それは舞い散る雪の季節の記憶……
「ボクの最後の願いは……」
 あの時少女が紡いだその言葉の先は、いったいなんだったのか。現在ではもう記憶の片隅にも残らず、ただその願いが叶えられる時を待っているかのようにこの場所を彷徨っていた。







「名雪さん、名雪さん、名雪さんっ!!」
 今年ももうあと僅かで今年で無くなろうとしていた冬の一日だった。急ぎの声と廊下を駆けてくるダダダッ…という足音に、名前を叫ばれた少女はキッチンで久しぶりの親子水入らずで作っていた昼食の準備を一時中断して、リビングの方に顔だけをひょっこりと出した。その少女、水瀬名雪が顔を覗かせると同時に、廊下からリビングに繋がるドアが開かれ、息を切らしながら女の子が入ってきた。
「どうしたの、あゆちゃん。わたしがどうかしたの?」
 名雪は、不思議そうに百メートルダッシュしてきたランナーのような表情の女の子に尋ねた。
「あっ、名雪さん! 大ニュースなんだよっ!」
 赤いカチューシャをしたその女の子は,名雪を視認すると笑顔で駆け寄ってくる。少女の名前は月宮あゆ。苗字こそ違うが、数年前からこの家で家族の一人として一緒に暮らしている。
「あら、あゆちゃん、お帰りなさい」
「あっ、秋子さん。ただいま」
「そんなに慌てて、どうしたの?」
 名雪の後ろから昼食の準備を中断して出て来たのだろう秋子が顔を覗かせる。名雪の母であり、あゆの母親でもあるその人は笑顔であゆを出迎える。
「そうだよ、あゆちゃん。なにが大ニュースなの?」
「そう、それなんだよ。名雪さん! さっきボクが電話で話してたんだけど……なんと」
 と、あゆはそこで一呼吸置き
「祐一君が、この街に来るんだよっ!」
 満面の笑みで高らかに言い放った。

「「……え」」
 あゆの言葉に、二人は同じ言葉をハモる。だがそのあとの反応は全くと言っていいほど違った。

「あゆちゃん本当? 本当に祐一がこの街に来るの!?」
 あゆの言葉に半信半疑ながらも、喜びを隠せない様子であゆを問い詰める名雪。
「……それは本当なんですか、あゆちゃん?」
 名雪とは反対に神妙な感じで秋子もあゆに聞き返す。
「そうなんだよっ! さっき電話で今日にもそっちに行くからって」
 終始笑顔で祐一のことを話すあゆと、それをうれしそうに聞く名雪。
「……ちょっと、姉さんに電話してきますね」
 と、秋子は着けていたエプロンをはずし、椅子に掛けると電話のある廊下に向かっていった。
「? どうしたんだろ、秋子さん」
「多分、本当に祐一がこっちに来るかを確認しにいったんだよ」
 もし、本当に祐一が今日こっちに来るとなればいろいろ準備しないといけないからね、と繋げる。
「あっ、そうだね! じゃあボクは祐一君を迎えに駅まで行って来るよ」
「うん、わたしも一緒に行くからあゆちゃん、ちょっと待っててね」
 そういいながら、名雪も着けていたエプロンをはずし、片すと、自分の部屋へと行くために廊下に出た。廊下へ出ると、母親が真剣な表情で電話の内容に耳を澄ましていたので、邪魔にならないように忍び足で二階に上がっていく。


「祐一かぁ……何年ぶりだろ」
 自分の部屋で服を選びながら名雪は一人つぶやく。数年前は毎年のように遊びに来ていた、いとこの男の子。ある年を境にして連絡もなくこの街に来ることもなくなった……好きだった少年。その最後となったときに自分が彼にした最初の告白。そして……
 名雪は不安を有しながらも、その一方で数年ぶりに逢えるであろうその少年に胸を躍らせていた。

「祐一君かぁ」
 リビングで名雪を待っている間、あゆは少年ののことばかり考えていた。確か最後に祐一君と会ったのは……
 そこであゆは不意に頭に痛みを感じたが、そんな瑣末なことより楽しくなるであろう今日からを考えながら胸を膨らませていた。

「祐一さん……」
 姉に電話をかけ終えた秋子は電話の前で誰に言うでもなく一人つぶやいた。姉から訊いた少年の事。そして自分の娘たちがその少年のことをどう思っているか……
 秋子はその見えてこない未来を危惧していた。これが杞憂であればいいと、何度も思いながら……





