――その夜にあるのは、空を満たす月と星。静謐な空間を保つ風の音と、冬の大気の冷たさ。人影などはどこにもなく、学園の正門はぴたりと閉ざされ、人の侵入を無言で拒んでいた。
 門を閉じるとはそういうことだし、鍵を掛けるのは安全と用心のためだが、相沢祐一はお構いなしに正門を乗り越えた。そこに躊躇いは見られず、むしろ手馴れた様子であったことは、何度もそうしたことを繰り返してきた証だったが、今宵それを留めるものもいなければ、咎める声もまたなかった。
 夜。その呼び名に相応しくこの時間――氷点下の寒さということも含め――学園を訪れるものはいない。近くには住宅街もない。そう。例え今、目の前の校舎の中でどれだけ泣き叫んでも、誰にも聞こえない。人が殺されても、誰にも分からないかもしれない。闇が払われ、朝の光に照らされるまでは。

 学園の中は檻。
 塀に囲まれた空間を侮蔑にそう称しても何ら不都合はなかった。

 校舎の中に入るとそれが顕著になる。
 空虚に満たされた廊下に教室、足音は煩わしいほど耳に付くのに風はいつまでも囁かない。吐き出した息は白く、リノリウムの床は冷たく窓も冷たく、空気が重たく張り詰めている。祐一は思わずのっぺりと平面な表情を作った。ふと思う。何を見て感じ、耳を澄ませば、この檻で笑顔を作れるのだろうか、と。少なくても自分では無理だと思った。ひとり孤独にこの場所に居ることなんて耐えられない。そんなの、体よりも心が凍えてしまいそうだった。
 顔が固まる。目を険しいくらい細くして、無表情になる。

 魔物。

 ひとりの少女をこの場に縛る存在に憎しみと苛立ちを覚えた。
 魔物さえいなければ、心からそう思う。何故、魔物が生まれたのか。真剣にそのことを吟味したことはなかった。書物は眉唾、誰に相談しても一笑されるだろう物事。確かに、目の前に在るもの。が、眼では知覚できない不確かなもの。
 分からない。何も見出せない。誰も信じない。魔物の存在理由(レゾンデートル)は、どこにある?
 この場所以外、夜の校舎の外側にも魔物はいるのだろうか。祐一はそれを考えたことが一度だけあった。悩んだ結果、考えるべきことではないとやがて悟った。眼に見えない不確かな殺戮者が街に放たれている。それが、どれほど恐ろしいことか。
「いや……」
 笑えない冗談だ、そんなものは。猛獣とひとつ屋根の下暮らす方がまだ心の平安を保てるなどと。

 夜を跋扈する魔物は残り三匹。その少女の言を信じることに躊躇いはなかった。
 そして、終局を見届けることに迷いもなかった。

 早く舞のところに行こうと祐一は足早に階段を上った。
 カツンと。靴が音を立てる。静寂を守る夜の廊下にそれは場違いなほど響き渡った。本来、祐一はそんな小さなことなど気を掛けないのだが、今日だけは何故か嫌になるくらい耳に付く。カツンカツンと。低く連続して後ろから鳴り響くのだ。カツンカツン。それが癪に障る。歯軋りするほど嫌になる。
「……連続して?」
 その考えにぞっとした。魔物はこの夜の校舎の中にいる。が、今まで舞と落ち合う前に魔物と遭遇したことはなかった。その保証のない安心が、祐一を盲目にさせた。気がかりという誘惑に負け、愚かにも後ろに振り返る。
「――え?」
 一目散に走り抜けていれば、助かる余地は百にひとつは掴めたかもしれない。だが、現実は呆気ないもので、振り返った祐一の顔に生暖かい何かが触れた瞬間、パンと小さな乾いた音が響き、ついで眉間を何かが貫いていった。
 体をだらんとさせたまま、階段を落ちる。何の抵抗のしようのないまま、廊下にキスをする。頬に当たるリノリウムの床の冷たさが、何とも心地よくて自分を眠りに誘っているかのようだった。
 俺、死ぬのかな? そんな感傷も夜の静けさに閉ざされ、消えていった。



 Kanon ―another story― 世界の果てでアイに哭く獣たちの賛歌



 ソレは、穏やかな朝日だった。
 閉じていた瞼に赤みが差し、脳がまだ寝ていたいと主張する、普段と変わることのない朝。目覚ましを止めた覚えはない。うたた寝のまま、それが鳴るまでこの状態を維持しようと思考を止める。が、途端、あまりの痛みに無理やり意識が覚醒させられた。
「つぁ! 何だ、これ……」
 衝撃はまず右肩に来た。筋肉痛に似た体のだるさを全身に感じて表情を崩す。起き上がれるかどうか――まあ、十分その力は残っていたが、出来れば見っとも無くも誰かに肩を借りたかった。
 それほどまでに、肉体は疲労している。
「つーか、床かてぇよ」
 記憶は未だ曖昧だったが、こんなところで倒れている事情はすぐに呑み込めた。
 魔物に負けたのだ。どうしようもないほど、徹底的に。不意打ちだったなんて言い訳もない。それが、夜における死闘なのだ。
「あーあ、舞も助けてくれりゃあいいのによ……」
 それでも泣き言を言ってしまうのは、仕方のないことだと思いたかった。
 立ち上がる気力はまだ湧いて来そうになかったが、夜はすでに開けている。学校の廊下で倒れている人間がいれば、登校してきた学生の中のお人よしが助けてくれるだろうと楽観視した。だけど、何をしていたのか当然問われることになる。これは少し不都合だった。

 魔物退治。ああ、馬鹿馬鹿しい。

 学校側にはいくらでも言い訳はできそうだが、世話になっている親戚の親御さんには下手な言い訳は無理そうだった。祐一も要らぬ心配なんて掛けたくはないし、いつ来るかも分からない誰かを待ち続けるのもよく考えれば苦痛でしかなかった。
「しゃーねえ。動くか」
 朝はまだ早いのか、学校には人の気配を感じなかった。祐一は壁に寄り掛かって立ち上がる。ふう、と息が漏れた。額に何か違和感があるなと思っていたが、血の跡がかさぶたとなって残っていた。
 よく生きてたな俺、と変に感心してしまう。
 苦笑に微笑に、失笑の混じった哄笑を上げる。暫くの間、ひとりケラケラと不気味に笑った。
「くくく、ホント……こりゃ参ったわ」
 そしてひと通り笑い終えてから、体を引き摺るように祐一は廊下を歩き始めた。
 向かう場所は、とりあえず保健室にしようと思った。

