01/


 まるで永遠に終わらない夢のように。
 舞は今宵もまた、その場所にいた。
 不法に侵入してきた自分を拒絶するかのように冷たさだけしか感じられないリノリウムの床に腰を下ろし、無残に割れたガラスが牙のように残る窓から差し込む月明かりをじっと見つめる。
 時折陰り、また明るく照らす、その繰り返し。
 時は確かに動いているはずなのに、この場所にはそれが届かない。
 何時まで経っても変わることの無い静寂の中で、彼女は一人戦い続けてきた。
 校舎の中には誰も居ない。彼女の周りには誰も居ない。何時だって独りきり、叶う事のない願いを諦められずに、同じ事を繰り返してきたのだ。
 そんな静止した影絵の世界で、遠く廊下の向こうに小さな影が生まれた。
「……猫さん」
 その影の正体は茶虎の猫だった。まだ幼い。小さい身体をピンと伸ばして、まるで大人の猫のように振舞うその姿が何故だか妙に可愛らしくて、彼女は手を――数瞬躊躇い、剣を持っていない方を――差し出した。
 猫は少しだけ、そんな彼女に興味を持ったように顔を向けたが、すぐさま他の何かを見つけたのか、何処かに向かってまっしぐらに走り去って行ってしまった。
 その背中が闇の中に溶け消えるのを見送り、何か持ってこれば良かったと、舞は少しだけ後悔する。あの子猫に与えてあげられるものがあれば、それがほんの僅かな時間だったとしても、傍に居られただろうに。
 しかし、今の彼女にはそれは望めないことだった。
 他人に与えられるものなど、己の中に余剰など一つも無い彼女には、何も無い手のひらをただ差し出す以外に出来ることなどなかったのだから。 
「……いたい」
 また独りぼっちになってしまったその場所で、彼女は腰を下ろしたまま動けず、ただ小さく小さく、吐息と共に呟いた。




その手のひらに紡ぐもの






 天野が学食に顔を出したのは、昼休みももう半ばに入った頃だった。今日は弁当を作ってこなかったので、学食で食べなければならなかったのだが、早い時間に来るとそこはまるで配給を受ける難民の集まりのような騒ぎなので、彼女は少し落ち着いてくるこの時間帯を選んだのだった。
 それでも、立ち入ったその場所はまだ喧騒が続いていた。明らかにすでに昼食は終わっているとしか思えない生徒たちが、一箇所に集まっている。
 それにはちょっとした訳があった。
「うー……うー……」
 天野の傍を顔を涙と鼻水でぐぢゅぐぢゅにした女生徒が通り過ぎていく。怪しげな言葉を繰り返しフラフラと歩くその姿は夢遊病患者に似ていた。
「だから止めとけっていったんだ」
 そんな女生徒を友人らしき男子が支え、廊下の向こうへと歩いていくのを彼女はしばし見送り、そして何事もなかったように食券の販売機へと向かった。販売機の前はすでに誰も並んではいなかった。お金を入れ、小食の彼女は迷わずきつねうどんのボタンを押す。
 出てきた食券を手に歩きながら、喧騒の中心に眼を向けた。
 さして広くも無い食堂の一角に、異様な人だかりができている。男子よりも女子の方が多いその人だかりの向こう、僅かな隙間から覗いたその中心には、本来こんな場所に居るはずの無い動物が居た。
 そう。今この食堂には、どこからやってきたのか、一匹の茶虎の子猫が居座っているのだった。
 居座っていると言っても、もちろんずっと居るわけではない。この辺りをテリトリーにしているらしく、昼時になると食事中の学生を狙ってひょっこりと顔を出すのだ。
 それは野良ゆえの知恵なのかもしれない。もし容易に食事に在り付ける場所があれば、それを利用するのは、自然の中に生きる者ならば当然の発想だといえるだろう。あの猫は賢い。そして同時に、どうしようもなく幼い。
 天野は出来る限りそちらを見ないようにしながら、素早く食事を終える事にした。