けれど輝く夜空のように







「……遅い」
 肩に積もってくる雪を払うのはこれが何度目だろうか。久方ぶりに来たこの街の洗礼は雪と寒さと空腹だった。確かに待ち合わせ時間を指定はしなかったがいくらなんでも二時間以上も待つとは思わなかった。
「あゆの奴……もしかして忘れてるのか?」
 充分ありえるだけに恐ろしい。このまま誰来なかったら俺はどうなってしまうのだろうか? いわずともながマッチ売りの少女である。そんな仕打ちをされたら俺なら寒いと言いつつマッチの火で、目の前にある良く燃えそうなコートに火をつけてまぁ、暖かい……って

「祐一君?」
 と、その良く燃えそうなコートが俺の名前を呼んだ。その良く燃えそうなコートがしている赤いカチューシャに俺はピンッ! と来る。
「このプレッシャー、シャアか!?」
「うぐぅ……意味がわからないよ、祐一君」
「なんとなく言って見たかっただけだ。気にするな、あゆ」
 あからさまに通常より三倍以上遅刻してきたっぽい少女と……その後ろにいる青い髪の少女
「ん?……もしかして名雪か?」
「祐一……わたしの名前覚えててくれたんだね」
 と、嬉しそうに微笑む名雪。昔の面影を残しながらも、健やかに成長してきたことを思わせるいとこの少女に年月を感じざるを得ない。
「それに比べて……」

「……うぐぅ」
 俺の視線があゆの上半身にいく。あゆもそれに気づいたのか、なんとも言えない顔で睨み付けてきた。
「祐一君、失礼だよ! せっかくの再会なのにボクだけシャーーッ! とか叫んだり、その……とか見たり」
 最初は勢いよく来たのに後半になるにつれて、口をついばむ程度になって、落ち込んでいくあゆ。
「まぁ、ずっと待たされてたからちょっと悪戯したかったんだ、許してくれよ」
「うぐぅ、本当に祐一君は意地悪だよ」
「取り敢えず、かなり寒いんだ。できれば早く体を温めたいんだけどな……」
 こんなところで積年の話をするのも辛いのでさっさと、移動しようと提案する。
「これあげる。遅れたお詫びだよ」
 と、どこからか買いに行ってたのか、名雪がホットの缶コーヒーを差し出してきた。
「それと……再会のお祝い」
「あれからだいぶ経ってるだろうからな……ありがとな」
 少し遠い目をして昔を思い出そうとしてみる。
「七年ぶりだよ、祐一」
「そうか……七年も経ってるのか」
 名雪の言葉に俺はどんな気持ちで反応したんだろうか。
「祐一君……本当に意地悪だよ」
 気づくとあゆが雪の溜まった地面に『の』の字を書いていた。









『朝〜朝だよ〜』
「キシャーーー!!」
 ありえない声で叫びながらポチッ、と目覚ましのスイッチを止める。名雪から借りた目覚まし時計だがご丁寧に声を録音できるタイプらしく、名雪の声がふんだんに使われたスペシャル仕様だった。既にこの目覚ましを数回使っているが未だに慣れない。
「そうそう慣れるものではないな。三日あればうまく使いこなせると昔の人は言っていたが、なかなかどうして……」
 無理なものは無理である。名雪に昨日他の目覚ましを借りたいと言っても却下されていたので、録音内容を変えてもいいか? と尋ねたところ『無理(一秒)』と返ってきた始末。
「やはりカエルの子はカエル。秋子さんあなたの娘はスクスク成長してますよ」
 しかしこの目覚まし、本当にどうにかならないものか? 初日のあゆの引きつった笑顔で気がつくべきだったのだ。その時計は魔を呼ぶものだと……。まぁ最も魔は魔でもあゆの場合睡魔なんだろうが。
 兎にも角にも、あゆが使っていたその目覚ましが現実問題ここに在るわけで、あゆは名雪に違う『普通』の目覚ましを借りて使っているようで。……理不尽だ。
 いつか、これと同種の目覚ましを買ってきて『おっす、俺うさピョン!』とか録音して、送りつけてやろうか
「…………」
 辞めておこう……何か違う伝説を創ってしまいそうだ。
 そんなこんなしてると完全に目が覚めてしまい、俺は伸びを一つしてベッドから這い出る。
「やっぱり寒い」
 この街に来て数日。まだまだこの寒さに慣れない。俺が前居た街はもっと……暖かかった……はずだ。