 幸い保健室には誰もいなかった。本当に幸いだったのは鍵が掛かっていなかったことだったが、この学校は得てしてそういうことが多くいちいち気にしていられない――が何となく、都会とは違って用心という心構えが希薄なのかもしれないなと思った。獅子身中の虫を地で行く自分には有難いが、薬品のある保健室と科学実験室の戸締りはきちんとしてほしいものだと場違いにも溜息を吐く。
「こういうのも盗人猛々しい、というのかな?」
 反省のない声を上げながら、祐一は適当に戸棚を漁った。救急箱のようなものが目に留まり、それを手に取る。
 服を脱ぎ、丁寧に傷口を雑菌して簡単な治療を済ませるが、打撲はどうしようもなくシップを張ることくらいしか出来なかった。まあこれだけでもかなり違うのだが、全快というには程遠い。保健室のベッドが魅惑的に祐一を誘っていたが、制服も着ずにここに居座るのは躊躇われた。
「ああ、しかし何だ……結構丈夫なんだな、俺の体」
 ズキズキと痛みはするが、まあそれだけだった。額には少し傷痕が残っていたが包帯を巻けば十分に隠れたし、見た目の体裁も何とか繕える。それでも秋子や名雪の心配の種には変わりないだろうが、血をダラダラさせながらよりかはいい。
 一端、大きく深呼吸して背筋を伸ばし、体のどの部分の痛みが大きいのか確認した後、ああそうだ、と時計を見る。
 まだ学校は静かだし朝早いんだろうな、と思い込んでいたが、
「……は?」
 眼が点になる。十時丁度くらいを時計は指し示している。未だ学校に人のいる気配はない。
 それが何故なのか考え、
「ああ、そういや、今日は日曜日だったな……」
 答えが出ると呆気ないものだった。それでも、部活や当直の先生がくらいはいるのではと思ったが、朝の寒いこの時期に無理を押して部活などするものか。そんな持論を祐一は簡単に通した。
 それならそれでこのままベッドで寝ていようかとも思うが、腹がぐ〜と鳴り、どうやら栄養を欲しているらしく、誰もいないということは食堂も開いていないということだったから、大人しく祐一は家に帰ることにした。
「結局、朝帰りか……秋子さんより、こりゃあ名雪の方が怖いか」
 家に帰るまでに体のいい理由を捻り出そうと思案しながら、保健室のドアを開ける。
 冬の控えめな日差しが一際眩しく瞼に差し込んでくる。
「いい天気だな」
 それが、祐一が穏やかでいられた、最後のひと時になった。

     ◆

 学校を出ても暫く祐一はその違和感を読み取ることが出来なかった。
 あるはずのものが、どこにもない。それが何故なのか、壮大すぎて呑み込めないのも事実であるが。それでも時間が経てば、大抵、気が付く。変だな、と祐一がまず感じたのはコンビニのシャッターが下りているのを見た時だった。
 首を傾げるが、そのまま通りに出る。閉店していることもなくはないだろう、と。しかし二つ目の違和感――信号が真夜中みたく点滅しているのを見ると、流石にぞくっと背筋が凍った。
 わけの分からない衝動が胸に湧く。それは焦りだったのかもしれない。
 ここに来るまで、誰にも出会わなかった。その事実を思い出し――だが、言ってしまえばたったそれだけのことなのに、祐一は居ても立ってもいられずに駆け足で商店街の方に向かった。誰でもいいから、人に会いたい。開いている店がひとつでもあればいい。
 白い息が乱暴に口から漏れる。肩で呼吸をしながらの疾走だった。
 もともと地理的に学校から商店街は近いし、少し歩いていたこともあってそこに辿り着くのに時間は掛からなかった。この街でもっとも賑やかな場所、店が立ち並んでいる商店街の様子を見て、はははは、と祐一は空虚しく笑った。その後、豪快に咳き込んだが。

「ほら、見ろ……」
 すべての店のシャッターが下りていた。
 人の姿など影も形もない。
 そこにあるのは、無人の街だった。
 不気味なほど、空が広い。

 本当に、笑うしかなかった。

「は、はははは……」
 何とか気を落ち着けようとする。世界に俺だけしかいないなんてことはないと自分に言い聞かせる。そんな妄想めいたことが頭を横切るのは、テレビや漫画の見過ぎのせいだ。単なる偶然に決まっている。家では名雪と秋子さんがなかなか帰ってこない自分にやきもきしているはずなのだ。
 そう考えると、心を平静に保つことが出来た。二三深呼吸して、水瀬家に帰ろうと踵を返す。その時。
 上空から音が聞こえた。それも騒音の類。
 この街に来てから聞くことは滅多になかったが、これは間違いなくヘリのローター音だった。
 空を見上げる。
 案の定、薄水色の空を翔けるヘリの姿があった。が、祐一は疑問に眉根を寄せる。なんか今まで見てきたヘリの形状とはまったく違う印象を受けたのだ。目を凝らして更によくそれを観察する。
「アレって……」
 迷彩模様に二つのプロペラが付くそれは、軍用のヘリのように思えた。それこそテレビでしか見たことないが、重厚感溢れるそれは民間機とはとても思えない。それが凄まじい速度で遠ざかり、祐一はそれが見えなくなるまで目で追った。その後、出て来たのは溜息。いろいろな感情がそこに込められていたが、安堵の息だったとは思う。
 誰もいない世界。なんて馬鹿な妄想をしていたのだろう、と。
「けど……」
 これはこれで非常事態なのは間違いなかった。どうして街が無人なのかの疑問が残る。確か――工事現場などで戦時中の不発弾が発見された場合、一時的に非難勧告が出るらしいがそれだろうか。それなら、軍用のヘリが街を飛んでいる説明も付きそうだが。しかし夜から朝までの自分が気絶していた時間内に、これほどまで鮮やかかつ速やかに非難ができるものなのだろうか?
 ――よく分からない。このままこうして頭を捻っても答えは出そうになかった。
 幸いにして電気はまだ通っているらしい。家に帰り、テレビでも見れば今の情勢が分かるかもしれない。それに、本当に不発弾の類だとしても、簡単に暴発させるほど自衛隊も金食い虫ではないだろう。だから、ここにいても安全だ。焦る必要はない。
 その考えに達した時、
「君! おい君!」
 とんでもない声量が耳の奥を震わせた。
 いつの間にか、深緑のジープが近くに止まっていた。そこから身を乗り出して、ひとりの青年が大股で自分の方に向かってくる。ごくり、と祐一は息を飲んだ。その人物は若々しいがどう見てもかたぎのものとは思えない。あのヘリと同じ迷彩模様の制服。
 軍人――否、日本に軍隊はないから、自衛隊員と言うべきだったが。

 ――不味い!?

