00/

 この世の中には神様なんて居やしない。
 相沢祐一はそう思っていた。
 まぁ、そうは思わない人が多くいて、しかもどちらかというと多数派だったりするのだから、あまり大っぴらにそういう事を言わない方が良いのかもしれないけれど、でも、やはり彼はそう思っていた。
 神様にお祈りしたところで宝くじの一等が当たってくれるわけではないし、志望校に一発合格できるわけではないし、素敵な彼氏彼女と出会えたりするわけでもないし、日本の学校でブルマーが復活するわけでもない。
 神様は居ないし、居たとしても人間の願い事なんて叶えてくれない。五円玉一枚で願い事を叶えてもらおうなんて考えている方も何気にどうかしているとしか思えないが、例えそれが大券一枚だろうが、あるいはお賽銭箱の隙間に入らないような札束だろうが、叶えてくれないものは叶えてくれない。
 それはずっとずっと昔、毎年12月24日の夜にやってくる髭オヤジの正体を知ってしまったあの日からずっとずっと、彼の公式見解だったのだ。







『春』










01/

 季節は夏真っ盛り。
 うざったい程に世界を明るく照らし出す太陽の光は、最早人類にとっての脅威にしかなっていない。あるいは、未知の宇宙生物の攻撃なのではないだろうかと、そして今現在、それに対抗する策をNASAが絶賛考案中なのではないのかと、そんな妄想に浸ってしまうくらいに致命的だ。
 遠くに見える正門前の通りを真っ白なYシャツを着たサラリーマンがのらりくらりと通り過ぎていく。クールビズなんて政治家の妄想は、もちろん実際の下級層奴隷的労働者達に浸透するわけもなく、バッチリとネクタイ仕様。
 窓の隅っこに張り付いた蝉もあんまりな暑さに生殖意欲を失っているのか、先ほどから沈黙したままピクリとも動かない。あるいはただ単に雌なのかもしれなかったが、それでも無理やり暑さの責任にしてみたくなるくらいに、悪辣な陽気だった。
 とはいえ……実は、そんな暑さと祐一は無関係だった。
 何せここはトンネルを抜けた先にある郷。冬場は今とは逆に太陽が恋しくなってしまうほどに薄曇り、灰色の天蓋となったそこから延々と、飽きもせず真っ白で冷たくて積もると滑るアレを舞い散らせてくる、そんな極寒の土地なのだ。
 ならば当然、そこにある住宅及び建築物は全て寒さ対策を完備しているわけであり、必然として周囲一円から生徒(別名を金づるという)を集めている学校も、その例外から漏れない。
 そんなわけで、教室内は天井に据え付けられたエアコンから吹き出してくる冷気によってそこそこ快適な温度に保たれていた。窓の機密性能も万全で、灼熱の外気は全く届いてこない。
「ふあああぁぁぁぁ……」
 骨格の限界に挑戦するように口を大きく開けて、欠伸をする。
 夏休みだった。夏休みといえば海水浴に行ったりプールに行ったり山に行ったり、アイスを食べ過ぎてお腹を壊したりカキ氷を食べ過ぎてこめかみの辺りをキーンとさせたりスイカを食べ過ぎた子供を「種を飲み込むとお腹の中でスイカが生るぞ」と脅したり、毎日をダラダラと怠惰に過ごして最終日直前まで宿題には絶対に手をつけない、そういう、学生特有の期間だ。
 だというのに、何故祐一は学校に居るのか。
 その答えは彼の年齢にある。
 相沢祐一。現在、17歳。時間が静止したり逆行したりしない限り、今年で18歳になる。
 これだけ言えば、だいだい言わんとしている事は分かるだろう。
 つまり俺は、今年大学受験を控えた高校三年生という事であり、そんな受験生にとって夏はとても大切な時期なのだ、という事だ。
 そんなわけなので、目下、夏期講習中。夏休みの半分以上を消費する予定のこの夏期講習は、朝は9時から、夕方3時まで延々と続く、まさに勉学のトライアスロンと言った仕様で、夏休みが始まる前の二者面談で「この成績で大学に行きたい? お前は何を言っているんだ? 寝ていない時に言う寝言はただの妄言だぞ?」と教育委員会に訴えたら問題に出来そうな担任の発言に憤慨し、「見てやがれコンチキショウ! この夏で偏差値を一気に上げてやる! そして俺は星になる!!」とよく分からないことを威勢よく断言し、その足で講習の手続きを済ませたりしてしまったのだが……今はとてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとても、「とても」が後100個くらいくっ付いてきそうなくらい、後悔していた。
 まさかこれ程までに困難な闘いになるとは思っていなかった。やる事もやっている時間も普段の授業とさして変わらないだろうと安直に考えていたのだが、雪苺娘(税別180円)くらい激甘だった。
 とりあえず彼に言えることは、『夏を制するものが受験を制する』なんて最初に言い始めた奴は死刑、という事くらいだろうか。
 とにもかくにも、そんな真夏の一日。
 祐一はすでに黒板を追う気力もなく、視線を窓の外へと浮遊させていた。教壇の前では教師が夏の陽気にも負けないほど熱心に教鞭を振るっているが、その声が彼の頭の中に侵入することはなく、大気の中で無限に拡散していくばかりだ。カリカリと神経質に響く二十本ほどのシャーペンの音も然り。これ以上ないくらい人生の無駄遣いをしている気分になってくる。
 そんな気分を振り払うように外へ向けられた瞳に映る夏の様相。何処からどう見ても夏だ。世間一般、少なくとも日本における『夏』の姿が、確かにそこにあった。