「祐一さん、朝食できてますよ」
「あっ、秋子さん、おはようございます」
 部屋から出ると、名雪を起こしに来たらしい秋子さんと会った。
「あゆちゃんも、もう下に居ますから、祐一さんも食べていてください」
 名雪はわたしが起こしますから、ともはや聞きなれた『名雪の部屋』とかかれたプレートのある部屋の向こうからする大音量の機械音をBGMにそんな会話が繰り出される。
「はぁ……わかりました」
 俺はそう言い頭をポリポリ掻きながら下へ降りていった。

「それにしても……」
 俺がこの家に着いて秋子さんに挨拶した時、秋子さんの表情が明らかに強張っていたのを思い出す。それは一瞬だったから名雪たちは知らないだろうけど……
「お袋に何か言われた……かな?」
 秋子さんが『姉さんに電話したんですけど……』と話していたから多分そういうことなんだろう。あの顔はまさか来るとは……の顔にも見えたからな。
 それでも、それは本当に一瞬だったわけでその後は、今のとおりほとんど家族の一員のように大切に扱われているのが手に取るように判ってとても嬉しい。
 唯一つ、初日のリビングで秋子さんが俺に訊いて来た質問。

「祐一さんは、いつまでこの街に居られるんですか?」

 という質問が何故か頭にこびりついて離れなかった。何か忘れている気がする。




 この街で正月を迎えた。まさかこんなに長くこの街に居るとは俺も思ってもいなかったから、ただ純粋に名雪やあゆと初詣に行っておみくじを引いたりりんご飴を食べたりするのがとても楽しかった。その日の夜、リビングでおせち料理に舌鼓を打っている時に名雪からこんな話が切り出された。
「ねぇ、祐一」
「ん、何だ名雪? なにか見たいテレビでもあるのか?」
「違うよ。あのね、祐一は学校はどうするの?」
 今は冬休みだからいいけど……と、どこかしら残念そうに名雪が尋ねる。学校か……学校。
「忘れていたのは、それだ!」
 と、閃いた様に俺は立ち上がった。そうか、何か忘れていたとは思っていたがそうだ、学校だ。学校のことを忘れていたんだ。
「…………」
「…………」
「…………」
 そんな俺の言葉に、秋子さん、あゆ、名雪はそれぞれ三者三様の沈黙を見せた。半ば呆れたように。なにか違うことでも考えているかのように。なぜか悲しそうに……
「名雪。祐一さんはしばらくこっちに居るから、心配しなくてもいいのよ」
「な、なに言ってるんだよ、おかあさん。わ、わたしは別にそういうのじゃなくて…」
 いきなりの秋子さんの言葉と、何故か顔を真っ赤にして慌てる名雪。どういうことだろ? 俺がしばらくこっちに居るって……それってつまり学校に行かないという事だから……
「???」
 なんだろう? 俺学校でなにかして退学となったかな? くそっ、思い出せない!! 秋子さんはお袋になにを訊いているんだろうか?
 と、頭の中で湯水の如く湧く疑問の数々と、この街に来る前になにをしていたかハッキリ思い出せない自分に対する苛立ちと、そしてそれを秋子さんに問いただす事を何故か躊躇っている自分がいることに驚いた。

「……学校」
 と、ボーーッと、会話に入らず違う事を考えていたようなあゆが無意識にその言葉を吐き出していた。
「と、とにかくそれなら全然いいんだよ。もしかしたらさ……」
 名雪の秋子さんに対する反応はまだ終わってなかったらしく、アタフタとしながらこの後とんでもない事を口走ることになる。
「祐一もわたしたちの学校に転校してくるのかな……とか、思っただけなんだよ」
 おいおい。さすがにそれは無いだろう。と、心の中で名雪に突っ込む。
「了承(一秒)」
 ズルッ!!
 秋子さんの返答に俺は思わずずっこけてしまった。




