"光があの娘であるように"


 名雪の目の前に美坂栞が浮かんでいる。

 そしてあの日からもう十ヶ月ほどが過ぎた。のどかな住宅地の真ん中で、周りよりも少しだけおおきく見える一軒家で、そこには知らない人々がいっぱい訪れていて、みんな、みんな黒だったあの日。隣には祐一がいて、その向こうには北川君がいて、目の前には彼女のクラスメートたちがずらりと陣取っていて、そのもっと向こう、こちら向きに座って目の下に隈ができた顔で俯く両親とその隣でじっと顔を上げたままの香里がいて、みんな正座で、名雪は無力だったあの日。美坂家の次女、栞の葬式の日。あの式の後、煙突の下で灰になっていく妹を香里はどんな表情で見送ったのだろう。名雪は、今でもたまにそんなことを考える。
 ところで、名雪は幽霊というものの存在を信じていない。自分はロマンチストだから、宇宙人だろうが地底人だろうがネッシーだろうがタイムトラベラーだろうがいるならいるに越したことはないと思っている。そういうのをロマンチストと言うのかどうかはわからないけれど、とにかくそう思っている。
 だけど、幽霊の存在は信じていなかった。
 まず、単純に理屈で考えて幽霊なんてこの世にいるとは思えない。
 それに、幽霊が本当にいてもロマンチックだとは思わない。
 夜一人でいるときに出てくると嫌だから思わない。
 つまり、こわい。でてくんな。
 こわい。

 さて今、名雪の目の前に美坂栞が『浮かんでいる』。

「わーっ、おひさしぶりです名雪さんっ」
「……い」
「い?」
「──いーーーーーやぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーっっっっっっっっ!!!!!!!!!」

 そこいらの木々に積もる雪を全て振り落とす勢いで、夜の街に名雪の叫び声が響く。


 とりあえず川沿いの遊歩道だった。ベンチがあったので、そこに並んで座った。
「寒いですねー」
「……」
「三月ってこんな寒かったんですねー。やっぱり一年経ちゃあそんなの忘れますよね」
「……」
「綺麗な夜空ですねー」
「……」
「あれがオリオン座。ばーん(指鉄砲)。あれ、おうし座ってどのへんでしたっけ?」
「……」
「あのいくつもの星の光も、実際には何万年、何億年も前に放たれたものなんですよねー(胸の前で手を組みながら)」
「……」
「名雪さん、宇宙人って信じます?」
「……」
「名雪さん、幽霊って」「信じない」
「……」
「……」
「……おなかすきましたー」
「およめ……」
「はい?」
「もうわたし、およめいけないよ……」
 それはそれは悲壮な声だった。
「もうわたし、笑えないよ……」
 それはそれは、悲壮な表情だった。
 泣いていた。マジで。
 まあ確かに、相当デカい悲鳴だったが。道行く人にじろじろ見られてたが。何事かとカーテンの隙間から覗く御婦人とも目が合ったが。
「あの、なんというか、ごめんなさい。悪ふざけが過ぎました……」
 思わず神妙に謝罪する。ほんの冗談のつもりで浮いてみせたのだけど。ちなみに、ちゃっかり今は普通に座って普通に地面に足をつけていた。
 栞は名雪の肩をぽんぽんと叩く。
「まあまあ、アイスでも食べよ?」
「……うん」
 栞の脈絡や季節感を怒涛のようにスルーした提案に、鼻水すすって素直に頷く名雪だった。

 コンビニの灯、そこに群がる人々。
 まっすぐアイスを売るコーナーに向かい強制的にバニラを二つ手にした栞はレジに並んで、その後重大な問題に気がついて隣の名雪に気まずそうな視線をちらちらと向ける。
「すいません……その、お財布持ってます?」
 名雪のポケットに潜む小銭入れの中身が尊い犠牲となった。

