何故貴方を好きになってしまったのでしょうか。




 何故貴方はこんなにも優しいのでしょうか。
 何故貴方はこんなにも温かいのでしょうか。



 教えてくださいお父様。
 教えてくださいお母様。

 教えて舞。
 教えて一弥。



 教えて祐一くん。
 何故貴方を好きになってしまったの?










present











   〜past〜


 どんちゃんどんちゃん。
 神社全体がパレードをしているみたいです。周りの音は大きいのですが、不思議とうるさいとは感じません。
 どぉん、どぉんという太鼓の音が体を打ちつけますが、それは心地よい振動となって体中を駆け巡ります。
 ここにいる沢山の人たちは、お祭りが生み出す独特の魅力に惹かれて集まった人なのでしょう。
 そして佐祐理も舞も、その中の一人なのです。
 今まで舞も佐祐理もお祭りに行った事が無かったので、それはもう新鮮な体験ばかり。お祭りと言えば新聞やテレビのニュースで見るだけだったので、なおさら驚きの連続でした。
「楽しいね、舞」
 舞はりんご飴を舐めながらこっくりと頷きました。艶やかな紺色の浴衣を見事に着こなして、普段の長い髪をまとめて結い上げている舞の姿は、同性の佐祐理もドキリとするほど綺麗です。この浴衣は舞に合うように佐祐理がチョイスしたものです。
 もちろん、佐祐理も舞に負けないくらいのつもりでおめかしをしています。佐祐理の浴衣は白。暗い境内では少し目立ってしまうのが難点です。
「でも一番楽しんでいるのは祐一」
「そうだねー。今日の祐一さんは子供っぽくて可愛いねー」
 今祐一さんは、花火を見るための場所を確保している佐祐理たちにと、たこ焼きと飲み物を買いに行っています。きっと祐一さんのことだから、たこ焼き屋さんにオマケをしてくれるように頼んでいるに違いありません。
 先程の射的屋でも一番張り切っていましたし、ヨーヨー釣りでは隣にいた子供たちと競争していました。祐一さん曰く、「童心に返ってこそが真の祭り」なのだそうです。鼻息荒く目を輝かせた祐一さんは、本当に小さな小学生の子供みたいでした。
「舞〜、佐祐理さーん!」
 遠くからの祐一さんの叫び声が聞こえたので、佐祐理は慌てて祐一さんを呼び寄せます。舞が大声を出す事は滅多に無いですから、代わりに佐祐理が呼ばないといけません。祐一さんはこちらに気付くと人ごみを掻き分け、佐祐理と舞の間に腰を下ろしました。
「どうだ二人とも、たこ焼き3パック+オマケの3個ゲットだ!」
 ほら、思ったとおりです。
「食い意地張りすぎ」
「お前だけには言われたくないっての。はい佐祐理さん、舞」
 祐一さんはたこ焼きの入ったパックとよく冷えたびんの飲み物を佐祐理に渡しました。普通のジュースびんとは違ってビー玉で栓をしてあるのですが、びんの入口は狭くてビー玉は取り出せそうにありません。
「ビー玉を押して、そのまま炭酸が抜けるまで押さえて」
「あ、はい」
 佐祐理がどうやって飲もうかと考えていると、横から祐一さんの声がかかりました。佐祐理は早速言われたとおりにラムネが飛び散らないように慎重にビー玉を押し開けました。
「ビー玉が中に残るでしょう?そいつをビンの中にあるこぶに引っかけながら飲むんです。こぶを下に向ければビー玉が上手く引っかかりますよ」
 またもや佐祐理は言われたとおりにしてみると、ビー玉は音を立てて止まり、ビンとビー玉の間をラムネが流れて佐祐理の口に流れていきます。ちょっと甘ったるくて、でも炭酸がさっぱりとしていて。
「変わった飲み物ですねー」
「ラムネっていうんですよ。ちなみに舞はこれを2秒で飲む事ができるんですよ。しかも3本同時に」
「はぇー、そうなんですか?佐祐理は初耳です」
「そりゃあ舞はラムネ早飲みのギネス保持者ですから。なあ、舞」
 めきっ。
「ぐあぁっ!唐竹割り!?」
 舞は空いた手で素早くチョップを繰り出しました。祐一さんと知り合ってからチョップのキレは更に鋭くなるばかりです。
「嘘言わない」
「あははーっ、ごめんね舞。舞が可愛くってついつい意地悪しちゃった。祐一さんだってそうですよね」
「HAHAHA。当然じゃないか、舞はいつだって可愛いさ!」
 舞は顔を赤くして、舐め終わったりんご飴をもの凄い勢いで食べていきます。器用に余った手で祐一さんにチョップを乱打しながら。佐祐理は位置的にセーフです。
「痛、痛ッ!お、おい!そんながっつくと喉に詰まるぞ。たこ焼きは逃げないからもっとゆっくり食えよ」
「……………たこ焼きは焼きたてが一番」
「ったく、うぐぅと同じ事言いやがって」
「でもやっぱり熱いうちが美味しいですよ…ところで祐一さん、佐祐理や舞のたこ焼きも狙っていますよね。さっきからペースが早いですよ」
「フッ。みんなのジェントルメン相沢祐一がそんな卑しい真似をするとでも…」
「思いますね」
「絶対にする」
「うぐぅ…ひでぇよ二人とも」
「日頃の行いが悪い」
「あはは〜っ!」





