気づけば朝の路上に突っ立っていた。死んでしまったはずなのに。
寸前の光景ははっきりと覚えていた。私の手を握って泣きじゃくっているお姉ちゃん、顔を伏せて肩を震わせているお母さん、唇を噛み締めて硬直しているお父さん。小さな個室に家族が揃っていた。私のためにここまで悲しんでくれるのかと思うと涙が出た。でも声を上げて泣き喚く余裕はなく、私は死んだ。死んだのだ。
でも私は今ここにいる。だけれど、私の脇を素通りしていくたくさんの人々は私を見ない。視界に入っていないようだ。私はやはりいないのか。
え……あれって……ドッキリ?
ない。それはない。ないないない。
医療関係者まで巻き込んでドッキリを敢行するには費用も時間もコネクションも膨大なものになるだろうし、メリットが全くないし、私を騙す理由もないし、そもそも他の人はともかくこの私自身が味わっていた苦しみはドッキリの一言で済ませられるものではない。
おそらくは肉体がないのだ。魂がこの世にとどまっているのか、あるいは化けて出たのか。自分のことだというのに、まるで実感がない。あの世をまだ見ていないからだ。
一歩、足を踏み出してみる。いつもと変わらない。生きていたときと、息をしていたときと。
人々の目に私は映っていない。それでも私は見慣れた景色の中にいる。
雪の街よ、私は帰ってきた!
死んでからやってみたい10のこと。
part.1
真っ白い立方体、万年雪が積もっているわけでもないのにそのような残像が頭から離れない。正確に計ってみれば間違いなのだろうけれど、この病院で過ごした時間がお姉ちゃんたちがいるわが家での生活よりもはるかに長いように感じられる。きっと最期の日々の印象が強すぎるのだ。
中庭の、綺麗に整備された遊歩道や植え込みは夏の太陽をたっぷりと吸い込んでいて、きらきら輝いて見える。私もよく道の途中に置かれているベンチに座って本を読んでいたものだった。夏。今が夏だとしたら、私が死んでから半年くらいが経過していることになる。
私はとりあえず私の最期の場所である病院にやって来ていた。どうしてなのだろう。本当ならお姉ちゃんだったりお母さんだったりお父さんだったりに会うべきなのだろう。しかし私の足はこの総合病院へ向かっていた。たかだか半年程度では何も変わらない。私は受付と書かれたプレートの向こう側にいたスタッフに会釈をしたのだけれど、彼は予想通り何の反応もしなかった。
落ち着いた配色の、極めて質素な廊下を歩いた。患者はともかく、看護士たちの入れ替わりはないようだった。老人を乗せた車椅子を押していた若い看護婦は何度か見かけたことがある。私は彼女の背中を追った。まもなく中庭に出た。薄暗ささえ感じるくらいだった院内から一歩外へ足を踏み出したとき、ぱっと光が広がった。
歩道は緑や黄色に彩色されたタイルで構成されていて、適度に刈り込まれた芝生の中を貫くように続いている。芝生の中央部分に数本、そして中庭自体を取り囲むように何本も植えられているポプラが青々とした葉を輝かせていた。この場にフリスビーを咥えた犬が走ってきたら、公園と勘違いしてしまうかもしれない。それくらいに奇妙な明るさを持っている。
私は足を止め、顔を上げた。。私の病室は六階にあった。
「階段がね」
「うん」
「結構大変なんだよね」
「あ、そうなんだ」
「でも運動になるから、いいのかもしれないね」
小学生の頃だっただろうか。お姉ちゃんは愚痴をこぼしつつも苦笑いで、私はああそうなんだ、迷惑をかけるなあと思っていた。しかしそう口にするとお姉ちゃんはいつだって、「そんなことない!」と断言した。
私は中庭に行くときなどはエレベーターをよく使っていた。しかしお姉ちゃんは使えない。使ってもいいのだろうけれど、ただ見舞いに来ただけのお姉ちゃんが平然と乗り込むわけにはいかないだろう。
私はエレベーターには乗らずに階段を利用した。長い距離だった。
階段とエレベーターは肩をくっつけている。両者が口を開けている踊り場に私は立った。懐かしいとは思えなかった。受付やその待ち合いにあったざわめきが消えていた。私は右に曲がって一番奥にある個室に向かった。忘れもしない。私が生活をしていた、第二のわが家だ。扉は閉められていた。病室を示す番号の下に名字が書かれたプレートが差し込まれている。それは私のものではない。
私は俯きながら部屋に入った。扉には手を触れていない。文字通り、にゅうと壁を通り過ぎたのだ。
見知らぬ中年男が横になって、窓の向こうを見つめていた。思っていた通り、私の痕跡は消え失せている。例えば本棚だったり、ピザよりも小さいようなテレビだったり、枕元のテーブルにいつも置かれていたお姉ちゃんとお揃いのマグカップもなくなっている。私はしゃがみ込んで、そのテーブルの下を覗き込んだ。埃が溜まっているだけだった。
私がこの病室にいた頃、そこに懐中電灯を隠していたのだった。皆が寝静まった真夜中、こっそり起きた私は電灯の細い灯りだけを頼りに本を読んでいた。
「お姉ちゃん」
「何?」
「懐中電灯欲しいな」
「懐中電灯?」
お姉ちゃんは訝しげに目を細めた。私は萎縮してしまってなかなか次の言葉を口にすることができなかった。
「栞?」
「うん。懐中電灯」
私が恥ずかしそうにそう答えると、お姉ちゃんはそれ以上訊ねなかった。そして翌日新品の懐中電灯を一つ、予備の電池一パックを持って病室に現われた。珍しく中学校の制服を着たままだった。お姉ちゃんはいつも一度家に帰ってから私を見舞っていたから、不思議と新鮮な気分になった。
「少しは嬉しそうにしたら?」
「うん。ありがとう」
懐中電灯よりもお姉ちゃんの姿にどぎまぎしていた私を軽くバカにするような目線だった。
その懐中電灯は今はもうない。お姉ちゃんが持って帰ったのだろうか。
いずれにせよ、私がこの病室にいる意味は皆無だ。だいたい誰なんだ、この人は。
