4.北川

 女って言う生物は男にダメージを与える言葉を考える天才だね。
 あと、女の涙は武器っていうけど本当だよな。
 俺程度のまだまだ短い人生経験じゃ女の涙を見たのなんて数えるほどしかないけど、あれは強烈だ。
 それは例外なく俺の心をあっさりと乱す。全くもってどうしようもない。

 俺の前を歩いている女は一度だけ振り返って、言うんだ。
 いつもの端正な顔をこれ以上ないくらいに哀しみに歪ませて、瞳から流れる落ちる涙もそのままに。

「……最低」

 ……キいた。頭がぐわんぐわんして、足元がおぼつかなくなりそう程の衝撃。
 全く同じ言葉を今までに聞いたことがないわけじゃない。
 けれど、これまでの人生で一番キツイと思えた一言だった。




2.北川

 女は男を一喜一憂させる天才だって思うね。
 いや、惚れた方の弱みって言うかなんていうかね。
 美坂の反応ひとつひとつがもう気になって気になって。
 きっと俺の前世は犬だね。で、美坂に飼われてるの、美坂が来るとしっぽ振って、美坂が構ってくれるとしっぽ振って、構ってくれなくなるとしっぽ垂らすの。わぅーん、わぅ〜ん、って。
 だって、美坂ってほら。もともとがクールっていうかなんていうか。そういうタイプじゃん。だからこそちょっとした仕草とか言動に燃えるわけよ。

 え? おまえの惚気は聞きたくないって? まぁ、そういうなよ。
 おまえだって、水瀬さんと付き合い始めた当初はこんな感じだったぞ。俺は毎日、そんなのを聞いて過ごしてきたんだからな。たまには逆の立場も味わってみろって。

 でも、なぁ。聞いてくれよ。
 この前、デートに出かけた時の話なんだけどさ。
 その日は空模様があんまり良くなくてどんよりしてたんだよ。俺もまぁ、その空を見てるのは気分は良くないけど、美坂とデートできると思えば、俺の心のメーターも良い方に振り切るわけだ。
 で、美坂が待ち合わせの場所に来るの!
 相沢は美坂の制服姿しか見たことがないだろうが、デートのときはすごいぞ。

 え? 何がすごいって?

 そりゃ、もう。言葉に出来ないくらい可愛いんだよ。思わずその場で「これが俺の彼女でーす」って叫びたかったくらい。いや……もちろん、しなかったぞ。
 で、雨の降る心配もあったから、屋内に居たんだよ。
 しばらくしたら案の定、雨が降ってきて、ゴロゴロと音がする。
 そして、ものすごい音とともに窓の外が光った。
 何か色々思う前に、辺りは暗くなってた。建物内の照明器具がほとんど消えてて、停電したんだなってわかった。
 そのとき、俺の背中にすごい衝撃がきたんだよ。
 それは美坂だった。美坂が俺の背中を抱きしめるようにして震えているのがわかったんだ。
 それが伝わるから俺の心臓も普段の3倍の活動しちゃうわけ。
 いやだって、手を握るのも毎回どきどきするんだからさぁ。その度に美坂は赤面するし無言になるし、こっちも照れて何も出来なくなるし。
 まぁ、そんな付き合いをしてる俺らがだな。背中ごしとはいえ、手以外にあれだけ身体を密着させたのは初めてなわけだ。そうだよ、俺の背中に腕はおろか、その……み、美坂の……胸が当たってて、すげぇパニくった。
 とりあえず、美坂のほうを首だけで振り返ってみたら――暗闇の中で美坂の瞳に光るものが見えたんだ。
 不謹慎かもしれないけど、惚れた女の涙を見せられてぐっとキた。
 なんていうの? 保護欲をそそるっていうのか? まぁ、理屈はどうでもいいんだけど。すっげぇ可愛かった。
 すぐに復電したからその時間はほんの少しだよ。
 明るくなると、美坂はパッと離れるんだけど、涙と少し朱に染まった頬はそのままだ。
 で、本当に恥ずかしそうに、美坂の方からはじめて、手を握ってくれたんだよ。
 もうその瞬間と言ったら、思わず世界の中心まで行って愛を叫びたいくらいだったね。いや、しないけどな。

