少し眠っていたのだろうか。
 美坂香里はゆっくりとその顔を上げ、まだボーとした頭で辺りを見回した。見慣れた風景がそこには広がっていた。
 2年5組の教室の中。自分たちの教室だ。その窓際の、自分の席に香里はひとり座っていた。教室の窓から見える太陽はまだ上の位置にあり、あたたかな明るい光が遠慮なく教室へと注ぎ込まれている。なぜか一番端の窓だけが開いていて、緩やかな風を受けて白いカーテンがユラユラと揺れていた。
 どうしてこんなところにいるのだろう。思い出せない。
 黒板の右上にある時計へと目をやった。時間は12時を少し回ったところ。正午過ぎ。その割には静かすぎる。教室は香里以外無人で、いつもは嫌というほど聞こえてくる廊下からの喧騒も全く聞こえてこなかった。おかしい。この時間ならば学校は昼休みの時間帯のはずなのに。こんなに静かなはずがない。
 香里は教室の扉をくぐり、廊下へと出た。
 やはり人の姿はない。
 無人の廊下にはスリッパで床を叩く音がよく響いた。
 そこで初めて香里は自分が制服姿であることに気がついた。ここは学校なのだから当然と言えば当然だ。だけど妙な違和感が残った。それが何なのかは分からない。
 二年生の教室が置かれている3階をぐるりと一周し、再び自分の教室へと戻ってくる。やはり人の姿はどこにもなかった。みんなどこへ行ってしまったのだろう。校庭で避難訓練でもしているのだろうか。昼休みのこの時間に? そしてあたしだけ寝過ごした? いや、まさか。
「お姉ちゃんっ」
 不意にうしろから声が聞こえた。
 振り返ると廊下の端に制服姿の栞がひとりで立っていた。
「もう、どこ行ってたの?」
 少しだけ頬を膨らませて、栞は小走りで香里のほうへと近寄ってきた。
 香里は一瞬ドキッとした。廊下につく足に思わず力が入った。なぜかは分からないが、栞の姿に一抹の不安を覚えた。怯えた。そんな表現が適当なのかもしれない。
「どこって……」突然の栞の出現に戸惑いながらも香里は言葉を発した。とりあえず最初に浮かんだ疑問を口にする。「あんたこそなんでこんなところにいるの?」
「もうっ」
 栞はますます頬を膨らませた。
「わたしがどうしても学校に行きたいって言ったら、お姉ちゃんがそれじゃあ行こうかって連れてきてくれたんでしょ」
 あたしが? 素早く記憶を巻き戻してみる。ああ、そうか。そういえばそうだったような気がする。なんでこんなことを思い出せなかったのだろう。
「じゃあ、今日は? 学校は?」
「今日は日曜日でしょ」
 なるほど。だから学校に人がいないわけだ。しかし次の疑問が浮かんでくる。
「じゃあなんであたしたちふたりとも制服着てるんだっけ?」
「お姉ちゃんがそう言ったんでしょ。学校に行くんだったら制服を着なきゃダメだって。それに、わたしもこの服着たかったから……」
 そう言って少しだけ顔を赤めて下を向いた。その仕草がなんともかわいい。香里はうっすらと目を細めた。一体さっきはこの子の何に不安なんてものを覚えたのだろう。目に入れたって痛くない、自慢の妹なのに。
 そんな香里の反応に気がついたのか、栞はまた頬を膨らませた。
「お姉ちゃんボンヤリしすぎだよっ」
「ごめんごめん」香里は再び微笑んで答えた。「あたしボーっとしすぎね。謝るわ。せっかく栞とふたりで学校に来られたのに。ごめんね、栞」
「あ、そんなにちゃんと謝らなくても……。分かってくれるならそれでいいのに」
 照れ隠しのように栞が頭を下に傾けた。香里がその髪をゆっくりと撫でてやる。細く、やわらかい髪だ。栞はくすぐったそうに笑った。
「さてと、せっかく学校まで来たんだから色々と回りましょうか」香里が明るい感じで言った。「栞はどこに行きたいかしら?」
「えっと」栞は人差し指を口に当て、ちょっと待ってねと考え込んだ。「じゃあ、美術室」
「予想通りの答えね」
 香里は思わず苦笑した。
「それってもしかしてわたしが単純っていう意味ですかっ」
 なぜか丁寧語になって食いつく栞。
「言葉通りの意味よ」
 香里はそれをさらりとかわした。
「それにね、ミユキセンセも栞は単純過ぎて困る、みたいなこと言ってたわよ」
「ミユキ先生がっ!? それってどういうことですかっ」
 顔を真っ赤にしてされに食いつく栞。それが無性におかしくて香里はまたくすくすと笑った。
「だから、言葉通りの意味よ」

