俺の前には、長く続く道がある。
陽炎に揺らめくその先は、どこに続いているのだろう。
もしかしたら、先なんて無いのかもしれない。
全てはただ、夏の日の見せる幻影で。
それでも、歩いていかなくてはならない。道はただ、一本しかないのだから。
振り返ればそこには、ただ己の歩いてきた幻想の日々……
炎天下の下、ぼぅっと歩いていた。
この季節、外を歩くというのは、ある種の苦行だ。
誰もが皆、可能な限り引き篭もり、人影もまばら、ただ蝉のわめき散らす声のみが響く、街並み。
そんな中を行く俺は、特に目的があるわけでもない。ただちょっと、そんな気分だったのだ。
この暑い中を、汗水たらして歩けば、こんな憂鬱な気分も忘れられるかと、淡い期待を胸に。
それは半ば当たり、今の俺の中は、ただひとつの事柄が支配している。
「……みず……」
都会の砂漠で、俺はオアシスを求める旅人。
眩暈すらする。何の備えもないまま出てきたのは、やはり間違いだったのだろうか。そう後悔してみても、どうにもならない。
そんな俺の横を、人が横切った。美味そうにジュースなぞを飲みながら。
ゴクリと、俺の喉が鳴った。
「と、とりあえず……自販機でも……」
この際、渇きを癒すオアシスであれば、人工天然問わないことにする。
よろめきながら歩けば、目の前に四角い箱が見えた。
やれ嬉しやと駆け寄れば、非常な現実が俺を打ちのめす。
「か、缶おでん専用機だ……」
この真夏に、何を考えてこんなものを設置しているのか、理解に苦しむ。もしかしたらこの北国では、夏の盛りにおでんを貪り食う習慣でもあるのかもしれない。
この、北の街……冬は極めて寒く、身を切る風が吹きすさぶその地も、夏になればやはり暑い。
それは、幾度と無く季節を繰り返して、実感した。夏は、どこでも暑いのだ。
そんな暑さの中で、今、一人の命が失われようとしている。というか冗談抜きで脱水症状で苦しい。
この際構わずおでん汁でも一気飲みしてやろうかとも思うが、流石に人間の尊厳を失うような行為には、しり込みしてしまう。
「せめて他の自販機、いや、コンビニでもあれば……」
辺りを見回す。この街は、土地柄には不釣合いなほどには発展している。だからコンビニの一軒程度はすぐに見つかるもので。
……というのは、甘い。
どういう発展の仕方をしたのかは知らないが、この街にコンビニは数えるほどしか存在しない。駅前周辺にひとつ、住宅地にひとつ、聞いた事の無いチェーン名の店がひとつ、潰れたのがひとつ。コソビニひとつ。
必要な時には、側に無い。コンビニエンスの欠片も見当たらない彼らは、今すぐに改名をするべきである。コソビニとかに。
それはともかく、側に俺の命を救うべきものは、何も無い。それを悟った瞬間、体中の力が抜けた。
焼けるようなアスファルト。その上にばたり倒れ、朦朧とする意識の中、思う。
『……これなら、まだ冬の方がマシだ……』
凍死ってのは、安らかな死に方だと聞く。実際には凍傷の痛みなどでそれどころではないのだろうが、最後に安らかな幻覚を見るとも言う。からからに乾いて干からびるよりは、見た目もなんとか……。
しかし春になって解凍されると、やはり腐ってぐちゃぐちゃの水っぽい謎物体と化し、昆虫などに食い荒らされるのだろう。
どちらにしろ、綺麗な終わりとは言えないか。
安らかな幻覚、か。
暑さで参っていても、見えるものなのだろうか。
ふと、そんな気分で、最後に我が往生せし景色を目に焼き付けようと、ごろり首を捻じ曲げれば、そこは俺の見知った場所。
それに気がついた時、最後の希望が見えてきた。
残された力、振り絞り、立ち上がってじわり歩く。
進む先は、多少の緑に覆われた場所。都会の中には珍しく、安らぎを与えてくれる場所。
───公園。
遊具が申し訳程度に置かれているような、子供向けではない。本当の意味での、公園だ。
すぐに、憶えのある光景が見えてきた。気持ち涼しげな風を感じるのは、そこに噴水があるからだろう。
「確か、こっちに……」
記憶を探りながら、進む。
この場所には、以前はよく通っていたものだが……もう、足を運ぶ事も無かった。
だから、風景は曖昧。
そう思っていたのだが、思いの外迷う事もなかった。すぐに目的地へとたどり着く。
「よし、まだ残ってたか」
俺の前には、誰からも忘れ去られたような、水飲み場がひとつ。すぐに蛇口を捻り、口をつける。
極めて生温い水が、俺の喉を下っていく。気にもせずに、ごくごくと、飲む。
「……ふぅ、助かった……」
たかが喉の渇きで、よくもまぁこんな事になったものだ。
それはもちろん、僅かばかり水を飲まなくとも、暑さで人はなかなか参るものではない。しかし、俺の場合には少し事情が違った。
ここ数日、ろくに食事も、何かを飲む事さえも、行っていない。金が無いわけじゃない。ただ、そんな気分になれなかっただけ。
頭を占めて離れない、想いがあったから。
この季節には、毎年繰り返す、そんな症状。
だから、塩素の匂いがする気温との差がほとんど存在しない水でも、俺にとってはかけがえの無いものだった。
この水飲み場も、もう長い間、誰かに利用される事も無かったのだろう。それでも水が出たことに、感謝する。
息をつき、そしてもう一度口をつけ。
「あまり生水を飲むと、おなかを壊しますよ?」
その声に、俺は振り向いた。
濡れた口元を拭いながら、声の主の姿を確かめる。
よく見知った姿。しかし。
「なんですか、そんなにじろじろと?」
質問には答えず、声の主の側へと俺は歩み寄り、大声で一発威嚇した。
「きゃんっ!?」
「何が『きゃんっ!?』だ。現れるなら一言俺に連絡をよこしてからにしろ!」
「なにか、困るんですか?」
「俺の立場を考えろ。それとも、一人前に俺の彼女気取りか?」
「そうじゃないんですか?」
「……そうかい、この馬鹿!!」
もう一発、怒鳴りつける。彼女は耳を押さえて、しばらく唸っていた。
「酷いです、祐一さん!」
「俺のことを名前で呼ぶとは、ずいぶんと偉くなったものだな、沙織」
「……う~?」
改めて、少女の姿を眺める。
知っている相手だ。それは、間違いがない。
容姿もなにもかも、俺の知人だ。人違いの可能性はゼロ。
しかし、微妙な違和感と、不快感を感じる。その理由には、すぐに気がついた。
「おい沙織、その格好は、何だ?」
「格好、ですか?」
少女は自分の姿を確認して、小首を傾げる。
「なにか、おかしいところでも?」
「……俺に対するあてつけって訳か」
怒りがこみ上げる。彼女の、沙織の姿は、俺には忘れがたいものであったのだ。
あの頃の、記憶の中の少女と、同じ……。
「フン、そんな真似をしても、俺はお前を甘やかしたりはしないぞ。もう一度怒鳴られたくなければ、すぐに着替え……いや、俺の前から姿を消せ、沙織」
「よく分かりませんけど、私は沙織なんて名前じゃないです」
まだ無駄な抵抗を試みるのか。
こいつは、沙織。高校生の、少女。俺にとっては、都合の良い相手。あの少女の身代わりに過ぎない、それだけの存在。
なのに、何を否定するのか。
「祐一さん、もしかしてまたふざけてます? そう言う子供っぽい冗談を言う人、嫌いです」
「沙織、お前今日はやけに絡むな。言いたい事があるなら、はっきり言ったらどうだ?」
「沙織じゃありません! 栞です!」
「その名前を、俺の前で二度と口にするな!」
その言葉と共に、頭に拳骨一発食らわせた。
……そのはずだったのだが。
「───っ!?」
俺の拳は、空を切った。
「……祐一さん?」
「お前、かわしたな!」
もう一度、先ほどよりも力を篭めて、拳を繰り出す。
しかし、今度も手ごたえは無かった。
拳を眺め、沙織に目をやり、少し思案して、俺は声をかけた。
「お前……何だよ?」
「なにって、栞です。美坂栞。まだからかってるんですか?」
足の力が抜け、俺はぺたりと地に腰を下ろした。
「わっ!? しっかりしてください、祐一さん!」
少女は駆け寄り、俺に手を差し伸べ、腕を取ろうとして……そして、触れることなくすり抜けて。
慌てて、俺は飛び下がった。
「どうして逃げるんですか? それに、なんだか物凄くびっくりしたような顔をしてますけど」
「お、お前は……本当に栞、なのか? 沙織じゃないんだな?」
「だから、そうですって何度も言ってます」
「そんな……そんな馬鹿なことがあるか。だって、栞は、栞の奴は……」
美坂栞。過去の記憶。
失われたもの。取り戻せないほど、遠くへ去ってしまったもの。
栞は、彼女は……
「もう、死んでるんだぞ……」
自分でも、体が震えるのを、抑えきれない。
信じがたいものが、目の前にいるのだ。何を馬鹿なと思いつつ、それを否定しきる事もできず、俺は、恐怖する。
そんな気も知らずに、少女は不思議そうに俺に接近するのだ。
「私、祐一さんに触れようとしたんですけど、どうしてすり抜けちゃったんでしょう?」
