「最近さ、あんた北川くんと仲良いよね?」
「え?」
 突然の、話題振りだった。
 さっきまで好きな洋菓子はで盛り上がっていた。商店街にある店ではクッキー系統はそれなりで、ケーキが美味しい。特にイチゴのタルトタタンとショートケーキは絶品――と話していたのに、彼女が急に目を光らせたと思うと、その言葉をすぐに口に出していた。だから戸惑ってしまう。頭のクロック処理が追いつかない。
「えっと、北川くんって、あの北川くん?」
「他に誰がいるのよ」
 当たり前でしょ、と釘を刺される。思うとおりであるならば、今教壇に上がり『はたして人類の進むべき道とはどうか!?』と言うお題目ながら「綺麗なお姉さんは好きですかぁー!」と叫んでいる彼だ。
 窓から差し込む光の加減で彼の髪が金色に輝いて見える。図ったかのようにベストスマイルにいまの言葉も相まって、思わず胸の鼓動に揺さぶりをかけられた。
 それを知ってか知らずか――おそらく前者――ニヤニヤと半笑いに、もう一度尋ねてくる。
「で、どうなの? 仲良いよね?」
「え、あー……そうかな?」
 疑問系で答えるが、ふと思えばそうだなあとか思う。三年生になり、席替えで隣になった彼とは、授業中こっそり話し合ったりもする。分からないところは軽くアドヴァイスを貰っているし、休み時間であっても、なにか特別なことがなかったら暇を持て余してお喋りをしていた。
 それを踏まえて言うならば、確かに仲が良くなっている、気もする。二年生の時はクラスメイトの意味合いが強かったが、今では正真正銘の友達であった。
 だが、それはあくまでも友達なのであり、親友である彼女の思惑とは離れていることもまた事実なのである。それを踏まえ彼女はきっぱり、
「うん、確かにそうだよ。大事なお友達」
 と言いきる。すると、彼女はつまらなさそうに肩を竦めた。
「な〜んだ、つまんない」
「つまらないって、どういう意味?」
「言葉どうりよ」
 なにそれ、とか思う。いつもの口癖、自分とはまたかけ離れた考え方をしているようなその口振りは、少しだけ寂しくも感じた。
「いっつもそれだよね、香里は」
「あんたこそじゃない、名雪は」
 お互いに小さな非難を飛ばしあい、小さな間が生まれ、やがてどちらが先か、噴き出した。
 いま話題になっていた彼はと言うと、相方のつっこみを一身に受け床を転がっていた。



 走るときに思うことはなにもなかった。

 なにもないからこそ、いつまでも走れた気がした。

 踏みしめる大地と、浮き上がる心。

 まるで、背中に翼が生えたかのような昂揚感。

 行ける気がした、何処までも。まっしろな世界の、その果てにと。

 だから走ることが、知らぬ間に好きになっていたのだろう。



「今日もお疲れさまでしたー」
 そう号令すると、何倍にも膨れ上がった声で返される。その声が名雪は好きだった。
 そこからは思い思いに皆散ってゆく。練習で肉体を酷使しすぎたのかへたり込む者から、帰り道何処を行くかを談笑する者など十人十色様々である。
「部長、お疲れ様ですー」
「あ、うん、おつかれさまー」
 礼儀正しい子は再び自分に言い直し、そのまま小走りで部室へと行く。
 その様子を見て彼女は元気だなあ、とか呟いてしまった。今日は特に精が入った練習だったが、それでも性格から来る若さか。感慨深くなってしまい、つい苦笑してしまう。
「わたしも、早く帰らないと」
 少々気だるげで緩慢に動く身体を引きずり気味に、彼女も今の部員の後を追う。土くれた身体を拭いて、家で汗ともども流したくもあった。夕食を終えたらテレビを見て予習をして、早く眠りに就こう。それでなくとも朝は起きられないのだから。
「水瀬」
 背後からの呼びかけに、反射に近い形で振り返る。声色から誰かであるかも考えず、無防備に近いまでに。
「――え?」
 だからこそ、つい驚きが隠せなかった。この二年以上もの間、一度もこんな場面がなかったから。
 夕陽を背に、自然体で佇む男性。
 逆光のせいで、紅く、金色に輝く髪。
 北川潤が、柔らかい笑顔で自分を迎えていた。



