朝の光で目を覚ます。
お日さまの光もかなり温かさを増した。
この町の長い冬も、もうすぐ終わろうとしている。
春が、もうすぐやってくる。
寒がりだったあなたが待ち望んでいた春が。

小さかった頃、祐一がわたしの家に遊びに来るのは決まって冬だった。
冬休みの始まりと共にやってきて冬休みの終わりと共に帰っていく少年は、わたしにとって冬の象徴だった。

だからわたしは、冬が大好きだった。
冬が終わり、春がやってくる。
大抵の人にとっては爽やかで解放的な季節の移り変わり。
でもわたしにとって春は、やっぱり寂しい季節だった。
祐一と会うには、春夏秋とあと3つも季節を過ごさなければならない。
春は祐一から一番遠い季節だった。

今年からは冬が終わって春が来ても祐一と一緒にいられるはずだった。
それなのに、やっぱり祐一は春になるとわたしの側からいなくなっていた。
わたしと祐一は冬の間しか一緒にいられない運命なのかもしれない。
そう考えたら、なんだか涙が出そうになった。

着替えを済ませ、自分の部屋を出る。
ふと隣の部屋のドアを見た。
7年ぶりにこの町に戻ってきた少し変わった少年の住む部屋。
そして今は主のいない部屋。
今にもそのドアから彼がひょっこり顔を出してくるような気がして、しばらく立ち止まって眺めてみた。
しかしどれだけ待ってもそのドアが開くはずも無く、わたしは当然の如く一人だった。
持ち主を失った部屋の名札は窓から吹く風に揺れもせず、今でも主の帰りを一人寂しく待っている。
今のわたしにそっくりだと思った。

祐一の行方は今でも分からない。



祐一がわたし達の前から姿を消したのは、ちょうどお母さんが事故にあった日の夜だ。
今夜が峠です、最悪のことも覚悟しておいてください―――
そうお医者さんに告げられたわたしは、家に帰って自分の部屋に閉じこもり、ひたすら泣いた。
わたしを勇気付けようとしてくれた祐一さえも拒絶して。
わたしの部屋の前で何度もわたしの名前を呼ぶ祐一。
わたしはただただ耳を塞いで、これが悪い夢であるように祈った。
何分後か、あるいは何時間後か。
ドアを叩くのを諦めた祐一は、どぼとぼとわたしの部屋の前から立ち去った。
泣き疲れて朦朧とした頭で、わたしは祐一が去っていく足音を聞いていた。
それ以降、祐一の姿を見たものはいない。

結局お母さんは一命を取り留め、祐一は姿を消した。
奇跡的だ、とお医者さんは言った。
だけど、わたしには祐一がお母さんの身代わりになったように思えた。



朝ごはんの支度をする。
お母さんがまだ入院しているので、この家にいるのは今はわたしだけだった。


「いただきます」


一人きりの味気ない食事。
こんな生活をもう2ヶ月続けてきた。
もしここに祐一がいたら、と思わずにはいられない。
お母さんが退院して、祐一が戻ってきたら。
またあの幸せな冬の日に戻れるなら。

はぁ。

溜息の音がやけに大きく響いた。




雨の音






今は学校も春休みなので、一日何もすることがない、という日が続く。
陸上の春の大会も近かったが、部活に参加する気にもなれなかった。
お母さんがまだ入院しているから。
祐一はまだ見つかっていないから。
そんな理由をつけて、陸上部にはしばらく休みをもらった。
正直に言って、何もする気になれなかった。

最近、祐一の部屋にいる時間が多くなった。
何もすることがない時、ふとした時に、自然と足が祐一の部屋に向かってしまう。
祐一の部屋にいると、何となく祐一の匂いがするような気がして落ち着くのだ。
あの時、祐一の呼ぶ声を無視したわたしが。
お母さんが危なかった時は、祐一の声なんて聞く耳もたなかったわたしが。
ちくりと胸が痛んだ。