そして何度も、俺に手を伸ばす。その度に、彼女が俺に接触する事ができない現実を、再確認させられる。
目には見えども、触れる事叶わず……。
それでは、まるで。
「どうして、そんなに青い顔をしてるんですか?」
青くもなる。まるで、目の前の彼女は。
「栞の幽霊、なのか……?」
そういえば、時期が時期だ。
夏。盆。だから、俺は毎年恒例の行事に、栞の墓参りに行くというその行為に、憂鬱を感じていたのだ。
嫌でも、思い出してしまうから。
しかし、その想いも、どうやらこの出会いで無駄となってしまったようだ。俺が望まなくとも、相手から会いに来る事だって、ある。
それは、とても信じられないが、こうして実物を前にしては。
「私、幽霊じゃないですよ?」
「いや、だってお前、触れられないじゃん」
「そうなんですよね。なんだか変です」
そう言って栞は、俺にぺたぺた触れようとし続けた。無駄な仕草。それでも、俺にとって現状を理解する時間は与えてくれた。
「やっぱりお前、幽霊じゃないのか?」
「幽霊じゃないですってば。そもそも幽霊って、こんな昼間から出るものじゃないですよ」
それは理屈だ。だが、現に栞は幽霊以外の何かとして表す事ができない。
もしかしたら、暑さでやられた俺の見ている幻覚かもしれない。だが、それにしてはどうにも鮮明で、それでいて掴みどころの無いイメージで。
確かなのは、栞はもうこの世にはいない、という事だ。
「OK、少し状況を整理してみよう」
目の前の彼女に、なによりも自分自身に向かって、そう言葉をかける。
「お前は、美坂栞だな?」
「はい、そうですよ」
「自分が死んだ時の記憶、あるか?」
「えっと、そう言われても……」
「幽霊だって、自覚は?」
「全然無いです」
……参った。
間違いなく、栞本人であろう。それはこうしてじっくりと観察すれば、俺には分かる事だ。
だが、それが幽霊であるというのは……確証は持てないのだ。本当に俺の見ている幻覚かもしれない。
それでも、幽霊であるという説明が、一番しっくりくるような気がする。心の底から、馬鹿げているとは思うが。
「栞、お前は幽霊なんだ」
「そうなんですか?」
あっさりとした反応。
「自覚が無くても、そう言われたら普通驚かないか?」
「はぁ……でも私、幽霊って見たこと無いですから、どういうものだかお話でしか知りませんし」
「それは俺も同じだが。うむぅ、どうしたものか……」
彼女に自分の境遇を理解させるのは、ずいぶんと骨が折れそうだ。
とりあえず、もう一度よく観察してみる。
目を凝らしてみれば、向こう側の景色が体を通して透けているようだ。しかし、注意しなければそれと分かるものではない。
触れてみれば、すうっと通り抜ける。確かに実体ではない。
理解できた。が、それでどうなるというのか。
根本的に、何も解決しない。
うむむと唸ってみても、どうにもならない。そもそも幽霊を前にして、何をどうすればいいのやら。
「栞、お前何かこの世に未練でもあるのか?」
「未練、ですか?」
暫し思案した栞は、すぐにあっけらかんと笑って見せた。
「特に何もないです」
「じゃあ、俺に恨みとかは?」
「なんで祐一さんを恨まないといけないんですか?」
俺に聞かれても、困る。
未練も恨みも無いのならば、何故栞はこの世に舞い戻ってきたのだろう。幽霊の存在意義というものは、大体その二種に分別されるものだというが。
とにかく、俺に対処はできそうも無い。ならばどうするか。
「それより祐一さん、こんな場所にいても始まりませんし、街に出ませんか?」
「いや、お前が街に出ると、一騒動起きそうな気がする」
「どうしてですか?」
本当に自覚が無いというのも、考えものだ。
街に連れ出すなんて事は、避けた方が良いとは思う。だが、かといってここに放置するわけにもいかないだろうし。
本当に、対処に困るものだ。
「幽霊、か……」
どうも先ほどから違和感を感じていると思ったら、俺は栞が戻ってきたことに、喜びの感情を抱いていないのだ。
普通なら、死んだ恋人が再び目の前に現れたのなら、何をさておいても大喜びするものだろう。しかし、そういう感情が湧いてこない。
奇妙なものだが、驚いたのも一時、俺の感情は平静だ。
「いいから行きましょうよ。なんだか街に出るのも、久しぶりって気がしますし」
まだぐずぐずとしている俺を尻目に、栞は悠々と歩いて……浮いているのか……公園の外へと向かっていく。
「あ、おいこら! ちょっと待てよ!」
慌てて、俺はその後を追いかけた。
炎天下、人通りが少ないのが幸いしたのか。
誰にも怪しまれる事も、驚かれる事も無く、俺たちは繁華街へとやって来た。
「雪、無いんですね」
「そりゃ、もう夏真っ盛りだからな」
「ついこの間まで、真冬だったような気がするんですけど」
「それはお前の主観時間だ。あれからもう何年も経ってるし、季節だって巡るさ」
物珍しそうに、栞は自分の住んでいた街並みを眺めて進む。目を離さぬよう、俺はその後を追う。
「……ところで、祐一さん?」
不意に足を止める栞。振り向いて、にこりと笑いかけてきた。嫌な予感が背中を伝う。
「沙織さんって、どなたですか?」
そう、あの時。幽霊らしい栞と出会った時。俺は彼女の事を『沙織』と呼んでしまった。
……まずい事をしたかもしれない。
「私と間違えるって、女の子ですよね?」
「あ、あぁ……」
「私と似てる、ですか?」
「ま、まぁな」
「……祐一さんとは、どういう関係ですか?」
「しょ、職場で知り合った……それだけだ」
「その割には、ずいぶんな事を言ってましたけど?」
「忘れろ」
しかし、栞は引き下がらなかった。それどころか、更に追及の手を深めてくる。
その剣幕に押され、俺はしぶしぶ沙織という少女の事を口にし始めた。
「……俺、今は塾の講師やってるんだよ」
「それで、その塾で知り合った?」
「俺の教え子の一人でさ、栞に瓜二つだった。だから、声をかけたんだ」
「私の身代わりに?」
「まぁ……そんなところだ」
実際、身代わり以外の何者でもない。恋人でもなく、友人というのでもない。ただ、栞と違っておとなしい性格だったので、俺はずいぶんと酷い扱いをしていたが……それでも、なぜか沙織は俺を拒絶しなかった。
『相沢さん、わたしは……』
控えめな、口調。
『好きにしてくれて、いいんですよ』
押さえ気味の、自己主張。
『だって、わたしは……』
沙織は、いつも。
「私、自分が死んだってまだよく分からないんですけど、そこまで祐一さんは追い詰められていたんですか?」
「追い詰められたっていうか、かなり自暴自棄になってたな。沙織相手にその鬱憤を晴らしたり……それは今でも変わらないのだが」
「……酷いこと、してます?」
否定できるものでもないので、頷いた。
「そうですか……つまり、その沙織さんって娘、祐一さんの肉奴隷なんですね?」
「肉奴隷言うな。お前、その意味分かって言ってるのか?」
栞の事だから、深く考えての発言ではないかもしれないが。
「肉奴隷って、身も心も尽くしていることを言うんですよね?」
「間違っちゃいないが……一般的に女の子が口にするような言葉じゃないぞ」
「そうなんですか。勉強になります」
どうも栞には、一般教養というか、何かが足りないような気がする。初めて出会った時から,こんなものだったか……。
そもそも、どこでそんな言葉を覚えたのやら。
昔の事を思い返していたら、じっと見つめる視線と目が合った。
「何だよ?」
「……」
よく見れば、その視線は俺の背後へと伸びている。追ってみる。
するとそこには、一枚のポスターが、ショーウィンドウの向こうに張られていた。
【新作アイス 始めました】
「いや、お前食えないだろ。幽霊だし」
「幽霊って、食べられないんですか? 人間限定なんて、ずいぶんと差別的な商売ですね」
「そういう意味で無しに、幽霊は物を食べられんだろ」
「でも、それならなんで仏前にお供え物をするんですか?」
それは、死んだ者への追悼の気持ちを、物に篭めてうんたらかんたら……まぁいい。
事実は事実として、霊体はこの世の物質に干渉できないらしい。だから、触れることもできない。
それならば、何故肉眼で確認できるのか、光線との干渉はどのようになっているのか、不可解な問題は生じるが、そこはお約束という事で軽く流そう。
「……食べたいです……」
そんな幽霊である栞は、極めて未練がましそうにポスターに描かれたアイスのイラストを眺めている。そんな表情をしても、自分が幽霊であるという事実を捻じ曲げはできない。栞は、好物を食べる事はできない。
「祐一さん、私、あれが食べたいです」
「そもそも幽霊って腹が減るものなのだろうか……」
「食べたいんです」
「肉体という枷を解き放ってもなお、人間の三大欲求がひとつは消え去る事は無いのか……」
「難しいこと言ってないで、相手してください!」
