1月6日(火曜日)


 雪が降っていた。

 思い出の中を、真っ白い結晶が埋め尽くしていた。

 数年ぶりに訪れた白く霞む街で、

 今も降り続ける雪の中で、

 俺はひとりの少女と出会った。










 これは俺が書いた絵本の冒頭にある言葉だ。
 この絵本は俺がこの街に来たばかりの頃、実際に俺が体験した出来事をもとに書かれている。
 完全ノンフィクションで、登場する人物名などはすべて実際にあったものだ。
 この先人生がどれくらいあるかはわからないが、死ぬ間際になったら、真っ先に思い出すのは絵本にあるあの冬の思い出だろう。
 この絵本は、もちろん出版などしていない。俺の手元に一冊あるだけだ。
 仮に出版して書店に並べたとしてもそこそこ売れるだろうという自信はある。
 それは俺の文才ではなく、実際に起きた物語の出来のおかげだ。
 もうすぐ知り合いの息子の誕生パーティー。
 俺はこの本をプレゼントしようと思う。
 その知り合いは絵本に登場するし、自分には子供がいないので、知り合いの息子に思い出を伝えるのも悪くない。
 今思えば俺が慣れない絵本を書いたのはなぜだろうか。
 別に絵本作家になりたかったわけではない。
 誰かに大切な思い出を共有してほしかったのか。
 もしくはあいつが漫画好きだったからか。
 それとも自分があの冬の出来事を忘れないためか。
 今となってはどうでもいいことだ。
 自分の思い出を渡したその少年と、これからいい友達になれたらいい。俺はそんなことを思っていた。
 暗い部屋の中、寒さの残る部屋を照らしているろうそくの火を、少年は吹き消した。
 そして俺は持っていたプレゼントの本を笑顔で渡す。

「誕生日おめでとう、真一」









4月5日(日曜日)

「祐一、読み終わったぜ。あのときの絵本」
「絵本? 渡したのは三ヶ月前だろ。今ごろ読み終わったのか」
「違う違う、読むのは一日で終わったよ。あれから何度も何度も読み返したんだ。今じゃ一字一句そらで言えるぜ」

 そう言って真一は何か言いたげにニヤッと笑った。
 この顔は、好きな女の子の名前を聞き出して、からかってるときの顔だ。実際に見たことはないけどわかる。

「辛い体験をしたんだな、祐一も」

 言葉とは裏腹に相変わらずニヤニヤ笑いながら真一は背伸びして俺の肩に手を回した。
 確かに人に知られるには恥ずかしい内容ではあるが、こうまで露骨に態度に出されると、余計恥ずかしくなる。

「フッ、笑いたきゃ笑え」
「あはははははは」
「本当に笑うな!」

 明らかに作り笑いだが、本当に腹の底から声を出して笑っている。器用なことをしやがる。学校では音楽の成績がいいらしいが、妙に納得できる。
 このガキのフルネームは天野真一。もちろん母親は学生時代の後輩の天野美汐である。
 年齢は十歳と三ヶ月で、ひものついたオカリナネックレスを首からぶら下げている。
 青いTシャツと半ズボンを穿いた小柄で耳の大きなこの少年のことを俺はなんとなく気に入っていた。
 真一という名前は俺と真琴から一文字ずつもらったらしい。
 普通は自分の子供の名前といえば親の事情で決めるものだと思うが、他人の字を当てるとは珍しい。真琴との思い出がそこまで頭に残ってると思うと、なんとなく嬉しくもなる。
 それとも父親のことを忘れたい一心でつけたのだろうか。他人の名前を使うことで、この子と父親は何の関係もないと誰にでもなく主張してるのだろうか。
 俺もその辺の事情は気にはなっていたが本人に訊くわけにもいかないのであえて突っ込んだことは言わなかった。

「祐一にも青春時代があったんだな……」

 ため息混じりに言った真一の目を見ると、その瞳はせまい部屋の壁を越えてはるか遠くを見ているようだった。
 俺にガキの時代があったことが不思議なようだ。そんなに遠い昔でもないのに失敬なやつだな。
 いや、もう十年以上前の話だし、遠い昔なのか? いずれにせよ、こいつに言われると腹が立つ。

「俺の青春は充実してたぞ。お前はまだ体験すらしてないけどな」
「悔しいがその通りだ。そこで経験豊富な祐一先生に訊きたい」

 珍しく真一は殊勝な顔で俺を見つめている。
 俺は気味悪さとこそばゆさで咄嗟に顔をそらした。こういうときは何か裏があるのだ。

「真琴との経験はどうでしたか先生」
「経験って……そういう意味じゃねぇよ!」

 真一はあくまで真剣な顔でバカなことを訊いていた。
 経験などという隠語をどこで覚えたかは謎である。決して俺が教えたわけではない。多分。

「それじゃ質問を変えます先生」
「先生っていうな」
「先生は真琴のこと好きでしたか? 結婚式はただの儀式みたいな扱いだったけど、本当は相思相愛だったんじゃないですか?」

 まだ抜けていない前歯を見せてニヤニヤ笑いながら訊いてきた。明らかに俺の反応を楽しんでいる。
 性格悪い上にませてやがる。相思相愛なんて言葉、どこで覚えたんだか。

「ガキのくせに変なこと訊くな。十年早えよ」
「あ、帰ってきた」

 不意に真一が話を中断し、立ち上がってそう言った。天野が帰ってきたらしい。
 確かに足音が聞こえたが、俺には誰のものだか判別はつかなかった。
 こいつにはわかるらしい。子供は記憶力はいいから足音の大きさや規則をすべて覚えているのだろう。
 まるで借金取りに怯えるオーケストラの指揮者だ。
 しばらくじっとドアの方を見つめていると、こいつの言った通り、玄関のドアが開いて買い物袋を抱えた天野が帰ってきた。
 天野は帰ってくるなりいきなり二人そろって視線をこっちに向けているので少しばかり驚いて目を丸くしたが、その後は平静を装って部屋に上がってきた。