 今、長い長い影法師を先に肩を並べている彼がいる。
 まず思ったのがなんで、って言葉。それは至極当然な疑問であった。確かに話すこともこの頃格段に増えていた。昼に親友と話していたことも、僅かながら意識していた。
 しかしだからと言って、急転することは彼女にとって意表を突く予想外である。
 一緒に帰ろうぜ、と笑いながら誘いを半ば混乱気味に受け、急いで着替えをし、「あれ部長いまの人――」とからかいの声を流し、時間にして約一分と言うハイペースで彼の隣についた。
 そこまで早いと思っていなかったのか「エイトマーン……」とか呟かれる。今時の若者である彼女にはその意味が分からなかったのは当然だった。
 もしや香里がなにかのアプローチを、と邪推するがしかしそこまで野暮な人間でもないと帰結する。
 ではそれ以外になにか色々な考えを巡らせていたが、ふとやめてしまう。彼が自分の横を歩いていると言う事実に変わりないから。
 隣で淡々と歩く彼の横顔を覗き見する。先程から曖昧な微笑を変わらず浮かべていた。クラスでのハイテンションとは打って変わっての、静謐を体現したかのようなギャップに戸惑ってしまう。
 つい、と顔が向けられる。慌てて正面に向けるが、くつくつとおかしそうに笑われた。
「どうした? 俺の顔がそんなに凛々しいかい?」
「う、ううん! 全然っ」
「……即答するなよ。割とへこむぞ」
「あ、ご、ごめん……」
「んー、まあ良いや。そういやさ水瀬、ちょっと時間あるか?」
「え? う、うん。ちょっとなら」
「ならさ、そこ寄ってかないか?」
 彼はチョイ、と人差し指を曲げる。倣って視線を合わせると、公園があった。
「少しで良いんだ。話したい気分なんだ」
「う、うん」
「そうやって身を硬くするなって。取って食いや――って冗談にならねえな。いやスマン」
「う、うん」
「……ま、行こうぜ」
 彼は足早に歩を進める。彼女もそれに付いていく。公園なら、いざと言う時も大丈夫だろう、と少し自分に説得する。
 彼女はこう言う自体が多いとは言えなかったが、決して無かったわけではなかった。親友との語らいにも上ったりするほどにはあったつもりだ。だから少しばかり心のガードを上げて望もうと思った。
 今まで、ずっと断ってきたのだ、と自分に言い聞かせて。
 ところが、彼が公園に着き、ブランコに座って話し出した内容は、予想したものとはまったく違っていた。
「あのさ、受験ってダルイって思わねえ?」
「え?」
 もし彼が不意打ちを狙っての言だったのだとしたら、それは間違いなく的中だった。一秒間の空白が彼女に出来た。
「いやさーやっぱりなーって。水瀬は確かスポーツ推薦だっけ?」
「う、うん。短大だけど」
「そっかー。いや、俺はそのままフツーに受験だからさ、ちょっぴりうらやましーとか思うんだけど、やっぱ大変なんだろ? 陸上、嫌でも続けないといけないらしいじゃん?」
「うん。あ、でもわたし体動かすの、嫌いじゃないし」
「へー。まあ、走ってる水瀬カッコいいしな。今日のスタートもビックリしたし。他の部員追いかけることも出来てなかったじゃん?」
「そうでもないよ。ただ、ウォーミングアップでもあったし」
「ふーん? 水瀬ってスプリンター? それともランナー?」
「あ、長距離、かな。中距離も好きだけど」
「へー。俺はやるとしたら短距離かなー。長距離とかって体力かなりいるからなー」
「そうだよね、でも走るのって良いと思うよ」
「あーそれは分かるかも。タイムとか気にしなかった時って気持ち良いーとか思うし。開放って言うか、座って勉強してるよりかはストレス解消になるしなー」
「北川くんも、やってるの?」
「んー、やってるって程でもねえな。ただ夜ジョギングとか時々してんだ。こえー不良とかに会ったりするけど、犬連れて散歩してる人に挨拶したりして、それも楽しいって言うか」
「へーそうなんだ」
「おうよ。夜はかなり良いぞ? ……まあ、まえ補導されかけたけど」
 そう、会話が続いてく。あれ、とか思った。考えていたことではない方向に続いてる、と。
 彼は巧みに話題を面白く膨らませ、自分は相槌を打ちながら、次第に心が緩和するのを感じた。
 派手なリアクションに釣られて感想を洩らし、だろ? と彼は話を続けていく。
 そろそろと夕陽が落ち、周りは夜へと姿を変貌させていった。
 自分がそれに気づいたとき、彼もちょうど腕時計を見る。
「……て、うわぉ。スマン水瀬、ちょっとといいながらかなり経ってた」
「あ、ほんとだ」
 彼の時計を覗き込むと長針が反対側へと回りこんでいた。
「水瀬の家って、こっから遠かったっけ?」
「そうでもないよ。すぐ」
「つっても、女の子を一人ってのは物騒だな。侘びだ、送ってくよ」
「わっ、べ、別に良いよ」
「いや、ここでなにかあったら心配で死ぬ。だから送らせてくれ。ダメなら駄々こねる」
 彼は頑なに譲ろうとしなかった。こうやっている間にも時間は刻々と進むのを考え、名雪は素直に折れる。
「うん、分かったよ」
「よし、じゃ行くか」
 と、彼は立ち上がる。
「ううむ、なんとなく勇敢な男の子になった気分」
 と、彼はしなを作って言った。
 彼女は、その言葉に曖昧に笑うだけだった。



 話は飛び、彼と歩いてすぐに家に着く。「よし、これで役目は果たされた」と言い、「じゃ、またなー」と軽そうにその場から去ろうとする。名雪は「北川くん」と呼び止めた。
「ん、どうしたん?」
「えっと、それで、結局なんだったの?」
 彼女は、その解答がどうしても聞きたかった。結局道すがら、他愛ない話をしただけだった。彼はいったい何の目的で、自分を待っていたのかと。
 すると、彼は照れくさそうに頭を掻き、
「実は、意味なんてなかったりするんだわ。ただ帰ろうと思ってグラウンドを見ると水瀬がいたからな。ちょうどいっかなーって」
 彼はひらひらと手を振り、「じゃあな。また話そうや」と言葉を残した。
 その言葉に絶句し、彼女は取り残された。
「……なんなのかなあ」
 そう言いながらも、決して不快感だけがあるわけでもなかった。小首を傾げながらも、彼女はドアホンを押したのだった。