 ―――ミユキ先生。
 栞の主治医で、香里と栞の家族とはかれこれ数年の付き合いになる医師だ。香里や栞とは歳はやや離れていたが、親身になってふたりの相手をしてくれた気さくな人物だった。子どもが好きで、医者の道を進むか教師への道を進むかをギリギリまで迷っていたらしい、なんて話を看護婦さんから聞いたことがある。少し口が悪いのがたまにキズだが、栞はミユキ先生のことを頼りになるお兄ちゃんと信頼しているし、香里にとってもちょっと憧れの先生だった。相談に乗ってくれたのも一度や二度ではない。
 あの日もそう―――。
 あの日、相沢君のお節介のおかげで栞と本当に久ぶりに会話を交わすことができた日。
 その夜。面会時間ギリギリに香里は栞が入院していた病院へと足を運んだ。
 ここ最近体調のいい栞は年の初めから自宅へと戻っていたが、なんとなくこの場所へと来てしまった。
 以前の栞の病室の前に立ち、その部屋の名札を見る。当然のことながら、そこには美坂栞とは別の名前が刻まれていた。
「それはそうよね……」
 香里はそう呟いた。栞が一時退院してからもう一ヶ月近くが経っているのだから。一体あたしはここに何をしに来たのだろう。
 帰ろう―――、そう思い来た道を引き返そうとしたとき、「香里?」と男の声で背後から名前を呼ばれた。
「何やってるんだ。ひとの病室の前で」
 ミユキ先生だった。香里を咎めるような口調だったが、その目はおもしろそうなオモチャを見つけた子どもの目だった。左手にはカルテらしきものを持っている。
「あ、すみません」
 慌ててそう頭を下げ、病室の扉から一歩右へとずれた。
「栞だったらいないぞ。一時帰宅してるの、お前も知ってるだろ」
「いえ、栞に会いに来たわけではなくて……」
 じゃあ、何で来たのだろう。そう自問する心の声を隠して、香里は曖昧に口を動かした。
「ただ、なんとなく……。気がついたらここに来ていました」
 思っていた以上に小さな声になってしまった。
「ふーん。まあ、どうでもいいけど」と、ミユキ先生は本当にどうでもよさそうにそっけなく頷いた。そのまま香里の横を通り、病室の扉に手をかけた。鍵を開け、扉を半分ほど開けたところで一度香里のほうへ振り返った。
「入るか? 中にイスもあるぞ」
「いえ、いいです。中のひとにも迷惑だろうし……」
「いいって。中のヤツも喜ぶ。何年振りかの客人だからな」
 何年……?
 気になる単語に眉をひそめた香里だったが、ミユキ先生に促されえて結局病室の中へと入った。
「悪いな。後でコーヒーでも奢るよ」
 別にコーヒーなんてほしくない。
 一人部屋の病室の中は栞がいたときよりもひどく殺風景に見えた。扉のすぐ横には木製のテーブルとイスがふたつ。壁に掛かった本棚には何も置かれていない。以前に来たときには栞の少女マンガで棚は埋まっていたはずだ。そこでようやく香里に笑みのようなものがこぼれた。何歳になっても子どもっぽいんだから。
 病室の奥のベッドには女の子が眠っていた。歳は栞と同じぐらいだろうか。栞と同じぐらい肌が白い、かわいらしく、優しい顔の女の子。その腕からは何本もの管が伸びていたが、病院ではそれほど珍しいことでもなかった。特に重病の患者の多い個室では。……この子もそんなに体が悪いのだろうか。
 ミユキ先生は女の子の横に立ち、ベッドの横に設置された計器類(栞がいたときは置いていなかった)に表示された数値や脈拍などを測ってカルテへと書き込んでいく。
「栞とは仲直りしたのか?」
「えっ」
 ミユキ先生は右手のペンを動かしながら、ごく自然にその言葉を口にした。まるで明日の天気の話でもするかのように。
「まあ、仲が直ったんだからお前はここにいるんだろうけどな」
「……知ってたんですか?」
「ああ、知ってた」
 そう言ってミユキ先生はカルテを閉じた。病室の奥と手前を仕切るカーテンを閉め、入り口の横の椅子へと腰を下ろした。香里もそれにならう。
「お前たちとはもう長い付き合いだし、栞は特に単純なところがあるからな。表情見れば何かあったってすぐ分かるさ」
「……」
 ミユキ先生はそうカラカラと笑う。しかし香里はとてもじゃないけどそれに釣られて笑う気分にはなれなかった。
 それに気づいているのか、気づいていないのか。ミユキ先生は同じような調子の声で続けた。
「でもいいじゃん。もう仲直りしたんなら。ケンカするほど仲がいいとかっていうしな」
「ケンカじゃないんです」
 ミユキ先生の言葉を遮るように、勝手に口が動いた。他人の病室で話すようなことじゃない。そう頭の中では分かっていても、一度動きだした口は止まらなかった。
「ケンカなんて生易しいものじゃない。あたし、栞の存在を消したんです。妹なんて初めからいなければよかったって。一番大切なときに栞を独りにさせたんです。たとえ仲直りしたとしても、栞があたしのことを許してくれたとしても、それだけは変わらないんです」
 自分で言ってみて改めてゾッとした。あたしはなんてことをしてしまったのだろう。確かに今日、栞は「バイバイ、お姉ちゃん」と手を振ってくれた。だけどそれで全てが解決したわけじゃない。栞が苦しんでいるときに支えもせず、あろうことか姉であることすら放棄してしまった。そうだ。妹を本当に苦しめたのは他ならぬ自分なのだ。いくら手を振ってくれたとしても、いくら栞が「お姉ちゃん」と自分のことを変わらずに呼んでくれたとしても、それは永遠と変わらない事実なのだ。
「いいだろ、それでも」
「えっ」
 下を向いていた香里の頭が、何かに弾かれたように上げられる。ミユキ先生と目があった。そこにはいつもと同じ、力強い光が映し出されていた。栞が好きだと言っていた瞳だ。
「美坂はそれを今はどう思ってるんだ?」
「それは……、バカなことをしたって」
「だったらそれでいいじゃんか。バカだったって気づけたんなら。過去が変わらないのはしょうがないさ。んなもん、誰だってそうだからな。いくら悩んでも、後悔しても、変わらないものは変わらないんだ。問題はそこからお前自身がどう変わって、どう進むかだろ」
 最後はまるで自分に言い聞かせるような響きを含んでいた。
 ……ああ、そっか。
 この人も、そうなんだろう。香里の倍近い年月を生きたこの人は、それこそ香里には想像できないぐらいの挫折を味わってきたのかもしれない。医者とはもしかするとそういう職業のような気もする。それでもこうやって前へと進んでいるんだ。
 じゃあ、あたしはどうだろう。
 この人のように、前に進めるのだろうか。
 もう一度、やり直せるだろうか。
「えーと、じゃあ、コーヒー買ってくるな」
 ミユキ先生は唐突にそんなことを言い、乱暴に席を立った。
「あ、いいですよ。本当に」
「まあ、いいから」
 そう言って少し慌てるように病室から出て行ってしまった。
 その顔がほんのり赤みを帯びているのに気づいて、香里はひとり小さく笑った。
 本当にいい人なんだなあ。

