七月某日、ある部屋に、首脳陣は集められた。
その部屋は白い壁に床、細長い机が長方形に並べられている。
「これより、定例会議を始める」
部屋の一番奥に悠然と座る老人。
集められた部屋の中で、一番の年長で、またもっとも信頼の厚い人物だ。
齢六十を超えながらも、その威厳はいまだ衰えず、知識の面ではいまだ成長を続けている。
「今回の議題だが……」
その老人は、後ろに控えていた男に、目で合図を送る。
男はそれを受け、ホワイトボートに、素早く、大きなそれでいて丁寧な字でこう書いた。
『夏の企画について』
この街の商店街は、昨今の商店街の不人気などまるで異世界の出来事のように関係なく、賑わいを見せていた。
周りに、主だった商業施設が他にないからではないか、という意見も結構あったが、それも一年前の、駅前の大型デパート出現によって破られることになる。
一時、これで商店街の客も大きく取られるのではないかと、多くの関係者は危惧した。
だが、彼らに最初から諦めるという選択肢など、もちろんなかった。
長年培ってきた経験による営業努力、地域に密着したサービスなどなど。
それにより、見事に商店街は、デパートとの棲み分けに成功した。
しかし、これで慢心する彼らではなかった。
気を抜けば、顧客はあっという間に流れてしまうことも、また彼らは知っているのだ。
なにせある日、突然会社が外資系になる時代なのだ。
そこで、今回考えられたのが、商店街挙げてのサマーフェアである。
商店街を夏らしく彩り、情緒を出す、福引の実施などはもちろん、店単体、または複数店舗による特別企画も実施することになった。
そして今回、その企画を商店街の人たちが集まるこの場で、評価し、実際にやってもよいかどうかを判定するのである。
「以上が、私たちの店で行う企画であります」
先ほど、ホワイトボードにテーマを書いた男――というか百花屋の主人が、プレゼンテーションの終了を告げる。
少しの達成感と、緊張感。それを胸に秘め、採決を待つ。
「……ふむ、よく使われる手ではあるが、それゆえ、効果的でもある」
老人が白い歯を見せ、言う。
その後に続く、賛成の声。それはこの企画が通ったことを意味していた。
「じゃが、この方たちの協力が得られるかどうか、それが問題じゃな」
「はい。この方たちに、ある程度信頼がある者の協力があれば、成功率は高くなるかと」
「ふむ……そこの青年」
「はいっ」
もっとも入り口に近い位置。人のよさそうな顔をした青年が立ち上がる。
その青年は、商店街の店舗の一つのアルバイト店員でありながら、店主の信頼と、機転のよさ、何より人脈の広さが認められて、この会議の参加を許されていた。
「ただのバイトのお主にこんなことを頼むのも気が引けるが、彼女たちの勧誘……頼めるかね」
「はいっ、誠心誠意やらせていただきますっ」
「決まりじゃな」
「ありがとう」
青年が引き受けたことにより、今回の会議は終了となる。
「これにて、一件落着じゃな……ふおっふおっふおっ」
老人がどこかのご老公のように笑う。
この老人――時代劇好きであった。
「あの……なんで今回の会議はこんな重い雰囲気だったんですか?」
「単に一度やってみたかっただけじゃよ」
「それだけですか……?」
「それだけじゃ」
同時に、変なお茶目心も持った老人――そんなところも人気の理由の一つ、『商店街自治会会長』(六十四)だった。
二年目の夏、商店街の夏祭り
リビングの中にこもった熱気に、体力が奪われていく感じがする。
そんな、夏休み二日目のお昼過ぎ。
今年の夏は、特に暑い。とはいっても俺がこの街で夏を体感するのは二回目なんだが。
しかし、去年の夏は結構過ごしやすかった。
日中でも家の中に居ればあまり暑さを感じることなく、雪国の夏のありがたさを体感したものだ。
その分、冬は大変なのだが。
だが、今年はそんな思いは粉々に打ち砕かれた。
暑い。とにかく暑い。じっとしていても、汗が吹き出してくる、湿度が高い日本ならではの暑さを体感している。
