「最後のゲーム、あと少しのところだったんだがなぁ……」
 悔し紛れにこぼした俺に、北川は偉そうな態度で笑った。
「ふっふっふ。その『あと少し』が簡単には埋まらないんだぞ、相沢」
 栞は傍らで、そんな俺達のやりとりを楽しそうに聞いている。
 バイキング形式の夕食をたらふく食いまくった俺達は、その後、食後の腹ごなしにと卓球勝負をすることにした。プレイするのは主に俺と北川の二人で、後の四人はもっぱら観戦しているだけだったが。
 俺としては、栞に格好いいところを見せてやろうという目論見があった。ところが、北川の奴は予想外の強さだった。ペン型のラケットから繰り出される変幻自在の魔球に、俺は終始翻弄されっぱなしだったのである。
「でも、本当に部活とかはされてなかったんですか?」
 栞が尋ねると、
「卓球部に入部したことはないな。小学校の頃に町内会の卓球サークルに入ってたぐらいか。まあ、オレはあんまり真面目にはやってなかったけど」
 などと北川が答えた。
「くそっ、素直にハンデもらっときゃ良かったか」
 見栄を張った俺の自業自得かもしれない。
 そんな風にだべりながら三人で歩いていると、やがて宿泊している部屋の前まで辿り着いた。俺と北川の泊まっている部屋が六〇五号室、秋子さんと名雪は六〇六号室、そして栞は香里と一緒に六〇七号室だ。
 そのとき、ちょうど六〇六号室のドアが開き、香里が廊下へと出てきた。香里は俺達を認めると瞬きし、それから話しかけててきた。
「あら、お帰りなさい。――で、どうだったの? 勝負の方は」
「まあ、辛くもオレが勝ったってとこかな」
 北川が肩を竦めて答えた。
「『辛くも』じゃねえよ。ゼロ勝四敗一引き分け……俺の完敗だ」
 俺が正直に話すと、香里は眉を少し上げた。
「やるじゃない、北川君」
「いや、たまたまだって」
 何をわざとらしく謙遜してやがるのかと思ったが、こいつも香里に格好いいところを見せたいのだろう。少々業腹だが、俺も同類なので見逃してやることにした。
「……ところで、秋子さんは?」
 と、六〇六号室に近づこうとしたところで、香里は慌てて俺を押し止めた。
「ちょ、ちょっと待って! 名雪が今、あんまり人に見せられない格好をしてるから」
「どんな格好だよ、そりゃ」
「いいから! 名雪っ、あんたもそんな格好でふらふらしてないでさっさと寝なさいっ」
「……ふぁい」
 香里が部屋の中へ声をかけると、名雪の眠そうな返事が返ってきた。
「明日の朝はちゃんと一人で起きなさいよ、秋子さんがいないんだから。いい?」
「ん……わかった。おやすみ〜」
「おやすみ、名雪」
 香里は部屋のドアを閉じた後、もう一度ドアノブを引っ張った。オートロックが掛かったかどうかを確認したのだろう。
 それからこちらに向き直った香里が、ふいに半眼になる。
「何を赤くなってるのかしらね、北川君は」
「あ、いや。違うんだっ」
 せっかく稼いだ(かどうか知らんが)ポイントをフイにしてしまう北川だった。
「それはともかく、秋子さんはもうホテルを出たわ。多分、明日の朝になるまで帰れないだろうって」
「そっか。そりゃ気の毒だな」
 香里の説明を聞いて、俺は秋子さんに同情した。
 俺と北川が卓球勝負をしている最中に、勤め先から秋子さんに連絡が来たのだった。なんでも、急な仕事が入ってしまったのだとか。既に眠そうだった名雪と、秋子さんの支度の手伝いをすると申し出た香里は、秋子さんに同行して一足先に部屋へと戻ったのである。
「そう言えば、秋子さんってどんなお仕事をしてらっしゃるんですか?」
 人差し指を口元に添えて、栞が尋ねてきた。
「それが……分からないんだ。名雪も知らないそうだし、秋子さんも教えてくれない」
 俺の答えに、北川が異議を唱える。
「いくら何でもおかしいだろ、相沢。勤め先が分からなきゃ、何かあったときにどうやって連絡を取るんだよ?」
「いや、勤め先が分からんとは言ってないぞ。それは俺も名雪も知ってる。でも、そこでどんな仕事をしているかは知らないんだ」
 香里が考え込むように頷いた。