「ただいま」
「お帰り美汐」

 今『お帰り美汐』と言ったのは真一の方だ。
 こいつは俺だけでなく、母親のことまで下の名前で呼ぶ。変なやつだ。
 俺は真一の手を取って天野に向けて強引に振ってみせた。

「ほら真一君、お母さんが帰ってきたよ」
「よせよバカ」

 真一をからかってると、天野は穏やかな微笑みを浮かべて俺たちを見てきた。
 気のせいか、そのときの天野の俺への視線は真一へのそれと同じように思えた。俺と真一を同レベルと思ってないだろうか。

「美汐、あとで祐一の秘密を話してやるよ。多分美汐も聞いてないだろうから」
「ちょっと待て、誰にも言わないって約束だろ!」

 俺は焦って反論した。
 プレゼントを渡したとき、絵本の内容は誰にも話さないと約束したはずである。
 あの結婚式だけは例え天野でも知られたくなかった。あれは俺と真琴だけの思い出としてロケットにしまっておきたかった。
 しかし考えてみればなぜ天野にも話せないことを真一に教えたのだろうか。
 いくら約束をしたとはいえ、こいつがそれを守るやつだという保証などなかったのだ。
 会ってから一日も経っていない子供に自分の一番大切な秘密を渡すとは、今思えば迂闊だった。

「真一、話さなくて結構。約束はちゃんと守りなさい」
「なんだつまんねーの」

 天野は俺の意を汲んだのか、ちゃんと釘を刺してくれた。ひねくれ者の真一もちゃんと従っている。
 助かった。さすがに人の心をよくわかっている。真一への抑止剤は天野だけなので、今後あまりからかうのはやめよう。
 意外と言えば失礼かもしれないが、天野はこういう『子供の秘密』を重んじる性格だった。
 おそらく子供の頃の妖狐との思い出が多分に影響してるのだろう。天野にも少女時代、大人の侵せないテリトリーの一つや二つはあったはずだ。
 それにしてもこうして叱りつけるでもなく、威厳を持って諭しているあたり、さすがは母親といったところだろうか。
 そういえば真琴も秋子さんの言うことは聞いてたな。
 俺には多分一生できないような気がする。

「さて天野も帰ってきたし、俺はそろそろ退散しよう」
「いつもありがとうございます」
「気にするな。俺が好きでやってるんだし」

 一人で子供を抱えて忙しい天野に代わって真一の世話をしたいと言い出したのは俺の方だった。
 一応昔の恩返しのつもりである。
 ただ真琴のやつに浮気だと言われないかは心配だが。

「次はいつ来るんだ? 祐一」

 真一は玄関先の俺を見て作り笑いを浮かべた。
 さっきまでの人をからかうときの意地悪な笑いではなく、人に見せつけるための笑顔だ。
 屈託のない笑顔だが、無邪気ではなかった。計算して媚びてるような感じだ。こいつにはそれができるのである。
 俺はこいつのそういう裏表がなくてわかりやすい顔が嫌いじゃなかった。本人にその気はなくとも素直で可愛いやつである。

「しばらく来れないと思う。仕事がたまっててな」
「しばらくって、いつまで?」
「夏休みまで待ってろ」

 真一は顔を曇らせてあからさまなため息をついた。
 気持ちはわからないでもない。何ヶ月も先のことなのだ。
 それでも仕事をほったらかしにするわけにもいかなかった。

「そうがっかりするなよ。夏休みは一週間ぐらいもらえるからな、その間は何でもしてやるよ」
「何でも……」

 真一は無表情のまま顔を上げて俺を直視した。でもすぐに赤面して視線をそらす。

「顔赤いぞ、どうした?」
「わ、わかんない」

 戸惑いながら答えている。
 考えてみれば真一と遊ぶのは休日の、それも仕事の少ない日だけだ。
 俺もできる限り暇を作ってはいるのだが、それでも遊ぶ機会は少なかった。そこへいきなり何でもしてやると言ったのだ。
 顔は笑ってないけど内心は嬉しいに違いない。
 突然目の前に大好物を差し出されて喜びを表現できないだけだ。

「本当に何でもしてくれるの?」
「できる範囲ならな」
「美汐は?」
「そうね……夏休みぐらいは何でもしてあげるわよ」

 天野も割とあっさり承諾した。
 俺がこんな約束をしたのは、普段あまり一緒にいられないという負い目からである。ひょっとしたら一人で働きながら子育てをする天野も同じかもしれない。

「うーん……一緒にいてくれるか? いつもみたいに」
「もちろん」
「ならいいや」

 真一は嬉しそうに顔を綻ばせた。
 そんなことで満足なのかと少しばかり拍子抜けしたが、真一がそれでいいと言うならいいだろう。
 真一は俺と天野の手を引っ張って強引に握ってきた。

「……すみません相沢さん」
「いいんだよ、休みはどうせ暇だし」

 これからしばらくは休みをもらえないだろうけど。
 会社に入って以来、休みの少ない生活にもだんだん慣れてきたのだが、今年に入って真一と会ってからは、一緒にいられる時間がなくて不都合が多かった。
 最近では転職も真剣に考えているが、そのときは真一に、自分のせいで転職したとは思わせない必要がありそうだ。

「アパートまで送ってくよ」

 真一が急いで靴を履いて俺の方へ寄ってきた。

「いいよ、すぐ近くだし」
「いいだろ、せっかく来たんだし、人の好意は素直に受け取っとけ」

 そう言って真一は玄関の外についてきた。
 俺は走って振り切ってやろうかという悪戯心がよぎったが、さすがにかわいそうなのでやめておいた。
 こいつは俺が帰るとき、いつも律儀に送ってくれる。
 それでアパートについたら何かと理由をつけてなかなか帰ろうとしない。そのあたりは真琴に似てる気がする。
 こんなとき、大人は子供の言うことに逆らえない。俺はいつも通り、苦笑して真一に送ってもらうことにした。




 今日は休日で天気は快晴。最高のシチュエーションだ。
 デート相手が真一なのは、まぁいつものことながら少し不満だった。
 誰もいないよりマシか、と本当のことを言えば真一に怒られるだろうけど。