 祐一は何故かそう焦りを感じた。
 誰でもいいから人と会いたいと願っていたはずなのに、今はあからさまに顔が曇る。
 青年が伸ばす手から逃れようと祐一は体を捻るが、がしっと力強く肩を掴まれた。日本という安全大国とは言え、自衛隊員に拘束されるなどあまりにぞっとしない。一種の錯乱状態に陥りその手から逃れようと祐一は暴れるが、意外にも彼は――ぐっと強くこちらを抱き締めてきた。
「良かった。本当に良かった……」
「……え?」
 それはあまりに乱暴で勘違いを起こさせるものであったが、間違いなく抱擁の類だった。青年の上げるその声が今にも泣き出しそうなものだったのが祐一を困惑させたが、逆に変な安心感も生まれた。どうやら、この自衛隊員は自分をどうこうしようとしているわけではないらしい。

 何と言うか、凄惨な戦地において居るはずのない生き残りを見つけたような、そんな仕草……。

(……何だそれ?)
 咄嗟に浮かんできた自分の考えに、口元が引きつった。
 待て。整理しよう。まだ俺は混乱してるんだ。昨日、夕食を食べてから少し居間でくつろいで、いつも通り学園に忍び込んだのが十一時頃だ。それから魔物にぼこぼこにされて、気が付いたら朝。ここまで分かる。うん、確かだ。それで、今日は日曜日なので学校は休み。だから、学校に誰もいないのも頷ける。それから外に出たら、無人の街。人っ子一人おらず……。
(……は?)
 何か抜けてないか? 祐一はそう思うのだが、今知りえる情報はそれだけしかなかった。体が冷える。走ってきた時に掻いた汗が風に晒され、一気に冷えたのかもしれないが。次第に足が震え始めて、衝撃が全身を駆けるのは遅くなかった。
 冷静に冷静に、と祐一は装うとする。が、体の震えは止められない。
 人を引き離すには乱暴なほど力を入れて、バーンと青年の胸を押しのける。
「なんだよ……これ、なんなんだよ……!」
 何で街に人がいないのか。どうして自衛隊がここにいるのか。どういう状況なのか。それを聞こうとしただけなのに、言葉は足りず拙く、感情だけが口に出る。それが気に障った、というわけでもないだろうが、その青年は見て分かるほど同情しきった目をこちらに向けてきた。それを見て、祐一は泣きそうになった。なぜだか分からないが、すごく自分が惨めに思えてきたのだ。
「見ての通りだよ」
 青年は首を振り、零した。
 それじゃあ説明になってないと祐一は青年の襟首を掴んで更に問い詰めようとしたが、
「街の住人は避難させた……」
 見るからに厳しい顔つきをした男が、低音に告げてきた。
 青年の上官か。それが青年のすぐ後ろで、目つき鋭くこちらを射抜いている。何となくその姿を見て祐一は小学校時代の教頭先生を思い出した。廊下でふざけているとひょっこり現れてこちらを叱る怖い存在だった、あの時の。子供の頃に感じたその威圧感のまま、中年の男性はそこに立っていた。
「名目上、飼われていた猛獣が逃げ出した、ということにしてあるが――は、この街に残っていたんだ、君も気付いているだろう? 特別指定生物アンノウンと我々は呼んでいるが……」
 そこで彼は面白い冗談を思い付いたというように、煙草で黄色に染まった歯を剥き出しにして笑ってみせる。
 祐一に悪い予感を与えるには十分すぎる、とても厭らしい笑みだった。
「姿の見えない大型生物なんてこの世界のどこにいる? あれは、そう……言うなれば魔物だな」
「安藤一尉!」
 青年がその悪ふざけを嗜めようと叫ぶが、祐一の耳にはもう残らなかった。
 ――魔物。
 あの夜の少女、舞の口以外からその呼称を聞くと、まるで悪い夢でも見ているような気分になった。

     ◆

 カメレオンはどうして見えなくなるのか? 簡単に言えば、周囲の色や模様と同化する性質があるからである。アメリカ軍ではこの仕組を解読して不可視の兵隊装備を実用化しようとしているらしいが、実用に至ったという話はない。当然だ。光学迷彩など今世紀中に実用化できる代物でないことは日本でも同様の見解だった。それでもまず、自衛隊はその可能性を考慮した――が、夜にそのアンノウンと交戦した時に、それが何とも馬鹿らしい説であったのか思い知らされた。
 それは、酷く古典的な殺戮だったと安藤一尉は語る。彼は前夜、魔物との戦いで一個小隊の分隊長をしていたが、壊滅に相当する損害を受けた。当人も肌で感じたようだが、目に見えない熊が暴れまわっているような印象を受けたらしい。無論、それは本来漏らすことの許されない情報だったが、彼の唇の滑りは思いのほか良かった。

 振り返れば、彼はこの時すでに狂い出していたのかもしれない。

 祐一は呆然とその話を聞いていた。
 頭が混乱して、何度もこれは夢じゃないのかと疑いもしたが、冷静に与えられた情報を受け止めようとする。
 ――魔物が街に現れた。なんて夢のあるお話なのだろう?
 頬に当たる風は、ジープの速度もあるのか凍えそうなほど冷たい。が、逆にそのお陰で冷静さを保っていられるのかもしれない。無理に二人にジープに乗せられたのは今でも不満に思うが、逆らっても無駄だと感じたし、何より向かう先の避難所に街の住人の点呼表があるらしく、秋子と名雪の安否を知りたいと祐一が思ったのも事実だった。
 当初祐一は、秋子さんや名雪が自分の帰りを待って避難を遅らせているかもしれないから家に帰りたい、と主張したがそれは有り得ないと二人の自衛隊員は返した。
 口論しているうちに根本的なところで話が食い違っていると感じた青年の隊員は、今日が何日なのか祐一に訪ね、返ってきた答えに額に手を当てた。わけが分からず顰めた顔をするが、今日は二月三日だよ、の言葉に祐一は眩暈を覚え、二日半も自分が学校で気絶していたことをようやく知った。街に避難勧告が出たのはあくまで一日の午後とのこと。逆算すれば、祐一が気を失った後すぐに街に魔物が溢れ出したようだった。

