子供のような人だ」
「…………」
 今度は黙って顔を拭かせる川澄さんは、警戒を解かずに厳しい目であちこちに視線を巡らしている。
「あ、それと食べ終わったら僕に付き合って欲しいんだけど、いいかな?」
「…………」

 自分も食事を終わらせ、川澄さんと二人で旧校舎へ向かう。自分の場所を離れたくないらしい川澄さんの手を引いて、目指す教室の扉を開ける。月明かりに浮かび上がるピアノ、過去の音楽家たちの石膏像、乱雑に並べられた生徒用の机。音楽室に付き物の譜面台や楽譜が、片づけられずに散乱している。
「川澄さんはここに座って」
「…………」
 首を傾げながらも、無言で川澄さんはひとつの椅子に腰掛ける。僕はピアノを前にして訊いた。
「川澄さん、好きな曲は?」
「…………」
「あんまり難しいのは僕には無理だけどね」
「……わからない」
「じゃあ、好きな物は?」
「動物さん」
「そうか」
 僕が弾ける曲で、動物と関係ある曲。ひとつだけ思い出した。
 ”ね、こ、”
「…………」
 ”ね、こ、ふんじゃった”
 ”ね、こ、ふん、じゃっ、た”
 ゆっくり、最初は指使いを確認しながら弾いていく。

「明日だね、川澄さん」
「舞踏会?」
「そう、覚えていてくれたのか」
「…………」
「僕は、あなたが参加してくれたら嬉しいね」
「…………」
「音楽が好きなんだろう」
「嫌いじゃない」
「音楽っていうのは怖さを忘れるための物、そう言う説明をする人もいるんだよ。そして演奏はその瞬間だけの魔法。昔の人は言葉の感覚が豊かだよね。そうは思わないかい。たき火を囲んだ原始人も、現代人の僕たちも、音楽を聴いて踊りたくなるのはどうしてなんだろうね。きっと同じ恐怖を、変わらない不安を感じているからだと思うんだ。将来の不安を、過去の過ちや後悔、死や別れをね……」
「…………」
”ふんずけちゃったら、ぺったんこ”
「僕は母親からピアノを弾くことを教わったんだよ。まあ、聴いて解るとおりそんなに上手くはないけどね」
「……そんなことない」
「ん、ありがとう。だから、弾くといつも思い出すんだよ。誰でもずっと一緒にはいられない。いつか別れる時が来るんだよ。それは悲しいことだ。だけど、永遠なんていう嘘を信じてはいけないんだと思う。楽しい時も、辛い時も、きっと終わりのない物はないんだよ」
「…………」
「川澄さん、あなたが戦っているの物は何だと思う?」
「……わから、ない」
「そうかな」
「…………」
「あなたは解っているような気がするけどね」
「……帰る」
「そうか。明日は参加してくれるかな」
「…………」
「…………」
 ”ねこ、ふんじゃった”
 ”ねこ、ふんじゃった”
「……うん」
「ありがとう」
 
 川澄さんはそう言い残して僕を置いて帰っていく。僕はその日、夢を見た。大きなホールのステージでピアノを弾いている自分。青空が眩しい。そして観客席の端には、一人だけちょこんと座ってこちらを見つめる川澄さんがいた。



 20.

 開場は八時。衣装は更衣室に置いてある。川澄さんが参加することを伝えると、倉田さんも喜んで同伴すると言った。「思い出をたくさん残しましょうね〜」と笑う倉田さんの言葉は素直すぎてちょっと恥ずかしいが、僕も同意したい。そんな思い出が彼女を変えてくれないかとと考える。
 会場は、なかなかいい感じに出来上がっている。一年生には感謝しておかないとな。床一面には絨毯が敷き詰められ、真ん中のスペースだけが体育館の元の床が出ている。本格的なダンスをする者もいるからだ。そういった者は専用の靴を自分で持ち込んで履き替えている。リンネルの白いテーブルクロスがかけられたテーブルに料理や飲み物が並び、皆が正装で談笑している。教師の数人も、その場に合わせた服装で生徒たちと話をしている。良家の子弟や特別進学クラスの人間が多い。自分もその一人として思われていることだろう。私立のこの学園は、そういう歴史を持っている。
「凄いですね、去年より立派ではありませんか」
「うん、細かいところまで気を遣ってる感じですね」
「誰だっけ、担当した一年生は?」
「天野とかいう地味な女の子だったはずですね」
「ああ、あの子か。意外とやるじゃないか」
「あ、久瀬さん……」
 そんなやりとりをしていた数人の生徒が、僕と顔があって言葉を濁す。去年の責任者は僕だったのだから。
「去年も……よかったですよ、久瀬さん」
「はははっ、僕も凄いと思うんだよ、今年は特にね」
「はっ?」
「一年生は頑張っていたからね。責任者が女性だと、細かいところにも気が付くのかもしれない。僕の時よりしっかり出来上がっているよ」
「そう言えば、心遣いのようなものがありますね」
「今日は楽しんでいってくれ」
「ええ、そうさせてもらいます久瀬さん」
 ガラスのピッチャーから、ミネラルウオーターをついで飲む。ぴったりした皮の手袋を脱いでしまいたかったが、しきたりだから仕方ない。