 と。そこまでしゃべったところで気づく。水瀬さんが少し離れたところでこっちを見て苦笑いしてるのが。
 俺と美坂が最近つきあいだしたのに比べ、何ヶ月も前から相沢と水瀬さんはつきあっていた。
 そんな二人は住んでいる場所が同じで、登校がいっしょなのはつきあう前からもそうだが、彼氏彼女の関係になって以後は帰るときもいっしょに帰る機会が増えていた。
 今日は水瀬さんが用事があり、相沢に「先に帰ってもいいよ」と伝えてあったのだが「いいよ、待ってる」ってな会話があったのだ。
 水瀬さんを待つ間、放課後の誰もいなくなった教室で時間つぶしのために俺と相沢は話をしていたわけだ。
 同性の相沢にこういう話を聞かせるのはいいが水瀬さんに聞かれるとかなり恥ずかしい気がした。
 どこから聞いていたのだろう。
 しかし、気にしてもしょうがないことだろうと思い、相沢を潔く譲る。

「おう、悪いな。旦那さん借りちまって」
「ううん。待ってもらったのはわたしの方だし、悪くないよ」

 うーむ。数ヶ月前の水瀬さんならここで初々しい反応をしてくれたものだが、最近まったく動じてくれないなぁ。

「じゃあ、また明日ね。北川くん」
「またな」
「おう、また明日」

 二人が教室を出ても俺はしばらくの間、無人の教室の中にいた。
 窓の外を眺めていると、靴を替え終わった二人が出てくるのが見える。
 少し前までは、そんな幸せそうな二人のうしろ姿を見ると、寂しさと軽い嫉妬を感じたものだが今は穏やかな気持ちだった。
 俺にも、ついに彼女が出来たんだから。
 でも、二人が仲良さそうに帰る背中を見て、やっぱり羨ましいと感じた。
 だって、ほら。
 俺と美坂の家の方角、全く逆だからなぁ。




1.名雪

 香里に話があると言われた。
 放課後になると教室を抜けて香里の所属している部の部室に移動する。
 今日は陸上部も香里の部活も休みの日なので誰もここには来ない。他の誰もいない本当に二人だけだ。
 香里は別に内向的というわけでもなく、冗談を言わないわけでもないけれど。クラスの中では大人びていると言うか、冷静そうと言うか、格好いい部類に入ると思う。一人で暴走もしないし、興奮してそれが表に出るってこともない。闘志は内に秘めるタイプだ。
 と勝手に思っていたわけなんだけど。
 今、目の前にいるわたしの親友は、普段の彼女らしからぬ感じだった。
 一言、一言が抑えがきかずに、はずんでいるように感じる。

「それでね。北川くんに呼び出されたのよ。
 正直、そのときはドキドキしたっていうよりも『ああ。ついにこの時が来たんだ』って感じが強かったわね」
「そうだね。傍から見ても、二人は目に見えていっしょに居る時間が多くなってたような気がするよ〜」
「それは、名雪と相沢くんがつきあい始めたからなんだけどね。全メンバーで4人の美坂チームで一組のカップルができちゃったなら、残りの二人で居る機会が多くなるのは当然なのよ。それで、あたしは彼とさらに良く話すようになったし、いっしょに何かすることが多くなったわ。
 学校に居ると、北川くんといつの間にか二人でいるのよ。それがすごく自然に感じられて、それを自覚したときに『このまま、いずれ北川くんと』って感じたのよ。
 もちろん、あたしがいっしょに居て楽しいし、安らぐし、自然に好きになったのよ。
 うぬぼれじゃなくて、あたしのこと好きなんだろうっていっしょに居ると伝わってきたし。
 だからね。どっちかって言うと、このときを待ってたって感じだったかな」
「うん、そうだね。北川くんの態度、結構バレバレだったからね」