ふくれっ面の栞。別に恐ろしい形相というのではない。むしろ、子供っぽく可愛らしいと思う。だが、そんなことを言うと彼女は更に怒るのだ。それは、俺の経験が物語る。
経験、か……。
美坂栞は、俺の恋人だった。
いや、恋人のようなものであった、それが正しいかもしれない。
俺がまだ、高校の学生をやっていた時に、知り合った。
俺が先輩、栞が後輩。ごく普通の関係であり、そうではなかった。
ややこしい問題を省けば、俺たちは結ばれ、間もなく分かたれた。別に好意を失って別れたのではない。栞が、若くしてこの世を去ったからだ。
病気が、理由だ。あまりにも早すぎる別れ。
俺は、彼女の面影を引きずりながら、月日は流れ、大人となって。そして、現在に至る。
その僅かな邂逅の中で、俺は栞という少女を知ったのだ。経験とは、そういうことだ。
そう、その経験から言えば、この後彼女は……
「人を子ども扱いする祐一さんなんて、嫌いです!」
お決まりの台詞。俺は軽く聞き流して、そっぽを向く栞を眺めた。
その仕草の何もかも、間違い無くあの時のままで。今頃になって、栞が目の前にいるのだと実感する。
「謝るまで、許してあげません!」
「別に許されなくてもいいんだが、それで栞が構わないのならな」
「……そうやって、また子ども扱いする……」
不満そうだ。こういう時の栞は、実に分かりやすい。
顔に出やすいのだろう。しかし、本当に隠しておきたい事は、決して表には出さないのも、彼女である。
だが、今はこんな有様だ。ただ拗ねているだけ。
「どうして買ってくれないんですか。もしかして、アイスを女の子に奢ってあげることができないほど、お財布が貧しいんですか? なんというか……寂しい人生ですね」
「失礼な事を言うな」
ついに遠回しに非難し始めてきた。流石に腹が立つ。
直接的にズバッと言わないのが,栞の小悪魔たる所以だ。回りくどく、あくまでも自分は悪くないと、そんな言葉を選ぶのが、彼女だ。
それを相手にするには、こちらも強気で攻めるしかない。
「分かったよ、食わせてやればいいんだろ! けどな、どうなったって俺は責任を負わないからな!」
「わぁ、嬉しいです!」
ころっと変わって満面の笑顔。本当に、掴み所の無い少女である。
店先に赴く。栞は目を輝かせて、ショーウィンドウに見入っていた。
「何をあれこれ目移りしてるんだ。目的は新作だろ?」
「でも、どのアイスも私に食べて欲しいって、こんなに一生懸命になって自己主張して……」
俺もウィンドウを覗きこむ。
「どれも普通の冷たい固形物にしか見えないが」
「祐一さんには聞こえないんですか? アイスたちの、懸命な呼び声……。『食べて! 私を食べて! Eat Me!!』って」
「ずいぶんと猟奇的だな」
そんな幻聴に支配されている少女は、俺の言葉もきっぱり無視している。その目には、もはや好物の姿しか入ってはいない。
これでは、アイスさえ差し出せば簡単に攫うこともできそうだ。そこまでのことをする変質者が、この街に存在しなかったのは幸いだった。
「いらっしゃいませ」
心持うっとりと陶酔している栞を、どうしたものかと考えていたら、奥から店員が出てきた。
「あ、すみません。この新作アイスってのをひとつ」
「それとバニラとチョコとミントとストロベリーと……」
「これだけでいいんで。ひとつ」
「サイズはレギュラーサイズで、それぞれダブルの……」
「コラ栞、お前はそんなにアイスを注文して、何をたくらんでいる! あれか、大量に注文して、全長10メートルくらいの雪だるまでも作るつもりか!?」
寝言を抜かす栞の頭を鷲掴みにしようとして、そういえば触れられないと気づく。そこで代わりに大声で文句を言ってやった。
「あ、それもいいですね。でもアイスで雪だるまって、物凄く子供っぽい発想ですよね。ねぇ、祐一さん?」
「お前のレベルに合わせてやったんだろうが! 誰が本気でアイス雪だるまなんか思いつくか!」
「ふぅ、子供の心を失わない男の人って、ちょっと素敵ですけど恋人としては苦労します」
「俺はお前に苦労させられっぱなしだ……」
勝手に納得顔で頷いている栞。果たしてどちらが子供だというのか。
気がつけば、注文を聞きそびれた店員が、必死の形相で笑いをかみ殺していた。
「ほれ見ろ。栞のお陰で馬鹿にされてるじゃないか」
「私のせいじゃありませんよ。もしかしたら、祐一さんのズボンのファスナーが開きっぱなしの事と、関係があるんじゃないですか?」
慌てて確認する。
……社会の窓は、閉じておられた。
「祐一さんも、少しは人を疑う事を覚えた方がいいですよ?」
してやったという顔で、そんなことをのたまう。
「……やっぱり奢るのはやめだ」
踵を返したら、慌てて追いすがってきた。
「わ、嘘です嘘です! 祐一さんはとっても凛々しくしっかりとした格好をしてます! 髪に寝癖がついたりしてません! 本当です!」
「お前、実は俺が嫌いなんじゃないだろうな?」
引き止められるままに、しぶしぶ店の前に戻る。
そして、アイスをひとつ、買い求める。
「たったひとつですけど、文句は言えないです……」
それを栞は、店員から受け取ろうとして。俺は、その瞬間を見守る。
───すかっ!
アイスは、地に落ちた。みるみる路上の熱気に溶けて液状と化す。
「……あ」
店員が、呆気に取られた目で栞を見る。
一方の栞は、何がなんだか分からないという顔で。
ぱっと見た感じ、両者は非常に似通っているが、根底は大きく違うだろう。それでも、目の前の現実を信じられないというのは、同じか。
「……」
栞は屈みこんで、原形をとどめなくなったアイスに手を伸ばす。しかし、手にべたついて嫌な感じとなるそれも、栞には触れることができない。
「……祐一さん、これってどういうことでしょう?」
「見たままだろうが。今のお前には、好物に触れることもできないんだ」
「どうして、ですか?」
「それはな、お前が幽霊だからだ」
立ち上がった栞は、まだ呆然としていた店員に声をかける。
「えっと、今と同じものを、もうひとつお願いします」
はっと我に帰って、店員はもう一度アイスを差し出した。それを栞は、そっと慎重に受け取ろうとして。
───すかかっ!
また、落とした。
「……」
怒りと理解不能が入り混じったような、微妙な表情を浮かべる栞。その向こうでは、店員が音を立てて卒倒していた。
「もう分かっただろ? これ以上変な心霊目撃情報を増やす前に、さっさと行くぞ」
「……理不尽です……」
ブツブツと呟く栞を連れて、俺は店を後にした。
先ほどの出来事で、俺たちは互いの立場を明確にした。
俺はきっぱりと生きているが、栞は既にこの世のものではない。昼間から出現する事のできる、常識外れの幽霊だ。
それを、栞自身もよく理解したと思いたいが……。
「祐一さん、私って本当に幽霊なんですか?」
「俺も幽霊を見るのは初めてだからな……よく分からんが、多分そうなんじゃないのか?」
「……」
無言となってしまった栞を引き連れ、目的も無く街路を歩く。
見上げれば、憎らしいほどに輝く日の光は、遥か頭上にあった。俺が公園で栞と出会ったのは、まだそれほど遅い時間ではなかった。それが、もう正午に近い。
ずいぶんとくだらないことに、時間を費やしたものだ。
さて、これからどうしたものだろう。栞の相手をするにしても、彼女の目的というものが分からないのでは。
聞いてみるのが一番か、そう思い栞の方を振り向こうとして。
「よっ! 相沢!」
呼び止められる。行動を阻害されて少しむっとしながらも、俺は呼び声に向かう。
「何だ、北川か」
そこには、俺の古い馴染みの姿があった。
「何だは無いだろ。久しぶりに会ったのにさ」
北川潤。高校の時、同じクラスだった。その縁で、今でも細々と付き合いがある。
ここしばらく会う機会も無かったが、見たところ特に変わりもないようだ。
「しかし、暑いな。向こうの方が暑いかとも思ってたが、そう変わらないんじゃないか?」
額の汗を拭いつつ、北川は相変わらずの馴れ馴れしさを見せた。
「向こうって、どこか行ってたのか?」
「ん、ちょっと青森までな。恐山、知ってるだろ? あそこに、美坂の頼みでな」
「お姉ちゃんの、頼み?」
その言葉に、北川も栞の存在に気づいたようだ。
「何だよ、相沢。沙織ちゃんとデート中だったのか?」
「いや、こいつは……」
栞である。そう言おうとした俺の口は、栞が北川との間に割り込んだことによって塞がれた。
「こんにちは、北川さん。お久しぶりです」
「ちっす、沙織ちゃん。相変わらず可愛いな」
「ふふっ、お上手ですね、北川さんは」
どうも栞の奴は、沙織として北川を相手にしようとしているらしい。そこにどんな意味があるのか、俺には理解できないが……。
「でもなぁ、オレがこう言うのも何だけど、相沢なんて見捨てた方がいいぜ? こいつ、ダメ人間だからさ」
「でも、そういうところが放っておけなくて。やっぱり見捨てられないです」