さらにいけないことに水瀬家のクーラーが故障。
いよいよこの家は灼熱地獄と化す。
どこかに避難しようにも、北川はバイト、斉藤は家族旅行、エトセトラエトセトラ……
「ブルータス、お前もか……」
などと、意味の分からない言葉も出てきてしまうというものだ。
というか、そもそも俺はこの言葉の意味が分からない。俺に分かるのはせいぜい、信頼してたブルータスという人物に裏切られた人が、最後に言った言葉だということくらいだ。
いっそのこと、なにか行動したほうが暑さを忘れられるのかもしれないが、睡眠時間を削って大学の試験をやり通したばかりで、眠い。だが、暑くて眠れない。
テレビでは、猛暑の字が踊っている。
ちりん、と風鈴の音。
リビングに三十分居て、この音を聞いたのは数えるほど。
つまり、風がほとんど吹いてないのだ。
心にわずかばかり涼しさを残して、また風鈴は沈黙してしまう。
「あう〜」
ソファに寝そべって、真琴が完璧にダウンしていた。
まあ仕方ないだろう。この暑さでは。
俺の状態も、全開した窓際の床にあぐらになり、うちわで扇いでいるという、真琴と大差ない様相だ。
だが、真琴のすぐそば。隣に座っている名雪はと言うと。
「涼しい涼しい」
なにやら歌いながら、けろぴーを抱きしめていた。
何故あんなふわふわのもこもこな、かえるのぬいぐるみを抱きしめて、平然としていられるんだろう。
あれでは返って暑いのではないのだろうか。
「なあ、名雪。暑くないのか?」
「大丈夫だよ。けろぴーがいるから」
「いや、余計暑くなるだろ」
「ううん、涼しいよ」
名雪はほら、とけろぴーを突き出してくる。
俺はそれをまじまじと見つめる。けろぴーと目が合った。
――そうか、おまえが名雪の心に平穏を与えてくれてるんだな。心頭滅却すれば日もまた凉しか。
――かえるの俺にできるのはこれくらいさ。名雪は俺を可愛がってくれた。それに対するせめてもの恩返しだよ。
――最高のかえるだよ、おまえは。それに比べて俺は……
「祐一、どうしたの?」
「なに、けろぴーと男と男の会話をしてたのさ」
「わ、そうなんだ、すごいね」
いや、信じるなよ。
「それで、分かった?」
「ちっとも」
「でもどこか違和感があるような、材質が違うのか?」
「うん、そうだよ。にゅーけろぴーだから」
にゅーけろぴー。なんだそれは。
俺の眼前にいるけろぴーはアップで、相変わらずの笑顔を浮かべている。
「さわってみて」
言われるままにけろぴーにさわる。ヒヤッとした。
「ねっ? クールけろぴーだよ」
名雪は再びけろぴーに抱きつき、心地よさそうに笑う。
一瞬欲しくなってしまったクールけろぴー。さすが、にゅーけろぴーは伊達じゃない!
恐らく中に氷水でも入っているのだろう。通りで材質が違うわけだ。
「名雪、そのけろぴーちょっとだけ貸してくれ」
「だ〜め」
笑顔で却下されてしまった。
名雪はけろぴーのお陰で涼しそうだ。逆に言えば、さすがの名雪もこの暑さには参っているということでもある。
この暑さのなか、平然としていられる奴なんて――
「祐一君っ」
いた。
あゆが元気よくリビングの中に入ってくる。
「祐一君こんなところにいたんだ。ねえねえ、ボクと一緒にお出かけしない?」
「こんな暑い中、外に出たくない……あゆはよく平気だな」
「そうかな? ボクはこれくらい全然大丈夫だよ」
明るく微笑む。いつものあゆらしい笑顔。
あの冬から一年半。季節は二回目の夏を迎えていた。
少し、風が吹く。元通りに伸びた亜麻色の髪がそっとゆれる。
空は、夏らしく快晴。遠くの山の上に、一つ入道雲が浮かんでいた。
「夏っていいよね。なんかこう明るい気分になれるもん」
「おまえは冬でも春でも秋でも同じようなこと言ってるだろ」
「うん、だって本当のことだもん」
――あゆ曰く。
春っていいよね。なんだか心がうきうきしてくるよ。
秋っていいよね。紅葉ってとてもきれいで、心が豊かになるよ。
冬っていいよね。澄んだ空気が、心を満たしてくれるし、それにたい焼きがおいしいもん!