祐一のベッドにうつ伏せになる。
・・・祐一の匂い。
それを肺一杯に吸い込んだ。
まるで麻薬を吸っているようだと思った。

ぼんやりした頭で、いつも祐一はこの部屋で一体何を考えていたのだろうか、と考えてみる。
7年ぶりに会ったいとこの少年。

待ち合わせの時間に2時間遅刻していったあの日、本当はとても不安だった。
ちゃんと話せるだろうか。
彼は変わっていないだろうか。
7年前の気まずい別れが脳裏によみがえり、わたしの不安をさらに大きくした。
でも、待ち合わせの場所に着いて、雪の積もった頭で震えながらわたしを待つ祐一を見たとき直感的に思った。
彼は変わってない。
7年前の、あの優しかった祐一のまんまだ。
嬉しくなって、なけなしの小遣いを使って、温かい缶コーヒーを買って持っていてあげることにした。

話をしていると、祐一の頭から7年前の出来事が消えていることに気づいた。
わたしの腕からはたき落とされ壊れた雪うさぎ。
その時一緒にわたしの初恋も砕けて散った。
悔しい気持ちもなかったわけではない。
でも彼が忘れたおかげで、今気まずい関係にならずにいられるのだったら、それでもいいと思った。
思い出せるなら思い出して欲しい。
けどそれが原因で今の関係が崩れるのなら、いっそこのままでもいい。
そう思ったのも確かだった。

7年前の気まずい別れが嘘のように、祐一とは良い友達、良い家族として打ち解けた。
心地よい日々だった。

ただ一つだけ不安だったのは、ごくたまに見せる祐一の目だった。
ここにいるのに、ここにいないような。
ここにあるものを見ながら、ここにないものを見ているような。
まるでそんなことを感じさせるような目をすることがあるのだ。
そんな時わたしは、祐一がまるで全く知らない人になったような、そんな錯覚を覚える。
祐一は誰に対しても気さくに打ち解けるけど、大事な部分には他人を決して立ち入らせない。
そんな雰囲気を持った少年だった。
いつも祐一は何を見ていたのだろうか。
きっと他人には見えないものを見ていた祐一の心には一体何があったのだろうか。

わたしはそのことを必死に考えようとしていたが春の陽気に負け、やがて眠りに落ちていった。



夢。
夢を見ている。
雪が降っていた。
雪が、ただでさえ白い町を、さらに白く染めていた。
わたしは誰かを待っていた。
・・・誰だった?
それを考えているうちに時間は過ぎた。

どれくらいたっただろう。
いつのまにかわたしの頭には雪が降り積もっていた。
凍えそうだった。
でもわたしは、感覚を無くしてしまったように、寒さを感じることはなかった。
わたしはまるで意志だけの存在になってしまったかのように、身体を動かすことが出来ない。


『・・・遅い』


「わたし」がふと呟く。
「わたし」?
違う。
これはわたしじゃない。
懐かしい声。
この声は。
この声は!
その時、どこからか声がした。


  『雪、積もってるよ』


「わたし」は顔を上げた。
声の主を見る。
それは紛れもなく「わたし」、水瀬名雪の姿だった。









あの不思議な夢の中。
わたしの意識は、どうやら祐一の身体の中に入ってしまっているみたいだった。
あの始まりの日。
祐一と7年ぶりに再会したあの日。
わたしの夢は、祐一の視点で、あの日をトレースしているようだった。

その夢を見た日、不思議なこともある、と思った。
祐一の部屋に染み付いた祐一の記憶がこの夢を見せてくれたんだろうか。
人が眠る時に見る夢には、記憶を整理したり、精神の安定を保つ効果があると、どこかで聞いたことがある。
だとしたらこの夢は、わたしの身体がわたしを慰めるために見せてくれたんだろうか。
わたしのこの身体もそんなに捨てたもんじゃないなと思った。

こんな夢は、これっきり。
わたしは当然そう思っていた。
しかし。
その日から、毎晩。
わたしは、「祐一」になる夢を見た。

愛しい祐一の身体に入って日々の生活を過ごす。
外から見た「わたし」のぼけぼけした様子に少し落ち込んでしまったりもしたけど。
安らかな冬の日の思い出に浸って、このままずっと眠り続けてもいい。
そう思ったこともあった。
毎日を眠ったような感覚で過ごすわたしには、あたかもそれはもう一つの現実のように感じられた。