 ただ……一点の違和を除いて。
 未だ慣れない、ありえないその光景に、頭がクラリとする。
 締め切られた窓の向こう側。そこにあるのは見慣れた町並みと、見慣れない鮮やかなピンク色。ともすればその匂いすら錯覚してしまいそうなほどに、それは一面に広がっている。
 それらは全て、満開の桜だった。
 夏なのに。真夏なのに。
 桜が咲いているのだ。
 それも町中の桜という桜が、全て、一本たりとも例外なく。
 凍えるような冬が過ぎ去って、暖かな春が来て、この町でも少し遅い桜が咲いた。それは例年通りならば、一週間ほどで見頃を過ぎて、青々とした若葉をいっぱいに広げ、頭上から人々に毛虫の大群を降らせる……はずだった。
 しかし、この年は違っていた。
 咲いた桜が、そのまま散らなかったのだ。
 実は全ての花びらが瞬間接着剤で貼り付けられていた、とか、そんな無駄に壮大な何者かの悪戯というわけではなく、花は今も常時散り続けている。町中の道という道が桜の花びらで覆い尽くされて、何人かの転倒者を出すほどだ。
 ただ、散った先から新しいつぼみが生まれているのだ。そしてそのつぼみは半日ほどで満開になってしまう。だから何時まで経っても枯れない。花を咲かせては実を残さずに散らすという、ある意味で非常に不毛な単純作業が、延々と繰り返されているのだ。
 もちろん当然当たり前……非科学的な現象である。非現実的と言っても構わないし、非常識だとも言える。
「いったい、どういう理屈なんだろうなぁ」
「知らないわよ、そんなこと」
 誰に向けたわけでもない呟きにそんな冷たい回答が返ってきて、少し驚く。視線を声のほうへと向けると、そこにはなんと美坂さん家の香里ちゃんが居た。
「ずっと居たでしょうが知ってるでしょうがっていうかそもそも香里ちゃんとか呼ばないで」
「アグレッシブなツッコミをありがとう」
 とりあえずお礼を言ってみるが、言われた当人はあまり嬉しそうではなかった。鬱陶しそうに顰められた眉や、最近になって掛け始めた眼鏡の奥で細められた瞳を見るまでもなく、カチカチと机の上のプリントをシャーペンの先で叩き続けるその仕草から、彼女の苛立ちは容易に見て取れる。
「相沢君、今がどういう時間か、分かってる?」
「分かっていますとも。分かっているからこそ、逃避してるんじゃないか」
「逃避してるんじゃないの。名雪だって、頑張ったんだから」
「頑張った……? って、もしかして、もう、結果出たのか?」
「さっきの休み時間、職員室に聞きに行ったのよ。優勝らしいわ」
 祐一の従兄弟である水瀬名雪は、現在陸上のインターハイに出場するために関東地方に出征中だった。今日が決戦の日だとは祐一も知っていたが、まさかこんなにも早く結果が出ているとは。家に帰ってから彼女の母親である秋子さんに結果を聞くのを、楽しみにしていただけに、ここで教えられたことを少し不満に思う。
「へぇ、そりゃまた……たいしたもんだ」
「まったくね。これであの子、推薦確定でしょ」
 香里の声にさえどこか羨望の色が混ざっている、その「推薦」という言葉は、制度としては知っているものの祐一には一生涯関係なさそうな単語だった。
 インハイで優勝したのなら、陸上に力を入れている大学からは引く手数多だろう。学業成績のあまりよくない――なにせ授業中ほとんど眠っているのだから――名雪でも、名前を聞くだけで吃驚してしまうような有名大学に進学できるかもしれない。
 それらは全て彼女の三年間の努力の賜物であり、まったく不当な贔屓ではなかったのだが、それでもこうして毎日苦行(べんきょう)をしている祐一たちにとっては、羨ましいことのように思えてしまうのだ。
 抑えようもなく湧き上がってくるそんな感情を振り払うように、香里は一度視線を黒板へと移し、そして再び戻した。
「世界中から山ほど学者がきたけど、結局原因は不明だったんでしょ」
「……いや、原因は、分かってるんだ。問題は理屈が分からないって事で……」
「原因わかってるの? なに? やっぱり異常気象?」
「いいや。神様がそれを望んだからさ」
 祐一はそっけなく答える。まったく馬鹿げていて、それとなく方向性が間違っているような気もするが、しかしこの光景は確かに、『あいつ』が望んだままの姿なのだろう。何気に他人の迷惑になっているあたり、間違いない。
 だが、香里はそんな祐一に向かってため息混じりに言う。
「はぁ……相沢君、貴方は疲れてるのよ」
「藪から棒に失礼な発言だな、おい」
「だって、いきなり『神様』なんて言い出すんだから。心配して当然でしょう?」
 まぁ、そう言われればその通りなのかもしれない。
 祐一だって、香里がいきなり『神様は居るのよ』なんて言い出したら、彼女の脳を心配するか、もしくは問答無用で適切な病院を探すだろう。キャラじゃない、とかそんな次元の問題ではない。
「でもな、香里。お前の眼が悪くなったのも、神様が願いを叶えたからなのかもしれないんだぞ」
「……どういう意味?」
 訝し気に首を傾げる香里に、祐一はチョイチョイと彼女の後方を指し示してやった。そこに居たのは熱心な眼で黒板ではなくこちらを……というか香里を見つめている数人の男子生徒だった。彼らは総じて、何故か「ハァハァ」と荒い息をついていた。
 眼鏡を掛けたことで最近妙に人気が高まり始めている香里は、その光景にブルリと身体を震わせた。