「まあ、確かにそんなものかもね。親が普段どんな仕事をしてるのか、知らない子供だって少なくないわよね」
「『職業・会社員』ってひとくくりにされちゃうけど、千差万別だったりするしね」
 栞も姉に同意する。
 ――よし、うまく煙に巻いた。
「さあ、今日はこの辺にしとこうぜ。また明日もあるんだから」
 勤め先の名前を聞かれる前に、俺は解散を申し出た。それを知れば、余計に混乱すること請け合いだからだ。
「そうね。今日はいっぱい遊んで疲れたし、ちょっと早いけどお開きにしましょうか。それじゃ、おやすみなさい、北川君、相沢君」
 香里が俺達に挨拶する。
「おう。おやすみ、美坂。栞ちゃんも」
 北川と栞がそれに続いた。
「おやすみなさい。祐一さんも、またです」
「……? また明日な、二人とも」
 栞の挨拶に一瞬違和感を覚えたものの、特に深く考えることなく俺も挨拶を返した。そして俺達は、六〇六号室を挟んで二人ずつ二手に分かれた。
 ドアの前に立ち、俺は財布からカードキーを取り出してスロットに差し込んだ。ランプが点灯してロックが解除される。部屋の中へ入り、俺と北川はそれぞれのベッドの上に身を投げ出した。
「あー、ちょっと張り切りすぎたか」
 昼間に浜辺で遊んだ後、食後に卓球勝負までしたためか、全身に軽い疲労感。ところが、隣のベッドの主は元気が有り余っているらしい。
「何言ってるんだ、相沢。今からがショウタイムだぞ」
「は?」
 顔を上げると、やけに楽しそうな北川の顔が見えた。奴は部屋の一角にあるテレビを指差して言った。
「ビデオだよ。ホテルの夜って言ったらアレの上映会に決まってるじゃないか」
「……お前、馬鹿だろ」
 思いっきり蔑んだ目で見てやると、北川はムッとした表情になった。
「なんだよ。興味ないとでも言うつもりか?」
「そうじゃない――北川、お前は有料チャンネルの精算システムに気付いてないってことだ」
「精……算?」
 一転してきょとんとした表情になる北川。俺は更に畳みかける。
「いいか。このテレビは直接硬貨を投入するタイプじゃあない。ついでに言うと、最近出てきたプリペイドカード式でもない。なら、有料チャンネルを見た代金はいつ支払う?」
 北川はようやく思い至ったようだ。その表情が青ざめていく。
「それじゃあ……」
 俺は頷いた。
「そう。ホテルをチェックアウトするとき、フロントで精算するんだ。明細には『有料チャンネル代』とばっちり表記されてるだろうな。
 宿泊費用は秋子さん持ちだから、その分もあの人に支払って貰うわけだ。多分、秋子さんはにっこり笑って了承してくれるだろうが、お前はそれに耐えられるのか?」
「ぐっ……。盲点だった」
 がっくりとくずおれる北川。気持ちは分からんでもないが。
「分かったらさっさと寝ろ。寝てしまえ」
 北川が俺に向かって愚痴った。
「くっそぉ、気付いてたら先に言ってくれよな」
「知るか」
 素っ気なく返した後、俺はその北川の言葉によく似た台詞を栞から聞いたことを思い出した。そして同時に、すっかり忘れていた件も。
「あ……しまった」
「ん? どうしたんだ」
 思わず呟いた俺に、北川が尋ねてくる。
「い、いや、なんでもない。こっちの話」
 と、適当に言葉を濁しておく。
 おそらくは栞がこのことで俺を責めることはないだろう。けれども、俺としてはあいつに残念な思いをさせたくはないのである。
 なんとかこの失態をフォローする手立てはないものかと、俺はベッドに突っ伏したまま思考を巡らせ始めた。

 翌朝、俺はアラーム音に起こされて目が覚めた。
 時刻は七時。少々夜更かしをしたせいで、まだかなり眠い。鳴り続ける電子音のスイッチを切ると、俺はベッドの上で大きくあくびをした。
「ふあ〜っ……」
 窓から見える外の天気は上々。空は青く晴れ渡り、水平線の彼方に小さな入道雲が浮かんでいるのみだ。海水浴には申し分ない。
「北川、朝だぞ」
 隣に声をかけると、「んー」とくぐもった返事の後、もそもそと北川が体を起こした。髪はボサボサで、見るからに眠そうな表情をしている。
「おふぁよ……相沢」
「おう。今日もいい天気みたいだな」
