「な〜ゆ〜き〜」

 トントン、とドアを叩くが返事は無い。
いつも通りのお寝坊さんスタンダードエディションか、と思って部屋のドアノブに手をかけるが、ふとそこで違和感に気付いた。
 いつも鳴る盛大かつ多量な目覚ましの音が、今日は一つも鳴っていないのである。
「……名雪?」
 不審に思い恐る恐るドアを開けると、部屋の中に名雪の姿は影も形も無かった。



 今日は何かあったかな、と思いつつ階下へと向かう。
三年生になってようやく名雪も寝坊しなくなったかと思うと、名雪の成長が感じられるようで少し嬉しい。
 そのように朝から一人ニヤニヤしつつ階段を下りきると、突如足の裏の摩擦が消えた。
「ぬおっ」
 ツルッと音が聞こえそうな程豪快に滑りバランスを崩すが、あわや後頭部強打というところでなんとか階段の手すりをつかむ。
「チッ」
 舌打ちの音がした方を見ると、廊下の奥から真琴が顔を出している。
足元には油の水たまり。いや、油だまりか。
 誰が何を狙ってどうしたのかが手にとるようにわかる。
「ま〜こ〜と〜!」
 さっき名雪の部屋の前で口にした呼びかけとは、アクセントもニュアンスも違う。
だが当の真琴本人は、胸を張ってずんずんとこちら側に歩いてきた。
「何よ祐一」
 さも自分は何も悪いことをしていないと言うように頬を膨らます真琴。
「何よじゃないだろ何よじゃ! この油をばら撒いたのはお前だろ!
 俺はあわや後頭部強打で朝から至高の笑みを浮かべながら昇天するところだったじゃないか!」
「空も飛べて新聞にも載れてラッキーじゃないのよう」
「そんなラッキーがあるか!
 こんな間抜け顔で新聞に載ったらご近所どころか世間の笑い者だ!
 一躍有名になってアイドルへの勧誘で引っ張りだこになっちまう!」
「祐一なんかがアイドルになれるなら真琴だったら神様にだってなれるもん!」
「何だとっ! お前なんかどうせ疫病神どまりだ!
 やーいやーい疫病神!」
「あうー!! そんなの祐一だってもう既に貧乏神の化身みたいなもんじゃないのよう!
 昨日だって秋子さんが買ってきてくれてた五個入りの冷凍肉まんを『どうにも肉まん分が足りんな』とかわけのわかんないこと言って食べちゃったじゃないのよぅ!」
 おっとそういえば。確かに昨日そんなことがあった気がする。
となると真琴の復讐には正当性があるということか。いやはや食い物の恨みというのは恐ろしい。
「昨日はどうしても肉まん分が不足して倒れそうだったんだ。あれは仕方がない。
 どうしても肉まんの仇を討ちたいと言うのであれば、この俺が直々に相手をしてやることにしよう!」
 チョエアー、と片足を上げて迎撃のポーズを取る。
 だが真琴はそんな俺を前にして戦意を喪失したのか、一つ溜め息を吐いた。
「……はあ。
 ……まあでも、真琴は祐一と違って大人だからこのぐらいで許してあげるわ」
 ふふふん、と勝ち誇った笑みを浮かべつつ、真琴は食卓へと入っていった。
 一人残された俺は、真琴に子供扱いされたことに屈辱を覚えながらも、真琴もまた成長しているのかと感じて心が温かくなった。



 食卓へ入ると真琴が既に席に着き、食事を始めていた。
俺は台所に立っている秋子さんに「おはようございます」と挨拶すると、秋子さんもまた「おはようございます」と言って台所から出てきて食卓へと着いた。
「名雪ならもう朝御飯を済ませて、朝早くに学校へ行きましたよ。
 なんでも部活のことでいろいろあるとか」
 秋子さんは俺が聞く前に、名雪の朝の行動を説明してくれる。
「そうなんですか。これからもこうだと、俺も楽でいいんですけど」
 はは、と苦笑しながら言うと、秋子さんもまた笑ってくれた。
「そうそう、祐一さん。実はまた新……」
「ごちそうさまでした」
 秋子さんの言葉を遮る。
パンを口に詰め込み鞄を持って出来る限りのスピードで居間を出る。この間実に五秒。我ながら上出来だ。
 すまん真琴。犠牲は一人で充分だ。
真琴をスケープゴートとして食卓に残し、後ろを振り返らずに俺は一人、学校へと向かった。





