電線がひと声、風に鳴いた。
 香里は足を止めて夜空を仰いだ。わずかにたるんだ電線が揺れて、悲鳴のような唸り声を上げている。
「どうした? もう、すぐそこだぞ」
「うん、ちょっとね」前方から聞こえた声に、香里は空を見つめたまま答えた。
「あの辺りで、何か光ったような気がしたから」
 指差した先。月のない夜の底に白く浮かび上がる電柱の間に、空と同じ深い藍色だけが横たわっている。薄く張った雲は星の光すら覆い隠し、青インクで塗りつぶしたような夜が続いている。
「電線が切れてるんじゃないのか? 危ないな。この辺まで台風は来てないと思ったんだけどな」
「違うわ。火花とかじゃなくて、もっとこうぼやっとしてて、緑色で……そう」
 そこまで言ったところで香里は上空に向けていた指を下げた。指はそのまま男の方を指したままぴたりと止まっている。
「あんな感じ」
 男は振り返った。街灯の無い住宅地は暗くしんと静まり返り、家々の窓からもれる柔らかな光だけが道路を淡く照らしている。点々と続くそんな橙色の明かりに混じってひとつだけ、ぼんやりと鈍く輝く緑色の光点が見える。
 二人はゆっくりと近づいていった。そしてもう一歩踏み出せば手が届くほどの距離まで近づいたとき、男が「ああ」とため息のような声を漏らした。
「信じられないな、こんな所で……蛍だよ、これ」
 夜光塗料のように弱々しいその光は、足を進めるごとに強く、あるいは弱く、波が打ち寄せては返すように明暗を繰り返している。こんな住宅地で、こんな北国で――どちらの意味にも、香里は頷いた。そしてできるだけ空気の流れをおこさぬよう「これよ、さっき上のほうで見えたのは」と、囁いた。
 擦れあった庭木の葉がざわめく。路地を通り抜ける風がふいごのように吹き付けては止まり、電線は歌うように鳴く。そんな風の管弦楽を指揮するように、蛍は専用の指揮台――相沢、と彫られた白い表札――の上で、強弱をつけながら光のタクトを振り続けていた。
「待ってな」不意にそう言うと男は少し身を屈めながら、そろりと光に向かって両手を伸ばした。その行動の意図に気づき、香里はとっさに叫んだ。
「だめよ、潤っ!」
 刹那、風が止まった。
 不意に訪れた静寂の中で響いた叫び声に男の――北川潤の指もまた、動きを止めた。その指を掠めるように緑色の光がすり抜ける。そして飛び立った蛍は二人の周りをふわりと一周したかと思うと一筋の燐光の軌跡を残しながら、つい、と門柱の裏へと消えていった。
「香里ぃ……」
 恨めしげに唸る北川に、香里はもう一度諭すように「だめよ」と消え入りそうな声で言った。
「お盆の蛍ってね、死んだ人の魂がこの世に帰ってきた時の姿だって言われてるのよ。だから……ね」
 あ、と北川は声を漏らした。そして蛍が消えていった門柱に向かって頭を下げ「すまん」と一言だけ呟いた。
「もう、入りましょう。遅くなっちゃったし。それに――」
 いつの間にか吹きはじめた風に舞う髪を手で押さえながら、香里はドアへと続く石畳を歩きだした。
「風が……強くなってきたわ」
 二人がドアの向こうへと消えた後で、一際強く風が吹いた。その風は門柱の下にまとめられていた送り火の燃えさしを吹き散らし、石畳の上に点々と黒い線を描いた。
 やがてそれを待っていたかのように、門の影から緑色の光が飛び込んできた。その光は燃えさしの線をなぞるように飛び、ドアの前で音も無く掻き消えた。
 屋根の向こう側でもう一度、電線が鳴いた。














