それは2年前、祐一さんが、この街に帰ってくる前の物語。


 それがいつものことなのだと自信を持って言えるのが悲しいようで情けないようで、母親の私としては嘆息するしかないのだけれど、今日も名雪は7時30分になってもリビングに降りてこなかった。
「名雪、学校遅刻しちゃうわよ。早く起きなさい」
 『なゆきのへや』とプレートの下がったドアを叩きながら私は声を張り上げる。ドアの向こうからは大小無数の目覚まし時計の轟音が鳴り響いていた。この状態を楽団の演奏会に例えるなら、指揮者のいないオーケストラは大混乱で、おのおのが自分のパートを演奏するので精一杯という感じだった。
 私はひとつ深呼吸して、代理の指揮者を務める覚悟を決めると、ドアを開いて名雪の部屋に滑り込んだ。我ながら手馴れたものよね、と感心してしまうような的確な動きでひとつひとつの目覚ましを停止させると、耳に痛いほどの沈黙を取り戻した部屋で、何事もなかったように眠り続けるいとしい一人娘を揺すり起こした。
「名雪、起きなさい、名雪」
「……うにゅー」
 やっとのことで背中から上を起こした名雪は、かくん、と一回首を落とした後「うーん、なゆき、なゆきはわたし……」と呟くと、やる気のなくなった熊みたいな仕草でのっそり13回ほどまばたきをして、ようやく私の姿を認めてくれたようだった。
「……あれ、お母さん?」
「ええ、お母さんよ。そしてこれがあなたの制服」
 ぱ、と名雪の目の前に、アイロンをかけたセーラー服を広げて見せる。「そんなのひと目見ればわかるよ……」と名雪は不平そうに眉をひそめて、私からセーラー服を受け取った。
「わたしの髪、寝癖とかついてる?」
「いっぱい跳ねてるけど直す時間なんてないわよ」
「じゃあ、なんか適当にまとめていく……」
 言って名雪はようやくベッドから身を起こし、机の上のピンク色のゴムで後ろ髪をくくり始めた。他に悪いとこなんてないんだから、この癖だけでも直してくれないかなあ……と思いながら、私はぼんやり名雪のうなじを見つめていた。この長い髪のお姫様はどこの魔女におまじないをかけられたのかと思うほどのねぼすけで、毎日10時過ぎには眠ってしまうくせに、起きてくるのはきまって8時過ぎなのだった。
 テスト期間であってもそれは同じことで、せっかく夜食を作って持っていったのに、こたつに入ったままで眠りこける名雪に迎えられてしまい、釈然としない気分で梅茶漬けを食べたことも一度や二度ではない。そしてそんな毎日の折、仕事場で行われた健康診断の、自信まんまんで両足を乗せた体重計。
「あの日の2キロは屈辱だったわ……」
「ひとの後ろで脈絡ないこと言わないでよ。すごくこわいよ」
「だって名雪が悪いんだもの。お寝坊さんだから」
「うー、何か今日のお母さんいじわるだよ。わたし朝から泣きそうだよ……」
 そんな掛け合いが毎日のことで、こんなことをしている間に8時を過ぎてしまうから、私たちの朝はいつも慌ただしいのだった。
「よし、着替え終わったよ。ご飯を30秒で食べれば間に合うよっ」
 それは世界新だと思うけれど……。
 私がしょうもないことを考えている間に、名雪はどたどたと階段を下りていってしまった。私は肩をすくめてから、名雪の机の真ん中辺り、ぬいぐるみと参考書の山に埋もれかけたフォトスタンドに目をやった。
 そこには当時7歳くらいだった名雪と、名雪とすごく仲の良かったやんちゃな従兄弟の男の子が並んで映っていた。あの頃の名雪はお寝坊さんじゃなかったはずなのに、どこで育て方を間違っちゃったのかしら、と私は思った。



 透明なてのひらが、



 名雪がうちでクリスマスパーティをやれないかと言い出したのは12月8日、石油ストーブが燃える匂いがすっかり鼻に馴染んだ頃。二人でまったりバラエティ番組を見ながら、テーブルの籠からみかんを取っては食べ、取っては食べしていたときのことだった。
「去年は香里ん家でやったから、今年はうちで、みたいな話になっちゃって……。友達とか、陸上部の部員とか、けっこう人数集まるんだけど、いいかな」
 私が最初に思ったのは、それはおもしろそうね、ということだった。ずっと前から、母親と子供二人だけの生活は、幸せながらもどこか退屈だという自覚があった。多分それは名雪も同じで、要するに私たちは二人して、何か楽しいことに飢えていたのだ。
「いいに決まってるじゃない。それどころか、私も全面的に協力するわよ」
「でも食費とか、大変じゃない?」
「子供がそんなこと気にしないの」
 軽い調子で答えたときにはもう、私の頭の中にはクリスマス用に装飾された水瀬家の姿がきらきら輝きながら浮かび上がっていた。クリスマスツリーは去年のものを使うとして、人がたくさん来るなら席とテーブルの用意がいるし、料理はどのくらい用意すればいいだろう? それとやっぱり、プレゼント。
 と、そこで気になることがあった。
「名雪、それだと誕生日パーティはどうなるの? 毎年うちでやってたでしょう」
「うん、それは一緒でいいって言ってあるよ。香里が笑ってた。『さすがにプレゼントをふたつも用意するのはことだからね。まあ、名雪には安眠枕かイチゴサンデーがあれば十分でしょうけど?』」
 言いたくなるのもわかるけどさ、と口をとがらす名雪は、香里ちゃんの声まねがとてもそっくりだった。
 そういうことなら安心ね、と私は思った。さすがに二日連続でパーティをするのは私の体が持ちそうになかった。それに、誕生日ケーキとクリスマスケーキを用意したとするなら、今度は2キロじゃきかないかもしれなかったから。
「ケーキは甘さひかえめでいいよ〜」
 ニヤニヤする名雪をみかんではたいてみた。にゃう、と猫みたいな断末魔を上げて名雪が倒れた。