 朝特有の冷たい空気が心地よい。
朝御飯に時間をかけなかったせいで始業時間まではまだ余裕があり、登校がてらに朝の散歩が楽しめそうだ。
 そんなファジーな気分を楽しんでいると、どこかで聞いた声が後ろから聞こえた。
「そこの人―――!!」
 この声。あれに間違いない。
俺はすぐさま後ろを振り向いた。
 そこには満面の笑みで、明らかに故意的にタックルを仕掛けようとする女の子が一人。
「どい―――!」
 俺は全身全霊の力を持って、飛び込んできた彼女の脇の下を掴む。
そしてそのままバックドロップの要領で後ろへと放り投げた。
「―――てぇぇぇぇぇ!!」 てぇぇぇ……! てぇぇ……! ぇぇ……  ……
 ドップラー効果が収まると同時に、ザッパーン!と水に大きな物が落ちる音が辺りに響く。
何かが川へ落ちたらしい。
「……おっともうこんな時間じゃないか! 早く学校に行かなきゃ遅刻だぞぉ!」
 俺は付けてもいない腕時計を見ながら少々棒読み口調でそう言い、どこからかする「うぐぅうぐぅ」という呻き声に気付かないよう細心の注意を払いつつ走り出した。





「……ふぅ」
 教室の椅子へと座り、一息つく。
「お、どうしたんだ相沢。朝から随分とお疲れじゃないか。その上早い」
 後ろの席から軽快な声で北川が話しかけてくる。
「俺は早くなんかない。人並みだ人並み」
「……ちょっと相沢くん。朝から下ネタとかやめてくれない?」
 俺と北川の男同士の内緒の会話に、香里が横からツッコミを入れてくる。
「落ち着いてくれ香里」
 ふぅ、と溜め息をつきながら香里の目を見る。
「この話題は下ネタだからと言って軽率に扱っちゃあ駄目だ。
 これは全男性が一度は思いを馳せる、永遠の悩みなんだ」
「「お前が落ち着け」」
 香里と北川、両方からのツッコミが入った。

「……ところで香里。名雪を知らないか?
 部活の用事で今日は早く来たって聞いたんだけど……」
 香里は「ええ」、と言って頷いた。
「あの子ならまだ後輩の指導にあたってるみたいよ」
 流石名雪。部活に対するその姿勢は、他の何に対する姿勢よりも真剣かもしれない。
「水瀬も大変だな。相沢とは大違いだ」
 笑いながら北川は言った。
「心外だな北川。
 百歩譲って俺に何も打ち込むことが無いにしろ、お前だって似たようなもんだろうが」
 しかし北川は俺の言葉に右手の人差し指を突き出し、「ちっちっち」と言いながら指を左右に振った。
「俺はお前と違って悩みの一つや二つはあるのさ」
「嘘付け」
「本当だって。例えば……」
 ふぅ、と大仰に溜め息をつき、北川は俺の目を真っ直ぐに見つめる。
「……実は俺、美坂とメールがしたくてさ……。
 携帯電話を買ったんだけど、美坂がメールアドレス教えてくれなくて……」
「そりゃあ酷いな。いくら北川でも、メールアドレスぐらいは教えてやってもいいんじゃないか香里。
 こいつは北川である前に一応クラスメイトだぞ」
「ちょっと待て相ざ……」
「ちょっと待って相沢くん。教えるも何も、北川くんが携帯買ったことすら私は知らなかったんだけど。
 っていうか本人の前でわざとらしく相談するとか止めてくれない?」
 香里は北川の俺への抗議を切り伏せ、自分の抗議の声を上げる。
「……だ、そうだ北川。それに対する弁明はあるか?」
「いや香里に直接聞いてもらうようにすれば手間が省けるかな、って」
「そっちじゃない」
「……ああ、俺が携帯持ってるの知らないってことか」
 北川は自分のポケットから携帯を取り出しながら言葉を続けた。
「そりゃあ言ってないからなぁ。
 だっていざ言って教えてもらえなかったらショックじゃん?」
 こいつの言動のおかしさには開いた口を塞ごうという気力さえも湧かない。
「……絶対教えないわ」
「ああごめん! そうじゃなくてそうじゃないんだ!
 これはつい出来心が俺の手を離れて暴走のあまり!」
 香里は溜め息を吐くと呆れたように口を開いた。
「……仕方ないわね……。
 ほら、アドレス教えて。私が送るから」
「おおお! ありがとう! ありがとうございます美坂様!」
 しぶしぶという態度を取りながらも、香里の口元は笑っている。
なんだか二人が微笑ましく見えた。

「……送信完了」
 北川がメールを送り終えると、香里の携帯電話が着メロを流しだす。
「はいおっけ」
 北川は早速香里のアドレスを登録しているようで、デレデレとした笑みを浮かべながら携帯をいじくっている。
うわ。美坂専用フォルダとか作ってるよこいつ。
 香里の携帯も何となく横から覗いて見ると、意外にも彼女も新しくアドレスフォルダを作っているようだった。
 もしかするとこのカップル、結構脈有りなのかもしれない。
 香里は北川一人だけが入っているフォルダに名前をつける。
あ、い。
な、に、ぬ。
変換ボタン。
 完成『犬』フォルダ。
俺は北川を想い、心の中でそっと涙を流す。
「……頑張れよ」
「え? お、おう!」
 俺の励ましに、北川は顔を少し赤らめながら笑顔でそう答えた。