 今、佐祐理は幸せ者です。
 舞がいて、祐一さんがいる。
 舞は祐一さんが大好きで、祐一さんは舞を愛しています。
 舞の幸せは、佐祐理の幸せ。そして祐一さんの幸せでもあるでしょう。
 願わくばこのままで。
 いつまでも、いつまでも。
 このままの幸せが続きますように。

 ずっとこのままで。





 ヴィィィィィィ…
「あっ…」
 ポーチの中の携帯が鳴ったのは、花火が始まる十分前のことでした。手に持っていたたこ焼きのパックとラムネを祐一さんに預けて、携帯を取り出します。
「はい…………………………」
 祐一さんと舞は何事かと佐祐理を見つめています。でも二人の表情ははっきりと寂しさを漂わせていました。なぜなら、舞も祐一さんも、勿論佐祐理もこの電話の意味を知っていますから。佐祐理は電話からの音をできるだけ漏らすまいと、電話を両手でぴったりと耳につけて通話を続けました。二人に聞かれては気分を悪くさせるでしょうから。
「…………………………はい、分かりましたお父様……それでは」
 電話を切ってポーチの中に入れると、佐祐理は立ち上がりました。

 今日の佐祐理の幸せは終わりを迎えたのです。

「あははー…表でお迎えが待っているみたいです…それ、残りは二人で分けてください」
「あ………」
 祐一さんは佐祐理を引きとめようと立ち上がりかけましたが、苦渋の表情でとどまりました。それは舞が祐一さんの裾を引っ張ってくれたおかげでした。これで佐祐理は行くことができます。心置きなく、ではありませんが。
「そんな顔をしないで下さい。お祭りは笑った方が楽しいですよ」
「………なあ佐祐理さん。やっぱり駄目なのか?」
「はい。約束ですので…すみません。舞もごめんね。また来年見ようね」
「………分かった」
「それじゃあ祐一さん、舞。今日は佐祐理の分も楽しんでください。あ、一人で大丈夫ですから」
 精一杯微笑んで、二人にお別れを告げて振り返りました。二人から離れていく間にも、後ろからの視線はいつまでも佐祐理を刺していました。見えなくなるまで、ずっとずっと。
 佐祐理は一度も振り返らずに、人と人との間を縫って歩いていきます。何度も振り返りたくなる衝動に駆られましたが、必死に我慢して歩き続けました。ここで振り返ってしまえばもう終わり。坂から転がり落ちるように、二人のところへ舞い戻ってしまうでしょう。しかしそれはいけません。
 振り返って、来た道を戻って、もう一度祐一さんの隣に座りたい。何度思ったでしょうか。
 「やっぱり戻ってきちゃいました」と冗談めかして戻りたい。何度思ったでしょうか。
 三人で綺麗な花火を見て、三人で手を繋いで帰りたい。何度思ったでしょうか。
 これらはとっても簡単な事なのです。佐祐理の心が折れてしまえばいつでも戻れるのですから。
 心の中で葛藤しながらも、体は器用に人をすり抜けて会場をすり抜けて、佐祐理はとうとう雑踏から放り出されてしまいました。前を見れば転々とした道灯りと暗闇が、後ろを見れば今となっては懐かしい人々と夜店が広がっています。
 散々迷いましたが、佐祐理は前へ歩き出しました。横には暖かくも無く冷たくも無い、何も無い空気だけが在りました。
 そして間もなく花火は始まりました。







