魂のゆらめきが見えるようだ。
 なにを視界に入れても、やけに胸に響いてぎしぎし軋む朝がある。
 なにを聞いても、頭の裏側にこびりついて離れない昼がある。
 なにをしようとても、まるで手につかずにぼんやり過ごしてしまう夜がある。
 周期的にやってくる原因不明の衝動は、そのたびに私を喜ばせては怒らせて、時には悲しませ、また楽しませた。色とりどりの感情の波が心をさらって溺れさせようとする。でもその波はとてもゆるやかで浅いから、いつだって私は抜け出すことができるし、立ち上がることもできる。けれども一度そこから出てしまうと、それきりになってしまう。知っているから、私はいつも身を任せてたゆたうことを選択するのだった。
「むにゃ」
 睡魔に意識を持っていかれる途中、窓の向こう側から虫たちの声が入ってきて、ふいに泣きだしてしまいそうになった。
 孤独と現実の隙間にそっと差し出されたなにか。それは虫でもあるし、音でもあるし、空気でもある。私の意識はゆっくりと沈んでいくのに、か細い声だけどんどん大きくなっていく。そこで思う。ああ、今日はきっと夢を見るんだろう。一晩中この声を聞いていたら、どこまでも細くなって消えてしまいそうだ。
 音がやんだ。夢に落ちる直前、私はひとつの疑問を投げかけた。
 世界って、なんでこんなにあたたかいんだろう。
 お願い、誰か。
「ふぁ……おねえちゃん、おやすみ」
 答えてくれないかな。













サマーソルジャー














 机の中のカッターナイフが錆びついてないか、無性に気になる夜だった。気になるけど調べはしない。調べないことで楽しんでる自分がいる。動機がわからない衝動なんて興味を持ってるうちが華だから、そこに水を差したくない。それにいまは、ひとりじゃない。

 視線の先にはテレビ。なにかのバラエティー番組。お笑い芸人が飛んだり跳ねたりしている。つまらない。リモコンで消す。机の上に手を伸ばす。伸ばしながら、姉に声をかける。
「ね、おねーちゃん」
「なに」
「学校でもメガネかけたら」
「い、や」
「えー、なんで」
「……まあ、なんとなく」
 通算十回目くらいのやり取りは、前とまったく同じ言葉の応酬になった。理由を教えたくないらしいことは察してるから、それ以上はなにも訊かない。口でだけとんがって見せて、二秒で戻す。
 見慣れた天井を視界におさめて、なんにも面白いことなんかなくて、もっと見慣れた姉をみる。こちらは文庫本をぱらぱらとめくってるだけで、やっぱり面白くはなかった。話しかければ反応してくれるけど、ただ見てるだけじゃ気づきもしない。
 あーあ、と口をとじたままつぶやいて、椅子をキュラキュラ回す。おもいっきり端的に言って、ヒマだった。
「お姉ちゃん、ヒマ」
「うん」
 とりつく島もない。人間断崖絶壁だ。
 ヒマ人間らしく、私はいま、自分の部屋の椅子の上に正座している。べつに姉に怒られているわけではなく、たまにおしりの位置が気になっていろいろと妙な座り方を編み出してしまうのだ。足の甲を指でつついて痺れてないことを確かめ、買い置きのバニラアイスに木のスプーンをめり込ませる。残り半分ほどになった容器の中身はタンクローリー車からどぶどぶこぼれてくるコンクリートの素みたいにやわらかく、何の抵抗もなくすくって乗せることができた。うん、我ながらいいたとえ。
「あれっ。タンクローリー……ローリー……ろーりー」
「どうしたのロリータ」
 文庫本に目を落としていた姉が、眼鏡の縁に指をもっていきながら、声だけこっちによこす。誰がロリータか。
 目線をわざと外して、同じく声だけで投げ返す。なんとなく。
「うん、セメントみたいなのを中でぐるぐるかき回すあの車って、タンクローリーでいいんだっけ」
「タンクローリーでないことは確かね。それってたしか、液体燃料とか運ぶ車だから」
「うーん」
 それっぽい名前なのになあ。ひとりごちて、そろそろセメントとかそんな問題じゃなくなってきた甘い液体を見る。ちょっとだけ迷って、容器ごと傾けて口に流し込んだ。
 夏は早い。溶けるのも早い。とにかく早い。
 いろいろな、何もかもが。
「っていうか、とけたアイスをセメントに見立てるセンスってどうなの? 相変わらずだけど」
「すごく普通だとおもう」
「笑い話ね」
 ツッコまれるのも早かった。
 これでまた、話のネタを与えてしまったことになる。どこがいいのか、いまの会話がここ最近じゃなかなか上等なエピソードだったらしく、さっそく昼休みに……とかなんとかぶつぶつやっている。うーん、これは間違いなく、明日ネタにされそう。
 私の予想するところだと、まず真っ先に祐一さんに笑われて(ひどい)、一歩遅れてお姉ちゃんと北川さんが笑って(一番手にならず、でもすかさず笑ってる。地味にひどい)、それを名雪さんがおろおろしながらいさめる(名雪さんは祐一さんと違っていい人だ)、きっとそんな感じ。
 あああ、気が重い。重いはずなのだけれど、いざ当日になると、そのときが楽しみで楽しみで仕方がなくなってしまう。なぜか毎回そうなのだった。理由を考えようとして、やっぱり考えないことにして、そこでちょうど姉がおやすみの挨拶をして部屋を出ていったので、私も寝ることにした。
 タオルケット一枚がちょうどいい夜。
 いつしかカッターナイフのことは気にならなくなっていた。



 結論からいうと、姉の目論見は失敗に終わった。
「ね、相沢君」
 昼休みの学食。五人で窓際の席をキープ。溢れかえる生徒。クーラーなんか意味がないくらいの気温、湿度。あっつー。そして、姉と目が合う。邪悪な笑み。うん、わかった、わかったからやめて。目で訴えても、どこ吹く風。
「タンクローリーって知ってる?」
 この唐突な切り出し方からして近所のおばさんみたいだ。全部終わってから、家でそう聞かせようと決意する。
 このときの祐一さんの表情を声だけで辿るなら、

 あん? あー…………ああ!