・ ・ ・


 人生にはいくつかの転換期が訪れるというが、天野のそれは小学校卒業を間近にしたある寒い冬の日にやってきた。その日、彼女の祖母が亡くなったのだ。彼女は所謂『お婆ちゃんっ子』で、両親と我が家で過ごした記憶よりも、祖母の家で過ごした記憶の方が多かった。
 両親は晩婚で、彼女が自我に目覚める頃にはもう、祖母は七十近い年齢だった。身体が特別強いわけでもない祖母は、彼女が小学校高学年に上がる頃には、寝込む事も多くなっていた。だからいずれ、そう遠からず別れが訪れるだろう事は、誰の目にも明らかだった。
 それでも、天野はその結末を全く考えていなかった。死が理解できないほど幼かったわけでもなく、また愚かでもなかった彼女は、しかし、どうしても祖母との別れを考えることが出来なかった。毎日のように祖母の家を訪れ、それまでどおり、布団に横たわる祖母と色んな話をした。電源が切れたかのように静かに眠る祖母の隣で教わったあやとりを延々と繰り返した。元気なときは、一緒に散歩に出て、お菓子をねだった。
 子供らしい無茶もしたし我侭を言って困らせたこともある。けれど祖母は何時だって笑顔で、天野の頭を優しく撫でてくれた。そんな祖母の皺だらけの手が、天野は大好きだった。
 だから『唐突に』訪れたその別れに、彼女は呆然とした。人がそういった結末を迎える生き物であることは理解していたが、それでも愕然とした。そして、冷め切った祖母の遺体を前にして、彼女は泣いた。
 彼女は泣き続けた。何時までも何時までも。通夜が終わり、葬式が終わり、祖母の身体が灰となって青空へと舞い上がっても。それでも彼女は泣き止まなかった。周囲の大人たちはそんな彼女に、必要以上に近づかなかった。両親さえもそうだった。気を使ったのかもしれないし、あるいはいずれ泣き止むだろうと思っていたのかもしれない。
 だからそんな彼女に手を差し伸べたのは他の誰でもない、名も知らぬ一人の少年だった。彼は泣き続ける彼女の手を取ると、その手を牽いて歩き出した。混乱する天野は、だけど不思議とその手を振り払う事が出来なかった。
 少年に連れて来られたのは、地元の人から『ものみの丘』と呼ばれる場所だった。そこに二人、並んで座り、広がる町並みを眺める。
 その場所で少年が何を話したのか、あるいは何も話さなかったのか。それは覚えていない。ただただ、自分が泣き続けていた、その事実だけが頭に残っている。それから、そんな自分の傍に、泣き止むまでの長い長い時間、共に居てくれた少年の微笑と。
 それからというもの、彼女は少年と共に過ごした。少年は名乗らなかった。天野も自分からは名乗らず、二人はお互いに名前を呼び合うことは一度も無かった。また、少年は何処に住んでいるのかも、家族のことも、何一つ話さなかった。学校に通っている様子も無く、周囲の大人たちでさえ、少年が何処の誰なのか知らなかった。
 それでも、天野は気にしなかった。気にもならなかった。少年と一緒に居られれば、それだけで彼女は幸せだった。あるいは、それは淡い恋心だったのかもしれない。
 だけど、やがて―――それもまた、終わりの時を迎える。
 二人は何時も『ものみの丘』で会う約束をしていた。その頃の天野は学校が終われば家に帰ることも無く、毎日その足でそこへ向かっていた。だから彼女は、その日も丘へ登った。
 普段ならば、そこには先に彼が居て、天野のことを笑顔で迎えてくれた。時折天野のほうが先に来ることもあったが、それでも五分と待たされたことはなかった。だから彼女はなだらかな丘で生い茂る雑草が寂しげに揺れているのに気づいても、不審に思うことは無く、そこで彼がやってくるのを待った。
 五分、十分、二十分。時計を持っていなかった彼女にとって、長い長い時間が流れた。三十分、四十分、五十分。時折吹く風に草木が揺れ、その度に彼女は振り返った。一時間、二時間、三時間。やがて、遠い山の向こう側に太陽が沈み、世界が暗闇に包まれた。それに代わって、丘の下がまるで蛍の群れのように輝き始める。
 それでも彼女は待ち続けた。家に帰らなければという思いは確かにあったが、その場所を離れることが出来なかった。天野と少年は、ここで会う約束をしていた。そこには何の法的拘束力も無い、ただの子供の口約束であったが、それでも天野にとっては掛け替えの無い、ただ一つの『約束』だったのだ。
 だから彼女はそこで待ち続けた。やがて、暗い夜空から冷たい冷たい雨が降り始める。眼下に広がる蛍たちを覆い隠すカーテンのようなそれに全身を打たれながら、それでも彼女は動かなかった。頑なに、体の前に折り曲げた足を両手で包み込み、まるで開かれることの無かったプレゼントのように、寂しげに。
 約束、したのだ。二人だけの約束だった。大切な、大切な。全てを失ってしまった彼女にとって、それは唯一つの真実だった。それだけが彼女の現実だった。だから、彼女はそれが失われるはずなどないのだと、本気で信じていた。
 夜が明けて、それでも雨は止まなかった。冷たい雨はどこまでも暗く、世界を塗りつぶしていく。
 そのときになって、意を決したように天野は立ち上がった。全身の関節が、筋肉が軋んだけれど、痛くは無かった。ただただ不自由さだけを感じて、だから彼女は走り出した。焦燥をなぎ払うように速く。丘を駆け下り、まだ誰も目覚めては居ない街を走りぬけた。どこまでも、どこまでも。
 信じていた。それだけが、彼女の全てだった。日々は変わらず、何時までも一緒に居られるのだと、信じていた。この幸福は終わらないものなのだと。永遠なのだと。信じていた。信じていた。信じていた。

 ――――そんな事、あるはず無いのに。

 それでも、彼女は信じていたのだ。信じることしか、幼い彼女にできることはなかったから。全てを失ってしまった自分には、そうする以外に、そうであると願い続ける以外に、生きていられる理由がなかったから。まるで呼吸するように、彼女は彼女の希望を信じていたのだ。
 だからたぶん。
 自分はその時、死んだのだろう。
 天野は今でも、そう思う。