 北川は窓に視線を移すと、眩しそうに目を擦った。
 洗面所で顔を洗った後、バッグから取り出したジーンズに足を通す。テレビを付けると、朝のワイドショーが画面に映し出された。あの街には系列局がないから、この番組を見るのもしばらくぶりだった。シャツのボタンを留めながら画面を眺めていると、
「相沢っ、飯食いに行こうぜ!」
 と、妙にテンションの高い北川の声が聞こえた。
「うお……。お前、もう身支度終わったのか」
 俺がテレビを見ながらゆっくり着替えているうちに、北川はすっかり支度を調えてしまったようだ。アロハに短パンという軽装に着替えた北川に、眠そうな様子は既にかけらもない。
「オレはエンジンかかってからが早いのさ」
 胸を張る北川。まあ、朝に強いのは良いことだが。
「それにしても、いつの間に髪まで梳かしたんだ? さっきまでボサボサだっただろ」
 俺が尋ねると、北川は肩を竦めた。
「別に、ただ手櫛を入れただけだって。髪質のせいか、昔から寝癖知らずなんだ」
「そ、そうか……。そりゃよかった」
 この男にとって、頭頂部の『アレ』は寝癖などではないのだろう。これ以上その話題に踏み込むのは危険な予感がして、俺は話題を変えた。
「ところで、朝飯の時間って決めてあったっけ?」
「……ラウンジで一緒に食べようって約束したのは覚えてるけど、言われてみりゃ時間は特に決めなかったか。まあ、直接部屋に行けば大丈夫だろ」
「栞と香里は大丈夫そうだけど、名雪の奴はきっとまだ寝てるぞ」
 俺の断言に、北川が苦笑する。
「水瀬か……確かに。秋子さんはまだ帰ってきてないのかな?」
「どうだろうなぁ。まあ、行ってみりゃ分かるか」
 俺も支度を終えて、ベッドから立ち上がった。リモコンでテレビの電源を落とし、財布だけ持って部屋を出ようとした――ところで、俺達は栞と鉢合わせした。
「あっ。祐一さん、北川さん、おはようございます」
 ホテルの廊下、六〇六号室の前に立っていた栞は、俺と北川に気付いてぺこりと頭を下げてきた。
「ああ、おはよう栞」
「栞ちゃん、おはよう」
 俺達もそれに挨拶を返す。栞は明るいクリーム色のブラウスにサーモンピンクのスカートといった出で立ちだった。スカートの裾がレースになっているのが目に涼しげだ。
「栞は名雪を起こしに来たのか?」
 俺が尋ねると、栞が困ったように眉を寄せた。
「はい、お姉ちゃんに頼まれて。……でも、名雪さんが起きてくれないんです」
 そう言ってから、栞はまたドアに向き直ってノックした。
「名雪さん、朝ですよー。起きてくださーい」
『んー……』
 中から小さく、返事とも寝言ともつかぬ声が聞こえてくる。
「そんなんじゃ駄目だって。いいか、見てろよ――名雪っ、朝飯食いに行くぞ。さっさと起きろ!」
 ドンドンドン、と栞よりも数倍強い勢いでドアを叩く。栞がその様子を見て、慌てて俺を諫めようとした。
「わっ、駄目ですよ祐一さん。そんなに強く叩いたら他のお客さんの迷惑になっちゃいます」
「大丈夫だって。両隣は俺達の部屋だろ?」
 俺が言い返すと、北川も隣で頷いた。
「それに、さっき栞ちゃんが水瀬を起こそうとしてたの、部屋の中からじゃ全然聞こえなかったしな。結構防音性が高いみたいだ」
「そうかなぁ……?」
 栞が不安げに人差し指を頬に添える。と、そこでまた名雪の声が聞こえてきた。
『あさごはん……』
 俺は二人に親指を立ててみせると、更に続けた。
「ああ。朝飯はラウンジのレストランで、マフィンにたっぷりジャムを載せて食べるんだ。三つ星シェフ特製のイチゴジャムだぞ」
 軽いアタリに対して、更に慎重に誘いを掛ける。
『いちご……じゃむ……』
「そうだ。デザートのメニューにはストロベリー・ババロアもあったっけ。きっと、ほっぺたがとろけるほどの美味さだろうな」
『ばばろあ……おいしい……』
 今頃は絶対に涎を垂らしているに違いない。ここで俺は一気に合わせた。
「まあ、だけど名雪が起きてくる頃にはきっと全部なくなってるぞ。俺達が全部食べちまうからな」
『わわ、駄目だよっ』
 FISH・ON!