 みたいな。
「あのカタツムリみたいなトラックだろ。セメントとか練ってるやつ」
 ぴたりと一瞬、場が凍る。
 続けざまになにか喋ろうとした姉の口が途中で固まる。北川さんがパクついていたおにぎりを喉に詰まらせて酸欠に。名雪さんは祐一さんみたいに、あれ? って顔をしている。私は……一番固まってるかもしれない。
「ん? 違ったっけ」
 本気でわからないって顔をしてる祐一さん。
「相沢、お前……小学校からやりなおしたほうがいいぞ?」
 本気でわからないのかって顔をしてる北川さん。本気VS本気のマジマジ対決。お互い一歩もゆずらない白熱した戦いだ。
 そこで気づいた。祐一さんがそう言われているってことは、つまり私も小学生並だって結論が論理的に導き出されるわけで。……ひどい。ひどすぎ。
 でも、祐一さんと一緒なら、小学校も楽しいかも。
「水瀬、こいつはいったいどういう育ち方を……」
「真顔で心配されるほどのことなのかよ!」
「ごめん北川くん、わたしもタンクローリーってそうだと思った……」
 名雪さんも続く。
 これで私含めて三人になり、多数決の原理によって形成が逆転してしまった。
「やーい少数派」
 目配せした祐一さんがすかさず煽ると、北川さんは悲しそうになった。
「……もう降参ね」
 お姉ちゃんも悲しそうだった。
 そして私はにやりと笑う。隙、ありあり。
「お姉ちゃんと北川さんだけなんですね、ちゃんとわかってるの」
「香里といい北川といい、こんな大学院レベルの問題を理解しているとは、事前に示し合わせたりしてるんじゃないか?」
「二人とも、すごいよ」
 ある意味すごいと思った。
 祐一さんが意図的で、名雪さんが天然で、それで息がぴったり合ってるのが特に。
 すこし嫉妬。でも今のところ、祐一さんの左は私の指定席。
「あれあれ? なんで俺らがいじられてるんだ?」
「さあ……」
 二人は不思議そうに顔を見合わせて、そこでまた祐一さんと私に煽られて、さらに名雪さんの追撃が入って、とうとうお互いを意識しだしてしまった。
 革命成功。
 上の立場のものは、いつだって墓穴を掘って落ちるのだ。
 祐一さんと目が合う。彼は片方だけ目を細めて、まぶしものでも見るようにはにかんでいた。こっちも顔全体で受けとめて、ふっと窓の向こう側に目をやる。外は中よりも夏だ。窓から斜めに落ちてくる日ざしはやたら強く、空という空を見渡しても、雲はいっこも見当たらない。暑い、暑い夏の昼下がり。山の緑と木と土を、学食の生徒たちみたいに思う。
 空があんまり青いから、いつもよりちょっとだけたくさん食べた。


 メリハリのついた生活をできる人と、できない人がいる。できるけどやってない、なんて人はいない。だらだらした生活を送る人は、それしかできなくて、そういう性分なんだと思う。私も、誰かに尻を叩かれないと際限なく堕落してしまうたちだから。
 そして私の姉はもう、これでもかってくらい前者だった。
「明日、遊びに行くわよ」
 今日は姉の部屋でくつろいでいた、その矢先のこと。名雪さんに借りたらしい少女漫画のシリーズを総ナメにしている途中だった。
「え、どこどこ?」
「まずショッピングして、カラオケ、そのあとは適当に」
「やった!」
 昔からその場でできることが趣味だった私は、聴いてきた音楽の数ならば誰にも負けない自信がある。でもやっぱり歌うこととはまた別で、週に一度はこうして本番に向けての練習がてら、近くのカラオケボックスに向かうことにしている。
 生まれて初めて行ったカラオケで、いちばん好きな曲を歌ったときに姉の口から出てきた「絵よりはマシだけど」って評価は、普通にひどすぎると思った。それも二重にひどい。
 ちなみに姉は、歌も上手い。それはもうすごく。だのに、恥ずかしいのか自信がないのか人前で歌うことを極端に嫌がってて、私以外の誰とも(名雪さんですら!)カラオケに行ったことがないのだった。
 妹として、その事実はちょっとだけ誇らしいのだけど、いまはそれよりも別の感情のほうが勝っていた。
「ね、名雪さん誘ってもいい?」
「毎日会ってるでしょ」
 にべもなく却下される。
「祐一さんは?」
「目の前でいちゃつかれる身にもなってよ」
 やれやれと却下される。
 でも、この三人が揃った場合、これみよがしに私にべたべたしてくるのは姉のほうだと思った。もしくは二人がつるんで私をおもちゃにして遊ぶかだ。そう思ったけど黙っていた。反撃は別に用意してあるから。しかも五倍返しで。
「うん、わかった。わかりましたー。そんなに北川さんがいいんだね」
「ちょっ――」
 伸びてきた腕をひらりとかわして、携帯のアドレス帳を開く。頭文字で検索してすぐさま通話ボタン。呼び出し音。ややあって、低い男の人の声。本人と確認。身振り手振りはちょっと大げさなくらいに。表情だってつけちゃう。
「あ、もしもし北川さんですか? 私です栞です。唐突なんですけど、明日、なにか予定ありますか? あ、ないですか! バイトも休みですね。良かった、じゃあですね――」
「……熱演は認めるから、あんまからかわないでよね、もう」
 自分でも。よくアドリブでここまで熱のこもった演技をすると思った。
「……です。ええ、駅前のベンチに午前11時で。え、祐一さん? あ、なんか用事あるらしいんです。はい。おめかしして行くので、遅れないでくださいね? はい、じゃあ。おやすみなさいー」
「はいはい、わかったから……」
 耳から離して、通話ボタンを押す。通話終了の文字。通話時間、2分12秒。時刻、22:02。
 画面を後ろから覗き込んだ姉の表情と、動きと、呼吸が、ぜんぶ一気に止まった。
 たっぷり十五秒くらい間があって、顔が汚れて力が出ないヒーローみたいに力のない声がよろよろと。
「……もしかして、え、なに」
「うん、もしかして、それ」
「ちょっと待って」
「うん、待つ」
「……今のって、フリよね? 電話したフリよね? からかってただけよね?」
「からかってるのはもうまさにその通りなんだけど、電話はしたよ。履歴にも残ってるよ、ほら」
 履歴を開く。たくさんの「祐一さん」の中に「お姉ちゃん」がすこしだけ混じってて、一番上には「義兄さん」。うわぁ、登録名変えるの忘れてたっ。
 そのせいかどうかわからないけど、また固まる。
「それはあくまで希望だからね?」
 何のフォローにもならないようなフォローをいちおう入れておく。一件一件は別なので、それついては誤解を早めに正しておかなくてはならない。
 それでも姉は固まったままで、良くも悪くも効果はなかった。
 きっと明日のことを考えて容量がいっぱいになっている状態だと思うから、大事にならないうちに退散決め込むことにする。
「えっと、お姉ちゃんが行かないなら私が行くからね? 一人じゃ行けないっていうなら今回だけは私もついていくから。あ、服を選んで夜更かししすぎたりしないように」
 ぱたん。ドアを閉める。聞こえてたかどうかわからないけど、やれることは全てやった。っていうか、一時間前の自分が聞いたらたまげるような展開だった。なにもかもが不測の出来事で、うってつけの状況が設定できてしまった。
 服を選ぶのもそこそこに、祐一さんに連絡だけ入れて、早めに床に着いた。
 どうも、夜は色々といけない。うまくいきすぎるから。
 星がよく見える。暗いけど快晴だった。