 暫くして、川澄さんと倉田さんが会場に姿を現した。
「お待たせしました〜」
「…………」
 倉田さんは相変わらずドレスが似合う。今年も男子生徒の標的となることは間違いない。川澄さんは恥ずかしそうに口をつぐむ。今の君ならあの連中と一緒にいても可笑しくない。似合ってるよ。そんな台詞を飲み込んだ。
「最初は僕がお相手させてもらって良いかな?」
 川澄さんを誘う。もう、この二人にはあちこちから声がかかっていた。優雅な弦楽器の音色が場に彩りを添え、軽快なウインナワルツが始まる。僕は川澄さんの手を取って中央の舞台に招いた。
「どうすればいいの……」
「やってみればそんなに難しくはないよ」
「…………」
「タンタンタン、タンタンタン。三拍子のリズム。解るかな?」
「こう?」
「そうそう、上手じゃないか」
 僕なんかよりも、ずっと運動神経の良い川澄さんだ。簡単なステップを覚えるのにそれ程時間はかからなかった。
「……このドレス、どうしたの?」
「母親のものだよ」
「お母さん?」
「うん、家から持ってきたんだよ。母はダンスが上手だった。小さい頃は、よく一緒に踊ってもらおうとせがんだものだよ。父親と三人で踊ったこともあった……」
 川澄さんと踊っていると、横から声をかけられた。
「会長が踊るなんて、珍しいですね」
「ところで、お相手の綺麗なその方は?」
「三年の川澄さんだ」
「川澄っ!」
「どうした?」
「失礼しますっ」
 顔色を変えて同級生が退散していった。
「あの人たち、どうしたの……」
「あなたは有名だからね、川澄さん」
「そうなの?」
「野犬をスコップで撃退したり、ガラスを叩き割ったりしておきながら暢気な人だ」
「あなたは違うの?」
「どうだろうね、そんなに変わらないかもしれないよ。だけどね、僕はあなたと踊れて嬉しいよ。それにもう一度その服を着て踊る姿が見れたしね」
「え?」
「ちょっと休憩しようか、川澄さん」
「…………」
 壁際の椅子に並んで座り、トレイを持って会場を歩いている生徒会のメンバーから飲み物を受け取った。吹奏楽部の演奏に耳を傾けながら、斉藤と天野君が踊っているのを横目で眺める。
「……お母さんはダンスが好きなの?」
「うん、好きだったのだと思うよ」
「思う?」
「……母はもう居ないから」
「?」
「亡くなったんだ。もうずっと前、僕が子供の頃にね」
 ”カシャン!”
 グラスが割れる音。川澄さんの顔つきが変わる。張りつめた表情は、なぜだか悲しそうに見える。
「……来る」
「本気か?」
「私は、行かないと……」
「川澄さん、止めるんだっ、こんな所で!」
 ”ガシャーーン”
 僕の制止の声は届かない。二階の窓ガラスが木っ端微塵に割れた。皆が見上げるが、何も見えない。だが、そこに何かがいると信じている彼女がいる。非常口に向かって走る川澄さんの目の前、得体の知れない何かが宙を飛んだ。川澄さんと入れ替わりのようにやってきた人影が床に打ち付けられて転がる。人だ。小さな悲鳴と崩れる動きから人であることがわかる。乱れた髪の間だから見えた顔は――。
 目に見えないうねりが、テーブルを順に飲み込んでいく。うねりは弧を描きながら舞台の中心へ向かう。そこには天野君と斉藤がいた。カシッ、と音がして振り向くと、川澄さんが非常口から再び現れた。ドレス姿のまま、手には剣を提げて。
「逃げろ、斉藤!」
 斉藤は天野君を庇って立ち塞がる。もう駄目だと思った瞬間、いきなり気配が消えた。
「……佐祐理」
 川澄さんは、口をぽかんと開けて立ちつくしていた。滅茶苦茶に壊されたテーブル。グラスや皿が破片となって散らばる体育館に悲鳴が交差する。
「倉田さんっ」
「佐祐理……どうして……」
「早く医務室に運ぶんだ!」
「……佐祐理」

『――膨張宇宙論を決定的にしたのは、3Kの黒体輻射の発見である。これは宇宙初期が高温であるという痕跡であり、この黒体輻射に非常に微弱な揺らぎが観測された。それは膨張する過程で発生し、現在観測されている銀河の構造分布が形成された名残だと推測されている。より精密な宇宙初期の揺らぎのスペクトルを観測することにより、天体の形成が詳しく数値計算で議論されている。そして宇宙のモデルを構築する試みも進んでいる。それらの理論によると、宇宙を構成している物質は90%以上が暗黒物質であるという。また、最近の観測とそれらの解釈をそのまま受け入れると、現在の宇宙の膨張には互いに斥けあう力、予期された宇宙項が大きく関与しているということになる――。』



 21.

 翌日、学校を休んで倉田さんの見舞いに行った。幸い怪我は大した物ではなかった。念のために一日だけ病院で様子を見るが、明日には学校にも出てくるという。自宅の玄関をくぐると、珍しく家にいた父親が僕を出迎えた。
「お前は何をしているのだ、学校はどうした?」
「…………」
 何も言わずに二階の自室へ上がろうとすると、父親が言った。
「後で私の書斎に来い。話したいことがある」

 渋々服を着替えて降りていくと、父親はまた同じ言葉を吐いた。
「お前は何をしているのだ」
 父親は視線を上げずに、縁側へ持ち出した将棋盤に向かっている。父親の書斎に近づくことさえ嫌悪していた自分にとって、数年ぶりに見る部屋だった。夏らしい水墨の掛け軸がかかり、質素というには表現が軽すぎるほど何もない和室。段違いの寄せ木細工に母親の写真が飾ってあった。
「お前は夜な夜な出歩いて、先日は母さんのドレスを持ち出したな」
「僕のことなど構っている閑はないだろう、会社は大丈夫なのか」
「ああ、あの記事を読んだのか。もう出所は押さえた」
「抜け目のない人だ」
「父親に向かって、そういう口の利き方は感心しないな」
「僕はあなたを父親などとは認めない。これ見よがしに写真を飾って、これもあなたの偽善なのだろう」
「お前は私のことが嫌いだろう」
「ああ」
「……何故だ?」
「母さんが入院した時にも、一度だって来たことはなかった。優しい言葉一つかけてやらなかった」
「…………」
「あなたのように非情な人間を、僕は認めない」
「……私に反抗するくらいだから、お前はもう少し成長したと思っていたが」
「なにっ」
「お前は物事の一面しか見ていない。そういう浅はかな見解と幼い考えしか持っていないから、こういう事になるのだ」
 父親がパチッっと駒を打った。盤面の状況など僕には関わりがない。

「好きな女でも出来たのか」
 今度はいきなり妙な所から攻められる。
「あなたに話す筋合いなんてない」
「それでは違う質問にしよう。倉田さんの娘さんが怪我をしたのはどうしてだね?」
「…………」
「お前と学園の催しに参加していたのだろう?」
「あれは、不幸な事故だった……」
「事故?」
「そう、事故なんだ」
「私が聞いた話とは、かなり違うようだが」
「…………」
「お前は何を隠している、いや、誰を庇っているんだ?」
「…………」
「…………」
「……確信が持てない」
「確信、だと?」
「彼女が倉田さんを傷つけるはずがないんだ」
「ほう?」
「だって……」
「その女が好きなのか」
「わからない」
「それでは、何故そこまで庇おうとする」
「…………」

「私と母さんには、何も共通するところなどなかった」
 庭を向く父親が、静かに話しだした。
「大学では、母さんは音楽科の繊細な女性。私は建築科の男たちと遊び回る放埒な学生だった。お前も知ってのとおり、私は親の会社を継ぐことが決まっていた。だからそのころの私は傲慢で、他人の意見など全く耳を貸さない男だった」
「今でもそうなのだろう」
「今以上だったよ。自分の力でできないことなど無いと考えていた」
「呆れた人だ」
「母さんも、最初はそんな風に私を見ていたらしい。私のようながさつ者が発表会へ出かけたのは単なる偶然だった。確か学園のイベントだったろう。音楽などに興味のない私は、観客席で酒を飲みながら仲間たちと騒いでいた」
「救いようのない人だ、あなたは」
「しかし私たちが騒いでいても、母さんは微笑みながらピアノを弾き続けた。最初はなんて嫌な意地っ張りの女なのだろうと思った。しかし、母さんは楽しそうだったのだ。こんな私にさえピアノを聞かせようと弾き続けていた。それは突然だった。私の頭の中に新しい考えかが浮かんできたのは……。信じてもらえるかはわからんが、音楽が私に語りかけたのだよ。強さというのものの本質、内面から直接心へ訴える人の強さをな。私は自分が恥ずかしくなった、そして母さんに興味を持った」
「…………」
「幾度となく弾いてもらううちに、私は母さんのピアノが好きになった。その旋律は私に足りない物を与えてくれた。母さんは、いつか大きなホールで演奏することを夢見ていたよ。体の弱かった母さんにとって、それは叶うかどうかわからない夢だった。母さんは私を信頼してくれた。だから私は、いつか実現するその時まで精一杯支えてやろうと思った……そして私を支えてほしかった。社内で妬みや悪意から辛い思いをしていた私にとって、母さんは、母さんのピアノは安らぎだった。それに解っていたのだよ。だが、それでも私たちは一緒にいることを選んだ」

