何よりも大切なものを失ったとき、人のとる行動は大別して二種類に分けられる。
 失った隙間を埋めるために、貪欲に人との関係を求めるか。
 失った隙間に縛られて、自分の殻の中へと閉じこもるか。
 それは幼子の大切な玩具であったり。
 長い間追い求めてきた夢であったり。
 また愛する家族であったり、恋人であったり。
 天野美汐にとっては、それは最愛の『あの子』であったり。





 夏風のフェアリィ・テイル





 灼けるような熱を帯びた風が、丘の上で立ち尽くす少女のスカートを翻す。
 緑の絨毯を敷いたようなその丘は、さんさんと降り注ぐ陽光に眩しく反射する。熱を帯びた風には夏の匂いが混じり、北国の短い夏も真っ盛りだと知れた。
『ものみの丘』と呼ばれる、その場所。
 中央に立つは白いワンピースに身を包み、麦わら帽子をかぶった物憂げな少女。時折吹く風に麦わら帽子を押さえながら、透き通るような青空を見上げる。
「……元気にしていますか?」
 小さくか細く、誰にも聞き取れないような声音で少女――天野美汐は呟いた。
「ご飯はちゃんと食べていますか? 病気なんてしていませんか?」
 今日は、魂が帰ってくる日だから。『あの子』がここに帰ってきているかもしれなから。
「友達はできましたか? もしかしたら、恋人とかできましたか?」
 だから、繰り返す。帰ってこないと分かっている問いかけを。
「私は今でも、一人きりです」




 近くにあった手頃な石に腰掛けて、美汐は再び空を見上げた。
 思えば、こんな風に『あの子』を想ったのは初めてかもしれない。ただ今までは思い出に縋り付いて、『あの子』が文字通り消えた現実を受け止めようとはしなかった。
 額から流れる汗をハンカチで拭い、バッグの中からペットボトルのお茶を取り出す。この暑さに、買ったときには冷たかったお茶はぬるくなっていた。軽く一口飲んで、溜息をつく。
 傍から見れば、この行動は無駄なのかもしれない。少なくとも、建設的でないことだけは確かだ。殻に閉じこもることはやめたとはいえ、結局のところ思い出に縋っているだけなのは変わりない。
 ばさっ、と何か軽いものが落ちる音が真後ろから聞こえた。
 特に何の感慨もなく、振り返る。『あの子』が戻ってきているかもしれない、などど安っぽい奇跡を望むほど、子供じゃなくなったから。
「失敬、驚かせてしまったかな」
 花束を持ち上げながら、銀縁眼鏡をかけた男が呟いた。恐らく、先ほどの落下音はこの花束なのだろう。黒いスーツに黒いネクタイをつけた姿は、喪服を着込んでいるように見えた。
「いえ……」
「そうか、なら良かった」片手で眼鏡を上げて、男が数歩歩み寄る。「悪いが、そこをどいてくれないか」
 前後の脈絡もない、唐突な頼み――いや、言い方としては、命令に近い。
「……いきなり、何なんですか?」
「いきなりも何も、僕はどいてくれと言っただけだ。気に障ったかな?」
 顔を背けて、沈黙で返す。特にこの場所にこだわる理由はないのだが、かといって素直に従うのも癪だった。男の困ったような溜息が聞こえる。
「……分かった、理由もなくどいてくれと言ったのは申し訳ない」
 男の、軽く息をつく音。そして、意を決したかのように言葉を続けた。
「そこは、姉さんの墓なんだ」
 思いもよらなかった言葉に、思わず目を見開く。そして、改めて男を見た。嘘をついている風ではない、真剣な眼差し。
 自分の下にあるもの。ただの石。それ以上でもそれ以下でもない。墓だと言われても、一見して信じられるものではなかった。
 立ち上がる。ある意味、男の真剣さに負けて。
「ありがとう」男はそう言って、石の横へと優しく花束を置いた。「墓には見えないだろう。何せ、僕が小学校の頃に作ったんだ」
 男は微笑みながら、片膝をついて石の前で手を合わす。
「何故、このような場所に墓を?」
「人の醜聞が気になるか? ならば答えてあげよう。姉さんの墓は別にあるけれど、僕は勘当されている身のために墓参りができないから仕方なくここにいる。姉さんは家を追い出されたから、ここに埋めるしか手がなかった。実は『ネエサン』という名前の僕のペットが眠っている。さあ、どれがお好みかな?」
「……茶化さないでください。真面目に聞いているんです」
 男は煙草に火を点けるように、線香の端を口にくわえ、先端を手で覆って火を灯した。そして手で仰いで線香を消し、石のすぐ前へと立てる。
「……おとぎ話さ。多分、君が聞いても信じるはずがない」
「おとぎ話……?」
「ものみの丘の妖狐……この町に住んでいる人間なら、誰でも一度は聞いたことのあるおとぎ話。君も聞いたことはあるだろう?」
「……ええ」