 姉について。そして、北川さんについて。
 あれはまだ、桜が咲いていた頃。
 その日、姉は委員会の集まりだかなにかがあって、祐一さんも買い物を頼まれているとかで、たまたまその日は一人で下校することになった。北川さんとはそれなりに親しかったけれども、肩を並べて帰るほどには打ち解けていなかった。主に私が。それに、姉の話によると、彼は誰よりも早く教室を飛び出して、消えてしまうそうなのだ。
 考えてみると私は、自分一人だけで商店街へ出向いたことがなかった。これぞ初シングルの好機だとばかりに、息巻いて商店街へ足を向ける。日が落ちるまでの二時間、何をしようか予定を立てながら。まずコンビニでアイスを買って、アイスを食べながら歩いて、それから、それから……

「迷いました」

 メインストリートをまっすぐ歩いていたはずなのに、なぜ迷うんだろう?
 でもなぜか、我に返ると見事に迷ってしまっていた。
 見たことのない路地。裏なのかどうかすらわからない。向いている方角を前と仮定して、後ろを見ても横を見ても、どこから来たのかもわからなければ、どこへ行けばいいのかもわからない。なんだか人間の根本的な部分に触れたような気分になってみて、こういうわけわからないことばっかり考えてるから道に迷うんだ、と自分を叱る。
 反省が終わったら、何をするべきかまず考える。とにもかくにも一箇所に留まっていても始まらないから、前とおぼしき方向へ歩みを進めること約三分、略さずにいうとコンビニエンスストアに辿り着いた。
 中では北川さんが働いていた。
「って、そんなわけ……」
 たまたま行った商店街でたまたま迷って、たまたま辿り着いた店にたまたま北川さんがいた。それは、いくらなんでもうますぎる。おかわりしちゃいたいくらいに。
 見間違いだと思っていったん視線をきって、常備薬のひとつの目薬をさす。
 目をしばしばさせながら入り口をくぐって、まっすぐ突き当たりのおにぎりの棚を整理している後姿を見つめる。もくもくと作業するその頭部を、まじまじと。
 あれえ? あの特徴的なアンテナは北川さん?
「あれえ? あの恥ずかしいアンテナは北川さん?」
 頭の中がだだ漏れてしまうくらい驚いた。
「いやあのさ、せめて声に出すときは、もっとこう、オブラートに? まろやかさを重視してみる感じ?」
「そうですね、考えておきます」
「ありがとう」
 それだけ言って仕事に戻る。ぜんぜん驚いてないようだった。ちょっとくらい驚いてほしかった。
 そして、バイトがあるから放課後になったら急いでいなくなるんだ、とようやく思い至った。
 後姿を見つめる。薄い色のエプロンが、同じく色素の薄い髪によく似合っていた。お姉ちゃんも薄いけど、北川さんはそれ以上だ。
 と、アンテナがなにかを捕捉したのか、ぴくりと動く。動いたと思ったら、
「って、なんで栞ちゃんがここにーっ!」
 わめきながらうわらばーって音とともに振り向いて、おにぎりを三つくらいまき散らして、そしてアンテナがピンと立っていた。
 タイミングを外されたぶん、それで一気に満足。ばっちり。
「いいリアクションです。点数つけるなら九十五点はかたいかも」
「それは嬉しいな」
 本当に嬉しそうに笑顔をつくるので、つられて笑ってしまった。
「私がここに来たわけは、話せば長くなります」
「仕事しながらでよければ」
 落ち着くのは早かった。肩をすくめて、まき散らしたおにぎりを拾い集める。
 ムラッ気があるところが祐一さんと似ているけど、でもこういうところは違うなと思う。
「実はですね」
「おう」
 視線をすぐ近くにあるアイスのクーラーボックスと北川さんの背中を行ったりきたりさせながら、これまでのいきさつを語る。
「……聞いて驚かないでください」
「え、驚いちゃダメなのか?」
「はい、ダメです」
「……ぜ、善処しようと思う」
 自信なさそうだった。
「えっと、道に迷いました」
「うん」
「迷いました」
「…うん」
「……迷ったんです」
「うん……て、え?」
 恨めしそうに見上げる私の目をみて、逆に目をぱちくりさせる。
 ふつーに驚いていた。
「驚いちゃダメって言ったじゃないですかー!」
「いや今のは、理由に驚いたんじゃなくてさ、その、ほんとにそれだけなのマジで? って意味の驚きであって、けっして栞ちゃんの考えてるような驚きじゃないっていうか」
「もののみごとに私の考えてた通りです」
「うん、えー……驚いた」
「……えう」
「……くっ」
 ふっと、どちらからともなく頬がゆるむ。胸のうちからふんわりと笑いがこみ上げてきて、それから少しのあいだ、言葉ではなく笑顔を交わした。
 他に店員や客がいなくて良かった。
 なんでもない会話のはずなのに、あまり人に見られたくなかった。