いつまでもうじうじと院内をうろついている必要はないのだけれど、主治医の先生には何だかんだで世話になったし、くだらないおしゃべりに付き合ってくれた看護婦さんたちの顔も見ておきたかった。しかし医局にいっても先生はいないし、ナースステーションでは私のことなどなかったかのようで、皆にこやかだった。もちろんいつまでも喪に服していなさいよなどと言うつもりはない。日々の激務のことは知っています。がんばってください。
激務で思い出した。もしも先生が徹夜明けだったら、仮眠室で眠っているのではないか。すぐに私は仮眠室に向かって、やはりすうっと壁を通り抜けた。大きなソファーベッドで主治医は眠りこけていた。普段は真面目な顔で「調子はどうですか」だの「なかなか元気そうですね」だのと紳士的に振る舞っていたのだけれど、眠ってしまえば無防備だ、今、目の前の先生は私が知っている立派な先生ではなく、普通のおっさんだ。
「ういー」
変な寝言。あなた、スペインリーグの夢でも見ているんですか。
目覚めるまで待っていたところで、きっと先生も私を見ることはできないだろう。それどころかこの病院では誰一人私に気づいていない。霊感のある人が少しはいてもいいじゃないかと思ったが、ここは病院なのだから仕方がないのかもしれないと考え直した。
「先生。あの、お世話になりました」
私は臨終前に言えなかった言葉をむにゃむにゃと口を動かしている主治医の先生に向かってかけた。もちろん反応はない。
振り返って仮眠室を後にしようとしたとき、いきなりドアが開いて、看護婦が一人飛び込んできた。肩で息をしている。顔を見てみると、私を担当してくれていた顔馴染の看護婦だった。元気な人で、とても声が大きくて通る。そのくせ顔が小さいから、人形のようでもある。
「先生何やってんですか、起きて下さいよ!」
と、寝ている先生の肩を掴んで、ゆさゆさと身体を揺さぶる。しかし先生は起きない。「ういー。グルペギー」などと寝言を吐き出している。
「何言ってんですか。ちょっと先生! もー!」
狸寝入りなんじゃないかと思ってしまうくらいに目覚めない先生を前に仁王立ちをしている。手伝いたいところなのだけれど、いかんせん化けて出た身なのだから、どうにもならない。
「むー」
腕組みをして難しい顔をしていたが、やがて思いついたように横を向いて寝ていた先生を仰向けの体勢に戻して、そっと口付けた。
「起きなさーい!」
と頬を引っ張ってから、もう一度キスをした。
え?
ええええ!
さすがに目を覚ました先生は唇に触れ、看護婦さんは恥ずかしそうに顔を下に向けている。
「先生起きてますか?」
「え? あ、ははは。ははははは当たり前じゃないか」
ちょっと!
いつの間にそんな関係に!
私が硬直している間にも二人は口づけを交わしている。睦まじいカップルが醸し出す独自の空間が病院の閑散とした仮眠室に広がっていた。色をつければ桃色、見ているだけでこそばゆくなる。
「ちょっと、誰かに見られたらどうすんだよ」
「……誰もいませんよ」
見てるし、いるんですけど。
これもうあれですね、幽霊だと思ってバカにしてますね。幽霊ビームとか出せたらいいんですけど、脅かせないのが悔しい。
などと考えているうちに先生は身体を起こしていた。看護婦さんもソファーに座っていて(呼びに来たんじゃなかったんですか?)、肩を並べている姿は恋人同士にしか見えない。
「ていうか、君、サボってちゃだめだよ」
「何言ってんですか。先生だって人のこと言えないじゃないですか。ていうかほら私たちって全然時間合わないし」
と言っている看護婦さんの白くて小さい手が先生の股間に伸びていた。先生の濃紺のスラックスのジッパーを下ろして……って、何おっ始めるつもりですか、あなたたちは!
私は仮眠室を出た。それ以上見ていたくなかった。ただの男女の営みといってしまえばそれまでなのだけれど、私の中の先生や看護婦さんの思い出をそのままにしておきたかったのだ。しかし私が死んでからの日々で変化した事柄はきっとこれだけではないはずだ。それを見るのは怖いが、でも見なくてはならないのだろう。
せっかく帰ってきたんだから。
私はとぼとぼと歩いていた。不安が大きくなっていたのだ。祐一さんは私をわかってくれるだろうか。テレビドラマや映画や小説などでは愛の力が全てを解決するだろうが、これは現実だ。晴れ上がった空を見上げた。肩を落として歩く私を嘲笑うような晴天だった。
だから祐一さんと北川さんの姿を見つけたとき、私は電柱の陰に身体を隠した。咄嗟の行動だった。鞄を肩にかけ参考書を手に持っている祐一さんと何やらにこやかな顔をしている北川さんが通り過ぎ、私はすぐに踵を返した。全く気づかれなかった。そして叫んだのだ。
「祐一さん!」
そして駆け出した。というのは嘘で、早歩きでつかつかと歩み寄った。祐一さんは「あ」と声を上げて立ち止まっていたから、すぐに追いついた。学校指定のワイシャツを裾から出している上に、第三ボタンまで外していてしかもTシャツを中に着ていない祐一さんはかなりルーズだ。ちょっと前屈みになったものだからお守りみたいな袋がついたネックレスがワイシャツから飛び出ている。
どうして立ち止まったんだろう。開いた参考書を覗き込んだまま動こうとしない祐一さんに私の声が届いたとでもいうのか。しかし北川さんは私には無反応で、歩みを止めた祐一さんの尻に軽く膝を入れようとしていた。
「あのさあ、今思ったんだけど」
北川さんが動きを止めた。一方の祐一さんは歩き出し、北川さんが慌てて横を行く。
私は例えばこんな言葉を期待している。「今、栞の声しなかったか?」。特別な関係だった私たち。愛の力が隔たりを埋める。そんな小さな奇跡があってもいいじゃないかと私は思ったのだけれど。
「中岡慎太郎は一世風靡セピアにいそうな顔をしているね」
「あ、言われてみれば」
「ソイヤソイヤってやってそうだよな」
「土佐勤王党が?」
「そうそう土佐勤王党が」
「武市瑞山がソイヤソイヤソイヤソイヤ!」
「岡田以蔵がソイヤソイヤソイヤソイヤ!」
「ちょっと待てよ相沢」
「何だよ」
「幕末だしよ、ソイヤソイヤっていうか、ええじゃないかって感じじゃね?」
「おお。一理ある」
「こうだろ。ええじゃないか、ええじゃないか、えーじゃないか」
「そうそう。ええじゃないか、ええじゃないか、えーじゃないか」