 名雪も部活から帰ってきて、いつも通りに授業が始まり、そして昼になった。
俺は皆を連れ立って食堂に行こうとしたのだが、
「ごめん祐一」
「今日はちょっと」
「残念だが相沢」
 そう言って三人が三人共断るのだった。
しかも断るだけならまだしも、三人で連れ立って昼食としゃれ込んでやがる。
 何これ? いじめ? 村八分?
だが俺はこのくらいでへこたれない。
 彼らにも何か理由があるのだろう、と解釈して一人で昼食を取ることにした。
前だったら舞と佐祐理さんと三人で昼食を取るという手もあったのだが、残念ながら既に卒業し、今頃は遠い海のむこうにいる。
 ……と、そんなことを考えたら、もう一つの当てを思い出した。
あの頃と今では、違うことがもう一つあったんだった。



「栞!」
 中庭に来ると、思った通りに彼女がいた。
「祐一さん」
 栞はいつもの場所に座って、これまたいつも通りにアイスクリームを食べている。
俺は栞に断りも無しに隣に座ると、買ってきたパンの袋を開けた。
「なんだまたここでアイス食べてたのか?」
「アイスは全人類の王様です」
 栞は自慢するように言い切った。
わぁお。食べ物の王とかいう次元を超越して全人類の王とまで来たか。これにはおじさんもびっくりだ。
 ……ってそうじゃない。
「……そうじゃなくて、その……。
 ……友達とか、できないのか?」
「ああ……」
 栞は納得したように頷く。
「心配しなくても、ちゃんとお友達はできてますよ。
 でも中庭でアイスを食べるのに大切なお友達を付き合わせるなんて、お友達が可哀想じゃないですか」
「俺は可哀想じゃないんですね栞さん」
 俺の言葉にふふ、と笑みを浮かべる栞。
「祐一さんは自分から来てくれたんだから良いんです」
 えっへん、と栞は胸を張った。

「……懐かしいですね」
「え?」
 脈絡も無く栞が放った言葉の意味が理解できず、思わず聞き返す。
「こうして二人で食べるなんて、久しぶりじゃないですか」
「ああ、そういえば……」
 ふと昔を振り返る。
「あの時祐一さんと出会って、あゆさんとも、他の皆さんとも出会って」
 本当に、いろいろとあった。
「……お姉ちゃんとも仲直りできて、病気も治って、学校にも来れるようになって」
 目を閉じたまま栞は続ける。
「あの頃から考えたら、今はなんて幸せなんだろう、って思います」
 確かに。栞の身の上から考えれば、今の状況はまさに夢のような幸せだろう。
「まだまだ、だ」
「……え?」
「幸せになるのはまだまだこれからだ。
 まだ上昇中。これまで栞はいっぱい苦労してきたんだから、これからもっと幸せにならなきゃ割に合わないだろ?」
 栞は一瞬呆気に取られた後、笑顔を浮かべた。
「……はい!」

 俺がパンを食べ終わると、栞は俺の顔を見つめながら言った。
「私、祐一さんには感謝してます」
「……なんで?」
「祐一さんがいなかったら、私はここにいなかったと思うんです」
 それは、買い被り過ぎだろう。
「……そんなことない。
 栞は、栞の力で今ここにいるんだよ」
 「よっと」と掛け声を付けて立ち上がる。
「栞はさ、周りの人を元気にする力があるよ。
今までは運が悪くてそれが発揮されなかったかもしれないけど、栞のパワーは本物だ。
 栞みたいに可愛いくて線が細いくせに、夏はアイス、冬もアイス、エニタイムアイスみたいな奴を見たら誰だって自分も頑張らなきゃ、って思うさ」
 俺の言葉に栞は頬を赤く染めて、
「そんな事言う人嫌いです」
 なんて笑いながら言った。