 無理を言って道案内をお願いした私は、北川さんの仕事が終わるまで、はす向かいの喫茶店で時間を潰すことにした。家に連絡を入れてから店に入り、窓際の席に座ってバニラアイスを注文する。すぐに運ばれてきた真っ白い結晶を早く食べ過ぎないようにつつきながら、コンビニを盗み見る。
 いきなり目が合ってしまって、互いに笑いながらそらす。
 見られていることを意識してか、普段からそうなのか、北川さんは真面目にこつこつと働いていた。お客が来ればレジにまわり、誰もいなくなれば品物を出したり並べたりして作業をこなす、模範的な社員に見える。
「あ」
 そこに一人のお客さんがやって来て、北川さんの顔を見るなりに親しげに声をかけた。
 制服からして隣町の学校。脱色した髪と着崩した制服が目立つ、やけにへらへらと笑う男の人だった。棚を直してる北川さんの肩に手をかけて振り向かせ、身振り手振りをまじえて話している。
 ……北川さん、仕事中なのに。
 その挙動のせいか、あまり第一印象はよくない。
 私の時と同じように笑顔で対応しているけれど、すこし見た限りでは、あまり親しい仲には見えなかった。昔の同級生と何年ぶりかに再会して懐かしんでる感じだった。
 時間を計ってみると、もう五分間くらい喋りっぱなし。俺の話だけを聞け、みたいなオーラが全身からほとばしっている。私の気分はどんどん暗いものを含んでいく。率直に言って不快感が先に立った。
 そして、私は意外なものを見た。
 店内の時計で時間を確認した北川さんが、相手の話を右手ひとつで遮って笑顔のまま何事かを告げたかと思うと、そのまま後ろを向いてさっさと店の奥に入っていってしまった。
 その人も面食らってその場で止まっていたけど、ポケットに手を突っ込んで何も買わずにコンビニを出てきた。目が合ったりしないように顔を喫茶店の内に向ける。
「うっわー……」
 浮気の現場を押さえたような、見てはいけない一面を見てしまった高揚感がある。あの人当たりのいい北川さんが、自分から話を切り上げて相手を放り出すなんて。お仕事の途中なのだから、ちょっと考えてもそうするのがいいということはわかる。わかるけど、どうしても腑に落ちない部分がある。