 ずるべったん、と部屋の中から音がした。おそらくベッドから転げ落ちたのだろう。
『待って、待って! わたしも今すぐ行くからっ』
「無理しなくていいぞ。ちゃんと名雪用に、余ったマフィンの耳だけでも貰ってきてやるからな。水でも飲みながらもそもそ食えば、充分腹は膨れるだろ」
『そんなの嫌だよっ。ジャムとババロアも食べたいもん』
 ふと隣を見ると、栞と北川がうずうずとした様子だった。きっと二人とも、俺と名雪の会話に突っ込みたくて仕方がないのに違いない。ボケの片割れが未だ扉の向こうでは、タイミングを図りづらいのだろうが。
 ぱたぱたと近づいてくる足音が聞こえた後、ドアが内側から開かれた。
「もうっ、いじわるだよ祐一」
 ドアを開けるなり文句を付けてくる名雪に、栞が挨拶をしようとして、
「名雪さん、おはようござ……いま……」
 途中で固まった。そして俺も同じく。
 別に名雪が酷い格好をしていたという訳ではない。髪の毛はさすがに手入れする暇はなかったようだが、ちゃんと水色のワンピースに着替えていた。ボタンは上の方が二つほど外れたままだったため、少しばかり胸元は刺激的だったのだけれども。
 問題は顔の方にあった。
「……どうかしたの?」
 口をつぐんだ俺達を訝しんで、名雪は小さく首を傾げた。
「ぷっ……くくくっ」
 北川が口と腹を押さえてうずくまった。どうやら笑いのツボに入ったらしい。単純な奴め。
「え、何? 何なの?」
 驚いて、名雪はしゃがみ込んだ北川と俺達へ交互に視線を走らせた。その様子がますますおかしかったのか、北川はついに笑いを堪えきれず爆笑し始めた。
「――名雪。お前、気付いてないのか?」
「な、何が?」
 きょとんとする名雪に、俺は指を突きつけた。
「お前の顔、ヒゲが描いてあるぞ」
「左右のほっぺに三本ずつです」
 俺に続いて栞が補足する。
「えええええっ!」
 名雪が素っ頓狂な声を上げた。どうやら気付いてなかったらしい。と言うか、俺が急かしたせいで顔も洗ってないのだろう。
「……まったく、何? 朝から騒がしいわね」
 それを聞きつけたのか、六〇七号室の扉が開いて中から香里が姿を現した。床に転がって爆笑している北川に眉をひそめた後、名雪の顔に気付いてにっこりとする。
「あら名雪、素敵なお化粧じゃない。猫の真似?」
 名雪は慌てて頬を手で覆って隠した。今更手遅れだが。
「し、知らないよ〜。朝起きたら、こうだったんだもん」
 その言葉に、香里が真顔になる。
「ちょっと待ちなさいよ。じゃあ、それ誰が描いたの?」
「あっ……」
 栞も驚きの声を上げた。
 思いもよらない展開に、沈黙がその場を満たす――ことはなかった。場を読まない馬鹿が一人、今なお笑い転げていたからである。

 幸いにも名雪のヒゲは水性ペンで描かれたものだったため、洗顔ですぐに落とすことができた。悪質なイタズラではなかったようだ。
 凶器(?)もすぐに特定された。このホテルは各部屋に寄せ書き帳が置かれていて、それ用にペン立てには色とりどりのサインペンが刺さっている。そのうちの一本、茶色のペンがこれ見よがしにサイドボードの上へ転がしてあったのだった。
「もうっ。北川君、笑いすぎ」
 ベッドに座った名雪は少々おかんむりのようだ。
「悪い悪い。ちょとばかりツボに来ちまってさ」
 北川は拝むように名雪に謝っている。時折腹をさすっているのは、腹筋を酷使したせいなのだろう。この後また海で遊ぶというのに、大丈夫なんだろうか。
 栞は手にしたペンのキャップを外すと、左手の甲にツーッとペン先を走らせた。
「……やっぱりこのペンだったみたいです」
 そう言ってこちらに見せた筆の跡は、確かにさっき名雪の頬に描かれていたものと良く似ている。
「それはこの際重要じゃないわ。問題は誰がやったのか、よ」
 香里は腕を組み、深刻そうにそう呟いた。俺はそれに頷く。
「そうだな。俺の推理によれば、犯人は――お前だ!」
「……なっ!」