 昼食の買出しに出かけた商店街は、すっかりクリスマスムードに染まっていた。サンタクロースの格好をしたアルバイトのひとが、疲れた様子も見せずにチラシ配りに精を出していた。街頭のスピーカーからは軽快なジングルベルが鳴り響いて道行くカップルの表情を綻ばせ、街路樹をとりまいた電飾の蛍たちは、黒いコードでお互いを繋いで、すやすやと居眠りをしながら聖夜の訪れを待っていた。
 今ごろ名雪もうたた寝をして、クラスメイトや先生を呆れさせているのかしら……。私は苦笑しながらそんなことを思った。
 名雪の成績表の備考欄には、いつもそのことが書かれてある。曰く、成績は問題ないのですが、授業中の居眠りが目立ちます。もしも夜更かしをしているようであればもう少し早く眠るように言ってあげてください。そんな懇願のようなコメントを見るにつけ、私は不謹慎ながら噴き出してしまい、その度に名雪はへそを曲げた。
「あらっ、水瀬さんじゃない」
 後ろから声を掛けられた。振り返ると、名雪のクラスメイトのお母さんが、買い物籠を片手に歩み寄ってくるところだった。
「あ、確か斉藤君の……。お久しぶりです」
「ええ、いつも息子がお世話になってます。水瀬さんも夕飯の買出し?」
 斎藤君のお母さんはにっこりと笑って「本屋の隣のスーパー、今日は魚が特売ですって」と言った。
「まあ、そうなんですか? 助かります、実は今月ちょっと厳しくて」
「ああ、それは大変ですね。……実はうちもちょっと」
 お母さんは声を潜めながら、パック詰めの魚が入った籠を持ち上げて見せた。それから互いにくすくす笑った。それは主婦同士にしかわからない、ちょっぴり婉曲なユーモアだ。
「やっぱり、この時期は何かと入り用よね。子供にクリスマスプレゼントも用意しなきゃいけないし」
「三人兄弟でしたっけ。娘さんと、息子さんと」
「そうそう、二人とも手が掛かる年頃なのよ……。やれ新しいゲームソフトが出ただの、みんなが持ってるから私も携帯電話が欲しいだのって、家計のことなんかちっとも考えてくれないんだから。その点、名雪ちゃんはいい子でしょう」
 話を振られて私は、言われてみればそうかしら、と思った。
「確かに、あの子がものをねだったことなんてありませんね……」
「水瀬さんのしつけがいいのよ。正直、同じ母親として尊敬するわ」
 お母さんはふふ、とはにかむように言った。どうでしょうね、と苦笑交じりに答えながら、私は別のことを考えていた。
 確かに名雪は、昔から聞き分けのいい子だった。
 子供にしては不自然なほどに。