風の盆
















 香里はゆっくりと目を開けた。合わせた手のひらの向こうで、小さな写真が静かに笑っている。短くなった蝋燭の上で儚げに揺れる炎。その横では新しく供えられた線香が白い煙を一筋、吐き出している。小ぶりの茄子や胡瓜に串を刺して作られた牛馬、落ち着いた色合いの花、果物、脇に置かれたぬいぐるみ――足の短い広テーブルの上に造られた簡単な祭壇ではあるが、それらの品がとても丁寧に並べられている。
「ありがとね、香里。遠いのにわざわざ来てくれて」
 名雪はそう呟くように言った。
「東京のほうは、台風直撃だったんだろ? 電車とか大変だったんじゃないか」
 その後ろでは祐一が、座布団を準備しながら北川に話しかけている。嫁さんの実家の帰り道だし、気にするな。そう前置きしてから北川が言った。
「まあ飛行機はほとんど欠航だな。ある程度予想はしてたから、今回は電車だけで来ることにしたんだが……正直、こんなにきついとは思わなかったよ。やっぱりココって、かなり田舎なんだよなあ」
 北川は壁にかけられた時計を見た。すでに文字盤は逆L字を描いている。そして真面目な顔で祐一に言った。
「お前、よくこんな所に住んでられるな」
「お前らの故郷だろうがっ」
「あんたたち、本当に仲がいいわね」
 呆れ顔で香里が言う。
「二人とも、高校の時から全然変わってないよね」
 名雪は苦笑しながら、祐一と北川のやり取りを眺めていた。
「まあ二人とも、よく来てくれたよ。ありがとな」
 少し照れたように笑う祐一に、二人は頷いた。
「一年ぶりだよな。去年の――葬式以来か」
 その言葉には、二人は何も答えなかった。



 傾けられたグラスにビールが注がれた。
「おい、泡ばっかりじゃないか」
「あたしは少しだけでいいわ」
「これは名雪の分な」
「わ、ありがとう、祐一」
 温かい光の中で言葉が飛び交う。寿司、唐揚げ、ビール、チーズ、スナック菓子、ウーロン茶、枝豆、ピザ、スコッチウイスキー、ポテトサラダ――テーブルに所狭しと並べられた料理は手作りではない。だが気心の知れた友人同士の会話は、最高級の料理すらも凌駕する美味を醸し出す。
 全員分のビールを注ぎ終わった祐一が、グラスを持ちながら言った。
「じゃあ、乾杯といこうか」
「誰が音頭とるんだ?」
 北川が尋ねた。
「決まってるだろ。俺たちのチーム名は何だ?」
 全ての視線が一斉に香里に集まる。
「頼むぞ、リーダー」
「お願いね、香里」
「あたしもう『美坂』じゃないんだけどなあ……」
 口調は渋ってはいるが嫌そうな表情ではない。
「『北川チーム』にはならないのよね?」
「そんなかっこ悪いチーム名になったら、俺は即刻脱退する」
「わたしも」
「言われてみれば、あたしも嫌ね……夫婦別姓も本気で考えてみようかしら」
「お前らな……」
 北川が泣き出しそうな表情で唸る。
「それとも今からでも、『美坂潤』になる?」
「名前負けしてるぞ。せっかくの高貴そうな苗字が台無しだ」
「言われてみれば、そうだよね」
「うえーん」
 とうとう泣き出した。
「冗談よ。しょうがないわね」と咳払いを一つはさんで、香里はグラスを高く持ち上げた。
「それじゃあ美坂チームの、変わらぬ友情にっ」
「乾杯っ!」
 掛け声と共にグラスが飛び交い、琥珀色の軌跡が光のトライアングルを描き出す。透明なガラスの縁はぶつかり合うたびに金属的な高音を発し、橙色の明かりを反射してきらきらと輝いた。テーブルに落ちる薄い影が形を変え、ぼやけた光の輪の中へと解けていった。



「そうは言ってもな、共稼ぎには共稼ぎなりの苦労があるんだよ」
 お前は水瀬との結婚が早かったから分からないだろうけど、と付け加え、北川は唐揚げを口に放り込んだ。
「普通に考えても給料が二倍だろ? 割りはいいと思うがな」
「そんな単純じゃないっての」
 カットグラスに氷を入れながら答える祐一に、北川は口を尖らせた。
「家事の分担ぐらいはオレだって喜んでやるさ。問題はさ、男としてのプライドってやつなわけよ」
 そこで香里が、何言ってるのよ、と口を挟んだ。
「仕事はやめなくていい、香里が望むなら主夫にだってなってもいい、だから結婚してくれ、って泣きついたのは誰だったかしら?」
「いいなあ、香里は。祐一なんてそんなこと、一度も言ってくれなかったよ」
 ちらりと横目で祐一を見ながら、名雪が言った。口に入れた寿司をビールで流し込みながら、北川は喚いた。
「いや、仕事をやめてほしいとか家庭に入ってほしいとか、そういう問題じゃないんだ。ただその……男としての意地っていうか」
「あたしは潤がそうしてほしいなら家庭に入ってもいいんだけど。今の仕事、人生の全てを賭けて打ち込めるかって考えるとちょっと微妙なのよね」
「だったら香里に仕事やめてもらってもよかったんじゃないか? 香里だってそう言ってるんだし」
「そうじゃないんだ。個人的な感情というか、何というか」
「はっきりしない奴だな。何なんだよ、共稼ぎなりの苦労ってのは」
 ぐっと言葉を詰まらせて北川が唸った。
「香里の年収がさ、オレよりもずっと多いんだよ」