 俺の指先が示したのは、問いを発した美坂香里その人だった。
「どういう理由よっ。ちゃんと説明してよね」
「いや、ただなんとなく」
「それ、推理でもなんでもないじゃないの!」
 予想通り香里は怒り出した。当たり前と言えば当たり前なんだが。
「でも、普通に考えるとお姉ちゃんが一番怪しいと思うな。だって、最後に名雪さんと会ってたのはお姉ちゃんだし」
 と栞。
「そう言えば、美坂はオレ達を水瀬に会わせないようにしてたっけ」
 更に北川までが加勢してくる。
「そうそう。俺もそれが言いたかった」
「嘘おっしゃい。相沢君は何も考えてなかったくせに。
 とにかくっ、あたしが部屋を出たときには名雪はまだ起きてたんだから。あたしが犯人のはずないじゃない」
 俺の台詞を一刀両断した後、香里はそう続けた。
「ああ、そうだっけな。じゃあやっぱり名雪が寝た後に誰かが……ってことか」
 名雪が香里に向かって返事をしたのを、俺達三人とも聞いている。
「でも、それだと余計に分からなくなっちゃいます。だって、これって密室ですよね?」
 栞が異を唱えた。
 そうなのだ。一度閉ざされた部屋のドアは、外から開くことはできないはずだった。ならば誰が部屋に侵入できるというのか。
 しかし、香里は首を横に振った。
「厳密に言うと、これは密室じゃないわ。いくつか部屋を出入りする方法があるもの。
 まず一つは、被害者である名雪が部屋の中にいたこと。だからいつでも犯人を招き入れることはできたはずね。オートロックだから、出るのは何の問題もないし」
 俺は栞にこっそり耳打ちした。
「なんかノリノリじゃないか、香里の奴?」
「お姉ちゃん、推理物が好きなんです」
「あー、やっぱりな」
 栞の言葉に俺が頷くと、香里の叱責が飛んだ。
「聞こえてるわよ、そこ!
 ……まあ、そんなことをする意味があるかどうかは置いておくとしましょうか。どう、名雪。夜中に誰かを部屋に入れた覚えはない?」
「んー、ないと思う……多分」
 名雪の返事が煮え切らないのは、自分でも寝ぼけ状態の記憶に自信がないからだろう。
「ちょっと待ってくれよ。水瀬が自分で誰かを部屋に入れたんなら、水瀬自身が共犯者ってこともありうるんじゃないか?」
 北川が鋭い指摘をする。
「確かにね。そもそも、これが名雪の狂言だって可能性もゼロじゃないわけだし」
「うー、そんなことしないもん」
 北川と香里のやりとりに、名雪が不満げな声を上げた。
「まあでも、あたしは違うと思う。あたしなりの経験から言わせて貰えば」
 ワインレッドのノースリーブシャツに白いタイトミニという格好の香里が、なんだか名探偵のように見えてくるから不思議だ。
「それはどういう判断理由からなんだ?」
 期待を込めて俺が問うと、
「だって、そんな展開じゃ面白くないじゃない」
 返ってきたのはそんな答えだった。残りの四人は思わず脱力する。
「香里、それじゃ祐一とあんまり変わらないよ……」
「失礼ね。相沢君と一緒にしないで。
 あと、名雪は性格的にそういうのは向いてないと思うわ。根が単純だから、あたし達を騙し続けるのは難しいんじゃないかしら」
 名雪の文句に、香里が言い返す。どっちが失礼なんだか。
「水瀬はポーカーフェイスできそうにないからな。天然だし」
 北川も同意した。名雪は微妙な表情だ。
「それからもう一つ、実際にロックを外せる人間がいるってこと。もちろんホテルの人間はマスターキーを持っているだろうけど、それは多分考えなくてもいいわね。こんなイタズラをするいわれはないもの。
 この場合問題になるのは、実際にキーを持っているもう一人の人物よ」
 勿体付けて言葉を切る香里。俺がその続きを受けて言う。
「……つまり、秋子さんか」
「そういうことね。あたし達はチェックインしたとき、それぞれカードキーを貰ったわ。だからこの六〇六号室の鍵を持っているのは名雪と秋子さんの二人よね。カードキーはホテルを出るときにフロントへ預ける必要もないし、いつでも部屋に出入り可能なわけ」