 そのまましばらく一人で悩んで、気がつくと、北川さんの仕事が終わったところだった。
 ちょうどコンビニを出てこっちに向かって歩いてくるところで、慌てて席を立とうとしたら手で制された。浮きかけた腰を下ろして待っていると、北川さんも店に入ってきて、レジ前を通りがてらクリームソーダを注文して席についた。
「なんだか手馴れてますね」
「じつは常連なのだったりする」
 なるほどと納得。バイトの時間帯によってはここで時間を潰したりするんだろう。どちらかというとゲームセンターのほうが似合ってる気がするけど。
「あ、ひょっとして意外とか思ってたり?」
「あれ、顔にでちゃってました?」
「って、またきっぱり言うし!」
「いえ、私は回りくどいって評判なんです」
「こんど相沢に根掘り葉掘り聞いてみよう…」
「うあ、それだめです。嫌いになります」
「じゃあそれとなく聞いてみよう」
「それならいいです」
「いいのかよ!」
 肩の力を抜いた会話。さっき打ち解けたとはいえ、こんなふうにすぐに話せるようになるのは祐一さん以来かもしれない。
 そこで、祐一さんと似ている、と姉から聞いたことを思い出した。
 あらためて北川さんの顔を見る。顔は似てない。
「あれ、なんかついてる?」
「あ、クリームソーダがついてます」
「まだきてないし」
「そうでした」
 のらりくらりとはぐらかしながら、話題を探す。ぱっといくつか思い浮かんだうち、聞きたいことを絞っていく。
「あの、お姉ちゃんがですね」
「……い、いきなりそうくるか」
 ぐはっと呻きながら身を乗り出してくる北川さん。聞きたくないのかと思ったらまったく逆のようだった。
「よく祐一さんと北川さんは似てる、って言ってるんですけど」
「あー」
 そういうことか、と頷く。別のことを期待していたように見える。
 そして北川さんは一瞬のうちに真面目な笑顔になった。器用ですね、と言おうと思ったけど雰囲気に負けてやめる。
「栞ちゃんはどう思う」
「といいますと?」
「俺と相沢って似てるって思う?」
「それは……むずかしいですね」
 まだ親しくないからとかそういった理由ではなく、比較する要素が問題だからだ。
 たぶん北川さんは、クラスではクラスの顔を持っている。私が病室では病人の顔を持っていたり、祐一さんの前では彼女としての顔を持っているように、この北川さんとクラスでの北川さんはきっと違う。
 とても一言でまとめることはできないので、その気持ちをなるべく正直に伝えることにした。
「似ているところもある、と思います」
「それ、いい答え」
 にぱっと笑った。正解したらしい。
「相沢とはウマが合うから、似てるところはあるんだ。間違いなく」
「はい」
「でもそれって、似ているところのシンクロ率が高いからそこが目立ってるだけっていうか……全体的に見ると、じつはそれほど似てるわけじゃないんだ」
「……はー」
 なんとなく似てるけれど、性格をひとつひとつ挙げていったら、けっこう違っているということ。
 考えれば考えるほど納得できた。
「たとえば、さっきのことさ」
「さっき、ですか?」
「仕事中に、昔馴染みのやつに絡まれたんだけど……みてた?」
「あ、はい、それはみてました」
 まさにばっちり見てしまったところだ。
「悪いやつじゃないんだけど、ちょっとお構いなしなところが昔からあってさ。あんな感じに」
「仕事中なのに平気に話しかけてましたよね」
 言ってから、自分も同じことをしていたと気づいた。うあ、何やってるんだろう私。
「栞ちゃんは面識があるし、俺の立場も気遣ってくれたし、あのくらいは全然かまわないんだ」
「面目ないです……」
「で、ああいう手合いに対して……相沢ならきっぱり言う。でも俺だと、ああやってかわすことしかできないんだ」
「それは」
 性格が違うからでは、と繋げられなかった。北川さんは、まさにそのことについて話してるんだ。
「知り合いにまでへらへら愛想笑いを振りまいてやり過ごす、なんて相沢じゃないしな」
「……ですよね」
 祐一さんは確かに、嫌なことは嫌だと言うし、駄目なことは駄目と言う。根っから芯の強い人だ。
「俺はチキンだからなー」
「そんなこと」
「いや、これでけっこう自覚はあるんだ。でもなおせない」
「……」
「ままならないもんだよなー……ってごめん、なんか湿っぽい話になっちゃって」
「あ、いえ」
 女の子に愚痴るなんて駄目男にもほどがあるっ、と自分をポカリとやる北川さん。
 どう返答したものか迷っただけで、話としてはとても興味があるし、面白い内容なだけに、続けてほしかった。
「うーん、でもやっぱり言っちゃいたい。もうすこし続けてかまわないかな?」
「あ、どうぞ! 私も、聞きたいです」
「さんきゅ」
 とっくに運ばれてきていたクリームソーダのクリームを口に入れて、ふう、と息をひとつ。私もバニラアイスをもうひとつ注文する。
「似てる似てないの話の続きだけど。……相沢と美坂って、似てると思わないかな」
「え」
 考えもしなかった。お姉ちゃんと祐一さん。
「学校でみた限りだけど、俺はけっこう似てると踏んでるんだけど。一番ふたりに近い栞ちゃんから見てどうかな、と思って」
「えっと、どんなところがですか?」
「きっぱりさっぱりして話しやすいところや、自分の腹を見せようとしないところ、それをぜんぜん隠せてないところかな」
 今度こそ驚いて、思わず声をあげてしまった。
「……よくみてます」
「そりゃ、友人一号をやらせていただいてるわけですし?」
 話題の割に雰囲気が重くならないのは、北川さんがこうやって笑顔で緩和するからだ。
 それに、相手にパスするのがとてもうまい。
「私からみると……」
「あんまり深く考えないでいいと思うぞ」
「そうですね……似てる、と思います。二人とも頑固だし、私のことからかうし」
「あ、やっぱり」
「二人揃うとぐるになるんですよ? あの結託ぶりはゆるせません」
「うーん、そりゃ仕方ないな」
「被害者の立場からいいますと、その一言ですませられると悲しいものがあります……」
「いや、ごめん。俺が言いたいことはつまりだな」
 バニラアイスがきた。拗ねたふりをしてスプーンでがしがしやる。
「似たもの同士って気が合うよな、ってこと。俺と相沢にしろ、相沢と美坂にしろ」
「類は友を呼ぶ、ってことでしょうか?」
「かもしれない。水瀬なんかは特例中の特例だけど……あ、あと、これは俺の持論なんだけど」
「はい」
「反対のタイプが相手だと恋愛になりやすい、って思ってる」
「お姉ちゃんと北川さんのことですよね」
「うおおーーーーーーーーい!」
 間髪入れずにそう返すと、苦虫を丸呑みしたような顔になって机に突っ伏してしまった。
「あのう」
「恐れ入りました」
「あ、はい。精進してください」
 そのまま頭をこすりつけて、一気に顔をあげる。心なしか頬が赤くなっていた。
「その話もすんごくしたいんだけど、今はおいておく!」
「脇に」
 隣のテーブルまで移動させる仕草。なんだか息が合ってる。
「すっごい回りくどい話になっちゃったけど」
「ですか。でも楽しいですよ」
「ありがとう。まあつまりその……俺と栞ちゃんも似たもの同士じゃないかな、と」
「む」
「栞ちゃん、大勢でいるときってまわりに気を遣うタイプだよな」
「むむ」
「でもって、さっきの俺みたいに、あんまり強く出れない」
「むむむ」
「あとこれ決め手。笑顔を盾としても武器としても使えるってところ」
 にこりと笑って自分の顔をさす。
 トドメさされた。
「……恐れ入りました」
「うむ。今後も精進……することでもないか」
 そういって笑いあう。盾でも武器でもない笑い。
「相沢が転校してきたとき、美坂と会った瞬間打ち解けてた。お互いに同類だって肌で感じたんじゃないかな」
「それは、ひょっとして悔しかったですか」
「いや、なんだろ。不思議とそういう気持ちはなかったな。むしろこいつはいい、って思って声かけてた」
「うーん、不思議です」
「だなー。…………あ、そろそろ出ようか」
「ごちそうさまですー」
「奢るよ、って先にいわれてるし」
「あ、ほんとにいいんですか?」
「話に付き合わせちゃった感じだし、それに」
 途中で切って、右手を差し出す。
「似たもの同士これからよろしく、ってことで」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 握手。誰かと握手したのなんて何年ぶりだろう。
 こうして、偶然が重なってやってきた機会で、私と北川さんは友達になった。

 途中まででいいといったけど、しっかり家の前まで送り届けてくれた。母にあがっていくよう勧められるのを笑顔でいなすところを見て、なるほど似ている、と思った。
 姉も玄関から顔だけ出して、ひとことふたこと話してお礼を言った。出てこなかったのはきっと服を気にしていたから。
 そんなところは私よりもよっぽど女の子らしい姉なのだった。