   *







 どぉん、どぉん。

 爆発音と一緒に辺り一帯が仄かに輝き、佐祐理の足元に小さく細い影を作ります。光が無くなった後には電灯の光しか残りません。電灯はいつも大きく力強い影を生み出すほどに眩しいのですが、生み出された影は今の佐祐理が本当に独りなのだということを嫌でも思い知らされて、逆に佐祐理をより深い悲しみへと誘い込むのです。

 どぉん、ぱらぱらぱら。

 舞も夜の用事が終わって、やっとゆっくりお祭りに行けるようになりました。今日という日をどれだけ待ちわびた事でしょう。
 祐一さんも受験期間という忙しい時間を割いてまで来てくれました。お祭りの魅力を伝えたくてたまらない、といった様子でした。
 それに比べて、佐祐理ときたら。
 確かに佐祐理は今日を本当に楽しみにしていました。大好きな祐一さんと舞と一緒にたこ焼きを食べてラムネを飲んで、花火を見たかった。その思いは今でも変わりはありません。
 それでも佐祐理にはできませんでした。
 お父様に許されていなかったからではありません。



 佐祐理は、自分の意思で逃げ出したのです。



 ひゅるるるるるる…ぱぁん。

 光と共に生まれる影に、もう一本の影が見えました。ゆっくり振り返ってみると、遠くに黒い人影が上下に揺れています。人影はゆっくりと大きくなってこちらに近づいてきます。そして電灯の光の下に現れた影はやはり彼でした。
「お迎えはどうしたんでしたっけ」
 祐一さんは息を切らせ、水をかぶったように汗をかいていました。何となく、祐一さんか舞は嘘に気付いて来るだろうと思っていました。
 もしかすると佐祐理の中にしまってある、幸せを壊してしまうあの感情が、祐一さんが追いかけてくることを期待していたのかもしれません。ですから佐祐理はあまり驚かずに済んでいるのでしょう。
「祐一さんこそ、花火は終わっていませんよ」
「ええ、知ってます。でも次が最後になるでしょうね」
「舞はどうしましたか?」
 祐一さんは答えずに佐祐理の横へ腰を下ろしました。そしてゆっくりと時間をかけて息を整えていきました。
 やっぱり、怒っているようですね。仕方の無い事です。佐祐理は嘘をついたのですから。

 きゅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……………ばぁん…ぱらぱらぱらぱら。

 最後の花火は大空を覆い隠すくらい大きくて色鮮やかでした。それが、佐祐理が今年はじめて見た花火でした。
 佐祐理には少し眩しすぎるくらい力強く、そして儚い花でした。
 しばらくお互いに何も言いませんでした。ただ虫の声だけが、佐祐理と祐一さんの間を静かに流れていきました。祐一さんは腰を下ろしたまま微動だにしません。
 そのまま二十分ほど経ったときでしょうか、ようやく祐一さんの口が動きました。
「佐祐理さんは、俺たちに何か隠し事してますか?」
 祐一さんは佐祐理が嘘をついたことには触れません。でも一番的確で、最も答えにくい質問でした。
 ここで祐一さんが怒りに任せて佐祐理を問い詰めていたのなら、佐祐理もまた意地を張って嘘を突き通していられたのかもしれません。
 しかし祐一さんは気遣いや思いやりで言葉を武装して佐祐理の中に踏み込んできたのです。その優しさは逆に佐祐理を葛藤の渦へと突き落としました。
「俺が大学入れたら三人でアパート借りて暮らそうって話の時に、佐祐理さんは家の都合で無理だって言いました。ここまではまだ分かりますけど…」
 祐一さんは折った指を開きながら続けます。
「勉強教わりに行く時も半々くらいの確立でいませんし、三人で出かけるときもたまに途中で抜けますよね。あとは…まだありますけど、とりあえずここまでにして」
 祐一さんは伸ばした指をたたむと立ち上がって、佐祐理と向かい合いました。特に非難している様子は無く、ただ純粋に疑問をぶつけています。真っ直ぐな祐一さんの視線は佐祐理を捕らえ、佐祐理もまた祐一さんの視線から逃げ出せずに、ただ見つめ返すしかありません。
 佐祐理は内心ただうろたえました。内から湧き出るもう一つの感情が、本当の事を話せと誘っています。しかしここで屈服してしまえば、佐祐理はこれから舞に、そして祐一さんにどのように接していけばいいのか分からなくなってしまいます。佐祐理はまだ倉田家の令嬢、倉田佐祐理で居たいのです。
 そんな佐祐理にお構い無しに、祐一さんは留まる事を知りません。とても優しい言葉のナイフで佐祐理の心の壁を削ぎ落としていくのです。防ぐ術を知らない佐祐理は、受け入れる道しか残されてはいませんでした。
「最初は俺と舞に気を使ってくれてるんじゃないかと思ったんですが、それにしては回数が多すぎるような気がしたんです。だったら俺と舞は…いや、俺は避けられてるんじゃないか、と。
 それを舞に相談してみたら、嫌いだから避けているわけじゃあないみたいだったので、だったら他に隠し事をしてるんじゃあないか…そういう結論になりました」
 「以上、相沢祐一の推理でした…合ってますか」と最後に括って、祐一さんは続きを目だけで促しました。
 困りました。何か適当な理由を言おうにも、佐祐理の混乱した頭では何も思いつきそうにありません。思いつく限りの建前を並べてもすぐにどかされて、遅かれ早かれ本当の佐祐理を暴いてしまうでしょう。
 祐一さんという暴風は逃げ道を完膚なきまでに壊して、佐祐理が持つちっぽけな心の壁をいとも簡単に崩してしまったのです。