* * *


 名雪の期末テストの成績が返ってきた。結果は平均で80点を超えていた。テストの点数を絶対視するつもりもないけれど、それが名雪の努力の賜物であることに変わりはなく、私としては鼻が高かった。「香里なんかもっとすごいよ? 五教科合計で489点だもん。わたしももっとがんばらなきゃ」と謙遜しながら、名雪自身予想以上の結果に喜んでいるようだった。
 その次の日、がんばったご褒美――というわけでもないのだけれど、学期末で半日授業になった名雪に連れられて、昼から商店街の本屋さんにビデオを借りに出かけた。私たちは適当にビデオコーナーを歩いて回った。
「お母さん、ほら星の金貨」
 名雪が笑いをこらえるような顔でドラマの棚を指差していた。その瞬間、私はある忘れがたい出来事を思い出して真っ赤になってしまった。というのは、私が年甲斐もなく(なんて改めて言葉にすると悲しくなるのだけれど……)ひどいロマンチストのきらいがあることに問題があるのだけれど、この間、夜遅くに再放送していた『星の金貨』の最終回を見てぼろぼろ涙を流しているところを、トイレか何かでめずらしく起きだして来た名雪にばっちり見つかってしまったのだった。
「涙は心の清涼剤なんだよ〜」
「し、知らないからっ。……それにしても、改めて見てみるとビデオにも色々種類があるのね。映画に、ドラマに、まんがまで。ところで名雪、前から気になってたんだけど、あのついたてはなに?」
「あっ、お母さんそっちは」
 私は話題をそらすため、店の奥の方に不自然に置かれたついたてに近づいていた。
 そして、その向こうを覗き込んだ後、私は思いっきり自分の行いを後悔していた。
「えっちなビデオが……」
「さ、先に言って!」
 私は再び真っ赤になってそこを出た。中にいた40くらいの男の方と目が合ってすごく気まずい思いをした(覗いたこっちがそうなのだから、覗かれた向こうはもっと気まずかったろう……)。手に持っていたのは女子高生がどうこうというタイトルで、私の記憶が正しければ、何か、糸偏のつく漢字がいっぱい並んでいたような気がする。
 というか、何で、あの一瞬でそんなことを覚えているの私は。
「と、ところで何を借りるの?」
「フランダースの犬だよ。ネロがかわいそうで泣けるんだよ」
 何事もなかったように流してくれる心遣いがありがたかった、とかいうのは置いておいて、そう言う名雪の気持ちもわからないではなかった。でも私はどちらかといえば『母を訪ねて三千里』の方が好きだ。名雪が小さいときに一緒に見ていた、というのもあるけれど、物語がハッピーエンドで終わるから、というのが大きかった。
 私自身が母親であるということで、よけい物語に感情移入してしまうのかもしれない。ましてや当時5歳くらいだった名雪が、主人公が母親に再会する場面で、大きな瞳を潤ませながら言ったのだ。
『わたしは、何があっても、おかあさんとはなれたりしないから』
 ――夫がいなくなってから、一年と経たないころの話だ。
 あの頃の私は毎日が辛くて、一人のときは毎日泣いてばかりいた。それでも名雪の前でだけは辛い顔を見せないようにしていた。親は子のもたれかかる大樹であれ、いかなる風にも揺らぐことなく――ということが、私たち夫婦にとっての信念のようなものだったから。
 そのはずだったのに、ひょっとしたら、見抜かれていたのかも。
 まったく、子供というものは親の思う以上に気の回るものらしい。それは言葉を変えれば、私が知らないうちに名雪を軽んじていた、ということなのかもしれないけれど……。
「あの、お母さん」
「え? あ、うん、ごめん、考え事しちゃってて。どうしたの?」
「ちょっと友達見かけたんだけど、話してきてもいいかな」
「そりゃ、いいわよ。行ってらっしゃい」
 私が頷くと、名雪は小走りにその友達のところに行った。
「……あらあら」
 そして私は思わず口元をほころばせていた。友達、というからてっきり女の子だと思っていたのに、なんと相手は男の子だったのだ。
 いつ頃のことだろうか、なにかのはずみでそういう話になって「名雪にはボーイフレンドとかいないの?」と聞いたことがあって、そのときは首と両手をぶんぶん振りながら「そ、そんなのいないよ。わたしぜんぜんもててないもん」と必死に否定されたのだけど。
 相手の男の子は名雪の姿を見て虚を突かれた表情になっていたが、やがてそれがほぐれてきて、最後の方には自然な笑顔で会話していたようだった。
 大体10分くらいで名雪が戻ってきた。男の子がこっちを見てきたので、どうも、と頭を下げると、向こうはあわてた蛙のような礼を返してくれた。
「なぁんだ、素敵なボーイフレンドがいるんじゃない。紹介してくれればよかったのに?」
 普段の仕返しとばかりにいじわるっぽい口調でからかってやると、名雪は案の定顔を真っ赤にして「ち、ちがうちがうそんなんじゃないよ」と必死に否定してきた。
「陸上部の後輩の、隼人くんっていうんだけど、クリスマスパーティに来てくれるの。その話してただけ」
「名雪が誘ったんだ?」
「だからっ、違うから!」
 もう、なんでそゆこというかな、と口の中でもごもごする名雪が可愛かった。
 結局私たちはフランダースの犬だけ借りて家に帰った。名雪は泣かなかったのにまた私だけ泣いた。してやったりの表情でティッシュ箱を差し出した名雪がちょっと憎かった。