「どういうことだ?」
 その夜、一人でベッドに寝転びながら俺は先のやり取りを思い出していた。こっちの学校に転校してくるみたいな事をすぐに了解した秋子さん。つまり、最初から俺のお袋からそう伝えられてたという風に考えるのが普通だろうな。
 一体俺のお袋からなんて言われているのかがとても気になるけど、それよりも今気になっているのが、俺はこの街に来る前になにをしでかしたんだろうか? という事を思い出せないことである。転校する、ということになっているぐらいの事を仕出かした訳なのか、俺は?
 頭を捻っても出て来たのは、確かに最後の日学校に行っていた。という事実をおぼろげながらに覚えている、ということだけだった。
 コンコンッ
「祐一、起きてる?」
 と、不意にドアがノックされて名雪の声が聞こえてきた。
「ああ、起きてるぞ」
「……入ってもいい?」
「ああ、別にかまわないぞ」
 そういうと、控えめにドアが開かれ、パジャマ姿の名雪が部屋に入ってくる。
「良かった、祐一が起きていて」
「いや、俺は名雪が起きていることの方が不思議だと思うんだけどな」
「ぶぅ〜、ひどいよ祐一。わたしそんなに早く寝ないよ〜」
 どの口がその台詞をのたまうんだ? 取り敢えずベッドに腰掛けて、名雪を部屋の中央に招き入れる。
「まぁ、いいか。で、俺になんか用事か?」
「えっとね……祐一、わたしたちの学校に転校してくるんだよね?」
 わたしたち……とは、あゆと名雪の事を指しているんだろう。
「ん、まぁどうやらそうらしいな。よくはわからないが」
 曖昧に答える。多分そうなるんだろうが理由もわかってないだけに答えようも無い。それに今から編入手続きとかできるものなのか? いや、あの人なら出来そうだ。と、夜の台所でこっそりジャムを作っている秋子さんが頭に浮かんできた。
「それならさ、わたしが学校の場所とか案内してあげるよ」
「えっ、ああ、そうだな。頼むよ」
「じゃあ明日いいかな?」
「……明日って学校開いているのか? 今日元日だぞ」
「あっ、そうだったね」
 と、やっちゃったと言うようにハニカミながら名雪が舌を出す。
「じゃあ学校は四日から開いてるから、祐一、その日は大丈夫?」
「ああ、大丈夫だぞ。しかし名雪の学校は三が日だけ学校がしまっているのか」
 俺が前行っていた学校は、厳しい校則もテストも宿題も無かったし、休みたい時に休んでよか……ったから、な。
 あれ、なんだ今の?
「うん、そうなんだよ。その日からわたし部活なんだよ」
「……そっか」
 俺の思惑を他所に名雪は楽しそうに、自分たちの学校の事を話し始める。
 何だろう。何か、何か大切な事を忘れているはずだ。多分それは本当に大切なことで思い出さないといけなくて、思い出してはいけないことなんじゃないかと、思う。

「祐一?」
「えっ、ああ……悪い。で、なんだ?」
「だから、明日は皆で買い物に行こうよって……」
「……すまん、名雪。急用が出来たから明日は無理だ」
「ぅ〜ん。それなら仕方ないよね。でも急用ってどこかに行くの?」
「……学校だ」
「え?」

「じゃあ、祐一お休み」
「ああ、また明日な」
「うん」
 名雪の『学校?』の質問を適当にはぐらかして、夜も更けてきたのも相まって名雪の睡眠ゲージも頂点になり、解散となった。





 次の日。朝一番に家を出た俺が水瀬家に帰ってきたのは夜も更けた午後十時ごろだった。
「……ただいま」
「お帰りなさい、祐一さん」
 申し訳なさそうにこっそりと玄関を開けた俺を、帰ってくるのを待っていたのであろう秋子さんが笑顔で迎えてくれた。
「どうも、こんなに夜遅くなってすみません」
「いえいえ、大丈夫ですよ。でも名雪とあゆちゃんが心配していましたから……」
 あまり、心配させないようにお願いしますね……と、やんわりと叱ってくれた。
「外は寒かったでしょう。あったかいココアを入れてありますからどうぞ」
「……ありがとうございます」
 俺は心遣いに感謝しながら、靴を脱いだ。