 栞と別れて教室へ戻り、栞から分けてもらった元気で午後の授業を乗り切る。
今日は例の三人が冷たいので、掃除をサボって先に帰ることにした。ささやかなる復讐だ。その被害を被るのは主に罪も無いクラスメイトだが。
 下駄箱まで到着し、逃亡のスリルを味わいながら外靴を床に放り投げると、肩をポンポンと叩かれた。
「良いご身分ね」
「ひぅええぇぇ香里さぁあん!?」
 声が裏返ってしまう小心者の俺。
ぷるぷる。僕は悪い祐一じゃないよ。
「何ぶりっ子ポーズしてんの?」
 「気持ち悪い」、と俺の身振りを一言の元に切り捨て、香里は話を続けた。
「べつに咎めにきたわけじゃないんだから、そんなに怯えなくてもいいわよ」
 くすくす、と小悪魔のような笑みを浮かべる香里。
ここら辺は何か栞も共通するものがある。血は水よりも濃し、とかいうやつだ。
「ん。じゃあ何か用か?」
「まあね。
 名雪も北川くんも、悪気があってやってるわけじゃないから、気にしないであげて」
 ああ、なんだそんなことか。
「わかってるよ」
 そりゃあこっちに来てからそんなに長い付き合いがあるわけじゃないけど、あいつらがどんな人間かなんていうのはわかっているつもりだ。
「そう。ならいいわ」
 香里は満足したように何度か頷いた。
彼女が更に口を開こうとするが、そのとき彼女の声を遮る音が流れ出した。

 チャラララ、チャラララ、チャラララチャッチャッチャチャッチャチャーン♪

 香里は即座に携帯電話を取ると、「犬か」と一言呟いて舌打ちした。
何故に北川のテーマが世にも奇妙な物語なのだろうか。それほどまでに奇妙な存在ということか。
 香里はメールの内容も見ずに携帯電話を閉じると、スカートのポケットに入れながら話を続けた。
「それと、今日は商店街に近付かない方がいいわよ」
「なんで?」
「不幸になるわ」
 香里は眉をひそめながら不吉な予言を告げると、俺の返事も聞かずに校舎内へと戻っていった。
「なんなんだ……?」
 俺は疑問符を頭に浮かべながらも、玄関の外へと足を向けた。



 俺は夕暮れ前の商店街に居た。
人はやってはいけないと言われるとどうしてもやりたくなるものである。
どんな自爆スイッチでも、押してはいけないと言われただけで押してしまうのはなぜだろうか。
 俺はそんな人生の命題とも言えるべき崇高なる事象を頭の中で思索しながら、商店街をうろついていた。ただ単に『無目的に散策していた』とも言える。
 ほぼアトランダムに歩いていたはずなのに―――いや、だからこそか。俺は、奴と出会ってしまった。

 その視線は俺を射抜くように捕らえ、恨みの眼差しは不可視の重圧を俺にかける。
どこからともなく「うぐぅ」と聞こえてきそうな程の暗い影を背負ったその人影は、商店街の人通りの真ん中にいた。っていうか明らかにあそこだけオーラが違うんですけど。
 ゆっくりと一歩一歩静かに近づいてくるその姿は、いつもの可愛らしい姿から見られる天使のような印象が五百四十度ほど回転して、悪魔のような印象すらも見受けられる。怖いよう。
 俺は悪魔に己が命の安全を交渉すべく、先に仕掛けることにした。
「ど、どうしたんだ。随分とご機嫌ななめじゃないか」
「ゆ〜う〜い〜ち〜く〜〜〜〜ん…………!!」
 おうジーザス。その恨みの視線を僕に向けないでくれベイベー。
「どうしてそういうこと言えるかな!?
 朝にボクを川に突き落としておいてっ!!」
 きぃー、とその場で地団駄を踏むあゆ。
「ちょっと待ってくれあゆ。あれは突き落としたんじゃない。受け流したんだ」
「そういうことじゃないよっ!
 びしょ濡れだよ! 冷たいよ! 気持ち悪いよ!」
 ギャーギャーとあゆが喚くが、俺にあの状況で一体どんな対応を求めるのだろうか。
「どいて」と言う割によけたらよけたで文句を言われる。ならばああするしかなかったじゃないか。
 ……まあ、まさかそのまま川に跳びこんでいくとは思わなかったが。
そう思うと俺にも幾ばくかの非があるような気がしてくる。
「……しょうがない。あゆ、鯛焼きを食いに行こう」
「そんなことで許すと……!」
「俺の奢りで食べ放題」
「早く行こう祐一くんっ!」
 俺はあゆを手なずけて、鯛焼き屋へと向かった。