 香里はさっと腕を振り、一同は部屋の中を見渡した。
 入り口を入って左手にユニットバス。その先にはシングルのベッドが二つ。右の壁にはサイドボードがあり、窓に近い側に小型のテレビが置かれている――要するに、俺達の六〇五号室と作りは同じだ。
「この窓だと、出入りするのはちょっと無理ですよね」
 立ち上がった栞が、窓に近づいてそう言った。大きい窓だったが、開くのは左側の一部のみで、しかもほんの数センチしか開けられない。
「北川なら流体状に変身して入り込めるかもしれんけどな」
「北川君、できるんだ……」
「できねえって! オレは何星人だよっ」
 俺のボケに対して更にボケで返す名雪と、すかさず突っ込む北川。
「触角星人ね」
「――猫口星人、でしょうか?」
 美坂姉妹が追い打ちをかける。あ、なんか落ち込んだ。
「オレのチャームポイントなのに……」
 背中を丸める北川はとりあえず放っておく。
「まあ、そんなことはどうでもいい。それより名雪、荷物の方は大丈夫なのか? 何かなくなってたりとか」
「うーん、じゃあちょっと調べてみるね」
 そう言って名雪はかがみ込み、バッグのファスナーを開いた。俺はとりあえず後ろを向いておくことにする。
 しばらくごぞごそと音がした後、
「あれ? あれ? おかしいなぁ……」
 と名雪の焦った声が聞こえてきた。
「どうした。何かなくなってるのか?」
「あのね、予備で持ってきた猫さんぱんつが見あたらないの。祐一、知らない?」
「何でそんなものを俺が知ってると思うんだよっ」
 後ろを向いたまま叫び返す。
「ちょっとちょっと。何かの勘違いじゃないの?」
 香里が怪訝な声で名雪に尋ねた。
「でも、昨日の朝は確かにバッグへ入れたし。……やっぱり、どこにも見あたらない」
 俺は元に向き直る。
「下着ドロとなると、ちょっと冗談事じゃなくなってきたな」
 香里は腕を組んで難しい表情をしていたかと思ったら、
「あんた、実は今穿いてたなんてオチじゃないでしょうね」
 などと抜かしながら名雪のワンピースの裾をひょいと上にめくった。
「ひゃあっ。ちょ、ちょっと香里!」
「……違ったわ。イチゴだった」
「何するのーっ!」
 香里に文句を言った後、名雪は「うーっ」と唸りながら俺達の方を涙目で睨んだ。
「見てない、見てないって。死角だったんだから」
 北川も慌ててぶんぶんと首を振る。
「もうっ。滅茶苦茶だよ、お姉ちゃん」
 栞が呆れたようにため息をついた。
「どうも腑に落ちないのよね。このヒゲ事件と下着紛失事件、方向性が違うように思えるし。もしかしたら別の犯人だったりするのかも……」
 香里は納得がいかない様子で顎に手を当てた。
「単にカムフラージュってことなんじゃないのか?」
 北川がそう言うも、まだ気になるらしく首を傾げる。
「そうかもしれないけど……。だって、下着は夜の間になくなったとは限らないわけだし」
 香里の言う通りだった。名雪が最後に確認したのは昨日の朝で、それ以降のいつでもあり得るわけか。
「と言うことは、さっき部屋に入ったときに北川が目にも留まらぬ早業で下着を物色したってことも考えられるよな」
「考えられねえって!」
 俺のひらめきを速攻で打ち消す北川。まあ、下着ドロの嫌疑をかけられてはたまったものじゃないが。
「とりあえず、埒が明かないから視点を変えてみましょうか。
 ……実はあたし、昨日の晩に怪しい行動を取った人物を一人知ってるのよね」
 また香里が勿体付ける。名雪がそれに聞き返した。
「怪しい行動?」
「そう。その人物とは――あんたよ、栞」
 香里が示したのは、実の妹だった。
「えええっ。わ、私?」
 びっくり眼で栞は自分を指差す。まさか自分に矛先が向くとは思ってもみなかったのだろう。
「あたし、栞が深夜に部屋を出て行ったのを知ってるのよね。あれは夜中の零時ごろだったかしら」
「ぎく」