 とりあえず公園のベンチだった。名雪は落ち込みまくっていて、栞は幽霊だった。
「アイスおいしいです」
「……寒いよ」
 名雪が呟く。そりゃそうだった。雪国の冬真っ盛りの午後八時。氷点下だ。
「かたいよー」
 硬かった。木べらじゃ到底攻略不可能かと思われるくらいに硬かった。
「なんでわたし、こんなことしてるのー」
「何か予定ありましたか?」
「えーと……散歩」
「こんな寒いのに」
「わたし、バカだから。バカは歩くのが好きなの。それに暇だったし」
「じゃー、付き合ってください」
「どうしよっかなー、寒いしなー」
 ふざけてそう言ってみせる名雪の姿を、栞は改めて眺める。ついこの前まで腰まであった長い髪はばっさり切られて肩ほどまでになっていて、後ろでちんまり二つに纏めてあった。
「……変わりましたねえ」
「幽霊は変わらないみたいだね」
 今隣にいる栞の姿は、一度だけ百花屋で会ったあの時と変わらなかった。服装こそ制服ではないが。
「こっちに降りるときにイメージした姿がこれでしたから。それより……そっか、だから名雪さんに会えたんだ」
「一人で納得しないでよー」
「ルールそのいち」
 指を一本立てて。
「家族や恋人など親しい人には姿が見えない」
「ふむ。それっぽい」
「随分印象が違ってたから、見た瞬間ちょっとだけ間があったんです。名雪さんだって気付くまで。多分そのおかげで今名雪さんに私の姿が見えてるんだと思います」
「でも、そんな偶然がないといけないくらいに親しかったっけ、わたしたち」
 二人、顔を見合わせる。
 栞がふにゃ、と笑う。名雪もにぱ、と笑い返す。
「きっと一度でも会ったことがある人はダメなんです」
「ふーん」
「ルールそのに」
 指二本。
「期限は24時間」
「今は?」
「残り約4時間。実は、頼みたい事があるんです。名雪さん」
「香里に会いたい?」
 一瞬、虚を突かれたような表情になる。
「……はい」
「……」
「ひとりじゃ、自分の家にも入れないんです」
 壁も通り抜けられない幽霊。
「ほんとに幽霊なの?」
「信じてくれないんですか?」
 どうだろう。
 けど、見た目はどこからどう見ても美坂栞そのものだし、さっきは確かにコンビニで買い物をしていたし、少なくとも自分の妄想ということはなさそうだけど、けれど栞ちゃんに似た容姿の子が栞ちゃんに扮して名雪を騙そうとしているとか、何の意味があるのかわからないけどそういう可能性だって、だいいち幽霊とかいきなり言われたって、
「困りました」
 栞はちょっとだけ、俯く。
 どうやって説明しようかと悩んでるようにも諦めきっているようにも見えるその横顔は、とても演技には見えない。
「まあ暇だし、手伝いくらい」
「あー待ってください。今ちゃんと納得していただける方法を考えてるところなんですっ」
 悩んでたらしい。
「いやだから別に、手伝うってば」
「ちゃんと納得していただいてからじゃないと仁義に反しますっ」
「なんの仁義なの……」
「幽霊の仁義です」
「もう、先行っちゃうよ」
 再び口に手をやってうーんうーんと考え込む栞を残して、名雪はベンチから立ち上がる。栞は考える。考える考える考える。
「あ、香里ー。今ちょっといい?」
「ってちょっと何やってんすかあんた」
「何って、携帯……あ、ごめん、でさあ、今から公園これる? カバの滑り台ある、そうそうローソンの向かいの」
「いやー!」
 きゃーきゃー言いながら伸びてくる栞の手をかわしつつ会話する名雪。もとより運動神経で栞に劣るはずがなかった。
「え、隣? 友達友達まーまーいーから今すぐ来てよーお願いねじゃーねー」
「あっ、あー……」
 プツッ。ツーツー。
「……」
「……」
「……えへ」
「……」
「……えっと……やっぱり、おこってる?」
「……」