「零点取ってもええじゃないか」
「昼まで寝ててもええじゃないか」
「赤点取ってもええじゃないか」
「一日寝ててもええじゃないか」
「ええじゃないか、ええじゃないか、えーじゃないか」
……。
私はぽかんと口を開けたまま、踊るように歩き去っていく二人を見送った。人通りの全くない、川沿いの道だ。両手を頭上に掲げて、しかしぐにゃぐにゃとこんにゃくみたいにくねらせる奇妙な振り付けで、足は足で太股をぐるぐると回すように動かしている。そんな滑稽な所作の男が二人もいるのだから見ていられない。
ていうか、何だったんですか今のは。受験生の会話じゃないんじゃないですかって話なんですけど。途中からもう、会話ですらないし。頭が痛くなってきましたよ。あ、わかった、これが受験ノイローゼってやつですね。
たとえ好奇の視線であっても、無視されるよりは幾許かましなのかもしれない。私は駅前の大通りに架かっている歩道橋の段差に座って、人々の往来を眺めていた。私に気づく者はいない。
私は何故この場にいるのだろうか。その意味すらわかっていない。神様も残酷なものだ。二言三言くらい説明があったっていいんじゃないか。
少しだけ空が黒ずんだ気がした。私はこれからどうすればいいのだろう。立ち上がって歩き出した。目的地を意識したわけではなかったが、勝手に足が動く先はきっと水瀬家だ。わが家ではなく、祐一さんの元へ向かおうとしている。あれだけ阿呆くさい姿を見せ付けられても尚、私は祐一さんとの絆を信じている。もちろん祐一さんがある程度変人だってことはわかっているから、あれくらいの奇矯さで動じるわけがない。
恐ろしいのは私が祐一さんの中に残されているか否かを知ることだ。私にとって、祐一さんと過ごした最後の日々は何事にも代え難い貴重な時間であり、わずかな青春そのものだったといえるのだけれど、はたして祐一さんにとってはそれほどの価値があるものであったのか、それを疑っている。疑ってはいけないのだとはわかっているのだけれど、疑わずにいられないのだ。
私にとっては全てだったが、祐一さんにとっては昔の恋人の一人なのかもしれない。もちろん責めるつもりはないし、そのような権利を持っているわけではないことは理解できていると思う。自由なのだから。自由。ついでにいえば、過去どのような女と関係を持ってきたかについても、もちろん興味がないわけではないけれど、どうでもいいことだった。
大事なのは今だと私は考えていた。未来がなく、七色に染め上げられたような過去もない私の手元には今しかなかったのだ。しかし私にとっての「今」も過去になった。私不在の今は私のいるべき場所ではない。自分が不在の未来を見ているのには喪失感が伴われる。私と過ごした時間をどう捉え、どう咀嚼して今に至っているのかを、恐くて恐くて仕方ないけれど、確かめなければならないと思いながら、水瀬家に至った。
水瀬家は何も変わっていなかった。私は「お邪魔します」と小さく声を出す。玄関には数足の靴が並べられている。あまり大きくはないが、入っただけで安心できる、そんな玄関であるように思えた。それはこの家が醸し出している優しげな空気によって生まれているのかもしれない。
私はするすると廊下を進んだ。以前、真冬に訪れたときは床から這い上がってくる冷気に閉口したけれど、今はもう何も感じない。居間では電話の子機を持った名雪さんが楽しそうに誰かと話している。テーブルの上に扇風機を置かれていて、その風に長くて綺麗な髪の毛がそよいでいた。私はそのまま通り過ぎて二階にある祐一さんの部屋へ向かおうと思ったのだけれど、私の耳は一つの単語を鷲掴みにした。香里、お姉ちゃんの名前。もっと具体的にいえば、このような言葉だった。
「わたし香里みたいに頭よくないから、うん、でも推薦は自分でもラッキーだと思うけど」
大学受験の話をしているのだろう。陸上部部長だった名雪さんは推薦入学が決まっているが、お姉ちゃんは受験勉強をしなければならないから、その愚痴をこぼしている。そのようなところなのだろうと推測した。緑色の蛙のぬいぐるみを片手で抱いて、柔らかそうなソファーに身体を埋めている名雪さんの隣に座る。通話口からお姉ちゃんの声が聞こえてきた。電話線を通したそれは多少歪んでいたが、確かにお姉ちゃんの声だった。
「でも名雪、あまり油断してちゃ駄目じゃない?」
「油断?」
「だってほら、部活引退してるのに今までみたいに食べてたら、すぐでしょ」
「すぐ? え、そんなことないよ」
「皆言ってるよ。『水瀬さん最近ぽっちゃりしてきたよねー』って」
「え? 嘘だ」
名雪さんは子機をそのままに、ぬいぐるみを真横に、ていうか私の真上に置いて(といってもぬいぐるみは私をすり抜けるようにソファーに鎮座したのだけれど)、眉間に皺を寄せて一つ息を吐いた。そしてひらひらと扇風機の風になびいていた白いブラウスの裾に手を突っ込み、すぐに「あ」と声を上げた。
「名雪? どうしたの?」
「かるくやばい」
「やっぱり」
「わたし駄目だね。やっぱり走らなきゃ駄目なのかな」
「え?」
「うん。走る。走ってくる」
名雪さんは子機を備え付けの場所に戻すと、ぬいぐるみを抱いてすたすたと階段を上がっていった。私もそれに続く。階段を上りきったところで祐一さんの部屋へ視線をやったが、すぐに自分の部屋に入っていった。私は祐一さんの部屋の前に立つ。私は通り抜ける。以前はなかった『祐一のへや』というプレートは全くも動かなかった。
電気が消された室内は薄暗く、祐一さんは何もかけずにベッドに横になっていた。二つの瞳は閉じている。上はTシャツ、下はトランクスというだらけたなりをしている。
「う……ん」
寝返りをうったときに、吐息が漏れた。男の人の寝顔は時折愛らしく見える。無防備で、少し笑みさえ浮かべている祐一さんの寝顔は柔らかく可愛かった。アイドル的に可愛いというのではなく、やはり愛らしいという表現が一等適当かもしれない。
「う……ん……かよ、かよぉ」
誰ですか? 誰ですか『かよ』って。
「あ……みーこ」
だから誰ですか?