・ ・ ・


「天野さん」
 抑え込むような独特の女性の声に、天野は立ち止まった。
 食事を終えて、自分の教室へと帰るところだった。五時限目まで後十分程度。急ぐ必要は無いが、ゆっくりとしているだけの余裕も無い。そんな微妙な時間だ。やはり、弁当を用意しておくべきだったと彼女は反省する。こんな微妙な時間こそ、彼女が嫌うものだったからだ。なにせ彼女には、意味も価値もない戯言を語り合う友人が居ない。通常は空白の時間を読書で埋めているのだが、十分程度では少なすぎる。彼女はこれで、結構のめり込むタイプなのだ。
 だから、恐らくは教室にたどり着いたところで、何をするわけでもなく、ジッと時間が過ぎるのを待つだけだろう。それは苦行の時間だった。周囲から浮くことは必ずしも問題ではない。そういった事を気にする自分ではない。けれども、何もしない時間があることは、苦痛だった。何もしていないと、何かにのめりこんでいないと、自然と意識は自分の内側へと反転してしまう。
 そんなタイミングでかけられた声に、天野はしかし、やはり微妙な気持ちで振り返った。
 その先に居たのは案の定、担任だった。まだ大学を卒業して数年しか経っていない若い女性教諭は、そのスタイルの良さと男っぽい立ち振る舞いで、男子よりはむしろ女子から好評を得ていた。特に評判なのが、その長い髪だろう。緑の黒髪、烏の濡れ羽色、そんな表現に相応しい艶やかな長髪は、多くの女生徒とって羨望の象徴といえた。それは天野も例外ではない。鏡に映る自らの癖っ毛を見るたびに、その差を実感してしまう。
 そんな担任は、当然の事ながら多くの生徒たちに慕われていたが、しかし何故だか天野に良く声をかけてきた。クラスの中でハッキリとではないものの浮いている彼女を心配しているのかもしれない。年齢に見合った、熱血さだ。そんな担任の善意を僅かに鬱陶しく思いつつも、天野は彼女を邪険にする事が出来なかった。
 ただ、何故だか苦手だった。彼女の真っ直ぐな瞳を見ていると、天野は辛くなる。自分の、見たくない、汚い部分が見透かされている気がする。その一方で、羨ましくも感じている自分が居る。あるいは、自分もまたこうなりたいという理想の姿がそこに見受けられてしまう。
 矛盾する心情。相反する思い。
 故に、苦手。
「なんですか?」
 端的に、できる限り冷たい声を選ぶ。明確な拒絶を含むことで、自身の曖昧な心情を一つに纏め上げる。
 だが、そんな程度で引き下がってくれるような相手ではない。クラスメイトたちはそれで彼女との接触を諦めてくれたが、なぜかこの担任教諭だけには全く通じないのだ。
「進路希望調査が、まだ出てない」
 担任の言葉は、彼女と似て何時も端的だ。例えどれだけ沢山の子供たちに囲まれていたとしても、必要なことしか喋らない。新任の挨拶のとき、全校生徒の前で名前と「よろしく」としか言わなかったことからも、彼女の性格は十分に伺えるだろう。
 それでも、天野とは違い、決して排他的ではない。意味さえ通じればよいというような少ない言葉でも、冷たい印象はどこにもない。他人を退けるための言葉ではない。彼女はそのような言葉を持たない。少ない言葉で、その実、誰よりも思いを伝えてくる。これもまた一つの人格なのかと妙な感心をしてしまう。
「別に、三年生ではないのだから、本気でなくてもいい。将来、どういう人生を送りたいのか、そのビジョンを聞かせて欲しいだけ」
「わかってます……」
 苦々しい気持ちで、天野は答える。よりにもよって、何て話題だろうか。ほかの何かならば、この担任とでも平常を保てるというのに。
 進路。自分が、この先、何処へ向かうのかという指針。
 しかし、天野にはそれが無かった。ここに生きる自分には、夢など無い。自分の未来など、まるで見えない。
 かつては、それが見えていた時期もあった。祖母の前で新聞記者となり日本だけではなく世界を渡り歩き、事件事故を迅速かつ丁寧に伝える自分の未来像を語ったことがある。あの少年の前で、彼から聞かされた動物たちの非業な死を知り、動物を扱う医師になると宣誓したこともあった。
 けれども、そのどちらもが、ただの夢だった。覚めれば消えるだけの存在。目が覚めては忘れ去り、現実の中で劣化するだけの拙い希望だった。
 そしてそうであるが故に、叶わない。
 願いは、何一つ、成就されない。
 ほんの些細な、今現在の、ただ一緒に居たいという願いさえ冷酷に排除されるというのに、将来の自分、未来像なんて、何を願ったところで叶う道理がない。
 天野には未来なんて一つも無い。そこにある光を見ない。見たところで、望んだりなどしない。どうせそれは砂上の楼閣なのだから。近づくたびに劣化し、触れる頃には崩れているのだから。
 だから、進路希望なんて書けるわけがなかった。
「必要なら相談にものる」
 気遣いの音を持たない、気遣いの言葉。
「世の中には沢山の仕事がある。きっと、貴女に相応しいものが見つかる」
「大丈夫です。ちゃんと提出します」
 辛うじてそれだけ言う。いっそこのまま無視して走り去ってしまいたい衝動に駆られるのを無理やり抑え付けた心は、ギシギシと不協和音を奏でていた。これ以上の会話は自分に致命的な欠損を与えるだろう、そんな狂った予感が脳裏を過ぎる。
 だが、タイミングよく、それを遮る声があった。
「先生、ちょっと良いですか」
 後ろからやってきた男子生徒が、二人の会話に割り込んできたのだ。
 そのチャンスを天野は逃さず、「失礼します」と断りを入れ、止める間もなく立ち去った。数メートル歩き、隠れるように階段の踊り場へ曲がる。
 助かった、と息を吐く。
 その背中に、男子生徒の声が聞こえて、天野は立ち止まった。
 盗み聞くつもりはなく、しかし耳を欹てる。
『例の野良猫の件です』
 例のとわざわざことわるまでも無いだろうに。
 それは、学食に顔を出しているあの子猫の話だった。
『あの猫がどうかした?』
『どうしたもこうしたもありません』
 男子生徒の声には熱が入っている。そういえば、何処かで見たことがあると思っていたが、確か彼は生徒会長だ。やや独裁的な部分はあるが、実務能力には優れているし、何より他人のやりたがらないような事を率先してやる『お馬鹿さん』なので悪くない、というのが大体の評価である。今時、生徒会長なんてものになろうとするのは内申点稼ぎに熱心な連中だけだろうが、そういう意味で彼は『よくやってくれている』と言えるだろう。
 そんな生徒会長は、やはりいつもの熱心さで担任教諭に詰め寄る。
『食堂に野良猫が出入りしているなど、不衛生極まりない』
『別に調理場に入ってるわけじゃない』
『生徒の中には、猫に与えた物をそのまま口にしている者もいます』
『でも、まだ子猫だから』
『それは問題ではありません。優先されるべきは、生徒の安全と健康です』
 彼の論理は正しくもあり間違いでもあり、故に天野には何の興味も無いものだった。止めていた足を再び動かす。果敢に攻める生徒会長とヒラリヒラリと避ける担任教諭の問答は、放っておけばそのまま明日の朝まで続いていそうな状勢だったが、チャイムが鳴れば自ずと打ち切るだろう。そしてその頃には天野は教室にたどり着いていて、結果として担任から逃げることができる。
 だが、そんな天野を、再び生徒会長の言葉が押しとどめた。
『それに……この状況は、決してその猫のためにもならない』
(そうだ……)
 彼女は心の中で、何度も彼の言葉を反復する。それこそが、最大の問題なのだ。
 この状況は、決してその猫のためにならない。むしろ苦しみを増幅させるだけだ。
 多くの生徒たちはその事に気づけていない。突如として自分たちの領域に現れ、無条件に懐いてくる自らよりも弱い生物に、本能的に同情し、哀れみ、脊椎反射のごとく当たり前に優しさを与え、そうする事によって自身を満足させているだけで、その行為の本質に気づいていない。
 天野は知っている。天野は体感している。
 そんな優しさには、何処にも救いが無いのだと。
 学校がある日はいい。一人がダメでも、誰かが餌を与えてあげられるだろう。多くの人は、自分に影響を与えない限り、弱者には親切だ。彼らはその持て余している優しさを子猫に与えて満足するだろう。
 しかし、学校が休みだったら?
 日曜日。祝日。いずれ始まる冬休み。
 そうなれば、誰も学校へはやってこない。部活動がある者はやってくるかもしれないが、少なくとも学食は閉鎖される。
 けれど、猫にはそんな物、何の関係もない。
 当たり前のように学校に入ってきて、当たり前のように食堂へ向かう。
 しかしそこには、誰もいない閑散とした食堂があるだけ。
 優しかった誰かの姿はどこにもない。
 そんな風景を見て、猫は何を思うのだろう?
 優しくしてくれる誰かが不意に目の前から居なくなって、それで絶望せずに居られるだろうか。裏切られたと、思わないでいられるだろうか。
 そんなはずは無い。
 例えそこに何の約束もなかったとしても。毎日お昼にご飯をあげるという契約がなかったとしても。それでも、子猫にとってはそれが日常で、そしてそんな日常が壊れることはないと信じているのだから。
 しかし、そんな信頼は容易く裏切られ、信じる心はさび付き、目の前に広がる荒野のような現実に打ちのめされ、静かに静かに絶望する。
 だとしたら、最初から希望なんていらない。
 中途半端な優しさで誤解させられるくらいなら、初めから優しさなんて必要ない。
 そうすればあの子猫は―――人は、もっと強く生きられる。
 悲しみに暮れる事も、絶望に打ちひしがれる事も無くなる。
 人は、猫は、全ての生き物は、一人で立って歩いていかなければならないのだと、その条理を受け入れ、己の力のみで生きていかなければならないのだ。