「……母さんのどこが好きだったんだ」
「とりわけ何もない」
「…………」
「しかし、だ。私は、母さんがいてくれれば後ろを気にせず堂々と生きていけるような気がしたのだ。確かに私は汚い手を使ったし、強引な方法で会社を運営した。多くの人間が私を嫌い、離れていったが、母さんだけは私を理解し、庇ってくれた。どんなに批判されても、正しいと思うことを私がしたなら、それは間違いじゃないと励ましてくれた。私を護ってくれた」
「……笑わせてくれる」
「私は本気だ。人を好きになる理由と責任が、お前にはまだ判らないのだろう。一緒にいるのが楽しい、笑い合える、趣味や好みが合う、そんな物は一面だけの形だ。それが全てではない」
「それでは、どうして……」
「数千人の社員の生活を守る責任があったからだ。そのことは、それだけは母さんにすまない事をしたと思っている。お前にもな……」
「…………」



 22.

 今日も退屈な授業を受けながら、父親の言葉や、川澄さんの事を考える。思考はぐるぐる巡り、結論には至らない。事件を起こした川澄さんには、学園側から何らかの処分が下されそうな雰囲気だった。
 昼休みになり廊下の踊り場へ向かうと、倉田さんがぽつんと座っていた。
「久瀬さん」
「わかってる、川澄さんは自宅謹慎だろう。最終的な処分は今日の職員会議にかけられるそうだ。それまでに生徒会から報告を出せといわれてる」
「佐祐理は何も見ていないんです」
「何も見ていないでは、川澄さんを助けられないよ」
「でも……」
「今回はたくさんの生徒が見ている前での乱暴だ」
「……あの、こういうのはどうでしょうか」
「なんだい?」
「佐祐理が会場を出ようと扉を開けたら、いきなり凶暴な野犬に襲われたんです。舞は犬を退治しようとして……」
「嘘を付くのか」
「あまり良いアイディアではないですけど」
「僕は賛成できないね、多くの人に迷惑をかけてしまったんだ」
「…………」
「だけど、処分を軽くできそうな方法ならあるよ」
「久瀬さん、舞のためにもお願いします」
「僕の力でも今回の事は手に余るよ。だからあなたの協力が必要だ。倉田さん、あなたは生徒会へ入る」
「はえ?」
「あなたの協力というか、正確にはあなたの父親の影響力を使う。倉田さんの父上はこの街の有力者だ。学園への大口寄付もしている」
「そんなの……」
「そう、そんな嫌なことはしたくないね。でも被害者の倉田さんがそこまですれば、情状を酌量してもらえると思う」
「…………」

「久瀬、こんな所にいたのか。探したよ」
 そう言いながら、斉藤と天野君が階段を登ってきた。倉田さんを見つけた天野君が、丁寧に頭を下げた。
「あの、怪我はもう宜しいのですか、倉田先輩」
「大したことはありませんよ〜」
「こんな事になってしまい、申し訳ありませんでした」
「早速だけど天野君、報告書は纏まったかな」
「はい、これです。あの夜、その場にいた生徒会役員の全員から事情を聞きました」
「ちょっと見せてもらって良いかな」
「はい」
 天野君が渡してくれた書類に目を通す。思った通りだった。川澄さんが理由もなく暴れたという方向で内容はほぼ一致している。剣を携えていたとか、いきなりテーブルをたたき壊したという記述が多い。中には冷静に川澄さん以外の所で破壊が起こったことや、躊躇いながらも非現実的な現象をとぎれとぎれに書いている物もあったが、そんなのは少数だった。
 最後に見た一枚だけが、異質だった。その報告書には、はっきりと川澄さんのではない何者かが会場を走り抜け、破壊を引き起こしたと書いてあった。署名は天野君自身だった。
「こんな報告が信じられると思うのかい、天野君」
「でも、私にはそうとしか思えません」
「斉藤は?」
「僕だってそうさ、思い出しても気味が悪いけど、僕たちに襲いかかろうとしたのは川澄さんじゃない」
「でも、剣を持っていた」
「だけど彼女じゃないよ、久瀬」
「倉田さん、信じてくれる人が居るようだよ」
「皆さん、ありがとうございます」
「天野君、これは僕から石橋に持っていっても良いかい?」
「それは構いませんが……」
「うん、僕に預からせてくれ」
「久瀬さん、あの……」
「なんだい天野君」
「あれはいったい何だったのでしょう。なんだかとても悲しそうでした。それに消える時に一瞬ですが……」
「なにか?」
「――石けんの匂いがした気がするんです」
 そうだ、僕はどうして忘れていたのだろう。



 23.

 報告書持って職員室の前に立つと、中からは騒がしいやりとりが聞こえてくる。扉を開けて中にはいると、急に騒がしい議論が止まった。どうやら教員の間でも大きな問題にされているようだ。顧問の石橋を目で捜すと、一人だけ離れたところで弁当を食べている。議論や話し合いには関わり合いたくないと言うことか。目が合うと、こっちへ来いというように大きく手で合図してくる。
「久瀬、待ってたぞ」
 むしゃむしゃと口の中で咀嚼しながら、石橋が椅子を引っ張り出した。
「まあ、座れ」
「直ぐに帰ります」
「そんなこと言わずに、先生の言うことを聞いおけ」
 仕方がないのでパイプ椅子に腰掛け、報告書を渡した。
「これが生徒会からの報告書です。あ、ちょっと待ってください」
 僕は一番上の報告書にある署名、天野君の名前の下に自分の名を書き込んだ。
「どうぞ」
「どれどれ……」
 ざっと目を通した石橋が顔を上げた。
「本気か、久瀬」
「はい」
「……まあ、お前がそう決めたんなら、先生は何もいわん」 
「それでは僕はこれで失礼します」
「いや、ちょっとまて」
「なにか?」
「この報告書を待って、教頭を座長にこれから隣の部屋で会議なんだ。その後ちょっと話したいことがあるから、悪いがここでまっててくれ」
「また出直しますよ」
「いいから待ってろ、久瀬」
 そう言って石橋は資料を持って歩いていってしまった。