 先ほどからグラスのビールが減っていないことに気づき、祐一が瓶を差し出した。だが香里はそれを手でやんわりと制する。
「あたしはウーロン茶、いただくわ」
「なんだ香里、最初から全然飲んでないじゃないか。チーム一のうわばみだったろうに」
「体の具合でも悪いの?」
「ちょっとね」香里は照れたように笑いながら、チラリと北川のほうを見る。北川もまた口元に笑みを浮かべながら、頭を掻いた。その仕草に名雪の目がぱっと輝く。
「あ、もしかして香里……」
「いつもの便秘か? 食物繊維を多くとるといいぞ」
 祐一は山盛りの千切りキャベツが乗った皿を香里の前に置いた。
「ちがうよ〜」
 名雪が呆れ顔で非難の声を上げる。
「気が利いているように見えて、実はものすごく失礼よね。相沢君って」
 香里はふう、と大きく息をついて言った。
「デリカシーが無さ過ぎるよ、祐一は。それに、鈍すぎ」
「キャベツは生命の野菜だ。食物繊維だけじゃなくて、ビタミンも豊富なんだぞ。ジアスターゼやペプシンといった酵素が消化を助け……」
「お前いつからキャベツ博士になった」
 馬鹿馬鹿しい、でもどこか懐かしいやり取りを、名雪は呆れながらも目を細めて見守っていた。
「でもキャベツを食する場合はできれば温野菜にしたほうがいいな。特に妊娠初期の妊婦にとっては体を冷やすのは大敵だからな」
「だからもうキャベツは……って」
 言いかけて、北川は言葉を止めた。祐一はかまわずに続ける。
「キャベツと生命とはもともと密接な関係があってな。子供に『赤ちゃんはどうやって産まれるの?』と聞かれた場合『コウノトリさんが運んでくるんだよ』と答えるのが普通だ。ところが『じゃあコウノトリさんはどこから赤ちゃんを運んでくるの?』と突っ込まれた場合にはどうするか? こう答えるんだ。『山奥の秘密のキャベツ畑で採れた赤ちゃんを、コウノトリさんが運んでくるんだよ』とな。要するにだな……」
 不敵な笑みを浮かべながら祐一は言った。
「おめでとう、このスケベ野郎」
「……黙れ、モラトリアム中年」
 祐一の体がばねのように飛び出した。そしてそのまま北川の背後に回り、首に二の腕を絡ませる。祐一の腕に力が込められた。
「さあて、幸せ真っ盛りの新米パパ君。白状しろっ。何ヶ月目だ?」
「わ、ちょっ……くるし……ヤバイって相沢っ!」
「一応、三ヶ月よ」
「おめでとう、香里〜」
 祐一たちの騒ぎには我関せずといった表情で、落ち着き払った香里がウーロン茶を啜りながら言った。
「おお。ってことは」
 北川の首に片方の腕を絡ませたまま、祐一は指を折りはじめた。
「仕込みは五月か」
「わっ。祐一、なんてこと言うんだよ」
「言うと思った」
 祐一の言葉には我関せずといった表情で、落ち着き払った香里がかっぱえびせんをつまみながら言った。
「新緑の息吹薫る五月の昼下がり、小川のせせらぎがかすかに聴こえる土手でシロツメクサと土の匂いに包まれながら、貴様はあんなことやこんなことをっ!」
「なんだその、妙に細かいくせに思い切りステレオタイプなシチュエーションはっ!」
「じゃあ白状しろっ。場所はどこだっ? 計画的犯行かっ? 実は失敗しちゃいましたかっ?」
 再び北川の首を締め付けながら、祐一はまくしたてた。すると突然、その腰にがっしりと北川の腕が回された。
「いい加減にしやがれ」
 北川の腰が沈み込んだ。次の瞬間、祐一の体はふわりと重力を失う。「わっ」と短い叫び声を残して、祐一の体は空中に抱え上げられた。
「わ、わ。あぶないよ、二人ともっ」慌てふためく名雪とは対照的に、香里はやれやれといった表情で二人を眺めている。
「ヘイ、香里!」
「おっけー」
 北川の合図とともに、香里の手から座布団が投げられた。パフン、と乾いた音を立てて足元に落ちる。それを確認し、北川は再び大きく腰を落とした。祐一の体は背中から抱え込まれるような形で北川に持ち上げられている。
「形勢逆転、だな」勝ち誇った声で北川が言った。
「なるほど、この下半身力のおかげってわけか。本番でもこうやって香里を――」
 北川はその声を遮りながら言った。
「相沢……あんまり自分を責めるなよ」
 祐一はびくりと体を震わせた。
「お前は昔からそうだ。自分がつらい時ほど馬鹿やって、何でもない振りをして――俺たちの前だったら、弱いとこ見せたっていいんだぞ」
「――かっこつけるなよ。北川のくせに」
 軽口を叩きながらも、祐一の声はかすかに震えている。
「サンキュな……それとおめでとう。がんばれよ、オヤジ」
 北川はああ、と小さく頷いた。
「それとな、先に謝っとく。すまん、相沢」
「……どういうことだ?」
「手が痺れて体勢を戻せない。つまり――」
「つまり?」
 北川は顔を真っ赤にさせて答えた。
「このまま投げ捨てるしかない」
「って待てコラ――冗談だろ、おい」
 祐一がわめいた。
「諦めろ」
「諦めろ――じゃねえっ! 香里っ、助け」
 言い終わる前に、北川の腰が跳ね上がった。
 座布団式スープレックス(投げっ放しバージョン)。
 祐一の体は完璧な数学的アーチを描き、轟音と共に座布団の上に叩きつけられた。祭壇に乗せられた胡瓜の馬が一頭、床に転げ落ちた。