「どう進むか、かあ」
 学校の廊下を自分の斜め横で歩く栞の姿を眺めながら、香里は独り言のように呟いた。
「え?」
 振り向いた栞は不思議そうに香里の顔を覗き込む。
「ううん、何でもない」
 そう香里は小さく首を横に振る。
 あれから二ヶ月弱。常に前を向いて進んできたつもりだ。
 そして今日という日を迎えることができた。苦しくても一度も振り返らなかったから、迎えることができたのだと思いたい。バカだって気がつけたから、色んなひとたちが力を貸してくれたから。
 隣に栞がいる、夢のような、当たり前の一日を迎えることでできたんだ。



 美術室は本館の一階にある。香里は去年と一昨年の文化祭のときに二度だけ足を運んだことがあった。この学校には美術の授業がないので、美術部員でもなければ、文化祭以外は通常ここに来る機会はないだろう。
「開いてないかもしれないわよ」
 美術室へと向かう途中、栞にガッカリさせないためにも香里は忠告しておいた。
 部活が行われていなければ、十中八九、扉の鍵は閉められているだろう。今の時間が正午過ぎなのだから、その可能性は十分にある。今日のような休日の場合、大抵の部活は午前中の内に終わってしまう。
「それでも行きたいんだもん」
 栞は楽しそうに答えた。
 まあ、いざとなれば職員室で事情を話して鍵を借りることもできるのだけど。

 香里と栞は美術室の前に到着し、その扉をノックした。返事はない。やはり活動していないのだろうか。無駄だと分かっていながらも、香里は扉に手をかけた。
 少し力を入れただけで、扉は呆気ないほど簡単に開いた。まるでふたりの訪問を歓迎するかのように。
 勝手に入ってもいいのだろうか。香里がそう迷っているそばから、栞が「失礼しまーす」と嬉しそうに美術室の中へと入っていった。やらやれ。しょうがなく香里も「失礼します」とその後に続いた。
 美術室の中に人の気配はなかった。ただ描きかけの水彩画や油絵、彫りかけの彫刻やらがいくつも乱立していた。
 教室の鍵が開いていたのはただ単にかけ忘れただけだろうか。だとしたらなんとも不用心なことだ。
 栞は描きかけの絵の一枚一枚を楽しそうに見て回っていた。他にやることがないので香里も栞に続いて並べられた絵を眺めた。
 さすが、と言うべきなのだろうか。素人目から見てだが、どれもこれもとても上手かった。これらを描いているのは同じ高校生であるはずなのに、素直にすごいなあと思う。中には何が描かれているのかも分からない抽象画みたいな絵もあったが、それでも何かしらの思いは感じられる気がした。
 大変余計なお世話ではあるが、同時に少し不安にもなった。
「栞、あんたこんなところに4月から入部して大丈夫なの?」
 レベルが違う、とかそういう問題ではない気がする。栞の描く絵とここにある絵とでは、なんというか方向性みたいなのが違うのではないだろうか。こう言っては栞が可哀想だが、そのふたつの絵を同じ美術と呼んでしまっては、ここにある絵に失礼なんじゃないかなとすら思う。なんていうのはちょっと言いすぎだろうか。
「大丈夫だよ」栞が声を大にして言った。その目は真剣そのものだ。「いっぱい練習して絶対上手くなるもん」
 そうかなあ。
 心の中でそう思った香里だったが、もちろん口には出さずに笑顔で返した。
 この子がやると言うのであればそれを止める権利も理由も自分にはない。やめろと言ってやめる子ではないのも重々承知していた。むしろ専門的な技術を学べば、栞の言う通りすぐに上達するかもしれない、ということはさすがにないかな……。
 一通り美術室の中を見回った後、香里と栞は教室を出た。
「うまいこと鍵が開いていてよかったわね。普通じゃ絶対入れないわよ」
「えへへ。日頃の行いがいいからだね」
「何度も病院や家を抜け出すことが?」
「そんなこと言う人、嫌いだもん」
 栞は頬を膨らませてそっぽを向いてしまった。
 ふふふと香里は笑った。だけどもう病院も家も抜け出す必要もない。栞はこんなに元気になったのだから。
 よかった。本当によかった。一時期はこんなふうに栞とふたりで笑いあうことすらできないのではないかとも思っていたのに。
 思わず涙が溢れそうになった。慌てて瞳の水滴を右手で拭き取った。隣に栞がいなければ、こんな温かい涙を流すこともなかっただろう。
 体いっぱいに幸せを感じながら、香里は「ほら」と栞に呼びかけた。「いつまでも膨れてるんじゃないの。次はどこに行きたいの?」
 栞はまだ拗ねているようだったが、やがて「じゃあ」と口を開いた。
「じゃあ、中庭」
「よし、決定ね。参りましょうか、お姫様」
 香里が手を差し出すと、栞は照れくさそうに笑ってその手を掴んだ。



 校舎から中庭へと出る扉は美術室のすぐ近くにある。重苦しいその扉を開けると、春の木漏れ日のあたたかさがふたりを迎えてくれた。
 三月の末の中庭は真冬のそことは違い、寒々しい雪はもう跡形もない。正面の桜の木にはふっくらと膨らんだ桃色のつぼみがいくつも見られた。この分だと、始業式には満開の桜が見られるかもしれない。
「……冬とは雰囲気が全然違うね」
 栞は春の息吹きにあふれる中庭を見ながらポツリと言った。そして「んーー」と唸りながら両手を広げて大きく伸びをする。ふわっと優しい風が栞の短い髪を持ち上げる。
「気持ちいい」
「やっぱり相沢君も呼んだほうがよかったんじゃない」
 香里は遠慮がちにそう聞いた。
 栞は振り返り、首を横に振った。
「ううん。今日はお姉ちゃんとふたりで来たかったんだもん」
 どうして?
 そう聞けなかったのはなぜだろう。チクリと胸の奥に小骨が刺さったような感覚に陥った。聞けば何かが壊れてしまう、そんな気がした。
 そんな香里の根拠のない不安を振り払うかのように栞は微笑みかけてきた。
「まだ二ヶ月も経ってないんだね。もうずっと昔のことのような気がする」
「……そうね。まだ二ヶ月かあ」
 栞の16歳の誕生日から約二ヶ月。そして相沢君がこの学校に転校してきてから約三ヶ月。
 香里のクラスメイトで、栞のボーイフレンド、相沢祐一。
 彼は栞が元気になったことをまだ知らない。
 本当はすぐにでも教えてあげたかったが、学校に登校できるようになってから再会するのだと栞が聞かなかった。
 奇跡が起きたらお昼ご飯を祐一さんにおごるって約束したんだもん。だから再会は学校に復帰した日にするの。
 そのときの栞の言葉と姿が頭の中に浮かぶ。そのときの栞は寝間着姿で、まだ病院のベッドの上だった。あれは手術の前か後か、どっちだっただろう。
 香里の中で何か引っかかるものがあったが、そんなものはどっちでもいいことだと、すぐに頭の中から振り払った。代わりに栞の誕生日に祐一と交わした会話を思い出した。あのときの場所もここ、学校の中庭だったはずだ。