「真一、帰り道を送るのはいいけどな、こういう優しさを見せるのは女の子限定にしとけ。男にやっても嫌がられるぞ」
「何だよ、祐一は嫌なのか」
「いや、ほんのちょっとだけ嬉しいぞ」
「なら問題ないな」

 そう言って真一はニコッと笑った。
 まぁ確かに問題はないけど……。
 俺もそれ以上は言わなかった。したいようにさせておこう。こいつも根は寂しがり屋なのだ。
 真一には生まれたときから父親がいない。
 真琴がいなくなったあの年、俺と天野が進級して夏を迎えた頃、天野は自主退学した。
 俺は突然のことにしばし耳を疑ったが、どうやら本当のことのようである。
 なぜ急にこんなことになったのか、俺は天野の家を訪ねたが、すでにそこは引っ越した跡だった。
 あのとき天野は何も言わず、文字通り煙のように姿を消した。
 まさか自殺ではないかと俺は内心心配だったが、それから二ヶ月後、天野が妊娠して相手の男に逃げられたという噂が学校で流れた。
 誰が流したかは知らないが、くだらない中傷だと思った。俺は天野の潔白を明らかにしようと調査してみたが、結局天野には会えなかった。
 時は流れて今から約三ヶ月前、天野は突然会いたいと手紙をよこしてきた。
 約十年ぶりに再会した天野は、十歳になったばかりの息子を抱えたシングルマザーだった。
 やはりあのときの噂は事実だったようだ。
 今思えば天野が突然消息を絶ったのも俺に理由を問い詰められるのが怖かったからだろう。
 それでも俺は未だにどこか納得いかない。
 真琴との出逢いを経て天野は確かに明るさを取り戻したはずだ。メルヘンチックな話をして微笑んでいたあの春の天野が忘れられない。
 それなのになぜ急に出来ちゃった退学などしたのだろうか。俺にはまったくわからなかった。あのとき、天野に一体何があったのか。
 今さら蒸し返すわけにもいかないので天野には訊けずじまいだが、このまま訊かないでいいとも思う。
 今は素直に再会を喜ぶべきだろう。十歳になったガキについては可愛いとお世辞を言っておくべきだろう。
 天野には返しきれない恩がある。天野を困らせるようなことは訊くまい。

「なあ祐一、絵本に出てきた妖狐の真琴って可愛かった?」

 真一に訊かれて俺は考え事の世界から現実へ戻った。

「可愛いというか、まぁ普通だな」

 ここで可愛いと言ったら真一が何と返すか、火を見るより明らかである。
 真一はちょっとあてがはずれたかのように舌打ちした。相変わらずわかりやすい。

「祐一、絵本について質問があるんだけど」
「何だよ」
「いなくなるってわかってたのに、どうして真琴と結婚したんだ?」

 真一は下を向いて沈痛な面持ちで言った。
 何と答えればいいだろう。真琴のため、と言えばいいだろうか。
 確かに結婚するきっかけはそうだが、俺自身はどう思っていたのか。
 少なくとも俺は好きでもない相手と結婚などしたくない。真琴のことは好きに決まっている。
 でも結婚した理由を改めて訊かれると、そこには不純物があるような気がして、俺は自信を持って答えることができなかった。

「お前にはわからないよ」

 だから適当に受け流した。

「どうしてだよ。子供にはわからないなんて大人の常套句は言うなよ」
「実は俺にもよくわからないんだ」
「それじゃ真琴は遊びだったのか? かわいそうに」
「そうは言ってないだろ」
「それじゃ真琴のことは好きなのか?」
「当たり前だ」

 ……沈黙が流れる。
 しまった、と思ったがもう遅い。真一はニヤリと笑った。
 こいつの笑顔は二種類ある。
 心から嬉しいときや人の気を引くときの可愛らしい笑顔と、人をからかうときに使う邪悪そのものの笑顔。
 今の笑いは間違いなく後者だった。

「ふーん、やっぱり祐一は真琴を愛してたんだな」

 俺は真一から顔をそらして返答を拒否した。

「だからその歳まで貞操を守り続けてるわけか。うんうん、真琴は幸せ者だよ」
「……黙れエロガキ」

 真一の顔は完全に笑っていた。
 してやったりという顔だ。
 こんな質問をしてきたのも俺が口を滑らすのを期待してたわけか。
 こいつもやっぱり子供だな。こんなしょうもないことに頭を働かせて。

「真琴が好きならそう言えばいいのに。小難しい考えはやめとけ、真実はいつだって単純だ。結婚は人生の墓場。そう、僕なら墓場まで一緒にいたいぐらい好きだって言うよ」
「羨ましいものだな。そういう単純な考えができるってのは」
「何かバカにされたような気がするな」
「そんなことないぞ、純粋な汚れなき魂だと言っている」
「やっぱりバカにしてる……」

 羨ましいというのは半分は本音だった。
 真一の言葉は青臭いと吐き捨てたくなるものだが、全く共感しないわけでもない。
 真琴が好きだから。単純明快で、それでいて核心をついた一つの真実である。

「それじゃ僕は帰る。好きな人ができたら遠慮なく打ち明けてくれ」
「絶対に嫌だ」

 真一は笑顔を振りまいて帰っていった。
 俺をからかうのに成功して満足したのだろう。
 俺はアパートの部屋まで戻ると、早速仕事に取り掛かった。









8月12日(水曜日)

 今は夏真っ盛りである。
 昼間の日差しが照りつけている。ちょうど正午になったころだ。
 今日は真一と天野と遊ぶ約束をした日だ。真一が覚えてれば楽しみに待ってるかもしれない。
 俺は気が重かった。今から断わりの電話を入れなければならないからだ。
 夏休みの前日になって急に仕事を回されたのだ。それも一日二日じゃ終わりそうにない。
 俺は山積みの書類をしばらく眺めて諦めのため息をつくと、受話器を取って天野の家の電話番号をダイヤルした。
 一応予定ではものみの丘で待ち合わせだが、もしかしてもう家を出ただろうか。
 しかしそれは杞憂だった。電話に出たのは聞き慣れた少年の声だ。