02/

 放課後……とは言っても、一般的な『放課後』に対するイメージとして最前列に並べられるだろう『夕暮れ』は、真夏のこの時期には全く期待できない。時計を見れば、針はおやつの時間をとっくに通り過ぎているのだが、それでも窓の外は昼間の明るさをそのままに保存していた。
 ずっとずっと幼い頃。まだ天体の公転と自転とか、地動説とか夏至とかそういった単語を知らなかった頃。夏は一日が長くて、冬は短いのだと思っていた。暖かい時期――不思議なことに、幼い頃というのは暑さにウンザリするということがない――には、いっぱい楽しいことがあって、だからいっぱい外で遊べるように、一日が長くできているのだと思っていた。自分がいっぱいいっぱい楽しめるようにという神様のサービスなのだ、と。
 夏は日が長く冬は短い理屈を知ってしまった今となっては、まったく馬鹿げた話だ。
 だが、現実よりもずっと、馬鹿げた話のほうが楽しい。唐突に、何の伏線も根拠もなく、ただまるでそれが当たり前であったかのような顔をして現れる、そんな奇跡があった方が素敵なのだと思う。そう思えるほうが、ずっと幸せだ。
 だからたぶん、自分はこんなにも簡単に全てを受け入れてしまっているのだろう。彼はそう考えてた。
「よう、相沢」
「……よう」
 背後からかけられた声に、祐一は漏れ出そうになるため息を隠しながら振り返った。
 北川潤一。祐一や香里とは違って理系コースを選んでいた彼は、別の教室で講習を受けていたのだ。
 祐一と同様に成績の芳しくない彼は、祐一と同様の艱難辛苦を味わっているはずだ。だが、今日一日、激闘を繰り広げたにしては、その顔は緩んでいる。どれくらい緩んでいるかというと、顔の表面積が1.5倍ほど増量して見えるくらいになっている。
 それもそのはず。最近、北川にも彼女が出来たらしい。別の学校に通うひとつ年下で、写真を見せてもらったが、なかなか可愛らしい子だった。
 てっきり香里を狙っているのだとばかり思っていたのだが、諦めたのか身の程を知ったのか玉砕したのか、とにもかくにも不意に一ヶ月ほど前から一人での行動が多くなり、そしてつい最近、「彼女が出来た」と満面の笑顔を浮かべて語りかけてきたのだ。現物に合わせてもらったことはまだないが、一応は実在する三次元の女の子らしい。もちろん、右手でもない。
「彼女とはその後どうなんだ?」
「おぉっ! 聞いてくれるか? 聞いてくれるのかっ!?」
「……いや、やっぱ良い」
 この満面の笑みを見ただけで、だいたいの事情を察してしまい、これから数十分間にわたって繰り広げられるだろう惚気を回避するため、祐一は首を振った。「なんだよ、つれないなぁ」なんてニヤつきながら無意味に肩をぶつけてくる友人に、不意に蹴りの一発でもお見舞いしてやりたい気持ちに駆られたが、グッと我慢する。
「神様に感謝しないとなぁ」
 北川はそう言って、また笑った。
 恋に恋する乙女のごとき気色の悪いその顔は、しかしと言うかなんと言うか、本当に幸せそうだ。
「良い心がけだな。なら、肉まんを買ってこいよ」
「肉まん?」
「あぁ、それも、コンビニのな」
「この時期に売ってるのか?」
 売っていない。そのことは祐一自身が、休日返上で自転車でいける限りのコンビニを走り回った結果として知っている。あるいは南半球にでも行けばあるのかもしれないが、外国でも肉まんを売っているのかどうかは分からなかった。
「でも、なんで肉まんなんだ?」
 北川は当然の質問をした。 
 祐一は苦笑して答える。
「大好物だからな」
 もちろん、神様の。