「まあ、それでこそあゆだ!」
びっと親指を立てる。
「なんだかよく分からないけど、誉めてくれてるの?」
「ああ、俺もその能天気さ見習わないとな」
「やっぱりけなされてる気がするよ」
「祐一さん、お客さんですよ」
その時、リビングに入ってきた秋子さんから来客を告げられた。
「客ですか?」
「ええ」
「よっ、相沢。だらしない格好してるなあ」
秋子さんの後ろから、ひょっこりと北川が現れた。
「なにを言う。北川こそ、この暑さで受信状態が悪そうじゃないか」
「これはアンテナじゃねえっ。だいたい暑さは関係ないだろっ」
「仲いいですね」
「相変わらず仲いいね、ふたりとも」
「「まあな」」
ふたりでビシッと合図を交わす。
「レベルが同じだけよぉ……」
相変わらず瀕死の真琴が、なにやら言ってるがスルーする。
「で、今日は何しに来たんだ? 言っとくが我慢比べならお断りだぞ」
「しねえよそんなことっ。その言い方だと以前オレが誘ったみたいじゃねえか」
さすが俺の周りの数少ないツッコミ派。ボケが多い中、貴重な存在である。
「まあともかくとして、いきなりなんだけどな。相沢たち、二週間だけバイトする気ないか?」
北川の誘いは、俺にとって予想外のものだった。
果たして、数日後。
「いやあ、中々様になってるじゃないか相沢君」
「ありがとうございます……」
夏空の下、オープンテラスでウェイターの服を着た俺が居た。
北川の誘い。それは、百花屋、他二店舗合同による、二週間限定のオープンテラスを開く。そのための短期アルバイトだった。
ちょうどよく、店のすぐそばの、開いた空き地。それなりに見晴らしがよく、場所も広い。そういったことにはうってつけの場所だった。
白いテーブルとイスが並び、パラソルが備え付けられている。俺は最初、ずいぶんしょぼい様子を想像していたのだが、なかなかどうしていい感じになっていた。
ってまあ、一応設営を手伝った訳だけど。といっても力仕事だけだったが。
相変わらずの暑さ。場所や季節を考え、やはり冷たいデザートをメインとした、限定メニューが多くあるらしい。
こんな暑いなか、バイトするとあって、あんまり乗り気がしなかったんだけど……問題は、あゆと名雪だ。
ふたりとも、北川の話に、乗り気で、二つ返事で引き受けてしまったのだ。
どうやら、常連客を起用することで、限定メニューのアイデアを出してもらったり、元のメニューの宣伝をしてもらったりする働きを、期待しているらしい。
俺も百花屋のコーヒーはお気に入りだが。
それはいいとして、あゆにウェイトレスが勤まるかどうかが非常に心配であり。
結局、フォローするために俺も結果的にバイトする手はずとなったわけである。
「よっ、後輩っ。どうだい、初めてバイトする気分は?」
不意打ちで北川に肩を組まれる。
……北川の思惑通りという気が、しないでもないが。
「うんうん、相沢君は心配症さんですねえ。やっぱりなんだかんだ言って月宮が心配なんだろ?」
ちなみに北川は百花屋とは別の店で、ウェイターをかなり経験している。やはり熟練者もそれなりにいないと駄目なのだろう。
「そ、そんなことあるわけないだろう。俺はただ、貯金をと――」
「はいはい、そういうことにしといてやるよ」
「祐一〜」
制服に身を包んだ名雪が小走りでやって来る。
「お、水瀬。引き受けてくれてありがとな」
「いいよ。けっこう楽しそうだし、それに、わたしも百花屋のデザートは好きだから」
「ははっ」
「それで、あゆちゃん」
「名雪さん、やっぱり恥ずかしいよぉ〜」
名雪の後ろに身を隠したあゆがなにやらおどおどしている。傍から見ればかなり怪しかった。
「でも、遅かれ早かれ見せることになるんだよ」
「そ、そうだけど……」
「あゆ、もう既に少し見えてるぞ」
「う、うぐぅ〜」
「ほらあゆちゃん」
名雪が一歩横にずれる。自然と百花屋の制服を着たあゆのお披露目となった。
「え、えっとどうかな……?」
シンプルだが、けっして地味ではない、百花屋の制服。
よく見る服装だが、それをあゆが着ていると、新鮮だった。
ラフな服装を好むあゆだから、余計にそう感じるのかもしれない。
「あゆちゃん、もっと自信を持たなきゃ。ほら回って回って」
「こ、こうかな?」
機嫌のいい名雪にせかされ、あゆがくるっと回る。
ロングスカートが花のように円を描く。
これまた、あゆが普段やらない動作だった。まあ普段、だれもやらないか。
「うん、あゆちゃんとっても似合ってるよ」
「そ、そうかな。名雪さんの方がボクよりずっと似合ってると思うよ」
なんていうか、普段のあゆと少し違う、そんな違和感を感じた。
「ところで店長。あとひとり来るはずですよね?」
「ああ、もう来てるよ。ほらあそこに」
タタタ……キキィィーッ!
