この街コンクール







 蛇口をひねると、白濁した水があふれだした。その奔流に唇を近づけて、私は直に水道水をすすった。

「ひゃあっ、冷たいっ」

 ほっぺたが朱に染まるのが分かって、気持ちが良かった。
 それもそのはず。だって今は冬で、まだ誰も起き出していないような朝で、勢いを良くするために空気を含んだ水はしゅわしゅわして、ほんの少しだけ冷たさを紛らわせてくれたけど、温水器をオンにしていない今は、凍っていないのが不思議なくらいだったから。
 そろそろっと足音がした。お父さん? お母さん? それともお姉ちゃん? 答えは分かってるんだけど、まだこんなに暗い明け方だから、問いは少し謎めいていた方が楽しい。

「どなたですか?」
「香里よ。美坂香里」

 その飲み方は、ちょっとはしたないよねといって、お姉ちゃんは私の真似をした。

「ん、冷たいっ」

 軽く頭を押さえる。

「よくこんな冷たいもの、嬉しそうに呑めるわね」
「慣れてますから」

 唇の下にちょこんと指を置いて、おすましするように私は答える。こうすると、お姉ちゃんが笑ってくれるって知っていた。
 自分の仕草に十分な効き目を確認した後で、冷凍庫の扉を開ける。

「ついでに、アイスも食べよう?」
「遠慮しとくわ」
「えーっ。つまんないっ」

 半ば強引に100円アイスのカップを手渡す。お姉ちゃんの苦笑がいっそう柔らかくなった。

「ほら、あたしまだ歯を磨いてないし」
「食べてから磨けば良いんですよ」

 そういって、カチカチになったアイスの表面をヘラで叩く。
 ようやくお姉ちゃんも折れて、手に持ったアイスカップのふたを開け始めた。

「ふぅ……朝のコミュニケーション終了。あ、こたつはもう暖かくなってますから」
「先にそれを言いなさいよっ」

 カメさんのようにお姉ちゃんは、リビングのこたつに潜り込む。
 私も入ると、つんつんと足を突いてきた。

「祐一さん、まだお姉ちゃんの本性を知らないんですか?」
「なぁに、本性って」

 ぬくぬくと肩までこたつに入れながら、寝そべってアイスを食べている我が姉。

「お姉ちゃんって一回目は強く拒絶するけど、何度も言うとすぐ折れるじゃないですか」
「そうかしら? 多分、栞だからじゃない?」
「んーん。名雪さんとか、他の人相手でもお姉ちゃんってそうですよ」
「名雪はまた、ちょっと特別だからね」
「お母さん、って呼んじゃったりとか?」
「ちょっと、何で知ってるのよ!? 誰から訊いたの?」
「名雪さん本人から」

 がばっと、お姉ちゃんはこたつから起きあがった。

「あ、あれはまだあたしが中学生の時だしっ。……一緒に帰ろうって呼びかけようとした時に、偶然口から滑っちゃっただけよ。……栞だって、そういう事ってあったんじゃないの?」

 口から滑るって……。お姉ちゃん動揺しすぎです。

「私はないですよ」
「本当? まぁ、そうなのかも知れないけど、結構あることなのよ、そういうことは」
「名雪さんをお母さんって呼ぶことが?」
「違うっ。担任の先生をお母さんって呼んだり、お父さんって呼んだりすることがよ。例えばあたしが小学校2年生の頃、隣のクラスの男子が、男の担任の先生をお父さんって呼んじゃったことがあったし。良くある間違いなのよ」
「でも、その人は小学校低学年だったんでしょ?」
「う……。はぁ、分かったわ。確かに名雪って、ちょっとお母さんっぽいなーって思ってたりするわ」
「正直でよろしい。で、私も白状すると、じつは私も名雪さんをそう呼んでしまって、その時に教えてくれたんです」
「正直でよろしいって、アンタねぇ……。まぁ、うちのお母さんあんなだもんね。よっぽど名雪の方がらしいわよね」
「……そうですよね」

 はぁ。二人溜息を吐く。

「そうだ、お姉ちゃん。今度この街コンクールで発表するお話の原稿、そろそろできたんでしょ? 見せてよ」
「駄目」
「ねぇお姉ちゃん知ってる? 駄目って言葉は人妻か処女が好んで使う否定文句らしいよ。普通の女性は嫌って言うんだって」