「沙織ちゃんは優しいなぁ。おい相沢、こんないい娘、泣かすんじゃないぞ?」
俺を一睨みして、北側は大きなバッグを背負いなおした。
「まったく、何で沙織ちゃんみたいな娘が、相沢と一緒にいられるのかね……この街の不思議のひとつとして、美坂に調査させたいよ」
「余計なお世話だ。用が無いなら、もう行けよ」
しっしと追い払うしぐさをすると、北川は怒ったような表情を見せた。だがそれもつかの間、すぐに能天気な色に変わる。
「まぁ、そうだな。いつまでも二人の邪魔をしちゃ、悪いモンな。それじゃ、沙織ちゃん。相沢に愛想を尽かしたら、いつでもオレのところに来いよな?」
そう失敬な台詞を言い残して、北川は去っていった。
「北川さんって、相変わらずですね」
「まぁな。あいつはいつまでたっても変わらないだろうさ」
徐々に遠くなっていく悪友の背を見送りながら、ひとつ、思いついたことがあった。
北側の出現で思い出したが、栞は香里がどうしているのか、興味は無いのだろうか。
「なぁ、香里に会ってみるか?」
「……え?」
きょとんとした栞に、再び問う。
「香里に、会ってみないかってさ。お前が死んでから、どうなったのか。知りたくはないか?」
「私、自分が死んだってよく分からないんですけど……お姉ちゃんのことには、興味あります。今、会えるんですか?」
「郊外の大学、知ってるだろ? あそこの院にいるんだ。多分、今日も研究室に篭ってるんじゃないか?」
「へぇ、お姉ちゃん、そんなことになってるんですか。院って、大学院のことですよね? なにか研究しているんですか?」
そういえば、香里の研究テーマは、今の栞とも関係があるはずだ。
「それは……行ってみれば分かるさ。さて、どうする?」
「行きます! お姉ちゃんのところに、私を連れて行ってください!」
即答である。しかし、その前に約束させなければならないことがある。
「行くのはいいが、守ってもらいたい事がある」
「守ってもらいたいこと、ですか?」
「うむ。まずひとつ、香里に会っても、さっきの北川への対応と同じに、俺の彼女……ということになっている、沙織の振りをするんだ」
「それって、ばれませんか?」
「大丈夫だ、と思う。俺が言っても信用できないかもしれないが、外見だけならお前と沙織は瓜二つだ。ボロを出さなけりゃ、ばれる事はないはずだ」
「いいですけど……なにか理由があるんですか? そうしなくちゃならないような、なにか……」
「それは、香里の奴が……いや、それは会えば分かるだろう。そして、もうひとつ」
こちらの方が、重要かもしれない。
「自分が幽霊だって事、知られないようにするんだぞ?」
「私の方こそ、幽霊だなんて信じていないのに、お姉ちゃんに知られたらダメなんですか?」
「それもまぁ……行けば分かるだろ。とりあえず、タクシーでも捕まえるか。歩いて行くと、日射病で死んでしまうかもしれないしな」
こうして俺が汗まみれで、栞は涼しい顔というのも、傍から見れば奇妙なものなのだろうな。
そして通りでタクシーを捕まえると、俺たちはそそくさと乗り込んだ。
タクシーの運転手には、本当に気の毒な事をしたと思う。
俺たちが乗り込んでから、運転手はちらちらと、やたらにバックミラーを気にしていた。
何をしているのかと疑問に思ったが、気がつけばその鏡には、栞の姿が映っていないのだ。なるほど、幽霊とはこういうものなのだろう。
そんな俺一人にしか見えない状況で、時折栞と言葉を交わす様は、さぞかし不気味なものに見えたに違いない。
しかも、運転手には栞の声も聞こえていたらしい。バックミラーに映る怪訝そうな顔は、いつしか不穏なものを前にしたものとなり、ついには真っ青を通り越して土気色となった。
怯える運転手操るタクシーは、目的地まで妙に蛇行を繰り返しつつ、法廷速度すらも無視し、まっしぐらに到着した後は、震える手で俺から料金を受け取り、当然のように俺の隣にいる栞の姿を確認して。
そして、逃げるように走り去っていった。
またひとつ、この街に怪談が生まれた瞬間だった。
「どうしたんでしょうね、今のタクシーの人?」
「良くないものでも見たんだろう。気の毒にな、本人はまるで自覚していないのに」
「……?」
そんなことがあったものの、俺たちは目的の構内へと足を踏み入れる。
時折すれ違う人間がいるものの、誰も栞が幽霊だという事には気がつかないようだ。何かきっかけが無ければ、普通に流せる程度なのだろう。
そして、とある部屋の前にたどり着く。
「ここが、お姉ちゃんの?」
「香里の所属する研究室だ。寂れ果ててほとんど私物化しているけどな」
ノックもせずに、扉を開く。
「……誰もいませんよ?」
部屋の中には、誰の姿も見えなかった。しかし俺は慌てずに、つかつかと部屋の片隅に歩み寄る。
そして、そこにあるソファー、その上でくしゃくしゃに丸まっている布切れを引っ剥がした。すると、ころんと誰かが転がり出る。
「……何よ……もう……」
「お、お姉ちゃん!?」
その下から出でしものに、栞は流石に驚いたようだ。
「おはよう、香里。また昨夜もここに泊まったのか?」
「いいじゃない、家まで帰るの面倒だったんだから。……ふわぁ……」
大あくび、ひとつ。ごしごしと瞼をこすると、香里は少しぼさぼさの髪も気にせずに、ゆらゆらと立ち上がった。
そして研究室内備え付けの───香里が無理やりに入れさせたと聞いた───小型冷蔵庫から、飲み物を取り出して口にする。
それを見たら、急に喉の渇きが思い出された。近寄り、勝手に冷蔵庫から黒っぽい飲み物の容器を取り出す。
「あ、ちょっと相沢くん」
「いいだろ、一本くらい」
そして、そのまま一気飲み。途端に吐き出す。
「ぶふっ!? なんじゃこりゃぁっ!?」
「それ、うちの教授の入れた黒酢よ。飲み物じゃないわ」
「そういうことは先に言え! アイスコーヒーかと思っただろうが! うえっ、死ぬほど気持ち悪くなってきた……」
まったく、ろくでもないものを飲んでしまった。いくら喉が渇いていても、こんなもの、しかも教授御用達はいただけない。
「くそぅ、代わりにそれを寄こせ!」
香里の手にした飲み物を奪い取ろうとする。
「いいけど、彼女の前でそれでいいの?」
そういえば、栞が一緒にいるんだった。
「……祐一さん?」
栞は微笑む。
「おね……いえ、その人の飲み物を貰って、どうするつもりだったんですか?」
「そ、それは……」
「間接キスですか? 間接キス狙いなんですね?」
「いや、そういうつもりは……」
「あたしは、別に気にしないけど」
「祐一さん!」
迫る栞。香里は平然としたものだが、俺には威圧的に感じる。
もしかして、彼女は嫉妬しているのだろうか。いや、自分の彼氏だった男が、よりにもよって姉と付き合っていたとなれば……もっと複雑な想いかもしれない。
「おね……いえ、香里さんとどういう関係だったのか、きりきりと白状してください!」
「いや、それは……」
「構わないんじゃない? 今の彼女には、話を聞く権利があると思うわ」
香里は、それでいいのだろうか。もしも目の前にいるのが沙織ではなく、栞であると知っても、同じ態度をとるだろうか。
分からない、が、押してくる栞とそれを肯定する香里とに挟まれては、答えないわけにもいかない。しぶしぶ、俺は口を開く。
「香里とは、その……栞が死んだ後に、ちょっとな」
「ちょっとって、どういう意味です?」
「だから、ちょっとなんだよ。分かってくれよ」
「分かりません!」
うやむやにはできない、か。覚悟を決めて、話す。
「香里とは、傷を舐めあったんだ。それだけだよ」
「傷って、私……いえ、栞さんが死んだことで?」
「まぁな。俺は彼女を、香里は妹を失った。お互い欠けたものが生じたってわけさ。それで、都合よくそれを忘れさせてくれる相手を探し、利害が一致したんだ」
「……いや、忘れるためじゃなかったか。少しでも失った人間の匂いを、感じたかったんだろうな。それで、お互い最も栞に近しかった人間を選んだ……」
「そんな幻想は、生きる中では無意味さ。だから、すぐに別れた。それだけの話だ」
「今はもう、付き合っていないんですか?」
その栞の問いに、はっきりと答える。
「今は、ただの友人だ」
「そう、ですか……」
ほっと胸をなでおろす、栞。それを薄い笑みを浮かべながら、香里が囃す。
「心配しなくても、沙織ちゃんの彼氏を盗ったりはしないわ。それに、もう終わった事だもの」
「いえ、別に心配は……してないんですけど」
「本当に?」
「……ちょこっとだけは」
香里は、今度こそはっきりと笑顔を見せ、俺に視線を向ける。
「相沢くん、あまり彼女に心配かけちゃ駄目よ? まぁ、いつもの態度なら、そうはいかないでしょうけど」
「悪かったな、沙織に冷たくて」
「そういう風にしか、他人を愛せなくなったのでしょう? そう簡単に態度を変えられるなんて、私も思わないわ。でも、少しでも思うところがあるのなら、努力はする事ね」