「しっかりやれよな、北川」
「……ああ」
 床に仰向けに寝転びながら、二人は息を切らせながら言葉を交わした。
「子供ができるって……家族を作れるって、いいもんだぞ。幸せな家庭を作れよな」
 腕で隠された表情の向こう側から言葉が絞り出される。子供を諭す父親のようなその低い声は、わずかに振るえていた。
「絶対に……俺たちみたいにはなるなよ」
 祐一は独り言のように呟いた。俺たちみたいには、なるなよ。俺たちみたいに――。聞き取れないほどの小さな声で、何度も何度も繰り返した。
「相沢も――あんまり無理するなよ」
 繰り返される声は、いつの間にか嗚咽へと変わっていた。



 北川はテーブルの下に転げ落ちた胡瓜の馬を拾い上げた。足のバランスが悪くなったのか、茄子の牛の横に立たせようとしてもうまく立たない。少し考えて、茄子の牛の体に胡瓜の馬の首を寄りかからせた。二匹はぴったりと体を寄せ合いながら、その八本の足でテーブルの大地を踏みしめている。時間を切り取られたやわらかい小さな笑顔が、祭壇の奥から二匹をじっと見守っていた。
 体を起こして頭をさする祐一に、北川は尋ねた。
「夏美ちゃん……あのとき、いくつだった?」
「……二歳だ」
 そうか、と北川は頷いた。酒のせいもあるのだろう。祐一の目の周りはわずかに赤みがかっている。
「じゃあ……来年は幼稚園だな」
「……そうだな」
 遠い目をしながら祐一は答えた。
 ね、相沢君。と自分の腹にそっと手を乗せながら香里が言った。
「あたしね、子供ができたって分かったときに思ったのよ。もしかして、あの子の生まれ変わりなんじゃないかって。でも……そうじゃないのよね。たとえ短い間でも、あの子の人生はあの子のものだわ。誰も代わりになんてなれない。それにこの子の人生だって――あの子の人生の代わりなんかじゃあない。今はあたし、そう思うの」