 二月の頭。雪に閉ざされた冬の中庭には、香里と祐一を除いて人の姿はなかった。
「ありがとう」
 無人の中庭で、何かを見つめる祐一に香里はそう声をかけた。
「今までお礼を言う機会がなかなかできなかったから。百花屋のことや、夜の学校のことや、栞のことや、他にも色々。相沢君にはいくらお礼をしてもし足りないくらいだわ」
 祐一は振り向き、香里と視線を合わせた。その顔には明らかな疲れの色が見えたが、いつも通りの微笑を浮かべて応じてくれた。だが、それが無理矢理の作り笑いであることは明らかだった。
「俺は何もしてないって。したっていったらそうだな……、栞と一緒にいたぐらいかな」
「いいわ、それだけでも十分よ。ありがとう。それに、相沢君がいなかったら栞はもっとずっと前にあたしたちの前からいなくなっていたかもしれないんだから」
 祐一の眉がピクリと動いた。いつものいたずらっぽい笑みを消し、真剣な目で見つめ返してくる。
「聞いたのか?」
「うん。今朝、手首の傷のこと、ちょっとね」
 香里が苦笑しながら左の手首を右の指でそっとさする。
「本当にダメなお姉ちゃんね、あたし。そんなことにも気がつかなかったなんて。一体いままで何してきたんだろう」
「……それこそ俺は何もしてないぞ。栞が自殺を思い止まったのは栞の強さだろ」
「栞が手首を切ろうとしたとき、相沢君とあゆって子の顔が頭に浮かんだって言ってたわよ」
 そこでようやく祐一は自然な笑顔を見せた。首を傾け、ボリボリと頭をかく。
「それなんだけどなあ。あのときは頭の悪い会話をしてただけだと思うんだが」
「天然系の吉本漫才みたいだったって言ってたわよ」
「栞のやろう、意外とふざけた例えをもってきたな」
「それを思い出してたら手首を切れなくなってたって」
「……栞って意外とお笑い好きだったりするのか?」
「案外そうかもしれないわね」
「夜な夜なお笑い番組を見て研究してたりしてな」
 そこで香里と祐一は同時に吹き出した。
 乾いた空気の中庭に、ふたりの笑い声が響き渡る。
 それと同時に祐一の背後から何かがひゅるひゅるひゅると飛んでくるのが香里の目に入った。
「あ」
「ん?」
 雪の塊だった。ガッシリと固められた雪玉は一直線に祐一目がけて直進し、派手な音を伴って祐一の頭に見事に命中した。
「うおっ!?」
 雪まみれになった祐一が思わずその場でよろける。
 香里と祐一が雪玉の飛んで来た方に目をやると、投げた犯人、北川がケラケラ笑って立っていた。その横には名雪の姿もある。
「ふっふっふ。今のを避けられないようじゃあ大したことないな、相沢」
 北川がゲラゲラと笑う。
「ふたりとももうすぐ5時間目始まるよー」
 名雪がどこか楽しそうにそう声をかける。
「……よくもやりやがったな、お前らあっ!」
 祐一は両手で周りの雪をかき集め、ふたりのもとへと駆け出した。
「逃げるぞ、水瀬!」
「うん!」
 名雪と北川はキャーキャー笑いながら校舎の中へと姿を消した。
「待て、お前らーーー!!」
 大声でそれを追いかける祐一。
 香里はヤレヤレと溜め息をついてその後を追った。だけどその顔には不思議と笑みが浮かんだ。
 あのふたりにも話しておかなくちゃならないこと、話しておきたいことがたくさんあった。
 それは名雪と北川、それと香里の双方にいくらかの傷をともなうことでもあるのだろうか。
 だけどひとりで悩んでいても何も始まらない。ひとりじゃどうにもならなくて負けそうになったとき、そんなときのために仲間がいるのだ。頼ってもいい、友達がいるんだ。
 これもあなたに出会えて気づけたことなのよ、相沢君。
 あなたは何もしてないって言ったけど、あたしと栞はきっとものすごくたくさんの力をあなたに貰ったんだと思う。
 祐一の背中を追いながら、香里はそんなことを思った。

 中庭の池の色とりどりの鯉を楽しそうに見つめる栞へと香里は目をやった。
 あれから約二ケ月、栞の左手首の傷はもうほとんど残っていない。
 この二ヶ月、三ヶ月の間には色々なことがあった。語り始めたらキリがないほどに、本当に色々なことがあった。そのどれもをあたしたちは不器用に、だけど精一杯に駆け抜けてきた。沢山の遠回りをして、道に迷って、苦しんで、色んなひとに助けられて。だけどそのどれかひとつでも足りなかったのならば、あたしたちはここへはたどり着けなかったような気がする。
 正直、辛い数ヶ月だった。だけど多くのことを学んだ数ヶ月でもあった。それは全部あたしの目の前のこの子に教えられたことなんだなあ。
「ねえ、栞」
「ん?」
 振り向いた栞にありがとうと伝えたかった。だけど口からは言葉が出てこず、香里は小さく首を横に振った。
「……ううん、なんでもない」
 栞はキョトンとした。それから「えへへ、何それ」と笑った。