あの日。

この町の案内がてら、二人で商店街に買い物に行った日。
わたしは祐一を色々引っ張りまわして、荷物持ちをさせた。
少し悪いな、と思いながら、祐一と二人で買い物をしている嬉しさでいっぱいだった。
わたしは、その日のことは良く覚えている。

しかし夢では、違った。
夢の中の「名雪」は祐一を商店街の入り口で待たせた。

あの時、わたしはそんなことはしていない。
夢だから、全てが「現実」と同じでである必要はない。
そう思いながらも、祐一の中にいる「わたし」は何故か落ち着かなかった。
「名雪」を待つ祐一。


『うぐぅ!どいてどいてどいて〜っ!!』


その後方から、騒がしい声が聞こえてきたと思ったら、その声の主が祐一にぶつかってきた。
背中に羽をつけたカバンを背負った、小さな可愛い女の子。

わたしは、その少女のことを、知らなかった。







あの奇妙な夢を見るようになってから、一週間が過ぎた。

夢の中では、相変わらずの日常を過ごしていたが、その中に一つだけ混じった異物が彼女の存在だった。
商店街で祐一にぶつかって来た少女。
そして、わたしの知らない少女。
彼女の名前は「月宮あゆ」というらしい。
どうやら、その子は祐一が7年前、この町にいた時既に出会っていた(と言う設定になっていた)らしい。
祐一だってこの町に住んでいたんだから、わたしの知らない子と仲良くなっている可能性は当然ある。
少しだけ、胸がざわついた。

夢の中で祐一は、香里の妹の栞ちゃんとも出会っていた。
栞ちゃんは病気がちで、学校を欠席することが多かったが、最近では元気に学校に通っていた。
わたしは香里の家に遊びに行った時に栞ちゃんにも何度か会ったことがあるが、
祐一が彼女と知り合いだった、という話は聞いていない。

栞ちゃんに祐一と「月宮あゆ」のことを聞いてみようか。
わたしは水瀬家の電話機の前で香里の家の番号を押そうとしては止める、ということを繰り返していた。

この夢は本当にあったことではないのか。
そして、この夢の中だけの登場人物である「月宮あゆ」とは一体誰なのか。
もしもこの夢が本当にあったことだとしたら、栞ちゃんは祐一と「月宮あゆ」に出会っているはずだ。

そこまで考えて、自分の考えに苦笑する。
夢の話に何をムキになっているんだろう。
こんなことは忘れていつものように寝てしまえ。
頭をからっぽにして眠ればあんな夢はもう見ない。

しかしそう思えば思うほどあの夢に固執していく自分がいるのも確かだった。
わたしの知らない少女と、日を重ねるたびに近づいていく祐一。
夢だと頭ではわかっていても、わたしはどうしても知りたかった。
何よりあの夢に染み付いた祐一の匂いが、わたしにあの夢を忘れることを不可能にしていた。

散々迷った挙句、結局わたしは香里の家に電話していた。

プルルルルルル

呼び出し音が鳴る。
香里の家に電話をかけるのは久しぶりだった。
思えば、香里には迷惑をかけた。
お母さんの事故、祐一の行方不明。
立て続けに災難に見舞われてふさぎ込んでいたわたしを、一番に心配して、支えてくれたのは香里だ。
もしも香里がいなかったら、わたしはどうなっていたかわからない。

