密室に踊る猫



 俺は黄金の巨獣と対峙していた。
 そのたてがみは眩いばかりに輝き、その顎は隙あらば食らいつかんと牙を剥いている。低い威嚇音が物理的な振動となって俺を揺さぶった。
 奴の左目は俺の攻撃によって既に光をなくしていた。けれども、それはこちらも同じだ。その一手と引き替えに、俺は右のキックバックを失っている。果たして割に合う取引だっただろうか。
 緊迫の状況下、ふいに好機が訪れる。肝心なのはタイミングだ。俺は慎重に引き付け、心の中でカウントし――渾身の一撃を叩きつけた。
 銀の矢がまっすぐ上に伸び上がり、そして急に向きを変化させ奴へと襲いかかる。百獣の王はそれを避ける術を持たず――
「祐一さん」
 ファンファーレが役の完成を告げる中、横から声がかかった。
「よぅ、栞も風呂から上がったんだな」
 ちらりと隣を見ると、笑顔の栞がそこにいた。白地に青いトンボをあしらった浴衣を着て、頬をほんのりと上気させている。
「はい。海が遠くまで見渡せて、とってもいい景色でした」
 嬉しそうに答える栞。そして俺の前に視線を戻して、
「――ピンボール、ですか?」
 と尋ねてきた。
「ああ。昔プレイしたのと同じ機種だったから、懐かしくてな。小学校の頃は結構やり込んでた時期があって――よっと。以前は『ビーンボールの祐ちゃん』と恐れられたものさ」
 プレイを続けながら、そんな風にうそぶいてみる。
「なんだかあまりいい意味じゃなさそうな気がしますけど」
 栞が苦笑した。
 俺と栞がいるのは、海沿いにある真新しいリゾートホテルだ。名雪と秋子さん、香里、北川、そして俺達の六人で一泊二日の旅行に来ているのである。秋子さんの勤め先の福利厚生ということで、宿泊割引券が手に入ったためだった。
 電車に揺られること数時間、目的地に到着した俺達は早速ホテルのチェックインを済ませ、水着に着替えて浜辺へと繰り出した。
 眩しいほどに照りつける陽光、きらめく水の飛沫、足の裏を焼く白い砂浜、そして何より女性陣のあでやかな水着姿(北川はどうでもいい)。途中、秋子さんの荷物に子供がジュースをこぼしてしまうというハプニングがあったものの、俺達は大いに夏の海を満喫した。
 その後ホテルへと引き上げ、大浴場で遊び疲れを洗い落とした後、俺はゲームコーナーで懐かしいピンボール台を見つけた。そして今に至るというわけである。
 ちなみに、北川は夕飯の時間まで風呂で粘るらしい。付き合いきれないので、俺は先に出てきてしまったが。
「実は私、ピンボールの実物を見るのは初めてなんです」
 栞が俺の弾くボールの行方を目で追いながらそう言った。半年前までゲームセンターに行ったことすらなかったんだから、当然かもしれない。
「最近はピンボールを置いている所も少なくなってきたしなあ……。じゃ、ちょっと遊び方を教えてやろうか?」
「あ、はい。お願いします――わ、凄い」
 俺の申し出に頷いた直後、レーンを銀球が猛スピードでくぐり抜けていくのを見て栞が目を丸くする。
「まあ、ガキの頃から比べると、だいぶ腕は錆び付いてきてるけど。当時は小遣いが限られてたから、ワンコインでいかに長時間遊べるかを研究したもんだ」
「笑い声とため息の飽和した店でハイスコアを競いあったりしたんですね」
 栞がそう返してきたので、今度は俺が苦笑する。
「俺が遊んでたのは主に駄菓子屋だったけどな」
 そして、金属の球を縦横無尽に走らせつつ、「フリッパーを両方同時に上げるのは駄目」だとか、「このランプを通過させると得」だとか、基本的な遊び方を栞にレクチャーしていく。
「……あと、なんと言っても需要なのは役だな。こいつを理解しているかどうかでスコアが随分変わってくる」
「役って何ですか?」
 栞が首を傾げて尋ねてきた。
「役ってのは、言ってみればコンビネーション技みたいなもんだ。決められた通りにターゲットに当てると、普通よりも高い得点がもらえたり、残りのボールが増えたりする。