「もしもし」
「ああ、まだいたみたいだな」
「何だよ、何かあったか?」
「真一、今日は何の日だか覚えてるか?」
「祐一こそ忘れてないだろうな」

 やっぱり覚えてたか。

「実はな、急に仕事ができて夏休みがなくなったんだ。代わりに十月に秋休みをもらえるから、約束は延期してくれ」
「ちょっと待て、何だよそれ!?」
「悪い、今度会ったら一発殴っていいから」
「今までずっと待ってたのに、秋までなんて待てないよ」
「すまん、俺が悪かった」
「また仕事かよ。僕が手伝ってやるから早く終わらせようぜ」
「お前には無理だよ。お前は宿題でもやってろ。とにかく、無理なものは無理だ。ごめんな真一」
「なぁ、頼むよ祐一。今回だけでいいから……」

 ここで受話器を取る音がした。
 どうやら天野がかわったようだ。

「相沢さん、すみません。真一には私から言っておきますから、今回の約束はなかったことに」

 どうやら天野は真一のやり取りから内容を察したようだ。
 電話の向こうで真一が叫んでいる。
 俺はその声をあえて無視した。

「悪い天野。いつか埋め合わせはするから、真一にも言っといてくれ」
「いいんです。気にしないでください。それでは」

 そう言って電話は切れた。
 天野にも悪いことをしたな。
 俺の会社ではこんな急に仕事が回ってくることも珍しくない。だからもう慣れてはいるのだが、さすがに今回は断わりたかった。
 だが知り合いと遊ぶ約束があると言っても認められなかった。
 家族ならまだしも、近所の子供との約束など会社には通用しないものだ。
 生理休暇がほしいと冗談で言ったら、休む口実を探してると上司にバレた。あれはさすがに不用意な発言だったな。
 とにかくこうなったら仕方ない。せめて約束を破る原因となった仕事だけは終わらせよう。これで仕事が終わらなかったら何と言われるやら。そう思って俺は取り掛かった。




 時計を見ると、いつの間にか三時になっていた。
 たしか雨が降り始めたのが一時間ほど前である。もうそんなに時間が経ったか。
 集中してるときは時間が経つのが早いものだ。
 真一のやつは何をしてるだろうか、今ごろがっかりしてるだろうな。
 そんなことを考えて、不意にピタリと仕事の手が止まった。
 まさかあいつはこの雨の中、待ってたりしないだろうな。
 ……いや、そんなことはないだろう。
 天野もいることだし、一人でそんな無茶はしないはずだ。
 だがありえないとも言い切れなかった。
 十歳の子供の行動などまるで予想がつかないものだ。もしも万が一、天野に内緒で待っていたとしたら……。
 俺の頭の中に、土砂降りの雨で一人待っている子供が浮かんだ。
 そのとき、一瞬窓の外が光り、直後に大きな雷鳴が聞こえた。
 その音を合図に俺は部屋を飛び出して大きな傘を差し、ものみの丘へ走っていった。もはやじっとしていられなかった。
 ちょっと確かめにいくだけだ。このままじゃ気になって集中できない。ものみの丘は近いから時間はいくらもかからない。そう自分に言い聞かせた。
 ものみの丘に到着すると、果たせるかな、ずぶ濡れの真一が傘も差さずに立っていた。
 真一は俺の姿を確認すると、白い歯を見せて笑った。

「遅かったな祐一」

 俺は真一の声に答えず、そばに走り寄って傘を差し出した。とはいえ、もうそんなことをしても無駄だった。
 水を吸いきった服からは水滴がしたたり落ちている。

「どうして来たんだ。さっき断わりの電話を入れただろ」
「もしかしたら心配で見にきてくれるかって、ちょっとだけ思ったんだ」

 そしてその予感は当たってしまったわけか。

「途中で帰ろうとは思ったけど、帰ったら次の瞬間に祐一が来るような気がしてさ。気がついたらどんどん時間が経って……」
「だからってこんな雨の中、大体なんで傘を持ってこないんだ」
「しょうがないだろ、丘に着いたらタイミングよく降ってきたんだよ。大丈夫、こんなのシャワーを浴びてるようなもんだって」

 真一は作り笑いをしているが、息が荒いような気がしたので俺は手の平で乱暴に額をつかんだ。熱があるようだ。
 一時間前に雨が降ってそれからずっとここにいるのだから具合も悪くなるだろう。

「帰るぞ」
「何言ってんだよ、こんなの平気……」
「帰るぞ!」

 真一への憂慮と怒りで俺は思わず怒鳴った。
 もうやせ我慢する必要もないと思ったのか、真一はその場に座り込んだ。
 立っていられないほど疲れたというのか。

「なぁ祐一、ちょっと疲れたからさ、家まで持って帰ってくれないかな」

 真一は力なく薄ら笑いを浮かべた。
 いつものように媚びるような笑みを浮かべる元気もないのだろうか。
 俺はその場で傘を捨てて真一を背負い、天野の家に走っていった。
 濡れるけど傘を持ったまま真一を背負ったら危ないから仕方ない。今さら少しぐらい濡れても真一は大丈夫だろう。




 天野の家は幸いにも鍵がかかっていなかった。
 ドアを開けると台所にいた天野がこちらを振り向いた。

「相沢さん、どうしました?」

 俺は、驚いて訊いてくる天野に答えずに真一をリビングに寝かせた。いつの間に目を閉じて寝ていたようだ。
 体中濡れている真一を見て天野はさらに驚き、目を見開いて口に手を当てている。

「熱が出ているようだ。天野、タオルを持ってきてくれ」
「し、真一……真一!!」
「天野、落ち着け。事情は後で話す」
「真一! しっかりして!」
「落ち着け! 熱が出ただけだ、大丈夫だから」