 まだこの幸せを続けていたい。そのためにも今すぐこの場から逃げ出したい。
 しかし嘘をつき続けることに疲れを感じていたのも事実でした。

 胸の中に蠢くこの感情を自覚してからというもの、佐祐理は嘘を言い続けて、二人から距離を取るようになりました。その感情は幸せを続けるにはとてもとても邪魔な存在だったので、大きくならないうちに遠くへ行って捨て去ってしまおうと考えたのです。
 最初の方はまだ怪しまれる事も無く、二人を不快にさせることも無かったので、罪の意識はありませんでした。寧ろ二人に気を使っていると思ってしまえば、実行に躊躇いはありませんでした。そして思惑通りに、その感情も佐祐理の奥深くへ沈んでいきました。
 でも三回、四回と回数が重なっていくうちに、その感情は小さくなって沈むどころか、ますます大きくなって浮き上がって佐祐理の心を圧迫していきました。離れていても思い浮かべるのは、今の幸せとは全く違う形の幸せに酔いしれている自分でした。酷い時には、その妄想の中に愛すべき親友の存在が消え去っている場合さえありました。
 傍にいても離れていても、その感情は佐祐理の気持ちなど微塵にも考えずにどんどん、どんどん膨らんでいきます。このままではいずれ最悪な形でその感情は爆発して、取り返しのつかない過ちを犯してしまうでしょう。



 見苦しく逃亡生活を続けるか、全てを打ち明けて幸せを壊すか。
 それは世界一難しくて、同時に世界一簡単なシーソーゲームでした。



「あのー…佐祐理さん?」
「はぇ!?」
 いつの間にか祐一さんの顔が目の前に近づいていて、佐祐理は思わず後ずさりをしてしまいました。よっぽど長い間考え事をしていたのでしょうか。
「大丈夫ですか?何かぼけーっとしてましたけど」
「あ、あははーっ、気にしないで下さい。考え事をしていただけですよ」
「はぁ…まあ、言えないなら言えないでいいんですよ。いつまでも待ちます」
「はぇ?怒らないんですか?」
 てっきり怒っているものだとばかり思っていた佐祐理は、思わず聞いてしましました。祐一さんはただ苦笑するばかりです。
「別に気にしてませんよ。佐祐理さんは、佐祐理さんなりの考えがあって嘘をついたと思いますから」
 さも当たり前の事のように言い放った後、「ただ…」と、険しい表情で付け加えました。舞の退学事件以来に見る、悲しくて辛い祐一さんでした。
「いきなりいなくなるような事は無いですよね?俺はこれからも佐祐理さんと一緒にいたいから」