 ちなみにこのピンボール台は、プレイヤーをローマ帝国時代の闘士に見立ててるんだ。ライオンと戦うとか、戦車のレースをする役を完成させて、名声を上げていくって寸法だな」
「なるほど」
 栞はボールの挙動に一喜一憂しながらも、俺の説明を真剣に聞いていた。
 ピンボールは基本的に、フリッパーと呼ばれるパーツを動かしてボールを打ち返す、ただそれだけのゲームだ。けれども、高得点をマークするためにはテクニックだけじゃなく戦略も必要になってくる。奥の深いゲームなのだった。
 プレイしながら説明を続けた俺だったが、さすがにワンコインで丸一日遊んだ小学生の頃のようにはいかない。最後のボールがアウトレーンに流れていくのを、
「ああ……」
 と寂しそうに栞が見送った。
「まあ、こんなもんじゃないか?」
 往年の俺であれば、駄菓子屋の婆さんから禁止令まで出された『台揺らし技』で切り抜けられただろう。とは言え、久々にプレイしたにしては悪くない。ハイスコアを塗り替えることはできたわけだし。
「じゃあ、次は栞の番だな。ワンゲーム奢ってやろう」
 と言いつつ、俺は銀貨を投入する。
「えっ? ま、まだ心の準備が……」
 あたふたする栞に場所を譲り、俺は脇に退いた。
「ほら、もうボールが来てるぞ」
「ううっ、分かりました。『賽は投げられた』ってことですか」
 栞は目を閉じて深呼吸する。
「あー……誰が言ったんだっけ、それ。カエサル?」
「はい。カエサルさんがルビコン川を渡ったときの言葉です。きっと今の私と同じ心境だったんでしょうね」
 ピンボールごときの覚悟と一緒にされたのでは、ローマの偉人も不服だろうと思う。
 栞は目を開くと、不敵な笑みを浮かべて俺に指を突きつけた。
「ふふふっ。祐一さんの記録、私が軽く塗り替えてみせますっ」
「ほお……」
 大きく出た栞に、俺もニヤリと笑い返す。いや、絶対無理だと思うが。
 栞はピンボール台に向き直ると、プランジャーを軽く引っ張り、そして離した。ボールがバネの力で打ち出され――そして途中で勢いを失ってレーンを逆戻りしてくる。ミスにはならないけれども、ゲームも始まってすらいない。
「……」
 表情は見えないが、ちょっとばかり肩が震えているのが分かった。
「どうしたどうした。そんな調子じゃ、逆立ちしたって無理なんじゃないのか?」
「ま、まだこれからです!」
 気を取り直して、今度はプランジャーを目一杯引く栞。ボールは無事プランジャーレーンを脱し、勢いよくバンパーにぶつかった。更に調子よくドロップターゲットを落とし、ボールがあちこちを跳ね回る。栞は固唾を飲んでその様子を見守っていた。
 そして、ボールがライオンの口を模したキックアウトホールに吸い込まれ、直後に勢いよく飛び出した。
「あっ」
 リバウンドで跳ね返ったボールが、真下に向きを変える。栞はその突然の動きに付いて行けず、フリッパーを振り遅れた――それはもう、スカッという音が聞こえてきそうなくらいに見事な空振りだった。
「うう……」
「あー、その……な? 常に一歩先を読んでおくことが重要だぞ」
 たまらず助言すると、栞は頷いた。
「わ、分かってますっ。今のはたまたまです!」
 そして次のボールを打ち出す。ボールはまたあちこちにぶつかってから、今度は早めに下の方へ降りてきた。待ちかまえる栞を尻目に、フリッパーの上にある三角形のスリングショットがお手玉をするように銀球を左右に往復させ――そしてそのまま、ボールはアウトレーンへと流れた。
 結局、一度もフリッパーに当たることなくボールはロストしてしまった。反射神経とかテクニック以前に、運が悪いとしか言いようがない。
「……ブルータス、お前もかー」
 アウトホールに消えていくボールに向かって、栞が肩を落として呟く。と言うか、今のボールがブルータスなのか?