 取り残された僕の耳に、パーテーションを一枚隔てただけの会話が聞こえてくる。
「石橋先生、そんなことが信じられますか」
「いいえ、私も信じてません」
「当たり前です、勝手に物が壊れたり生徒が怪我をするわけがないでしょう」
「そりゃそうですね、教頭」
「あの生徒は前々から素行に問題があるというじゃありませんか」
「そういう噂があるだけです、実際の所はわかりません」
「しかし、石橋先生。それでは誰がやったというのです?」
「私には解りませんね」
「川澄という生徒以外に考えられません。彼女は剣を持っていたというじゃないですか」
「剣?」
「真剣を振り回すなど危険きわまりない」
「教頭、あなたはそんな噂を信じるのですか? 普通の高校生が刃物を持って暴れたと本当にお考えなんですか?」
「しかし……」
「噂は私も知っています。魔物を狩る少女?馬鹿馬鹿しい! それに教頭の仰る剣というのはこれでしょうか?」
「ん?」
「あの日、川澄が振り回していたのはこれですよ。ただの模造品です。大方、演劇の小道具か何かを見つけて、それを使ったのでしょう。こんなものは山犬くらいがちょうど良い相手の代物ですよ」
「…………」
「あ、そういえば報告書の中で被害者の倉田が書いてますね、犬がどうしたとか」
「石橋先生は、川澄ではないと仰りたいのですか」
「さあ、私には実際の所はわかりません。わかりませんから憶測で処分を下すのは間違いだと思います。学校とは生徒に対してそういう見方をするところではないでしょう。しかし、舞踏会のあの場で川澄がやった行為は許される物ではありません。備品や学園の設備を壊し、怪我をした生徒もいます。騒ぎを起こしてしまったのは確かです。謹慎1週間。退学とかいう処分よりもその辺で反省を促すのが順当だと思いますがね。それに学園としての外聞も悪いでしょう、教頭先生?」
「しかし、怪我をした倉田は議員の子女で……」
「倉田自身が生徒会に入って、川澄が二度と暴れないようにすると言っています。そして久瀬は会長を辞めるそうですよ」
「久瀬君が?」
「ええ、あいつなりの嘆願なのだと私は思いますね」
 暫くひそひそと聞き取れない声がしたかと思うと、ドアが開いて数人の教師が勢いよく出てくる。一番最後にのそのそと出てきた石橋が言った。
「と、言う訳だ。悪かったな、もう教室帰って良いぞ」
 僕はこの教師を誤解していた。しかし、僕は何故こんな事をしているのだろう。どうしてこんなに清々しい気分になって居るんだろう。彼女の素行に目を光らせていたのは僕たちだったというのに。

 謹慎というのは学校に来ないことだが、授業が終わった夜の学校へ来ることも禁じているのだろうか。そんなことは通常必要ない考えだが――
 その日の夜、やっぱり川澄さんは夜の校舎に佇んでいた。
「ごめんなさい」
「なにが?」
「佐祐理から訊いた」
 今日も玩具の剣を携えて。
「今日は来ない」
「どうして解る」
「私には解るの……」
「そうか」
「もう、来ないで……」
「…………」
「佐祐理にも、あなたにも、迷惑をかけたくないから……」



 24.

「舞にプレゼントをあげようと思うんです」
 倉田さんは、すこし思考が飛んでいるような感じがする時がある。
「学校に来られなくて退屈でしょうし、寂しいんじゃないかと思いますから」
「謹慎の記念品なんて、僕ならいらないけどね」
「直ぐに戻ってこられるんですから、元気を出してもらいたいんですよ〜」
 しかし、何を贈ればよろこぶだろう。相手は川澄さんだ。
「女性への贈り物なんて、僕には何が良いのかわからないよ」
「何でも良いんですよ、去年の誕生日にはオルゴールをあげて喜んでもらえました。小さな豚さんがたくさん飛んでるオルゴールなんですよ〜」
「豚?」
「はい、天使の豚さんです」
 さらに訳がわからなくなってくる。そんな物が売っていることすら知らない。可愛いとは、ウサギとかネコまでではないだろうか。
「定番だけど、花などはどうだろう」
「あ、佐祐理の誕生日には、山ほどの花を抱えて持ってきてくれました。本当にたくさんで、前が見えなくて何度か電信柱にぶつかったそうです」
 まあ、それはそれで一面の川澄さんらしい。

 そんな会話から放課後買い物に行くことになり、倉田さんと僕は商店街へ向かった。女性向けの可愛い店に入るのは気が引けたが、倉田さんに引っ張られて品定めを手伝った。いや、正直なところは何も役に立っていないのだけど。
 数店回ってみたが、なかなか倉田さんは決めようとしない。こうしていろいろと眺めて歩くのが好きなのだろうか。それとも簡単に決めてしまいたくないのか。
「はえ?」
 隣を歩く倉田さんが急に立ち止まった。
「うん?」
「大きなぬいぐるみですね」
 確かに大きい。小柄な人間くらいはある。
「バクかな」
「はえ?」
「夢を食べるといわれる生き物だよ。悪夢を食べてもらおうという考えから、ヨーロッパの方では結構いろいろな物のモチーフにされてる」
「はえ〜」
「もう少し恐い言い伝えもあるけどね。でもこの色は変だな、マレーバクでもないし体つきも実物と違うような……」
 こんな物が売れるのだろうか。店も骨董品やら玩具がごちゃ混ぜにおいてあって非常に怪しい。
「バクではない」
 突然、後ろから声をかけられた。
「これはアリクイじゃ。なかでも1.5メートルの図体を誇るオオアリクイの原寸ぬいぐるみじゃ」
 小柄な老人は、きっとここの店主なのだろう。
「大きな爪でアリの巣を掘り起こし、長い舌でアリをぺろぺろむしゃむしゃ食べよる生き物」
「可愛くないな」
「儂もそう思う」
「じゃあ、どうしてそんな物を売ろうとするんだ」
「儂もそう思う」
「久瀬さん、コレにしましょう」
 じいさんの話も、倉田さんの話も、僕の想像を超えている。
「舞なら、この子も可愛がってくれますよ」
「そうかな」
「おお、買ってくれるかお嬢ちゃん」
「僕は止めた方が良いと思うな」
「……可哀想に、この子を誰も買ってくれんのか。来週には粗大ゴミでかたされるのが定めなのかもしれんのう。やれやれ、可哀想な事じゃ。ああ、可哀想な子じゃ」
「お爺さん、お幾らでしょうか」
「3万1,500円、税込みじゃ」
「定価で売る気なのか、あんたがゴミに出そうとしているコイツを」
「…………」
「倉田さん、こんな店で買い物しない方が良いよ」
「それで結構です」
「え?」
「毎度あり、お嬢ちゃんはこの男とは比べもんにならんほど優しいのう」
「僕も半分出す約束なんだけどね」
「ほ、おんしも性格はひねくれとるが優しいのじゃな」
「大きなお世話だよ」

 結局、倉田さんは不気味なぬいぐるみを言い値で買ってしまった。騙されていると思う。しかし、どちらかを選ぶなら騙すよりも騙される方が楽だろう。楽な生き方なんだろう。ぬいぐるみを背負った倉田さんは、そのまま川澄さんへ渡しに行くという。僕は生徒会の残務整理があるので学校へ戻ることにする。やりかけの仕事を他の役員へ引継ぎ、申し送りをしなくてはならなかった。



 25.