 そう言うが、天野は一向に落ち着かない。
 これなら俺が行った方が早そうだ。俺は風呂場へ走っていき、バスタオルを大量に抱えて戻ってきた。
 それから半狂乱になっている天野にも手伝わせて服を脱がせ、体中をタオルで包んだ。その間に真一はすっかり目を覚ましたようだ。
 病院へ連れて行こうと言ったが、真一は大丈夫だと言ったので少しの間様子を見ることにした。
 天野は体中震えていて、時々涙を拭っていた。真琴と一緒にいたときも涙は流さなかったはずだ。
 今はようやく落ち着いたが、少し慌て方が異常な気もする。
 子供が熱を出せば心配するのは当然だろう。それにしてもまるで重病にでもかかったようである。
 天野の普段の態度を見ていると、子供を溺愛するタイプだとも思えない。
 子供の病気に免疫がないからだろうか。それなら少しはわかる気もするが。
 天野は真一の部屋から服の着替えを持ってきた。
 真一は自分で着られないと言ったので、天野が着させた後、毛布をかけた。
 その間、真一はずっと大人しくしていた。

「真一、私は部屋に戻るから、何かあったら呼んで」

 真一は黙ってこくりと頷いた。

「それから相沢さん、私の部屋に来てください」
「いいのか? 真一は」
「大丈夫です。それより話があるんです」

 さっきまでの態度が嘘のように天野は落ち着いていた。
 まぁさっきまでが慌てすぎの気もするが、それにしても極端である。
 とにかく、話があるなら行かねばなるまい。俺は真一に別れを言って天野についていった。
 天野の部屋に入る前にリビングをのぞくと、真一は目を閉じていた。




「話って何だ?」

 俺はさっそく本題に入った。
 二人きりで話したいということは真一に聞かせられないような話なのだろう。

「私は、すっかり油断してました。真一は生まれてから風邪一つひいたことがなかった。だからこれからも大丈夫だと、そう思い込んでました」

 これからも大丈夫? どういうことだ?
 そう思って俺はハッと思い浮かんだ。もしかして真一は……。

「相沢さん、私がこれから何を話そうとしてるか、察しはついてますか?」
「……一応な」
「そうですか。それでは覚悟は決めておいてください」

 その言葉で俺は、自分の予測が当たっていることを確信した。
 天野は覚悟を決めるように言ったが、それは無理だ。
 恐らく天野も自分で無理だとわかっているだろう。
 それでも事実なら受け止めなければならない。覚悟が出来ていようといまいと現実は変わらないのだ。

「十年前の冬にあったことです」

 十年前の冬というとちょうど俺がこの街に転校して天野と知り合った頃だ。
 真一も生まれているはずである。

「私は一匹の狐を飼うことになりました。もちろん私が望んだことではありません。まだ子供の頃の出来事から立ち直れていませんでしたから。また狐と一緒に暮らすなんて、あの頃は夢にも思ってませんでした」

 この先の展開は想像がつく。

「まだ相沢さんに会う少し前のことです。私はものみの丘にいて、そこで親子連れの狐を見ました。子供の狐は私の方に寄ってきました。まだ生まれて間もないようで妙に人懐こい狐です。私は一緒に遊ぶでも追い払うでもなく、その場にじっとしてました。狐の親はしばらく私を見た後、近くの木に隠れました。私はこの子を捨てようとしてるのではと思い、親に近づいたところ、そこには狐の姿はなく、裸の女の子が倒れてました」
「女の子? 真一じゃないのか?」
「真一は現在十歳ですよ。この頃はまだ生まれたばかりです。真一は子狐の方です」

 そうか、隠れたのは親だったな。

「私は急いでその子……真琴に服を着せました。ちょうど鞄の中には着替え一式が……」
「真琴!?」

 なぜそこで真琴が出てくる!?
 それじゃ真一の産みの親は……。

「はい、真琴です。予想外でしたか?」
「あ、ああ。すまん。話を続けてくれ」

 俺は胸に手を当てて心臓の鼓動を鎮めようとした。
 落ち着け。話を訊くんだ。

「なぜ着替えを持っていたかというと、あのときはあの子の命日だったのです」
「あの子? 天野の妖狐か」
「はい、あの子の残した服を私が持ってました。あの子のお気に入りだったんです。真琴にあげたのでもうありませんが」

 俺は真琴と会ったときの格好を思い出した。
 服のサイズがピッタリだったのを考えると、天野の妖狐は真琴と同じぐらいの大きさだったのか。何となく小学生ぐらいだと想像してたのだが。
 考えてみれば人間に化けた妖狐が服を着てるのは不自然だったな。
 財布ならともかく、服は道端にそうそう落ちてるものじゃないし。

「真琴は子狐を置いて街へ降りようとしたので、私はこの子を捨てないでほしいと真琴に言いました。そうしたら真琴は、あたしは人間だから、狐は人間と一緒にいられないんだって、そう言いました」

 俺はドキッとした。初耳だそんなこと。
 おそらく真琴は悩んだのだろう。
 真琴は、狐は飼えないと俺に言われて別れることになった。だったら人間になればいい。そうすれば俺と一緒にいられる。でも人間になったら、真琴自身も狐の子供と一緒にはいられないと思ったのだろう。
 自分の子供と俺と、どっちをとるか、真琴は結局俺を選んで子供を捨てた。
 なんて短絡的なやつだ。子供も一緒に連れてくればよかったのに。
 その子供、つまり真一が真琴に捨てられたのは、間接的には俺の責任かもしれない。

「そんなことはないと反論したら、だったら証拠を見せてほしいと言って、結局私はその子狐を飼うことにしたんです。そうすれば真琴も子供に愛情を持ってくれると思って。今思えば妖狐と人間が一緒にいられないと言われて、私は反発したのかもしれません」

 そう言って天野は一拍置いた。当時の記憶を思い返すように。

「でも相沢さんと初めて会ったとき、私は子狐を連れ帰ったことを後悔しました。相沢さんはこれから真琴と辛い別れを経験することになるのに、この上別の妖狐まで引き取ってもらうなんて、私にはできませんでした。あのときは真一を捨てようかどうか本気で悩んだんです」
「でも結局捨てなかったわけか」

 あの頃の自分を自嘲気味に振り返る天野をフォローするつもりで、俺はそう言った。

「はい。その後の相沢さんと真琴を見てると、捨てられませんでした。両親に話したら飼ってもいいという返事が出ました。両親は妖狐のことをよく知ってます。私と一緒にいたあの子のことも。だから妊娠や出産などは私の話に合わせてくれました」
「それじゃ妊娠して退学したってのは……」
「もちろん嘘です。妖狐が化けた人間を私が産むことはできませんから」