 線香はすでに燃え尽きていた。細長い短い灰が数本、折り重なるようにしてやっとその形を留めている。長かった蝋燭も姿を消し、燭台の上にわずかに残された蝋の欠片の真ん中で、小さな炎がちらちらと揺れているだけだ。脇に置かれた蛙のぬいぐるみの瞳が寂しげに光っている。蝋燭の炎がわずかに震えるたびに、そのプラスチックの瞳は涙を堪えているかのようにきらきらと輝いた。
「祐一はね、あの日からずっとずっと悔やんでたんだよ。夏美が産まれたときにわたしとした約束、守れなかったって。『夏美は、俺と名雪で絶対に幸せにしてやろう』っていう約束、守れなかったって」
 泣き出しそうな声で名雪が言った。その言葉が終わるのを待っていたかのように蝋燭の炎が少しずつ小さくなり、最後に一筋の煙を天井に上らせ、そして消えた。ぬいぐるみの黒い瞳は輝きを失い、何もない宙をただじっと見つめていた。



「――」
 不意に、香里は顔を上げて辺りを見回した。
「ん? どうした?」
 尋ねる北川に、気のせいかしら、と香里は首をひねった。
「今ね、誰かが呼んだような気がしたから」
「香里をか?」
「よく分からないわ」
 気のせいだろ、と北川は言いかけて、言葉を止めた。
「――聞こえた」

 祭壇と逆側の白い壁。そのやや右寄りに、木目調の細長いドアがあった。そのドアの端がほんのわずか開かれ、新聞がやっと挟めるくらいの隙間を作っている。明るい部屋の中から見えるその隙間は細く、暗く、その奥の様子をうかがい知ることはできそうにない。だが確かに声はドアの向こう側から聞こえていた。相沢、と北川が促す。祐一は静かに立ち上がり、ドアの前に立った。銀色のノブがゆっくりと引かれる。廊下の暗闇を部屋の中に招きいれながら、ドアは音もなく開いた。
 香里は息を呑んだ。
 少女はそこに立っていた。背中の辺りまで伸びた長い髪。たくさんの猫の顔が描かれた、黄色いパジャマ。とろんと下がった、泣きはらしたような目。母親をそのまま小さくしたようなその姿を見て、香里は声を漏らした。
「夏美……ちゃん?」
 少女の両目からはぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちていた。パジャマに点々と染みをつくりながら、少女は涙を拭うこともせずに泣き続けている。そしておとうさん、と一言呟くとふらふらと近づき、ぐずりながら祐一の足にしがみついた。
「おとうさん……おとうさん……」
 祐一の両腕がその小さな肩を抱きとめる。
「どうした、夏美? おしっこか?」
 夏美と呼ばれた少女は祐一の胸に顔を埋めたまま、小さく首を振った。そしてくぐもった声を漏らした。
「おかあさんが……」
「夢……見たのか?」
 夏美はこくりと頷き、祐一にしがみついたまま部屋に一歩足を踏み入れた。
 そのとき、少女の表情が変わった。糸のように細められていた両目は大きく開かれ、口を閉じることも忘れじっと部屋の中を凝視している。
「おかあさん……いるの?」
 夏美は祐一の足の横から部屋の中を覗き込もうとする。祐一はその肩を掴んだ。部屋に入ろうとする夏美の前に立ちふさがり、その小さな頭を手のひらで軽くぽんと叩く。そして「いないよ」と一言呟き、夏美の体を廊下へと向けた。
 その間ずっと香里の陰に隠れるようにして、名雪は下を向いていた。膝の上に置かれた両手が、ぎゅっと握られた。
「おかあさん……」
「ほら、夏美。お父さんが一緒に寝てやるから。な?」
「おかあさんが……」
 祐一に連れられて歩き出しても、夏美はその言葉を幾度も繰り返した。
 名雪は顔を伏せたまま、何も答えなかった。ただ何かに耐えるように、すぼめた肩を小刻みに震わせていた。



「起こしちまったかな。俺たちがあんまり騒いだもんだから」
 祐一が夏美の手を引いて廊下の向こうへと消えたのを見て、北川はドアを閉め、低い声で言った。
「オレさ、分かる気がする。夏美ちゃんにとっては、水瀬はずっとずっと母親なんだよな」
 名雪は黙っていた。床の一点を見つめたまま、二人の顔を見ようともしなかった。
「今さらこんなこと言っても仕方ないけど、水瀬だって悪いだろ」
「……」
「ちょっと、潤……」
 香里が慌てて制する。だが北川は淡々と続けた。
「どんな事情があるにせよ、母親としての義務を果たせないっていうのは、ある意味で無責任だよ。例えそれが――」
「潤っ! 名雪の前よっ!」
 たまらずに香里が叫んだ。
 その強い語気と香里の表情に、北川は声を詰まらせた。そして苦渋の表情で「すまん」と頭を下げた。
「いいよ、べつに」
 名雪は静かに立ち上がった。そして頭を下げる北川を見下ろしながら、力なく言った。
「北川君の言ってることは全部本当のことだから。無責任なのは……わたしのほうだから」
 そして「ごめんね」と言葉を残して、そのまま部屋を飛び出した。
 時計はもう、日付の変わる三十分前を指していた。