「さてと」
 しばらく中庭のベンチでのんびりした後、香里は立ち上がってスカートの砂を払った。
「そろそろ行く?」
「うん」
 栞も立ち上がって頷いた。
「次はどこへ行かれますか、お姫様」
「それじゃあ、教室でお願いします」
「教室?」
 意外な答えに香里は問い直した。
「うん。一年生の」
「栞が行きたいっていうのなら、別にいいけど……。教室なんてつまらないわよ」
 次は食堂でアイスクリームなんてのを予想していたのに。これでは自分が食い意地を張っているみたいだ。
「うん。だけど行ってみたいの」
 ふうんと香里は答えた。どうにも腑に落ちないというか何というか。美術室や中庭と比べたら教室への思い入れは少ないはずだ。何しろ数日しか通うことができなかったのだから……。
 教室に何かあるのだろうか。まあ、行けば分かるだろう。
「それでは次の目的地は教室ですね、お姫様」
「はい。お願いします」
「えっと、一年生の教室は北館の四階ね」
「大丈夫。そこなら何回か行ったことあるもん」
 そう言うと、栞は小走りで北館の入り口へと向かった。
「あっ。ちょっと、栞」
「お姉ちゃん、早くしないと置いてっちゃうよ」
 栞が途中で振り返って片手をブンブン振った。
「言ったわね!」
 香里も小走りで栞の後を追った。

 階段を駆け登り、四階に着くと、栞はどこかの教室へと入っていった。
 1年2組。去年の栞のクラスだ。
 香里も栞の後に続いて教室の中へと入った。
 中はガランとしていて、一言でいって殺風景だった。さっきの自分の教室では気がつかなかったが、三学期も終盤、学年末試験も終わった後では、当然の事ながら生徒の荷物は僅かしか残されていない。壁にベタベタと張られた掲示物もそのほとんどが剥ぎ取られていた。残るのは正確に並べられた机と椅子、それとせいぜい教卓ぐらい。
 栞は教室の中心で、何も書かれていない黒板を見つめていた。
「だから言ったでしょ。教室なんてつまらないわよって」
 そう言いながら香里は栞のもとへと歩みよった。ふたりで真っ黒な黒板を眺める。
「だけどどうしても見ておきたかったから」
「四月になれば毎日毎日嫌になるほど見られるのに」
「うん。でも、四月からのクラスは春休み前までとは違うでしょ。一週間しか来られなかったけど、わたしのこのクラスの空気を覚えておきたいんだ」
 栞は大きく深呼吸した。
「色んなひとたちの思い出がつまってるんだよね、この小さな教室に。今年も、去年も、一昨年も、それにこれからもずっと……」
 わたしもその中のひとつになれるかな。
 そう言って香里のほうへと振り向いた。
「バカな子ね」
 香里は栞の問いをピシャリと言いのけた。
「えうっ」と栞は一歩退いた。「ひどいよおー」
「ふふ」
 香里はさっきの栞と同じように大きく息を吸い、吐いた。それからにっこりと微笑んだ。
「あたしは感じるわよ」
「え?」
「たとえ栞が一週間しかこの教室に来ていなくても、たくさん栞の思い出を感じられるわ。ううん、教室だけじゃない。この学校中に。短かったけど、特別なことは何もしなかったかもしれないけど、それでも十分なぐらいの思いを詰め込んできたでしょ」
「……そうかな」
「そうよ。だから心配しなくても大丈夫。栞はこれからもいっぱい思い出を作っていけるわ」
 数秒の沈黙があった。栞の瞳が少しだけ潤んでいるのが見えた。それから、
「……うん。そうだよね、きっと……」
 栞は小さく、だけどはっきりと頷いた。



「お姉ちゃん、そろそろ帰ろっか」
 何かを確かめるように教室机をひとつひとつゆっくりと眺めた後、栞はそう切り出した。香里が時計を見ると、まだ早い時間だった。
「もういいの? 他に行きたいところは?」
「うん。もう十分だよ」
「そう? それじゃあ、帰ろっか」
 香里は教室の出口へと向かった。しかし栞は動かない。
「栞?」
 香里は扉の前で立ち止まり、声をかけた。
「お姉ちゃん」
「ん?」
「ありがとう。今日はお姉ちゃんと学校に来れてよかった」
「やめてよ。お礼をされるようなことはしてないわ」
 香里は笑って答えた。
「それからごめんなさい」
「え?」
「わたしね、今日、ウソついてたんだ」
 ―――え?
 チクリと胸の奥が痛んだ。さっき刺さった小骨がズクズクと胸の奥へ、奥へとめり込んでいくような気がした。急に眩暈を感じるほどの恐怖が体全体を襲った。さっきから感じていた不安が形を変えていく。どうしようもないほどの過ちへと。目の前の光景のために封じ込めた記憶。誰が、何のために? 足がガクガクと震えだす。立っているのがやっとだった。
 世界が崩れていく。
「聞いて、お姉ちゃん」
「やめて!!」
 気がついたら叫んでいた。思わず後ずさる。背中が教室の扉にドンと当たる。じわりと嫌な汗が背筋を流れた。息が荒い。酸欠になったように胸が苦しかった。
「聞きたく、ないっ!!」
 口から必死にそう絞り出す。その声はほとんど悲鳴に近かった。
「ごめんね、お姉ちゃん」
 困ったような顔をした栞がその足を一歩前に進めた。香里はその場から逃げ出したかった。栞から逃げたいんじゃない、真実から逃げたいんだ。震える手で扉に手をかけた。だけど扉は押せども引けどもびくともしなかった。
 目には大粒の涙が溜まっていた。栞の姿が白くぼやけて霞んだ。その姿がまた一歩、近づいた。何か言おうとしたが、あごが震えて言葉にならなかった。
「お願い、思い出して」
「いやっ!!」
「お姉ちゃんの記憶の中に、わたしが元気になった記憶なんてある?」


 元気になった記憶なんてある?