03/

 ごつごつと歪に隆起する地面を踏みしめながら、人気のない道をゆっくりと歩いていく。左右を取り囲む背の高い木々は鬱蒼と葉を茂らせていて、その陰から蝉の大合唱がサラウンドで耳朶を刺激してくる。いや、サラウンドというよりはむしろ5.1chサウンドか。まさかこんなところでホームシアター体験をするとは思ってもみなかった。
 爆竹をばら撒いて丸ごと黙らせたい衝動に駆られながらも、祐一は歩みをやめない。もちろん、迷いがないわけではない。
 暑さと疲労で朦朧とする頭の片隅で、一汗かいたから今日はもう帰ろうかなぁなんて考えてしまう。家に帰ってシャワーを浴びて、エアコンの効いた部屋でアイスを食べるのだ。夕飯は素麺が良いだろう。秋子さんお手製のツユは最高だ。
 だが、せっかくココまで来たのだから、いまさら引き返すのも勿体無いような気がする。振り上げた拳を下ろす労力は、拳を振り上げる労力に勝る。世界から戦争がなくならないのと同じ理由で、祐一は足を進め続けていた。
 やがて、たどり着いた場所はものみの丘だった。人気がないのは当然で、このあたりにやってくるような人間はそうそう多くないだろう。いたとしたらそれはよほどの暇人か、何らかの宗教的理由により一日に一度高い場所で夕日を眺めなければならない怪しげな人間か、青姦を企むバカップルかのどれかだ。
 しかし、残念なことに祐一はそのどれとも違っていた。
 視界いっぱいに広がるものみの丘に、一本だけポツリとソメイヨシノが生えている。町中の桜の木がそれ以前からあったものであるのに対し、この桜だけは春になって急に生まれ育った。誰も気づかぬうちに。不意に現れたのだ。
 日本に数ある桜のなかで最も一般的なものはソメイヨシノだ。だが、そのソメイヨシノは果実をなさない。稀にできることもあるらしいが、しかし発芽することは無い。それはつまり、決して自生せず、普通は接ぎ木や挿し木で増やしていくしかないということだ。
 だから、逆に言えば今までなかった場所にいきなり桜の木が立っていたとしても、必ずしも不自然というわけではない。奇特な誰かが何処かから持ってきただけなのかもしれない。尤も、この場合、接ぎ木や挿し木とは呼べないだろうが。 
 なにせその桜は他の一般的な木よりも二周り以上大きく、ずっとずっと鮮やかに花を咲かせているのだから。こんなものを移動させようとすればとんでもない労力が必要になるだろうし、そうなれば、町ぐるみの一大作業になる。『誰も気づかない』なんてことはありえない。
 突然出現したこの桜を、誰かが『西行妖』などと呼んでいたが、祐一には意味は分からなかった。
 その桜の根元に座り、町並みを眺める。日はようやく遠い山並みと同じ高さにまで落ちてきていた。眼が焼けそうな程の赤光と、ある種のグロテスクさを感じさせる薄紫色が複雑に混ざり合い、空を斑に染めていく。
 夕暮れは寂しい色。お別れの色。
 彼と彼女はこの場所で結婚式を挙げた。滑稽で、馬鹿馬鹿しくて、幼稚園児のごっこ遊びだってもっとマシだろうと思うくらいちっぽけな儀式だったけれど、あれは確かに、彼らの結婚式だった。
 だからこの場所は、二人にとってかけがえの無い場所で、そしてそんな場所に巨大な桜がたっている。誰にも知られることなく始まった物語を、密やかに祝福するように。あるいは、誰にも知られることなく終わってしまった二人の墓標のように。