「帰りは飛行機、使うんだろ?」
「終電で空港までは行けるからな。ホテルで一泊した後、早朝の便だ」
 祐一、北川、香里の三人は玄関で別れを惜しんでいた。
「今日はありがとな、相沢」
「久しぶりに会えて楽しかったわ」
 香里はふと思い出したように、相沢君、と真剣な顔で正面から祐一を見据えた。
「あんなことがあったんだから、会うのがつらいとか会わせる顔がないとか思うのは分かるけど……あたしね、秋子さんを呼んで一緒に暮らすこと、考えるべきだと思うわ。夏美ちゃんのためにもね」
「……そうだな、考えてみるよ」
 祐一は力なく笑いながら言った。その顔を見て、香里も少し安心したように表情を和らげた。
「じゃあそろそろ、おいとましようか」
「秋子さんに、よろしくね」
「こちらこそ。妹さんにもよろしくな」
 香里はほんの少し、口の端を持ち上げて言った。
「栞、会いたがってたわよ。あの子、相沢君の隠れファンだったみたいだから」
 そうなのか、と祐一は苦笑いをしながら頭をかいた。
「いつか栞もつれて遊びに来いよ。姉妹二人でな」
「オレはいらないってのかよ……」
 寂しさも、笑い声も、温かさも。開いたドアから入り込んできた肌寒い風に、全てが押し流されていった。そしてドアが閉まると同時に、夜の静けさだけが、玄関の淡い照明の中に取り残された。



 夏とはいえ、夜の風は冷たい。それが北国ともなれば尚更だ。相沢家の二階にあるベランダで、名雪は夜風の中に佇んでいた。
 周囲に高い建物のない住宅地。また家が坂の中腹にあることもあり、ベランダからは駅周辺の街の灯りを見ることができる。遮られることのない風は、吹き降ろされるままにベランダを通り過ぎる。
 名雪は小さく息をついた。
「香里と北川君には、悪いことしちゃったね――せっかく来てくれたのに、お別れの挨拶もできなくて」
「名雪」
 背後から聞こえた声に、名雪は振り向いた。声の主が、一歩一歩、こちらに歩いてくる。そして名雪の隣まで来ると、アルミの柵に両手をかけた。
 名雪は祐一を――かつて夫だった男を――じっと見つめていた。
「俺――お前との約束、守ってやれなかったな」
 まばらな夜景を眺めながら、祐一は話しはじめた。名雪もまた夜の街へと視線を移し、口を開いた。
「祐一……わたしは、だめな母親だよね。お母さんはたった一人でわたしを育ててくれたのに、わたしはその半分も責任を果たせなかった」
「ずっと一緒にいてやるって約束したのに……一緒に夏美を幸せにするって約束したのに――守れなかったな」
「祐一のせいじゃないよ。だって祐一は必死で――」
 言いかけて、名雪は口を閉ざした。胸の中を風が通り過ぎてゆく。
 ――もう、終わりにしよう。こんな無意味なことは。
 名雪は再び口を開いた。そして今度は自分の思うままに、言葉を紡ぎはじめた。