説教くさくて、閉口する。香里はいつもこうだ。他人には興味ないという雰囲気の癖に、ある程度親しくなるとそれなりに押してくるようになる。
そこが彼女の魅力でもあろうが……俺はあまり好かない。
「祐一さんって、沙織って人にそんなに厳しいんですか?」
そっと、栞が俺に耳打ちしてきた。
「自分でも、理解はしてるんだけどな。栞の身代わりって考えると、どうしても抑えられなくてさ」
「私の、身代わり……」
改めて確認するように、栞は呟いた。
「何をこそこそと話しているの? あたしに聞かせたくない話なのかしら?」
「いや、香里はいつ見ても美人さんだなぁと」
「嘘ね」
「美人だってのは、本気だぞ? ただ、性格がな……」
「余計なお世話よ」
「二人とも、息がぴったりですね」
「「どこが!?」」
あ、ハモった。
「ふふっ、そういうところが、ですよ?」
「……むぅ」
「……心外だわ」
栞からすれば、そんなようにも見えるのかもしれないが、当人としてはきっぱり否定したいところである。
性格の不一致が、俺たちの別れた原因のひとつでもあるのだから。
「その、香里さんって、今でも祐一さんのことを?」
「ないない、それは無いって」
「そうよ。終わった事だって言ったでしょう? もうこれっぽっちも、欠片ほども愛情なんて無いわ。いえ、元からそんな物は無かったのでしょうね」
「お互いに勘違いと妥協を繰り返して、惰性で付き合っていたようなものさ。まぁ、大人になった今なら、笑って話せるけどな」
「当時のあたしたちって、さぞかし不恰好で滑稽だったのでしょうね」
「違いない。恋愛にすらなっていなかったのにな。若さってのは、恐ろしいものだよ、まったく」
うんうんと、二人頷く。
「やっぱり、仲が良さそうです」
「「良くないって!」」
「……信じられないです」
栞は、あくまでも拘っていた。
「とにかく、沙織ちゃんの心配する事じゃないのよ。そうやってあの子と同じ服を着せられて、身代わりにされているだけだとしても、ね」
「……はぁ」
疑問を否定するのは、香里に任せることにした。俺が口を出すと、余計にややこしくなりそうだったから。
「はい、この話はおしまい。それよりも沙織ちゃん、外は暑かったでしょう? 何か飲む?」
「あ、お構いなく」
「いいのよ、遠慮しなくても」
俺たちに背を向け、香里は冷蔵庫をごそごそとやり始めた。
「なんだか適当にはぐらかされた気がします」
「実際そうだろ。香里の場合、理論的に相手を追い詰めるのがやり口なんだが……相手がお前だものな」
「私が、何か?」
「栞……いや、一応は沙織ってことになるが、甘いんだよ、香里の奴。沙織を栞と重ねているっていうか、明らかに態度が他人と違うな」
「そうなんですか。お姉ちゃんが……」
そんなことを話している間に、香里はグラスにアイスコーヒーを準備して戻ってきた。
「いいんですか、飲んじゃって?」
「あたしのお金で買ったものじゃなくて、ここの備品よ。だから気にしなくてもいいわ」
「そういうことなら……」
栞は、グラスを受け取ろうとする。
───受け取る。
そこで、俺は気づいた。瞬間の判断で、グラスを横からひったくり、一息で飲み干す。
「わっ、祐一さん!?」
「ちょっと、何するのよ!」
……けぷ。
「なにするんですか! 私の飲み物なのに!」
「お前なぁ、自分が何者かって忘れてるだろ?」
「私は……あ」
そう、栞は幽霊だ。グラスを手に取ることはできない。
もしもこの場で香里からグラスを受け取っていれば、また例によって取り落とし、香里にその正体を知らしめていたことだろう。危ないところであった。
「相沢くん、どういうこと? まさか本気で考え無しの行動だったなんて言わないわよね?」
「単純に喉が渇いていただけだ。他意は無い」
「……そう」
香里はさっと、もうひとつグラスを取り出す。
「相沢君の分も入れておいて、正解だったわね。沙織ちゃん、こっちを飲みなさい」
「でも……」
「それとも、飲めない理由でもあるのかしら? 相沢くんが阻むような、何か……」
鋭い奴。そこまで言われては、手に取らない方がおかしい。だが、栞にはそれは無理な話で。
だからといって躊躇していては、香里に目の前にいるのは沙織ではないと気づかせるだけかも知れず。
進退窮まる。
「……どうしましょう、祐一さん?」
「そうだな……」
少し苛立ちを見せ始めている香里を前に、俺たちは小声で相談する。
「……栞、お前幽霊なんだから、何かこう……霊能力で持った振りとか、できないか?」
「そう言われても……」
「このままじゃどう転んでもまずい。やるだけやってみろ」
会話を終了し、栞は香里の手にしたグラスに向かい。
「……むー……」
気合を込めて、集中し始めた。
「この娘、何を始めたの?」
「ちょっとした癖だ。他人から好意を受けると、緊張する性質なんだ」
「それにしては、変に力が入ってるみたいだけど」
栞は更に集中する。これが人間ならば、玉のような汗が額に浮かんでいるところだろう。
───そして。
「えいっ!」
ぶわっ!!
栞のスカートが、思いっきり捲れる。
「わ、きゃっ!?」
慌ててじたばたとスカートを押さえるが、局地的に乱気流でも発生しているかのようにスカートは踊る。霊能力の暴走って奴か。
初めて見たが、傍目にはかなり滑稽だ。
「……相沢くん」
「何だ、香里?」
「彼女の癖って、好意を受けると露出するってこと?」
「俺に聞くな」
ようやく己のスカートをなだめすかした栞。憤懣やる形無しといった風に、俺に迫る。
「祐一さん、見ましたね?」
「いや、白だったけど」
「見たんですね!?」
「下着くらい別にいいじゃない。もっと深い事もやってるんでしょう?」
茶化すように、香里。
「そ、それは……一回だけですけど……」
「そう、たったの一回だけなの。駄目じゃない相沢くん、沙織ちゃんを構ってあげなきゃ」
「いや、沙織とはそれなりに……じゃなくて、どうでもいいだろ、そんな事」
「良くないわよ。こんなに可愛い相手を前に、手を出したのが一回だけ? あたしにはもっと色々と……」
栞の視線が鋭くなったので、慌てて香里の口を封じた。
「栞、じゃない、沙織とはその、あれだ。もっと彼女が大人になってからどうこうしようと……そう思ってだな」
「相沢くんの若さが、それに耐えられるとは思えないわ。もしかして、あたしと別れた後、駄目になったの?」
「駄目?」
小首を傾げる栞に、香里は事細か丁重に説明を始めた。
「……というわけで、男って意外と簡単に役立たずになるのよ」
「はぁ、単純なんですね」
「そのくせ、予想もしない時に『みなぎる』事もあるのよね。あたしもそれには泣かされたわ」
「……どきどき」
「そこの二人、もうちょっと女らしく慎ましやかな会話をしてもらえないかね?」
流石に頭が痛くなってきた。いくら姉妹であるとはいえ、ここまで一致して俺のデリケートな部分を追求してもらっても困る。
「頼むからその辺にしてくれ」
「分からないけど、分かりました。祐一さんは不能なんですね」
「……うぐぅ」
かなり凹んだ。
「俺は不能じゃない……まだ朝になれば天を突くんだ……時々だけどな」
「なんだか祐一さん、錯乱しているみたいですけど」
「放っておきましょう。じきに冷静に自分を見つめられる時が来るわよ。それよりも、このグラスを受け取ってもらえないかしら?」
ずずいっと勧める香里。困った顔で後ずさる栞。
そして、どこか妖しげな瞳をした香里に、部屋の隅へと追い詰められてしまった。
「さぁ、沙織ちゃん。このアイスコーヒーを飲むのよ」
「な、なんだか怖いです、お姉ちゃん……」
「そうね、沙織ちゃんにお姉ちゃんと呼ばれるのも、それはそれで良いものね。でも、そんな事で許してはあげないわよ?」
もう、栞に逃げ場は無い。背後は壁。前には少々キャラの変わってしまった女性。絶体絶命。
このまま栞は、その正体を暴かれてしまうのか。かといって、俺に何ができるというのでもないのであって。
……見守るしかない。
「わ、わわ、わーっ!」
香里が飛び掛かる。その瞬間、栞は。
「───わきゃっ!?」
すいっと、背後の壁に消えた。
ごちーんっ!!
香里が壁に激突する音だ。
そして、香里はずるずると壁にへばりつくように倒れた。転がるグラス。中身が床を濡らす。
「あー、壁抜けか。何というか、流石はゴーストだな」
感心してしまう。咄嗟に考えたのか、或いは逃げようとして壁にたまたま突っ込んでしまっただけなのか、どちらともつかないが、栞は背後の壁を通り抜けてしまった。逃亡に成功。
「……じゃねぇ!!」
結果的に香里に触れられるのと何の変わりも無いではないか。栞は、香里の目の前で壁抜けを行ったのだ。確実に目撃されているはず。
これでは、沙織ではなく栞、人間ではなく幽霊であると、香里にも知られたか。
どうする、俺?