* * *


 17日から飾り付けの準備が始まった。師も走るほどの忙しい月、という言い方とは裏腹に、子供たちは半日授業で浮いた時間を持て余しているらしかった。親としては受験は大丈夫なのかしらと考えるだけれど、そこにいる大半が地元の高校に持ち上がりという話だったから、そんなに気にすることでもないのかな、とも思う。
「すみません、ご迷惑おかけします」
「いいえ。賑やかになって、楽しいですから」
 名雪の親友の美坂香里ちゃんに頭を下げられたので、私は笑顔で答えていた。
 リビングに四つほど、チョキチョキと鋏の動く音が鳴っていた。買ってきた色紙を半分に切って、輪を作って、つなげていくおなじみの作業だ。
 こういうのは大人が手伝うとつまらないだろうと思い、私は手を出さなかった。本当は一緒に作りたかったけど。ひょっとしたら私も、こんな些細なことで一喜一憂して、ほんのひととき女学生気分を味わいたかったのかもしれない。
 代わりに私に出来ることはないか――ということで、簡単なおやつを作ってみることにした。今日はホットケーキを焼いてみた。名雪の友達はいい子ばかりで、食べた後にいつもおいしかったと言ってくれるので私としても作り甲斐があった。
 作業の小休止に談笑していると、時間が4時を回っていた。そろそろ夕飯の買出しに行かないとね、と思って、私はひとりテーブルを立った。
「何か必要なものがあったら、ついでに買ってくるけど」
「材料は多めに買ってあるから大丈夫だよ〜」
 名雪が色紙の袋をびらびら振りながら答えてくれた。なるほど、それだけあれば大丈夫だろう。
 ベージュのトレンチコートを一枚羽織ると、私は家の外に出た。白く吐いた息があっという間に消えていった。今日は風の強い日で、雲ひとつない水色の空は鏡のように澄んでいた。
 今朝見た天気予報が外れなければ、これから数日間は晴れの日が続くらしかった。こんな北の果てのような街でも、毎年ホワイトクリスマスというわけにはいかないのかしらね――などと思った後、そもそもホワイトクリスマスなんて言い草がロマンチストじみていることに気付いて、これじゃまた名雪にからかわれちゃうな、とちょっぴり危惧した。
「私の年でこういう考え方するのって、精神年齢が低いのかしら……?」
 そう思うとちょっぴり憂鬱になったけれど、つまりそれは気が若いってことよ、と自分に言い聞かせた。
「あら?」
 玄関を出たところで、私は不審な人影を見つけた。角向こうの家の陰から誰かが顔を覗かせていたのだ。しかも、私と目が合った途端にその人は(たち、と言うべきだろうか、なぜなら人影は3つあったから)びっくりした猫のように顔を引っ込めていた。
 ふーん、と私はしばらく黙考した後、彼らがいるのと逆方向に足を向けた。そのまま角を左に曲がって、壁伝いに歩きながらまた二回曲がった。すると前の方に、塀から半身を覗かせて我が家の様子を伺っている、恐らく中学生であろう小さな探偵さんたちの背後に回ることができる。
「あら、隼人くんじゃない?」
 私が声を掛けると「うわああ!?」と叫び声を上げて三人が道路に転がった。あらあら、思った以上に驚かせてしまったみたいだ。ちょっと悪戯が過ぎたのかも、と反省しつつ、その様子がおかしくて思わず笑ってしまった。
「ええと、大丈夫?」
「お、おい隼人知り合い?」
「うん……その……水瀬先輩のお母さん」
 困っているような、どこか居場所のないような様子で頬をかきながら、隼人くんは言った。
 残りの二人がまばたきしながら私を見てきたので、にっこり、と微笑みかけてみた。
「……………………えー!?」
 二人が一度にものすごい声を上げていた。
「な、なにお前家族とも顔見知りなんじゃん、それならこんな偵察とかしなくても、そのまま家上がっても問題なかったんじゃ……」
「で、でも先輩の家だよ? それに女子の友達がいっぱい来てるだろうし……心の準備が……」
 と、隼人くんたちは私を置いて秘密会議を始めてしまった。私はやることがないので立ち聞きしてみることにした。
 ――けど、これってまたとないチャンスと違うかな。当人同士はすごく仲良かったのに、親に嫌われたせいで泣く泣く別れざるを得なくなった、みたいな話って結構あるだろ?
 ――つまりその線は回避決定ってことか。でもなぁ、まだ第二の難関が……
 ――先輩がひとりならよかったんだけど……。あっちが集団だと、勢いで負けそう……。
 これが思春期特有の葛藤というものだろうか。ちょっぴり私は感激していた。こういう繊細な心の機微をなくして久しい大人としての私は、こういう煮え切らない態度でさえ、何だか昔の自分や昔の友達を見ているようで懐かしくて、変な言い方になるかもしれないけど、いじらしく思えた。
「あの、ごめんなさい」
「はいっ!?」
 上官に呼ばれた軍人みたいな振り返りように、私はつとめて柔らかに笑いかけながら言った。
「名雪のお友達なら、どうぞ、上がっていってちょうだい? 確かに女の子ばかりで入りづらいでしょうけど、男手がないと、あの子達も困ることもあるだろうから」
 子供のやることにあまり介入するのはよくないのだろうけど、これはちょっとしたサービス、といったところだった。
 隼人くんは「……ありがとうございます」と礼をして、友達を伴ってうちに入っていった。
 ちょっとシャイだけどいい子みたいね、と私は思う。
 私の見る限り、名雪もまんざらではないみたいだし。あの子にも春がやってきたって事かしらね、と思いながら、商店街に赴いた。



 家に戻ってみると色紙の輪がものすごい長さになっていた。わかりやすい言い方にすると、名雪が16人縦に並んだくらいの長さだった。
「ず、ずいぶんがんばったのね」
「おしゃべりしながら作ってたら、いつのまにかこんなに……。作りすぎちゃったかも……」
 リビングの真ん中でしゅんとなっていたのは他ならぬ名雪だった。
 面目ないです、という顔をしてため息をつく名雪をじっと隼人くんが見ていた。その視線に気付いて、名雪が顔をあげて、へへ、と照れくさそうに笑うものだから、つられて隼人くんも笑っていた。
「まあ、顔を見合わせて笑いあうなんて、それはそれは」香里ちゃんが私の意志を代弁してくれた。
「香里ー!? なにかすごいカンチガイしてない!?」
 怒った顔の名雪(でもそうは見えない)がばんばん床を叩いた。それだけやっても責められてる感じを受けない辺り、名雪の得なところかもしれなかった。
 それとは対照的に、隼人くんは困ったように笑うだけだった。誤解されていることを喜んでいるような笑い方だった。
「……まあそれは置いといて、これ、どうしよう」
 名雪が16人分の輪に視線を落とした。私は何気なく提案をしてみた。
「おすそわけしましょうか?」
 それが何故かすんなり受け入れられたので、私たちはぞろぞろ連れ立って近くのお家を訪問した。
「すみませーん、クリスマスの飾り作りすぎちゃったんですけど、よかったらどうぞ」
「あら、それは助かります。ありがとうございますね」
 そして、驚くべきことに、この提案は全ての家庭で大歓迎されたのだった。しかもそのうちの二軒で、なぜかお返しとして袋いっぱいのみかんを頂いてしまった。
 ていうか私、さっきの買出しで、みかんも買ってきてたりするんだけど……。
 ということを名雪に言うと「これだけ人数いるんだから平気だよ。みんなで食べようよ」と答えてくれた。友達も同じ意見のようだったので、作業がひと段落したらみんなでみかんパーティを開くことにした。
 驚くべきことに三袋のみかんが一日でなくなった。こういうのを数の暴力と……言うかどうかは知らないけれど。