 戦争だった。

「……」
「……」
「……なんで雪合戦……」
「……なんででしょう……」
「……ていうか、石を入れるのは、ダメだよ……」
「……ついカッとなって……」
「ジュネーブ協約違反だよ……」
「……今は、反省してます……」
 二人で地面にひっくり返って夜空を仰ぐ。
 まだ呼吸が収まらない。街はひどく静かだった。
「……名雪、あんたそんなとこで何やってんの?」
 まばらな星明りをぼんやりと眺める名雪の視界に、心底呆れような表情で見下ろしてくる親友の姿が被さった。
「……香里」
「はっきり言ってあんた、変質者にしか見えないんだけど」
「……黒」
「……」
 一歩後ずさりしてスカートを抑える香里。
 よっこらしょ、と起き上がって背中の雪をはたき落とす名雪。
「確かにこんな地面でダイノジになってたら、変態さんだね」
「いや、ていうか、雪投げてたじゃない。一人で」
「一人でって」
 そんな訳ないよ、と名雪は隣に目をやって、
 何がそんな訳ないのかわからない。
 全然まったく、本当に、わけがわからない。
 ただひとつだけ、自分はバカだと思った。
 栞はただ、香里のことをじっと見つめていた。
「どー見たって一人じゃない。何、幽霊でもいるの?」
 名雪の左右に視線を移す香里。その瞳を見る。栞は雪まみれの背中で駆け出した。
 香里の目は、まるで何も移していないように見えた。そんな親友へのよくわからない感情と自分への苛立ちがない交ぜになって、名雪にはただ一言叫んだあと栞の後を追いかけるために走り出すことしかできなかった。
「もう、香里のばか! あんぽんたん! ビッチ!」
 去り際に一瞬見えた表情は、ビッチに呆然としているように見えた、気がする。


 慌てて駆け出したものの、角をいくつも曲がらないうちに名雪は栞に追いつく。元々の足の速さが段違いだった上に、栞の方はといえば途中から明らかに速度を落としていた。
 そのまま隣に並んで、同じ速度で歩く。軽く呼吸を整えると、白い息が夜の住宅街に霧散していった。やがて赤信号で立ち止まって、二人の横を車の音が通り過ぎていく。
 わかって、たんですけどね。
 栞は明るささえ混じった声でそう呟く。こちらを向いて、少しだけはにかんで。
「……でも、やっぱり、なんでだろ」
 その表情が、翳る。
「ちょっとだけ、つらかったです」
 俯く。何か言わなきゃ、そう思う。すこし迷って、たぶんさ、なんて掠れた声を出す。
「見えなかったのはきっと、それだけ親しかったって事なんだよ」
 それが幽霊のルール。そんな何の確かさもない、栞がでっち上げた真っ赤な嘘かもしれない、そんなものに縋った。
 きっと今の自分は語るに堕ちていると思う。
「でも、お姉ちゃんなら、私のこと絶対見えるって、思ってました」
 栞は俯いたまま。
「見えない筈なのにそれでも無理矢理見えちゃうくらい、お姉ちゃんと私は特別だって思い込んでました」
 閑静な住宅街に、それでもなお言葉は消え入るようだった。
 静まる空気。頬に吹き付ける冷たい風。
 また。まただ。
 いつだってこんなシーンを見てきたような、そんな感覚。何もできずにいる自分。
「ごめんなさい、なんか……変なこと話しちゃって」
 結局、先に言葉を発したのは栞だった。
「ううん、いいよ。いくらでも聞く」
 その後に平然とこんなことを言ってのける自分。自己嫌悪に暗くなりそうになるのを、振り払う。
 笑顔で。
「なんなら頼みごとも聞いちゃう」
「頼みごと?」
「迷惑かけたお詫びに。ていうか、ごめんっ!」
 唐突に栞の方に向き直って、両手を合わせる。
「ほんとわたしバカで、全然何も考えてなくて、全然何も思いやれなくて、ふざけて軽はずみで……って今度は言い訳しちゃってるね、ほんとバカなんだ、ほんとにごめん」
「そんな、だから名雪さんは別に……第一、お姉ちゃんに会いたいって言ったのは私ですし」
「ダメ、お詫びの一つでもしなきゃ仁義に反するの」
「なんの仁義ですか……」
「わたしの仁義だよ」
「……もう、わかりました。じゃあ一つだけ……んー」
 結局折れた栞は、人差し指を唇に当てて考え込んだ。
 小さな息が規則正しくこぼれる。寒さに紅く染まった頬。視線はせわしなく動き回って、なかなか答えは返ってこなかった。
 なんとなく持て余し気味になった名雪は、視線を周りの景色に向ける。そしてふと思う。そういえば、香里と学校の外であったのも久しぶりだったと。
 実のところ名雪は、香里と最近疎遠気味になっていた。学年が上がって違うクラスになったから、とか言い訳にもならないものとは違うもっと別の理由がもちろんあって、そしてそれに今でも名雪はうまく向き合えずにいる。
 表面的な付き合いは今でも続いているけれど、でも。
 小学生のころ仲の良かった友達と、中学生になってなんとなく離れていくような。
 緩やかだけど決定的な何かが彼女との間に出来てしまったような。
 そんな感覚に。時折、ひどく立ち竦む。
「決めましたっ」
「ほぇ?」
「ほぇじゃないですー。頼みごと、決めました」
「あー」
 やっと我に帰る。
「もう、言っちゃいますよ。いいですか?」
「どうぞ」
「では」
 栞は人差し指を立てて。
「今夜は私に付き合ってください。デートです」
「で、でえと?」
「はい。あ、散歩とかだけでもおっけーですよ?」