 川澄さんの様子はどうだろうと夜の校舎へ向かう。あの妙なプレゼントをもらって、どんな顔をするのだろう。いや、まさか歓喜して大げさに喜んでみせるなど、彼女の場合は考えられない。「……ありがとう」そんな一言をぼそっと呟いて終わりなのではないか。
 しかし、そんなのも微笑ましい気がする。彼女は謙虚すぎる。装飾がない。自分の感情を出すことにかけては拙な部類の人間だ。だから誤解される。理解して欲しくないとでも言うように、関与を拒む。決して自分の心の中には誰も入れようとしない。そして誰かの心へ踏み込もうともしない。いつも一人で夜の校舎で佇んでいる。誰か、そうだ、誰かを待ち続けている。
 彼女には、倉田さんや僕の存在などただの脇役に過ぎないのかもしれない。彼女を支えられるのは、その誰かしかいないのだろうか。しかし、受け入れて欲しい。倉田さんや僕が川澄さんを案じている気持ちを。気付いて欲しい、自分を苦しめることで得られる孤独から抜け出すことを。

 薄暗い校舎の廊下には川澄さんが立っていた。いつも通りに。後ろを向いた川澄さんの背中が震えていた。どうしたのだろう。崩れるように川澄さんの体が揺らぐ。その奥には、大きなアリクイが転がっていた。うつぶせに倒れている女性は壁からずり落ち、床にうずくまって全く動こうとしない。
「どうして……」
「倉田さんだと解らなかったのか」
「佐祐理……」
「何を突っ立っているっ、早く倉田さんを運ぶんだ!」
「佐祐理……」
「川澄さん、今は倉田さんを病院へ連れて行くのが先だろう!」
「…………」
「邪魔だ、川澄さん。そこを退けっ」
「……佐祐理」
 慌てて駆け寄り、倉田さんの首に指を宛てる。大丈夫だ、脈はある。瞳孔も異常はない。髪の毛掻き分けて頭部を見る。幸いなことに頭に外傷はなかった。しかし肩を叩いて問いかけても返事がない。浅い呼吸が感じられるが出血が酷い。肩口から滲み出て床に溜まった血が、気味悪く月明かりに反射する。
「川澄さん、それを貸せ」
 無理矢理に川澄さんのリボンを解いて、片面をライターで炙る。そして殺菌した面を静かに傷口に宛てて応急の止血をした。
「ここを押さえるんだ、思いきり」
「……怖い」
「いいからやるんだ!」
 呆然としたままの川澄さんの腕を取って、出血部分を圧迫させる。
「救急車を呼んで、校舎の外で待つ。運ぶのを手伝え」
「…………」

 今度は軽傷ではすまなかった。ストレッチャーに乗せられる倉田さんを見送り、真夜中の住宅街を照らす赤色灯が走り去るのを眺める。
「大丈夫、きっと元気になる」
「…………」
「川澄さん、あなたはこれからどうする気だ」
「……学校」
 
 薄暗い校内に戻り、旧校舎へ向かう。川澄さんは音楽室に入ると窓際の机に腰掛けて月を見上げる。青白い光に照らされて、幻想的に見える。しかし後悔と悲しみから横顔が寂しそうに俯く。
「傍に来て……」
 言われるまま、窓際へ歩み寄る。
「座って」
 一緒に見上げる夜空に、赤く輝く星が見える。
「アンタレス、サソリの心臓だね」「
「…………」
「その隣が射手座。いて座はね、隣のサソリが悪いことをしないように矢で見張っているんだよ」
「サソリさんは悪い事をしたの?……」
「そう。でも、優しい星だよ」
「…………」
 川澄さんが小声で呟く。
「……私のせい」
「そうだな」
「そして、自分だけ傷つかないでいる」
「それはどうかな」
「だから……」
「川澄さん、代償を求めてどうするんだ。そんな物はあなたの自己満足じゃないか」
「違う……」
「いや、違わない。本当はあなただって気が付いているはずだ」
「…………」
「…………」
 机から降りた川澄さんが、僕を見つめた。
「……弾いて」
 ピアノに向かう僕の隣に川澄さんが座り、肩に頭を載せた。
「どうしていいのかわからない……」
「解る人など居ないのかもしれない」
 僕は静かに鍵盤へ指を乗せる。 
「でも……」
 そう言いかけて、川澄さんはすくっと立ち上がった。
「決着をつけないと」
 そうだ、決着を。もうこんな事は御免だ。

『――膨張する宇宙がこの先どのような運命をたどるかは、考えられている宇宙モデルによって異なる。一様等方という宇宙原理を満たすような宇宙モデルには、空間の曲率が0の平坦な宇宙、曲率が正の閉じた宇宙、曲率が負の開いた宇宙、この三通りの可能性がある。平坦な宇宙か開いた宇宙であれば、宇宙は永遠に膨張を続ける。閉じた宇宙であればある時点で膨張から収縮に転じ、やがて大きさが0に潰れることになる。また、宇宙が平坦であり永遠に広がり続けるとしても、それは最終的に宇宙が熱的死により安定化することを意味する。いずれにしても宇宙とは静的で永遠の存在などではなく、生命と同様に流転を閲し、雄大な時を必要とする輪廻の輪を生きる世界である――。』



 23.