元気よく走ってきて、急停止。
「こんにちは、あゆちゃん!」
「このみちゃん!?」
突然現れた人物に、驚きをあらわにするあゆ。
俺の知らない人だったけど、その名前には聞き覚えがあった。
「あともうひとりの人って、このみちゃんだったんだ」
「うん、このみもあゆちゃんと同じなんてびっくりしたよ」
和気あいあいとなるふたり。
「あ、思い出したっ。たしか高校であゆが一番最初に仲良くなったって」
「初めまして、柚原このみです」
行儀よくお辞儀して、自己紹介する。
「俺は相沢祐一だ」
「オレは北川潤っていうんだ。よろしく」
「初めまして、水瀬名雪です。このみちゃんでいいかな」
「はいっ」
「わたしもなゆちゃんでいいよ」
名雪はなゆちゃんと呼ばれることにこだわりでもあるのか、かつて、初めてあゆと会った時と同じことを言った。
「えっと、なゆちゃん?」
「ああ、気にするな。水瀬さんでも、名雪さんでも、なゆぴーとでも自分が呼びやすいように呼んでくれ」
「祐一、なゆぴ〜ってなに?」
「それじゃあ、名雪さんて呼ばせてもらいますね」
「残念……」
「そんなにこだわりがあるのか、なゆちゃんに」
「でもなゆぴーもいいかも〜」
「本気かっ!?」
「祐一さん……あゆちゃん、この人がひょっとして……」
柚原があゆの服を軽く引っ張って、なにやら俺を見ていた。
「なんだ?」
「え、うぐぅ、なんでもないよ」
「あゆちゃんから、相沢センパイの話よく聞くよ」
「こ、このみちゃんっ!」
なんだろう……結構気になる内容だ。
「そういうこのみちゃんこそ、河野さんのこと結構お話してるよっ」
「え? それはその、えへ〜」
「なになに〜? 何の話?」
そのふたりに、さらに名雪まで加わって、話はますます盛り上がっていく。
俺と北川は、なんとなく置いていかれた気分だ。
「……なあ北川。河野さんってだれだ?」
「オレが知るわけないだろ」
当たり前だが、俺が知っている人も居れば知らない人も居る。自己紹介などをして、開店準備、仕事の説明などを受け、いよいよ開店日を迎える。
接客業というのは、俺が予想した以上に大変なものだった。なにより、お客様に接するというのは、気づかないところに結構神経を使う。
細かい気配りというのが、なかなかできない俺にとってはなかなか難しいことだった。
北川はさすがに慣れているだけあって、惚れ惚れするような動きを見せる。まあ初日の俺と比べるべくもない。
名雪はというと、マイペースに行動している。だが、マイペースといっても決して遅くはない。素早く、かつ正確に対応し、仕事をこなしていた。
そして、あゆはというと。
「いらっしゃいませっ!」
元気に、そして一生懸命仕事している。それはいいのだが。
「えっと、ご注文は……あれ?」
「どうした?」
「うぐぅ、ご注文聞くの忘れた……」
「あほかっ!」
いかんせん、天然だった。
「いらっしゃいませ〜」
お昼過ぎ。ひとりでやってきた、高校生くらいの男の人の注文を取りに向かう。
「ご注文はお決まりですか?」
「あ、えっと……」
その人は、どこか落ち着かない様子できょろきょろとしていた。
そして、ある一地点に目を止める。
さりげなく視線を追うと、柚原の姿があった。
さきほどのあゆの言葉を思い出して、俺の頭の中で閃いた。
「……失礼ですけど、ひょっとして河野さんですか?」
「え、どうして俺の名前を知ってるんですか?」
よしっ合ってた! もし間違ってたらどうしようかと思った。
「いえ、ちょっと知り合いからお話を聞いたことがありましたので。無駄話してすみません」
一通りご注文を聞いた後、頃合を見て、柚原に声をかける。
「柚原、三番テーブルに持っていってくれないか」
「あ、はいわかりました〜」