 この瞬間。
 がたんと音を立てて、私の中のシーソーは傾いた。
 そして二度と動くことはなかった。



「さて、女の子の夜道は危険ですから送りますよ。でも気をつけて下さいよ?佐祐理さんの浴衣姿は綺麗だから、俺襲っちゃうかもしれませんので」
 照れ隠しにおどけながら、私に手を差し伸べる。私はその手を握らずに、今から言うべき言葉を組み立てていく。
 もう二人に迷惑はかけない。全部言うから。全部話すから。
 この気持ち、この想いを。
「祐一…くん。聞いて…欲しいよ」
「なんですか…って今『くん』って言いませ」



「私は…祐一くんの事が好きです…いいえ、愛してる。誰にも負けないくらい、祐一くんを愛してるよ」








   *








 理性という堰を切って洪水となった想いは瞬く間に広がり、そして吸い込んだ空気を残さず押し出してしまう。呼吸を忘れる程に喉から、肺から、胸から、体の全ての部分から想いが溢れて、留まる事など出来そうも無かった。

 冬の事件が終わる頃あたりから徐々に好きになりはじめたこと。
 一弥のことを話してから、その想いがより強くなったこと。
 でも恋人同士である舞と祐一くんの関係を壊したくは無かったこと。
 そのためにある程度距離をとっていたこと。
 それでも祐一くんへの想いはどんどん強くなっていったこと
 何度も二人きりで甘えて、甘えられて、抱きしめて、抱きしめられたかったこと。
 今では舞にも負けないくらい祐一くんを愛していること。
 告白をしてしまえば、今のような関係に戻ることは確実に出来ないこと。
 舞と祐一くんの幸せをどうしても壊したくは無かったこと。
 でも、もう我慢できそうにないこと。

 心の中に巣くった想いを残らず吐き出して叩きつけて、生まれて初めての告白はようやく止まった。こんなに感情的に話したのは初めてだった。それほど私の中には想いが溜まっていたのだと思う。
 私が喋り続けている間、祐一くんは何も言わず、少しも動かずに、静かに立ち尽くしたままだった。一方的に喋っていたから祐一くんがどのような表情だったのかを見ることは出来なかった。そんな余裕など全く無かった。
「……これが、答え。私が祐一くんと舞にしていた隠し事だよ」
 最後の最後に搾り出して返事を待つ。私はこの沈黙に耐え切れず、祐一君から顔を背け視線を落とした。
 受け入れられないのではないか、という漠然とした不安。
 ひょっとしたら受け入れてくれるのではないか、という微かな期待。
 そして、舞に対する後悔の念。
 三つの不安要素は私の頭の中で衝突し、胸の鼓動を加速させる。今にも心臓が胸を突き破って飛び出してきそうな気がして、私は胸にかかる浴衣の裾を握りしめた。
 そして足音が一つ近づいくと、私は飛び上がりそうになった。一歩、一歩と近づいて、足音は私の目の前で止まった。視界にあるのはアスファルトと愛しい人の足。
 恐る恐る顔を上げた途端、祐一くんはとても優しく私を包み込んだ。まるで世界一壊れやすい人形を扱うかのように、そっと。
「佐祐理さん」
 名前を呼ばれた途端、私の体が跳ねた。そう思うくらいに身が縮こまった。
「正直に言いますね」
 全力で走った時よりゆっくりだけど、大きく、そして力強く心臓が脈打っていく。まともに呼吸ができずに、私は息を呑むことしか出来そうになかった。
 祐一くんは一息間を置くと、答えを紡いでいった。



「俺、舞のことが好きだ…いいや、愛してる。誰にも負けないくらい、舞を愛してる」



 耳から侵入したその言葉は私の胸へ落ちて行き、そしてべったりと張り付いた。苦しくて辛くて、祐一くんに必死にしがみついた。張り付いた言葉への精一杯の抵抗だった。
 予感はしていた。この答えも当然予想していた。そしてこの答えしか無いと思った。
 なんという皮肉だろう。初めて愛した男性が、一番大切な親友の想い人だったなんて。
 手を伸ばせばすぐに届く距離にいる。今に至っては隙間も見当たらないほどの最短距離にいるのに。それでも一番欲しいものは、私がどんなに足掻こうとも、私がどんなにもがこうとも、決して届かない距離にある。