 子供たちのクリスマスの準備は、概ねそんな感じに進んでいった。クリスマスツリーの飾りつけが終わると、何故か枝の一部に吊るされた短冊に『高校に合格できますように』『お年玉が2倍になりますように』『名雪のお寝坊さんが直りますように。どうせ無理だけど』というようなことが書かれてあった。
「最後の一つには心の底から共感するわね」と、書いた張本人の香里ちゃんが言った。私は笑いをこらえながら頷いていた。
「もうっ、そういうこと言うならわたしだって対抗するもん」
 名雪はぷりぷり怒りながら余った色紙に字を書いた。どうだっ、とばかりに突き出したものを、香里ちゃんが興味しんしんに手に取った。
「えーとなになに? 『香里のシスコンが直りますよう……に……』」
「あ、ひどい、短冊やぶいた」
「ああああ当たり前でしょ!? あんまりアホなこと書くと名雪の部屋からネコのクッション盗むわよ!? ドラえもんのパチモンみたいな茶色いやつ」
「わーっ、それはあんまりだよ! ていうかあの子にはトラえもんっていう立派な名前が……!」
 その日はそれからけんかになり、作業がちゃんと進まなかった。
 男の子たちもほとんど毎日来ていて、名雪たちだけではどうしてもできない力仕事(部屋の配置換えなど)を引き受けてくれていた。その間女の子勢はやることがなかったので、私と一緒にお菓子作りに精を出すことになった。
 となると、必然的にこういう話題が出てくるもので。
「ねえねえ、あの三人って下心とかあるのかな?」
「ヤな含みのある言い方ね」
「いや別に悪い意味じゃなくって、何ていうかな、その、私たちの中に目当てのコとかいたりするのかな?」
 波紋を呼ぶような一言が、私たちを一瞬黙らせた。キッチン組がいっせいにリビング組を見ると、あちらはあちらで女の子たちの様子を伺っていたらしく、あわてて作業を再開していた。
 さて。
 私たちは円陣を組むように頭をつき合わせた。気分はまるで作戦会議だ。
 さて。
 議論の口火を切ったのは香里ちゃんだった。
「桐生くんは美咲じゃないかな、と思う」
「え!? でもわたしそんな……。えぇー……」
「でも、意表をついて紗知かもしれないよ。学校でもよく話してるよね」
「いやあ、それはないと思うよ。少なくともこっちからは」
 侃々諤々とする激論の中、私も矢も盾もたまらなくなって、つい口出しをしてしまっていた。
「うーん、私が見た限りで判断するなら、恭子ちゃんじゃないかなって思うけど」
 瞬間、全員が意外そうな顔をして私を見ていた。――あ、何か変なこと言ったかしら……。すぐに自分の口をふさいで「ごめん、ひとりごと、聞かなかったことにして?」とか取り繕おうかどうか迷っていたとき、まるで感嘆したようなため息があちらこちらから上がっていた。
「なんか、意外な意見。お母さん的にはそう見えるの?」
「え? あ、うん。ええとね、何となくなんだけど、好きな人の姿を目で追ってる感じがあって……」
 で、気付くと何故か全員が私の話に聞き入っていた。
 な、何だか、すごく恥ずかしいんだけどっ……。


 22日。
「ねえねえ、ちょっと提案いいかな」
 リビングに響いた声に、全員が作業の手を止めて彼女を見ていた。
「今日で準備も終わりそうだし、良かったら明日みんなで商店街に遊びに行かない? ちょうどイブイブで気分も盛り上がってくるとこだし、パーティ本番の前夜祭ー、って感じで」
 実はその提案は、前もっての計画に基づいたものだった。おのおの口には出さないものの、一部の女の子の中で、ここ数日の作業を通して男の子たちにちょっとした恋心が芽生えてきたらしかった。そして中の一人が「わたし聞いたことあるんだけど、男女って協力して困難を乗り越えることで互いの気持ちを深めるって言うじゃない? で、クリスマス会の準備って一種の困難だから、これを逃す手はない、んじゃないか、な……?」という意見を上げたのがきっかけだった。
 当然ながら女の子たちの間では同意が取れているので「へえ、楽しそうじゃない。あたしは賛成」「カラオケ? カラオケ?」「わたしは途中で百貨屋寄ってくれるなら何でもいいよ〜」という形で全会一致を見た。
 男の子たちとしても悪い話ではなかったようで、一応は相談を取りながらも、大勢の流れは決まっているようだった。
「お母さん、いいかな」
「私が止めるなんて筋違いでしょ? 楽しんでらっしゃいな、でも羽目は外しすぎないでね」
 私がそう言った途端、誰にも見えないように、ぐっ、と拳を握ったひとが3人ほどいた。
 楽しみなことがあると気分が浮つきそうなものだけれど、子供たちはかえってやる気を見せていた。というのは、予定では今日の作業は6時くらいに終わるはずだったのに、4時にはすべての作業が終了していたのだった。
 とくに隼人くんのがんばり方は目を見張るほどで、友達二人をして「うわー……そこまではりきるかー……」と言わしめるほどのものだった。
「隼人くん、すごい」
「え、ええと……。はい」
 名雪に褒められて、隼人くんははにかむように顔を伏せていた。
 そんな様子を見て、二人以外の全員が意味ありげに笑っていた。