「……う」
香里が気がついたようだ。よろよろと起き上がり、頭を振って辺りを見回す。
「……気のせいかしら、沙織ちゃんが壁を……」
「きっぱりと気のせいだな。お前、夏風邪でも引いて思考力が低下してるんだろう」
「それなら、沙織ちゃんはどこにいるの?」
「ちょっとトイレに行った。大きい方だそうだ」
「そんな事言ってません!」
気がつけば、栞は元の場所に立っていた。壁を抜け、再び戻ってきたらしい。
「沙織ちゃん、あなた……」
香里はぐいっと顔を近づける。栞はそれをやや引き気味に受ける。
そして、お見合いの時が過ぎて。
「……誰?」
「沙織です! それはもうこの上ないほどに沙織ですっ!!」
だが、香里は既に不審を抱き始めている。目の前の少女が何者なのか、追求を始めるだろう。そういう事には、香里は労力を惜しまない。
「おかしいと思ってたのよね。今日の沙織ちゃん、妙に饒舌だし。何かいいことでもあったのかと思ったんだけど、これはどういう……」
「落ち着けよ、香里。お前の目の前にいるのは、沙織で間違いがない。それは俺が保障する」
「この世の中で信用できないものは色々あるけれど、親の送ってきたお見合い写真と迂闊に約束をする時の相沢くんだけは特別ね」
これだから香里は嫌な奴なんだ。なおも栞に迫る。
「あなた、何者? あたしの知っている沙織ちゃんではないの?」
「わ、私は……」
栞も焦っている。まだ自分でも認めきれていないのに、『幽霊です』と名乗る気にはなれないのだろう。
もちろん、普通の人間にそんな事を言ったところで、鼻で笑われるのがオチ。幽霊の存在を信じる者でも、いざ目の前に現れたとしてそれを受け入れられるとは限らない。むしろこんなちんちくりんが幽霊であると告白しても、誰が相手にするだろうか。
だが、相手は香里なのだ。
香里は、この大学院で研究している事がある。それが、問題だ。
そのために、俺は栞に自分の正体がばれないようにとの制限つきで、ここへ連れてくるのを承諾したのだ。
香里の、研究内容……それは、栞の死と関係が深い。いや、それこそが原因であろう。
改めて研究室の中を見回してみれば、誰でも気がつくだろう。
死者の書の写本。ミイラの断片。そんな物が棚に整理されて収められているのだ。それこそが、この研究室のテーマであるから。
『輪廻転生とは、実在するのか』
それを、ここでは研究している。もちろん、香里もだ。
栞が死んで、香里は現実から逃げようとした。自分を責め続けて、崩壊しかかった。
だが、人間はそう簡単に壊れられるものじゃない。精神は、人が思う以上に強い。
香里は、結局逃げることはできなかったのだ。だが、深い後悔の念を消す手段を、彼女は求めた。
そして、逃げ道を見つけた。それは、栞が生き返り、再び自分の前に姿を現してくれる可能性を模索する事。
夢物語。学問としても、真っ当とは言い難い部類。もちろん、真面目に研究すれば、それは医学的にも重要な分野ではある。クローン技術、生体移植、可能性もゼロではない。
しかし香里が求めたのは、もっと直接的な結果。在りし日の姿のまま、栞が戻ってくるという結果。
もしかしたら、目には見えないだけで、本当は香里は壊れていたのかもしれない。
俺には、そんな彼女を救えなかった。ただ俺自身、彼女に寄りかかろうとして、逃げ道を求めて。
何も、変わることも無く、今。
そんな香里である。目の前にいるのが栞の幽霊であると知れば、どういう反応をするか。
喜ぶだろうか。それとも、悲しむだろうか。
少なくとも、香里にとって良い事とは思えない。それは、彼女の呪縛を強固にしてしまう。可能性として、香里は栞を忘れて生きる事もできるのだ。それなのに、栞が霊体とはいえ、姿を見せれば。
……良くない。
沙織という、栞によく似た少女を相手に日々を過ごしている俺の言えることではないのだろうが、今、香里に真実を知らせるのは駄目だ。
初めから、ここに栞を連れてくるべきではなかったのだろうか……。
「あたしね、沙織ちゃんのこと、栞の生まれ変わりじゃないかって、そう思ってた時期もあったの。だって、姿はよく似ていたでしょう?」
「生まれ変わりは、転生は、時間に縛られないという説もあるわ。生まれ変わるのは、何も未来ばかりではなくて、過去にも、現在にも、生じた時が生まれ変わりの時だって」
香里は独白する。
「でもね、似ているだけじゃ駄目だって、気づいたわ。心が、魂が同一でなければ、姿がいくら似ていても無意味なのよ」
「沙織ちゃんは、残念だけど栞にはなりえなかった。でも、今私の目の前にいる、彼女は……まるで栞が戻ってきたんじゃないかと思えるほどに……」
「それはお前の思い違いだ、香里。栞は、死んだ。お前も分かっているだろう? 死んだ者がこの世に現れるなんて、再び出会えるなんて、ありえないって」
「目を背けるな。逃げるのはやめろ。そんなの、栞に迷惑なだけだ」
目の前の現実を、あえて無視し、俺は香里に残酷な言葉を向ける。
俺は、最低の男だ。
香里には逃げるななどと言っておきながら、自分はどうなのか。
栞は、確かに存在しているのだ。だが、それを俺は独占しようとしている。
香里に、何かを言えるような立場ではない。
「そんなの、分かっているわ! でも、それでも……信じたいのよ。栞は、あたしを見捨てていないって。こんなあたしでも、姉として見てくれるって」
「そして、許しの言葉を……くれるのよ。あの子を見捨てたあたしに、許しを……」
「……お姉ちゃん……」
栞は、今にも泣き出しそうな香里に、深い感情の込められた眼差しを向ける。
許しの言葉。香里の求めるそれを、栞は言えるのだろうか。
自分の死の自覚も無い栞に、可能なのか。そもそも、栞は香里を許しているのだろうか。
分からない、が……。
「泣かないでください、お姉ちゃん。そんなの、似合いませんよ?」
姉に泣かれる事だけは、堪えるらしい。
不安げな表情。揺れる感情の色。二人の視線が、交差する。
「あたしをお姉ちゃんと呼ぶ、あなたは一体、誰? 沙織? それとも、本当に……」
「私、私は……」
俺はそんな光景に背を向け、部屋を出る。
これ以上、見ていたくなかった。茶番とか、そういうわけではない。ただ、こういうのは、苦手だ。
この先どう結果が転んで、香里が、二人が、どうなるのか。それは俺の気にすべき事じゃない。
どうせ、なるようにしかならないのだ。結果を導き出すのは、自覚なき幽霊の一言。
後ろ手に扉を閉め、一息つく。不意に、煙草が吸いたくなった。
構内を歩き、喫煙コーナーに陣取る。やや潰れかけたパックを取り出し、一本抜き取って。
火をつけて、深々と吸い込む。
「……まったく……」
栞の幽霊が現れてからというもの、どうにも安らげない。
本来ならば、愛した存在と共にいられるのなら、これ以上無いほどの安らぎも得られようものだが。
だが、ニコチンの精神に与える作用ほどにも、栞の存在は俺を鎮めない。
俺は、どうしてしまったのだろう。
「祐一さん!」
振り向けば、栞の姿。
「何だよ、姉との感動の再会中じゃなかったのか?」
「えへへ、何も言わずに逃げてきちゃいました」
俺の腰掛けるベンチ、その隣に腰を下ろす。ふわふわと、頼りなく。
「私、幽霊なんですよね?」
「まぁ、そうだとは思う」
「そんな私がお姉ちゃんに正体を話したりするのは、良くないですよ」
「別に構わないじゃないか。せっかくお盆って事で帰ってきたのかも知れんのだし、一言くらいはいいんじゃないのか?」
「……そうでしょうか?」
栞は顔を伏せる。
「幽霊って、やっぱり不自然ですよ。そんな存在が何かを言う権利なんて、ありません。特に、許すとか許さないとか、そういうこと……」
「私がここに存在するのは、恨み言を言うためじゃないはずです。何か、もっと別の……目的っていうか、あるはずですよ」
目的、か。栞がこの世界に現れたのは、何のためなのだろう。
俺に会いに化けて出た、それはご都合主義もいいところである。そこまで俺は自分を買い被れない。
本当に、栞は何故……
「まぁ、どうでもいいさ。そのうち嫌でも分かるだろう。とりあえず、帰るか?」
「……はい」
栞を連れて、構内を出た。日は、既に傾き始めている。風も幾分か涼しくなった。斜陽が、栞の姿を薄く透かして差している。ヒグラシの鳴き声が、遠くから聞こえる。その中を、歩く。
夏の一日も、もうすぐ終わる。
「祐一さん、煙草吸うようになったんですね」
咥え煙草の俺を見て、栞は少し目を細める。
「ダメですよ、体に悪いですよ?」
「いいだろ、別に。俺の体なんだから」
「それは、そうですけど。でも、祐一さんもそんな歳になったんですね」
寂しげに、栞は笑う。
「私は、このまま変わらないんでしょうか?」
「幽霊だものな。成長はしないだろうな」
「……そうですか」
落ち込んでしまったか。
流石に何か励まそうかと思い、声をかけようとした。
「でも、いつまでも若いままっていうのは、素敵ですよね?」
「知るか馬鹿」
意外と堪えていないのかもしれない。
そんな栞と、熱気の退けてきた道を当ても無く進んでいると、前方から一人の女性が歩いてきた。
そして、すれ違う。
「もし、そこの方」
何故か、声をかけられた。振り向けば、何だか鋭い視線で俺たちを見ている、女。
「えっと、俺か?」
「はい、貴方です。少しお時間、いいでしょうか?」
俺は、栞と顔を見合わせた。見知らぬ彼女からそんな事を言われても、対処に困る。
「アレじゃないですか? 宗教の勧誘とか、羽毛布団の販売とか……」