 でも、これが一番よかったのかもしれない。
 もし手に入っても、同時にもう一つの大切なものも失うのだから。代わりの無い、かけがえの無いものを。
 これで私の我侭はもうお終い。祐一くんが好きだった私にさよならをして、倉田家令嬢、倉田佐祐理に戻ろう。これからは、最も大切な二人を心から祝福できるような人になろう。
 私は祐一くんから離れようと力を込めた。
「…祐一くん?」
 しかし祐一くんは私を抱きしめたまま放そうとはしなかった。寧ろ少し痛いと思うくらいに抱きしめてきた。
 おかしいな、もう答えは終わったんだよね?
「でも」
 もう止めようよ祐一くん。せっかく私は戻ろうって決めたのに、「でも」なんて酷いよ。期待させないでよ。諦めさせてよ。もう後悔は嫌だよ。もう悩むのは嫌だよ。
 お願い、続きを言わないで。
 また貴方の事を──────










 そして。














   〜as of …〜


「たこ焼き三パックお願いできますか?ソースとマヨネーズたっぷりで」
 あいよっ、とたこ焼き屋のおじさんは威勢良く返事をして、手早くパックにたこ焼きを詰めていきました。ソースをかけてマヨネーズをかけて、青海苔と鰹節をまぶして、あっという間にたこ焼きはパックに包まれてしまいました。手際の良さと値段から見るに、どうやらこのお店は当たりのようです。
「お嬢さん、べっぴんだねぇ。誰と一緒に来たんだい?」
 綺麗と言われて嬉しくないはずはありません。顔がほころんでいくのを感じ取りながら答えると、おじさんは顔をしかめながら言います。
「お嬢ちゃんみたいなべっぴんさんをパシリにさせるたぁ、そいつらもひでぇもんだ」
「ちょっとした罰ゲームみたいなものなんですよ」
「へぇ、そうかい。最近は物騒だからねぇ、気をつけな…っと、ほいよ、嬢ちゃん」
 おじさんはパックを袋に詰めてこちらに渡しました。ありがとうございます、と一言言って振り返りました。
 目的地までおよそ五十メートル。残りの任務は、このたこ焼きを無事に届けることだけとなりました。五十メートルといっても、目の前には人という人の壁が立ちはだかっていて、とても簡単には通れそうもありません。そしてたこ焼きの袋も思ったよりかさばって、普通に持っていくとパックが壊れてしまいます。
「はぇー…これは厳しいですね…」
 このままではずっと立ち往生してしまって、花火はたこ焼き屋さんの前で一人で見ることになるでしょう。それだけは避けなければなりません。お腹を空かせてる二人に悪いですし、一人で見る花火は寂しいものです。
「このままでは戻れませんね…」
「では佐祐理、私が手伝おう」
「はぇっ!?お父様!?」
 後ろから最近聞かなくなった声が聞こえてきて、思わず周りを見渡しました。後ろを見たとき、何かとても冷えた、氷のようなものが頬に当たりました。
「ひゃん!」
 反射的に声が上がって、思わずバランスを崩してしまいます。とっさの事で対応できなかったので、体は庇うこともできずに地面へ向かって倒れていきました。
「あっ…「っと、セーフ」」
 倒れる、と思った瞬間には誰かに抱きとめられていました。たこ焼きを取り落とさなかったのは奇跡的と言えるでしょう。
 いくらなんでもお父様はいたずらなんてやりませんし、出張に行っているのでこの場にいることなどありません。こんな真似をするのは、知っている限りただ一人しかいません。


「ぬぅ…祐ちゃん暗殺技四十九手が一つ、『父の威厳』がここまで効くとは思わなかったぞ」
「ゆ〜う〜い〜ち〜く〜ん…」
「……い、いや、サナトリウムの窓際に佇む不幸少女みたいな表情してたから、ついつい…」
「………………酷いよ…本気でびっくりした…」
 いきなり緊張させられてからすぐに解けたから、思わず視界が滲んでしまった。私は非難の目で祐一君を睨んだ。祐一君は言葉で言っても更にからかってくるので、私は目で訴える事にした。
「ぐはぁっ!」
「はぇ?」
 祐一くんはたじろぐことなく、なぜか吐血するくらいの勢いで後ろにのけぞった。新しいからかい方なのだろうか?
「なんてこった…その表情は反則だ…恐るべし浴衣効果…少佐、連邦の白いのはバケモンです…」
 ぶつぶつと呟くと二回、気を取り直すように頬を叩いた。
「と、とにかく、そのたこ焼きを渡してもらおう。セ○君ばりのアメフト走行を見せてやろう」
 祐一くんは今の失態を隠すように、私に左手を差し伸べた。その手はあの時と全く変わらなかった。
 ─そういえば前告白した時にも、祐一くんはこうやって手を差し伸べてくれたっけ。
 私はあの後の言葉を、噛み締めるように思い出した。