 処女、に抑揚を込めて言った。

「なによそれ。第一それは男に対しての言葉でしょ。あんたは女じゃない。そんな話は前提からして間違ってるわよ」
「図星を突かれたからっていきりたたないで下さい。お姉ちゃんの交友関係なんて全部チェックしてるんですから。ていうか、お姉ちゃんの友達は全員私の友達でもあるわけですし」
「あたし、この子の育て方をどう間違ったのかしら……」
「お生憎様、お姉ちゃんに育てられた覚えはありません」

 コタツの中では、脚でキックキックをお互いに繰り出す。私とお姉ちゃん。

「……そろそろ不毛ね。やめようか」
「待ってました。ということは、見せてくれるんですよね」
「仕方ないわね。いいわよ」

 そうして見せて貰ったこの街コンクールの原稿に、私は大げさに溜息を吐く。
 あ、ちなみにこの街コンクールというのは、文字通りこの街を題材に10分程度のスピーチをして、一番優秀だった人に豪華賞品、が贈られるというイベントだ。
 毎年高校を持ち回りで行っていたのだけれど、今年はウチの高校で行うことになった。ちなみに豪華賞品、というのは1万円分の文具券。
 今更1万円も文具にお金使うなんてことはないと思うんだけど……。市から支給されたものを、金券ショップにうっぱらうのもなんか後味悪いし。
 それでも、お姉ちゃんと祐一さん、それから名雪さんは出場するつもりらしい。
 当然私はパス。発表する側になったら祐一さんとか、お姉ちゃんの発表を袖から聞くことになるし、それだったら聞く側になった方が楽しい。

 ところで、何で私が溜息を吐いたかというと……

「私のこと、書いてない」
「ど、こ、に、アンタを題材にスピーチをしろなんていう規定があるのよ」
「でも、お姉ちゃんが文章を書いたら私のことに触れて、当然なんじゃないかな」
「あんた、それでまた喧嘩吹っかける気じゃないでしょうね?」
「良く分かりましたね。お姉ちゃんって、長期戦に極端に弱いですから音をあげるまで続けますよ」
「はぁ、すっかり元気になっちゃって。お姉ちゃん嬉しいんだか悲しいんだか」
「喜んで下さい。そしてその喜びを原稿用紙に記して下さい」
「はいはい、もうなんでもいいわよ」

 お姉ちゃんがガリガリと修正をかけるのをみて、私はほくそ笑んだ。
 実は祐一さんにも同じようなお願いをしているんです。
 これで、私は一躍有名人になれるかも知れません。それって、ちょっと素敵ですよね。
 本当は、お姉ちゃんや祐一さんが私をどんな風に思ってるのか、知りたいというのもあるんですけど。