 初めは本当に、駅前の街並みをただぶらぶらしていた。
 12月の商店街は時期が時期だけあってクリスマス一色に飾り付けられていて、人通りも心なしか多く感じる。
「わー、綺麗ですっ」
 栞は楽しそうに歩いているように見えたから、名雪もできるだけ色々なことを話す。住み慣れた街のあれこれを話のタネにすれば会話は自然に弾んだ。
 けど、歩道橋の上で道行く人や車道の喧騒を眼下に収めたときにふと立ち止まって、そのときの横顔に名雪はなぜか声をかけることができなかった。表情がひどく印象的だった。人々のざわめきや車の音、街灯にテールランプ、ささやかなネオン、そのときだけはいつもより街が賑やかになった気がした。
 気がつくと栞はいつの間にか歩道橋を下りたところで手を振っていた。その姿を見て、きっと彼女は本当に幽霊なんだろうなと唐突に理解した。
 後を追って並んだあとはまた歩いた。栞は懐かしそうなそぶりを幾度となく見せたけど、彼女が生きていた頃と今とで何かががらりと変わったわけでもない。コンビニが一つ増えたことと、商店街にある居酒屋の一つのチェーンが入れ替わったことと、ショッピングモールに入ってるワーナーマイカルの煽りを受けて今にも潰れそうだった映画館がついに店を畳んだことと、駅裏のあたりに新しいラブホテルが一つ建ったこと。それくらいだ。
「ぶっちゃけ、退屈じゃない?」
 そんな風に訊いてみると案の定、栞はてへへと苦笑して「ちょっと、そんな感じかもです」と言った。
 よって、彼女の知らないもう一つのブランニューをお見せすることにする。
「今、何か食べれるよね」
「実はもう、お腹ペコペコで歩けません」
「歩いてるけど」
「それはもちろん比喩ですから」
「ラーメン奢るよ」
「わ、嬉しいですっ」