 そういうことか。
 まぁ話を訊いた時点で自然にわかることではあるが。

「夏を迎えた頃、真一は人間の赤ちゃんとなり、私は退学して子育てに専念することにしました。退学するとき、両親はさすがに止めましたが、最後には折れてくれました。実際私は産婦人科には行ってませんし退学する際の理由も本当のことは言ってません。妊娠の噂は両親がそれとなく広めてくれたんです。男と別れたというのは尾ひれがついたのでしょう」

 そこまでして真一の正体を隠したかったのか。
 まぁ気持ちはわからなくもない。確かに何も言わずに子供が出来てたら不自然極まりない。
 噂なら、仮に真一がすぐに消えてしまった場合はデマだったということにしておけばいい。
 しかし天野たちは真一が何年間も生き続けることを予想できただろうか。
 天野が初めて妖狐と別れたとき、一緒にいたのはほんの短期間のはずだ。おそらく今回も別れの日はすぐにやってくると思っていたのではないだろうか。
 そんな短い時間のために退学までするとは、俺が天野ならそこまでできただろうか。
 生半可な覚悟ではなかっただろう。以前の天野や俺のケースとは違う。最初から真一の正体を知って、それでもすべてを受け入れる覚悟だったのだ。
 俺に真琴の正体を教えたのも、真琴が子供を産んでいたことを秘密にしたのも、天野なりの情けだろう。
 そういえば真一の誕生日は十年前の一月六日。その頃は俺はまだ街に来たばかりで真琴に再会しておらず、天野にも会っていない。
 もし本当に真一が天野の子供ならこの頃に生まれていたはずがない。何で気づかなかったんだ。
 天野はもう話すのをやめている。どうやら話は終わったようだ。
 さっきから天野が無表情で話し声に抑揚がないのは、真一がもう長くないことをわかっていて諦観してるのだろう。
 真一は熱を出した。あれは消える予兆だ。
 そういえばさっきは自分で服を着ることもできなかった。

「真一はこのことを……」
「知りません。言わないでください」
「わかった」

 俺は真一のいるリビングへ戻った。




 真一は横を向いて寝ながらひざを曲げて毛布にくるまっている。
 俺の方に目を向けたが、すぐにそらした。
 こいつが妖狐で、しかも真琴の子供か。
 真琴も人見知りが激しいくせに子作りはしっかりやってたんだな。
 子作りは生き物の性だ。だから俺は浮気だの隠し子だのと騒ぐつもりはない。
 しかしショックなのは事実だった。やはり嫁が自分以外の子供を産んでいたのは気分のいいものではない。
 真一には俺の気持ちはわかるまい。
 こいつは俺の息子だが、俺は名乗り出ることはできない。血が繋がってなくても関係ない、お前は俺の息子だ、それを言うこともできないのだ。
 その真一は反対側を向いたままだったので、俺もうつむく視線を動かさなかった。
 こうして見てると、毛布に小さな身体を包む姿は狐に見えなくもない。
 そういえば昔、狐だった真琴もこんな風に毛布にくるまっているときがあった。
 あのときも真琴は雨の中で外を出歩いていたっけな。
 俺は怪我を抱えながら勝手に外に出た真琴を叱ることもできなかった。
 野生の狐が外に出たいと思うのは当然だし、それよりも怪我が悪化して死んだりしないかとひたすら怖かった。
 今回も俺は雨の中で待っていた真一を自業自得だと言う気にはならない。
 真一は俺と一緒にいたいがためにこんなことになった。
 俺が普段からもっと一緒にいればよかったのかもしれない。

「いいよ、ずっと放っておいた俺も同罪だ」

 自然にそんな言葉が口から出た。
 目の前の真一と、それに重ね合わせた真琴を見て言った。

「何か言った?」
「何でもない」
「そういや祐一って狐に話し掛けてたんだよな。植物に話し掛けるのと同レベルだな」

 俺は驚いて息を飲んだ。
 確かに俺は子供の頃、狐だった真琴に話し掛けてるし、それは絵本にも書いてある。
 だがなぜ急に真一がその話を持ち出すのか。なぜ自分と狐を同じ存在であるかのように言ってるのか。

「美汐から訊いたのか? 僕が実は妖狐だったこと」

 真一は自分が妖狐であることを周知の事実のように言った。
 やはり自分の正体を知っているようだ。
 しかしこいつがすべてを知ってるとは限らない。天野に秘密にしてほしいと言われた以上、俺からこいつに余計なことをしゃべるわけにはいかない。
 俺は黙って真一からしゃべるのを待っていた。

「三日ぐらい前からおかしくなったんだよ。鉛筆が持てなくなったり、歯が磨けなくなったり。それで今は熱を出してる。これって真琴と同じだよな」
「それ本当?」

 後ろから声が聞こえて振り返ると、天野が立っていた。

「うん。家では普通を装ってたけどね。ご飯は美汐がいないときに食べたし、なるべく美汐とは顔を合わさないようにしたし、今日だって美汐が出かけた隙にものみの丘へ行ったんだ」

 天野も気づかなかったようだ。
 真一はすでに自分の運命を知ってしまっている。
 俺が絵本を渡したせいだ。あの本がなければ真一は真琴を知らず、自分が妖狐だということも知らなかっただろうに。

「そうだったの、真一」
「天野、すまん。俺が真琴のことを教えなければ……」
「いいんです。相沢さんのせいじゃありません」

 天野は真一をじっと見ながら答えた。
 真一はというと、天野とは視線を合わせないように前にいる俺を見ていた。隠し事がバレて第三者に無言で助けを求めているように見えた。

「ものみの丘に行ったのも、今日を逃せば二度と祐一に会えないかもしれないって思ったんだ。わがままやっちゃってごめん。でも来ないとは思ったけど、来てくれて嬉しかったよ」