 この日だけは寝坊してたまるかーといった勢いで目覚まし時計を総動員したのか、珍しく姉に起こされた。
「まだ七時……ってお姉ちゃん、もう行くの」
「いや、ほら、早起きして準備するに越したことはないし」
 今から出ると言われても違和感がないくらい準備万端だった。
 手を抜くようなことはないだろうと思ったけど、それにしたって気合が入りすぎ。それとなく胸元を強調するタンクトップの重ね着に動きやすいジーンズ、髪は後ろで一本に縛ってる。うすい香水のにおいもする。
「私と遊びいくときよりも気合はいってる……」
「あ、当たり前でしょ」
「もう電話して呼んじゃう?」
「ちょ、やめてよね!」
 ようやく目が冴えてきた。
 あきらかに挙動不審な姉をからかいながら私も準備する。お風呂に入ってるあいだに軽い朝食を用意してもらって、お腹を膨らませてから身支度を整える。この道に関しては私のほうが先輩なので、要領よくすませた。
 二時間前に家を出ようとする姉をなんとかなだめすかして、一時間前に二人で家をでた。せめて待ち合わせ場所まで一緒に来てほしいと頼み込まれて、すぐにいなくなるという条件で頷いた。
 祐一さんと姉とで一番違うところはここだった。いつでも自然体で、照れてもぶっきらぼうになる祐一さんに対して、姉はそういうことにはまったくといっていいくらい免疫がない。
 要するにピュアなんだ。隣を歩く姉が急にかわいく思えてきて、腕をとってうふふと笑いかける。気持ち悪いって言われた。もう帰る。ごめんなさい。じゃあどうしてくれよう。アイスで手を打つ。

 北川さんはまだ来ていなかった。休日の駅前は人通りが多く、直射日光から逃げるようにみんなせかせかと移動している。待ち合わせ場所をベンチにしたのも、人がとどまってないと踏んだから。
 頑張ってね、と姉に声をかけてその場を後にする。ここまできて腹を決めたのか、やってやるぞって顔になってる姉を見て、ほんとに北川さんがやられちゃったらどうしようとにわかに不安になりつつ。途中で北川さんと出くわしてしまわないよう、大通りからはずれて歩く。私は私の待ち合わせ場所へと。