「名雪もあゆちゃんも、祐一さんがこの家に来てから本当に楽しそうですよ」
 と、本当に楽しそうに嬉しそうに俺が来てからのあゆや名雪の事を話し出す秋子さん。
「名雪なんて祐一さんが来たときは最高の誕生日プレゼントだよって、本当に大はしゃぎしてましたから……」
 それは俺がこの街に来た日のことだ。奇しくもその日は名雪の誕生日で、何とかという喫茶店でものすごいパフェを奢らされた記憶がある。コーヒーの三倍返しどころではない三十倍返しだ。
「本当に祐一さんはあの子達のために、いろいろしてくれてます」
「……秋子さん」
「もうこんな時間ですね……そろそろ寝ましょう」
 そんなつい最近の出来事を何故か遠くを見つめるような、そんな風に締めた。俺はそんな秋子さんを見て、やっぱりこの人はすごいな……と思った。





「祐一君」
「おはよう、あゆ。どうしたんだ?」
「昨日、どこに行ってたの?」
 次の日の朝のリビングで遠く機械音をBGMに、あゆがそんな事を聞いてきた。
「ああ、ちょっと……な」
「ちょっと……って、どこ?」
 言葉を濁す俺に、珍しくあゆが喰いついて来た。
「別にどこだっていいだろ? それとも気になるのか?」
 俺は茶化すように囃し立てる。
「うん」
 そんな茶々も気にせず真剣な顔で頷くあゆ。
「うっ……」
 そんな状況にどう回避しようかと考えていると、ひょんな所から救いの神が現れた。

「あゆちゃん、おはよぉ〜〜」
 目をこすりながらリビングにやってくる名雪。
「あ、名雪さん。お、おはよう」
 他者が参入してきたことで状況が変わり、歯切れが悪くなったあゆ。そんなあゆを見ながら悪いとは思いつつも名雪の行動に助かったとため息をついた。
「祐一もおはよぉ。昨日は遅かったね」
「あ、ああ済まん。ちょっといろいろやっててな」
「そうなんだぁ〜。それで学校はどうだったの?」
 ……助け舟は泥舟だったらしい。どんな豪華な客船も自然の一撃に音も無く沈没するものである。
「学校って……祐一君?」
 案の定、最も知られたくない人間に知られてしまう。
「……すまない、あゆ。今度話す」
 俺はそれだけ言うと、朝食も摂らず自分の部屋に引き返す。そんな俺をあゆは複雑な顔で、名雪は疑問符をたくさん浮かべた顔で見送った。部屋に戻る途中、廊下で秋子さんに会い、朝食の事を話すと嫌な顔一つもせず一言『行ってらっしゃいませ』と言った。
 その秋子さんの言うとおり、俺は部屋で支度をして外に出かけた。





 次の日。約束していたように名雪と、それにあゆがついてきて名雪の通う学校に行くことになった。昨日の事があって微妙だったあゆの態度だったが、どうやら杞憂のようで、いつものように明るく元気な姿で接してくれた。名雪もあゆも本当に楽しそうでそれを見る秋子さんの目も優しくて、俺も本当に嬉しかった。
 それから数日間は、童心に帰ったようにあゆと毎日街を駆け回ったり、商店街で食べ歩きしたり、名雪が部活で学校から帰ってきたら家族みんなでご飯を食べに行ったり買い物をしに行ったりした。
 本当に楽しかった。そして…………悲しかった。


 そんな日が続いたある夜。俺はあゆの部屋の扉を叩いていた。
 ドアから出てきたあゆの顔は、複雑で……泣いてるのか嬉しいのか悲しいのか楽しいのか、わからなかった。
「で、こんな夜中に何の用かな?」
「明日……学校に来てほしいんだ」
 俺の言葉に、ビクリッと体が反応したのがわかった。
「で、でも学校ってまだ始まってないし、それにボクだけじゃなくて名雪さんも……」
「俺とあゆだけの学校に、来てほしいんだ」
 あゆが逃げの言葉を言い切る前に、ハッキリとそう言った。
「じゃ、それだけだから……あゆ、お休み」
 今の自分が出来る精一杯の笑顔であゆにそう言う。

「祐一君っ!」
「……なんだ?」
 あゆの言葉に背中で反応する。
「祐一君も……お休み」
「……ああ、お休み。また明日な」
 今までを詰め込んだその言葉の意味を、たぶんあゆはもう気づいてるんだろうと思う。俺は振り返ることなく、その扉を閉めた。