「今向かっているのが、第一防衛ラインなんだ……まあ、二日前まではそこが最終だったんだけど、アンノウンの活動が予想を遥かに超えてて、今はあの商店街を中心に丸で囲んだ百キロ範囲が立ち入り禁止になってるよ。まあ、あんなの相手に予想も何もあったもんじゃないし、正確な数は把握できてないけど、被害者も結構な数に達してると思う……本当に君は運が良かったよ」

 言った後、青年はしまったという風に口に手を当てた。
 祐一はオドオドしく口にする。
「あの……」
 が、祐一はそれ以上聞けなかった。
 自分がいた商店街のことを青年が指しているのは分かった。被害がかなり出ていることも。だからこそ、俺の家あの近くなんですけど大丈夫なんですか? なんて野暮なことを聞くことが祐一には出来なかった。
 代わりに、別のことを口にする。
「その……さっきから言ってるアンノウンって何なんですか? 本当に生き物なんですか?」
「そうだね……」
 変なことを言った自覚が責任を持たせたのか、隣でジープを運転する上官をちらりと横目で見た後、
「上層部ではカメレオン機能を有した夜行性の大型獣としているよ」
 青年の言葉に、祐一は頷くことが出来た。
 それなら、姿が見えないことも説明できるし、梟のような夜行性だとすると夜にしか現れない理由にもなる。獣というのは元来なわばり意識が強いと話に聞いたことがあるし、夜の校舎にしか現れない理由もばっちりだった。
(あれ? でも、それって)
 問題が残る。いや、問題が残るどころかそんな仮説、夜の校舎で実際に魔物と戦ってきた祐一には穴だらけに思えて仕方なかった。青年もそれが分かっていたのか、
「けど、断言してもいいよ。存在するわけないんだ、そんなものが」
 隣でジープを運転している一尉が、祐一をからかうように続けた。
「だから言っている、アレは魔物だ。じゃなけりゃあ、説明が付かん! 小僧、オレの部隊が何の対策も取れずに壊滅したと思うか? こちとら職業軍人だ、ヤラレで終わるほど人間できてない。別に不可視なのもこの場合、問題にならない。生物である以上、隠せないもんがあるからな。分かるか、小僧!」
 小僧という呼び方に異を唱えたくなったが、首を振り、祐一は先を促した。答えてきたのは青年の方だったが。
「体温だよ」
「……体温?」
「赤外線……暗視スコープを使えば、事足りるはずだったんだ。少なくても『居る』ということが分かる。それが」
「それが、意味ねーと来たもんだ。何より分からないのは、死体が残らないことだ! なぜ、どうしてだ?」
 ちくしょう! と一尉がハンドルを叩き、ジープが大きく揺れた。

 祐一はぎょっと体を膠着させた。
 そうだ。そうだったんだ。確かにアレは魔物に違いない。ここ一週間ほどで舞は二匹魔物を仕留めたが、死体なんて残らなかった。生物である以上は、死んだら魂が消えるだけで体は残る。それを死体と人類は呼んでいる。が、それがない。残らないのだ。そんなものを普通の生き物のカテゴリーに入れること自体が間違っている。
 何故、そのコトの重大性に今まで気が付かなかったのか、祐一は今更、肝が冷える思いだった。

 マモノハイタンダ。コノ世界ニマモノハ本当ニイタンダ――!

     ◆

 まるで戦争でもしているみたいだ、というのが第一防衛ラインに着いた時の祐一の感想だった。
 平たく言えば軍の駐屯地であるのだから装甲車がずらりと並ぶ光景や機関銃を携帯している人間の姿など予想して然るべきだったが、状況に頭が追い付いて来なかった。ここは本当に日本なのか、そう疑いたくもなる。が、駐屯している場所はどこかの学校の運動場であるのだから、皮肉な話だ。否定しても仕方ない。事実だけを受け止める。
 緊迫した空気が漂う中、祐一は案内された仮設テントに向かった。そこで簡単な質問と身元確認をするとのことであるが、
「やめて! 離してよ!」
 テントの奥から聞こえてきた声に度肝を抜かれた。ヒステリーを起こしたようなこの女性の声に聞き覚えがあったのだ。
「あたしは避難なんかしない! しないったらしない! 妹を見つけるまでは!」
「か、香里!」
 思わず、祐一は叫んでいた。
「え?」
 と、香里もこちらを見る。
 暫く、呆然と祐一を眺めていた香里だったが知り合いに出会えた安堵からか、強張っていた顔が氷解した。祐一もそれは同じで笑顔が自然と零れたが、香里はだらしなく頬の筋肉が抜け落ち、きょとんとした顔の後すぐに涙目に変わった。
「相沢君! 相沢君! わーーーーーーーーん!」
 一目散に香里が祐一の胸に飛び込んでくる。状況がそうさせたのは分かっているが、香里のこんな弱々しい顔を見るのは初めてだった。だからか、そうすることがとても自然なことに思えて、祐一は胸の中で泣く香里をぎゅっと抱きとめた。
 それでも、香里の涙が止まることはなかった。
 泣きじゃくる香里を胸に、ああ、ここは戦場なんだ、と祐一は改めてそう感じ取っていた。

 簡単な取調べを受けた。
 魔物と遭遇した時の状況と気付いたことや知っていることがあれば教えてほしいと請われたが、祐一は舞のことに付いて喋る気にはなれなかった。ソレは多分、重大な情報だと祐一は思う。あの夜の校舎の魔物が本当に街中に現れたのだとしたら、今までのことを何もかも話して打開策を取ることが相応しいのも分かっている。ただそれでも、孤独な夜の戦いを続けてきた舞のことを悪く言われるような気がして喋れなかった。前から魔物のことを知っていたことを話す自分というのもあらぬ誤解を招きかねない、そういう保身があったのも否定はしないが。