 窓際の角の席に座った。祐一さんはアイスコーヒーを、私はクリームソーダをそれぞれ注文する。北川さんと一緒して以来すっかりお気に入りになってしまって、今では祐一さんと一緒にちょくちょく来る。
「あー、暑いったら暑いったら暑いな」
「夏ですしね」
「うーん、栞だけ涼しそうにみえる。これは不公平だ」
「そういう祐一さんは暑苦しいです」
「走ってきたんだから仕方ない……」
 お冷を一気に飲み干して、ピッチャーで注いであげるとまたそれを飲み干す。三回ほど繰り返してようやく落ち着いた。
 普通に歩いていればそれほど汗はかかないくらいの温度だけど、やっぱり走るといくらでも体温が上がってしまう。
「これで遅れていたら水も没収するところでした」
「鬼か」
「愛の鞭です」
「愛ゆえに無知。無知といえば無恥。厚顔無恥なカップルにはならないようにしような」
「はあ」
「愛ってすばらしいことは認める。けど今は水のほうがすばらしい。俺は水を要求する!」
「どうぞどうぞ、おかわりいっぱいありますよ」
「んぐんぐんぐ」
 熱で頭が侵されたのか、なんだかよくわからないことを口走ってる祐一さん。考えて喋ってないようだった。
「で、今日のお題は愛だっけ?」
「愛の戦士こと北川さんですね」
「ああ、愛の戦士か」
 流れに乗ったら変なあだ名がついてしまった。
 マンネリ化を嫌う祐一さんのことだから、きっと喜んで向こう一週間はこの愛称で呼び続けるだろう。でも面白いから問題なし。
「北川はなー。よっぽど状況に恵まれないと、絶対自分からうごかないぞあいつ」
「なぜかお姉ちゃんと二人きりで会ってるんです」
「えっ誰が」
「ですから北川さんが」
「いつの話だ」
「今です」
「マジか」
「真剣と書いてマジです」
 なにしろ昨日あれよあれよと決まってしまったことなので、祐一さんが驚くのも無理はない。
「どうやって脅したんだ?」
「人聞き悪いです。ちょっと北川さんを騙したり、行かなきゃ私が行くってお姉ちゃんに詰め寄っただけです」
「詐欺と恐喝のダブルかよおい」
 頭を抱えるリアクションが本気っぽい。
 そんな物騒な単語を当てるなんて失礼な。
「だってもう夏休み前ですよ。たった一度しかない今年最後の夏休みに独りなんてあんまりじゃないですか」
「毎年夏休みは一回しかないけど、まあ、いいんじゃないのか? あれはあれで楽しそうだし」
「ぶっちゃけますと、祐一さんと二人きりになれないからとっととくっついてって感じです」
「出たな本音」
「あれ、うれしくないですか?」
「そらうれしい。けど栞、動機はそれだけじゃないだろ」
「む」
「悪者ぶんなくていいって。純粋に心配なんだろ? 顔じゅうにそう書いてある」
「まみれちゃってますか」
「まみれてるな。素顔がみえないくらい」
「うー」
 このままじゃ何も進展のないまま終わってしまうんじゃないかって、たぶん本人よりも私のほうが心配してる。
 人のことだけど他人事じゃない。あの二人はお似合いだと思うし、心の底からそうなってほしい思いがもうずっとある。
「今日の予定ってどうなってるんだ? あいつらの」
「お姉ちゃんはきっとなにも考えてないです」
「うわあ、どうすんだ」
「でも、うん、なんとかなりますよ」
「そういうのってなんていうんだっけ、投げっぱなしジャーマン?」
「投げっぱなしくらいでちょうどよくないですか?」
「あー、確かにな。へたに予定なんか立てても逆効果っぽいな」
 色々と憶測をたてながら会話を楽しむ。身近な人の恋愛話は、申し訳ないとは思っていてもやっぱり唇がなめらかになる。
 最近の出来事からお互いに知らないところの情報交換まで。肴としてはとびっきりの極上。
 飲み物のおかわりを頼んだところで、祐一さんがふいに外を見た。
「そういえば大事なことを忘れていた」
「どのくらいですか」
「重要度にして中の上くらいか」
 それはなかなかに大事なことだ。
「栞、天気予報みてきたか?」
「あ……チェックするのわすれました」
 普段は欠かさずみているのに、今日は準備と姉の相手に追われてテレビの前につくことを忘れていた。
「うん。今日の午後、降水確率80%なんだけど」
「え、だって朝はあんなに晴れて」
「外みてみ」
 言われて窓の外に目をやる。アスファルトに黒い大きな粒がぽつりぽつりと広がっていくのが見えた。
 空はいつの間にか、動きの早いどす黒い雲で覆われている。
 けっこう強いのがきそうだった。
「こっちはここでしばらく時間潰しておけばいいけど、大丈夫かなあいつら」
「お散歩でもしてないかぎりは大丈夫だと思いますけど……」
「だって、北川潤と美坂香里だぞ?」
 お散歩。年頃の男女二人が散歩。
 ……あの二人なら、十分ありうる。
「きゃーきゃーいいながら、大慌てで近くの喫茶店に飛び込みそうですね」
「ここに来たりしてな」
「そうなったらどうしましょうか」
「水を差すわけにはいかないしな。栞は観葉植物の影になってるからいいけど、俺は通路側だし、シャツを頭にかぶるくらいしかないんじゃないか?」
「よけい視線集めそうですねそれ」
「ばれなきゃ問題なしだ」
 そのあまりにもシュールな光景を想像してお互いに噴き出す。
 そこでちょうどドアが開いて、予想よりも大きな雨粒の音が店の中にまで響いてきた。お客さんが来たらしい。
 植物の隙間から窺うようにレジ前を盗み見る。
 見覚えのある顔がふたつくらいあった。
「祐一さん、さっそくですけどシャツかぶってください」
「なにィ、まさか」
「あ、まずいです。はやく」
 問答無用でシャツを引っ張ってかぶせる。へそと腰が外界にさらされるかわりに、首から上がすっぽりと見えなくなる。その状態だと目立ちすぎるので、テーブルに突っ伏してもらう。
 こっちは壁と植物の隙間に隠れて、細心の注意を払って姉たちの動向を見守る。
「あのー、お客様? いかがなさいました?」
「なんでもないんです、すんません。発作みたいなもんなんで気にしないでください、もうほんとすんません」
 テーブルとキスしたまま祐一さんが謝る。店の人は怪訝そうな顔をしつつすたすた歩いていった。
 二人が席につくのが見えた。店の真ん中の、こっちとの間にテーブルひとつ挟んだ席。
「栞……俺はいま、輝いてるか……?」
「多角的に輝いてます。今のところ注目の的なんで動かないでくださいね」
「ふ……お安いご用だ……フフ」
「ふぁいとです」
 休日のお昼とだけあって席は半分くらい埋まっている。あきらかに変な目を向けてくるカップル、一度見てすぐに目をそらす主婦の人、何かにつけてちらちら見てくる高校生。
 姉は背中を向けているけど、かわりに北川さんの視界にすっぽりおさまっている。どうかばれませんように、と心の中で祈っていると、北川さんはちらりと目を向けただけで、すぐにメニューに手を伸ばして相談をはじめた。
「第一関門突破、といったところです」
「わーい」
 手だけパタパタして喜ぶ祐一さん。また視線が集まる。
「なんか知能下がってませんか?」
「気のせいだ……夏のせいだ……そうに決まってる……」
 なにやら自尊心が危機的状況に陥ってる様子だけど、祐一さんは回復が早いから大丈夫。これも必要な犠牲と割り切る。
「あっちの声拾えますか」
「いや、無理っぽい。さすがにここまでは聞こえないな」
「じゃあ様子を実況しますね」
「よろしくたのむー」
 姉の顔がここからでは見えないけれど、仕草を見ていれば予想はつく。
 北川さんがメニューを持って、それを二人で覗き込んでいる。ページをめくりながら、割とスムーズに決まってるようだ。迷うことなく、これ、これ、これ、とお互いに頷いている。きっと詳しい北川さんがリードしているんだろうなあ、と思うと、自然と頬がゆるんでくる。
「いま注文してるところです」
「なんだ早いな」
「北川さん、うまくリードしてるみたいですね」
「引き続き変化あればよろしく」
「はい」
 メニューを片付けて、その後は二人で会話。北川さんが笑顔で話しながら姉もそれに合わせて頷いたり笑ったり。二人だからって緊張している様子はない。
「なんだか普通のカップルにみえます」
「挙動不審だったりしてないのか」
「とりあえずこの店では祐一さんより怪しい人はいないですね」
「フフ……そうだろうとも……」
 また知能が下がってきてるみたい。
 しばらくは何事もなく観察が続く。会話が途切れることはなく、お互い楽しそう。
 と、店の人が料理を運んでこっちに来た。
「なんだなんだ何事だ」
 伏せたままジタバタ。そろそろ動物みたいになってきた。
「あれ、注文なんてしてないですよ?」
「あちらのお客様からです」
 やばい、と思って視線を戻すと、ばっちり笑顔でこっちに向かう北川さんと目が合った。
 普通にばれてるし。
「あちら? どちら? そちら?」
「もう顔あげていいですよ」
「うおしっ」
 がばっと音を立てて起き上がる。鼻とおでこが真っ赤になっていた。
「ってどうなったんだ」
「ばれました」
「なにィ……あんなにがんばったのに……」
 肩を落とす祐一さんに、ぽん、と手がかかった。
「知り合いだと思われたくないんだけどな、ほっとくのも相沢がかわいそうすぎるんで」
 テーブルをふたつくっつけて、祐一さんの隣に北川さんが座る。
「相沢くん……それ、新しい芸風……?」
 いまさっき気づいたらしいもう一人は、思いっきり笑いをこらえていた。
「いや、冬にこうすると耳元が寒くないんだ。便利な世の中だよな、ほんと」
「いま夏だぞ相沢」
「でもって夏にするとおへそが涼しくていい気持ちに。あー涼しかった」
「周りの人がもうこれでもかってくらい見てるんだけど、気にならないの?」
「慣れればその視線がまた快感に…………って、やってられるかーっ!」
 うわあ祐一さんが切れたっ。
 ここは相沢祐一代表として私が鎮めなければ。
「祐一さん祐一さん、お手」
「俺は犬か? 犬なのかっ」
「おすわり」
「もう座ってるし」
「バニラアイスおかわり」
「すんません、バニラアイスひとつ!」
「ありがとうございますー」
 よし。
「何がよしなのよ……」
「あいたっ」
 四人でいると姉モードになる。さっきまであんなに顔ゆるんでたくせに。
「実は入る前に見えちゃったんだよな。気を遣ってくれたのは嬉しいけど、あれはいくらなんでも気になりすぎるぞ」
「私もやめようって言ったんですけどね」
「うおぉぉいそこ! 無理やりかぶせたの誰!? 誰!?」
「祐一さん、店内ですよ」
「くっ……」
「強く生きろよ相沢……」
 北川さんが二度、三度と肩を叩いでなだめる。
 それでひとまず場が落ち着いて、普通に食事することになった。