 3年A組、相沢祐一です。よろしく。
 たったいま俺の顔をみて、見慣れないなと思ったヤツが多いんじゃないかと思う。この高校は生徒の数は多いが、市内の2つの中学から持ち上がった生徒が殆どだと聞いた。俺は今年の初めにここに越してきたばかりだし、それに、なんとなくまだ、この学校の雰囲気にも馴染めていない気がする。……これでも結構努力してるんだけどな。最初の頃の俺は、そのときに友達になったヤツがいうには、本当にスパイが密命を帯びて、この学校に潜入してきたみたいだったそうだ。流石にそりゃ誇張だろと俺も思ったんだけど、なんか俺の周りのヤツはみんな『祐一は変な人』とか言うわけだ。ひどいときは『極悪人』とか言ってくるし。トーストを半分食っただけだぞ? そいつのせいで遅刻しそうだったから食うのを手伝ってやったのに。俺は悪くない! ……と思う。
 えーと、ここまではアドリブだったんですけど、そろそろカンペ見ていいですか?
 ……なんかこれ読むの恥ずいな。マジでヤバイところは逃げさして貰うけど、結構本気でやるんで、できれば笑わないで聞いて貰えるとありがたいっす。
 あー、おもはゆいな。もうちょっとだけ待ってくれ。はっ、はっ、ただいま深呼吸中。ひっ、ひっ、ふー。ひっ、ひっ、ふー。……よし、なんか身軽になった気がするぞ。で、正直俺は、この街がなんか好きになれなかったんだ。実は小さい頃、何回かこの街に来たことがあるんだけど、その時からなんかこの街に、無慈悲というか、無機質というか、そういうイメージを抱いていて、前に住んでた街みたいにほっとできる感じがしなかった。だから、なんていうか、やっぱりここは俺にとってアウェーなんだな、ってずっと思ってたよ。
 あ、言っとくけど今はそうじゃないからな。ちょっと前までの俺の話だ。今は、みんなが『どうか出て行って下さい』と土下座したって離れたくないくらい、この街を愛してるぞ。
 それで、そんな風に俺を変えちまったのは周りのみんなのせいなんだけど、中でも一番の原因は今の俺の恋人だ。ま、そいつが高校を卒業したら責任は取って貰うつもりだけどな。
 そいつ、俺が会った頃はあんまり体が良くなくて、医者にはあと数週間も保たないって言われてたんだそうだ。ああ、これも今は全快してるから、暗くならずに聞いて欲しい。まあ、とは言え未来が見えるわけじゃないし、当時の俺はマジでやばかった。なんつーか、この街はまた無慈悲に彼女を見捨てると思ってたんだ。別にそういう場面を以前に見たわけでもないのに、またって言うのも変な表現だが、なんていうか寒いしさ、雪ばっかりでなんか生命の息吹を感じないしさ、ああ、絶対コイツは以前に何人かヤってる、って思ってたわけだ。で、そりゃ好きな女の子と付き合えたわけだし、色々やったし、表面上だけじゃなくて、心の中まで結構楽しんでた。それが彼女の望みでもあったしな。でも、……自分でここまでって決めてる自分の心の外側って感じかな? そういうところにやっぱり恐怖があったんだ。そして、それが嫌でも目についちまうんだよ。机の隅っこに積んである夏休みの宿題みたいにさ。
 それでもやっぱり楽しかった。だって、楽しむ以外に方法がなかった。例えば学校から商店街につながってる道の途中を曲がると、並木道があるだろ。あの奥に公園があって、そこの噴水がひなびてるけど、吹き出す水の高さはなかなかのものなんだ。あそこで、雪合戦をしたりした。……今思えば、とんでもないことだったんだよな。今にも倒れてしまうんじゃないかっていうくらいの重病人と雪合戦をして、しかも、そいつは俺の恋人で、俺も女の子だからっていう手加減はしたけど、病気だからっていう手加減はしなかった。無茶苦茶だった、本当。
 それから、学校でもデートした。彼女はそれまで学校にも来れなかったし、俺もこっちに来たばかりだったから、それでも十分ドキドキすることだった。やっぱりこれもドクターストップを無視してやったんだけど、一緒に弁当を食ったり、流石に学年が違うから、授業は一緒に受けられなかったけどな。
 でも、やっぱり一番印象に残ってるのは、商店街だ。あそこはちょうど東から西に延びていて、冬は夕方になると電柱の下に積もった雪のこんもりしたかたまりだとか、大きなぬいぐるみが置かれたファンシーショップのショーウィンドウだとか、鏡のように済んだ歩道の水溜まりだとかが一斉に夕日を乱反射して、眩しく暗いダークオレンジに商店街全体が満たされていく。そんな時間になると、いつも会うヤツがいて、そいつと彼女と3人で、儚い黄金に彩られた街を歩いたりした。
 そうやって、俺は段々この街が好きになっていったんだ。
 俺と彼女とは、1週間だけ会いましょうって約束をしていた。1週間後がちょうど彼女の誕生日で、その日までに死ぬと医者が予言していたからだ。それで、約束の日に俺と彼女とはロミオとジュリエットよろしく別れたんだけど、その日のデートがあまりに楽しくて、彼女が好きで、そして、街が綺麗だったものだから俺は、こんなに残酷な事ってないと思った。もう、頭の中はそのことばかりで、俺は街のことが嫌いだったなんてことはすっかり忘れて何度も祈ったね。
 俺はこの街で、いつでも彼女が戻って来られるように朗らかに過ごしてみせるだから、どうか彼女が再び俺の元に返ってきますように、って。
 そして、奇跡は起こったんだ――。
 今思うと、俺が嫌いな街と仲直りしていって、この街を俺が受け容れたから、この街が彼女のことを助けてくれたような気がしてならないです。まあ、思いこみに過ぎないって言われたらそれまでなんだけど。
 なんだかとりとめがなくなっちまったけど、これで俺の話は終わりです。みんな聞いてくれてありがとう。