柚原が河野さんの居るテーブルに、注文の品を持っていく。
「た、タカくんっ!?」
「よ、よおこのみ」
うん、対してなにもやってないのに、なんとなくいいことした気分になった。
ただの野次馬根性と言うかもしれないけどな。
さて、まじめに仕事仕事っと。
あゆは相変わらず、危なっかしいところが沢山あった。
だが、一度失敗したことはしっかりと反省し、繰り返さない。
一生懸命仕事を覚えてることが感じられ、バイトの時間が終わる頃には、最初と比べて成長が見て取れた。
大変そうだけど、あゆの表情は楽しそうだった。
「うぐぅ〜ボク、もうくたくた……」
「つかれたよ〜」
店の裏口から、ゆっくりと出てくる、あゆと柚原。
「わたしも、つかれたよ」
同じような言葉を言いつつも、若干余裕がありそうに見える名雪。
さすが普段から運動しているだけのことはある。
かくいう俺も、かなり疲れていた。
やっと終わったという達成感はあるが、疲労感もかなりのものだ。
「よっ、お疲れさん」
「ああ、北川」
「明日も今日のようによろしくな」
「そうか……明日もあるんだよな」
「まあ、すぐ慣れるさ。とはいっても、二週間だけだったな」
あいさつを交わし、北川と別れる。
「わたしも、こっちだから」
「あ、うん。このみちゃんまた明日〜っ!」
「うん、あゆちゃんまた明日ね〜っ!」
手を大きくぶんぶんと振ってさよならをする柚原。
それに反応して、あゆだけでなく、名雪まで大きく手を振ってさよならを返す。
なんだかとても微笑ましい感じがする。
俺も習って、小さく手を振る。
「このみちゃんって、いい子だよね」
「うん、とってもいい人だよ。ボクこのみちゃん大好きだもんっ」
帰り道、あゆはとてもうれしそうな顔をして、普段の高校生活のことを語る。
七年間眠り続けていたあゆは、目覚めたときほとんど衰弱しておらず、またその間順調に成長も続けていた。普通ならありえないことだろう。
だが、それでもやっぱり七年間の空白は、とても大きいものだった。
学校の勉強は止まっているし、周りの環境もあゆひとりを取り残して大きく変化していた。
一年間、一生懸命勉強して、なんとか高校に入学できたあゆ。
環境の変化、ニュースなどであゆを知る人たちの反応、なによりあゆの心の問題……
あゆが、高校になじめているかどうか、心配だったけど。
今のあゆの様子を見れば、その心配はもう必要ないと、安心できた。
あゆの話の中には、柚原、それと栞の名前がよく出てくる。
栞は一年留年してるから、現在二年生。柚原はあゆと同じクラスらしい。
本当に仲良しなんだなと、そう思わされずにはいられない。
「ところであゆ。なんでこのバイトやろうと思ったんだ?」
「そうだね。みんなでなにかやるのって、楽しそうだと思ったんだ」
「わたしもだよ。こういうのって、大変だけど、楽しいよ」
「祐一君は?」
「ん〜そうだな。俺も、だいたい同じ理由になるかもな」
適当にはぐらかす。でも、半分くらいは本当のことだ。
「それに、自分で考えたメニューが、実際食べられるなんてすごいよね」
名雪がのほほんと言う。というか、イチゴたっぷりのメニューを考え、なぜか見事に店側に採用されていた。
今度バイトの時間じゃないときに、食べに行くつもりだろう。
「あ、祐一君! たい焼き屋さんだよっ!」
あゆが駆け足でたい焼き屋に駆け寄る。
このたい焼き屋、冬以外でも営業していて、しかも今回の企画にも参加しているらしい。
「でも、このたい焼き屋は一体どんな企画を立てているんだ?」
「わたしは知らないよ」
「おじさん、たい焼き五つ!」
あゆが親父さんに注文する。秋子さんと真琴の分も合わせてひとり一匹計算か。
カランカランカラン!