 北川くんって香里に対する反応は、本当に犬みたいでわかりやすい。

「そうなのよ。なのにね、待ち合わせの場所に行ったあたしに対してなんて言ったと思う?
 『驚かないで聞いてくれ。全く気づいていなかったと思うけど……俺は美坂のことが、ずっと、好きだったんだっ』って、
 むしろ、全く気づいていないなんて思ってるほうに驚きで笑い出しちゃいたい気分だったのよ。
 それでもね、この両頬に熱が宿るのは止められなかったわね。
 なんだかおかしな話かもしれないけど、
 予想してたし、笑い出しそうになるくらいの告白だったのに――すっごく、胸がドキドキしちゃって、すっごく嬉しかったのよね。
 あたしよりも赤くなってる北川くんを見て、かわいいなぁって正直思っちゃったし。
 やっぱり、期待してたのよね」

 と、はしゃぎながら話す香里はいつもとは違う顔を見せてくれるんだけど、なんだか話が進んでない気がする。
 わたしは、祐一が待ってくれているのを思い出して、話を促そうとする。

「……ねぇ、香里。惚気たいだけってわたしを呼んだの?」
「……ううん。そうじゃない、の」

 さっきまでの浮かれ具合はどこへやら、香里ははしゃぐのをやめる。
 もしかすると、強引に自分のテンションを上げようとしてただけなのかもしれない、と思った。
 何故なら、香里はさんざん、うーんと唸ったあげく、やっと観念してそれを言ってきたくらいだから。

「ねぇ……名雪。あの……初体験のとき、ってどうだった?」

 なんてことを聞いてくるのだろう。
 香里はまっすぐにこっちを見ていない、視線は斜め下のほう、頬は朱に染まったまま。
 確かに、気軽に聞ける話題ではない。
 わたしの方も、顔が熱かった。
 だって、こういう話……普通じゃ出来ない。
 だって、その行為ってやっぱり、とてもすごいこと、なんだから。

「……ええと、ね。わたしのときは……とにかく痛かった。身体的には気持ちいいなんて全然感じなかったよ……ただ耐えてるだけっていうか」
「違うの……名雪。その……行為自体の感想が聞きたいわけじゃなくて、どうやってそういう雰囲気になったのか、とかそういうことを……」

 香里と北川くんの正式な彼氏彼女としてのつきあいはまだまだ短い。
 だけど、香里も北川くんのことをずっと意識してて、好きだった。
 それで、つきあうことになったんだから、いずれそういうことに及ぶのも普通のことだと思う。
 女の子だって、好きな人と身体を重ねあいたいものなの。でも……

「うーん、そういうのって個人差があるから焦ってしようとしなくてもいいと思うけど」
「だって……あたしたち、手をつなぐだけで、まだまだ互いに赤面しちゃうくらいなの。
 キスもまだだし、その……その先のことなんて、いつになったら進めるかわからないし。
 あ……あたしは、その……北川くんとそうなっていいと思ってるし、そうして欲しいと思ってるんだけど、こういうことって女の子から言うの、恥ずかしいじゃない。はしたない子だって思われたくないし」

 それはわたしには無縁の悩みだったなぁ。というか、悩む暇がなかった。
 思いが通じたときには、もう考える間もなく、愛し合ってたから。
 祐一、すけべだから。香里たちにつきあい始めたことを告げたときには、もうすでにバージンは祐一に捧げてました。

「もしかして、北川くんはあたしじゃ興奮しないのかしらって、不安になるのよ。男がすけべだと安心するっていう女性が世の中にいるってきっと本当なのよ」
「……自分が求められいるっていうのは、確かに嬉しいことなのかもしれないね」

 でも、男の子は男の子なりに、今の香里みたいにいろいろ考えるじゃないのかなぁ。
 だってね。
 良く考えたらすごいことだよね。
 お互い裸になるって段階で、もう普通じゃない。
 すごく変だし、いやらしいし、恥ずかしいし、子どもだって作れちゃう。
 でも、すごくうれしくて、きもちいい。