「いやーーー!!」
 香里は耳をふさいだ。その場で小さく丸くなり、周りの全てを拒絶した。何も聞きたくなかった。何も思い出したくなんてなかった。だけど意思とは無関係に、記憶だけが頭の中から引き出されていく。崩れていく世界。それに反比例して甦っていく記憶。瞳を覆っても見えてくる映像、耳をふさいでも聞こえてくる言葉。香里がいくら泣こうが、叫ぼうが、それらは止まってはくれなかった。

『余命数ヶ月』
『誕生日は越せないだろう』
 去年の12月、ミユキ先生から伝えられた言葉はどこか非現実な響きを持って香里の耳に届いた。その言葉の意味を頭の中では理解していたが、心は一切を受けつけなかった。
 もの心ついたときからずっと一緒にいた妹。ともに笑い、ともに泣き、ふたりで成長してきた。きっとこれからもそうやって生きていくのだと思っていた。これから先、何が起ころうともきっとふたりでなら乗り越えられると、そう信じてきた。信じて疑わなかった。だから栞のいない世界なんて香里には考えられるはずもなかった。そんな世界、香里は全く知らなかったのだから。
 どうせいなくなってしまう。ならばいっそ……。
『あたしには妹なんていないわ』
 恐怖と孤独に怯え、そんなバカな嘘をついて殻に閉じこもってしまった自分。それでも何かが救われたような気がした。たとえその場しのぎであったとしても、そのときの香里には十分だった。
 しかし三学期の登校初日、突然現れた相沢君。お節介焼きの転校生。彼は香里の殻をドカドカと蹴り破った。ときには外から、ときには内から。
 そして、あの日。
 お節介焼きの余計なお世話は少しだけ、ほんの少しだけ香里の心を動かしたのかもしれない。だけど香里にはそれで十分だった。香里に必要だったのは、要はちょっとしたきっかけだったのだ。
『余計なお世話じゃないわよ……。だって、栞は……、あたしの妹なんだから』
 ―――あたしの妹なんだから。
 太陽が沈み行く街並みの中、ようやく言えた一言。こんなに簡単な言葉なのに。こんなに言いたかった言葉なのに。どうしていままでこれが言えなかったんだろう。その一言は香里の心の殻を粉々に破いた。一発だった。こんなに脆い殻だったのかと自分でも呆れた。こんなもので救われた気分になっていただなんて。だけど、これでもう閉じこもることはないだろう。そう感じた。
『ばいばい、お姉ちゃん……』
 そうやって小さく手を振る栞を笑顔で眺め、香里と名雪のふたりは次の交差点を右に回った。
 途端に香里は名雪に抱きついた。様々な思いは涙となってあふれた。嗚咽を吐きながら、文章にならない言葉を吐き出しながら。こんなダメなあたしを優しく受け止めてくれる名雪に心の底から感謝しながら。
 嬉しかった。無性に、すべてが嬉しかった。栞を妹と呼べたことも。栞がまだ自分のことをお姉ちゃんと呼んでくれたことも。そのきっかけを相沢君が与えてくれたことも。泣きじゃくるあたしの頭を名雪が優しく撫でてくれたことも。今日という日がこんなにもいい天気であってくれたことも。太陽が沈む紅一色の西の空がとてもとてもきれいであってくれたことも。全てに感謝した。
 やり直せるかもしれない。かつて信じていたように、何があってもふたりでなら乗り越えていけるかもしれない。
 明日からはまたきっと辛い日々が始まるのだろう。いつ大切なひとがいなくなってしまうかも知れない恐怖に怯えながら。だけどもう逃げない。脆い殻に閉じこもるなんてことはもうしない。辛くても、苦しくても、前だけを見ていこう。目を逸らさず、大好きな栞の顔を見ていこう。
 だからお願い。いまだけは甘えさせて下さい。いまだけは泣かせて下さい。
 もう二度と、こんな涙は流さないために。

 その後、なんとなく来てしまった夜の病院。ミユキ先生に聞かされた、どうやって進むのかという問い。
 家へと帰り、久しぶりに、本当に久しぶりにできた栞との会話。夜遅くまでふたりで語り明かした。これまでのイザコザが嘘だったかのように。
 翌日から始まる、望みに望んだ栞との一週間の学園生活。十ヶ月振りに一緒に歩くことができた通学路。
 2月1日。迎えることは出来ないと言われた16回目の誕生日。ゆらゆらとケーキの上で揺れる16本のロウソクの火。栞が相沢君に貰ったのだと喜ぶ美術道具。
 左手首の傷の話と、それを救ったという相沢君のあゆという名前の女の子の存在。
 そして再び始まった、長く苦しい闘病生活―――。

 それだけだった。その先には何もない。喜びも、悲しみも。全てが置き去りのまま、季節はもう春を迎えている。
 じゃあ、あたしの目の前にいるあなたは誰? この世界は? あたしのこの思いは? この涙は? なんだっていうのよっ!
 大声で泣き叫びたい気分だった。ほんの小さな子どもみたいに。お母さんに抱きかかえてくれるまで、周りのことなんてお構いなしに、何も考えず、ただただ泣いていたかった。それはどんなに幸せで楽なことなのだろう。
 香里がそうしなかったのは、どこかずっと遠くから誰かの笑い声が聞こえてきたからだ。
 ゆっくりと顔を持ち上げ、瞼を開いた。
 涙でぼやけた視界の先には見覚えのある風景が広がっていた。この街の商店街から少し外れた場所にある並木道だ。その片隅に男の子と女の子が楽しそうにじゃれあっている姿があった。男の子の顔は知っていた。相沢君だ。もうひとりはいつかどこかで見たことがあるような、かわいい顔の女の子。あれはいったいどこだったのだろう。
 そしてそのすぐ横には茶色のストールを羽織った栞の姿があった。散乱したコンビニの袋の前で、頭に雪をかぶりながら呆然としている。コンビニ袋の中にカッターナイフが入っていたのが妙に目についた。
 やがて天然の漫才を始める相沢君と女の子の間に挟まれて、栞は大きな瞳を忙しなく左右にキョロキョロと振っていた。
 困ったように、だけど少しだけ楽しそうに。どこか焦点の定まらないその瞳には一体何が映っているのだろう。
 ……夢の続きだろうか。それともこれはあなたの記憶? ねえ、栞。だとしたら、あなたはあたしに何を見せたいの?