いや、どうでもいいことだ。過去の女の名前なら私はあれこれいうつもりはないし、仮に今祐一さんの好きな人の名前だとしても、私にあれこれいう権利はない。せいぜい夢の中でかよさんとかみーこさんと何をしているのかを気にするくらいだ。死んでまで、愛する人を困らせたくない。
「あ……きたがわ……おひげがちくちくするよ」
セイセイセイセイセイ、ちょっと待ってくださいよ。
今のは何ですか! どんな夢ですか!
どんな女と付き合おうと祐一さんの勝手ですけど、今の寝言は祐一さんを愛した私のアイデンティティーにも関わるんじゃないかと思うんですけど、いかがでしょうか。
何となく腹が立ったので、たこ足配線一歩手前のコンセントに繋げられているコードをぐちゃぐちゃにこんがらがった状態にしてやった。今の私にできるいたずらなんてこの程度のものだ。基本的にこの世のものには触れられないようなのだけれど、何故だか可能だったのだ。よくはわからないが、配線が絡まっていたところでこの世界には何の影響もないからなのだろう。だから触れられたのだ、きっと。
試しに私は祐一さんの部屋にあるものに触れてみようと手を伸ばしていたが、灯りのない部屋の中でのことだったから、四苦八苦だった。カーテンには触れられたが、勉強机の上に重ねられた参考書は無理だった。部屋を手探りで行ったり来たりしているうちに、以前訪れたときは剥き出しだった白い壁に何かが張られていることに気づいた。私はしっかりと目を凝らした。
心臓が止まるかと思った。
いや、実際はもう止まってるからあれなんですけど。それくらい驚いたんだよっていう比喩なんですけど。
最後の夜、祐一さんに残した下手くそな自画像がそこに張られていた。そして隣には学校の中庭で、わずかな時間で描いた祐一さんの似顔絵がある。私は驚きのあまり、その場に立ち尽くしていた。やがて祐一さんが起きて、ズボンを穿いて部屋を出て行っても、私はしばらくその場に留まっていた。技巧の「ぎ」の字もないような自画像。祐一さんは部屋を出るとき横目でちらりとそれを見て、わずかな笑みを浮かべた。私は硬直したまま半ば泣きそうになっていたのだけれど、その柔らかな眼差しははっきりと見てとれた。愛情やら感謝やら郷愁やら、いや一言では表現できないくらいの感情がその一瞬に弾けた、ように私には思えた。
一度だけでいいからしてみたかったことがあって、それはずばり木登りだった。私の家の庭には一本の木がある。初夏の陽射しに輝いている葉っぱが私の部屋の窓からよく見えた。まだ幼い頃にお姉ちゃんがよじ登って落ちて、身体中を痛めた上にお母さんにがみがみと怒られて泣き喚いていたのを憶えている。
「ああ、あれ」
「うん。お姉ちゃん泣いてたよね」
「子供だったから」
「うん」
「あれね、驚かそうと思ったの」
「私を?」
「うん。枝がね、栞の部屋の窓に届きそうだったから」
「夏だったよね」
「うん。だから、開けっ放しだったでしょ?」
「そうだね。私、冷房だめだから」
「でも途中で落ちちゃった」
悔しそうに、お姉ちゃんは言った。
「落ちちゃった」
お姉ちゃんは小さなナイフで林檎の皮を剥いていた。私はベッドに横になって、それを見ていた。慣れた手つきで赤い皮はするすると剥がれ落ちた。お姉ちゃんが黙ってしまったので、加湿器の音だけが聞こえていた。
今、お姉ちゃんはナイフではなく蛍光ペンを握っている。私は念願だった木登りを終え、枝に腰を落ち着かせていた。本来であればすぐに折れてしまうような枝なのだけれど、今の私に体重はない。お姉ちゃんの窓の真下に机を置いていて、しかも窓を開け放っているから、ノートと参考書、手のペン、それからお姉ちゃんのはるか後方の壁に掛けられているハンガーに吊るされたストールが見えた。きっと私のもの、最後の日、スケッチブックと一緒に祐一さんの元へ残してきたものだ。
私は空中をふわふわと漂って、お姉ちゃんの部屋への侵入に成功した。やってみるものだ。そろそろ幽霊ビームも出せるかもしれないと思って、手のひらの付け根を合わせてえんやと気合を入れてみたけれど、びりびりと痺れるだけで光線の類は少しも出なかった。さすがにビームは無理だ。ていうかビームを出す幽霊なんて、私は見たことも聞いたこともない。
お姉ちゃんの部屋は一月の終わりに二人して蒲団に包まって寝た夜以来になる。その日私は名雪さんを連れてどこかに行ってしまったお姉ちゃんよりも先に帰宅していた。喫茶店で複雑な顔をしていたお姉ちゃんは今でもよく思い出せる。話しかけたいのだけれど、何をきっかけにすればいいのかわからない。そんな感じだった。お姉ちゃんはいつだって不器用だ。だから木から落ちる。しかしそれでも私にとっては自慢の姉だ。
そんなお姉ちゃんにもこれはだめだろうという要素がある。それは何かを憶えようとするときに声に出してしまうという点だ。小声で呟くので、傍から見ると不気味だ。おそらくお姉ちゃんは一人暮らしを始めたら、ひとりごとを頻繁に口にするタイプなのだろう。木の上にいたときは聞こえていなかったが、今もやはり何かを暗記していて、口に出してしまっている。私は耳を傾けてみる。
「一八六七年、ええじゃないか運動始まる」
「江戸を起点に、西国へ」
「鳴り物片手にええじゃないか」
「ええじゃないかええじゃないかと練り歩く」
お、お姉ちゃんまで! ていうか、何なんですか。百何十年かぶりにこの地にええじゃないかの波が到達したとでもいうんですか。
「ええじゃないかええじゃないか。ふふふふ」
笑ってるし……。
「香里、お夕飯よ」
私とお姉ちゃんはほぼ同時に反応した。懐かしいお母さんの声。最後は泣き崩れていた。弱みなんて決して見せなかった母の弱った姿は死に至る寸前の私の胸にしっかりと刻まれた。