「また来てねー!」
 鯛焼き屋のおやっさんが愛想の良い笑みで送り出してくれた。
俺の財布の中は東京大空襲の後のように閑散としていて、その原因となった爆撃機は俺の前でうぐぅうぐぅと鯛焼きを頬張りながら歩いている。
 さっきまでの絶望に囚われた自縛霊のような雰囲気はどこへやら。今はもう幸せ光線をそこかしこに放ちまくっている。
「美味いか! 美味いだろう! 他人の金で食う鯛焼きはさぞ美味いだろうさ!」
「うん!」
 俺の呪いの言葉もなんのその。全く気にせずに幸せ光線を乱射し続けるあゆ。
 一方の俺はしくしくと泣きながらおすそ分けしてもらったあゆの鯛焼きを食べる。
俺にくれるぐらいなら買わないでくれ。
 あゆから分けてもらった鯛焼きは、塩辛い涙の味がした。
「元気が無いねぇ祐一くん。
 鯛焼きのあんこに含まれるポリフェノールや食物繊維、鉄分とかの成分は体を健康にしてくれるんだよ! 祐一くんも鯛焼きを食べて元気になろう!」
 ガッツポーズを取るあゆ。元気が無い原因の張本人に言われたくは無い。
「……そんな知識いったいどこから」
「この前みのさんが言ってたよ!」
「学校でも行け」
「うぐぅ」
 呻きながら鯛焼きを口に運ぶあゆ。
既に三尾は平らげたようだが、それでもまだまだ鯛焼きの残りはある。
「……そういえば、祐一くん」
「……ん?」
 塩焼き風味の鯛焼きを咀嚼しながら、あゆに聞き返す。
「この前、『ふたりだけの学校』に行ってみたんだ」
 ……ああ。あそこか。
ふたりだけの思い出の場所。昔は天高くそびえていた大木は、今は見る影もない切り株に姿を変えているはずだ。
「……そしたらね、あそこに」
 あゆは口の中に残っていた鯛焼きを飲み込む。
「新しい芽が出てたんだよ」
 あゆは嬉しそうにそう言った。
「芽……か」
 人の世は常に移り変わるとは誰の言葉だったか。
盛者必衰とは言うものの、逆もまた然り。
 俺達の思い出の中にあったふたりだけの学校は切り株となってしまったが、その切り株からはまた芽が出始めている。
 俺の周りは不幸が底を打ったかのように、良い方向へと日々進んでいるようだった。
「今度一緒に見に行こうね」
 はしゃいで次の鯛焼きを手に取るあゆ。
「幸せそうだな」
 鯛焼きを手に持って、ふたりだけの学校についてあゆは語る。その姿は本当に嬉しそうで、その顔から不安などは感じられない。
 あゆはきょとんとした顔で俺に聞き返した。
「……祐一くんは、幸せじゃないの?」
 さも幸せであるのが当然、と言ったような口調。
俺は言葉に詰まった。
 不安は無い。周りへの不満も無い。
だが、逆に言えば俺には何も無かった。
「…………」
 俺はあゆの問いに答えないまま、鯛焼きの尻尾を口に放り込んだ。



 無言のまま商店街を歩いていると、少し向こうに見知った人影達を見付ける。
あゆも時を同じくしてそれに気付いたようで、笑顔を浮かべて声を上げた。
「名雪さーん!!」
 うぐぐぐぐぅと意味不明な効果音を鳴らしながらその人影の一つに駆け出すあゆ。
今の効果音はどこから出たのか不思議でしょうがないが、ここはあえて気にしないことにする。
「あゆちゃん!」
 一方の名雪もあゆの呼びかけに答えながら、飛び込んできたあゆをがっしりと受け止める。
強く抱きしめあうその姿は本物の姉妹よりも姉妹らしい。
 本物の妹を持つ香里も思うことは同じようで、二人を見ながら何か思い悩んでいる。
ただ単に二人の迫力に気圧されただけかもしれないが。
「なゆ×あゆかしら……」
 違ったようだ。
 俺はそのセリフを聞かなかったことにして、北川達へと話しかけた。
「よう。三人ともこんなとこで何して……」
 俺が言い終わる間もなく、三人は三人揃って顔に嫌悪の感情を浮かべる。北川にいたっては、「げっ」という声まであげやがった。
「…………てもいいよな。うん」
 俺が何か嫌われることをしたのだろうか。ちょっと涙が出た。
「……もう。相沢くん。
 『商店街には近付かないように』って言ったじゃない」
 その親切な忠告を無視した結果が俺の現在の財布の惨状というわけだ。
そして先ほどの三人の視線。これは美坂大預言者様の言う事を聞いておくべきだったか。
 俺達のやりとりに疑問符を頭上に浮かべていたあゆが、上目遣いで名雪を見て言った。
「名雪さん達、何してるの?」
「それはね、秘密だよー」
 名雪は秋子さんのような笑顔浮かべながら、言葉を続ける。
「あゆちゃんも一緒に来る?」
 あゆは「うぐぅ?」と首を傾げるが、名雪はその手を取ったまま問答無用で歩き始める。
「行こう行こう!」
「……じゃ、そういうことで相沢くん」
「事故ったりするなよ」
 「じゃ」と手をあげて名雪の後へ続く香里と北川。
あゆは「うぐぅ〜〜〜〜」と呻きながら、名雪に引きずられていった。
「なんなんだ……」
 あゆ以上に疑問符を頭に浮かべ、俺はその場に取り残されたのだった。