「今日はありがとうね、祐一」

「あの事故の時も……俺が運転していたばっかりに」

「嬉しかったよ。香里や北川君に会えたことも……二人に子供ができたことも」

「名雪は身を挺して夏美を守ったのに、俺は名雪を守ることができなかった」

「みんなでわいわいお話できたような気持ちになれただけで、それだけで嬉しかったんだよ」

「一緒に夏美を幸せにしようって、一緒に――」

「だからみんなが、わたしの姿が見えなくても、声が聞こえなくても、それでもわたしは嬉しかったんだよ。でも、それでも――」

「約束したのに……俺は……」

 祐一の膝が不意に折れた。柵を掴んでいた両手が力なく滑り、上体と共に崩れ落ちる。
「ゆういちっ」
 差し出された名雪の手を突き抜けて、祐一の体はうつ伏せに倒れこんだ。
 床に伏せた祐一に手を伸ばす。その手は祐一の顔に触れない。嗚咽に震える頭に触れない。硬く握り締められた、温かい手に触れない。名雪の体を通り抜けた風が、祐一の髪を優しく揺らした。
 祐一が立ち上がった後も、名雪は動かなかった。涙が白い頬を伝い落ちた。だがその雫は床に届くことなく、深い夜の闇の中へと消えていった。
「嫌だよ祐一。わたし、死にたくなかったよ。祐一と夏美とずっと一緒に、もっともっと、生きていたかったよ――」



 祐一は一人、ベランダで街の灯を眺めていた。日付が変わる時刻になっても、駅前のあたりには数十の光点が明るく輝いている。その手前の住宅地には暗闇の海面が広がり、窓から漏れるまばらな光が島のように浮かび上がっている。時折吹き抜ける風は電線を鳴らし、その余力で祐一の髪を舞い上げた。
 ――風の吹く、盆の夜。
 名雪は祐一の前にいた。姿は見えない。声も聞こえない。気配すら感じられない。だが名雪は、たしかにそこにいた。
「ありがとう、祐一。短い間だったけど、わたし、幸せだったよ」
 柵にもたれた祐一を正面から見つめる名雪の足元には、数メートル下の地面があるだけだ。その寂しげな瞳の向こう側に広がる夜景を、祐一は黙って見続けていた。
 祐一の唇に、名雪はそっと指を当てた。その指は何の手応えもなく顔の中へと消える。
「わたし、祐一を好きになってよかった。祐一をずっと好きでいられて、本当によかった」
 溢れ出る涙を拭おうともせずに、名雪はやさしく微笑んだ。遠くを見つめる祐一にそっと顔を近づける。
 風向きが、変わった。
 正面から吹き付けた風に祐一は思わず瞳を閉じた。

「大好きだよ、祐一。夏美のこと――お願いね」

 暖かい、風だった。



「おとうさん」
 背後から聞こえた声に、祐一は振り返った。
「夏美……起きちゃったのか?」
 部屋のサッシを細く開け、その隙間から半分だけ顔を覗かせながら夏美が頷いた。
「階段上ってきたのか? だめじゃないか。夏でも夜は寒いんだから、風邪ひいちゃうぞ」
 夏美は祐一に駆け寄り、足に張り付いた。そして頭を撫でる父親の顔を見上げながら、興奮した様子で話しはじめた。
「あのね、なつみね、ゆめをみたの。たぶんね、ゆめをみたの」
 先ほどとはうってかわってはしゃぐ娘に、祐一は思わず、どんな夢だった、と尋ねた。夏美は嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして言葉を続けた。
「おかあさんがいたの。おかあさんがおとうさんにいってたの。しあわせだったよって」
 頭を撫でる祐一の手が止まった。夏美の顔を覗き込む。満面の笑みにきらきらと目を輝かせながら、まっすぐに祐一の顔を見つめている。
「あとね、おとうさんのこと、すきになってよかったよって。それでね――おかあさんがね、おとうさんにちゅってしたの。なつみのことおねがいねって、ちゅってしたの」
 夏美は笑っていた。その笑顔は、驚くほど母親にそっくりで――

「おとうさん、おなかいたいの?」
 祐一の顔を見ていた夏美の小さな手が、恐る恐る祐一の腹に触れた。そして子猫をあやすかのように数回優しく撫で、両手を大きく夜空に広げながら、夏美は声を上げた。
「いたいのいたいの、とんでけー」
 とんでけー。とんでけー。
 何度も、何度も。必死でおまじないを繰り返す娘を、祐一は見つめ続けていた。やがて疲れたのか、眉の端を下げながら、夏美は小声で尋ねた。
「まだいたい?」
 涙がとめどなく溢れ出す。祐一は首を横に振った。見上げる小さな頭を、そっと撫でる。