 栞は惚けていた表情を引き締めると、胸元で拳をぐっと握りしめた。
「まだです、まだ一球残ってます。ここからが本当の勝負ですっ」
 栞のこういう前向きな部分は尊敬に値する――ただの負けず嫌いのような気もしないでもないが。
 プランジャーに叩かれて、最後のボールが盤面に送り出された。三度目のなんとやらで、どうにか栞はフリッパーでボールを弾き返すことができた。
「やった、やりました!」
 ボールを注視しながら、栞が嬉しそうにはしゃぐ。
 意外なことに、そこからはなかなか順調だった。反応速度は決して良くない栞だが、代わりに読みが深い。さっき俺がプレイしながら教えたばかりのテクニックも、見様見真似ながら使っている。
 ランダム性が高く体力も使うモグラ叩きなんかより、高度な戦略を要求されるピンボールの方が栞向きなのだろう。さすがは姉妹揃って学年首席なだけはあった。
 もっとも、運という要素はいかんともしがたいようだ。それを埋め合わせるだけの経験値を持たない栞は、フリッパーの可動範囲外を落ちていくボールを見送る他はなかった。
「はぁ……」
 ため息を一つつく栞。
「ま、初めてにしちゃ上出来だな」
「でも、せっかく祐一さんが奢ってくれたのに、始めの二球はゲームにならなかったのが残念です」
「三球目はちゃんとプレイできてたじゃないか。それに……」
 と、俺はそこでニヤリと笑う。
「俺としては、目の保養になったから百円以上の価値があったと思うぞ」
「えっ……あ!」
 一瞬きょとんとした後に、栞は慌ててはだけていた裾を合わせた――と言っても、膝が見えていた程度だったが。顔を少し赤らめて、俺を可愛らしく睨む。
「もう……気付いてたら先に言ってくれればいいじゃないですか。大体、さっきまで水着だったんですから、足くらい見慣れてるはずですっ」
「そこはそれ、『ちらりずむ』という魔力のせいだ。しかも、なんたって栞は浴衣美人だからな。俺達一行の中で一番似合ってるんじゃないか?」
 俺の言葉に、栞の顔がますます赤くなる。
「そ、そんなことないです。名雪さんやお姉ちゃんの方が――」
 栞の言葉を遮るように俺はかぶりを振った。
「分かってないな、栞。浴衣ってのは……胸がない方が似合うんだ」
 途端に栞の眉がそばだてられた。
「……どうしていつも一言余計なんですかっ?」
「いや、つい。すまん」
「知りません!」
 プイッと栞は横を向いてしまった。
 実際、栞が可愛いのは本当だ。浴衣はホテルで貸してくれる薄手のもので、縁日に着ていくようなよそ行きじゃない。俺が着ているものも同じデザインだ。けれど、栞が着ていると不思議と楚々とした印象があった――欲目という奴かもしれないが。
 しかし、素直にそう言うのも照れくさいのである。しかも、こっちのそんな心情まで栞に知られてしまっているらしいのが厄介だ。
「ごめんっ。この通り」
「つーん」
 手を合わせて拝んでも、栞は許してくれない。
「悪かったって。何でもするから、機嫌を直してくれ」
「――何でも、ですか?」
 俺の言葉に、栞はようやく俺の方に向き直った。
「う……。ま、まあ、俺のできることなら」
「じゃあ、クイズを出しますから、それを解いてください。そうしたら許してあげます」
「クイズ?」
 栞はしばし視線を上に這わせたり、手のひらに指で文字を書いたりした後、にっこり笑って続けた。
「えっと、『ザアルナブホノ』です」
「は?」
 間抜けな声で聞き返す俺。
「ですから、『ザアルナブホノ』です。これを解いてくれたら許してあげます」
「ちょ、ちょっと待て! 言ってる意味が分からんっ。何かの暗号なのか?」
 慌てて尋ねた俺に、栞は頷いた。
「そういうことですね。そんなに難しいものじゃないですから、すぐ分かっちゃうかもしれませんけど」
 そうは言われても、皆目見当が付かない。
「せめてヒントをくれ」
「ヒントなしです」
「じゃあ、第二ヒント」
「第二ヒントですか……。えっと」
 あるのかよ、第二ヒント――と突っ込みたいところをぐっと堪える。
「私がピンボールをプレイしたときに、祐一さんが言った言葉がヒントです」
「……俺、なんか言ったっけ?」
 なんだか、ますます混乱してくるばかりだ。
「それ以上のヒントはあげられませんから」
 と栞は澄まし顔で言った後、壁に掛けられた時計を見て言った。
「祐一さん、そろそろ夕食の時間になりますよ。宴会場へ行きましょうか」
「あー……うん」
「ほら、早く行かないと食べそびれちゃいます」
 クイズを解いた訳でもないのに、栞の機嫌はすっかり直ったようだった。俺としては答えが気になるところなんだが……。
「分かった分かった。そんなに引っ張るなって」
 まあ、後でいいかと思い直し、俺はせっつく栞に並んで電子音の鳴り響くゲームコーナーを後にした。



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