* * *



 問題の23日の朝、名雪は9時を回っても降りてこなかった。
 確か集合時間は10時という話だった。あの子はこんな日にもお寝坊さんなのかしら……。私はいつものように階段を上がり、名雪の部屋のドアを叩いた。
「名雪、もう9時過ぎちゃったわよ。今日は遊びに行くんでしょう?」
 私はいつものようにすべての目覚ましを止めて、名雪の身体をゆすった。
「名雪、起きなさい、名雪」
「……うにゅー」
 やっとのことで背中から上を起こした名雪は、かくん、と一回首を落とした後「わたし、ニンジン食べれるよ……生で……」と呟いたので、私はちょうど持ってきていた生のニンジンを名雪の口に押し込んでみた。
「……がじ、がじ、がじ」
「そんなことしてないで早く起きなさいっ」
 私は名雪の身体からシーツを引き剥がした。そこまでしたら名雪でも目を覚ますらしく「……あれ、お母さん? ……今日ってひょっとして23日? 何時? 9時? ……………………えーーーーーーーーーー!?」とか叫びながら普段の倍くらいの勢いであたふたし始めた。
「か、髪! 髪!」
「今日だけは適当にまとめるわけには行かないわよねえ」
「わーん、ドライヤー使ってくるー!」
 ばたばた音を立てて名雪が階段を下りていく。私はやれやれと思いながら、恐らく名雪が着たがるであろう服をクローゼットから出しておいた。
「今日がんばったら、名雪にも恋人が出来るかもしれないから……ね」
 私はふと隼人くんの顔を思い浮かべた。そして、彼と喋っているときの名雪の表情を思い出していた。
 私の見立てなら、二人はきっと両思いだから、きっと幸せになれるのだと思う。
 視界の端で何かがちらついた。何だろう、と思ったが、すぐに納得した。カーテンの隙間から滑り込んだ光が、名雪の机のフォトスタンドを、まだ幼かった頃の名雪の笑顔をキラキラ照らしているのだった。


 名雪がいつも以上に慌ただしく出て行った後、私は緩やかに朝の仕事を始めていた。一週間前とはがらりと色を変えたリビングでは、飾り付けをした子供たち一人一人の想いで形作られた小さな虹が、ささやかに波打っているように思えていた。
 さて、今日という日に何人の子供たちが幸せになるのかしらねと、私はひとり笑ってみた。
 二人分の服を洗濯して、乾燥機にかけて、その間に食器洗いと掃除を済ませてしまう。フローリングの床には色々な人が切り損ねた色紙の切れ端が落ちていたので、まとめて掃除機で吸い込んだ。
「……あ、そういえば」
 私は大事なことを忘れていた。名雪へのクリスマスプレゼントを買っていないのだった。
 それは母親として問題だと思ったので、私は急いで出かけることにした。


 そのときまで失念していたのだけれど、23日は祝日で、大人から子供までたくさんの人が溢れていた。クリスマス商戦の殆ど最終日、呼び込みの声は高らかに冷気の中を駆け巡っていた。私は私の身体よりずいぶん大きなコートの襟を立てて、強い風を避けた。
 名雪は自分から何かをねだったりしないから、普段の態度から欲しいものを想像するしかなかった。そう言えば以前名雪と商店街を歩いていたとき、かえるのぬいぐるみを欲しがっていたような気がする。そうだ、それにしよう。
 私は商店街に一軒だけのファンシーショップに向かった。田舎と呼んで差し支えないようなこの街の中で、異彩を放つような――と言うと失礼に当たるかもしれないけれど――、まるでおとぎの国のような、不思議なお店があるのだった。
 そんな店でもクリスマスセールが行われている以上、おとぎの国にも苦しい懐事情があるのかもしれない――などとくだらないことを考えながら、私はいつか見たぬいぐるみを探した。そのぬいぐるみはほどなく見つかった。全長1メートルの巨大なかえるのぬいぐるみ。
 これだったらネコの方がいいんじゃないかしら、と私自身は懸念したけれど、名雪がこの子を見初めたときの我を忘れたような瞳を思い出して、やっぱりこれにしておこう、とレジに向かった。
 プレゼントを渡すなんて毎年の恒例行事だというのに、私はいつも緊張してしまう。他の家庭と比べれば親子間の年の差はずっと少ないと思うけれど、それでも20年近い隔たりがある。ましてや名雪も思春期だから、私との感性の違いが、親子の決定的なすれ違いになってしまいはしないかと心配でしょうがないのだ。
「こんなとき、弱みを見せられる人がいないのは辛いですね……」
 知らず、私はトレンチコートの袖をぎゅっと握っていた。このコートの温もりが、身体だけでなく、私の心を少しでいいから暖めてくれることを願いながら。
 帰り道で百貨屋の前を通っていた。名雪たちはいないかしら、とくすんだ木枠の窓を覗き込んだら、いた。名雪と隼人くんが二人がけの席に向かい合って座っていて、他の子たちは少し離れた四人がけの席にいた。人数の都合だろうか。あるいはこの二人以外の全員が、名雪と隼人くんが両思いなのではないかと気付いているようだったので、気を使ったのかもしれない。
 隼人くんを見ると、大分緊張をしているように見えた。
 その表情に私は見覚えがあった。それは、私の夫が、私に初めて自分の気持ちを打ち明けてくれたときの――張り詰めた色を持っていたのだ。