「北川くんも同じ気持ちだと思うし。きっと香里のことを大切にしてくれてるんだよ」

 わたしは二人にうまくいって欲しいって思うから。
 焦らず自分たちのペースで進んでいくことが大事なんじゃないかな、って香里に何度も伝えた。

「ありがとう、名雪」

 香里はいつもの平静さを取り戻し、笑ってくれた。




3.北川

 俺たちがつきあい始めて最初の夏が来た。
 俺たちは受験生で、当然勉強もしていたけど、今年の夏はそればっかりもしていられない。
 二人で図書館で勉強する日もあれば、二人でデートする日だってある。
 二人の仲はだんだん進展し、手をつなぐのにも慣れ、俺は美坂のことを「香里」と呼ぶのに違和感がなくなった。
 美坂チームで思い出作りに海に行ったりした。
 香里の水着姿にドキドキして、思わず抱きつきたくなる衝動を必死に抑制した。
 子どもみたいに、スイカ割をしたり、相沢&水瀬ペアとカップルビーチバレー勝負をしたり、楽しい一日だった。
 その日の締めくくりには、夕日をバックに雰囲気と俺の根性を盛り上げて、香里とファーストキスを交わすことにも成功した。
 夏祭りには、浴衣姿の香里を拝むことができた。
 夜空の下、花火をバックに2回目のキスをする。
 新しい思い出がまた増える。
 香里といっしょに過ごした時間が増える。
 二人の距離もさらに近づく。
 順調なステップアップ。
 心をもっと近づけたい。
 身体をもっと触れ合いたい。
 そういう感情が、溢れてくる。

 夏休みも終わりに近づいた、ある日。
 俺と香里は、夏休み最後になるであろうデートをしていた。
 正直、この日の俺はとても緊張していた。
 それは、香里と一線を越えようと心に決めていたからだ。
 いつもよりさらに気合の入った服装で、ちょっとそういうシーンがある映画を見て、ちょっと慣れない高級そうな店で食事の予約して二人で食べた。
 いつもよりは自然でいられていないと自覚はあった。
 香里のことをまともに直視できなかった。
 何せ、人生ではじめての、あの行為を、好きな人に、了解を得て、しようとしているんだから。
 もちろん、香里が嫌がれば無理にするつもりなんてない。
 一日中、脳もノドも身体も、全部の器官がちょっとイカれてるような、よくわからない感じだった。
 いつもは入るはずの香里の表情も全く入ってなかった。
 どうやって誘ったかも覚えてなかった。
 ただ、どうにかホテルまでいっしょに入った。
 香里はシャワーを浴びに行った。
 もうすぐだ。
 もうすぐで、俺は、香里の裸体を目にするのだ。触れるのだ。
 頭の中が真っ白だ。
 興奮とは違う何かが、俺の全身をしびれさせている。
 ずっと、この日を考えていたはずだ。
 恋人同士の、俺と香里の、はじめての、この瞬間のことを、
 嫌われたくない、不安にさせたくない、成功したい、優しくしたい、大切にしたい、
 そんなことを考えていたはずだ。

 扉が開く音。
 香里がシャワーを浴び終えた。
 あの布地の下には、香里のすべてがあるのだ。

 香里の表情を確認する余裕すらなかった。
 香里が何かを言って、ベッドの上に腰掛けた。
 俺も隣に座った。
 香里の、湯上りの髪が、首が、
 瞳が、鼻が、唇が、
 うなじが、肩が、脇が、
 指が、全身が、
 俺のすべてを吹き飛ばしそうなほどの香りを放っている。
 俺は、そのひとつに手を伸ばした――




5.祐一

 高校最後の夏休みが明けて、久々に登校した俺を待っていたのは、どんよりとした雰囲気だった。
 発生源は、このクラス。
 いつもは微笑ましい雰囲気を放っている二人が互いに距離をとって、まるで他人のようにそこに居た。

「おはよー、香里ぃー」

 発生源のひとつにのんきに声をかける名雪。やっぱりおまえは大物だよなぁと思う。

「あらぁ、おはよう名雪」

 それに対する香里の返事はいつもより明るい。それが「妙な」という形容動詞が上につく類のものであるからやっかいだ。
 声だけは不自然なくらい明るいくせに、目はちっとも笑っていないのだ。
 名雪が「ひぃっ!?」って息を呑むのも、誰も責められないだろう。

 それでも、香里のことは同性の名雪に任せておくのがいいだろう。
 俺のほうは、もうひとつの腐ったキノコのような状態になっている男に近づく。

「……大丈夫か? マッシュルーム北川」

 そう声をかけると、北川は小動物のように激しく身体を震わせる。
 やばいかもしれない。いつもなら俺の発言に何かを返してくれるはずなのだが、空ろのような、それでいてしっかりと見開いているような目で俺を見ている北川。
 香里と何かがあったのは明白だった。
 かなりの重症であるようだ。