正直な話、皆、私のことを心のどこかで厭っているのではないのかという不安があり、主治医の先生とか看護婦さんとか他の顔見知りの患者さんたちは結構無責任に心配してくれていたのだけれど、金銭面で大いに負担をかけてしまっている両親だったり、精神面で負担どころの騒ぎではなかったお姉ちゃんだったりは心の底では死ぬんならさっさと死ねとか思っているのではないのか的な不安を抱えていて、しかし実際はそんなことはなく、むしろそのような考えを一度でも思い浮かべてしまった私こそが愚か者だったのだと後悔している。
私はお姉ちゃんに続いて階段を降りた。内装は私が生きていたときとちっとも変わっていなかった。キッチンにある四人掛けのテーブルにはすでにお父さんとお母さんが座っていて、お姉ちゃんはマグカップに飲み物を注いでから席についた。
あれ? と思った。食器や茶碗が四人分用意されていた。
存命の頃私が座っていた席にも食器が用意されていたのだ。しかしお姉ちゃんたちはそれがさも当然であるかのように全く気にせずに食事を始めている。
「香里、どうだ。受験勉強の方は?」
「うん。大丈夫」
「そうか? 一年くらいなら浪人したって平気だから、あんまり根詰めるんじゃないよ」
「心配性だなあ。大丈夫だって」
「ふふふ。男親は娘には甘いものなのよね」
酢豚の香りが私の鼻をついたが、空腹を煽られるようなことはなかった。私は椅子ではなく、体育座りのような体勢で床でくつろいでいた。参加はできないが、幸せそうな家族を見るのは不思議と嬉しいものだ。
やがて食事は終わり、お母さんはお茶を注いだ湯呑をお父さんの前に起き、私がかつてお姉ちゃんに貰った金閣寺の湯呑にもお茶を注いだ。そしてそれを私の席に置く。
「香里は?」
「うん。私はいい」
もしかしたら私が死んでからずっと、私の分のご飯も用意していたのだろうか。そして食後はこうしてお茶をいれていたのだろうか。だとしたら私はやっぱり大馬鹿者だ。
愛されていたんだなあと実感した。すると涙が頬をつたった。
お父さんがくだらない駄洒落を言い、お姉ちゃんが冷たいつっこみを入れ、お母さんが困ったようにたしなめている。どこにでもある風景だった。皆、屈託のない笑顔を浮かべている。
だから私は泣いた。
お姉ちゃんとお父さんとお母さんの笑い声を聞きながら、しばししゃくりあげていた。
私は祐一さんの部屋に戻っていた。お姉ちゃんは眠ってしまった。全く手を加えられていなかった自室のベッドに寝転がっていたが、すぐに思い立って家を出たのだった。
お姉ちゃんと同じように祐一さんも眠っている。私はちっとも眠くないので、その寝顔を眺めていた。死んでしまった私には睡眠欲も食欲も性欲もない。干渉もできない。ただ今を刈り取っているだけだ。私は似顔絵と自画像が張られた壁に背を預け、足を伸ばしていた。何をするというわけでも、何を思うというわけでもない。
真夜中、祐一さんがむっくりと起き上がった。やはりTシャツにトランクスという出で立ちで、夜の闇に慣れてしまった私は股間のふくらみをはっきりと確認したが特にどうとも思わなかった。祐一さんは眠そうに目を細めていて、何度も瞬きをしていた。
「栞」
そう呟いた祐一さんは私を見ていた。
「え? あ、はい」
思わずそう答えていた。しかし祐一さんは繰り返す。
「栞」
「よお栞」
「元気だったか?」
寝惚けてふらついている足元はすこぶる不安定だったが、はっきりと私に歩み寄っていた。わずか数メートルの距離。本当だったら、どんな国よりも遠い場所に私はいるはずだ。しかしこの瞬間、全ての境が消え去ったように思えた。
祐一さんは私の目の前でがっくりと膝を落とした。顔が目の前にある。心臓はもう止まっているはずなのに、祐一さんと初めてキスをしたときのような鼓動の高鳴りが私の胸元にあるように思えた。
「栞」
「はい」
「栞」
「祐一さん」
しかし私は祐一さんの目が私を見ていないことに気づいた。目線は私の顔を寄りも上に向けられている。寝惚け眼がはっきりと開くと、何度も瞬きをしながらきょろきょろと周囲を見渡した。そしてむにゃむにゃと口を動かし、参ったなあとでも言いたげに頭を掻いて、言った。
「絵じゃないか」
その言葉に私は振り返って背後の壁を見る。私の自画像が微笑んでいる。
涙ぐんで鼻を啜ったが、何も言わずに蒲団に戻り、仰向けに横たわった。目は開いたままだった。
もう充分じゃないかと私は思った。十六年は一昔、ああ、夢だったなあとはよく言ったものだ。
私がこの世に存在したという軌跡は確かに残されている。それで充分じゃないか。これ以上何を求めればいいというのだろう。欲を出せば、一言「もういいんですよ」と伝えたかったが、化けて出た身ではそれも叶いそうにない。だったらせめて、この世への未練が生じないうちに成仏するのが得策というものだ。
そう、成仏だ。
ありがとうとさようなら、私はいつの間にか瞳を閉じて眠ってしまっている祐一さんの耳元でそう囁いて、成仏してしまおうと思った。
part.2
ところで、成仏ってどうやればいいんでしょうか。
part.3
『ぼくは月の世界には行きませんでした、もっとはるかに遠いところへ行ったのです――時のへだたりほど遠いものはないんですから――』。
テネシー・ウィリアムズはかつてこう記したが、実際に私と雄一さん達を決定的に隔てているものは時間に他ならないと思うようになっていた。あの日以降、祐一さんやお姉ちゃんの、いや二人だけではなくて、私と関わった全ての人の時間は止まることなく進み続けている。しかし私はどうだ。祐一さんの元を去り、病院に担ぎ込まれて、やがて鼓動を失い、死化粧を施されて火葬場で焼かれた私の時間は確実に止まっていて、しかも動き始めることはない、永久に。
時間旅行といってしまえば大袈裟かもしれない。だが、私はにこの世界の時間の流れとは別の文脈にいるようだった、明らかに。あの夜、私が描いた絵の前で泣きべそをかいて、やがて寝入った祐一さんに添うように私も横になった。眠気などこれっぽっちもなかったはずなのに、不思議なもので、横になった私が瞳を閉じると、あっという間に夢の世界へ落ちていった。夢の内容は覚えていない。あるいは眠ったのではなく、ただ単に意識が途絶えただけなのかもしれなかった。