 走ることは楽だった。

 重く緩慢な足も、酸素を求める口も。

 その先に望んだ場所があると思うと大丈夫。

 こんなもの、苦しくもなんともなかった。

 この道の末に、大切な者があると思えば。




 コンコン、と品良く二回ノックされる。
 持っていたシャープペンシルをノートの上に置き、どうぞと促した。
 開く音と共に入ってきたのは、幼馴染の相沢祐一である。
「よう。……って、勉強してるのか?」
 神妙な顔をしていたと思えば、すぐに彼は顔を崩した。名雪もつられて微笑んだ。
「うん。やっぱり、勉強は大切だから」
「熱心だなあ」
「そういう祐一はやんないよね」
「まあな。って言うか、都心とけっこーレベル違うんだぞ?」
「そういえばそうだよね。見せてもらった時、思わず唖然としたもの」
 彼女はあははと苦笑する。
 三月の始め頃、三年生の準備の為に新品同様の教科書を二人で片付けていた。その時名雪は彼が間違いで持ってきた以前の教科書を見たことがあった。
 彼女の第一声は「わたし、英語苦手なんだ」だった。表紙は「数学」と銘打たれていて。なにをそんなボケをかますなら本物見てみろよ、と渡されたのは本当の英語の教科。「米粒の文字がラインダンス」との感想。国語を見れば「こんなの日本語じゃないよっ」とがなり立てた。読んだのは日本古式演舞の「能」の台詞だったらしい。
 そんなわけで、彼女は彼が元いた都会の恐ろしさと言うものを身に染みていた。なにしろ彼女が最後に、右斜めに俯きながら「祐一、もう昔の祐一じゃないんだね」と拗ねるほどであったから。その彼女をなんとか宥めすかすのに要したのはイチゴサンデー一杯だった。「お高く留まっているのか安いやつなのか……」との言葉は彼が彼女のイチゴを頬張る姿を見て漏らしたものである。
「何気に祐一って成績良いよねぇ。……寝てるクセに」
「そんな目で言うな。まあ、あっちでの授業が今やっと追いついた、って言うのもあるからな」
「良いなー、祐一。予習とかしなくても授業分かってて……」
「だから、そんなジト目で……っ。そんな事を言っても、俺だって前は真面目にやってたからイーブンだろ」
 不遜に言うが、それでも彼女の目は戻らない。そっぽを向けば「じー……」と言葉に出され、彼は諸手を上げた。
「こーさんこーさんっ。はぁ……だからそんな目で俺を面白がるな」
「あはは、うん素直でよろしい」
 彼女は一頻り笑うと、それで、と続きを促した。
「どうしたの、こんな時間に?」
 その言葉に祐一は苦々しい顔つきに変わる。
「あー、うん。えーとどう言えばいいかなー」
「うん、大丈夫だよ祐一。祐一が言うことだったら大体分かるから。そのまま言ってみて」
 何しろ、昔からの付き合いから、だもん。と彼女は可愛らしくおどけた。
「あーっと……。実はな、俺の友達の友達――っつうか都会の人間なんだが――ソイツがちょっと恋に悩んでるんだよ」
「ふんふん」
「それで、どうしてもそのこと仲良くなりたいっ、と思ってるみたいなんだが、でもそいつ全く自分に自信がねえんだよ。どういえば良いのかな、今まで異性での友達と言うか、そういう距離でしか取ってなかったから、っつうか」
 たどたどしくも話す祐一は、一旦肩を竦める。そして、ゆっくりと、彼女を正眼で見つめた。悩んでいる自分を、振り抜くかのように。
「……告白して、今までの関係崩れるの、怖がってるみたいなんだ。イエスだったら最高だろう。でも、もしフラれたら、と。そいつは昔からそう言うことを体験してきてた。だから、知ってるんだ。一旦近づきすぎて、拒まれた後のことを」
「……だよね」
「ああ。だから、その怖がっている心をなんとかしたいんだ。その子が自分のことをただの友達としか思ってないなら、それで自分に歯止めをかける気で、もし少しでもその気があるなら、その時は――」
 彼は、空を仰ぎ、
「その時は、玉砕でもなんでもしたい、って」
「――そっか」
 彼の眼は、紳士さに満ちていた。まるで"自分の悩み≠ニ言わんばかりの真剣を持っていた。
 俺の友達の友達――先ほどの言葉に、彼女は肩を竦めたくなった。だから心の中で、うそつきと言った。少しばかり、意地悪すぎる悩みの打ち明けではないだろうか、全く素知らぬ赤の他人の悩みと偽って、自分に訊くなど――。彼は無言のこちらをまだかまだかとちらちら窺っている。
 ああ全く、こんな所は変わっていない。小学生の頃から、彼のいじわるさとごまかし方はあの頃と同じように可愛さで満ちているのだ。
 だから少しだけ悩むそぶりを見せ、溢れる感情を必死に堪えて言い出す。
「――うん、それはアレだよ。ちょっと色々、素振りとか見せたりすると良いんじゃないかな? 二人っきりで色々なこと――恋の話はちょっとあからさま過ぎるからNGだよ――を話したり冗談めかして好き、とかそういうことを言ってみたり」
「……ああ」
「でもね、肝心なのは、早とちりしすぎないこと。『この子は絶対に俺のことが好きだ!』とか『あ、俺のこと嫌いなんだな……』とか。そうやってすぐに結論付けたらダメ。気長に、ゆっくりと深呼吸するぐらいで行かなきゃ。じゃないと、仲良くしてるその子の気持ちも考えないと、可哀想だよ?」
「……そうだな」
 コクコクと、何度も頷く祐一。
「……うん、でも思うんだよ。わたしは嫌いな男の人とは余り喋りたくないよ。だから、全く話したこともないならともかく、友達なら、多分少なからずなにか思ってると思うから。うん、ふぁいと、だよっ」
「……ああ。さんきゅ、名雪」
 うん、そうだな、うん……。と彼は言われた言葉を咀嚼するかのように、何度も俯いて呟いていた。
「参考になった。うん、今度そいつにも言っとくよ」
「わかったよ。……あ、それから」
「うん、なんだ?」
 まだあるか? 彼がこちらを向いた時、彼女は、
「恋は、自信持たないといけないと思うよ。だって、人を好きになったら幾らでも強くなれるもんね。ねっ、祐一?」
 と小悪魔の如く、いじわる気に微笑んだ。