 翌日、校舎に入ると人だかりができていた。何事かと群衆を掻き分けて前に出る。廊下で剣を振るう川澄さんが、半狂乱で窓ガラスを叩き割っていた。
「久瀬、手が付けらないよ!」
「野次馬を避けさせろ、斉藤」
「わかった」
「怪我人が出たりしては大変だからな」
 川澄さんの目の前に立ちふさがり、大声で怒鳴りつける。
「気は済んだか!」
 僕の声は聞こえていない。なにも聞かずに、何も見ずに、ただ自分の殻に閉じこもろうとしている。止めに入ろうとした僕の腰を、めちゃくちゃに振り回される剣の柄が打った。痛みに声が詰まる。
「……気は済んだか」
 子供だ、あなたは子供だ。誰かに見て欲しいのか。悲しんでいる姿を認めて欲しいのか。傷を負えば許してもらえると思っているのか。不幸を背負えば納得するのか。
「はぁはぁ……」
 目を合わせずに荒い息を吐く彼女。そんな川澄さんを強引に引き寄せ、正面から顔を見る。
「それがあなたの答えなのか」
「はぁはぁ……」
「答えろ、いつまで甘えているつもりだ」
 遠巻きに眺める生徒の輪から、一人の教師がしかめ面で歩み寄ってきた。
「久瀬と川澄、追って詳しい事情を聞くことになるが、今日はお前たち二人とも家に帰れ。自宅待機だ。理由は言わなくても解るな」
「先生、迷惑をかけてすいません」
「場合によっては退学も覚悟しておけよ」
「……はい」
「いかに学校でも、生徒が自分から去ろうとするなら止められん……」

 学校へ向かう人波みに逆らい、川澄さんを連れてその場から逃げるように立ち去る。校門を出たところで川澄さんが呟いた。
「今夜、すべてを終わらせる」
「もういい加減、あなたと一緒にいるのは疲れた」
「手伝って欲しい……」
「何をしろと?」
「……必ず、来て」
「ああ、最後まで付き合わせてもらうよ」

『――現在では「ビッグバン」という言葉は一般的にすっかり定着している。しかし宇宙が空間の一点から始まり、膨張とともにその空間の中へ広がっていくというイメージには誤解を招く恐れがある。つまりは、宇宙には境界が無いのである。例えるならば、地球の表面には境界がないのと同じである。第2離脱速度に達しない一定の速度で飛行する航空機は、地球をいつまでも回り続けることになる。それはどの方向に向かっても同じ事である。現在、この宇宙から飛び出すほどのエネルギーは確認されていない。また、宇宙は始めからその空間の全てであり、一般相対論の枠内ではそのような別の高次元な空間は無いとされている。勿論、観測ができない以上、実際にはあるのか無いのか確かめることができない。確証がなく理論構築が難しいとしても、その存在を否定するものではない――。』



 24.

 日が暮れるのを待って、自宅を出る。川澄さんと出会った時から今までのことを思い返し、仮定となる「もしも」を考えながら。疑問に思っていることはたくさんあった。それぞれをつなぎ合わせると、朧気ながらひとつの説明が出来上がりそうだ。だが最後の、一番重要な所を繋ぐ輪が見つからない。
 いつもと違う時間に訪れたファミリーレストランは、人で溢れていた。
「怪我はもう大丈夫?」
 いつものウエイターが聞いてきた。
「はい」
「ケンカでもしたのでしょう? 男の子なら、やったやつらを見返してやらなきゃ」
 うん、僕もそのつもりだよ。はっきり叩き潰すつもりだ。

 夜の校舎は静かだった。多分、川澄さんの思いとは違う形で、決着をつけなくてはならない。明日からは穏やかに彼女が学園生活を遅れるように。そう願う。
「川澄さん」
 いつものように佇む彼女に聞く。 
「残るのは何体なんだ」
「三体」
「全てを殺す気か」
「終わらせる」
 そうだな、終わらせよう。こんな馬鹿げた騒動は、悲しい物語は終わりにしよう。
「古い物だけど……」
 川澄さんが刃を下に向けて、剣を差し出す。これで戦えと言う意味なのだろう。しかし、僕の武器は違う。
「いや、僕には必要ない」
「太刀打ちできない……」
「僕は自分の武器を持ってきている」
「そう……」
「…………」
「……ねえ」
「ん?」
「全てが終わったら……」
「なんだい、川澄さん」
「なんでもない」
 そういって駆けだしていく。不器用な人だ。しかし、嫌いじゃないよ。僕はあなたに会えて楽しかった。

 川澄さんが駆け出すと直ぐ、背後に重苦しい気配を感じた。やっぱり来たな。それ程までに拒絶することはないだろうに。廊下を踏み出したところで背中に鈍い衝撃を受ける。続けて、バチッっと目の前で何かが弾けた。一瞬後には、壁を片方の頬を押しつけて不格好に倒される。やれやれ、三階まで行かなくてはならないというのに。
 無様な格好で階段を這う。やはり護身用にでも刀を受け取るべきだったかもしれない。いや、それは出来なかった。口の中に血の味がする。父親に殴られた時と同じ嫌な味だったが、それも懐かしい味だ。喉に絡んだ痰と共に、口の中の血を床にはき捨てる。たどり着けるだろうか。遠く、彼女が戦っている音が聞こえる。
 第2の攻撃は無い。やはりそうだ。傷つけたとしても、他人の生命を奪うことは出来ない優しさか。いや、邪魔者は排除しようとするが、それ以上に干渉はしないということか。二体一緒になって現れることもあるんだな。やっぱりそうか。対する人間が二人になれば、それに対処するために強くなる。分かり易すぎる理屈だ。そんな不器用で愚直な思いが腹立たしい。空間の裂け目から襲う威圧感が、僕の頭上を掠めた。
「逃げて!」
 次にはそんなことを言う。絶望的な戦いを一人で戦い抜かなければならないと思っているんだね。優しいな。だが、その優しさが問題なんだっ! 自らを否定し続ける先に何がある!
 衝撃と異質な音。もう聞き慣れた音が廊下に響く。
「……二体を手負いに出来た」
「そうか」
「もう、虫の息」
 確信はない。だが、僕の考えが当たっているとしたら。
「もう、戦うのは辞めたらどうだ」
「…………」
「剣を捨てれば、もっと楽になるかもしれない」
「私は、魔物を狩る者だから……」
「あなたは気付いているはずだ」
「…………」
「そんな玩具で、何を切るというんだ。どうして切れると思うんだ」
「私は信じてる……」
「忘れるんだ」
「そんなの……」
「川澄さん」
「……私にはできない」
 川澄さんは僕の前から後ずさり、廊下の奥へ駆け込んでいった。まったく頑固な人だ。それなら仕方がない。僕は僕の戦いをさせてもらう。

 ようやく二階へ辿り着く。シュッ、と空気が鳴った。長い廊下を、異質な音が駆け回るように反響している。僕の意図に気が付いたのかな。それを受け入れたくないのかな。だけど、これが僕の戦い方だ。不気味な廊下をあらん限りの力で駆け抜ける。後ろから、ぱちぱちと爆ぜるような音が聞こえた。
 大きくジャンプして廊下の角へ飛び込むと、場違いな石けんの無垢な香りがした。通路を折れた先で、川澄さんが今、着地を遂げた格好で床に膝を折ってしゃがんでいる。  
「仕留めた」
 無表情にそう言う、彼女の強情なほどの意志の強さはどこから来るのだろうか。
「これを使って」
「いや、僕は要らないと言ったはずだ」
「…………」
「残りは何体だ」
 その時、川澄さんの異変に気が付いた。剣を支えに辛うじて立っているように見える
「どうした」
 体を支えてあげようと、手を差しのべる。川澄さんはじっと見つめて考えるが、首を横に振る。
「上っ!」
 細かなガラスの粉が降りかかる。パリン パリンと、連続して蛍光灯が割れていく。目の前の蛍光灯が割れた次の瞬間、ガシャンと音がして投げ出された自分の体が窓ガラスをぶち破る。