「……今日、帰りはつきあえよ」

 それだけ伝えて席に戻る。
 担任がすぐに出席を取りに来るからだ。
 そして、授業が始まる。
 授業、昼休みも含め俺は北川たちの様子を観察していたのだが。
 香里は北川のことを徹底的に無視の方向であるらしかった。
 何のトラブルか知らないが香里は北川の方が悪いと思っているのだろう。ただ拒絶とはまた違うみたいだ。
 香里は気がつけば北川の方に視線を投げかけているし、それにイライラしているように見えた。
 勝手な推測だが、敢えて距離を取っているのかもしれないとも思った。
 そして、北川の方だが、こっちは完全に真っ白。
 落ち込んでいるのがわかりやすい。
 北川の方が、何かやらかしたのだと思えた。

 昼食もさすがにいっしょには取らなかった。
 これはもう、慰めコースになるのかなぁと悲しい想像をした。

 傍から見ていて、長い学校の一日が終わった。
 無気力になりかけている北川に小声をかける。

「……人に話したら、少しは楽になるかもしれないぞ」
「……ああ」

 俺たちは学校を出る。
 行き先は北川の家だった。
 北川の部屋に上がって、無言の時間が約数分。
 来る前に買った缶コーヒーがだんだん冷える。
 やっと、北川が口を開く。

「相沢って、その……水瀬さんと、はじめてのときはどうだったんだ?」

 ぶーーーーーーーっ!

「汚ねぇよ、相沢」
「……悪い。そーか、そっち関係のトラブルなのか……」
「まぁ、聞いてくれよ。
 俺と香里がつきあいはじめて、それなりの時間が経ったわけだ。
 何度もデートしたし、海に行ったときはキスもしたし、順調にステップアップしてたと思うんだよ」

 コーヒーまみれの北川はそれを拭こうともせずに真剣な目で語っている。

「夏休みの終わりに、そのまぁ、ついに一線越えようかと思いまして、香里をデートに誘ったんだ。
 俺なりにシュミレーションしてムードを作って、自然に誘えるように考えた。
 まぁ、実際はどれだけ上手くいってたのかわからないけど、香里は断らなかった。二人でホテルに入った、ここまでは問題ないよな」
「まぁ、香里がついて来てくれたんなら問題はないとしておこう」

 まさか、ホテルに入ってそういうことをしないなんて香里だって思わないだろう。
 少なくとも、北川にそういうことを許してもいいくらいには、心を開いているのだと思った。

「当たり前だけど、入るのはじめてだし、経験だってないし、頭の中が真っ白になって、香里の身体に対する期待みたいなのはどこかに吹き飛んでた。
 上手くやらなきゃいけないって、そればかり思ってた。
 でも、香里の身体みたら、そういうのすら吹き飛んだけど。
 いや、本当にもう、すごいのな。
 あのときまで実感なかったんだけど、女の子も興奮したら濡れるんだなぁって、クラクラしそうになった。
 大切にしようとか、そういうのが全部、すっぽり落ちて、無我夢中で香里の身体を触ってた」
「……それで、気がついたら暴走して香里を無理やりって、とこか?」
「……いや、それならまだマシなんだ。
 そうやって香里の身体に触れているうちに、香里もだんだん準備が整ってきて、まぁ、OKサインをくれたわけだ。
 これで、やっと俺たちはひとつになるんだ。って、その瞬間を迎えるはずだったんだよ。
 行為の後には『痛かったけど、北川くんとだから、いいんだよ』って泣き笑いを見せてもらう予定だったんだよ、俺の妄想の中では。
 でも、現実は違った。
 俺も相沢やその他世の中の男性たちが通る道のように普通にやり遂げたかったんだけど。
 ……うまく入れられなかった……」