『何を見せたかったんだろう』

 小さく栞の声が聞こえた気がした。
 また、場面が変わった。
 ……見覚えのあるここは、栞の部屋だ。
 蛍光灯の灯りは点いておらず、部屋の中はとても暗かった。窓の外から僅かに入る街灯の無機質な明かりは、むしろその不気味さを引き立てていた。この世の不幸の全てを背負っている暗闇のように香里には思えた。
 心の闇。
 そんな単語が頭に浮かぶ。
 ……この部屋は一体誰の暗闇を映し出しているのだろう。
 香里は壁にかかった時計に目をやった。時間は深夜を回っていた。
 栞は窓際のベッドの上に座っていた。右手には長細い何かが握られていた。それを見た瞬間、香里は背筋が凍りつくのを感じた。カッターナイフ! コンビニの袋に入っていたカッターと同じやつだ。
 カッターの刃が栞の左手首へと当てられた。その刃をすっと手前へと動かす。栞の手首に赤い線が走る。
「栞っ!」
 香里は叫んだ。しかしその声は目の前の栞には届いてはいないようだった。
 栞の白い肌に一筋の赤い血が流れた。手首から流れ落ちたそれは、ベッドの布団へと滴り落ち、黒い染みとなった。
 ポタッ、ポタッと小さな音を立てて。
「やめて!!」
「そんなことをしたら死んじゃうよ!」
「ねえ、栞、お願いだからやめてよ、こんなこと!」
 香里は絶叫した。しかしその声が栞へと届いている様子はない。
 さらに声を張り上げようとしたそのとき、布団に血とは別の染みができているのに気がついた。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。血でできた染みを包み込むように。
 栞は声をからして泣いていた。大粒の涙を流しながら。
 手からカッターナイフが滑り落ちた。カツンと音を立てて、それは床に転がった。栞はそれを拾い直そうとはしなかった。
「……」
 栞はこのとき、相沢君とその友達の女の子を思い出したのだと言った。そして死ぬのを思い留まることができたのだと。楽しそうに相沢君と女の子のやり取りを語った。まるで天然の吉本漫才を見ているみたいだったと。だけどこのとき栞の目に映っていたのは吉本の漫才なんかじゃなかった。
 きっと、光が見えていたはずだ。
 真っ暗闇の中、進むべき道を見失った迷子の子どもを優しく導いてくれるような、そんな光が見えていたはずだ。
 それがどんなに小さくても、暗闇の中ならば光はハッキリと見える。それだけを見て前へと進めば、必ず出口にたどり着けることができる。光の射す方向にカッターナイフは存在しなかった。そうやってこの二ヶ月、栞は進んできたのだろう。手探りで、だけど後ろを振り返ることなく。
 だったらあたしにとっての光は栞だ。それを伝えたかった。あたしは栞を見て進んできたんだよ。あたしには大きすぎるぐらいの光で、あたしの道を照らしてくれてたんだよ。
 ううん、それだけじゃない。
 香里は小さく首を振り、瞳を閉じた。

「辛かったよね、苦しかったよね。ごめんね、もっと早くに気がつけばよかった。香里がこんなに苦しんでるなんて知らなかった。わたしなんかが力になれるかは分からないけど、わたしも頑張ってみるよ。今だけは思いっきり泣いて、明日からふたりで頑張ろう」
 夕暮れの商店街。泣きじゃくる香里を抱きしめて、一番の親友の名雪が優しい声で言ってくれた。
 
「実は俺さ、美坂の様子が最近おかしいの、気づいてたんだ。気づいてたけど、なんていうのかな、美坂はすごく強そうに見えたし、実際にすごく強いんだろうし。だからこいつならきっと大丈夫だって、俺の中で勝手に片付けてた。それを今はすごく後悔してる。だから、できれば俺にも美坂が苦しんでるわけを話してほしい。それがいいことなのかどうなのかは分かんないけど、それでも何かは変わると思うから」
 祐一との雪合戦に敗れ、雪にまみれた隣の席の北川君がちょっと照れくさそうに言ってくれた。

「お前、前に言ったよな。栞は何のために生まれてきたのかって。きっと答えは人それぞれ色々あると思うよ。そんなものはないっていうヤツもいるかもしれない。だけど俺は、誰かと繋がりを作るために人は生まれてくるのだと思う。その相手が好きでも嫌いでも、例え話したことがないようはヤツでも、誰かの心の中に自分の姿で埋めていく。大なり小なりな。そうやって人は生きていくのだと思う。これからも、ずっとな」
 夜の病院。眠り続ける小さな女の子を見つめながら、ミユキ先生が少しだけ悲しそうに笑ってくれた。

「俺な、栞のこと、ずっとずっと覚えていようと思う。最後に栞とした約束も叶うって信じ続けようと思う。俺にはもうそれぐらいしかできないけど、それが俺と栞を唯一結んでいるものだと思うから」
 北川との雪合戦に勝利したお節介焼きの転校生、相沢君が笑いながら言ってくれた。

 自分の周りにはこんなにも多くの光で溢れていた。だから後ろを振り返らずここまで歩いてこられたんだ。
 栞に会いたい。会って伝えたい。ありがとうって。大切なことに気づかせてくれてありがとうって。みんなにもちゃんとお礼言わないとね。ダメなあたしを導いてくれて本当にありがとうって。

『お姉ちゃんもわたしの光だったんだよ』

「えっ?」
 栞の声が聞こえた。香里は慌てて辺りを見回したが、その姿はどこにもない。だけど確かに聞こえたのだ。香里のことを、光なんだと言ってくれた栞の声が。
 香里は静かに耳を澄ました。
 聞こえてくる、優しい栞の声。

『辛いこと、苦しいこと、泣きたいこと、たくさんあった。本当にたくさんあった。死にたいぐらいたくさんあったけど、それでも諦めなかったのは、諦めたくなかったのはお姉ちゃんがいてくれたからなんだよ』