 カラカラと音を立てて入口の引き戸を開く。店員の張り上げたらっしぇーという声と共に店内の熱気が体を包んだ。
「ほああ〜」
 栞はうめき声を上げながら両腕を縮こまらせる。寒い外から室内に入って、名雪の頬も少し火照っていた。店員にテーブルに案内されて、この店の売りだという醤油味のラーメンを2つ注文する。お冷を口に含んで一息つく。
「こんな店ができてたんですね」
「一応、有名なチェーン店らしいよ」
「ふーん」
「できた当時は学校でも妙に話題沸騰でみんな行ってて」
「ごくごく(水)」
「前に一回来て、結構おいしかったからまた来ようと思ってたんだよ」
「そのときも今頼んだのを注文したんですか?」
「うん」
「へー」
「……」
「……」
「……ラーメンこないね」
「……まだ3分くらいですよ」
「……」
「……ふふっ」
 突然小さく笑い出した栞に名雪はきょとんとする。
すぐに笑い終わったかと思ったら、コップに口をつけて、名雪の顔を見て、むせた。
「も、もう、なんなのー」
「ごめんなさい……なんか、可笑しい……」
「よくわからないけど、すごく失礼なことを言われた気がする……」
「それは誤解です……あはは」
「まだ笑ってるし……」
 ぐだぐだしてる間にラーメンは来た。
「むー」
 憤慨やるかたなしとばかりに割り箸を割ってまずは麺に取り掛かろうとする名雪に、ようやく収まったらしい栞が言う。
「大丈夫ですよ、幽霊は人を襲ったりしません」
 突飛な言葉にまたきょとんとする名雪。
「なんだか名雪さん、気を遣ってるみたいだったから」
 そう言って麺をすする。チャーシューを一口かじる。コップを傾けて、また麺をすする。たちのぼる白い湯気が栞の背中の壁に貼ってあるビールの広告のあたりで溶けて見えなくなる。
 そっか、気を遣ってたんだ、わたし。
「伸びますよ?」
「あ」
 慌てて麺に箸を伸ばす。それを見て栞はまた笑う。
「名雪さんて、面白いです」
「やっぱり失礼なこと言われてる……」
「そんなことないですよ。可愛いです」
「うー」
 そんな風に言葉を交わしながら時間は過ぎていった。麺をずるずるすすったりして、湯気がもやもやして、なんだか何もかもがあったかいから、名雪の心もほわほわした。
 スープを飲み干したら、色々なこともぜんぶ飲み込めていたらいいと思う。

 外に出たら、冷たい空気が火照った全身に心地よかった。けれど、少し時間が経てばまた寒い寒いと文句を言い出すのは間違いないので、とりあえずそうなる前に歩き出す。
「次、どうします?」
「どうしよっか」
 名雪に特に当てはなかった。カラオケとか、そういう手もなくはないけど。
「栞ちゃんは、どっかないの? 行っておきたい場所」
 一応時間制限がある身だということは忘れないでおく、っぽい言い回しをする。
「うーん、そういっても特には……あ」
「む」
「……お墓」
「おはか?」
「はい。私のお墓、見てみたいです」
「……」
「……場所分からないんですけど、名雪さんわかります? てか私にお墓あります?」
「……ある。ていうか、前に香里と行ったし」
 場所もわかるけど。
 考えてみる。ここからその場所まで、バスで行けば20分くらい。あの辺は人気がほとんどない場所だけど、今日の天気なら吹雪で半遭難なんてこともないだろう。
「でも今からだと帰りのバスがないんだよ〜」
「そ、そんなー」
「歩いたら相当かかるし、雪道しんどいし」
「そ、そこを何とかっ」
「場所教えるから一人で行けないの?」
「暗いし、寒いし、こわいですっ」
「帰って勉強しなきゃ……」
 一応受験生である。
「ああうー」
 栞涙目。
「うーん……」
 まあ、ここまできたらいっそ気分転換に徹しきるのも悪くはない気がする。多分。たまにはこういう日があってもいい。多分。
 問題はその気分転換が体力的に少し辛そうなことだけど。部活をやめてから随分体力も落ちた。それを少しだけでも防ごうとする意味もあっての散歩だったけど、その途中で栞に出会って、成り行きでこうなって。
「……じゃあさ、一つ条件付きね」
「行ってくれんるんですかっ」
「うん。道中は栞ちゃんの天国ツアーガイドってことで」
 なんか言葉の意味が少し違う気がするけど、きにしない。
「ううっ」
 たじろぐ栞。
「ダメ?」
「……守秘義務がー」
「(キラキラ)」
「えぅー」
「ちょっとだけ、ね?」
「……絶対、秘密ですよ?」
「わ、やったっ」