 だから誰も――――

 救われては、いけない。




02/

 分かっていた事だった。
 分かっていたけれど、認めたくなかっただけだった。
 それを認めてしまえば、もう二度と戻れないような気がして。
 そのまま死んでしまうような気がして。
 だからずっと、こうして戦い続けてきた。
 剣を取り、見えない『敵』との死闘を繰り広げてきた。
 それが報われると、本気で期待していたわけじゃない。
 それは希望というにはあまりにも拙い、ただの未練だったのだ。
 だからその時も、舞は去っていく男の子の背中を、絶対に振り返ったりはしなかった。
 夜の校舎で出会い、ほんの僅かな時間傍に居てくれた彼は、しかしまたあの時のように去っていく。
 舞は、それを止めようとは思わなかった。そんな事、出来るはずもなかった。
 舞の手には何も無い。新しいおもちゃも、仲間に入れてもらう為のお菓子も無い。何も無い手のひらを差し出したところで、誰も興味を持ったりなどしない。
 だから彼が去っていくのは当然のことだった。
 それで良い―――舞は思う。
 もう、何も望んだりはしない。在りもしない救いを求めたりしない。奇跡を起こす力が誰かを幸せにする為に在るのではないのだと知ったかつてと同じように、ただ、静かに目を閉じて、夢を見る。
 未来に希望などありえないのなら、過去を夢見て生きていけば良い。
 思い出に縋って、死んでいけば良い。
 だから舞は今日もまた剣を握る。
 せめてそこだけは終わらないでいてくれる、思い出という檻の中で。
 