 ある少年がいたんだ。そうだな、小学四年生だ。季節は夏、始まって間もない夏休みに、少年はこの丘に遊びにきていた。
 すると、だ。一人でバッタを捕まえながら喜んでいた少年の前に、美しい女性が現れたんだ。
 女性は優しく、少年の手からバッタを取って逃がした。少年は激昂したが、女性は首を振ってにらみつけた。みだりに命を奪うことはいけない。そう、諭すように呟いた。
 その後、少年は女性の家に招待された。それは森の奥にある小さな山小屋で、しかし女性の暖かさゆえか居心地が良かった。
 女性は少年に冷たい麦茶を出し、少年に言った。外のことを教えてくれないか、と。
 少年は疑問に思った。何故、そのようなことを聞くのかと。理由は簡単だった。女性は、記憶を失っていたんだ。それも一年以上前に。
 それゆえに外の世界に恐怖し、この丘でずっと暮らしているという。
 少年は自分の知っている世界を、女性に語った。そう、日の高い頃から、日が暮れるまで。女性と二人で話す時間は楽しかった。少年にとって、彼女はいつしか『姉』にも似た存在に変わった。
 少年はあくる日、女性に言った。姉さん、外の世界に行こう、と。
 ただ、商店街に連れていきたかっただけだった。そこで売っている、夏なのに屋台を出しているたい焼き屋のたい焼きを、彼女に食べさせてあげたかったんだ。
 女性は恐れながらも、少年に手を引かれてついていった。
 その途中だった。悲劇が起きたのは。
 少年は横断歩道を、手を上げて渡っていた。しかし――そこに突然、大きな車が突っ込んできたんだ。
 信号無視の車だった。少年は恐怖に動くこともできなかった。
 その次の瞬間だ。視界は黒く覆われ、柔らかいもので体が包まれた。その直後に衝撃と痛み。車はスピードを変えずに突っ込んできて、女性の体を吹き飛ばしたんだ。
 女性と共に吹き飛ばされた少年は、恐怖に震えながら女性を見た。彼女は優しく聖母のように微笑みながら、大丈夫、大丈夫、と何度も呟いた。
 ……その直後、彼女を黄金の粒子が包んだ。そして僕が気づいたとき、彼女がいたはずの場所には、小さな狐の亡骸が転がっていた。
 彼女は――姉さんは、狐の化けた姿だったんだ。





「……救いのないおとぎ話ですね」
「だろう。妖狐の伝説では、仲良く暮らしました、めでたしめでたし。としか語られてないというのにね」
 くくくっ、と自嘲的に男が笑った。
「彼女は、虫一匹の命すら奪わない優しい人だった。そんな彼女の命が、何故みだりに奪われる? 結局あの事故は、姉さんの存在がないゆえに証拠不十分となった」
 がんっ。力強く、地面を殴って。
「……人と長く共に生きた妖狐が、どういう結末を辿るかご存知ですか?」
「……は?」
「熱を出すんです。そして、次第に人としての機能を失ってゆく」
 失った『あの子』を想いながら。思い出しただけでも涙が溢れるようなあの瞬間を想いながら。
「言葉を話すこともままならなくなり、最後には……」
 涙は流さないつもりだったのに。それでも、消えてゆくあの瞬間を思い出してしまうと。
「消えるんです。文字通り……金色の粒子になって、消えてしまう」
 驚いているような、男の顔。同じ体験……それに驚いているのだろう。
「……君も?」
「……ええ。皮肉なことに」
「そうか……」
 ふ、と男が微笑んだ。何の意図かも知れないような、そんな微笑。
「君を見たとき一瞬、姉さんが帰ってきたのかと思ったよ。君は、姉さんによく似ている」
「……そうなんですか?」
「ああ。だが、似てるんだが姉さんじゃないんだ」微笑を続ける。やっと、それが自嘲ゆえだと理解した。「君は笑わない」
 男が立ち上がり、軽く両膝を払う。
「できれば、名前を教えてもらえないかな?」
「天野です」
「そうか、僕は久瀬だ。できればまた、会ってくれないかな?」
「……私を、お姉さんの代わりにするつもりですか?」
 その返答が意外だったのか、久瀬は片眉を上げて考え込んだ。
「……そうかもしれないな」
 正直だった。もし、ここで否定するのなら、そこには下心しかないはずだから。
「だが、君の笑顔を見てみたい。それだけは本当さ」





 灼けるような熱を帯びた風に、麦わら帽子を押さえる。
 透き通るような青い空に顔を向けて、小さく、か細く、再び問いかけをするために。
「元気にしていますか?」
 答えなんて返ってこないと分かりきっているけど。
「ご飯はちゃんと食べていますか? 病気なんてしていませんか?」
 きっとこの問いかけは、『あの子』に届いている。そう信じて。
「友達はできましたか? もしかしたら、恋人とかもできましたか?」
 だから精一杯涙をこらえて、『あの子』を想う。
「私にもやっと、友達ができそうです」






FIN

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