「……栞」

『世話のかかる妹でごめんね。だけど、ありがとう。わたし、お姉ちゃんの妹で本当によかった』

「ねえ……、やめてよ、そんな言い方」

『これまでわたしの道を照らしてくれて、ありがとう』

「やめてよっ。これじゃあまるで、まるで……」

『最後にそれを伝えたかった』

「最後じゃない!」
 香里は叫んだ。ありったけの思いと願いを込めて。息継ぎも忘れ、香里は自分の思うがまま、口を動かした。
「最後じゃない、最後じゃないよ、栞。あなたがいなくなったら残されたあたしはどうすればいいのよ。本当に散々世話を焼かせて、栞は何もせずにそれでおしまい? 冗談じゃないわ! 最後になんてさせない。道に迷ったのならあたしを探しなさい。あたしが栞を導くから。導いて、その先でいつまでも、絶対に栞のことを待ってるから!」

『………』

 いくら待っても返事はなかった。
 栞の姿も依然どこにも見当たらない。だけど伝えた。
 香里はふうと大きな溜め息を吐いた。
 待ってる。
 あなたのこと、あたしはずっと待ってるから―――。



 暗闇の中、視界を覆う光が見えた。それが蛍光灯の光であることに気づき、香里は目を覚ました。
 まだ頭がぼーっとする。記憶がハッキリとしない。とてつもなく長い夢を見ていたようだ。断片的な夢のカケラ。……不思議な夢だった。
 香里は首をブンブンと横に振った。夢のことはひとまず置いておこう。まずは状況把握が必要だ。とりあえずここはどこなのか、だ。
 香里は自分の周りを見回した。すぐ隣にミユキ先生がいた。香里はギョッとして今度こそ完璧に覚醒した。ミユキ先生がいるってことは、ここは病院?
「よっ。随分と長い間眠ってたみたいだな」
 ケラケラと笑うミユキ先生。
 イマイチ状況が掴めない香里は、早口でミユキ先生に尋ねた。
「こ、ここは?」
「病院の正面待合室。声かけても起きなかったから今まで放っておいた」
「じ、時間は?」
「夜の10時過ぎかな」
 確かに待合室の窓から見える外は真っ暗闇だった。だんだんと今日の記憶が甦ってくる。
 今日は、3月14日。そうだ、栞の手術の日だ!
「栞は!?」
 ミユキ先生に覆いかぶさるような勢いで香里は叫んでいた。ここが病院であることなどとっくに忘れていた。
 栞の手術開始が今朝の10時。終了予定時刻は夜の8時だと言っていた。今が10時過ぎなのであれば、もう手術は終了しているはずだ。当然、結果も出ている。成功か、失敗か。それは栞の生死に直接関わってくる。
 香里はミユキ先生の言葉を待った。
「手術は成功したよ。予定通り8時前には全部終わった」
 ミユキ先生ははっきりとした口調で言った。
 ……成功?
 ということは?
「もう少し様子見ないとハッキリしたことは言えないけど、とりあえずは大丈夫だろうな」
 香里の疑問に答えるように、ミユキ先生は微笑を浮かべながら言う。
「……大丈夫?」
「ああ」
 ミユキ先生は頷く。
「もう大丈夫だ。栞は助かる。頑張ったな。栞も、お前も」



「さっき面会謝絶が解除されたんだ。眠ってると思うけど、一応栞には会えるぞ。会っておくか?」
 ミユキ先生にそう聞かれ、香里は小さくコクリと頷いた。
 栞の病室への途中、ミユキ先生は手術の経緯や今の栞の状態を簡単に説明してくれた。両親は二階で別の先生の説明を受けていることも教えてくれたが、そのほとんどが香里の頭の中には入ってこなかった。
 体が宙に浮いているような感じだ。地に足が着かない、とはこういうことを言うのだろうか。まだ夢の世界にいるような気分だ。
 手術は成功した。もう大丈夫。栞は助かる。
 ずっと願ってきたこと。それが叶った。奇跡は起きた。
 だけどそれを言葉にして発すると、どこか非現実な響きを帯びているような気がした。本当にこれでもう安心していいのだろうか。本当にこれですべてが終わってくれたのだろうか。
 頭の整理がつかないまま、栞の病室の前へと着いた。
 ミユキ先生がその扉を開けてくれる。
 一人部屋の窓際のベッドの上。栞は目を閉じて眠っていた。窓から差し込む月の光が薄く栞の顔を照らしている。規則的な電子音に混じって、安らかな寝息が聞こえてきた。
 栞が息をしている。
 香里は栞のもとへと駆け寄った。
 今も点滴をしている右手を掴み、優しく握った。
 温かい。
 温かい。
 なんて温かいんだ。
 生きている証拠だ。
 栞は生きている。
 手術は成功した。もう大丈夫。栞は助かる。
 これからもずっと、生きていける。
 途端に涙が溢れた。
 栞の小さな手を両手で握り締め、香里はその場で泣き崩れた。
「ありがとう……」
 嗚咽を漏らしながら、香里は必死にそう絞り出した。
 ミユキ先生、栞を助けてくれてありがとう。
 手術に関わってくれた先生、看護婦さん、病院の人たち。ありがとう。
 お父さん、お母さん、名雪、北川君、相沢君。ダメなあたしを支えてくれてありがとう。
 栞。生きていてくれて、ありがとう。ありがとう、ありがとう、本当にありがとう。
 涙で滲む視界の中、栞の顔を見た。大好きな妹の顔がそこにはある。
 ねえ、栞。起きたら伝えたいことがあるの。話したいことがたくさんたくさんあるの。
 不思議な夢を見たよ。あなたが聞いたら何て言うかしらね。
 ゆっくりでいいから、聞いてあげて。
 あたしたちにはこれから時間がいっぱい、無限にあるはずだから。
 両手で包んだ栞の右手がわずかに揺れた。
 小さな力で、だけど強く握り返してくれているのが香里には伝わった。
「栞?」
 香里は息を止めて栞の顔を覗き込んだ。
「……お姉ちゃん」
 大好きな栞の声が聞こえる。
 ゆっくりまぶたが開いていく。
 その瞳の先には確かに光が映っていた。


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