 それから、別のテントに移されて食事を少し取らせてもらった。味気ない携帯食だったが、三日も何も食べてなかったのだ、腹に収まるなら何でも良かった。ここまで連れて来てくれた自衛隊の青年が、避難はヘリですることになったから一時間ほど待っていてくれと言った。祐一はそんなものか、と頷いた。
 やや遅れて香里がテントの中に入ってきた。医務室で横になっていたらしいが、まだ疲れは抜け切っていないのか目を虚ろにさせ、祐一の隣に座ってくる。寄りかかる様に香里は頭をこちらの肩に当ててきた。香里がどういう状態にあるのかいまいち掴めなくて何度か喋り掛けてみたが、返事はなかった。このまま暫くは、そっとしておいた方がいいのかもしれない。
(今頃、舞……どうしてるんだろう?)
 ぼんやりそんなことを考える。街に魔物が溢れたということは、舞は負けたのだろうか。そんな下らないことが脳裏を横切る。でも今まで魔物が学園の外に出なかったのは舞がそれをさせなかった、という意味合いにも受け取れた。舞がずっと魔物を牽制してくれていたから、街は平和だったのだろうか?
 多分、その想像は正しい。
 だったら、
「……何だよ、それ」
 目頭が熱くなった。
 舞が生徒会に睨まれたのはこの際どうでもいい。学生たちの中傷さえも今はどうでもいい。
 彼らは知らなかった。だが、俺は知っていても何も出来なかった。その違いがとても大きいもののような気がしてならなかった。舞が魔物との戦いに負けた、というなら今どういう状態に陥っているか想像できないわけじゃない。ただその結果が、あまりに残酷で無慈悲なものでしかないことに祐一は知らず、涙を零した。
 この世界に神様はいない。奇跡なんてない。それなのに、魔物がいる理不尽。
 本来、有り得ることのなかった未来に世界は傾き始めている。
 この結末に、ハッピーエンドはあるのだろうか?
「……栞とはぐれたの」
 隣でずっと肩を並べて座っていた香里が口を開けた。
 ともすれば、聞き逃しそうなか細い声だったが、ひとり言じゃなくそれはきちんと祐一に対して訴え掛けていた。
「栞って……あの、栞か?」
 学校の中庭に遊びに来ていた少女の名前の祐一は思い出す。でもあの時の香里はそんな子のことは知らないと言った。あたしに妹なんていないとまで。いつしか栞は中庭に現れなくなり、祐一も舞のことに掛かりきりになってその少女のことは忘れていたが。
「あたし、悪いお姉ちゃんなの! ……あの日は、栞の誕生日で久しぶりに病院を出て来れたのに、あたし冷たく当たっちゃって……プレゼントも用意してなくて……頑張ってたのに、それでも、あの子は生きることに頑張ってたのに……」
 息も絶え絶えに、
「朝、起きたら家の中ぐちゃぐちゃで……栞、居なくなってた」
 香里はまたぐずり始めた。幼い子供がそうするように。
 顔を手で覆い絶望に、泣く。
「居なくなってたの!」
「……香里」
 祐一は香里の肩に手を回してぐっとこちらに抱き寄せた。
 世界は冷たく戦場は儚く、冬の凍えるような大気の中でも、二人身を寄せ合うこの肩の温もりだけは本物だと信じたかったから。



 悲しみは続いていく。
 果てしなく、終わりなく、この街に漂っている。

 ……待ってるから。

 そう、声が聞こえた。

 ……待ってるから。ひとりで戦っているからっ……。

 それは、少女の声だった。

 戦いは続いていく。
 果てしなく、終わりなく、この街に炎を振り撒いている。



 夢を見ていた。
 懐かしく、とても悲しい夢だった。
 それが、単なる夢想か、はたまた過去の記憶の亡霊かを考えてみるが、ざわめく周囲の気配に目覚めの余韻はすっかり飛ばされた。体を起こそうとすると、肩に寄り掛かっていた香里も揺られ目を覚ましたのか、うとうととした顔で祐一を見る。二人とも意識こそはっきりしてないが異常事態であることは、耳をつんざく轟音を聞くだけで事足りた。
「相沢君、これって!」
 返事するより早く、祐一はテントを飛び出していた。
 そこに広がる光景を見て、絶句する。
 グランドの真ん中に着陸してきたのだろうヘリが炎上していた。自衛隊の隊員は無線のやりとりと救助活動に懸命になり、グランドを駆け巡っている。もやもやと勢い良く上がる黒煙が、何故か祐一には戦いの狼煙のように思えて仕方なかった。
「退避! 退避! 早くヘリから離れろ!」
 誰かがそう叫んでいる。野太い声が鼓膜を震わせるが、更に大きく、ドン、とヘリが爆発を起こす。ガソリンに引火したのだ。爆発の余波で砂煙が巻き起こる。
 祐一の隣に駆け寄った香里が、目の前の様子を見て、ぐっと顎を引いた。
「相沢君……あたし、行く!」
 凛々しい、というにはあまりに険しい顔をして、香里は駆け出そうとした。
「行くってどこにだ!」
 慌てて、祐一は香里の服の袖を掴んだ。
「あたし達の街に決まってるじゃない! 栞はそこに――そう、きっとあたしが来るのを待ってるの! 今なら、ここから逃げられる……誰にも邪魔はさせないからっ!」
 それは、狂気の眼差しだった。
 髪が風に煽られほつれ、何日も寝てないのか良く見ると目の下にクマも出来ていたが、香里の目は生きている。ギラギラと。蝋燭の炎が最後に一瞬、大きく燃え上がるような儚さで。激しさで。