 とん、とん、とん、とん。
 一段一段を重い足取りで降りると、芳しい匂いが鼻腔をくすぐった。細めていた目をより一層閉じると、意識が少しずつ覚醒されていく。頭の中に水が沁みるような感覚と、差し込む陽光を目蓋に受けながら名雪はドアを開いた。
「う〜ん……、おはようございます」
「おはよう、名雪」
「おはよう」
 二人の挨拶――台所の秋子と食卓の祐一――を聞きながらいつもの椅子へ座り込んだ。祐一はもう食べ終わったらしい。表面を見せる白い皿を前に、優雅にコーヒーを飲んでくつろいでいる。
「ふわぁ……朝はいつまで経っても慣れないよぅ」
「本当に思うが、あの目覚ましの音は近所迷惑だと思うぞ」
「起きれないんだから仕方ないよ〜」
「ふぅ、秋子さんも前は大変だったんじゃないですか?」
「う〜ん、少しは……そうですね。ちょっとだけ、大変だったかしら?」
 マーガリンを塗られ光沢を見せるパンを娘の前に起きながら母は語った。
「わっ、そんなこと言わなくても良いよ〜」
「いやいや、こういうことは言っとくべきだ。孔子曰く、親子喧嘩と兄弟喧嘩は不満がある限り言い尽くすべきだと昔から……」
「孔子さんも言ってないよ〜。祐一、真面目な顔して冗談言うんだもん、うっかり信じちゃうよ」
「うむうむ、小生は名雪のことを思ってこうやって社会の厳しさを……」
「わっ、絶対違うよ。私を見て楽しんでるよっ」
「……分かる?」
「わかるよ〜っ」
「てへりっ」
「可愛い子ぶってもダメ〜!」
「それより名雪、早く食べないと冷めるわよ?」
「わぁっ」
「あ、秋子さん、コーヒーおかわりあります?」
「はい、すぐ持ってきますね」
 パタパタと小さく走る母親を見ながら、娘はジャムを一杯塗りたくったパンを頬張った。パンの質量に負けないジャムは口の中に収まりきらず、頬についてしまう。だがそれでも、彼女の弛んだ微笑はそのことを瑣末に感じさせた。
 その笑顔を見て彼は苦笑いし、小さく「あんな甘くて……信じられねえな」と呟く。そのセリフには決して悪態ではない感情が垣間見えた。
 しばらく穏やかな時間が流れ、二人は身支度を済ませて靴を履く。家主である母の見送りをうけながら、彼と彼女は歩きながら登校しだした。
「……って言うかなあ」
「うん? どうしたの祐一」
「ん、ああいや。ちょっと、な」
 祐一は名雪をしばし見つめ、皮肉気に嗤った。
「最初の頃は登校ってのは走るものだと思ってたのに、いつの間にかのんびり歩くのに慣れちまってて……。ふと思えば、あの頃には考えてなかったことが起きてるよなってな」
「うーん、確かにそうかも」
 誰かさんのせいで、と言うあからさまな含みに普通なら怒りそうなものだが、彼女は苦々しく笑って済ませる。確かにあの時は想像を絶した緊張と気迫があったから。
 一分一秒を惜しみながらの、雪上タイムトライアルはいまだ記憶に深く刻み込まれている。
「ひ、人は変わるもんなんだよ」
「……本当にそうですね」
 半ば呆れ気味に視線を向ける彼にいたたまれなくなりあさっての方向を向く。空は快晴。心地よい風と熱くもない程良い陽射しは快適な環境をもたらしてくれていた。
「良い天気だねぇ、祐一」
「ま、そうだな。そういや名雪、今日の体育はなんだっけ?」
「え? えーと体育館でバレー、だったかな」
「くそ、こんな日はサッカーか野球でもしたいぐらいなんだがな」
「あはは、それか走るのも良いと思うよ〜?」
「朝の日課がなくなったし走るのは別に良いんだが、しかしタイム計ると思い出してイヤになるんだ」
「そうかな〜?」
「それよりもあれだ、ここは高校生男児らしく砲丸投げだっ!」
「わ、危ないよ〜」
「なら槍投げ。目標地点はグラウンド越えた道路」
「余計危ないよぉ〜」
「……人は危険を顧みてばかりだけでは成長できないと思うんだ名雪。それこそ、人生と言う危険な舞台の上を生きているのだから」
「そんな済ました顔で言ってもダメな気がするよぉ」
「ふぅむ、ではどんな危険競技があったかな……」
「危険ってなに言ってんだよ、そこの二人組みっ」
「ん、ああ北川」
「北川くん……、あ、おはよう」
「おう、水瀬おはよう」
 背後から急に話題に割り込んだ人物は北川だった。どうやら途中の交差道路からこっそり着けていたみたいだ。「っつうか無防備すぎお前ら、って言うかシカトされ過ぎ俺!」と少しばかり拗ねている。
「と言うか名雪には挨拶して俺にはなしかああんっ?」
「そもそも相沢は挨拶をしてないからなっ」
「ふんっ、挨拶は自ら先に大きく元気にハキハキと盛大にって母ないし父もしくは愛犬に習わなかったのか?」
「そこまで注文つけられなかったぞ、っつーかいま人語喋れないの混ざっていなかったか!?」
「いや、北川だし。」
「その一言で全てを容認して良いのか!?」
「いや、北川だし。」
 会った早々、二人のハイスピードな会話の応酬が始まる。名雪はその光景にテレビなどでの喋くり漫才を思い出し、「どうしてアドリブであそこまでやれるんだろう……」とボソリと口に出した。
 すると、今まで会話に夢中になっていたはずの二人が、グリンッとこちらを向き、
「それはな、水瀬!」
「それはな、名雪!」
 ステレオでほぼ同じように言われ、 
「俺たちの心が一心同体と――」
「阿吽の呼吸で全く繋がってないからだっ!」
「って繋がってないのかよっ!」
 …………。
(本当、なんであそこまで綺麗に合わせられるかなあ……)
 流れもボケもつっこみでさえも予定されたかのようなその言葉の数々。それが今ここで、しかも出会って半年ぐらいの付き合いの人間がやっていることに、彼女はただただ「わぁ〜」と溜息を漏らすばかりであった。