 言葉を失う。どうやって切り返せと言うのか。

「『そこじゃない、違う』とか言い合ってるうちに、俺のしぼんじゃったんだよ。
 言っておくが、俺は不能じゃないぞ。
 自慢じゃないが、香里とつきあう前から、想像の香里で何度もシたことあるんだからな」
「……なるほどな。それで、結局できなかったから、今日のおまえらはあんなだったんだな」
「……そうだけど、ちょっと違う」
「何がだよ」
「香里は、別にそこで怒ったりしなかった。謝る俺を慰めるように、俺のをその……色々してくれた」
「って、おまえ。何を赤面してんだよっ」
「だって、ほら。香里が俺のアレをしごいたりしゃぶってくれたりしてくれるなんて思ってもみなくて……」
「……おまえ、殺す」
「なんでだよっ」
「くそー、愛されてるなぁ、ムカつく、ムカつく。口でなんかしてもらったことねぇよ!」
「はじめてで失敗するよりいいだろっ。
 そうやって、してもらって。今思い出せば、すごいことだったなって、思うけど。
 あのときは、逆にプレッシャーだったんだよ。香里にこんなことまでさせてるのに、マイサンの方がどうしようもなくて、情けなくて死にそうだった」

 そう言って、北川はまた鬱状態に落ちていった。
 その日、二人がどういう別れ方をしたんだかしらないが、明るいものでなかったことは間違いない。
 と、そこで思い出した。

「ああ。さっきは偶然にもマッシュルーム北川なんて言って悪かったな。別のキノコの方が良かったよな」
「ぎゃああああああああぁぁぁ……っ!」

 ふっ。勝った。
 というか、とどめさしてどうするよ。




6.北川

 もう駄目だぁ。とマリアナ海溝の底よりも深く落ち込んだところで香里は戻ってこないのである。

「おまえ、この程度で諦めるくらいの想いしかないんだ?」
「何言ってやがる。諦めつくわけないだろう。俺がどれだけ前から思ってて、やっとここまできたってのに。
 あんな可愛い女の子、この世に二人といやしないんだから。これしきのことで……」
「まぁ。普通はしないけどな。そんな経験」
「……相沢。おまえは人を上げたいのか下げたいのかどっちなんだ……」
「よく考えろってことだ。俺は当然、香里じゃないから、香里がどう思っているかを正確には想像できない。
 けれど、同性であるおまえの立場も少しはわかるってだけだ。
 俺は相沢祐一であって、北川潤じゃないからな。
 でもな、俺は思うんだけど、もっと自分を出してもいいと思う。
 相手のこと気遣うのはいいことだけど、自分を殺してまでされた気遣いを、相手はどう思う?
 嬉しい時だってあるだろうさ。でも、その逆もあると思わないか?
 なんで、もっと自分を見せてくれないんだ。
 なんでそんなに遠慮するんだ。
 今まで、香里以外の人間も含めておまえがそう思ったことってないか? あるだろ。
 キスするとか、そういうことだけが恋人同士の進展じゃないだろ。
 おまえらケンカしたこととかあるか?
 どっちかが我慢すればいいなんて考えてるのは気遣いじゃない。それはそれで楽な道を選んでいるんだ。
 譲れないことは恋人でも譲っちゃ駄目だ。簡単に折れるな。諦めるな。
 納得いくまで話し合えよ。そういう心の延長、信頼関係、だからこそ身体を触れ合えるんだぞ。
 セックスは我慢することじゃない。そうやって、互いを高める行為のひとつなんだ」

 相沢の言葉に、本気で、目から鱗が出そうになる。
 仲がいい、仲がいいと。俺たちは言ってきた。実際にそうだったと思っている。
 トラブルなんか、今回のことまでほとんどなかったに等しい。
 でも、それは。俺が、嫌われたくなくて、いい格好をしたくて、避けていた部分なんじゃないだろうか。
 一見、香里のために見せている優しさが、実は自分を守る為の打算的なものだったんだ。

 ――余計な遠慮。

 それが、ただ手をつなぐだけでも、必要以上に気を遣って、よけいに香里に気を遣わせて。
 それは、自然な感情に出たものじゃないのか。
 そうだ。
 俺はもうずっと前から、手をつなぎたかったし、香里とキスしたかったし、性行為をしたかった。
 俺ときたら、本当に香里を見ていたのだろうか?