「――――!」

 祐一はギリッと唇を噛んだ。
 このまま、自衛隊の指示のまま避難する方が良いに決まっている。その方が安全なのは目に見えている。魔物がたむろする街に戻るなど、自分でも何を考えているかと正気を疑いたくなる。
 けど、
「……分かった、俺も行く」
 答えなんて決まっていた。舞と一緒に最後まで戦うと決めたのは自分なのだ、後戻りなんて出来ない。もう一度、舞と会いたい。だから、この道を行く。真っ直ぐに、迷わない瞳をして、祐一は香里の手を取った。
「相沢、君……いいの?」
「話は後だ、急ぐぞ!」
 砂埃なんてすぐに収まる。学校を抜け出したことはあるが、今の相手はヘボの教員じゃない。屈指の自衛隊相手だ。この好機を逃して、ここから脱出する手立てなんてない。
 過去、自分が通っていた学校すべてのグランドの見取り図を頭の中に思い浮かべて、目の前の学校にトレースする。出口はどの辺にあるか、いやそれより塀を乗り越えた方が良いか、瞬時に判断して行動する。
 街中に入り隠れてしまえば、見つけ出すことはそうそう出来ないはずだ。後は闇雲でも構わない。勝負の鍵を握るのは、この一歩目になると確信した。
 この間、僅か二秒ほど。祐一は香里の手を引っ張りろうとするが、銃声が響き、足元にそれが掠めた。
「――動くな!」
 ごくりと息を呑んで、目を上げる。そこにいたのは、祐一を連れて来てくれた自衛隊員の片割れだった。確か、安藤と呼ばれた――生粋の、軍人。その軍人の眼は、香里以上に凄惨だった。
(なんて……イカれた眼をしてやがる!)
 銃を突き付けられる、いい経験してるぜ、そう思う。が、無論、笑えない――はずなのに、笑いが込み上げてくる。はははは、と哄笑しそうになるのを止める方が、恐怖に打ち勝つよりも難しかった。
(俺も、案外……狂っているのかもな……)
 それでも、香里がこの手を握っていてくれる限り、正気は保てそうだった。
 そのことに、感謝する。
「何だよ! 俺に銃向けて何したいんだよ、おっさん!」
「は! 逃げようとしている奴に言われたくないな。ええ、小僧!」
「気が変わったんだよ。ガスの元栓に家の戸締り、一度気にし始めるとさ……確かめないと、どうも落ち着かない性分でね」
「コレを前にしてよく吠える」
 馬鹿が。心臓が飛び出しそうなほど怖いに決まっていた。
 現実感がないなんて言えない。黒光りするソレはあまりにも美しく、自分に向けられているから。あのトリガーを少しでも引けば、凶弾があっさりと体を貫いていく。残るのは、己の死体だけ。もしかしたら、罪と罰も……残るかもしれないが。
 一歩も動けそうにない。息を呑むことさえ出来ない。
「大体、変なんだよ。オレの部隊が全滅したのに、小僧も……そこの女も、どうして生きている? あの街で。あ地獄のような街で。どうして……なぜ無様に、お前らは生き残っている!」
「……あんた、何を言ってるんだ?」
 理解できない。俺達が逃げ出して悪戯に戦場を掻き回すことになるのを咎められるのなら分かるが――それでも銃を突き付けられる理由になるとは思えないが――生きていることの何が悪いのか分からない。論点がズレている。目の前の男が何を憤慨しているんだ。
 それにしても、何だこの状況は?
 テントの外でヘリが炎上していた。故障でもしたのか詳しいことは分からないが、自分らを避難所まで連れて行ってくれるはずだったヘリであることに疑いはなかった。太陽の様子を見る。まだ昼過ぎ……三時くらいだろうか。薄い水色の空は寒々しいが、夕焼けは遠く、夜は更に遠くにあった。昼間に魔物は現れないはずだ。じゃあ、ヘリが爆発したのは事故? 偶然?
(このタイミングでか?)
 はっと眼を見張った。
「オレは思うんだよ……お前らが、奴らの仲間じゃないのかって……!」
 ――狂ってる!
 理屈がない。根拠がない。ただ目の前の相手を憎むことで罪から逃れたいような、そんな言い草。壊滅したという部隊の責任と命の重さに潰され、ひょっこり現れた祐一にそれらすべてを背負わせようとしている、狂気の眼差しだった。
「そんなもんに付き合ってられるか!」
 砂埃が晴れていく。このまま動かなければ男は撃って来ないだろうが、それでは強制避難は免れない。しかし死ぬよりはマシだ。学校に行く……舞に会いに行く機会は、また別にある。いや、舞がそこにいる確証もない。分かるのはここで無理に動けば、犬死するという事実と結果だけだ。
 動くな。動くな。動くな。理性はそう訴えているのに――
 自分の手をぎゅっと握る香里の手に、祐一は(何だ、たったそんなことで)覚悟を決めた。
 香里の手を強く握り返す。焼きが回ったな、と思っていた矢先、
「いる!」
 静寂を乱すように、誰何の声がこの場を一瞬、冷ややかにした。
 風にすべての砂埃が巻き上げられた後、
「――いるぞ!」
 何がいるのか、誰も聞き返さなかった。それだけで隊員には分かったし、祐一たちにも理解できた。
 澄み切った視界に動く影は何もなく、キーンと張り詰めた気配だけを祐一は敏感に感じ取っていた。
 確かにいる。奴らが。
 そして――

 ドドドドド、ドドドド、ドドドドドド! パンパンパン!

 校舎の窓、ジープのフロント硝子、信じられないことに装甲車にもデコボコが刻まれていき、ソレはついに現れた。
 不可視の存在。魔物。
 待機していた隊員らがまるで嵐に巻き込まれたように、次々と吹き飛ばされていく。三流映画のコメディを見ているかのようなシーンが、目の前で起こっていた。
 否、嵐なんて生易しいものじゃなく、カマイタチ――吹き飛んでいくほとんどの者が、体を裂かれていた。
「つぁぁぁぁぁぁ!」
 男が、安藤と呼ばれた自衛隊員が狂気の声を剥き出しにして、悲鳴の上がる墓標に走り出した。すれ違い様、祐一は男のその瞳に涙が溢れているのを見た。そのすぐ後、バシュと短い音がして、祐一の目の前に足が落ちてきた。ゴロンとそれは転がり、軍服の袖口から血がドクドク地面に染み込んでいく。
 途端に香里の手が、重くなった。
 息を吐く。香里の腰が引けているのが、文字通り手に取るように分かった。
 振り返れない。後ろで銃声が今も響いている。そんな戦場を少しでも見てしまったら、恐怖に足が震えて一歩も動けなくなる。ぐおおお、と勇気を振り絞りダンと踏み込んで、祐一は香里の重たくなった手を強引に引っ張った。
「振り返るな! 行くぞ、香里!」
 香里は、うんともすんとも言わなかったが、それでも自分に着いて来てくれる気配があった。
 まさに一目散。
 今も戦場と化したグランドからはマシンガンの音や、爆発音が聞こえていたが、逆にそれがいい隠れ蓑になった。
 祐一は走った。
 息継ぎなんて出来ないほど、ぜいぜいと白く息を吐き出して闇雲にただ、雪の街を駆け抜けた。