目を開けた私は驚いた。どこかの道路の電柱にもたれかかるように立っていて、不安と期待を抱えたような制服姿の若者たちが同じ方向を目指していた。見覚えがない景色ではなかった。通学路、そう記憶している。やがて祐一さんの姿を確認したところで予想は確信に変わり、私はその後ろを追うことにした。鞄を持った祐一さんは眠そうに欠伸をしながら歩いていて、すぐに校舎が見えてきた。
校門のところでしばし立ち止まってしげしげと校舎を、特に変化があったというわけでもない校舎を眺めていた祐一さんは薄っぺらい鞄を持ったまま伸びをして、歩き出す。桜の花びらがふらふらと舞っていた。桜色、芝生の緑色、そして青空と、雪景色の頃からは想像もできないような鮮やかさが広がっている。
踏みしめるようにゆっくりと歩く祐一さんは、というかゆっくり歩くのが好きなのだろうと私は思うのだけれど、新しい学期に心を弾ませている生徒たちに追い抜かれていくが、全く気にせずに欠伸をしている。名雪さんは朝練なのだろう、隣にはいない。
そんな中、祐一さんを一度は追い抜いた、リボンの色から判断するに新一年生だろうと思われる女生徒が不安げに首を動かして、その目線が祐一さんと交錯する。
「……えっと」
思い切ったようにすたすたと歩み寄って、その子は声をかける。
「……あの、クラス分けの発表って、どこでやるんですか? 広い学校だから迷っちゃって」
私はずっと後ろを歩いていたのだけれど、再び立ち止まった祐一さんの前にまわり込んでいた。どんな顔をしているのだろうかと気になったからだ。
訊ねられた祐一さんはそのときやっと、自分も知らないということに思い至ったようだった。答えようとして口を開けたものの、動作はそこで止まってしまった。女生徒が怪訝そうにあの、と言おうとしたところでようやく、言葉を見つける。
「実は、俺も知らないんだ」
「あ……もしかして、私と同じ新一年生なんですか?」
「いや、今度三年になるけど、この前転校して来たばかりなんだ」
「そうなんですか? だったら一緒に探しましょう」
いい考え思いついたとばかりにその子はうんうんと頷いた。逆に祐一さんは困ったような苦笑いで、「……そうだな」と小声で答えるのだけれど、元気よく歩き出した女の子には全く聞こえていないようだった。
祐一さんはその子の後ろをゆっくりと歩いていた。あれこれ訊ねる女生徒に「ああ」だの「うん」だの「そうだね」だのと相槌を打っている。ちょっとだけ腹立たしいのは満更でもないような顔をしているからだ。
やがて昇降口に辿り着いた二人はクラス分けの張り紙を発見する。ちなみに私はお姉ちゃんと一緒に見たことがあるから、どこに、どんな按配で張り出されているかは知っていた。
「あ! ありました!」
細かい文字がびっしりと真っ白い紙を埋め尽くしている。
「それでは、私はこれで」
「……ああ」
お辞儀をして人込みへと切り込んでいく女の子を見送る祐一さんの表情はどことなく寂しげで、もしかしたらそれは下級生であるあの子に私の面影を見つけてしまっているからなのかもしれないと思う一方で、ただ単に女の子と仲良くなれそうだったところで別れてしまった、残念、という落胆なのかもしれないとも考えてしまうが、いずれにせよ、私が口出しすべき問題ではないし、できることは『がんばれ相沢祐一』と無責任に応援するくらいで、悲しいことにその言葉は未来永劫届かないのだ。
祐一さんは三年生のクラス名簿がプリントされている箇所だけではなく、二年生のところも一年生のところにも目を通していた。無言で小さな文字に目を凝らしている。
周囲はがやがやと祭りのように賑やかだったが、祐一さんの周りだけは沈黙に支配されている。私の名前を探しているのだろうと思った。ありませんよ、と声をかけてあげたい。
「……勝負に勝ったら、うまいもの、一杯食ってやるつもりだったのにな」
本当に小さな、風にかき消されてしまうような声だった。
……祐一さん、うまいものっていっても、学食じゃ高が知れていますよ。
「……今はまだ」
「今はまだ、何?」
ぱっと振り返った視線の先には名雪さんが立っている。
「祐一、クラス別になっちゃったね」
「そうだな」
「さっきの子誰?」
「え?」
「祐一って、ほんとに年下好きだよね」
「……そんなことねえよ」
ふて腐れたようにそう吐き捨てる。
始業式の日に合わせるように満開になる桜もまだつぼみのようだった。三月はまだ寒い。手と手を擦り合わせながらコンビニに入った祐一さんは慣れた手つきでカゴを掴んで、奥の方にある飲み物専用の冷蔵庫の前に立ってあれこれと検分し、かなり無造作に無数の缶や瓶をカゴに放り込んでレジへ向かった。
「相沢、あのなあ」
「何だよ」
カウンターの向こうの北川さんは外国人のように大袈裟に肩をすくめた。従業員用の制服が微妙に似合っている。
「相沢さんよ、こりゃあだめだろう」
と指差す先には買い物カゴに入れられた大量のアルコール類がある。
「あのなあ、オレはお前が同い年だって知ってるわけだろ」
「そりゃそうだ」
「そのオレがお前に酒売ったら、どうなる?」
「店長に褒められる」
「そうそう、『おお北川君、今日も売れた売れたぞ、それもこれも君のおかげだ、君がしっかり店番をしてくれているからだ、よし今月から時給は九〇〇円だ』って、おい! そんなわけねえだろ」
「……ノリツッコミかよ」
「酒なら他のとこで買えよなあ」
と、ぶつくさ文句を言いながら、一つ一つバーコードに通していく北川さんもどうかと思う。スーパードライ、マグナムドライ、ワンカップ大関、氷結果汁青りんご、ドラフトワン、氷結果汁グレープフルーツ、ワンカップ大関、ダブル搾り白桃黄桃、ワンカップ大関、ワンカップ大関、カクテルパートナーカシスオレンジ、ワンカップ大関、銀河高原ビール、カクテルパートナードライジントニック、ワンカップ大関、ワンカップ大関、ワンカップ大関、スーパーチューハイレモン、サントリーウィスキー無頼派、ワンカップ大関、ワンカップ大関……。