 幸い、落ちたところは中庭の池だった。しかし二階から落とされたら普通は大けがするだろう。そんなことも計算しているのか。ご苦労なことだ。
「久瀬っ、お前どこから出てきた!」
「あ、あの、大丈夫ですか?」
 声のする方を見ると、斉藤と、斉藤の後ろに隠れた天野君が懐中電灯で僕の顔を照らしていた。
「眩しいから、それを消して欲しいな天野君」
「は、はい」
「久瀬、何やってるんだよ」
「お前こそどうした、斉藤」
「どうしたじゃないよ。家に行っても居ないし、さんざん探したんだ」
「良くここだと解ったな」
「舞踏会の騒ぎも、倉田さんが怪我をしたのも、不思議なことは夜の学校で起きていますから」
 さすがに天野君は理論的だ。
「久瀬、大丈夫か?」
「大丈夫なわけないだろう、二階から落ちたんだ」
 斉藤に肩を貸してもらって起きあがる。
「ここで何が起きてるんだよ、久瀬」
「何も起こってない」
「は?」
「現実には何も起こっていないんだよ、あるのは過去の記憶だけだ」



 25.

 斉藤と天野君には校舎の外で待っているように頼み、一階の窓ガラスを割ってそこから再び校舎の中に入る。ガラスなど買い換えれば良いだけのことだ。
 入り組んだ旧校舎の廊下を巡り、階段を這い上がる。踊り場に人影が見えた。
「川澄さんか?」
 川澄さんは膝を突いたまま動かない。
「足が痛むのか、見せてみろ」
「追う……」
「残りは何体だ?」
「一体」
「奴は逃げない、そうだろう?」
 外傷はないが大きく腫れた痣が痛々しい。
「痛むだろう」
「それほどじゃない」
 そうか、まだ充分ではないのか。
「骨が腐ってる……もう私は歩けなくなる……」
 そう考えているんだね。
「右腕は中から黒くなってきた……」
「もう、戦うのは辞めたらどうだ」
「……嫌っ」
 無理に立ち上がった彼女は、耳を塞いで大きく頭を振った。そして僕を振り払って去っていく。……僕も行こう。

 ようやく三階へ到着して、目当ての音楽室に入る。スツールを引き寄せてポケットを探るが、持ってきた譜面は何処かへ落としてしまったらしい。しかしそれ程難しい曲でもない。母がよく弾いていた曲。僕の思い出の曲だ。
 ピアノに手をかけたところで、いきなり弾き飛ばされた。
「最後の一体か」
 最後の魔物、僕はそれを守る。最初のキーを確認すると不気味にうごめく闇が渦を巻いて、棚の上の石膏象を次々に床へ叩き付ける。現代までの有名な音楽家たちが、跡形もなくただの破片と化した。川澄さん、バッハに罪は無いはずだぞ。腫れた瞼が重くのしかかり、汗と血が混ざって視界が霞む。本気で僕を取り除くつもりか。体を支える手は擦り傷だらけ。音楽家の手じゃないな、そうは思わないか? 幸いまだ腕の感覚はある。足は引きずるしか用をなさないが。手近にあった椅子を引き寄せてもう一度体を起こそうとする。
 あまりのことに、一瞬何が起こったか解らなかった。人間の体がこんなに簡単に宙を飛ぶとは。弾き飛ばされた僕の体は、僅かな固まりになったモーッアルトとパッヘルベルの間に落下した。酷いめまいがして天地の感覚が失われた。
「僕はね……あなたのことを信じようと思うんだよ、川澄さん」
 教室の中に、ざわざわと風が湧き起こった。
「あなたはそんなことができる人じゃないって、信じてるんだよ」
 一瞬、不思議な気配が小さくなる。しかし、すぐに一層大きくなった重圧がのしかかってくる。月明かりが差し込む窓際、教室の蛍光管が割れた。そして僕の方へ迫ってくる。ガラスの破片で手の擦り傷を増やしながら、廊下側へと逃げる。迫り来る気配、一層強い圧力が襲ってきた。それへ向けて、正面から言った。
「気づいてくれ、早く!」

 月を背景に人影が見えた。信じられない。ゆっくりと、ゆっくりと、とても時間がゆっくり流れる気がした。教室の窓の外、大きくなってくる人影。あれは――
 ”ガシャン!”
 一瞬、鼓膜が破れて何も聞こえなくなったような気がした。ガラスをうち破って教室へ飛び込んできた川澄さんが、勢いをそのままに剣を振るった。割れたガラスの破片がキラキラと輝く。
「川澄さん……」
「仕留めた」
「……そうか」
「今までありがとう……」
「もう、魔物は残っていないのか」
「…………」
「あなたの戦いは終わったんだな」
「だから、もういいの……」
「そうはいかない」
「…………」
「川澄さん、僕をピアノの前に座らせてくれないかな。自分一人では動けそうにない」
「…………」
「隣に座りな、川澄さん」
 これからが本当の戦いだ。僕は気力を振り絞って鍵盤へ指を這わせていく。旋律をなぞっていく。彼女へ想いを込めて。不意に体が浮き上がるような感覚を覚え、視界が赤く霞む。その赤く歪んだ空間には、一人の少女が立っていた。
 ようやく会えたね。もう良いじゃないか。もう止めようよ。
「あなたじゃない……」
 それは、震えた川澄さんの声だった。
「だけど、あなたで良かった……」

 ”……ありがとう”

 カチャっと、何かを握る音がした。隣に座っているはずの川澄さんが急に立ち上がる。やはり受け入れることができないのか。僕は何もできなかったのだな……。僕は悔しいよ、自分が情けない。
 その時、狭まる視界に飛び込んできた影があった。
「舞、何をするんですか!」
 この声は……倉田さんなのか? 
「佐祐理、退いて」
「こんな小さな子に怪我をさせたら、許しませんよ」
「佐祐理は何もわかってない……」
「わかんないのは舞の方です。そんなことする舞なんて、佐祐理は、佐祐理はそんな舞は大っ嫌いです!」
「…………」

 ”コトン”

 何かが床に落ちる音がした。それはとても軽く、小さな音だった。



 26.