・ ・ ・ 

 朝、ガタガタと激しく揺れる窓の音で彼女は目を覚ました。
 暗い部屋の中、ベッドから身を起こす。いつも通りカーテンを開けると、窓の外は酷い有様だった。透明なはずのガラスには埋め尽くすほど雨粒がぶつかり、磨りガラスのように視界を遮っている。その向こうでは、庭木が風に煽られ今にも折れそうなほどに身体をくねらせていた。どおりで暗いわけだ。そこに太陽の輝きは全く見られない。
 そういえば昨夜の天気予報で嵐が来ると言っていたのを、彼女は思い出した。時期遅れの台風。異常気象が叫ばれている昨今では、さして驚くべき事ではない。大きな勢力を残したまま上陸するらしい台風は、この街にも多少の被害を残すかもしれないが、それは決して身近な出来事ではなく、むしろ多くの学生たちは、臨時休校を期待していたほどだった。
 天野は身体を起こし、服を着替えた。制服は選ばなかった。私服を着て、階下へ降りる。両親はすでに、こんな天気の中でも仕事に出ているらしく、薄暗いリビングには誰も居ない。だがそれも何時ものことで、天野は電気をつけると独りきりの集合スペースへ足を進めた。
 四つの椅子が置かれたテーブルには朝食が並べられている。書置きは無い。それが、彼女たちにとっての日常だからだ。
 テレビをつけると、即座に天気予報が画面に現れた。各地の天気の情報が伝えられているその画面は、赤い警報の印で埋め尽くされていた。いちいち連絡を取って確認するまでもなく、やはり学校は休みだろう。
 天野はそれを確認すると、用意された朝食に手を伸ばした。それらはすでに作られてから一時間以上が経過していて、冷え切っていた。サラダが冷えているのは全く問題ないし、トーストも我慢できない程ではない。ただ、メインであるウインナーとスクランブルエッグは、さすがに冷たいままでは手をつけられなかった。仕方なく、レンジに放り込む。
 程よく温まった皿を取り出し、ほかの誰も居ない部屋の中「いただきます」と儀式のように言って、料理を口に運ぶ。いつもどおり、味気のない食事だった。ただ栄養を補給するだけの作業。日々を消化する為だけに自分は生きているのだろうか。
 ふと、子猫のことを思い出した。何か大きな理由があったわけでもなく、ただなんとなくほんの偶然に、だけど当たり前に、その姿を思い浮かべていた。
 雨に打たれながら、呆然と誰も居ない食堂を見つめる猫。実際に見えているわけでもないのに、それは鮮明に子猫の姿を形作っていた。何故ならそれは、かつての彼女自身の姿だったのだから。
 居るはずのない人を探して街をさまよい続けた自分。もう何処にも居ないのだと頭の隅では分かっているのに、それでも探すのを止めてしまったら、本当に何もかも消え去ってしまうような気がして―――自分がそれを受け入れてしまったら、それで終わってしまうような気がして、ずっとずっと、疲れ果てて一歩も動けなくなるまで探し続けた自分。激しく打ちつける雨の中、もう失われてしまった温もりだけを抱きしめて泣いた自分。
 そんなかつての自分に、子猫の姿が重なる。
(……大丈夫。放っておいても、大丈夫)
 天野はそんな幻視を振り払うように首を振った。あの子猫だって一応は野良なのだ。嵐の恐ろしさを本能的に知っているはずである。まさかこんな日は安全な住処でジッとしているだろう。
 だけど―――食べ物はどうするのだろう?
 この雨は今日一日、夜中まで続くらしい。あの子猫に、自力で餌を入手する力が備わっていたとしても、それは晴れた日の、安全な街の中だけの話だろう。雨の中では、全ての生命は本来の性能を発揮できないものだ。
 ならば、ずっとずっと、我慢するのか。雨が止むのを待ち続けるのだろうか。自分の住処に、己だけの拠り所に佇み、ひっそりと、時が流れていくのを待ち続けるのだろうか。
 寒さに震えながら。
 風の音に怯えながら。
 身体中を覆う不自由さに包まれながら。
 待ち続けるのだろうか。

 あの日の、自分と同じように。

 そう思った瞬間、天野は立ち上がっていた。意識せず、身体が動いていた。
 玄関に立てかけてある傘を取り、家を飛び出す。その瞬間に、荒れ狂う風が彼女に襲い掛かってきた。玄関の庇は雨を防ぐ役割を果たせていない。その風に乗って雨は激しく横殴りに降っていた。
 数瞬躊躇い、天野は傘を戻した。こんな風では持っていたところで邪魔になるだけで何の役にも立たない。合羽でも有ればと思ったが、自分で買った記憶は無かったし、親が買ってきていたとして、何処に仕舞っているかは知らなかった。
 更に数瞬躊躇い、結局そのまま行くことにした。
 ビチャビチャと水溜りを靴が踏みつける。否、水溜りなどではない。それを水溜りと言うのならば、この街全てが水溜りの中にあるということになってしまう。ただでさえ大降りな上に、山に降った水まで流れ込み、川が溢れてしまったのだろう。街の排水機能では最早焼け石に水という程度の効果も無いようで、道の何処にもアスファルトの地面が直に見える部分は無かった。
 彼女は普段使っている川沿いの道を使うのを止め、遠回りすることにした。
 飽きることなく降り続ける雨粒は高い密度をもって天野を襲い、彼女の身体は瞬く間に濡れていない場所など無くなってしまった。服が身体に張り付き、風が吹くたびに彼女の熱を奪っていく。力強く踏みしめられた地面がそのお返しとばかりに舞い上がらせる飛沫が、真新しい靴下を瞬く間に濡らし、靴の中にまで染み込んだ水がどうしようもなく不快だった。
 それでも、彼女の足は止まらなかった。止められるはずもなかった。頭の中に、ただ「急がなければ」という命令が走る。
(……急いで、どうする?)
 自分の中に居るもう一人の冷静な自分が問いかけてくる。
 そんなのは決まっている。けれど、天野はそれに答えられない。回答はすでに用意されているのに、それを口にすることが出来ない。
 それは隠さなければならない答えではないはずなのに。
 それは偽らなければならない思いではないはずなのに。
 ただ一言。
『助けたい』
 そう口にすればいいだけなのに。
 なのに、彼女はそれを口には出さない。絶対に。
 だって、ほら。
(……助けて、どうする?)
 こんな風に聞き返されてしまったら、それで手詰まりだから。それでチェックメイトだ。天野には、それに答える術は無い。そんなもの、あるはずがない。それがあったのだとしたら、彼女はまた違った彼女になれていただろう。だからここに居る天野には、それに答えられない。
 助けて、それから、どうするのか。
 答えは無い。先など無い。未来のことなど分からないし、そこに希望を持たない。
 それでも彼女の足は止まらない。見知った、しかし慣れない道を駆け抜けていく。
 やがて辿り着いたのは校舎の裏側だった。そこは通常、生徒は使わず、車で出勤してくる教員の為の駐車スペースがあるだけだ。一部の部活動で帰りの遅れた生徒が、早い時間に閉まってしまう正門を避け、残業している教師たち用に鍵のかかっていないこちらを使用する事はあったが、帰宅部の天野にはまったく縁の無い場所だった。
 その鉄製の門は、開かれていた。学校は休校で学生は休業でも、教師たちは必ずしも休みというわけではないのだろう。今日の休みを確認するために掛かってくる電話を取るべく、誰かしらが出勤しているのが道理だ。
 実際、駐車スペースには黄色いニュービートルが停まっていた。飽きることなく降り続ける雨に包まれ灰色に染まる世界で、しかしその真新しい黄色は、異様に目立っている。それを見てなんとなく「可愛かったから」という言葉を思い出した。いったい誰が言った言葉だったか。天野は曖昧な記憶を手繰り寄せようとするが、上手くいかない。この車の持ち主が何故これを選んだのか聞かれて、そう答えたのを聞いたはずなのだけれど。
 しかし、天野はその疑問に執着することは無かった。すぐさま頭を切り替える。今優先しなければならないのは、職務熱心な教職員のことではない。
 第一の目的地は食堂だった。子猫の行き先になど、そう多くの候補を挙げられない。そこに居なかったとしたら、他は中庭か正門の近くか。出入り口は閉まっているだろうから、校舎の中でないことだけは確かだが、もし学校の敷地外だとしたら、それはもう天野にどうこうできるようなものではない。
 ともかく、急いで食堂へ向かおうとして、しかしその途中で弱弱しい声が聞こえたような気がして、彼女は立ち止まった。慌てて耳を澄ましてみるが、風と雨の音以外には何も聞こえない。空耳だったのかもしれない。幻聴だったのかもしれない。そも、自分はあの子猫の声をまともに聞いたことがなかったではないか。それなのに、分かるはずが無い。
 そう思いながら、だが、妙に気に掛かった。
 再び踏み出した足を止め、その声が聞こえた方向へ向かう。ちょうど、校舎の裏側から丘の方向に回る形だ。
 あの丘を目指して走った日々は遠い。
 その頃にあったはずの笑顔は凍りついたまま今も心の奥底に眠っている。
 まるでそれを追いかけるように、天野は走った。
 いいや、そうではない。
 雨水に体温を奪われ、いい加減、寒さの所為で手足の感覚が失われ始めている。視界が大きく揺れ鼓動が激しく打ち鳴らされていることから自分が走っているのだと認識できるだけで、ギシギシと軋む身体は半ば彼女の意思から離れ、どうしようもない不自由さを感じさせた。
 だから、そう。
 これは、あの日の続きなのだろう。
 天野はそう思う。
 大切なあの子の姿を探してさまよい続けた、あの日の繰り返しなのだ。