 そう言って俺を見ると、いつものようにニコッと笑った。
 俺はそれを見てようやく覚悟を決めた。
 こいつが消えてなくなるまで一緒にいよう。かつて真琴にそうしたように。
 いつも性格の悪いガキだと思ってた真一に対して、俺は初めて愛情を持ったような気がした。子供を持つというのはこういうことなのかもしれない。
 真琴もいつかきっとわかってくれるはずだ。俺はどこかにいるであろう真琴にそう願いをかけた。

「二度と会えないなんて言うなよ。俺はお前がいなくなるまでずっと一緒にいる。もうどこにも行かない」
「真顔でそういうこと言うなよ、恋人じゃあるまいし」
「うるさい黙れ。それより天野も一緒にいてくれないか」

 俺は天野にも頼んだ。
 天野は妖狐との別れによって心に傷を負ったが、真一を看取れば、今度こそ想いに応えれば、そうすれば傷は癒されるかもしれない。
 それに天野は真一が生まれてからずっと一緒だったのだ。今日も最後までつきあってくれるだろう。

「もちろんです」
「ありがとう美汐。じゃあものみの丘に連れてってくれるかな」
「いいわよ」
「それと祐一、一つお願いがあるんだけど」
「何だ」
「あの素晴らしい絵本を美汐にも見せたいんだけど、いいかな?」

 そう言って俺を見ると、いつものようにニヤリと笑った。
 どうあってもこいつは俺の秘密を天野に暴露したいらしい。
 まぁこっそり天野に見せるようなことはしていないので、約束はきっちり守っていたようだ。もしかしたら俺の目の前で暴露しないと気がすまなかったのかもしれないが。

「わかったわかった。好きにしろ」

 こんな状況ではさすがに断われなかった。
 もし計算づくのことだとしたら逆に感心してしまう。
 俺は真一の部屋へ行って絵本を持ってくると、天野と一緒に真一の両脇で手を取って歩き出した。
 こうしないと転ぶかもしれない。真琴もそうだったのだ。
 ものみの丘はここから近い。俺は懐かしくも悲しい気持ちで真一の手をしっかり握りながら歩いていった。
 外はもうすっかり雨が上がり、夕焼けの空になっていた。
 あのときと同じだ。真琴がいなくなったときも綺麗な夕焼けだった。
 今は夕焼けに虹が架かっている。
 周りの木々の水滴が夕陽の光を反射していた。
 草の生えた地面は泥になっている。
 途中で真一は何度も転びそうになったが、そのたびに俺と天野が支えていた。
 真一はずっと顔を紅潮させていたが、熱のせいなのか、何度も転んで恥ずかしかったのかはわからない。

「祐一、真琴はどんな人だった?」

 転んだのを紛らわすように真一は俺に視線を向けて訊いてきた。

「お前に似て可愛くないやつだったよ」

 そう言って俺は真一の頭を撫でまわした。
 結局最後まで俺は真琴を褒めたりしなかった。
 真一ならこんな状態でも俺をからかってくる元気だけはあると確信していたからだ。

「ふーん、祐一は可愛くないやつが好きなのか」
「そういうわけじゃないけどな。お前のことは嫌いじゃないぞ」
「はは、ありがと」

 俺の答えに満足はしたようでほっとした。
 それよりもこんな質問をしてきたことが少し心配だった。消える前の最後の質問かと思ったからだ。

「なぁ真一」
「うん?」
「怖くないか?」

 訊いていいものか迷ったが、訊かずにはいられなかった。
 真琴は最後まで自分の運命を知らなかった。だが真一はすでに知ってしまっている。
 俺は真一の口から訊きたかった。癌の告知をされるのはいいことだったのかどうか。
 真一は笑顔を作ることもなく、顔を曇らせることもなく答えた。

「そりゃ怖いけどさ、でも僕は幸せだと思う。好きな人たちと一緒にいられるし」

 真一とは思えないような素直な言葉だった。
 俺は何も言わずにその言葉を胸に刻み込んだ。
 人間、最後は一点の曇りもなく素直になれるものである。




 ちょうど丘の中央に来て真一は座った。いや、座ったというよりへたり込んだと言った方が正しいか。疲れているのかもしれない。
 真一の両隣に俺と天野も座った。
 こうして見てると家族にも見えるだろうか。俺と天野は夫婦でもないし、お互い真一との血の繋がりはないが、真一の親に見えるだろうか。
 それに応えるように真一は右手で俺の左手を強く握った。多分天野の手もしっかり握られていることだろう。俺は何となく嬉しくなった。

「懐かしいわね真一。覚えてる? 生まれたときのこと」
「覚えてるわけないだろ」
「私はよく覚えてるわよ。真一が人間になったとき、私の父さんと母さんはね、本当に孫ができたかのように喜んでくれたの」

 天野は目線を宙に浮かせながら言った。

「ひょっとしたら短い命かもしれないけど、それでもこうして生まれてきてくれた。この子は私たちが授かったんだって。美汐は傷つくのを覚悟でこの子を受け入れた。父さんたちは美汐のやったことを誇りに思うって、そう言ったの。わかる? 父さんも母さんも、私の選んだ道を認めてくれたの」

 俺も初めて訊く話だった。
 天野にもいたのか、妖狐の存在を受け入れてくれる秋子さんや名雪のような存在が。

「真一は認めてくれる? いずれいなくなるとわかって、私があなたを育ててきたこと」
「決まってるだろ母さん」

 真一は天野のことを『母さん』と呼んだ。俺が知る限りでは初めてのことだ。意識して使い分けているのではなさそうだ。
 今まで『美汐』と呼んでいたのも、ひょっとしたら実の親ではないと無意識に感じていたからかもしれない。
 天野はこの変化に気づいただろうか。

「ありがとう」

 穏やかな微笑を浮かべて天野はそれだけ言った。
 これなら多分気づいただろう、俺はそう思った。
 きっと天野も自分の選んだ道は正しかったと思えるだろう。
 血は繋がってなくとも天野は立派な母だった。