 仕方ないので帰ろうと思い、既に薄暗くなった商店街を歩く。
俺が来たときから考えれば様々な変化がこの街には起こったが、大きく変わったことは無い。
 俺にとっての一番の変化と言えば、舞と佐祐理さんがこの街からいなくなったことだろう。
 二人が海の向こうへと行ってから時々、二人に無性に会いたくなるときがある。
今日のように心も財布の中も孤独な日は尚更だ。
 財布の中には千円すら無く、後何日やっていけるか不安である。
その思いとは裏腹に、無情にも空腹感は体を支配していく。
「腹減ったなぁ……」
 昨日食べてしまった肉まんへの恨みが効いてきたのだろうか。鯛焼きの分はどこかへ消し飛んでしまった。
なんて恐るべし真琴の怨念。これは安倍泰親か玄翁和尚でも連れて来なくてはいけないかもしれない。
 それよりも今はこの空腹感への対処療法が先である。
「北川でもいれば奢らせるのに……」
 そんなことを呟きながらファーストフードにでも行こうかと思っていると、視界の隅に見知った二人組みの影が見えた。
「え……!?」
 思わず驚きの声をあげ、呆然と立ち尽くす。
「―――舞! 佐祐理さん!」
 彼女達の名を呼ぶが、その声も空しく二人の後ろ姿は曲がり角の奥に消える。
見間違いかとも思うが、そうだとしても確かめてみずにはいられなかった。
 俺は出来る限りの速度で走り出し、その曲がり角を曲がる。
だがそこに既に二人の姿は無くなっていた。
「……見間違い……だよな……」
 息もきれぎれに、周囲を見渡す。
一つ、書店が目に留まった。
「…………」
 見間違いだと自分に言い聞かせながらも、俺はそこへと入っていった。

 真琴だ。
立ち読みしている。
 俺の期待した二人の姿は微塵も無く、そこに居たのは今しがた俺に怨念を送っていたであろう肉まんフェチの姿だった。
 俺は内心少しがっかりしながらも真琴に声をかけようと近付く。
だが真後ろに来ても真琴は気付かない。
 面白いのでそのまま放っておいて、真琴を観察してみることにした。
 真琴が読んでいるのは、少年誌で絶賛連載中の冒険漫画だ。俺も読んだことがある、いつか揃えようと思っていた熱い漫画だ。
 たしか揃えようとしていたのは真琴にも言ったことがあるはずなので、その影響で読んでいるのかもしれない。
 真琴は非常に熱心に読んでいて、いったいどこの話を読んでいるのかと思い、背表紙を見てみることにした。
 三十四巻。かなり後半の方だ。
もしかすると朝から読んでいたのかもしれない。
 俺が面白いと言った漫画をここまで読みふけってくれるというのは、なんだかとても嬉しい。俺と真琴はこの漫画の素晴らしさを共有することができたのである。
 俺はその思いを胸にしまいながら「今日の朝の恨み」と心の中で言って、そこに一冊しかない三十五巻を手にとってレジへと向かった。



 俺は本屋を出てから近くのコンビニに寄って最後の貨幣を使い軽い菓子を買い、それをつまみながら帰宅することにした。
 今頃真琴は「あうー! 続きが無いー!」と本屋で騒いでいることだろう。そして帰ったら俺が買った三十五巻を見せてやることによって、真琴は俺へと感謝する。復讐できる上に株を上げるという素晴らしい完全犯罪である。
 俺が自らの完璧な悪っぷりに陶酔していると、何時の間にか水瀬家へと到着した。
だがその家には明かりが一つも点っていない。誰もいないのだろうか。
「ただいまー」
 独り言とはわかっていつつも挨拶をし、靴を脱ぎ居間へと向かう。
 今はこの家に一人。独りだ。
 あゆは俺に幸せじゃないのかと尋ねた。
だが俺は―――。

 パンッ!
破裂音が響いた。

「え―――?」

 居間に電気が点く。

「「ハッピーバースデー!」」

 破裂音が続々と鳴り響いた。
「お帰りなさい」
 笑顔で秋子さんが迎えてくれる。
「祐一くん! お誕生日おめでとう!」
 あゆが笑顔で祝ってくれる。
 俺は間抜けに開いたままの口を閉じることすらもせずに、呆気にとられていた。
「今日はごめんね、祐一」
 てへ、と舌を出して謝る名雪。
 ああ、そっか。そうだったのか。