祐一さん……あなたどれだけ飲むつもりですか! ていうか、ワンカップ多いよ! このワンカップ率の高さは高校生のチョイスとは思えません。
「相沢……」
「何だよ。売れよ」
「売るよ。あとさ、飲み切れないときはオレを呼べ」
「ああ。呼ぶよ」
「期待してるよ」
「でも俺はやけくそだ。たぶん呼ばねえよ」
「ああ。わかってるよ。がんばれよ」
何をがんばるんだろう。
祐一さんはコンビニを出る。男の友情と表現するには少しだけ酒臭いけれど、それもこれも私が原因なのだと思うとせつなくなる。
あ、そういえば。
私は私の十六年間の一生において、一度もアルコールの類を口にしていなかったことに思い至った。バニラアイスばかり食べていたような気がする。それは口当たりがよくて、それなりに好きだったからなのだが、本当はもっとえぐいものも食べたかった。ほやとか。このわたとか。
祐一さんがコンビニに戻ってくる。
「どうした相沢」
「……つまみ買うの忘れた」
「あ、そうだ、相沢」
「何だよ」
「今度カラオケ行こうぜ」
「……ああ」
「北川くん……」
「いいんだよ、水瀬。オレは道化で充分だ。周りの皆が笑っていればいいんだよ」
「でも、それじゃ北川くんが辛いだけだよ」
「辛くないよ……いやそりゃそうかもしれないけど、顔で笑って心で泣いてってやつだ」
「でも、でも、北川君は絶対傷つくよ。立ち直れないかもしれないよ」
「おい、ちょっと、水瀬」
「いじめられるよ。ハブだよ。誰も口聞いてくれなくなるよ」
「水瀬! おい!」
「もう自殺するしかなくなるよ。ていうか自殺すらできなくなるよ」
「何でだよ! ていうか待てよ! なんでスベること前提なんだよ。ウケるかもしんないだろ」
「ウケないよ。大体なんでピエロの格好してるの? 意味わかんないよ」
誰もいない放課後の教室だった。隣の教室では進級おめでとうパーティーの真っ最中だ。それぞれ隠し芸を披露することになっていて、祐一さんが今、隣の教室で似ていないスピルバーグの物真似をしている。あんまりひどいので見ていられなくなって、私は控え室代わりのこちら側にいる。
「いいか水瀬、よく聞けよ」
「聞いてるよ」
「相沢がスピルバーグの物真似をしてる。その前の斉藤はコッポラだし、その前はマイケル・ウィンターボトムの物真似だ。映画監督シリーズだ。オレが仕込んだ」
「わかんない! 全然わかんなかったよ! 似てるとか似てないとかじゃなくて、マイケル・ウィンターボトムって誰って話なんだけど」
「いいから聞け。オレの仕込みの映画監督シリーズが続く、当然皆オレの仕込みだってわかってる、するとオレも映画監督の真似をすると思い込むだろ?」
「ああ、そうかも。でも!」
「そこでピエロだ。オレがいきなりこの完璧な道化師姿で現れたら、それは……ナンセンスでしょ」
「ナンセンスだけど! でも今の時代、ナンセンスギャグは流行らないんだよ!」
「言うな! 水瀬に笑いの何がわかる」
「ごめん。祐一にも言われたよ、結構前に」
「そうか。悪いな。オレこそ」
「お前には笑いのセンスがないって」
「オレはそこまで言ってないぞ」
「関西弁にすれば面白いと思ったら大間違いだって」
「……正論だな」
「死んでしまえよって」
「それは言い過ぎだ!」
「さすがに冗談だよ」
がらりと扉が開けられて、憔悴しきった表情の祐一さんが入ってくる。何か、表現できないくらいひどい顔だ。白髪のカツラと付け髭を取って、投げ捨てる。
「おい相沢どうした」
「全然ウケなかった。いや、ウケないのはいい。つまらなさはわかってた。似てないっていうか、スピルバーグ本人自体よくわかってないし。問題はおもしろくないのに笑おうとする奴がいることだ。ありゃあ……あれだな。恋人を失った男への同情だな」
「そうか。辛かったな」
「そんな笑いはいらないんだ俺は! ていうか何だその格好は!」
「ピエロさ。オレは」
「ナンセンスだ……。お前馬鹿だろ。ああそうだ、北川」
祐一さんがスピルバーグ変装セットを拾い上げて言う。
「お髭がチクチクするよ」
……
ああ、頭痛くなってきた。白塗りで、唇赤くして、尖っている帽子をかぶっている北川さんはたぶん出落ち狙いなんじゃないかと思った。
私は思い出の公園を訪れていた。いつこの世を離れてしまうかもわからないので、とりあえず思い出の場所を再訪すべきだと考えていた。
「いのち短し恋せよ乙女、朱き唇褪せぬ間に、ふんふふふふん、ふふふんふん」
噴水から遠く離れて、ブランコや砂場やジャングルジムがある場所があり、祐一さんはぼんやりとブランコに座っていた。こいでいるのではない。ただ座っている。
すっかり暗くなった周囲は沈黙が支配している。それを破るような声がした。
「祐一。探したよ」
深々と雪が降る中を駆けてきたのだろうか、息が上がっている。
「名雪」
「何してるの?」
「別に何も」
「嘘だ。祐一寒いの苦手でしょ。何で外にいるの? 雪積もってるの見えるでしょ」
祐一さんは答えない。名雪さんはそんな祐一さんの前に立ち、腰を屈めて顔を覗き込む。
「何だよ」
「押してあげよっか」
「え?」
「ブランコ。昔遊んだよね」
「憶えてねえよ」
「遊んだよ」
名雪さんは後ろに回って、祐一さんの背中を押す。勢いが強すぎてバランスを崩して倒れそうになるが、錆び付いたチェーンを必死で掴む。そこに一切の熱はなく、ただでさえ冷たくなっていた手が真っ赤になる。
「どう? 楽しい?」
「楽しくねえよ」
「祐一背中震えてる」
「だから何だよ」
「泣いてるの?」
確かに祐一さんは背中を丸めている。両手でチェーンを掴んでいなかったら、そのまま地面に突っ伏してしまいそうだ。
「お前だってそうだろ」
「え?」
「お前も泣いてんだろ」
「うん。だって、だって、何だろう、わたし栞ちゃんのこと何も知らなかったけど、人が死ぬのは悲しいよ」
「やめろよ!」
祐一さんは振り払うように片腕の肘を大きく後ろへと動かした。その勢いで名雪さんは尻餅をついてしまいそうになるが、ブランコを囲っている鉄製の柵に助けられる。
「あ、悪ぃ」
「え? う、うん」