 3年A組、美坂香里です。よろしくお願いします。
 私も先に話した相沢君と同じで、実はこの街のことを嫌いになりそうでした。今回はこのような場を借りさせて頂いたと言うことで、その時のことを話したいと思います。
 先ほど嫌いになりそう、と言いましたが、もちろんそれは、私がこの街を好きだったから、そして今も好きだから言えることです。この街の人口の多さは、全国で750を越える市の中でも30番以内にランクインするほどであり、これは秋田県秋田市、北海道旭川市、奈良県奈良市などを優に上回り、兵庫県姫路市、大阪府東大阪市、東京都八王子市に匹敵するほどの人口を擁していることになります。一方、この街は自然にも恵まれています。この学校の裏にある雑木林には、リスや、クマや、珍しいところでタヌキが住んでおり、ここから北に2キロほど離れたモノミの丘にには、狐や、トビ、マントヒヒ、ツバメなどが生息し、中腹にある湖には白鳥が羽を休めることがあります。その他にも多くの哺乳類、昆虫、草木、シダ・コケ類などが集まるこの街には、その動植物の多種多様性から自然と日本中の生物学者が集うようになりました。これが、この街の中央で多くの優秀な学生を育てている市立大学の発祥とされております。
 しかしながら、こういったデータを理由に私はこの街を好きになっているわけではありません。私がこの街を愛するのは、もっと深い、心の拠り所としてこの街が存在するように感じているからです。例えば、この街にいることで自分の生命すら肯定されるような――そんな感慨をみなさんは感じたことがなかったでしょうか?
 私がそんな強い感情をこの街に対して覚えたのは、不思議なことにこの街を本当に嫌いになりそうだったその直後で、もう一度だけやり直したい、この街で自分の生きる場所を見つけたい、そう感じた時でした。その時、あんなに避けていたこの街が、急にまた、以前にも増して優しく私を包んでくれるように感じたのです。
 もちろん、私はそのことにたった一人で気がついたわけではありませんでした。
 私のかけがいのない、たった一人の妹、私の親友、そして、妹の恋人になった先の発表者、相沢祐一が私の心を支えてくれたから、私はまたこの街を好きになることができたんだと思います。
 ここから先の話は、あまりに私の個人的な話に寄りすぎるのですが、それでも、私のこの街に対する思いを語るには避けて通れない部分です。どうか、今しばらくのご静聴をお願いしたいと存じます。
 2年前のクリスマスから、私は最愛の妹と話すきっかけを失っておりました。理由は察しの良い方は既にお気づきかと思いますが、先の発表者相沢が述べたように、妹が重病にかかっていたことに依ります。
 暗黒の空から白い雪が天使の羽のように降りそそぐ夜、街のネオンサインは輝き、家族や恋人が寄り添って温もりと憩いとを求める時間、そのただ中で、私は妹に医者から告げられた事実を、死刑を宣告する裁判官のように淡々と告げました。
 あなたは、次の誕生日まで生きられない、と。
 妹は泣きませんでした。
 そして言ったのです。本当のことを教えてくれてありがとうお姉ちゃん、と。
 正直私は、彼女にどう接したら良いのか分かりませんでした。どうして彼女はこんなに悲しい笑顔を見せるのでしょう。どんなにもがこうと、泣こうと騒ごうと、絶対的に訪れる死というリミット。それは誰もが同じ境遇にあるとも言えますが、よりハッキリとした期限付きで、例えるなら断頭台の上に首を載せられた状態に彼女はあるのです。
 姉が妹をこう表するのも酷な話だと思いますが、妹が可哀想で、そして無様で顔を向けることができませんでした。だって、妹がどんなに強がったところで、それは私たち家族という観衆の前で手を振る、首に縄のついた死刑囚の行為に過ぎないのですから。
 私はあまりにどうしようもなくて、妹と接するのをやめました。そんな感情を抱きながらでは、どんなに取り繕ったところで妹を傷つけるだけだと思ったからです。
 それは愚かなことだ、と皆さんは思われたでしょう。接することで避けようもなくつけてしまう心の傷よりも、無視することで相手に刻みつける心の傷の方がどれだけ深く、また膿んで治りを遅くするものであるか、大抵の方はご存じでしょうから。
 私もそれに、どこかで気付いてはいました。しかし、接することでつけてしまうだろう傷は一瞬にして大きく、無視することでつける傷は、その瞬間瞬間においては、殆ど大きさを持たないことが私の決心を鈍らせました。
 私は愚かにも、問題を先送りにすることで妹の傷をどんどん大きくしていったのです。
 それは同時に、この残忍な姉の心をも蝕んで行きました。妹の存在を無視し、忘れようとしたところで、そんなことができるはずがないのです。それでも私は必死で学校では平静を取り繕い、なるべく家には帰らないようにし、問題――そう、私はたった一人の妹を、自分の『問題』にしてしまったのです――、そこから逃げ続けました。
 この時、私はこう考えていました。妹が死んだら、どこか遠くの街にいって、なるべく早く忘れるようにしよう、と。私は妹から逃げ出したいあまり、この大切な、自分の生まれ育った街からさえ逃げだそうとしていました。
 そんな卑怯な私を窮地から救い出してくれた友人たちには、感謝の言葉もありません。特に相沢くんは、過去に同じような出来事を経験したんじゃないかと思うくらい、力強くこの問題に立ち向かってくれました。
 そして、もう一度私に、妹と、この街を愛する機会を与えてくれたのです。
 この街は今も静かで、私にとって美しい街であり続けています。それはきっとこの街が、私を許し、もう一度幸せに暮らす機会を与えてくれているのではないかと思うのです。
 だから、この街は、私にとって許しの街です。
 ――大変長らくの間、ご静聴ありがとうございました。