* * *


 ただいま、と名雪が帰ってきたのは、もう日が暮れた後のことだった。
「お帰り、どうだった?」
「……うん」
 あれ、と私は思った。名雪の声に元気がなかったのだ。名雪はお気に入りのスニーカーをのろのろと脱いで、のろのろと廊下に上がると、猫背でのろのろ歩きながら階段に足をかけていた。
「名雪? ご飯は?」
「……いらない」
 どうしたことだろう。私は名雪の気持ちをほぐすために、茶化すような口調で聞いてみた。
「あ、ひょっとして、隼人くんに告白でもされちゃったのかしら?」
「……」
 名雪は薄暗い階段の途中で立ち止まって、暗闇に向かって呟いていた。
「どうしてみんな、なんでもかんでも、恋とか愛にしたがるのかな」
「え?」
 私は変な声を出してしまっていた。名雪はまるで笑うような声で、言った。
「わたしはそんなこと考えてもなかったんだよ。ただの部活の後輩で、友達で、仲良しさんだって思ってた。それ以上のことなんて何にもなかったんだ。でも私の周りはそうじゃないみたいだし。そんな風に思ってないみたいだし。みんな、わたしがあの子を好きなんだって思ってる。わたしはそんなこと一言だって言ってないのに」
「なゆき……?」
 私は努めて静かな声で聞いた。名雪は少しだけ間を置いて、言葉をひとつひとつ区切りながら答えた。
「そうだよ。隼人くんが私を、すきだって言ったの。ずっと前から、3000メートルを走る私の姿が、綺麗だなって思ってたって。毎日練習をがんばる姿が、すごく眩しく思えてたって。……嬉しかった。それは嬉しかったんだよ。だってわたしみたいな、ねぼすけで、ぼけぼけで、ちっとも普通じゃないような女の子のことを、すきになってくれるのは」
「――うん」
「でも、わたしには判らないんだ。自分の気持ちが。隼人くんはわたしと付き合いたいって言った。恋人になってほしいって言ったの。でも、わたしはそんなふうには思わないの。隼人くんのことは好きだけど、でも、多分それは隼人くんの言うようなすきじゃないんだ」
「……うん」
「……ねえ、お母さん。それって悪いことなの? わたし、隼人くんのこと傷つけたのかな? わたしはただ、わたしがそういうふうに思っているから、付き合うとかは無理だって言っただけなのに。わたしはひどい女の子なの? 男の子の気持ちを弄ぶ残酷な女の子なの? もしそうなら、わたしはあのとき隼人くんに何て言えばよかったの? 付き合いたくないのに付き合いたいって、友達でいいのに恋人がいいって、嘘をつけばよかったの? そうすれば隼人くんは傷つかずに済んだの? そしてわたしも――」
 私は瞳を伏せていた。
「みんなにあんなひどいこと、言われずに済んだの――?」


 階段を駆け上った。そのまま名雪の身体を抱きしめていた。
 月の光ひとつ、リビングの照明ひとつ届かないこの階段の真ん中で、名雪の身体は震えていた。寒さと、脅えと、後悔と懊悩と――多分私が想像力の限りを働かせて思いつくよりも、ずっと多くて深くて辛い感情たちに責められて、震えていた。
 私も含めて、皆が勘違いしていたのだ。名雪と隼人くんが楽しげに話す姿が、しばしば交し合うほのかな笑顔が、恋なのだと。彼女たちの理論、彼らの理論、そして私の理論においては、多分その感情が最優先であって――。
 それゆえに陥った落とし穴だった。名雪だけはその枠から逸脱していたのだ。……違う、それは逸脱じゃない。それもひとつの正常だった。私たちの独善的で一面的な理論の、埒外にあったというだけの。
「名雪は、悪くない」
「……わるいっていわれた」
「悪くなんてない。絶対そんなことない。だって貴方は本当のことを言っただけだもの。自分についた嘘だって、相手につく嘘だって、絶対すぐに壊れちゃって、嘘をつかなかったときよりもずっと深く相手を苦しめるの。だから貴方は悪くない。たとえそのことで誰に何を言われたとしても、貴方は絶対間違ってないから。だから悪くないの。悪くなんて、ない」
「わるいっていわれた!」
 名雪の声に嗚咽が混じった。私のカーディガンに熱を持った雫が沁みた。くぐもった名雪の泣き声が、二人しかいないこの家に長く尾を引きながら響いていた。
 ごめんなさい、と名雪を傷つけた私は、心の中で謝った。
 ――ねえ、あなた。
 私はまるで縋りつくように、懐かしいその姿を思い浮かべた。
 瞳で見ることの叶わない、指先一つでさえ触れることの叶わない、今はもう透明になってしまったその手のひらを思い浮かべた。
 私たちの名雪はこんなに優しいのに、こんなにも苦しい思いをしています。もしもあなたが世界のどこかで、この大地の上で、あの空の上で、光さえも届かぬような遠い星の片隅で、私たちを見守ってくれているのなら。
 どうかこの子を抱きしめてあげてください。お願いだから――。