 かなりマシンガントークだった。

「なんか、楽しそうだよね」
「楽しいですよー、天国は」
「いいなー、わたしも死のっかな、なんてね」
「生きてても、おもしろくない?」
「おもしろくなくは、ないけど」
「けど?」
「……栞ちゃんは、どうだったの?」
「私? つまんなかったですよ」
「ふーん」
「辛かったし」
「へえ」
「で、死んだら馬鹿馬鹿しいくらい気楽な場所に放り込まれて、必死に生きてたのなんだったんだーって感じですよ。乙女のナイーブな心がぐっちゃんぐっちゃんになりました」
「……」
「アイス食べてたら、そのうち立ち直りましたけど」
「……じゃわたしも、イチゴサンデー食べればだいじょぶだね」
「5杯も食べればきっと立派な幽霊です」
「4400円かあ」
「無料ですよー。天国だから」
「えー。そんなありがたみのないイチゴサンデーなんておいしくないよ……きっと、それじゃ立ち直れない」
「じゃ、私がおごってあげます」
「いや、だから、タダなんじゃないの?」
「バイトしてお金ためて、それ店員さんに無理やり押し付けて買います」
「……バイトって……」
「一応金銭ていう概念はあるんですけど、なんか無意味ー、て感じで。で暇な人はバイトしてます。暇だから。そんでバイト中も暇そうにしてます。でも私、名雪さんのためならばりばり働きますよー」
「誘ってるの?」
「はい! ……え? あーっと……え?」
「やだ、冗談だよ」
「……」
「……冗談ですよ?」
「……そう、ゆう、つもりはないんですけど」
「……冗談……」
「……私、友達いないからなー」
「……そうなの?」
「だって、なんか合わないんですよ。天国の人たちってみんな考え方が古くさくて」
「まあ、ほとんどみんなお年寄りだからねえ」
「そのくせ見た目だけ若いんですよ。肉体年齢自由だから」
「わお」
「で、たまにほんとに若い子見かけても、なんか妙に暗かったり超ヤンキーだったり」
「なんか、あまり天国が楽しそうだと思えなくなってきたよ」
「うーん、まあでも、世間話とかはするし、それ以上深くは干渉しないけどそれって生きてたときとあまり変わらない気がするし、一人でいても割と楽しいし」
「んー」
「でも、それだけだと……やっぱりちょっと、寂しくなったり、するんです」
「で、この世に降りてきたりするんだ」
「……うん、まあ」
「わたしが死んだら、天国で友達になろうね」
「……いいんですか?」
「いいもなにもないよ」
「……はい」

「ぜったいだよ? わたし、死ぬまで覚えてるから」
「……」
「イチゴとバニラのアイス食べて、雪合戦しようね」
「……はい」

「……ありがとう」


 やがて運転手の声が目的のバス停の名前を告げる。押した『おります』ボタンが薄暗い車内にぼんやりと光る。
 停まったバスから降りると、そこは郊外のひどく人気のない場所だった。住宅街からもかなり離れているようだ。
 二車線の車道から一本、細い道が伸びていた。二人はその道を歩く。名雪の後に栞が続く。両脇には木々が立ち並んで暗く林のようになっていて、かと思えば大きい一軒家がひっそりと建っていたりする。
 程なくして、名雪が口を開く。
「ほら、着いた」
 目の前が少しだけ開けて、そこだけが少し空気が違う、そんな感覚。夜だから余計にそんなことを感じるのかもしれない。
「ここが、栞ちゃんのお墓です」