カチャ


「もしもし。美坂ですけど」


香里の声だ。
春休みになってからは会ってはいないが、いつも通りのクールな声だ。


「香里?わたし。名雪だよ」

「名雪?珍しいわね、名雪が家に電話かけてくるなんて。今日はどうしたの?」

「ごめんね。ちょっと栞ちゃんに聞きたいことがあって・・・」

「栞?いいけど・・・勉強関係のことをあの子に聞いても分からないわよ?」


ふふふっとひとしきり笑った後、栞ちゃんと電話を替わってもらった。


「もしもし。代わりました。栞です」

「栞ちゃん?名雪です。元気だった?」

「名雪さんこそ・・・どうしたんですか?今日は」

「実は栞ちゃんに聞きたいことがあって・・・相沢祐一って人のことなんだけど、分かる?」


単刀直入に祐一の名前を出してみた。
しかし、祐一の行方不明は学校中で話題になったから、知らないという事はないだろうけど。


「相沢祐一って・・・あの噂の・・・まだ見つかってないんですか?」

「やっぱり栞ちゃんは祐一のことは知らない?」

「話には聞いたことありますけど・・・お姉ちゃんと名雪さんのクラスにいた人で、名雪さんの家に
下宿してる人でしたよね?」

「そう・・・やっぱり会った事はないんだ・・・」


少し落胆する。
夢では、私服で校舎の裏に来ていた栞ちゃんと祐一が会っていたのだが・・・そもそも栞ちゃんが
学校を頻繁に休んでいた、ということ自体無かったのだから当然かもしれない。
部活にも入らずに学校の行事にも参加したことがない祐一が、他学年の生徒と知り合う機会なんて
皆無に近い。
分かっては、いたんだけど。


「はい・・・何かお力になれれば良かったんですけど、お役に立てなくてすみません・・・」


本当に済まなそうな栞ちゃんの声。
むしろ訳のわからない質問で困らせているのはこっちだというのに。
わたしがこの姉妹には頭が上がらないのはこういうところなんだ。
最後に羽の少女についてだけ、聞いてみることにした


「いいんだよ・・・あともう一つ聞きたいんだけど、『月宮あゆ』って人知ってるかな?普段はダッフルコートに
羽がついたリュックを背負ってる背が低めの可愛い子なんだけど・・・」

「『月宮あゆ』さんですか?・・・うーん、わたしは聞いたことないです」



食材の買出しで商店街まで来た。
今家にいるのはわたし一人だから、何を作るにしても微妙な量になってしまう。
晩ご飯、弁当屋さんですませちゃおうかな・・・と、ふと思ったが、いやいやと思い直して買い物に向かった。
こうして毎日家の事をしていると、お母さんの凄さが身に染みて分かる。

先ほどの電話の内容を思い出す。
あの後もう一度香里に代わってもらって同じことを聞いてみたが結果は同じだった。


「名雪・・・あまり無理しちゃ駄目よ。何か困ったことがあったらいつでも言ってきなさいよね?」


そう言って香里は、まぁ名雪は良く眠るから大丈夫かもね、などと付け足して笑っていた。
本当に香里には頭が上がらない。
香里は春休み中も学校にたまに行って先生と話をすることが多いらしい。
きっとわたしや祐一の話題が出て、心配をかけることもあるだろうに。
こうしてわたしと話す時は、そんなことはおくびにも出さず普段どおりの調子で話してくれる。
わたしには出来すぎた友達だ。



ふと立ち止まった。
夕方の商店街はオレンジの太陽色に染まり、いつもと違う顔を見せていた。
夢の中で祐一が『月宮あゆ』と出会うのは、決まってこんな夕暮れの商店街だった。
誰かの視線を感じたような気がして、後ろを振り向くが誰もいない。
背中に羽をつけた、天使のような少女はこの世界にはいない。
そして、ぶつかられる相手であるはずの祐一すら、今はいなかった。
わたしが買い物してる間、たい焼き屋さんから逃げ回った『記憶』を少し懐かしく思った。

必要なものを買い揃え、店を出る。
さっきより少し薄暗くなった道を、家に向かって早足で歩く。
一ヶ月間祐一と二人で歩いた道。
雪が積もっていて、祐一が寒い寒いと言いながら歩いた道も、少しずつ春の気配を見せ始めていた。

なぜわたしは、こんなにもあの夢に拘るのだろうか?
夢は夢なのに。
だけど。
毎日同じことの繰り返しで、ただ祐一とお母さんの帰りを待つだけのわたしの現実。
それに比べれば祐一と『月宮あゆ』の夢のほうがよっぽど生きている実感があった。
例えそこにわたしがいなくても。
祐一がいて、祐一の匂いのする世界がある。
わたしの「世界」に祐一はいない。
そう考えるたびに、わたしの中で「現実」が不安定に揺れているのを感じた。
「夢」と「現実」の境界線。
その境目は、今のわたしには見えなくなってしまっていた。








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