 どちらにしても、それは間違いなく、あの奇跡のような一瞬の、確かな名残だった。
「春が来て、ずっと春だったらいいのに……か」
「でも、それを願った女の子は、もう何処にも居ない」
 背後から聞こえてきた陰鬱という言葉を体現している声に、祐一は苦笑まじりの微笑で振り返った。
「天野……どうしたんだ?」
 当たり前のように現れた天野美汐は、当たり前のように何も語らない。何かに耐えるように結ばれた唇は僅かに震えていたが、沈黙を永遠の伴侶に選んだかのような彼女は、決して言葉を発することなく、ただ桜を見上げた。
 彼女を歓迎するように、花びらが一斉に風に舞う。世界が一瞬鮮やかなピンク色に染められたが、彼女はそれさえも拒絶し、やがて再び赤光が戻ってきた。夕暮れは寂しい色。お別れの色。まるで、自分にふさわしいのはこちらなのだと言っているようだった。
「この桜は、誰のために咲いているのでしょう? これを見たかったはずのあの子は、もう何処にも居ないというのに。神様は、あの子の願いを叶えて、でもあの子を助けてくれなかった」
 その声には嘆きの感情は含まれていなかった。だからこそ、彼女の思いが十分に感じられる。声が平坦であればあるほど、彼女が押さえ込んでいるものの大きさが分かるからだ。
 それでも、彼女はこの場所に来ることを止められない。
 たぶん、祐一と同じ理由で。
「それは違うよ」
 だが、祐一は首を振った。
 彼女は一つだけ勘違いをしている。
「名雪がインハイで優勝した」
「…………」
「香里が眼鏡を掛けた」
「…………」
「それで一部の特殊な趣味の連中が大騒ぎしてる」
「…………」
「北川に彼女が出来た」
「…………」
「天野、お前は神様を信じるか?」
「…………」
「俺は信じるぞ。例え他の誰が信じなくとも、俺だけは信じる」
 桜の木を見上げる。嫌になるほど満開なその木は、この場所に、町を一望できるこの丘に、唐突に現れた。まるで、全てを見守るように。
「何せその神様は、馬鹿でドジで間抜けで、無一文の浮浪者で怪しげな記憶喪失者でやけに態度のデカイ居候で、肉まんが大好きで少女漫画が大好きで悪戯が大好きで、ハチャメチャで鬱陶しいことも多いけど……でも、どうしても憎めない、そんな可愛らしい神様なんだからな」
「…………」
「救われなかった、なんてことはない。あいつは今もここにいる。ここで、春を守ってる。あいつが望んだように、春が来て、ずっとずっと春のままで居られるように。多くの人がそうであるように。願いを叶え続けてる」
 誰もが幸せになれるように。
 幸せであり続けられるように。
 それはまったく馬鹿げていて、それとなく方向性が間違っているような気もするけれど、間違いなく彼女が望んだ世界なのだ。
「だから……お前も、早くお前の『春』を見つけろよ。あいつに、お前の願いを叶えさせてやってくれ。なんせ、あいつは、お前に山ほど借りがあって、お前の事が大好きだったんだから」
「……分かりません。今はまだ。何も」
「そっか。でも、大丈夫。何時かきっと、お前にも春が来る。そしてそれは……永遠に続く」
 真琴が望んだこと。
 春がきて、ずっと春だったらいいのに。
 それはただ一つの願い。

 ずっとずっと、幸せな時間を。





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