「久瀬っ、いったい何が……って、これはどういう事だ?」
「……信じられません」
 斉藤と天野君の声だった。
「待っていろと言ったじゃないか、斉藤」
「大きな音がして、お前が心配だったから……」
「そいつは嬉しいね」
「久瀬、これは……この景色は何なんだよ」
「記憶。いつか、どこかにあった記憶。ようやく受け入れられた思い出だ」

 なだらかな丘陵、周りは一面の麦畑。僕は大きな野外ホールのステージでピアノを弾いている。観客席には母の顔が見える、隣で肩を抱いて微笑む父親がいる。ファミリーレストランのウエイターが座っている。石橋がいる、生徒会のメンバーがいる、クラスメートがいる。たくさんの人たちの顔が、広い観客席を埋め尽くす人たちがいる。
 小さな男の子がはにかんでいる。
「あ、あの子は……」
 そう、天野君が見た記憶もそこにある。
 にこっりと微笑む少年がいる。
「一弥、あなたなんですか」
 倉田さん、僕は知っていたよ。あなたが弟をどんなに可愛がっていたかをね。
 川澄さんとよく似た女性が、小さく手を振っている。
「……お母さん」
 僕の背中を、後ろからしがみつくように抱き締める腕があった。青い、川澄さんの制服の青いリボンが震えていた。

 ”コツン”

 僕の腕に何かが当たった。玩具の刀を構える、あどけない少女が僕の顔を覗き込んでいる。

 「お兄ちゃん、誰?」

 「ん?」

 「まものなの?」

 「そう見えるかい」

 「……ううん」

 「じゃあ、違うんだよ」

 「一緒に遊んでくれる?」

 「それはちょっと無理だろうね」

 「どうして」

 「僕はまだそこに居ないからだよ」

 「?」

 「でもね、きっといつか会えると思うよ」

 「そうなの?」

 「そう、それまではさようなら」

 「……本当にまた会える?」

 「いつか、どこかで……いや、僕たちはいつでも同じ現在に存在できるはずなんだよ」

 「?」

 「あなたが見上げる夜空に、星が見えるならね」

 辺りがゆっくりと暗くなり、余韻と光の減衰とともに少女の姿が霞んで消えた。



 結

 僕たちが目にしている星々は、多くが”現在”そこにはない。理由は、光といえども限られた速さしか持ってはいないからだ。遠く銀河の星々の輝きは、何千何万、何億年もかかってようやく辿り着いた姿。僕たちが見ている夜空は、数億年前の記憶なのかもしれない。それでも”現在”を生きる僕たちは、その姿をはっきりと認めることができる。辿り着いた一団の光子を見ることができる。逆に言えば、僕たちが子供の頃目にした光景、たくさんの思い出や忘れたくない過去の記憶、大切な人の姿は、この宇宙のどこかでは”現在”としてようやく到達していることだろう。僕たちは星空を眺め、在りし日の姿を探そうと深淵を見つめる。時を超えた思い出をそこに探そうとする。そして悲しい時には、涙をこぼさないように輝く星々を見上げることだろう。古来から多くの詩人や小説家が宇宙の魅力を語った。それは正しかった。科学よりも先に真理を感じていた彼らが、私たちが、頭上に見上げる宇宙には、過去の記憶と、現在の姿を未来へ語り継ぐ力があるのだから。

 夕方近く、黄昏れた街を見下ろす丘。寝ころんで空を見ていると、草を掻き分ける音が聞こえてきた。
「……何をしてるの?」
「読みかけの本をね、だけどもう読み終わった」
「そう」
 草むらに寝ころんでいる僕を見下ろす川澄さん。薄暮の空を背景に金星が瞬いて見える。
「川澄さん、あなたへ最後に伝えたいことがあるんだよ」
「…………」
「退学処分が下されても、仕方のないことだろう?」
「……わかってる」
「あれだけのことをしたんだからね。学校だけが全てじゃないよ」
「…………」
「どうした?」
「寂しくなる……」
「元気を出しなよ、いつでも会える」
「でも……」
 大きな瞳に涙を浮かべ、くじゅぐじゅと川澄さんがすすり上げる。あまりからかうのは可哀想だ。
「だけど川澄さん、あなたは退学にはならないよ」
「……え?」
「僕は目にした真実を全部話した。だけど石橋はこう言ったよ”そんなことは信じられない”って。倉田さんも弁解してくれたし、教職員の誰もそんなことを信じない。まあ、当たり前だけどね。お陰で僕は嘘つき呼ばわりされたけど、信じられないことを罰するなんて誰にもできないんだよ」
「…………」
「停学2週間。妥当な所じゃないかな? だからじきに学校へ戻れる」
 ”ポカッ!”
「いきなり何だよ、川澄さん」
「最初からそう言ってくれても良いのに……」
「あははは、ちょっと悪戯心が出てしまってね。それに僕だって今回の事ではかなり苦心したんだから、それくらいは良いだろう?」
 ”ポカポカ!”
「ははは、痛いって。止めなよ川澄さん」
 ”ポカポカポカ”
 ”ポカ ポカポカ”
 ”……ポカッ”
「……また一緒に、佐祐理のお弁当が食べられる?」
「それは今日からでもできるよ、川澄さん」

 大きな風呂敷包みを持った倉田さんと、荷物を担ぐ斉藤。そしてビニール袋を下げた天野君が夜の丘を上がってくるのが見えた。
「星空を見ながら、みんなで弁当も良いんじゃないかと思ってね。川澄さんは星が好きだと言っていたね」
「うん……」
「僕もね、子供のころは夏になると真っ暗な夜空をよく眺めていたよ」
「……綺麗」
「そう、綺麗だよね。明るいものは少なかったから、たくさんの星が見えた。いつもそこにあって変わらずに瞬いている星。永遠を感じさせる物が僕は好きだった」
「私も好き……」
「星のようになれたらと、ずっと思っていたよ」
「うん……」
「悲しいことや嫌な事なんて何も考えずに、汚いことや恨み辛みもなく、毅然として輝いていたいと思った。他人の助けなんて借りなくても、一人で立派にやっていけると信じていた」
「私もなれる?」
「だけどね……」
「…………」
「だけど、違ったんだよ。宇宙というのはお互いに離れようとする力が――斥け合う力によってどんどん大きくなったと思われていたんだけど、それは間違いだった。最近の観測で判った事だけど、僕たちが見ている夜空の星たちは、みんなバラバラに存在しているんじゃなかった。何て言うのかな、真っ暗な闇に一人一人が孤立しているんじゃなくて、相手を遠ざけ、独りぼっちでいたかった訳ではなかったんだよ。宇宙では星たちだって身を寄せ合って暮らしていたんだ。銀河や銀河の集まりの超銀河、さらにまたその集まりはね、手を繋ぎ合っていたんだよ。何もない闇の空間から友達や大切な人を護るように、ね……」
 川澄さんが涙を溜めた瞳で、僕を抱き締めた。
「星だって、僕たちと何も変わらない。同じだったんだ」
 それが、僕がこの夏に到達した大統一理論。僕と川澄さんの時空がひとつに重なり、同じ”現在”で存在を確かめ合えた瞬間だった。



 星、星が降っていた。鮮やかに甦る満天の星空から、星が降っていた。



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