 名雪と香里と北川がよそよそしかったのも。

 あゆが無闇にはしゃいでたのも。

 栞がセンチメンタルだったのも。

 真琴がやけに寛大だったのも。

―――全ては、この所為。

「―――祐一、これ」
「ま、舞!?」
 そう。居た。
舞と佐祐理さんが。
 その服装は先ほど商店街で見た服装と同じ。
やはり、あれは舞と佐祐理さんだったのか。
「あははー。祐一さん驚いてます?」
 悪戯が成功した子供のように佐祐理さんは笑った。
俺は頭をかきながら舞が差し出した箱を受け取る。
「開けていいのか?」
 舞は少し顔を赤らめつつもコクリと頷く。
 俺はシックな色をした箱のリボンを取って蓋を開けた。
「すげぇ……」
 そこにあったのは一つの銀細工のペンダント。
剣を題材にしたデザインに、細かな装飾がなされている。とても高そうだ。
「―――作った」
 舞はポツリとそう言った。
「こ、これ舞が作ったのか!?」
 俺が驚きの声をあげると、舞は佐祐理さんの方を見る。
「……佐祐理も少し手伝いましたけど、ほとんど舞が自分で作ったんですよ」
 いつも通りの笑顔で佐祐理さんはそう言った。
「舞が、祐一さんに作るんだからかっこいいものじゃないといけない、って」
 佐祐理さんがそう言うと、舞はつかつかと佐祐理さんのもとへ歩いていき、軽い手刀を放つ。
いつも通りの舞と佐祐理さんに、少し頬が緩んだ。

「はいはい! 祐一くん! 次はボクのを開けて!」
 あゆは持っている鞄からいかにもプレゼントが入っているような包装紙に包まれた箱を取り出し、俺へと差し出す。
「わかった」
 一言そう言ってからリボンをほどき箱を開けると、そこにあったのはマフラーのようなものだった。
「これは……マフラーか?」
「うん!」
 てへへ、とばつが悪そうに頭に手を乗せるあゆ。
「ちょっと不恰好だけど、頑張って編んだんだ」
 俺はそれを手にとってみる。
あゆの愛情がこもった手編みのマフラーはとても暖かく…………ない。
「……なんかこれ、湿ってるぞ……」
 あゆは「うぐぅ」と頬を少し膨らまし、恨みがましい目線でこちらを見る。
「それは朝に祐一くんが……」
 ……ああそうか。あの時も持っていたのか。
「……ごめんな、あゆ」
 そういえばまだ、謝っていなかった。
「俺の為に用意してくれたのに、それを……」
 本当に申し訳なかった。あゆを投げ飛ばしたときにスカッとしてた俺を誰かどつき倒してくれ。
「も、もう良いよ……」
 あゆは顔を赤くしながら、
「受け取ってくれるだけで充分だよ」
 笑顔でそう言ってくれた。

 俺があゆの慈悲深さの余韻に浸っていると、真琴が茶色の紙袋を突き出した。
「これ……」
 自信無さげにこちらを覗き見る。
今の俺はとても心が広い。例えそれが毒薬が入った板チョコだろうが笑顔のまま湯煎しておいしく召し上がってやろう。
 俺は真琴から受け取った平べったい袋を開けた。
「これは……」
 漫画だ。真琴が書店で読んでいた漫画。
「これ、祐一が欲しがってたし、さっき買ってたから……」
 そう、真琴が俺にくれたのは、さっきの漫画の三十六巻だった。
俺が意地悪の為に三十五巻を買ったのを真琴は見ていて、その続きである三十六巻を買ってきてくれたのである。
 俺は真琴を陥れることばかりを考えていたのに、真琴は俺のことだけを思って買ってきてくれたのである。
 値段もかかっていないし、手間がかかっているわけでも無い事を真琴は恥じているのだろう。だがそんなことは関係なく、真琴の想いに俺の心はいっぱいになった。
 重ね重ね自分の器の小ささを呪いたくなる。
三十五巻の単行本を買いながら、それを餌にどう真琴をからかおうか考えていた俺を、誰か市中引き回しの上張り付けにしてきてくれ。
 俺は感極まって真琴をひしっと抱きしめる。
真琴は「ひゃぅっ」と驚きの声をあげた後、
「あうー……」
 と俺の腕の中で丸くなった。

 真琴を放すと、名雪が「うー」とジト目でこちらを睨んできていた。
「ぶ、無礼講」
 と一言弁明すると、
「了承」
 横から秋子さんが笑顔でそう言ってくれた。うんおっけー。
 名雪もなぜかそれで納得し、自分のプレゼントを俺に差し出した。
 瓶。
 ビンである。ジャムが入っていそうな。というか水瀬家特有のジャムinビンである。
嫌な予感。これってそういうオチなのか?
「祐一、食べてみて?」
 死亡フラグ発生。
俺はおそるおそるビンを開ける。
 ジャムだ。間違いなくジャムである。
それは人の生き血を啜って出来たかのような真っ赤な色をし、獲物を誘き寄せるような甘い匂いを放っている。
 とめどなく汗は流れ、ジャムをすくおうとする指は震え、その味を口に入れる前から舌が拒否するように味覚は麻痺する。
 心臓の鼓動は早鐘を打つようで、息は荒く今にでも倒れそ……!
「早くー」
 名雪が催促する。
 俺は覚悟を決め、指で致死量は超えないよう細心の注意を払いながらジャムをすくい口に入れた。
「……あ、美味い……」
 イチゴジャムだ。甘すぎず、酸味が効いていて実においしい。
「祐一甘いの嫌いでしょ? だから……」
 名雪お手製の、俺専用ジャム。
再び指ですくって口に入れる。
「美味い」
「もう、祐一ったら」
 名雪が嬉しそうに笑う。
「ああ、じっくりと食べないと駄目だよな」
 俺も笑って返した。