 律儀に心情表現を口にする栞。
「そう言えばオレが夜中に起きて便所へ……」
 それを聞いて、思い浮かべるように北川が視線を俺に向けた。
「ぎく」
「……行ったなどという事実はないが、その反応を見るとお前も栞ちゃんと同じようだな、相沢」
 ニヤニヤ笑いを浮かべる北川。しまった、鎌をかけられた。
「どこに行ってたのかしらね〜?」
「どこに行ってたんだろうな〜?」
 言い募ってくる香里と北川。こいつら性格似てやがる。
「別に、ただ二人で待ち合わせて浜辺を散歩しただけだ。やましいことなんて全然ない」
 俺は仕方なしに答え、栞はコクコクと頷いて同意する。
「あら、じゃあキスの一つもしなかったって言うの?」
 更に香里は追求してくる。
(栞っ、お前の姉は性格悪いぞっ)
(昔っからこうなんですーっ)
 思わず栞と目で会話してしまうが、何の解決にもならない。
「そ、それは――した。だけど、ちっともやましいことじゃないからな」
 俺はきっぱりと言い切った。栞は赤くなって俯いている。
「あらあら、それはごちそうさま」
 ようやく満足したようだ。まったく、この小姑に今後も翻弄されるかと思うと先が思いやられる。
「とにかくっ、俺と栞は二人で散歩してたんだ。事件とは関係ないぞ」
 俺の言葉に、今度は北川が指摘した。
「でも、アリバイがないのは事実だよな?」
 それに対して、更に栞が反論する。
「だとしても、アリバイがないのは北川さんとお姉ちゃんも同じですよ」
「あー、言われてみりゃそうか」
 素直に頷く北川。誰も見ていない時間があるという意味では同一だった。
 視点を変えてみても、結局何一つ進展している気がしない。俺達は名探偵には向いてなさそうだ。
「――あら、みんな集まって賑やかね」
 部屋の入り口の方から、ガチャリと扉が開く音とともに声が聞こえた。
「あっ、お母さん。お帰りなさい」
 そこに立っていたのは秋子さんその人だった――そう、唯一トリックなしで六〇六号室に出入りできる人物である。
「ただいま、名雪。何かあったの?」
 雰囲気を察したのか、秋子さんが尋ねてきた。
「実は――」
 俺達はヒゲ事件のあらましを簡単に説明する。昨日の晩と、そして朝に起きたことを。
 秋子さんは頬に手を添えると、楽しそうに言った。
「じゃあ、わたしが最も怪しい容疑者ということになるわね。一応、朝まで仕事をしていたんですけど、それを証明できるものを今は持ってませんし」
 さすがは聡明な秋子さん。俺達の擦った揉んだの推論(あるいは無駄話)を聞くまでもなく、置かれた状況を察したようだ。
「すみません、変な疑いをかけちゃって……」
 香里が殊勝な様子で謝罪する。
「いいのよ。だって面白そうですもの」
 気にする様子もなく秋子さんは笑顔で答えた。案外、この人もこういうノリが好きそうだ。
「それが、そうも言ってられない状況なんですよ」
「一緒にわたしの下着がなくなってるの。予備に持ってきた猫さんのぱんつ」
 俺と名雪が説明すると、秋子さんは目を丸くし――そして頬を赤らめた。初めて見るそんな様子に俺が驚いていると、秋子さんはおずおずと口を開いた。
「あのね、名雪。昨日、小さな子が荷物にジュースをこぼしてしまったことは覚えてる? あのときお母さんの着替えが濡れてしまったから、代わりに名雪の予備を……」
「あっ! 忘れてた……」
 名雪は叫び、口元に手を当てた。
 そう、もちろんそのハプニング自体はみんな知っていた。けれどもそのときに名雪が秋子さんに下着を貸したことは、名雪以外誰も知らなかったのである。
「名雪っ、やっぱりあんたの勘違いなんじゃないの!」
「うう、ごめん……」
 名雪は香里に怒られて小さくなる。
 ということは、だ。
 この、およそ俺と同い年の子供がいるとは思えないほど若々しい女性。その薄いグリーンのフレアスカートに隠された場所には、猫――
「いだだだっ。よせっ、やめろ美坂!」
「北川君は、何鼻の下を伸ばしてるのかしらね?」