 それからどれくらい時間がたっただろうか。
 いい加減、力尽きて足がヘトヘト言うことを利かなくなっている。随分と走って来たつもりだったが、実際は三キロ程度の距離しか稼げていないのかもしれない。足よりも、右手の方が棒だった。どだい、こんな状態で走り続ける方が無理だったのだ。でも、香里の手を離す気にはなれなかった。こうして少しでも人の温もりを感じていないと、どうにかなりそうに思えたから。
 それでも、ここまで来れば銃声も魔物の気配もない。
 一端、落ち着こうと息を吐き、祐一は激しく息を乱しながら香里の方を振り返った。
「……あれ?」
 そこには、誰もいなかった。
 真っ白な街並み。突き抜けるような空。手の平には確かに香里の手の感触があるのに、目の前は誰もいなかった。わけが分からず、祐一は首を傾げて自分の手が握っているものを見た。
「……あれ? 何これ……?」
 だらん、と祐一の手にぶら下がる、香里の手があった。状況が上手く呑み込めない。普通と違うのは、第一関節まででそれが途切れていることだったが。よく分からない。断面からはシトシトと血が零れていた。
「……血?」
 無表情で祐一は手をブンブン振った。
 それでも、香里の手は離れなかった。
 更に力強く、祐一は手を振った。
 それでも、香里の手はなかなか離れてくれなかった。
「離れろ! 離れろ! 離れろ!」
 どんなに振っても香里の手は、こちらに張り付いている。それが、凄く不気味に思えた。
 香里の手が揺れている。ブンブンと嬉しそうに祐一と握手をしている。
「離れろー!」
 祐一はとうとうレンガの塀に向かってそれを叩き付けた。ぐにゃりと本来なら有り得ない曲がり方をして、ソレは地面に落ちた。祐一はそこから後退り、距離を取ってから豪快に腰を抜かした。

 香里はどこだ? これは……何の悪い冗談なんだ? さっきまで香里と俺は一緒にいたんだ。この腕はなんだよ? 香里はどこに行ったんだよ! 俺が引っ張ってきたのは何なんだよ! この街は何なんだよ! どうしてこんなことになるんだよ! どうして、香里が――あの、香里が、

「死ななくちゃならないんだよ!」

 死。そう。ソレは死だった。
 自分を誤魔化すことなんて出来そうになかった。腕をもがれて生きているわけがない。例え息が合ったとしても、あの戦場に置かれて生きているわけがない。香里は死んだのだ。間違いなく、死んでいるのだ。分かっている。そんなことは十分に分かっている。
 それでも祐一は、
「戻らなくちゃ……あそこに、戻らなくちゃ」
 さっきまでとは打って違い、祐一は大切な宝石を扱うように香里の腕を拾い上げた。
 丁寧に埃を払って、胸に抱き締める。
「これも返さなくちゃ……香里にくっ付けなくちゃ……はは、ちょっと壊しちゃったみたいだし、香里に怒られないといいな」
 馬鹿なことしているぞ、と理性が囁く。
 こんなことをしても何もならない、と自分でも分かっている。でも、少しの可能性に懸け、香里がもし生き残っているのなら、腕がないと困るだろうし、自分が行かなくちゃ誰も助けてくれないかもしれないな、と祐一はそう自然に思った。
 それこそが、狂気の極みだとも知らずに。
 だが、そんな些細な狂気も許してくれないのか、祐一が胸に抱いた香里の手が消えた。
「……え?」
 と、思う暇もなく、綺麗さっぱり消えていた。
 感触があるのに。僅かに残った香里の温もりがあるのに。
 それが、何故、なのか分からず、祐一は呆然と立ち尽くしてしまった。考えに考えを巡らせ、

『死体が残らない』

 そんなことを聞いたような気がした。
 誰がそう言ったのかまで覚えてなかったが、ああなんだ、と祐一は頷く。
「……死体が残らないのは、魔物だけじゃなく人間もなのか」
 魔物がいつから夜の校舎に巣くっていたのかはしらないが、そんなガキの大好きなシチュエーションにおいて、今まで誰も被害に遭わなかった、というのは何とも不思議なことだと祐一は感じていたが、なるほど――死体が消える。現在社会なら、行方不明者扱いになる。家出として都合付けられたこともあるかもしれない。だったら、魔物のことは漏れない。誰にも。
 死体が残らないとは、そういうことだ。
「ははは……」
 そんな場違いな空笑いを残して、祐一は絶望に膝を付いた。

     ◆

 妙に、意識が冴えていた。
 空が霞み、赤く染まり行く頃、祐一は何者かが近づく気配を感じ取った。
 耳鳴りがして、足音のような残響が、ひゅうひゅうと風に乗り、街の中を過ぎ去っていく。
 ――何だか。
 とても疲れた。
 魔物がもう眼前まで迫っているのかもしれないのに、立ち向かう気力も逃げる気力も湧いてこなかった。
 もう何もかもがどうでもいい。
 殺すならとっとと殺せと諦めにも似た感情があるだけだった。
 眼を閉じる。肩を落として、頭をがくんと下げる。
 次に目が覚めた時、何もかもが終わっていることを、願って。

「祐一さん」

 突然のことに反応できなかった。

「大丈夫ですか、祐一さん?」
「――え?」

 祐一を労わるように優しく、目の前の女の子が頬を撫でてくれている。
 それはとても心地よく、疲労した体にまどろみを覚えさせるような、人を安心させる笑顔だった。
「……佐祐理さん?」
「良かった。祐一さん、無事だったんですね?」
 人懐っこい笑顔を見せる、倉田佐祐理になぜか祐一は違和感を持った。
(なんで佐祐理さんが、ここに?)
 見たところひとりだった。
 佐祐理がいいトコのお嬢さんであることは薄々感付いていたが、自衛隊が避難勧告を出すような場所にまで来られる権限があるとはどうしても思えない。さっきの第一防衛ラインのような場所で出会うならまだしも、こんな――祐一が闇雲に駆けて来たところで会う確立なんてどれほどのものなのか?
 更に言うなら、舞の誕生日に佐祐理は大怪我をして、病院にいるはずなのだ。
(だから、俺と舞は魔物と決着を付けようと……)
 夜の校舎に忍び込んだ?
「……あれ?」
 眩暈がした。そんな祐一に、どうしたんですか? と佐祐理は上目遣いに覗き込んでくるが、一度疑い始めるとその仕草すら、嫌悪と恐怖の対象だった。
「痛いところあるんですか?」
「触るな!」
 女の子にするにしてはあまりに乱暴に、祐一はその手を払い退けた。
「お前、本当に佐祐理さんなのか!」
「……え?」
 祐一が何を言っているのか分からず、佐祐理は困ったように顔を伏せた。自分の何がいけなかったのか、それを探るように眼を虚ろにさせる。それでも、祐一の疑惑の視線は消えなかったが。
 目の前にいるのはどう見ても、倉田佐祐理だ。人間であることに付いては間違いようもない。が、あの無残な戦場を少しでも齧ったのなら楽観的にはなれなかった。魔物。相手は魔物なのだ。どんな手で来るか、想像できたものじゃない。