 ――そろそろいいかな?
 そういう感じにとらわれて、恐る恐る、手を出していたに過ぎない。
 ただの卑怯者。
 相手を気遣ってなんかいない。
 本当は、恐れていただけなんじゃないか。

「まぁ。なんて、格好いいこと言ったけど。
 そんなこといちいち考えてないけどな。気持ちいいから抱き合うっていうのだって立派な理由だよ。
 それに、おまえが香里を気遣っていたのは、嘘じゃないだろ?
 好きって思いに嘘はないだろ?
 じゃあ、また行くんだよ。
 隠さずに、つっこんで、本当のおまえを見せてやればいい」

 そうだ。相手を思って気遣うのは悪いことじゃない。
 でも、余計な遠慮をするのは。
 まだ、俺たちが分かり合えていないからだ。
 それを、埋めていけばいい。
 ひとつひとつなくしていけばいい。
 そうなるためにも、譲れない部分はなきゃ駄目だ。
 よくないと思ったことは変えていかなくちゃ駄目だ。
 だって、俺と香里は――これから未来をともにしてゆくパートナーなんだから。

「そっか……さんきゅーな。……相沢」
「まぁ、それに。どうせ別れるにしろはっきりさせといた方が次に進めるしな、互いに」
「……だから、励ましてるのか貶してるのかどっちなんだよ、おまえは……」








最強の女






7.北川

 やりたいと思ったことを実行してみようと思った。
 朝の目覚めは昨日よりはだいぶマシ。
 まだ薄暗い窓の外を見ながら、俺は身支度を整える。
 いつもの制服に着替えて、いつもよりも早く家を出て、向かう先は学校を通り過ぎて、同じくらいの距離をまた歩いて、たどり着いたのは「美坂」という表札の前。
 好きな子と登下校してみたいって、いつの日か、相沢と水瀬さんの背中を見ていた日々を思い出した。
 俺がしたいと思ったんだ。
 やってやる。
 やりもしないうちから、諦めるのはやめたんだ。
 しばらくすると、待ち人はその扉から出てきた。
 夏の制服を着た、二人の女の子。
 一人は栞ちゃんで、もう一人は俺の彼女、美坂香里だ。

「おはよう」

 大きな声で言う。
 驚いて目を真ん丸くしている香里。対照的に栞ちゃんは何故だか妙に嬉しそうな笑顔で手を振ってくれる。

「なるほど。こういうドラマみたいなの嫌いじゃないですよ」

 俺だけに聴こえる程度の声で言うと、栞ちゃんは短いスカートなのに豪快に走り去った。
 3人で通うのも滅多にできそうもない経験だと思うけど、今日は栞ちゃんの気遣いに感謝して、香里の手を握る。
 抵抗はなかった。

 無言で、顔も合わそうとしないけど。香里は隣を歩いてくれた。
 どこまでが許されることかわからないけど、きっとやりすぎたら香里が怒ってくれる。
 よく考えたら、俺は香里の怒った顔も好きなのだ。重症だね。

「この前は、ごめんなさい。ひどいこと言っちゃって……」

 それはあまりに小さな声で、香里のことを気にしていなければ聞き逃してしまいそうだった。
 視線は前を向いたまま。顔色はあまり良くなさそうだ。

「ごめんね。せっかく誘ってくれたのに……『最低』なんて言っちゃって。
 そんなこと全然ない。最低なのはあたしの方だわ……。
 北川くんは、あの日も、あたしの気分を盛り上げてくれるように必死だったのにね。
 一言で駄目にしちゃってごめんなさい。
 あの日。いっしょに居れて本当に楽しかった。
 北川くんに身体を触れられている時も全然怖くなかった。
 本当に嬉しかったの……。ずっと、待ってたんだから」

 香里の言葉に、ハンマーで殴られたような衝撃を受ける。
 やばい、涙出そうなくらい嬉しい。

「だからね。最後はああなっちゃったけど。
 あれ1回くらいで、この関係をやめちゃうほど、あたしの気持ちは弱くないんだからね。
 ちゃんと、あなたに惚れてるんだから」

 そうして、彼女はあの日以来、初めて笑った。
 たった、数日前のことなのに、久しぶりに見たとびきりの笑顔のような気がした。
 その顔を見ながら心底思う。
 怒った顔も、泣いた顔も、どきりとするような言葉も、この瞬間の――惚れた女の笑顔に勝るものはないって。