「伸ばしてないっ。痛い、痛いって!」
 北川が耳を香里に引っ張られていた。
「ははは。ばかだなあ、きたがわは。……ところでしおりさん、そろそろケツをつねるのをやめてくれませんか?」
「むーっ」
 口を尖らせて栞は抗議の意志を示すが、すぐに解放してくれた。
「ふぅ……。まあ、これで下着紛失事件の方は解決したわけだな」
 ケツをさすりながら俺が言うと、香里はまた腕を組んだ。
「だけど、ヒゲの方はまだ謎のままよね」
 そこで、俺の隣に座っている栞が小さく手を挙げた。
「……実は私、思い付いたことがあるんです」
「ほほう、何かな栞君。ぜひ君の推理を聞かせてくれたまえ」
 俺は探偵の推理に頼るヘボ警部の役割よろしく尋ねた。栞は請われて立ち上がる。
「こほん。えっと、昨日の夜にお姉ちゃんと部屋の前で会ったとき、私達は名雪さんの声を聞きました。だけど、あのときは名雪さんの姿を確認してないんです。知ってるのは声が聞こえたということだけ」
「それは、あれかな? オレ達が聞いたのは録音された声か何かで、水瀬本人は既に寝ていた、とか?」
 北川が栞の言葉に口を挟む。
「そんなことないよ。わたし、香里が部屋を出て行ったときは確かに起きてたもん」
 名雪がそれを否定する。
「はい、名雪さんはちゃんと起きてました。だけど、きっとその顔にはもうヒゲが描かれていたんですよ。
 つまり、こういうことですね――お姉ちゃんは、起きている名雪さんの顔にラクガキしたんです」
 俺はその言葉にハッとなった。
「名雪は寝ぼけてたんで、自分の顔にヒゲが描かれても気付かなかったってことか。なんて狡猾な……」
 その悪魔のごとき所業を知り、部屋の中に戦慄が走る――秋子さんだけは楽しそうなニコニコ顔だったが。
「……かーおーりー」
 名雪が笑みを浮かべ、香里の名を呼ぶ。しかし、目だけは笑っていない。
「あはは……。た、単なる軽いイタズラのつもりだったのよ。名雪が朝起きたらすぐに気付くと思って。こんな大事になるとは思わなかったの」
 と、大事にしようと盛り上げた本人が白々しくも言ってのける。そして、
「ごめんっ」
 と言いながら部屋から逃げだそうとした。それを察していたのだろう栞が立ちはだかり、香里に抱きついてそれを阻む。
「ちょ……栞っ、放しなさ……ひゃうっ。あんた、どこを触って……」
 体力では香里に到底及ばない栞だが、さすがに姉妹だけあって弱点を心得ているようだ。
「さあ、名雪さん。思う存分やっちゃってください」
「ありがとう、栞ちゃん」
 栞に促された名雪がゆらりと立ち上がり、サイドボード上のペン立てに左手を伸ばした。その指の股に緑、青、赤、オレンジのサインペンをアイアンクローのごとく挟み込み、羽交い締めにされた香里へと迫る。
「さあ、まずはチョビ髭から、だよ」
「や、やめなさ……きゃあっ。栞、いい加減にしないと……」
「ぶっ……わははははっ」
 そしてまた北川が爆笑し始めた。
 大騒ぎする連中を微笑ましそうに眺める秋子さんに、俺は聞いた。
「秋子さんはあんまり驚いてませんでしたね。もしかして犯人に気付いてたんですか?」
「ええ。こういうイタズラが好きそうなのは、このメンバーだと祐一さんか香里ちゃんかなって。あとは状況と、それぞれの態度から、かしら」
 さすがにこの人を騙すことは香里にも無理だったようだ。
「それにしても、栞ちゃんはなかなかいいものを持っているわね。これは将来、ぜひウチに欲しい人材かもしれないわ……」
 などと呟く秋子さん。
「あの……秋子さんの仕事って何なんですか?」
 思わず尋ねてしまった俺に、秋子さんはにっこり微笑む。
「それは、企業秘密です」
 せめてその言葉が真実で、決して国家機密などではありませんように――思わずそんな風に願ってしまう俺だった。



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