 次は栞が前に出る。
「祐一さん、これ……」
 栞が差し出したのは、一枚の絵だった。
その絵に描かれているのは肌色の何か。
 慌てて香里の方を見る。
香里の口元は、じ・ぶ・ん・の・か・お、と動く。
「あ、ああこれは栞の自画像だな! そうか部屋に一枚栞の絵が欲しかったんだよ!」
 栞は今まで見た事が無いような凄まじい形相をした。
 俺は慌てて香里を見ると、今度は俺を指差してくる。
なるほど、つまりは俺の肖像画だと言う事か。
「じょ、冗談だよ栞! これは俺だろう!?」
 栞はやっといつもの笑顔に戻る。
「そんな冗談言う人、嫌いです」
 少し顔を赤らめながら、栞はそう言った。
「ははは、似てる似てる」
 俺は笑いながら言う。
「……肌の色とかね」
 最後に小声でそう付け加えた。

 次は秋子さんのプレゼント。
ああジャムだろうか。それともジャムだろうか。
 そう心の中で思いながら箱を開けると、一枚の紙が入っていた。
「はい、差し上げます」
 上には結婚届と書かれている。
「え!? これって秋子さん、でも俺は年の差なんて全然気にしな」
 俺の言葉を遮って秋子さんが紙の真ん中辺りを指差す。
そこには『水瀬名雪』と書かれていた。
「うわあこれもらっちゃっていいんですか」
「了承」
「ははは、秋子さんも冗談が上手いや」
 できるだけ無邪気に俺はそう言ったが、秋子さんのいつもの笑顔の奥はいつもよりも真剣な眼差しをしているような気がしてならなかった。

 次は佐祐理さんのプレゼントを開ける。
箱を開けるとまたもや紙。
「うわぁ嬉しい……って土地権利証!?」
「舞のを手伝っていたら時間が無くて」
「ちょっとこれ受け取っちゃまずいと思います」
 俺は箱に入れなおして佐祐理さんに返そうとしたが、佐祐理さんは受け取ってくれなかった。

 次は香里のプレゼントを開ける。
「うわぁコンドーム……って余計なお世話だ!」
「あら、気をつけなきゃ」
 香里は小声で他の人に聞こえないよう、俺の耳元にある事を囁いた。
「……ありがたく使わせていただきます」
「素直が一番よ」
 ちっくしょー。いったいどこから流出した情報なんだ。少なくとも、俺は香里にそんなことを報告した覚えはない。
 俺は悔しさを胸に秘めつつコンドームを受け取ったのだった。

 次は北川のプレゼントを叩き潰す。
「なんで箱からはみ出してるんだよ! そしてそんな卑猥な置物いらねぇ!」



 みんなからのプレゼント。そして誕生日会の企画。
俺は心底嬉しかった。
 今日、商店街であゆは俺に「幸せじゃないの?」と聞いた。
俺はその時は言葉に詰まってしまったが、今ならはっきりと答えられる。

 俺は今、とても幸せだ。
秋子さんや名雪達にはいつもお世話になってるし、そして一緒に過ごす仲間達がいる。
 この幸せは何物にも変えがたい物だ。幸せは青い鳥のようなものだとはよく言ったものである。気付けば幸せはすぐそこにある。むしろ気付かないこその幸せなのかもしれない。

 そして俺はその幸せの源でもある人達に感謝する。
俺は皆がいるからこそ、幸せでいられるのだ。
 俺は独りなんかじゃない。周りには仲間がこんなにもいる。
だから言おう。
 いつもなら気恥ずかしくて、とてもじゃないけど言い出せない言葉。
「みんな―――」
 今日だけは、無礼講だから。
「ありがとう」
 できる限りの笑顔で、そう言ってやった。

「わっ祐一どうしたの」
「祐一くん泣いてる……?」
「ば、ばか」
 泣いてなんかいない。これはあれだ。さっきの鯛焼きの成分が染み出たんだ。なんだどっちにしろ涙じゃないか、くそ。
 まあいい。
泣いてようが笑ってようが一緒だ。
 どうせ興奮してるのには変わりは無いんだから。

 この幸せを噛み締める為、今日は楽しんでやろう。
俺はそう決めて、とことんみんなと騒ぐことにした。












―――だから。






実は。




俺の誕生日は。


明日だって。










言い出せなかった。














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