* * *


 午後6時から始まるはずのパーティ会場に、午後6時になっても、誰一人訪れることがなかった。
「……みんな、来ないね」
「……そうね」
 名雪の口調は乾いていた。それは冷めていたり、無関心だったりするわけではなく、昨日さんざん泣きはらしたせいで、流すべきものを全部流してしまっただけのことだった。
「結局、このうちでクリスマスパーティをするのは、お母さんとわたしだけなんだね」
「……」
「寂しいけど、考えてみれば毎年そうだったもんね。ちっとも寂しくなんてないよね」
 私は黙って名雪の頭を撫でた。
 そのときだった。ピンポーン、という長いチャイムが、うちに響いたのだった。
 名雪はいちはやく立ち上がって、戸惑ったような様子でリビングの入り口と私の顔を見比べていた。私が小さく頷くと、名雪は無表情に頷き返して玄関に走っていった。私も後からついていった。
「……はい」おっかなびっくりドアを開く。そこで名雪が「――え?」と声を上げていた。名雪の見たものを続けた見た私も、「え?」と同じ声を上げていた。
 なんとそこには、サンタクロースの格好をした香里ちゃんがいたのだった。
「メリークリスマス、キュートなお嬢さん。ちょっとお邪魔させてもらうわよ」
「うわ、すごいよ香里。どこでそんな服見つけてきたの?」
「ふふふ、聞いて驚きなさい。実はあたしのハンドメイドなのです」
「あと、その格好のままここまで来たの……?」
「クリスマスだからなんでもありでしょ。このくらいで恥ずかしがるなんてナンセンスよ」
 香里ちゃんは窮屈そうにブーツを脱ぐと、どすどす音を立てながらリビングに上がり、どっこいしょ、と掛け声をかけて大きな袋をツリーの根元に下ろした。
「プレゼント、預かってきてるわよ。みんなから」
「――え?」
 名雪は声を上げた。
「『私たちも、勝手なこと言ってごめんなさい』――ってさ。まったくもう、謝るなら面と向かって謝りなさいって感じよね? ……ってそりゃあたしも同じか。あたしだって、誤解して名雪のこと、傷つけちゃった一人だもんね」
 こほん、と香里ちゃんサンタは咳払いをして、まっすぐ名雪に向き直った。
「――ごめんね、名雪。本当に」
「……かおりっ」
 名雪は香里に抱きついていた。「ああもう、やめなさいこのっ。ああもうあんた涎出てるし涙出てるし鼻水出てるしって胸で拭くな胸で!」
 よく見れば名雪は香里ちゃんの胸に顔をこすりつけていた。ずびずびという絶対に詳細を想像したくないような音がひっきりなしに響いて、香里ちゃんの悲鳴といやな具合に混ざっていた。
「香里、胸ふかふか! さすがバスト83はちがうね!」
「な、ななななななななにをトチ狂ってるかこの子は! このバカー!」
 色々じゃれ合い始めた二人を見ながら、私は開け放ったままの玄関の外で、靴が砂利を踏む音を聞いた。
「今ちょっと上がれない状況になっちゃってるけど、ちょっと待ってる?」
「あ、はい……もうちょっとしてから……」
 私は苦笑しながら振り返った。そこには、ピンクの紙袋を抱いて立っていた隼人くんが、顔を赤くして俯いていた。
 私は名雪の受け売りで、ちょっと悪戯心を出して聞いてみた。
「うらやましい?」
「い、いえ! そんなことは!!」
 ぶんぶんぶん! と顔を横に振る隼人くんだった。
 それから彼は真面目な顔になって、私に話しかけてきた。
「その、ちょっとだけお話、聞いていただけますか」
「ええ、私でよければ」
「ぼく、昨日、すごく水瀬先輩を困らせてしまったんです。勝手なことを言って、先輩の気持ちなんて何にも考えずに自分を押し付けて……。そのせいで、先輩、嫌な思いをしたと思うから……。傷つけてしまったことを、謝りたくて」
「そう……」
 うーん、やっぱり個人的にはすごく名雪にお似合いだと思うのだけど……。
 でも、何故か直感のようなもので、名雪がそういう意味で『すき』になるのは、この子ではないんだろうと思っていた。もちろんそれが誰かまでは、まったく予想もつかないけれど……。
 やがて隼人くんの後ろに、もう一人やってきた。そしてもう一人、また一人、今度は二人いっしょに……。
 集まった子供たちはみんな、ばつの悪そうな顔をしていた。
 だから私は、つとめて明るい声を出していた。
「名雪は淋しがりやだから、みんなが来てくれなくって落ち込んでるのよ。だからみんな、もっと笑って、ね?」
 だって、今日はクリスマスイブだから。
 世界的な祝福の雪が降る日に、誰一人悲しい顔なんか、しなくていいはずだから。
 さら、と強い風が吹いた。三日続きの晴れの日の、暖かなクリスマスイブの風だった。


 ――この家は、にぎやかな方が、楽しいからね――


 あ、と私は顔を上げた。
 まるで目に見えない誰かの指が、そっと手紙を渡してくれたように、不意に思い出す言葉があった。
 そういえば、それは私の口癖ではなく。


 ――だから僕がいなくなっても、秋子、そんな顔をしないでおくれ――


 私の、最愛の夫の口癖であったことを。




「さあ、パーティを始めましょうか」
 そして私は、この家の中で、精一杯の笑顔を浮かべていく。
 それは2年前、祐一さんが、この街に帰ってくる前の物語。
 私と名雪が暮らし、祐一さんが過ごすことになるこの家で起こった、ささやかな思い出の一欠片だ。
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