 泳ぐようにスイスイと、

 通るようにグイグイと、

 腕を振り、足を上げ抜き踏みしめる、

 暮れの息、下肢を涸れよが踏みしめる。

 それの繰り返し、

 それの振り返し。

 もう、まわりの景色が真っ白にぼやけても、

 もう、わたしの意識が真っ黒にふやけても、
 
 繰り返し、繰り返し、

 振り返し。振り返し。




 ホームルームのチャイムが鳴り、一限目の授業の始まりが告げられる。各々自分の席に着いてノートや教科書、筆記具などを取り出した。
「……あれ?」
 ところが、名雪はそこではた、と動きを止めた。通学カバンの中をもう一度、丁寧に一冊ずつ調べていく。そのまま滞りなくかばんの端まで行き着いて「う〜ん」と悩み、しかし、それでも念のため――ここに至ればもう祈りに近い――もう一度だけ、中身を見る。
 そこで、彼女は居住まいを正し、
「教科書とノート、忘れたよ〜」
 昨日の勉強の際に使っていた共々をカバンに入れ忘れていたらしい。今日使う半分がなかった。
「どうりで軽かったんだ……」
 意識していなかったからその疑問に辿り着けなかったが、もう遅い。幸い、体操服などは別のカバンに入れてあるので見学にはならないが、しかし如何せんただ授業を見ているだけというのは忍びなさ過ぎた。
 ノートはルーズリーフで代用すれば事足りるが、しかし教科書は……。一限目はもう始まりを告げていて他のクラスに行くことは出来ない。
 彼女は迷った挙句、
「北川くん」
「ん、どうした水瀬?」
 隣の席である北川潤はこちらに振り向いた。名雪は手を合わせて、
「教科書忘れちゃったみたいで、申し訳ないけど教科書見せてくれない?」
「はっは、お安い御用でさあ。さあ、見てくんなせえ」
「あ、ありがとう」
「良いってことよ、困ってやがる人がいたらお互い様でえ」
(なんで江戸っ子口調?)
 冷静なつっこみが頭に浮かんだ。
 しかしそんな事を言って機嫌を損ねる(彼は多分気にしないだろうが)かもしれないし朗らかに笑って済ませる。
 見やすい位置に移動するため彼女は少しばかり隣の席に近づけると、北川は「あっしが寄るからそこにいてくだせえ」とガタガタと音を立てて席を合わせた。周りの人間がこちらに注目し、彼女は恥ずかしさに頭を俯け、彼は何故か笑ってブイサインをした。
(また香里にからかわれるんだろうなあ)
 と、かなり苦々しく、でもちょっとだけ楽しそうに、再度笑みを浮かべた。