 何だか……俺も、そんな風に疑惑の目で見られた気がするが……。
 遠い昔のことのようで、よく思い出せなかった。

「佐祐理は……」
 何か口にしようするが、佐祐理は思い詰めたように、口を閉じた。首を振り、もう一度、祐一の顔を見て、にこりと少し彼女にしては不器用に微笑んだ。それが、すべてを諦めたものが見せる顔なのか、それともすべてを受け止める覚悟をした顔なのか、今の祐一には分からなかったが、
「ちょっとだけ、動かないでくださいね」
 本当は触れられるのも嫌だったのに、金縛りにあったように祐一は動けなかった。頭の後ろに手を回されて、白いものが目に掛かる。包帯だった。今まで気付きもしなかったが、頭から血が出ていた。今朝、保健室で適当に治療を施したつもりだったが、全力で走ったためか、傷口が開いたらしい。佐祐理はそれを丁寧に、
「ごめんなさい」
 と、呟き、額に軽くキスをしてきた。
「佐祐理、さん……?」
 キスというより、額の傷口を舐めるように舌を這わせていた。消毒、なのだろうか? 良く分からない。でも、その唇から伝わる温もりは真実だと思えた。人にしかない、人にしか出せない温もりだと思った。
 上着のポケットから佐祐理は、持ち運びの救急用具を取り出し、大き目のバンドエイドを額の怪我の部分に張った。
「これで、もう大丈夫ですよ」
「……あ」
「祐一さんが佐祐理のこと不審に思うの、理解できます。だから、信じてくださいとは言いません。祐一さんとは本当に……偶然出会いました。佐祐理は、学校に行く途中なんです。祐一さんならご存知だとは思いますが、街を騒がしている獣の正体は……魔物、です。舞が懸命に戦っている魔物なんです!」
 真摯な瞳で、ぎゅっと手に力を込めて佐祐理はそう訴え掛けてきた。
 入院にいたから避難の理由も何が起こっているかも知らず、別の病院に移されたこと。報道されたニュースと生の住人の声を聞き、街を騒がしているものの正体に感付いたこと。それから、父の名を使い誤魔化し誤魔化し、自転車(電動付き)で何とかここまで来たことを詳細に語ってくれた。
「だから、佐祐理は――」
「……ごめん」
 泣けた。
 自分の弱さが恥ずかしくなる。が、我慢できず祐一は泣きじゃくった。頬を赤くし、鼻をもっと真っ赤に。
 どうして一時でも、佐祐理さんを疑ってしまったのだろう、と。
 涙が、溢れ、止まらズ――

 ドン! と乾いた音が響いた。

 視界にいたはずの佐祐理がダンプカーにでも轢かれたように、遠くの方に吹っ飛んでいった。
 キーンと耳鳴り。目を、くわっと見開く。一瞬、麦畑にでもいるような錯覚があったが、そんなもの――佐祐理が傷付けられた現実には、遠く及ばなかった。

 ――いる。確かに。でもどこに? 迷っている暇は、

 ズドン!

 次の衝撃は、祐一の腹を突き抜け行った。胃液の中のものが喉に押し寄せてくるが、佐祐理の貰った衝撃よりは幾分と弱い。だったら、自分の体など労わっている時間などない。ドテ腹に来たということは、魔物は目の前にいる! それが分かったなら、ヤルことはひとつだった。
「ぐおおおお!」
 当たりを付けて、無闇に祐一は突進した。途端、ゴンと肩に衝撃が来たが、ブツかった反動は向こうの方が大きいはず。祐一はそのまま足を踏み込んで、反対側の壁までソレを押し付けた。ぐにゃりと魔物が曲がる。魔物はこんなにもヤワだったのか、そう笑い出したくなる気分だった。祐一が両手で掴んでいる魔物は思いのほか、小さかった。
 ソレを祐一は殴り付けた。
 ガンガン! と幾度も何度も、拳が壊れるまで殴り付けた。

 ――イタイ。

 魔物がそう哭いたような気がした。

 ――イタイ。

 だが、魔物が哭くはずなんてないのだ。

 そうだ。
 そんな人並みに泣くことなど、獣に許されるわけがない!

 ひたすら必死に殴り続けた後、祐一ははっと顔を上げて佐祐理の方に駆け寄った。
 十メートル。いやもっとか。佐祐理が跳ね飛ばされた先に行くのに、どれだけ走らなければならないのか不安になるほど、その距離が膨大なものに感じた。地面に倒れ伏せている佐祐理を抱き起こし、
 目が点になった。
「……へ?」
 佐祐理は目を開けているのに焦点が定まらず、瞳が左右に離れ、肩に触れた手がべっちょりと血で濡れていた。頭部が出来の悪い粘土の工作のように有り得ないほど、陥没している。

 頭がズキンと痛んだ。
 何か、祐一以外の何者かが意識に介入したように、頭が割れそうに痛くなった。その別意識の訴え方が、あまりに強引で、祐一の脳髄はいつ焼き切れても可笑しくない状態にまで落ち込んだ。

 ――イタイ。
 ――イタイ。

「……痛いです」
「え?」
 ぞくり、とした。その声が、あまりにも懐かしいものだったから。一瞬、聞き間違えたのかと思った。歯がカチカチとなり、怖くて振り返ることが出来なかったが、
「痛いです、痛いです、お姉ちゃん」
「……誰にやられたの、栞?」
 その声を聞いて、もう確かめないことの方が怖くなった。
「香里か!」
 振り返ったその先に、祐一が魔物を殴り付けたあの場所に、栞のぼろぼろに壊れた顔があり、こちらを睨む人影もあった。
 栞は、その指先を祐一に伸ばしてこう言った。

「あの人がやったの」





 END.
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