「いや、あなたの幸せを一分間とか、そういうのじゃないか?」
「どうします? 無視しちゃいますか?」
「そうだな、関わらない方が無難だ」
俺は、しゅたっと女に手を上げて。
「急いでるから、すまん」
栞を連れて、さっさと歩き出した。
「……お待ちを」
しかし、無理やりに裾を引かれて足止めされた。
しぶしぶと、改めて向き直る。若くして年齢を推測させない容姿、落ち着いた雰囲気。この女は、誰だろう。
少なくとも、俺の知り合いではないはずだが。
「この人、誰ですか?」
「知らん。栞は知らないのか?」
「いいえ。祐一さんの愛人じゃないんですか?」
「いや、意外と好みだけど、そういう相手じゃないな。それにちょっと胸が無いというか……」
「祐一さんは、その方が好きだと思ってましたけど」
「それは、無いよりはあった方がいいとは思うが」
しばし栞と二人、胸の有る無しによって生ずる恋愛の変移と特殊プレイの成立する可能性を考察した。
「姉がああもいい感じなのに……栞は何故足りないのだろう。劣性遺伝か何かかね?」
「失礼です! 私だって、まるっきり無いってわけじゃないんですから!」
「……お話は終わりましたか?」
そういえば、この妙な女が立ち塞がっているのであった。
仕方なく、相手をすることにする。
「何か用なら、早くしてくれ。別に急いでるわけじゃないが、知らない人間とは、あまり関わりたくない気分なんだ」
「はい。それでは、ちょっと……」
俺の手を引く。馴れ馴れしくは感じない程度の力加減だが、栞には気に入らなかったようだ。
「祐一さん、本当に知らない人なんですか?」
「そう言ってるだろ。というか、俺だけなのか?」
「はい。貴方一人に用があるんです」
ついてこようとする栞を手で制して、離れる。見知らぬ女は、少し栞に対して頭を下げたようだった。
「……で、何だ?」
もう栞には俺たちの声は聞こえないだろう、そんな距離で、俺は訊ねる。栞に聞かれたくない話でもあるのだろうが、心当たりは無い。
「はい、それでは、短刀直入にお聞きします」
真っ直ぐに、俺の目を見て言葉を継ぐ。
「あの幽霊の事、貴方はどれだけご存知ですか?」
「……ふへ?」
思わず、変な息が洩れ出て音となった。女性の前では恥ずかしい事だろうが、女は特に気にしてもいないようだった。
「お前、栞がどういうものか、知っているのか?」
ぱっと見ただけでは、栞が幽霊であるとは気づかないと思えるのだが。それとも、何か他に俺の気づかないところで、栞は幽霊であると自己主張していたのだろうか。
「天野美汐と申します。貴方たちの姿を見て、一目で理解できましたから。彼女が、人間ではないということは」
「それって、どういう……いや、それはどうでもいい。頼むから、テレビ局とか雑誌とかに告げ口しないでくれ!」
「……はぁ」
栞の存在が公になると、困る。これから先、どれだけ付き合っていくかは知れないが、栞との関係を考えれば、そんなマスコミに知られる事は避けたい。この街の中で噂になるだけでも、相当な問題であるのに、全国区ともなればどうなるか。
「別に、幽霊がいるからといって、どうこうするつもりはありません。心配無用です」
「そ、そうか……。それならいいんだ、うん」
一安心。しかし、依然として問題は残る。
「あいつが、栞が……幽霊だと見破ったのは、構わない。だが、それで俺にどんな話が?」
「はい。その事ですけれど」
天野と名乗った女は、相変わらずのすまし顔で、俺の質問に答えた。
「彼女、栞さんですか? このままだと、近いうちに消えますよ」
……。
「何だって?」
耳を疑う。天野は、何を言ったのだろう。
栞が、消えると言ったか? それは、つまり霊体である栞が、もうすぐこの世から再び消えるという……
「は、はっ! 何を馬鹿なことを言い出すのやら。栞が消えるって? 適当な話を口にするなよ」
「適当ではありません。これは、私の客観的な観察からの結論です。栞さんは、間もなく消えるでしょう」
嘘を言っているとは思えない口ぶり。少し、俺も気を引かれそうになる。
だが、あっさりと受け入れるには、あまりにも唐突な話で。
だから、重ねて問い返す。
「本気で言ってるのか? 栞は、幽霊だぞ? もう一度死ぬとか、そんなのはありえないんだぞ?」
「それは当然です。私が言っているのは、彼女の存在が弱まっているという事です」
栞の存在が、弱まって……?
分からない。彼女は、何を言っている?
「霊体がこの世に存在する、本来ならばありえない事です。よほど強い残留思念……例えば、恨みなどがあるのなら、話は別でしょう。けれど、彼女からは悪意を感じない。それなら、可能性はひとつです」
「その、可能性って……」
僅かな沈黙。そしてゆっくりと、天野は無関係に聞こえる内容を語り始めた。
「蝋燭、知っていますよね?」
「そりゃ、知ってるが……何の関係がある?」
「蝋燭の炎は、消える瞬間に一際明るく輝きます。それと同じだと言えば、分かりますか?」
消える寸前に、明るく。
「まさか、栞がそうだって言うのか!?」
「状況としては、似ています。本来ならば姿を見せるほど存在が濃密ではないのが、霊体というものです。それが現れるのなら、必ず理由はあります」
「栞さんは、もう自分を保てない。それだけの力が残されていない。そして消える間際に、僅かに何かを取り戻したのでしょう」
信じたくない。栞がもうすぐ消えるなんて。
いや、待て。俺は栞が戻ってきたのを、どう思っていた? 嬉しい事だとは、感じていなかったのではないか?
それなのに、否定するのか? こんな時だけ?
それは、あまりにも身勝手、自分勝手だ。都合のいい時だけは常識人の振りをするのか、俺は。
我ながら、大した奴だと思う。俺って人間は、とことんどうしようもない男だ。反吐が出そうなほどに。
「……それを俺に伝えて、天野はどうしようって言うんだ?」
「別に、どうしようとは思っていませんけれど」
「だったら、放って置けば良かっただろう。何もわざわざ忠告して、それで俺がどう感じるかとか、考えなかったのか?」
「何か問題でも?」
「そんな話をされれば、誰だって気にするだろうが! そんなに他人の心をかき乱して、楽しいのか!?」
何を言っているんだ、俺は。
本心から、そんな事を思っているのではないだろうに。
奇麗事を並べ立てて、それで悦に入っている、それが俺だ。まともな人間であると、自己主張したいだけなのだ。
……まったく。
「迷惑、でしたか?」
少しだけ、天野はすまなそうな顔を見せた。それだけで、現金なことに俺の気が静まる。所詮は、その程度の人間であるのが、俺だ。
そう、だからこそ……栞の帰還すら、特別に感じない。
俺が素直に喜べなかったのは、人としての雑事に追われていたからだろう。日々を生きるだけで精一杯の人間は、何かに感動する事は無い。余裕が無いのだ。
生きるという行動は、人間のリソースの殆どを使用する。その残りカスを、他のことに充てる。喜怒哀楽、搾り出された、残滓。あるがままに反応しているつもりで、辛うじて感情を表現しているだけ。
本当に余裕が無くなれば、悲しくても涙さえ出ない。嬉しくても、笑えない。恋人と再会しても、反応できない。
だが、俺の生き方のどこに、それだけのエネルギーを注ぎこんでいたのだろう。主観を切り離しても、俺の人生、忙しくは無かった。余裕は、あったはずだ。
……可能性として、俺は自分でも気がつかないほどに、ギリギリの生を送っていたということ。
心の奥で、栞のことを忘れられずにいたということ。
否定はできない。何しろ俺は、まったくの他人を栞と同一化して、好き勝手に押さえつけて満足していたのだから。
その意味では、被害者である……沙織。栞の身代わりとしてすら、俺に愛される事のない、少女。
沙織、か。そういえば、ここ最近会っていなかった。俺の方から避けていたのだ。
もしも、彼女が栞の姿を見たら、何と言うだろう。俺に苦言を呈するか、それともいつものように、黙して語らないか。
そんな彼女を、栞にはっきりと説明もしていなかった。今更、だが。
「まぁ、いいさ。聞いちまったものは、仕方が無い。栞は、確かに消えるんだな?」
「はい。間違いありません。あの幽霊の少女は、あと幾らも存在できないでしょう。私には、彼女が死んでからどれだけ経過しているのかは、分かりませんが、それなりの時間は経っているのですよね?」
「そうだな、もう十年近くにはなるのか」
「十年……特に強い想いを抱かない霊が存在し続けるのには、限界でしょうね、その程度が」
十年。それだけの月日を重ねて、俺はどう変わったのだろう。
夏という季節すら、十は繰り返したのだ。その間に、あの公園で栞を想うことが、何度あっただろうか。
最初の数年は、確かに通った。春夏秋冬、問わずに足を向けた。
栞の思い出の残るところならば、どこへでも赴いた。そして、現実を思い、悲しみ……いや、自己満足に過ぎない悲劇の主人公を演じた。
居候先の保護者も、幼馴染も、俺を心配してはくれた。当然だろう。彼女たちは、優しかったのだから。
しかし、俺はその優しさを受け止める時にすら、ただ自分のことだけを考え続けて。
酔っていたのだ、自分に。
そして、そんな自分に気づき、大学に合格が決まった時点で、居候先を飛び出して。
自堕落に適当な日々を送るようになり、栞の事も忘れようと勤め、それでも忘れられず、沙織という少女の人生を狂わせ。
変わったのは自分自身ではなく、周りの全てだ。それをさも自分が吹っ切れたと勘違いしかかっていたのが、俺なのだ。