 灯りのない霊園内で美坂家と書かれた墓標を探すのは予想以上に大変だった。それほど広くない園内、周りの歩道に立ち並ぶ街灯の照明も強く、手には抜かりなく用意してきた懐中電灯もある。
 だが、肝心の名雪の記憶が曖昧だった。
「あれー、確かこの辺りだったはずなんだけどなー」
「もう、しっかりしてください」
「うー、ごめん」
 二手に分かれていたから距離は離れているけど、それほど大きな声を出さなくても会話ができた。この静けさなら。
 けれどやがてそれも途切れる。ここに着いてからせいぜい10分や15分といった程度なのに、場所と時間のせいかやけに長く感じた。ただ、黙々と探す。
 名雪は以前訪れたときの記憶を懸命に探りながら、これだという墓石の雪を手袋をした手で掃っていく。しかし、覗く文字は美でも坂でもない。
「あれー、おかしいなぁ……」
 独り言も口をつく。そもそも一度訪れただけで細かい墓標の位置まで覚えているものだろうか。自分の考えが甘かったのか。
 そう考えるとなんだかすごく大きなことのように感じられてくる。このまま永遠に見つからないのではないか。そんな考えさえよぎって、名雪は身を縮める。
 寒くて、ちょっとだけ、不安になる。
「……栞ちゃーん」
 暗闇に呼びかける。返事はない。
「栞ちゃん?」
 懐中電灯の明かりを移動させながら歩くと、すぐに彼女の後ろ姿は見つかった。ほっとして駆け寄る。
 彼女はじっと一つの墓標を見つめている。その様子で、名雪には想像がついた。視線の先の墓石に刻まれた文字が何なのか。
 少しだけ距離を置いてゆっくり隣に並んだときには、さくさくと雪を踏む音が園内に木霊している気がした。
「……ここ?」
「……はい」
 目の前の墓石には確かに、美坂家、そして栞の文字。
 名雪は改めて周りを見渡してみて、自分の記憶の頼りなさに苦笑する。今まで探していた場所はあまりにも見当違いだった。
 何よりここには、他にはない目印があった。初めにもう少し用心深く全体を見渡していれば、不思議と一つだけ雪が綺麗に掃われている墓標も、そこへ連なる足跡もすぐ気付けたかもしれなかったのに。
 それらの痕跡に、栞も目を奪われていた。
「……これは」
「うーん」
 探偵でもあるまいしはっきりしたことはわからないけど。この足跡は、形や歩幅から女性のものだと推測できます。そして昨日に雪が降ったばかりだから、犯人はおそらくこまめにここを訪れているのでしょう。以上から、おそらくあなたの家族、それも女性。母親か、もしくは姉の犯行だと思われます。
 そんな推理を、そっくりそのまま口にする。
「……」
 栞は黙って墓標に手を添える。その愛おしむような仕草から、名雪は目を逸らした。

 もう一つ。
 もう一つだけ、わかることがある。
 以前、香里が口にした言葉。その後の、少し口を滑らせすぎたという表情。今ならはっきりと思い出せた。
 ねえ、こんな冬の間にも何度もここに来ているんだよ。香里は。
 もしかしたら、彼女は最後まであなたの良い姉ではいられなかったかもしれないけど。
 この季節に何度もここを訪れるのは、香里だけなんだよ。
 でも、ごめんね。わたし、このことを栞ちゃんに話していいのかどうか、わからないんだ。
 そんなことさえ、わからないんだ。
 ごめんね。

「あ」
 突然の栞の声に、名雪は伏せた視線を上げる。その先では、しゃがみこんだ栞の懐中電灯が一点を注視するように動いている。
 それはやがて、細い花束を映した。綺麗に手入れのされた墓標に密やかに捧げられているそれは、ここに置かれてから間もないように見えた。その姿を捕らえた灯りは、そのまま動かない。
 辺りは雪の舞う音さえ聞こえそうな静寂に包まれる。
「この花……」
 そっと、栞が呟いた言葉。
 結局名雪がその意味を知ることはなかった。それでいいのだとも思う。栞には彼女の人生があって、それを自分が知るのはほんの少しだけ。地球の歴史を一年に喩えたときの人類の歩みのように、ほんのささやかに、彼女の人生に自分の姿がある。
 しばらくすると栞は立ち上がり、こちらを振り返って、言葉の代わりに笑顔を見せてくれた。泣き笑いのような、晴れやかな。わたしはきっとこの笑顔をずっと忘れない。それでいいんだと思った。
 そろそろ帰りましょっか、と栞は言った。うん、と名雪は笑顔。


「もう行き残した場所はない?」
「さっきまではいっぱいあったんですけど。でもなんだかもう、満足しちゃいました」
 少し深めに積もった雪道を両手を広げてスキップしながら、栞ははにかんだ。
「もう時間もないですしね」
「そういえば、あと何時間くらい残ってるの? 今は……げ、11時半」
「じゃーあと30分くらいです。今日の終わりあたりに」
「えー、それじゃ家まで間に合わないよ」
「いや、別にそのとき何処に居ようが問題はないんですが」
「あ、そっか」
「まあ、実際にどんな風に消えるのか、私も知らないんですけど」
「消えるの?」
「ちなみに、お見せできませんよ? トップシークレットですから」
「やっぱりかぁ」
「残念でしたー」
「で、消えるの?」
「こう、ぶわーって光に包まれて。それで星屑みたいな光が天に昇っていきます。私のイメージでは」
「綺麗」
「でしょ」


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