・ ・ ・


 たどり着いたのは焼却炉のある、敷地の最果てだった。掃除当番でゴミ捨てをする以外にやってくることの無い場所。やってきたところで、味気の無い古びた焼却炉がポツンと墓標のように建っているだけで、何の面白みも無い場所。だからそこは、普段から人気の無い、死んだ土地だった。
 けれど今。
 そこに、人が立っていた。
 まるで性質の悪い冗談のよう。
 その人物を見て、天野は呆然と呟いた。あのビートルを見た時点で、予測しておくべきだった。もっと深く、記憶を手繰り寄せておくべきだった。そうすれば、こんな場所で、こんな形で、出会うことも無かっただろうに。
 なのに、全ては今更だった。彼女はここに立ち、その女性もそこに立ち、そして天野は、その名前を呼んでしまっていたのだから。
「先生……。川澄、先生……?」
 どうして―――と混乱する。まさか自分以外に、こんな雨の中わざわざやってくる人が居るとは思わなかった。ましてそれが自分の担任教諭だなんて。
「どうして……?」
 再度、呟きが漏れ出す。その声に驚いた様子も無く、まだ若い担任教諭、川澄舞は振り返った。
「それは、こっちの台詞」
 川澄教諭はこんな風雨の中で、それでも普段と変わらない。女子生徒たちの羨望の的となっている長い黒髪は、激しく打ち付ける雨の中でも変わらず綺麗だ。傘をさすことなく悠然と立つ彼女の両腕は胸の前で交差され、その隙間にはちっぽけな毛玉が、まるで乳飲み子のように包まれている。その表情は、誰が見ても分かるくらいに安心しきっていた。
 あふれ出す苛立ちから、詰問するかのような口調で問う。
「その子、どうするんですか?」
「とりあえず……家に連れて帰る。これじゃあ、凍えてしまうから」
「……飼うんですか?」
 祈るような気持ちで、天野は続ける。
 彼女の担任は首を振った。
「家、ペット禁止だから。今日だけ特別」
 その言葉に、
(ほら、やっぱり……)
 心の中のもう一人の自分が自嘲するように呟いた。
 その瞬間、ゾクリと天野の身体が震えた。 
「そんな……そんなのダメです!」
 心の奥底から溢れ出してくるその感情に押し立てられるように、天野は叫んだ。自分だってそうしようとしていたはずなのに、目の前でそれをしている他人を見てしまうと、どうしようもなく抑えきれない感情が込み上げてくる。
 自分がやるはずだったことを他人にされてしまったことに。
 自分がやってはいけないと思っていたことをされてしまったことに。
 そして何より。
 自分と、そこに居る子猫との差に。
 それはただの八つ当たりだった。
 けれど、彼女にはそれを抑えることが出来なかった。
「そんな優しさは残酷で―――何処にも救いなんて無い!」
 抱き上げられた子猫。
 抱き上げられなかった自分。
 天野と舞の距離。
 そのどうしようもない、無限のような長さが、否応無く彼女の心を締め付ける。
 だが、その錯覚は天野だけのもの。彼女たちの距離が無限のように長いというのならば、川澄舞の視線は、世界を飛び越えるペガサスのようだった。
 ふっ、と。当然のように舞の瞳が天野を捉える。雨のカーテンでさえその輝きは隠せない。真っ直ぐにこちらを見つめてくるその瞳に、何故か恐ろしい気持ちになって、彼女は自然と目を逸らしていた。
 自分の愚かさを、見透かされているような気がした。いいや、そんなのは今更だ。担任の瞳を向けられるたびに、そう感じていたではないか。この女性は、若さゆえの熱血ではない何かで、自分を見つめているのだと、心のどこかで理解していたではないか。だから、避け続けていたのに。
 なのに、今この瞬間、彼女の瞳は天野を捕らえ、この場所には逃げ場が無い。
 心の扉が否応なしに開かれる。
 それはずっと、蓋をしてきた彼女の一番暗い部分。見たくない、聞きたくない。見られたくない。聞かれたくない。知りたくないし、知られなくない、自分の一番醜い本性。
 簡単な事だ。
 あまりにも簡単で、馬鹿馬鹿しくて、だがそれ故に、彼女がずっと曝け出すことを出来ずにいた感情。