 ところが、彼女の思慮は浅かったと言えた。

 確かに、美坂香里はこの状況を見ていた。そして休み時間か、もしくは時間が長く名雪も逃げられないお昼休みにでも言おうと画策していた。
 しかし、それだけではなかった。
 美坂香里だけにからかわれると思っていたのはそもそも間違いだったのだ。
「おい、北川」
「ん、なんでござろうか先生」
 一限目の授業、担当科目の教員は彼を名指しした。彼はまだ江戸っ子口調だった。
「お前、なんでそんなに水瀬に近寄ってるんだ?」
 教員にとってはごく当たり前な質問だったのだろう。確かになんの報告もなく、あからさまな近寄りを見せていたら意味がなかったら注意をして戻す必要があった。
 そして、名雪はなぜこんなことになったかと言うことを言おうと少し腰を浮き上がらせた。自分が教科書を忘れたからだと。しかし、不可思議なことに北川は教員には見えない位置で制し、
「それは……」
 一拍、間を置き、
「あっしが教科書を忘れやしたからでございやすっ!」
(え、ええっ!?)
 一番驚いたのは名雪だった。自分が忘れたはずだ、それなのになぜ北川がそれを庇うのか全く分からなかった。呆気に取られて見ていると、教員は口を開き、
「ならなんで報告しない。いやそれよりも、なんでお前は水瀬の方に近づく?」
 あ、と思い当たった。北川の隣は男子生徒である。
 ならば、普通は異性の人間よりもそちらに見せてもらうだろう。
「お前、なんでわざわざ女子の方に行く? そっちの方が良かったのか?」
 クラスに失笑が漏れる。言葉通りではなく、色々な含みを持たせたその発言に。
 だが、北川は至って平然と、
「先生、一つ訊いてよござんすか?」
「ん、なんだ?」
 北川は席が動いたため間隔が開いた男子生徒を一瞥し、溜息。
「なにが悲しゅうてむさ苦しい男の隣にしなだれかからんといけねえんですかい?」
「なっ!?」
「それぐらいであればハクい女子の隣の方が良いでござろう? ……もしかして先生、もしかしてそちらのケがおありで?」
「ば、バカモノ! そんなわけあるか!」
「なら良いでしょう? あっしは男でござんすから」
「……くっ。座れ!」
「分かり申したで候」
 彼は薄笑いながら席へと着いた。クラスの笑いは、彼の賛辞と、教員への酷評に二分され、憐れ教員は憫笑を買う結末に至った。赤い顔をしながら授業に専念しようとする様は悲哀に満ちていたと言う。
 一方見事勝ち得た者はというと、
「……ぃぇー」
 と、彼女にブイサインをしていた。



「あぶなかったなー……」
 隣のクラスの同クラブ部員に借り、名雪は一息を入れる。
 名雪は忘れていた。前回、北川と教科書を一緒に見たのは自習中だったことを。そしてだからこそ今回北川に頼んだのだが、普通は異性の人間には頼まないと言うことを。
 北川の反対側の隣は男子生徒であり、名雪の隣もまた女子生徒だった。なら、北川が忘れたのなら常套にいくならば男子に見せてもらおうとするだろう。
 名雪にしても然り。考えれば隣の女子に借りるのが普通だ。やらないとするなら、それは、
『お前、なんでわざわざ女子の方に行く? そっちの方が良かったのか?』
 そう、そう勘繰りされてもおかしくないはずだ。
(だから、自分が忘れたって……)
 名雪では、しどろもどろになってしっかりと答えられずクラスの失笑を買い占めただろう。だからこそ、席も北川自身が動かしたのだ。
(たったあの時間で)
 自分から頼まれて快諾し、ニ、三言会話を交わす中でそこまで考えついていたのだろうか?
 いま彼は壇上で「いやぁやっぱ女の子の方が良いですよねぇっ!」と言っている。先ほどまでの機転と切り返しの鋭さの面影は全くない。
 でも、そんな事をするからこそ彼がやってくれたのではないか、と思えるような気がした。ああやってワザと馬鹿をすることによって。
「てめえそんな下種な考えしてたのかよああんっ!?」
「なんだとうっ、何処が下種だああんっ!?」
「顔と胴体と手と足と首。あと人格」
「ほぼ全部やんっ!」
「全部だっ!」
 ……しかし、
 あそこまで馬鹿をやってくれると、自分の考えそのものが疑わしくなったのも否めなかった。



 昼休みになって香里と北川、祐一の四人で談笑し合いながら食堂で昼食を取り、その後教室に戻って思い思いに休み時を過ごす。名雪は多分に香里と笑いながら話し、北川はやはり中央でコント紛いなことを、祐一はその突っ込み兼流しを。男子一体となって騒ぎ出すこともあれば二人だけのライブとなることもある。
 とにかく、三年生の初夏とは信じられない、蕩けるほどの和衷の空気。
 これはきっと、今この時だけだろうと名雪は確信する。ここまで明朗で、何処までも清涼な雰囲気は。いるだけで楽しいと感じられるのは、今だけだろうと。
 勉強で分からないことも、香里が懇切丁寧に教えてくれた。朝の登校や夜の一人は、祐一が埋めてくれた。失敗した時や下校の寂しい時間は、北川が補完してくれた。
 他にもたくさん、たくさん支えられた。受験は争いと言うのに、その渦中でもクラスメイトは助けてくれたことを彼女は覚えている。その一つ一つが今の自分を形作っていることを彼女は知っている。学校に来るだけで楽しいと思えるのは誰のおかげか、彼女は声高らかに言える。
 でも、だからこそ今だけだとも、彼女は確信していた。夏休みに入る前にあるテストでスイッチが入って夏休みにはラストスパートが入るだろう。こんな昼休みがあったなと物憂げながらに思いながら単語帳を手にする日々が彼らにやってくるだろう。自分は特別入試が三年になる前から決まっていて、入試科目は面接しかないが、それでも状況は変化するだろう。
 だから、今をしっかと刻み込みたかった。この今を大切にしたいと思った。
 香里とたわいないことを話した。それは民間ホールで今なにが公演されているかとか、話題の映画はどうなんだろうとか、ニュースで色々言われていて怖いね、だとか。十秒も経てば忘れてしまうような、言われないと思い出せないような、そんな雑談をイヤになるくらいトクトクと語り合った。
 祐一と将来のことなどを話した。特にこれと言って上に上がりたいとか思わない、正直学歴社会にウンザリしている、骨董アパートとかで食べるには困らない月給くれるならそれでいい、それぐらいで十分だと、妙に達観めいたことを聞く。それぐらいだから名より実の、技術を学ぶ工業系大学に行くとか。「まあ、もしくは世界大使とかでも面白そうだけどな、総理大臣をパシるぐらいの」と冗談めいたことも聞き、彼女はありえそうだな、と小さく呟いた。どちらにしても彼らしいと思って、全く口に出さずに満足している自分がいた。
 北川とはただ何もない話だけをした。祐一との話などとは比べ物にならないぐらい、香里との話よりもまだ軽いほどのそれこそ風船の如く空へと飛んでいきそうな実りのない話を。思い思いに下校中に話をした。彼は快活に笑い、名雪は小さく微笑んだ。夕陽でただそうやって居、なんの拘りもなく言葉だけを連ならせた。彼が去る時はいつも飄々としている。「お、着いたな。それじゃあな。記録、明日も良いの残せよー」と、とてもあっけらかんと歩み去った。
 そんな日常がごく淡々と続いた。
 そんな日月がごく閑々と続いた。