本当に、馬鹿なことだ。
結局俺は、あの時から一歩も進めず、変化も進歩も得られなかった。
夕日の先触れを浴びながら、情けない自分を、改めて自覚して。
いつの間にか、ヒグラシの鳴き声は途絶えていた。
思う。
年を経て。夏という季節。盆という時期。
この時にしか、栞は帰って来れなかった。目的は無く、記憶も曖昧。それでも意思は持ち、俺を慕う。
そんな彼女に、俺は何をしてやるべきだったのだろう。今日という一日、俺はまったく無意味に浪費してしまった。栞に、何ひとつ残せなかった。
例え消えてしまうにしろ、僅かな思い出も、何もかも、彼女には。
あぁ、もしも全てを知っていて、今日という日をやり直せるのなら……。
栞のために、俺のできる限りの……。
「幽霊は消えて、それでどうなる? あの世に行くのか、それとも完全に消滅するのか?」
訳知りらしい天野に、疑問をぶつける。もしも天国というものに行けるのなら、栞にとっては僅かでも救いになる。
だが、肉体と共に魂も消えて無くなるのなら、あまりにも悲しい末路だ。
残されるのは、誰かの心の中の記憶だけ。それだけが、生きた証となる。
しかし、記憶は絶対ではない。俺にはそれが理解できる。そう、俺の記憶の中の栞は、笑顔だけだから。
泣き顔も、穏やかな表情も、桐の箱の中、二度と変わらぬあの時も。
俺には、もう思い出せない。
栞という存在が、そこまで小さかったのではなく、単純に俺が生きる中で、どこかに置き忘れてきてしまったのだろう。大切な、彼女の一部を。
「それは、私にも分かりません。ただ、私が信じるのは、どこかで別の存在に生まれ変わるというものです」
きっぱりと、天野は口にする。
「……天野にも、誰かいたのか? そんな、生まれ変わりを願う相手が」
「信じていますから。きっと、まためぐり合えると」
ひたむきに、再会を願う人がいる。
その一方で、再会できても喜べない俺もいる。
世の中は、不公平だ。望む者には与えられず、忘れかけた者に訪れる、機会。
俺も、望んだあの時、栞が戻ってきてくれたのなら、少しは感情を表せただろうか。
「お時間をとらせてしまいましたね。それでは、私はこれで」
ぺこりと会釈して、天野は去っていった。振り返れば、こちらに駆け寄ってくる、栞。
「何のお話をしていたんですか?」
「それは、その……逆ナンだった」
お前が消える、そう言えない。
こんな話も誤魔化してしまう。そんな俺だ。
「そうですか。それで、何て答えたんですか?」
「俺にはもう、彼女がいるって断った」
「そうですよね。私がいますからね」
「……そうだな。お前がいるものな」
歩き出せば、栞はしっかりとついてくる。おぼろげに、その姿を薄くさせて。
本当に消える、か。この姿が、完全に透き通った時が、別れ。
それまでの僅かな時間、俺は何をすべきだろう。何かをしてやるには、あまりにも時間が足りない。しかし、何もしないのは情けない。
「久しぶりに、祐一さんと一緒に過ごしたような気がします。明日も、明後日も、こんな素敵な一日だったら、いいですね」
明日も明後日も、お前には無いんだ。その言葉は、俺の口から出る事は無い。
口にしたとしても、きっと栞は信じないだろう。笑って流される。いつもの冗談だと、少し怒りながら、微笑むだろう。
夏の夕暮れを、歩く。
別れに向かって、歩く。
気がつけば、あの公園へとたどり着いていた。
「どうしたんですか? なんだか難しい顔してますよ?」
今の俺の複雑な心境が、表情にも表れていたのだろう。静かに心の奥にしまいこみ、変わらぬ笑顔で栞に対する。俺は、笑えているだろうか?
公園の中を歩いていると、はっきりと感じるようになった。栞が、薄れていくのを。
それでも、俺は何も言わない。ただ、並んで歩く。
夕日は、間もなく沈むだろう。そして涼風が思い出したように吹き抜ける、夏の夜へと。
それを感じる暇も無く、栞は。
「ふぅ、少し疲れちゃいました。一休みしませんか?」
傍らのベンチを示し、返事も待たずにさっさとそこに落ち着く少女。
俺も静かに、その隣へと腰掛ける。
「……夕日が、眩しいですね」
ビルの合間に沈む夕日は、一際眩しく残照を伸ばして。
目を細めて、見入る栞の横顔は、既にはっきりと向こうの景色が見えるほどに薄く、か細く。
思わず手を伸ばして触れようとしても、手ごたえも何も、残らない。
「やっぱり幽霊、ですか?」
栞が、笑う。
「幽霊でも、いいです。祐一さんと、ずっと一緒にいられるのなら」
その笑顔も、オレンジライトに溶けて。
「夏の思い出、たくさん作りましょうね? それまで、私の前からいなくなったら、ダメですよ? 約束です」
どこまでも、透明に。
「……祐一さん?」
ぼやけて判然としないのは、もう消える寸前なのか、それとも。
「……」
───最後の言葉は、何だっただろう───
一番星を目にしたのは、久しぶりだ。冬には空気が澄んでいるから、よく目に付くというが、夏でもそれは変わりがないように思える。
でも、それが本当に一番星なのか、それは分からない。俺が思い込めば、そうなるだけの話。
俺が栞を愛していたのも、思い込みなのだろうか。少なくとも、再び失ったというのに、思ったよりは堪えていない。
それでも、気が重い。言いようの無い重苦しい何かが、胸を塞いでいるのだ。
吐き出したくても、どろりとつかえて吐き出せない。そしてそのまま、澱んでいく。
俺は、これから一生、この溶けた鉛のようなものを抱えていかなければならないのだろう。
あの時から変わらず、想いを何も表現できなかった、深い後悔と共に。
夜道は、アスファルトから昇る熱気で、少し蒸す。それでも、日の差すよりはいくらかマシだ。
夏の夜は、優しい。思わせぶりな花びらも、耳に残る物音も、身を切る寒さも無く、ただ静かに人を包み込む。
夜風はアクセントとなり、穏やかに吹き抜ける。体の隅々を撫でていく。
今は、何もかも忘れて、歩こう。馬鹿な男も、最後まであの時と変わらなかった少女も、忘れて歩こう。
夜が明けるまで彷徨って、朝日と共に帰り、熱気の篭る部屋の中、泥のように眠ろう。
そして、俺は、この街を出る。思い出をすべて置いて、街を去る。
俺の知らない、どこかのあの場所へ、そして未来も想わず、ただ生きる。
そう、決めた。
シャッターの閉じた店々の脇を、ゆるゆると歩く。夜の街並みは、暗く静かで心地良い。人は誰もが、涼しげな場所に落ち着き、俺は一人、浮つく熱にまどろみながら。
「……相沢さん」
意識が飛んでいたのか、直前まで気がつかなかった。目の前、触れ合うほどの距離に、人がいる。
「こんばんは、相沢さん」
「……沙織……?」
沙織。
あの少女によく似て、目を付けられ、俺の思うように狂わされている、少女。
恋人でも、愛人でも、好意を持つ存在ですらなく、ただ俺の欲望のはけ口に利用されているだけ。
それでも、何故か俺から離れない。じっと、耐えて側にいる。
最近は、俺の方から避けていたのに、今はここにいる。
「……何の用だ」
「その、姿を見かけて……それで」
今は彼女に、いつものように鬱憤をぶつける気力も無い。だから、無視して歩き出す。
「……」
沙織は、無言で後に従う。
どこまでも、どこまでも、静かに。
どこか遠くで、花火の音がする。物悲しく、細く響いて、消える。
街灯の下、虫が乱舞している。幻影に踊り、力を使い果たし、落ちていく。
浴衣姿が、すれ違う。微かな残り香は、祭りの余韻。
振り向けば、沙織がそこにいる。その表情に、どうしようもなく気持ちが揺れて、思わず怒鳴りつけた。
「そんな顔で、俺を見るな! 哀れみの視線を向けるな! 何も、お前には何も分からないくせに!!」
沙織は、物悲しそうな表情、俺から視線を逸らさない。
ただ、何も言わず、静かに佇む。
「お前なんか、栞に似ていなければ相手にもしなかった! それをお前は、俺から離れようともしないで!」
「お前は、お前なんかな、沙織! 俺にとって、ただの都合のいい……!」
沙織が、吐息のかかるほどの距離の彼女が、俺の視界からぶれた。
俺の体にその細い手を回し、抱きついてきた。
その感触は、遠いあの日の記憶に似て。
ますます、俺は苛立ち。
突き放そうとした、その時。
「……別れて、もう一度別れて……」
「螺旋を描く中、ただあなたの気配だけを探して」
「どれだけの時を経たのか、ようやく見つけ出して、もう一度って、ただそれだけを想って……」
沙織。
いや、そうではなく。この感じは。
「祐一さんに、また会えた……」
抱きつく力は、頼りなく。震えて、揺れて。
「もう、何にも気にしなくても、いいんですよ。だって……」
しっかりと、感じ合える、温もり。
幻ではない、それは。
「まだ気がつかないんですか、祐一さん?」
俺の前の、彼女は。
「祐一さんは、もうずっと前から、取り戻していたんですよ」
「だって、約束だったから……いなくならない、ずっと一緒だって……」
ぐるぐると、回り続ける、螺旋の。
失ってもなお、唯一の存在は、そこにある。
それに気がつかなかった俺は、何も見えていなかったのだろう。
本当に彼女なのか……俺の極度の妄想なのか、この季節の生み出した陽炎なのか。
でも、この言葉は、とても。
彼女の腕の中。俺は、どうしようもない思いで、ただひたすらに……。
……それは、夏の日の幻。
感想
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