「祐一、朗読して。もう僕、字読めないから」

 真一は俺が持っている絵本を指差し、力なく笑いを浮かべた。
 字が読めないというのは本当かもしれないが、たとえ読めたとしても俺に朗読させた気がする。
 あくまで俺の口から天野に暴露させたいのだろう。
 俺は真一に聞こえるよう軽くため息をつき、真一の背後に座ると、後ろからそっと抱きしめた。
 真琴が消えたときの再現である。
 真一も意図を察したようで、俺に体重を預けてきた。
 右手をゆっくり上下に振って遊んだりもしている。手には幻の鈴があるのだろう。
 俺は真一のすぐ前に絵本を広げて置いた。
 そして隣りの天野にも聞こえるように朗読を始めた。




 やがて絵本は終わった。
 真一の顔を覗くと、いつの間にか目を閉じている。
 ずっと黙っているのは聞き入っているからだと思っていたが、もしかしてもう……。

「母さん……」

 真一は目を閉じたまま呟いている。俺はとりあえずホッとした。

「どうしたの、真一」
「母さん、やだよいなくなっちゃ……」

 その『母さん』とはどっちのことだろうか。
 俺は真一の顔を天野の方に向かせると、頬に指を押し込んだ。

「ほら、目を開けろ。母さんはここにいるぞ」

 俺は真一の身体を天野に預けた。
 天野は真琴と初めて会ったときのように、抱き寄せて頭と肩に手を置いた。

「母さん……」

 真一は最後にそう言うと、目を閉じて全体重を天野に預けた。
 というより身体中の力が抜けたと言った方がいいだろうか。
 もう真一はいつものように笑うことはない。
 だがその顔は全ての使命を終えたかのように安らかだった。









エピローグ・真一

 暑い夏は終わった。
 秋が過ぎて冬となり、そして年を越した。
 真一が生まれて十一回目の誕生日がやってきた。
 寒い冬はまだ終わらない。
 俺はこの街で暮らしてきて、寒いのはある程度慣れたが、真一は十年経っても最後まで寒いのは苦手だった。
 春が待ち遠しかった。
 俺も妖狐と同じ季節を共有したかった。
 俺一人が冬に慣れてもしょうがないからな。

 今日はものみの丘で待ち合わせだ。
 俺は約束の時刻を少し遅れていたため、走っていた。
 真一の誕生日になったら一緒にものみの丘へ行くという約束をした。
 これからも続けるつもりだが、一回目からいきなり遅れてしまった。俺は心の中で真一に謝った。
 身体を動かすと暖かくてちょうどいい。
 丘では天野が不機嫌そうに待っていた。

「遅いですよ」
「悪い」
「女の子を待たせるなんて最低です」
「女の子なんて言える歳かよ」
「う……否定できませんね」
「お互いにな」

 そう言って俺たちは笑いあった。
 また笑いあえるようになったのだ。
 真一がいなくなった後、俺は悲しみはあったが、それ以上に天野のことが心配だった。
 しかし天野は昔のように自分を見失うことはなかった。俺も一安心である。
 大切な者をなくすのは悲しいに決まってる。
 でもそいつが幸せだったかどうかは残された者が決めることではない。
 真一は幸せだと言ってくれたのだ。俺はその言葉にどれだけ救われたかわからない。
 今ならわかる。
 最期に見た真一の顔、あれは真琴と同じだ。
 残される者を気遣って笑っているわけではない。
 そんな心の余裕もない者が、ただ体中を包む幸せに身を委ねている安らかな顔だった。

「相沢さん……」

 天野はわずかに顔を紅潮させて言い出した。

「六月に、結婚しようと思うんです」

 俺は驚かなかった。
 天野はそろそろ結婚適齢期だし、周りの男も放っておかないだろう。

「それはおめでとう。式には呼んでくれよ」
「いえ、冗談です」
「何だよ、笑えない冗談だな」
「でも、結婚したいというのは本当です。子供の頃、あの子が消えたときはこんな気持ちになるとは夢にも思いませんでした」

 昔の自分を思い出すように視線を宙に浮かべて天野は言った。

「人は変わるものですね。性格も、見た目も、好きな人も」
「そうだな」

 天野が言うと説得力があった。
 実際天野は妖狐との出会いを経て、その度に変わってきた。
 初めて妖狐と別れたときは悲しみで心を閉ざし、真琴のときは少しずつ昔の明るさを取り戻し、真一とのときは結婚願望まで口にするようになった。
 人生何がどうなるかなど誰にもわからないのだ。
 それは妖狐も同じことだろう。
 ある日突然何かの奇跡が起きて、真一が嫌がる真琴の手を引っ張って帰ってきても俺は驚かないと思う。ただ『お帰り』と言って、抱きしめてやれたらいい。

「結婚したら子供を産みたいですね。真一や真琴のような子供を」
「残念だな。真琴は俺のだ。産むなら男の子にしてくれ」

 そう言うと天野は怒ったように俺をにらんだ。
 まぁ俺に言われる筋合いはないわな。怒って当然だ。

「真一だの真琴だの言ってるけど、天野のあの子は蚊帳の外か? 名前くらい出してやれよ」
「あの子は、相沢さんは知りませんから」
「何だそりゃ?」
「……もういいですっ」

 そう言ってそっぽを向いた。何なんだ一体。

「寒くなってきたな、そろそろ帰るか?」
「私は残ります。今日はあの子の命日でもありますから」
「そうか。じゃあ俺も残っていいか?」
「はい。是非そうしてください」

 俺は天野の妖狐を見たことがない。
 写真ぐらいは残ってるだろうか。あったら今度見せてもらおう。




 あれから俺は絵本を書いた。
 内容はもちろん、真一と出会ってからの出来事をもとにしたノンフィクションだ。
 今回は天野に頼んで絵を担当してもらった。
 表紙には肩を寄せ合って眠る真一と真琴が描かれている。
 もし天野に子供が出来たら、そのときはこれをその子にプレゼントしようと思う。
 どんな子供だか楽しみだが、できれば真一のようなひねた子供でなければいい。真一ならこの本をネタにからかってくること間違いなしだからな。
 まぁ天野は俺や真琴と違って真面目だから大丈夫だろう。










 十年の時を経て二人の親子が再会した。

 いつか俺も二人に会いに行くことになる。

 そのとき君が一緒についてこれるように、この本を残そう。

 俺と、君の母さんが愛した妖狐物語を。
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