 でも、そんな日々はやっぱり続かなくて、
 けど、こんな嬉々はずっとは及ばなくて。


「……お前のことが、好きだ」


 名雪は、ただ「ああ、」と思った。



 紅くなった陽はただ世界を赤へと染めたて上げる。床のタイルは勿論、後ろにある掲示板も、貼られた紙も彩光を一身に受け影を細く伸ばしている。机はその金光を反射させ、黒板はその深緑を僅かに色薄にボヤけさせていた。窓は開け放たれ、穏やかな風にカーテンは揺れている。鳥が一声鳴き、陽光へと羽ばたいていった。
 そこに、彼と彼女はいた。二人の顔はカーテンに偏光されて見えない。
 彼――は言った。
「お前のことがずっと気にかかってた。半年前に会った時から。でも、言えなかった。このままの友達関係で居た方が、変にぎこちなくなったりしなくてすむと思ったから。でも、それだと辛いんだ。……だからごめん、言っちまう。……お前のことが、好きだ」
(……ああ)
 名雪は、ぼんやりと揺らぐ世界を必死に繋ぎとめながら、あの時のことを思い出した。
『俺の友達の友達――っつうか都会の人間なんだが――ソイツがちょっと恋に悩んでるんだよ』
(やっぱり、祐一は嘘吐いてた)
 友達の友達なんかではなかった。気づいていた、その嘘を。見破っていたつもりだった。覚悟していた、つもりだった。
 でも、言葉にされるだけで、心の中で瓦解が起きるのが手に取るように分かった。
 それは信頼だったり、そういうもの。
 分かっていてもそれを突きつけられる時は、絶対に痛みを有するのだ。
 彼女は沈黙を続けた。彼は、言葉を続ける。
「……分かってる。こんなこと言うの、身勝手だって。わがままだって知ってる。でも! そのことはもう自分の中で済ませてきた。そんな事で悩むよりかは良いって思ったんだ」
 その言葉は、名雪を揺さぶり続ける。
 八年も積み上げてきた砂上の楼閣がざらざらと崩れだす。
「……ずっとお前を見てきた。だから、俺だから言える。お前は凄いやつだって。多分、誰の手も借りずになんでもこなせるだろうって。……でも、お前の傍に、俺はいたい」
 サクサクと、
 ザクザクと、
 ジグザグと、
 解体される思い。ただ、思ってきた――はずなのに。それだけの、はずだったのに。この思いは絶対に、どんなことがあっても揺るがないと思っていたのに。
「……お前が好きだ。……付き合って、くれ」
 彼が手を差し出し、腰から上の身体を下げる。礼をして手を出した状態になった。
 そして、そしてそしてそして――


 彼女は差し出された手を――――――――――取った。


(……祐一)
 その言葉を、ただ、一言、誰にも聞かれない小ささで、うめいた。
 彼は面を上げた。信じられない、と言いたげに、見つめる。
「俺で、良いのか?」
「……うん」
 他人でも分かるほどの、夕陽ではない赤色が頬に浮かんでいた。
「……お願い、します」
「……っ! お、お願いします!!」
 彼はその手を引いた。彼女は「あっ……」と言いながらその胸元へと入り込んだ。
「……大好きだ!」
「……ええ、好きよ」
 二人は、その言葉を紡げば世界が幸せになるかのように、ただひたすらに呟いた。
 そして、相手の顔を見て、名前を、口にした。


「――――大好きよ。……その、……祐一っ」

「――――ああ、俺もだ。大好きだ、香里っ!」


 その時、名雪の中で、

 なにかが、弾けた。

 今いた廊下を、ただ――――――駆けた。





 ふと思った。なんで私は走っているのだろうと。

 後ろを振り向いた。出発点は見えない。

 前を向きなおした。到着点は存在しない。

 最初は、走っているだけで良かった、気持ち良かった。

 途中で、誰かが待ってくれていると信じたから、耐えられた。

 でも今は――今は、なんだろう?