名雪さんは尻をはたきながら、祐一さんの隣のブランコへと腰を下ろす。
「ごめんね」
「わたし祐一の気持ちわかんないから、どうしたらいいのかわかんなくて」
「どうしたらいいのかな」
「何ができるのかな」
「何もできないよね」
しょんぼりと肩を落とす名雪さんに目をやって、祐一さんは首を振る。そこにはどんな意味が込められていたのだろう。
「そや、さっき歌ってよね」
「聞いてたのか……そや?」
「聞こえてたさかい、あれってゴンドラの唄でしょ」
「知ってんのか……さかい?」
「そや、一曲」
「……名雪、関西弁にすれば何でも面白くなるわけじゃないんだぞ」
「わかってるよ」
「笑いのセンスがない人は諦めた方がいいんだ」
「でも知ってるのは本当。映画で見たんだよ。いのち短し恋せよ乙女、でしょ」
名雪さんの歌声は暗い公園に凛と響いた。
「朱き唇褪せぬ間に」
祐一さんが独特の低い声で続け、やがて二人は声を合わせた。
「ふんふんふふふん」
「ふふふんふん」
「いのち短し恋せよ乙女」
「いざ手を取りて、彼の舟に」
「ふんふんふふふん」
「ふふふんふん」
歌詞わかってないのに合唱するのもどうかと思うのだけれど、気持ちはわからないでもない。
「ふんふんふふふん」
「ふふふんふん」
「ふんふんふふふん」
「ふふふんふん」
「ふんふんふふふん」
「ふふふんふん」
「ふんふんふふふん」
「ふふふんふん」
「ふんふんふふふん」
「ふふふんふふ」
最終的に全部鼻歌になってしまっている。おいおい。
雪が舞い始める。季節はもうすぐ春になるというのに、この街ではいまだに雪が降る。
二人は見つめあって、やがてどちらからというわけでもなく、泣き出した。
居た堪れない。私はその場を離れた。
大きな煙突が見えたので、私はそこを目指してみた。距離はない。感じられない。
辿り着いたのは火葬場だった。私自身の告別式。まさか自分の葬式を自分で見ることになるとは思わなかった。神様だか仏様だか知らないけれど、なかなか粋な計らいをしてくれるものだ。
喪服の人たち、たくさん。私の親戚ってこんなに多かったんだなあと、不謹慎ながら嘆息する。
お姉ちゃんが持っている遺影には生前の私の笑顔がある。まだちょっとふっくらとしている頃の、おそらく中学生のときの写真だろう。穏やかな笑顔。
祐一さんは火葬場まで来た唯一の親族ではない人間のようだ。どういう経緯があってここにいるのかはわからないが、きっと全てを話したのだろう。娘の恋人を出席させないほどひどい親ではないと思っていて、実際そうだったようなので安堵している。
私は自分の遺体が横たわっている棺桶に跨っていて、手を合わせたり鼻を啜っていたり呆然としている人たちを見ていた。悲しんでいるか、現実を受け止めるので精一杯で何も考えられないか、出席している方々はどちらかのようだった。
一方私は冷めた視線を投げかけていて、何をしているんだこの人たちは的な思いで一杯だった。特に動きもなく、私の遺体が焼却炉、じゃない、火葬炉に運ばれるときが訪れた。ぼおっと突っ立っていた祐一さんはゆっくりと歩み寄り、「行かないでくれよ」と呟いた。
「相沢くん」
「行くなよ」
「祐一さん」
涙で化粧が崩れてしまっているお姉ちゃんに肩を叩かれると、祐一さんはおとなしく引き下がる。
「祐一さん」
私は棺桶から降りて、無意味だとは知りつつも祐一さんに近寄ろうとするが、このまま火の中に入っていったら、肉体と一緒に成仏できるのではないのかという考えに取りつかれていた。そろそろおさらばしたいという思いを隠すことはできない。
火葬場の職員が台車を引っ張って、私ごと棺桶を火葬炉に導いた。分厚い扉が閉められて、中は真っ暗になる。しばらく経つと、炎で明るくなった。熱さは感じない。魂の私も遺体の私もそんなものは感じていないのだろう。しかし目眩を覚えた。
え? もしかして、これ成仏? 成仏する瞬間?
私は少し嬉しくなって、火炎の中で微笑んだ。
……。
……。
……。
幽霊だか魂だかわからないけれど、遺骨と一緒に冷却されるって何か間違っていると思う。
別室で軽食を取りながら待機していたお姉ちゃんたちが再び現れ、私の遺骨はこれから骨壷に入れられるのだろう。ちなみにサイズはSです。告別式のときに話しているのを耳に挟みました。
箸で骨を集めるのは出席者全員ではなくて、希望者だけのようだった。当たり前かもしれない。特に親交がなかったのにもかかわらず、親族であるという理由だけでこの場にいなければならない者もいるだろうし、実際私とあったこともない人も少なからずいる。
お姉ちゃんは泣いていた。しかし長い箸を持った手元は全く狂わず、的確に摘んでは骨壷に入れていく。骨壷に入れるのも順番があって、骨が仏様のような格好になるのがベストと聞いたことがあったけれど、そんな余裕はないようだった。
腹立たしいのは歓談している前述のような連中だ。骨をちらりと見ては、「いい骨じゃないか」って、裸を見られているみたいで恥ずかしい。結局骨を集めているのはお姉ちゃん、お父さん、お母さん、祐一さんの四人だけだった。
祐一さんはこの世の終わりのような顔を浮かべていた。右手の箸を器用に動かしてはいるが、震えは隠せない……って、あ!
祐一さん、あなた今骨取りましたね。
どこの部位かもわからぬ欠片を素早くポケットに放り込んで、火傷したかもしれない左の指先を何気なくこすりながら、右手の箸に神経を集中させる。それをどうするんですかと聞きたくても聞けないのだけれど……わかってしまった。
あのネックレスの巾着袋。私の一部分がきっとそこにしまわれている。あ、そっかと思った。祐一さんのポケットの骨に忍び込んで、しばらく居候の身分を楽しもうと思う。いつか祐一さんがこの骨を思い切っちゃうときにきっと極楽浄土へ導かれるかあるいは地獄に落とされるかはわからないけれど、私という魂は綺麗に洗浄されるに違いない。
(了)
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