『でも────俺は佐祐理さんの…いや、佐祐理のことが好きだ…いいや、愛してる。誰にも負けないくらい、佐祐理を愛してる』


『もっと気楽に考えようぜ。俺は舞が好き、俺は佐祐理が好き。それじゃ駄目なのか?』


『俺は、佐祐理が考える以上に我侭なんだぞ?二人といつまでも一緒に暮らすこと。それが、今俺が世界を敵に回してでも叶えたい夢だ』



 三人仲良く。それは私が考えた中で、最高の結果だった。後で聞いてみたら、舞も同じ結論だった。
 他の人が聞いたら、子供みたいだ、もっと現実を見ろ、なんて言うのかもしれない。それでも、私はその夢に甘えたかった。
 所詮は夢物語なのかもしれない。今でも時々祐一くんへの独占欲が消える事は無い。

 それでも、もう少し。

「むむ、佐祐理もなかなかに頑固者よのぅ…そこまでしてたこ焼きをぉぅっ?」
 私はたこ焼きの袋ではなく、代わりに余っている右手を祐一さんの手に重ねた。手を握るのは、いつやってもドキドキする。私は猫のように甘い声を出してお願いを言う。
「私は、連れてってくれないの?」
 祐一くんが意地悪をしたので、お返しに意地悪を返す。この人ごみでは、私を連れて舞のところに戻るのは難しいでしょう。
 祐一くんがどうでるのか観察していると、今度は祐一くんの後ろから良く見知った人物が音も無く近づいてきた。その人物は人差し指を唇に当てて、ゆっくりと、気取られないように近づいていった。
 祐一くんは困ったのか、俯いて震えていた。後ろの人物にはまったく気付いていない。そしてとうとう祐一くんの真後ろまで来たとき、祐一くんは鼻血を噴き出しながら吼えた。
「も、萌えじゃあぁぁぁっ、萌え神光臨じゃあぁぁぁっ!メディィィィィィックゥ──────」
 言い終わりと一緒に後ろの人物の手刀が閃いて、祐一くんを昏倒させる。どさり、と音を立てて崩れ落ちたその後ろには、前と同じ紺の浴衣を着た舞が立っていた。祐一さんが倒れる直前に右手に持っていたラムネを、器用に全部奪って。
「佐祐理も祐一も遅い」
「ごめんね、一人じゃ寂しかった?」
「そんなことない」
 舞は顔を真っ赤に染めながら、顔を横に振った。顔を染めた、ということはやっぱり寂しかったのだろう。
 でも、舞がここにいるということは…
「ねえ、舞。私たちが見る場所は?」
 舞はしばらく無表情のまま黙った後、しまった、といったような顔をした。私の場合、舞が可愛いからという理由で許してしまえるけど、祐一くんはそうはいかない。まるで幽霊に取り付かれたように立ち上がる。
「ふーっふっふっふっふっふ…まああぁぁぁぁい…」
「………私はラムネを飲む者だから」
 舞は苦しまぎれのようなセリフを言って、颯爽と走り去ってしまった。そして人と人との間をすり抜けて、あっという間に見えなくなってしまった。
 もはや祐一くんの頭には昏倒させられたことへの復讐とラムネの安否にしか頭に無い。今日の祐一くんは何の障害も無しに私たちとお祭りを楽しめるという条件があるので前よりも更に興奮しているのだから、当然といえば当然だった。
「待ちやがれ!俺たちのラムネをっ…ええい、佐祐理、追うぞ!舞に独占を許すな!」
 祐一くんは私の手を強く握り締めて、追跡を始めた。私は声を出す暇も無くもの凄い力で引っ張られたけど、その速さは私でも十分に走れる速度だった。私は慌てて祐一くんに速度を合わせた。



 それでも、もう少し。

 私と、舞と、そして祐一さんで。

 この最上級の幸せを、満喫したい。














 やがて花火は上がった。
 その花火は今まで見た中でも、最高に綺麗な花火だった。
 私たちは数分間の時を、同じ場所、同じ場所で過ごした。
 それは私たちにとってあたりまえの、幸せの形だった。















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