 もし誰かが優しさで救われてしまったら―――

 その姿を見てしまったら――――
 
 救われなかった自分が赦せなくなるから。
 
 だから否定するしかなかった。どうしても認めるわけにはいかなかった。
 残酷な現実。
 失われていく全て。
 指の隙間から零れ落ちていく、何か。
 優しさは決して報われない。優しくした方が、優しくした自分に満足するだけで、優しくされた方には、それが終わってしまえば――夢から覚めてしまえば――何も残らない。優しくされた記憶だけを抱いて、それにすがって、死んでいくしかない。そこには一縷の望みも存在していない。

 だが、それは真実ではない。

 天野だって分かっていた。その程度のことが分かるくらいには、彼女は世界を知っていたのだから。
 彼女は知っていた。この世の中には救われない誰かが居るのと同じ理屈で、救われる誰かも確かに存在するのだという現実を。差し伸べられた手のひらを取って、けれどそれが失われることはなく、永遠のものとすることが出来る、その可能性を。
 世界は、悲しみばかりではない。痛みや苦しみばかりではない。それらが存在する限り、その対極としての幸福が確かに用意されているのだ。
 だけど、それを認めるわけにはいかなかった。
 それを認めてしまったら―――救われなかった自分はいったい何だったのか、分からなくなってしまうから。自分の隣に居た、自分と同じ条件を与えられた誰かが救われてしまったのだとしたら、そこにあった両者の違いは全て自分に返ってきてしまうから。
 だから、誰も救われてはいけない。
 この世に、優しさなんてあってはいけない。
 誰も、優しさで救われてはいけない。
 それが、彼女のアイデンティティだったのだ。
 もちろん、それを天野は認めない。認められるはずがない。こんなにも汚らわしい自分を、彼女は許すことができない。だから蓋をした。蓋をして厳重に鍵を掛けて心の奥底に隠しておいたのに。
 なのに―――川澄舞は、それを容易く見つけ出してしまった。
「例えその優しさが鎖となって私を殺しても」舞の謡うような声に、天野は顔を上げた。「例えいつの日か、その優しさが重荷になったとしても。愛情に依存して、死んでしまう時が来ても。きっと……きっと、誰かに優しくしてもられる自分を知らないままで生きていくのは悲しいから」
 優しい優しい声だった。
 天野に向けられる視線には、侮蔑も嘲笑も嫌悪も無い。
 同情も憐憫も不確かな共感も無い。
 まっすぐな瞳に込められていたのは、唯一つ。
 無制限な優しさではない無理解な厳しさではない、天野の心に響く、無条件の真摯な願いだった。
「誰かに、手を差し伸べてもらえるのだと。この世界には、絶望しかないわけじゃないんだと。優しさは、何時だってちゃんと降り注いでるんだと。知っていて欲しいから。辛いことばかりじゃないって。いつか夢の中で死んでしまったとしても、覚えていて欲しいから。ここに居る自分は、誰かに優しくしてもらえる自分なんだって忘れないで、胸を張って……そして、その優しさを何時か誰かにも還して上げて欲しいから。だから、貴女にも」
 そう言って舞は、佇む天野の身体を抱きしめた。
 間に挟まれる形となった子猫は少しだけ不満そうな声を上げたが、すぐにその温もりが心地よくなったのか全身の力を抜いた。だけど、本当にその温もりを求めていたのは、もしかしたら天野の方だったのかもしれない。
「信じて欲しい。忘れないで欲しい。いつか差し伸ばされた手の温もりを。そして何時の日かきっと、貴女も同じように誰かに手を差し伸べてあげて欲しい。貴女の優しさを必要とする誰かが、きっときっと、貴女の前に現われるから」
 不意に、何かが零れ落ちた。凍えた頬を溶かすように、温かい何かが滑り落ちていく。天野はそれを指で拭った。今にも消えそうな微かな温もりが、冷え切った指にジワリと染み込んでいく。
 そうして、天野は気づいた。
 いや、思い出したのかもしれない。
 染み込んだ温もりが呼び水にでもなったかのように、『それ』が溢れ出して来るのを感じる。感覚の失われた手の中から。軋む全身を通って、まるで新しい血液を手に入れたかのように、『それ』が満ちていく。
 思い出した。
 そう。自分は結局救われなかったけれど。大切な物は何一つこの手に残らなかったけれど。悲しくて、苦しくて、辛くて、何時までも泣き続けていたけれど。それでも―――『温もり』だけは、まだ残っている。
「確かに、優しさは時に残酷で、救いなんて無いかもしれないけれど。その全てがいずれは消え去っていく儚いものなのかもしれないけれど。それでも、優しくされた貴女が消えるわけじゃない」
「……」
「そして優しくされた記憶は、何時か誰かに優しくして上げられる自分を育てる糧になる」
「……」
「だから貴女は、貴女を恥じる必要なんてない。貴女は胸を張って生きて良い。だって貴女は、こんなにも優しい人になれたのだから」
「…………はい」
 雨の中に消えてしまいそうな小さな声で、それでも天野は頷いた。
 大好きだった祖母の手。
 大好きだった少年の手。
 その温もりは、繋がりあったこの手に、今も確かに残っている。
 優しくされた自分は―――その記憶は、今も確かに残っている。
 失ってなんか、いなかった。
 何もかも無くなってしまったと思っていたのに。
 自分は死んでしまったのだと思っていたのに。
 それらは全て間違いで、そして、この場所にたどり着くことの出来た天野は、あの時失われたはずのそれを、しっかりと、その身体の中で、大切に大切に、守り続けてきたのだ。
 まるで何かを赦されたような、そんな気持ちになって、天野はひたすら泣き続けた。