 雨が弱くなるのを待ってから四人でカラオケに行って、これでもかってくらい歌いまくった。
 結論としては祐一さんがとんでもない音痴で、姉に「お似合いカップルね」って言われて私が泣いたり、北川さんが上手すぎて祐一さんが「そっちこそな!」と泣いたり、雰囲気に酔ってデュエット対決をしたけど全然話にならなかったり、最終的には祐一さんと北川さんが腕相撲で決着をつけたりした。
 二人が付き合い始めたと知ったのは、その日の夜、北川さんからメールをもらったときだった。


 次の日の昼休み、屋上で北川さんと会った。用事があって私から呼び出した。
 雨上がりなのにまた雲行きがあやしい微妙な天気。
「どうも昨日はいろいろお世話になりまして」
「夏は人を狂わせるんです」
「くっ、説得力のあることを」
「だって暑いですから」
「暑い。確かに暑いけど……ううう」
 いきなり穏やかな顔して穏やかじゃないやり取り。
「今日は、ちょっと渡したいものがありまして」
「昨日の今日でラブレターなんてオチはつかないよな」
「そういうのもドラマみたいで面白そうですね」
「そこで悩まれると、こう、とてもおっかない」
 手紙を探すふりをして、部屋の引き出しの中から持ってきたものをポケットから取り出す。
「ん?」
「プレゼントです」
「これは……カッターナイフ?」
「ですね」
 一度使ったきり、もう使うことはないと思っていたもの。私の人生をそのままの意味で刻み込んだ一品。
 昨日の夜、なんとなく手にとって眺めているうちに、買った場所を思い出したのだった。
「北川さんが働いてるコンビニで買ったんですけど、いまはレアモノですよ」
「へえ。栞ちゃんの指紋つきってことか」
「はい、色々ついてます」
「ありがたく頂戴するよ。あー……でも、なんで?」
 理由のないプレゼントはやっぱり不思議なのだろう。受け取りながら、表情はまだ疑問符がついたままだった。
「うーん、そうですね……私なりのケジメで、しょうか」
「大事なものなんだよな? その、これ」
「そうじゃないといえば嘘になりますけど……私の一部みたいなものっていうか、説明するのが難しいです」
「いやそれおもいっきり大事!」
 返そうとしてくる北川さんを制して、まっすぐに見つめる。
 すこしだけ緊張しながら、ゆっくりはっきりとこう告げた。
「おっかなくて不器用な姉ですけど、よろしくお願いします。ってことです」
 ぺこりと一礼して、顔をあげる。
 見たことのない顔の北川さんがそこにいた。
「こちらこそ、長い付き合いになるように努力するんで、ひとつよろしくな」
 いつもの皮肉げにゆるんだ口もとではなく、頬から目のふちまで線が入った満面の笑み。
 そのまま二回目の握手をする。しっかりと力を込めて、何回も腕を振る。
「じつは、携帯に義兄さんって登録してあるんですけど、いいですか?」
「そりゃもちろん、今すぐなおして?」
「あり」
 私がはじめてみた、北川さんの心の底からの笑顔だった。





  なにかの偶然で北川さんからいくことはあっても、姉が自分からなんて宝くじが当たるくらいありえないと思っていたから。会ってすぐに告白したと姉から聞かされたときは、心臓が口から飛び出そうになった。あの決意に満ちた顔はそういうことだったんだ。
 すると北川さんは宝くじを当てたってことになるんだろうか。
 ベッドの上で考えながら、窓をすこしだけ開ける。
 夏の風が入ってきて、乾いたばかりの前髪を揺らしていく。
 今夜は孤独も衝動もやってこない。きっともうやってこないだろう。意識するたびに心の糸を切ろうとしてきた私の半身は、姉の想い人にぜんぶ託したから。私が持っていると呪いのアイテムだけれど、彼が持てばきっとお守りになる。

 いつだったか誰かが言っていた。「これまで苦労したぶん、後は楽しか待ってないよ」と。
 幸せが続くのはいいけど、楽なのはちょっと遠慮したいかな。
 虫の声だけはいつもと変わらず窓の外から響いてる。彼らはいつだって一心不乱に生きている。
 私は彼らのようになりたい。
 このあたたかい世界で、一生を懸命に生きたい。

 雲の隙間に星を探していると、北川さんからメールがきた。「いろいろありがとう。でも騙したのはひどいとおもうぞ!」って。
 返事ははじめから決まっていた。


 それはきっと天気のせいです。



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