 3年A組、水瀬名雪です。よろしくお願いします。
 えっと、わたしはこういう人の前でお話をするような経験があまりなかったので、祐一や香里のように上手に話すことはできないと思います。それでも、頑張って話しますので、どうかみなさん聞いて下さい。
 朝起きたとき、みんなはどんな景色をみるのかな、と時々思います。きっとそれは一人一人違っているはずで、でもみんな、その光景を見ながら今日という日に何かの希望を見つけていると思うので、それはとっても素敵なことだと思うんです。
 それで、わたしが朝起きたときの光景を、話したいと思います。ちょっと恥ずかしいけれど、多分、そういった目に映るひとつひとつが、この街の一部なんだと思うから。
 わたしは、寝起きがあんまり良い方ではありません。――あっ、わらわないで。これでも一生懸命起きようと頑張ってるんだから。えーと、夜はなるべくテレビを見ないで8時に寝るようにしたり、短い休み時間にはお喋りをするのをやめて、睡眠時間をほきゅうするようにしたり。――それで、大抵は気がつくと家を出てるんだけど、時々、朝起きたときの光景を覚えていることがあります。わたしの部屋の、薄緑色のカーテンを通して光が入ってきて、部屋がまるで森の中のようになっています。それで、机やテーブルが木でできていて、おふとんやわたしのパジャマはピンク色です。それが、わたしが朝目覚めたときの光景です。
 とっても綺麗です。
 それで、制服を着て、ごはんを食べに下に降りていきます。朝、階段を下りるのって、結構大変だよね。頭がふらふらするし、足もふらふらするし、もしかしたら、おっこちて怪我をしちゃう子もいるんじゃないかなぁ、と時々思います。わたしは慣れてるから大丈夫だけど。
 うちはパンの時が多いので、リビングに入ると香ばしいパンの匂いがふわんと漂っていることが多いです。わたしは、この匂いを嗅ぐと、今日も一日がんばらなくちゃっ、という気持ちになります。そして、わたしを起こしてから、待っててくれてる祐一と、お母さんにおはようございます、と挨拶します。そうすると、二人とも笑顔になってくれるので、幸せな気持ちになります。
 朝はあんまり眠たいので、お母さんのお手伝いをすることはできないけど、少し早く起きることが出来た日には、かちゃかちゃという泡立ての音や、とんとんという包丁の音を聴くことができます。わたしはこの音を聴くと、また眠たくなっちゃうんだけど、それがやっぱり幸せで、とても良い気持ちになることができます。
 そういえば、最近祐一が新聞を読むようになりました。ちょっと格好いいです。わたしも読んだほうがいいのかな、と思うけれど、アナウンサーの男の人の声が好きなので、もう少しだけテレビをみていようと思っています。新聞を読むようになったら、難しいところは祐一に教えて貰おうと思っています。
 ――えっと、このまま一日のことを書いたら、それがこの街のことになるかな、と思ってたんですけど、お母さんにそれだけじゃ駄目と言われたので、これで終わりにします。本当は学校にいるときも、部活動も、帰ってきて、夕方や夜を過ごすときも、朝に負けないくらい、わたしにとって楽しい時間なんだけど……。
 だから、次は家族のことについて話そうと思います。
 わたしには、お父さんがいません。だから、お母さんにはとても苦労をかけてきたと思います。小さい頃はわたしはそれが分からなくて、ずいぶん無理を言ったことがありました。ずっと家に居て欲しいとか、授業参観に来て欲しいとか。だけど、わたしがどんなに無理を言っても、お母さんは滅多に怒ることなく、笑顔で、ごめんねって言ってくれました。本当はわたしが悪かったのに……。わたしは、おかあさんに18年間もそうやって迷惑をかけ続けてきました。
 だから、大人になったら、お母さんになにか恩返しができたらと思っています。高校を卒業したら、わたしは近くのお店でバイトして、まずはお母さんを経済的に助けられるようになりたいです。できれば、お母さんがもし疲れちゃって、仕事をやめたいと思ったときでも、お金のことで仕方なく働かないとならないということがないように、しっかり稼ぎたいと思っています。
 それから、ずっとお母さんと一緒に暮らしたいと思います。お母さんがおばあちゃんになっても、傍にいたいです。わたしが誰かと結婚したときには、その人と相談しなければならないけど、きっとその人はうんと言ってくれると思います。
 もう一人のわたしの家族は、祐一です。祐一はいとこで、ちょっと変な人なんだけど、とても優しくて、格好いいところもあります。
 祐一は、今はわたしと一緒に住んでいるけれど、元々はもっと都会の街に住んでいて、時々わたしの家に遊びに来ていました。
 祐一は面白い遊びを沢山知っていて、わたしもおかあさんも、祐一が来る日にカレンダーでまるをつけて、早く来ないかなって話をしていました。祐一がいると、わたしの家が明るくなります。
 だけど、祐一が一時期、わたしの家にこなくなったことがありました。
 えっと、これは実は、わたしが悪かったんです。祐一はいつもわたしの事を励ましたり、助けたりしてくれたのに、わたしは祐一が本当に助けを必要としていたときに、自分の事ばかりを考えて、支えになってあげることができませんでした。
 だから、この街に帰ってきたときに、わたしの代わりにこの街を嫌いになっていたんだと思います。だから、祐一がこの街を嫌いだったというのも、実はわたしのせいです。
 祐一がこの街を好きになってくれて、本当に嬉しいです。それから、友達の香里が元気になったのも、祐一のお陰でした。ちょっと、ヒーローみたいで格好いいです。それから、さっき話をきいてびっくりしたんですけど、祐一がこの街を好きになるように頑張ってくれたって言う栞ちゃんに、この場を借りてお礼を言いたいと思います。どうもありがとうございました。
 えっと、何の話だか分からなくなっちゃったね。
 わたしが、この街のことについて訊ねられたら、思い浮かべるのはわたしの家族や、友達や、そしてわたしがこの街で過ごしている、この一瞬一瞬の時間のことです。わたしは、それらが大好きだし、大切にしていきたいと思っています。だから、みなさんにも、大切にして欲しいと思いました。
 ここまで聞いてくれて、どうもありがとうございました。