・ ・ ・


 翌日、天野は案の定風邪を引いた。
 そういえば、あの時も風邪を引いたように覚えている。大切なあの子を探し、走り続けたあの時。翌日になって風邪を引いて、でも傍には誰も居なくて、寂しくて悲しくて、でも涙は出なかった。流す為の涙さえも枯れ果てた心で、彼女は静かに絶望した。
 もう自分には、何もないのだと。
 かつては祖母が、昨日まではあの子が、握り締めていてくれた手のひらには何もなく、ただ失われた温もりだけが残っていた。
 その温もりの意味さえ知らず、ただただ絶望するしかなかった。
 だから、天野は泣いた。
 それまでの分を取り戻すように。
 凍り付いていた心の奥底から。
 その日、初めて、彼女は悲しいからではない涙を知った。
 夕方、まどろみの中で「お見舞いよ」という母親の声を聞いた。
 現れたのは川澄舞だった。
「先生……」
「お見舞い」
 笑顔を見せることの無い担任は、だけど優しい声で言う。
「あの猫は……?」
「元気」
「そうですか……」
 その短いやり取りだけで、彼女は安心した。
 今までなら考えられなかったことだ。
 誰かが救われて、それで安心するなんて。
 その事を、喜ばしく思えるなんて。
 あの子がこれから、どんな風に生きていくのか、それは分からない。
 自分の弱さに負けてしまうかもしれない。
 天野と同じ迷宮に閉ざされてしまうかもしれない。
 その中で、緩やかに衰弱し、死んでいくのかもしれない。
 けれど。
 あの子猫の中にもちゃんと、残ったはずだ。
 その、『温もり』が。
 別れ際、舞は彼女と手を合わせて言った。
「バトン、タッチ」
 その手のひらは少しだけ冷たかったけれど。
 そこから、何かが大切なものが移されたような気がした。
 そしてそれはきっと、彼女が、幼い日に誰かから送られたものなのだろう。 
 だから天野はそれをしっかりと抱きしめた。
 与えられた優しさを、暖め続けよう。
 次の誰かに手渡す、その時まで。






03/


「だって、舞は優しいから……」
 そう、泣き笑うように言ったのは、高校時代からずっと一緒に居る友人だった。彼女だけは、何故か何時も舞の傍にいた。何時も無愛想で、問題ばかり起こしていた自分の傍に、何故彼女のような人が居るのか、舞はずっと不思議に思っていた。だけどそれを聞くのは恐ろしくて、ずっと聞けなかった。
「舞が羨ましかったんだよ。だってそれは、『私』には無いものだったから」
 未だ聞き慣れないその呼称は、友人が自分の道を見つけた―――お別れの時が来た証だった。大学を卒業して、二人は別々の人生を歩んでいく。一緒に生きていく事は出来ない。それは悲しくて、辛くて、苦しい―――だけど何処か慣れきってしまった別離だった。
 だから最後に聞いておきたかったのだ。どうして彼女は、自分と共に居てくれたのかを。そして返ってきたのが、そんな答えだった。
「覚えてる? 私が始めて舞とお話した時の事。お腹の空いた野良犬に、舞は何も無い手を差し出していたんだよね。私はそれを見て、あぁ、この人は本当に優しい人なんだって、そう思ったんだよ」
 そうじゃない。舞は首を振った。あれは優しいからなんかじゃない。何も無い自分には、ただ、それしか出来なかっただけなのだ。野良犬を助けたのは自分ではなく、彼女なのだ。彼女の方が、ずっと優しかった。
「違うよ、舞。それしか出来なかった事が重要じゃなくて、何か与えられる物を持っている事が大切じゃなくて、ただ手を差し伸べた事が、何よりも素晴らしいことだったんだよ」
 友人は舞の手を宝物のように大切に、優しく握り締めながら、泣いていた。
「何も無い手のひらを、それでも差し伸べた舞は凄く凄く優しくて―――だから、あの時助けられたのは、あの犬じゃなくって、たぶん、私だったんだね」
 泣きながら、笑っていた。微笑んでいた。本当に、嬉しそうに。それは別れの場面には似つかわしくない、舞の知ることの無かった表情だった。
「ありがとう、舞。貴女に会えて、本当に良かった――――」
 そう言って、友人は去っていった。
 独り残された舞は、ポツンと立ち尽くしていた。
 自分の手のひらを見る。そこには何も無い。舞の手にはずっと昔から、何も乗せられていなかった。空っぽの掌。何も出来ない自分、その証。
 だけど―――何か重さのようなものを感じて、舞は身体を震わせた。
 慌てて、その感触を確かめるように二度三度握り締める。
 ジンワリと温かい何かが在る。形を持たず、けれども明確な記憶を持って、それは存在していた。
 間違いようもなかった。忘れるはずが無かった。だってそれは、幼いあの日、苦しみと悲しみに潰れてしまいそうだった自分に差し伸ばされた、あの少年の手の温もりだったのだから。
 その事に気づいて、止めようもなく涙が溢れ出した。
 ずっと何もないのだと思っていた手のひらにあった、こんなにも大切なもの。
 舞はその手のひらを抱きしめて、何時までも泣き続けた。
 悲しいからではない涙だった。




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