親父さんが突然ベルを鳴らす。
「おめでとう〜! あゆちゃん、君がこのたい焼き屋創業から数えて百万人目のお客さんだよ!」
「……うぐぅ?」
「いや、この数日のうちに達成する予定だったんだけど、商店街全体が盛り上がっているお陰で、随分早かったねえ〜」
「なんだ、なにか商品でもあるのか?」
予想外の出来事に胸が弾む。
「ああ、もちろんだよ」
「そうなんだ、なにかな〜?」
「おじさんっ、商品ってなに?」
「まあまあ、そう急かすな。これが、商品だ!」
「た、ただいまぁ〜」
「う、うぐぅ……」
「おもいよ〜」
三人とも、へろへろになって玄関に倒れこむ。
――それぞれ両手いっぱいに持った荷物を置いて。
「おかえりなさい。あら……バイト先の方から、たくさんおみやげ貰ったんですね」
秋子さんが出迎えてくれる。だが俺にはもはや答える気力は残っていない。
だって、俺が一番多く荷物持っていたから。
あゆも倒れたまま動いてない。
「……お母さん、そう見える?」
「冗談よ」
「たい焼き屋さんの景品です……」
なんとか息を整え、それだけ言う。
「まあ」
「たい焼き一年分」
「よかったわね、みんな」
「よくないよ……」
「まったくだ」
ダンボール五箱分も貰ってどうすればいいんだ。こんなの食べきる前に必ず腐る。
あの親父さんはなに考えてるのだろう。
「う、うぐぅ……たい焼き天国……それとも地獄?」
「あゆ、とりあえずしっかりしろ」
「おかえり〜。ってわっ!? その荷物どうしたの!?」
玄関の様子をいぶかしく思ったのか、出て来た真琴も驚いている。これを見て驚かないのは秋子さんくらいだろう。
「たい焼き一年分」
「うわぁ……あゆお姉ちゃんが食べるの?」
「……うぐぅ」
倒れたまま、律儀に返事だけ返す。やはりあゆの小さい体で、一箱持ってくるのは結構きつかったようだ。
「いくらあゆでもこれは食いきれないだろ」
「どっから持ってきたのよ?」
「たい焼き屋さんに貰ったんだよ」
「どうせなら肉まん一年分がよかったのに〜」
「中華専門店が、あの商店街にはないからな。無理だろ」
「コンビニじゃやらないの?」
「やるわけないだろ。大体今販売してないしな」
「残念〜」
「わたしは、イチゴ一年分がよかったな」
「だから腐るって……」
「残念……」
「そうだっ」
突然起き上がるあゆ。
「あゆ、大丈夫か?」
「う、うん。なんとか大丈夫だよ」
「それはよかった。で、どうしたんだ?」
「これ、喫茶店のメニューに使うのはどうかな?」
「却下」
「うぐぅ〜一秒……」
そんなの無理に決まってる。
「みんな、疲れたでしょう。お夕飯にしましょうか」
「うん、もうおなかぺこぺこ……」
「ボクもお腹すいたよ……」
名雪がダイニングへと歩いていく。
「祐一君も早く行こうよっ」
「ああ」
体が重い。明日はたぶん筋肉痛になっているだろう。
そう思うと、少しゆううつになる。
でも、俺よりも疲れているはずのあゆが、笑顔でいると、負けるかと思う。
それと同時に、今日の仕事の様子が、頭に浮かんできた。
――しょうがない、明日も頑張るとするか。
きっと、俺の顔は少し笑っていただろう。
感想
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