 そんな単純なことで、全てが上手くいくように思えた。
 俺たちは初めていっしょに校門をくぐる。
 ここが新しい俺たちの出発点だと、握る手に力を込めた。
 世界で最強の笑顔で、香里は返してくれた。




8.名雪

 この頃、北川くんと香里は雰囲気が変わったなぁと思う。
 つきあっていても、いっしょに居るっていう感じだけがあったのに、今じゃ結構言い合ってる瞬間も見る。
 でも、それ以上に今までよりも幸せそうに二人とも笑う瞬間があるような気がしてるんだ。

 でも、今わたしの目の前にいる香里は深刻そうに眉を歪ませている。
 相談があるからって、今日は二人きりで久々にお茶をしてる。
 互いに彼氏ができてから、こういうの減ってたなぁ。

「……ねぇ、名雪。相沢くんのHって不満ある?」
「#$%&=+*!?」

 声にならない悲鳴をあげる、鼻が痛い。なんか逆流した。

「名雪……汚いわよ」
「誰のぜいだよぉ!」

 変なことを聞く香里が悪い。

「そのね……あたしたち、はじめてで失敗した後、仲直りしてね。また、挑戦しに行ったのよ……」
「おー。良かったね〜、これで香里も無事、脱バージンだねぇ」
「それがその、その日も無理だったのよ実は……」

 香里の顔が翳る。ただ、あの日とは違って怒りは全くなく単純に落ち込んでいるという感じだ。

「どうしたの! もしかして、また北川くん……立たなかったの?」
「いや、それは大丈夫っていうか。大丈夫すぎっていうか、ね。
 あたしも初めてだから、他の人と比べたことないからわからないんだけど。
 北川くんの……大きすぎ……」

 耳までトマト色に染め、香里はうつむいた。
 ええと? つまり。

「いや。あんなの入らないと思っても意外と入るもんなんだよ。
 わたしもはじめてのときは実物大を見てなかったけど、後で見たときはよくこんなの入ってたなぁって思ったし。
 そりゃ、最初は誰だって痛いよ」

 うーん。傷口を見た瞬間に痛くなるようなものと一緒なのかなぁ。
 視覚はそれだけ重大な感覚の証明ってことにもなるけど。

「……違うの。
 あのね。そうじゃなくて……北川くんの本当に大きいのよ。
 ほら、あの。当たり前だけど避妊具って付けるじゃない」
「うん。そうだね」

 実はわたしのはじめてはゴムなしだったんだけど、それは言わないでおく。
 結果なんともなかったけど、軽率な行為だったアレは。

「それで、Mサイズ――つまり標準サイズのコンドームを用意してたんだけど。
 北川くんの、入らないのよね……Mサイズ」

 そんなこと言われたら想像しちゃう。
 ああ、いけない。なんだかBIGサイズをぶらさげた北川くんのイメージが頭の中で、うわ、やめて。
 顔が熱くなってるのがわかるよ〜。

「それで、結局。この前も出来なかったのよ……あたしたち」
「……それは、まぁ。次回はLサイズを用意だね……」

 なんというか、乾いた声しかでなかった。

「でも、本当にどうしよう……。あたしたち、いつになったらはじめてが出来るのかなぁ……。覚悟はしてたはずなんだけど……あれじゃ、あたし裂けちゃうわ……」
「なんていうか、大変だね」
「うん。そのね……結局やめたんだけど。ちょっと入るか試してみたわけ。でもね、全然無理だった〜。どうしよ〜」
「また、この前みたいにならないように。焦らず自分たちのペースで進むしかないよ」

 あたしがこうやって、香里を励ます。
 きっと祐一が今頃、また出来なかったミスターBIG……もとい、北川くんを慰めているんだろう。
 2つのカップルになったけど、美坂チームはまだまだ息がぴったりなんだよ。
 きっとこれからも、互いにトラブルを繰り返して、こうやって相談しあって生きていくんじゃないかって思った。
 わたしも祐一も、このチームみんなのことが大好きなんだから。

 がんばれ、香里。北川くん。



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