 わたしが楽屋裏に戻ると、祐一にぐりぐりされた。

「馬鹿っ、恥ずかしすぎるだろっ。栞の名前まで出しやがって」
「恥ずかしいのは、みんな一緒だったと思うけどね」

 香里はめずらしく、頬を赤く染めていた。――ちょっと可愛いかも。

「やっぱり、あんたたちも栞に色々と言われたの?」
「わたしはあまり言われなかったけど、祐一が」
「絶対に、私のことを中心に書いて下さいねって、笑顔で脅されてたぞっ」
「道理で相沢君のと、なんか被ってると思ったわ――」

 今度は額に手をあてていた。わたしは、香里の発表も祐一の発表も、とても良かったと思うんだけどな。

「ま、何にせよこれで終わったわけだな。みんな良かったよ。水瀬もそう思うだろ?」
「あ、北川君」

 北川君は軽く手をあげた。
 ごめんね北川君。褒めては貰ったけど、わたしは北川君の発表の途中で眠くなっちゃって、内容を良く覚えてないよ。

「相沢、ところで誰が優勝すると思う?」
「さあな、さっぱり分からん」
「オレは案外、お前たち3人の中の誰かじゃないかと思ってるんだけど」
「そうは上手くいかないものよ……」
「でも……」

 わたしは、発表の後のふわふわした気持ちのまま答えた。

「きっと、悔いなく発表できたってところに、意義があるんじゃないかな」






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