「ありがと、夏美。もう――痛くない」

 よかった、と夏美は微笑んだ。その顔がぼやけて、よく見えない。
 遠い日の記憶――もう、笑えないよ――取り戻した笑顔――約束――
 涙が、止まらなかった。

「あ。おとうさん、あれ」
 夏美が目を丸くしてベランダを指差している。祐一は後ろを振り返った。
「ほたるさん」
 夏美がぱっと顔を輝かせる。その指の先。つい先ほどまで祐一が佇んでいたあたりに、今にも消えそうなほど弱々しい燐光が浮かんでいる。ゆらゆらと不安定に漂うその光は、風に飛ばされまいと必死でその場に留まっているようにも、風に乗ってゆったりとダンスを踊っているようにも、ふらふらと寝ぼけながら飛んでいるようにも見えた。
「ほたるさん、ばいばいって」
 右へ、左へ。もう一度、右へ、左へ。つい、ついと光が揺れる。
「ばいばい」
 夏美はその小さな手を振り続けていた。緑色の光が風に流されるように階下へと消えた後も、夏美は手を振り続けていた。繋いだ手に祐一がほんの少し力を込めると、その温かな手は離れることを拒むように祐一の手をぎゅっと握り返した。
 冷たい一陣の風が吹き抜け、長い黒髪が踊るように散らばる。
 それでもまだ、夏美は手を振り続けていた。



 二人は夜の底を歩いていた。
 往路よりもいくらか弱まっているとはいえ、時折吹く強い突風は相変わらず木々の葉を乱暴に揺らしてゆく。
 住宅街が終わりに近づき商店街が見える場所になると、道の両脇にちらほらと街灯の明かりが目立ち始める。その白色の光に照らし出されて、空は深い藍から薄墨の青へと姿を変えていった。
「時間、大丈夫よね」
 一歩前を歩く夫に香里は話しかけた。北川は振り返ってにそれに答える。
「ああ。終電は十二時半だからな。まだもう少し余裕はあるぞ」
 すると北川は、香里が首を上に向けて空を見つめていることに気づいた。
「天気なら大丈夫だろ、台風はもう消えちまったみたいだし」
「ううん、違うの」
 何かを探すように、香里は木々や建物と夜との境目を見渡している。
「挨拶、ちゃんとしてなかったなと思って」
「誰に?」
「うん……人違いかもしれないんだけど」
「なんだよそれ」
 拍子抜けした顔で北川が言った。と、次の瞬間、北川の目が丸く見開かれた。
「なあ香里、頭のそれ……」
「え?」
 後頭部を指差されて、香里は思わず首を振った。ウェーブのかかった長い髪がばらけて、その流れの間から小さな光が飛び出した。
「あ……」
 目を丸くした二人の頭上を緑色の光点が舞った。そのぼんやりと淡い光の欠片はゆらゆらと上下に揺れながら二度、三度と旋回し、やがて風を避けるかのように香里の腹の上へと着地した。
「蛍だ……」
 ため息混じりに呟く北川の言葉を聴きながら、香里はその小さな燐光を見つめていた。強く、弱く、心臓の鼓動のように繰り返す明暗は、まるで命が紡ぎ出すメロディのように香里の腹を照らしている。
 香里はそっと手を近づけた。丸めた両手の指が檻のように狭まり、腹の上の蛍を覆い隠す。
「おい、香里。お盆の蛍は……」
 夫の抗議の声にも構わず、香里の指が作り出した虫かごはすっぽりと蛍を包み込んだ。慎重に指を動かして腹から虫かごを引き剥がすと、ふくらみを持って合わされた両手の隙間から淡い光が零れ落ちた。
 香里はそっと手を開いた。小さな黒い虫がほんの少し頭を傾げて、じっと香里の目を見つめている。そして不意に手のひらの上で一際明るく輝いたかと思うと、風に身を任せるようにふわりと宙に飛び立った。そして二人の周りで一度だけ円を描き、緑色の光の軌跡を残しながらまっすぐに上昇した。
 二人を見守るようにしばらく宙を漂っていたその光は、やがて小さな円運動をくり返し、螺旋階段を昇るように夜の空へと消えていった。
「ありがとう」
 香里は小さく手を振った。雲がわずかに裂け、ちぎり絵のような境目が白く光っている。その真ん中から顔を覗かせた星の光が、ほんの少しだけ、緑色に輝いた。
「来年もまた、遊びに来るわね――今度は三人で」

 ふと思い出したかのように、電線がまた鳴き声を上げた。
 哀しげな歌と寂しげな光をその身に抱きしめながら、盆の夜はどこまでも深く沈んでゆく。
 風はまだ、止みそうになかった。



(  風の盆  了  )
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