 何で走っているんだろう、何を追いかけていたんだろう。

 なんでいま、私は走れているんだろう?

 ふと思った。それはきっと、なにかの為にじゃないから。

 ふと解った。それはきっと、なにかから逃げているから。

 今いる現実を見たくないから、タイムは段々早くなるんだ。




 気がつくと、公園にいた。
 痛みに足を見遣るとどうやら履き替えないで走ってきたらしい、上靴のままだった。
 カバンもそのまま置いてきてしまったことが思い当たった。どうしようとか思った。
 それで、
 何で私はこうしているんだろう? そう思った。
『大好きだ、香里っ』
「……ァアッ!」
 ガシャリと音を立てて、ブランコからこける。息がつまり、その代替として思い出す。
 ああ、つまり、
「……こうなっちゃった」
 最初から、こうなる結末だったのだ。
 祐一は、香里が好きで、
 香里は、祐一が好きで。
 解っていた。解っていたはずだった。八年間の想いと言う看板も、結局は意味がないと。恋は与り知らぬうちにやってきて、時に残酷さを垣間見るって。
「終わっちゃったかー」
 空を仰ぐ。先ほどまでの夕陽は既に落ちきっている。星がちらほらと見え、空気は冷たさを持ち出す。
「はぁ」
 虫が声高く歌い始めた。きっと今頃、彼らも語らいでもしているのだろう。どれぐらい好きだとか、将来とか。
「……はぁ」
「なにやってんだ、水瀬っ」
「え?」
 砂ボコリを挙げて彼は自分の前へとやってきた。息は荒い。どうしてだろうと思い、名雪は彼の名を呼ぶ。
「北川くん」
「よぉ……スマン、ちょいタンマ……」
 ぜーはーと声を上げて彼は地面へと座り込んだ。
「あー疲れた。と言うかさすがだなー。追いつくことも出来なかった」
「あ、うん。……えーと、なんで……」
「終わっちゃったなー。たくっ、相沢も美坂もやってくれるねー」
「え……?」
「あーくそ、本当思うわー。あいつら自分勝手すぎるっつーの。自分のこと構いやしねえとか他人に気遣う人間もどうかと思うけど、もうちょっと気を配れとも思うよなー」
 あーくそ、マジできつい。そう言いながら、彼は横たわる。手で顔を覆って「世の中理不尽だー!」とグチを叫ぶ。
 その時名雪は、小さく微笑んだ。
 彼は、"結局はそういう人≠ネのだと。やっと、気づかされた。
 クラスでのあの気遣いもまた一端に過ぎなかったのだ。彼は――本当の彼は、
「……北川くん」
「んぁ? なんだ?」
 彼女は、精一杯の笑顔を作り、
「北川くんも香里のこと、好きだったんだね」
「………………ああ、そうだよ」
 彼は、ただ淡白に言った。
 その告白の沈黙に、どれだけのものが隠されているのかは彼女には分からない。しかし、その言葉は真実なのだと、絶対の確信があった。
「ホレてた。もう、むっちゃくちゃ大好きだった。それなのによー美坂全く気づかねえの。あーくそ、マジで涙が出る。チックショー美坂好きだったぞー!」
 彼は叫んだ。皮肉気に笑いながら。涙声ながら。
 叫んだ。
「……あーもう祐一の鈍感ーっ! 私ずっと好きだったのに、あんなことされても好きだったのにー! もうバカー!」
 彼女も倣い、叫んだ。真摯に笑いながら、泣き顔で。
 叫んだ。
 二人の慟哭が、公園に響き渡った。



「……結局俺たちってセカンドでしかなかったんだよな」
「セカンド?」
 ああ、と北川は頷く。
「二番目。決して一番になれないんだ。ナンバーワンじゃどころかオンリーツー。はは、笑うしかねえや」
 北川は、独白を続ける。
「たぶんな、俺は明日になったら笑顔で登校するんだ。眼が腫れてたらホラー映画で泣いたって言って。それで、いつもの通りに過ごすんだ。それで相沢と美坂が笑顔だったら、それで満足するんだ」
 世の中世知辛ぇー、と投げやりに言う。
「……私も、そうかな」
 名雪はそう言い、二人のあの光景を思い出す。
 二人は何処までもただお似合いのカップルだった。何一つ綻びのない、全くの。
 一番好きな男の子と、一番中の良い親友。
「あの二人が付き合うんだもん、祝福するしか、ないよ」
「はぁ〜そうだな〜。……なあ、水瀬」
「ん、なに北川くん?」
「あー、俺から言うのも難なんだが、……美坂のこと、頼むわ」
「……うん。そっちこそ、祐一がなにかしたらフォローお願い」
「あたぼうよ。……しっかしあれだね、カップルに二人が全面協力というのも、なんだかね……」
「そうだね……」
「ま、良いや。……さて、と。家帰って飯でも作って風呂入って寝よう! ……あー学生服砂だらけだ。洗わんとなー」
 彼はそう言って、名雪に振り返り、
「……じゃあな、水瀬。また明日。もしラブったりイチャついていたらタッグでなじろう」
「あはは、うんっ」
 そう言って、北川は手を差し出した。
 名雪は、それに応じた。


 二人は、静かに握手を交わした。




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