「名雪、起きてるか?」
「祐一? どうしたの」
「ちょっと話があるんだけど……いいか?」
「えっ!? ちょ、ちょっとまってね」
 ドタドタ、ッと扉の向こうでせわしない物音が聞こえてくる。俺は名雪のそんな様子を想像して口に手を当てて吹き出していた。
「い、いいよ。祐一」
 しばらくあって、少し息を切らした名雪が扉を開け顔を出してくる。
「そうか、じゃあ俺の部屋に来てくれ」
 ズルッ! っと、名雪がずっこけそうになるのを俺は確かに見た。
「っていうのは、嘘でって……あの名雪さん、怒ってます?」
 何かしら名雪の後ろから黒いオーラが湧き出て眼が光って見えるのは多分気のせいだろう。いや気のせいであってくれ。
「で、何なの祐一、話って!」
 あからさまに不機嫌になっていた。
「いや、これを返そうと思ってな」
 苦笑しながらそれを名雪に手渡す。
「え? これ……どうしたの?」
 名雪に渡したのは初日にあゆから譲り受けた名雪の声入り目覚まし。
「まぁ、俺はもう使わないからな」
「……えっ?」
 それは本音であり事実。もうこの家に帰ってくることはない。と、確信したからだ。
「じゃあな、名雪。明日も…これからもがんばれよ」
 俺はそれだけ言って、名雪に背中を向けて去っていく。たぶん名雪の顔は疑問符だらけだろうけど、明日になれば分かると思うし、それに面と向かってお別れの言葉って言うのが多分俺には出来ない。だから俺はその目覚ましに激励の言葉こめて寄越したのだから……


 名雪の部屋からその足でリビングに降りていくと、やはりというかなんと言うか、やっぱり秋子さんがいた。
「秋子さん」
「あら、祐一さん。眠れないんですか? よろしかったらココアでもどうぞ」
 と、優しい笑顔で迎えてくれる。『はい、頂きます』と、好意に甘えてリビングに座り、秋子さんが持ってきた暖かいココアを飲み始めて数分が過ぎようとしたころに、
「明日……ですか?」
 唐突にそんな言葉をかけてきた。
「………………はい」
 一呼吸、二呼吸、飲み込んでからの返答。秋子さんはお袋に電話をかけて時点で……いや、そんなときよりもっと前に知っているはずなんだ。なぜなら……
「ごめんなさい」
 と、秋子さんがいきなり謝罪の言葉を発した。
「え?」
「わたしは知っていながら、娘たちの幸せそうな顔や楽しそうな顔の為に、ずっと黙っていました」
 その謝罪は、多分俺が来てからの話だけではなく、きっと……
「知っていたって……なにをですか?」
 それを知りながらも俺はその答えを欲してしまっていた。それを確信するために。

「……祐一さんが……」


「……七年前にこの街で、死んだ。という事をです」


 ああ、やっぱりそうか。と、本当に他人事のように納得してしまう。それに気がつき始めたのが、学校という言葉を訊いた時。そしてこの街以外の記憶を思い出せなかったとき。……何のことはない思い出せなかったのではなく、そもそも想い出がなったからだったんだ。

「あゆちゃんの口から、祐一さんの名前が出てきたときは本当に驚きました。あゆちゃんも名雪もあの日の後のことは知らないはずでしたから。だからもしかしたらとも思って姉さんにすぐ電話したんですけど……」
 と言って俯いたまま、言葉をつなげない秋子さん。秋子さんから出てきたあの日という言葉。俺が死んだ日のことだろう。俺も覚えている。いや、思い出したんだ。その場所にたどり着いた時に。






「祐一君、遅刻だよっ」
 人が来ないような山の一番奥。樹齢何千年とも言われそうなその巨大な大木の前。少年の頭の上から聞こえてきた声。危ないから降りろと制した自分。その言葉が少女に届く前に吹いてきた強い風。そして、その風で枝がかしいだ。落ちる少女。そして……それをどうにかしようと少女に向かった少年。結果だけで言うと少女は助かった。だけど落ちてくる少女を庇った少年は。
「あ…ゆ……、だいじょうぶか…?」
「祐一君! 祐一君!!」
「は…はは……、大丈夫そうだな」
 少年は少女の無事な姿を確認すると、ホッとした。手が動かないから渡そうと思っていた少女へのプレゼントにも手が届かない。
「あれ……プレゼント。あゆに……」
「祐一君!! しっかりしてっ!」
 少女の声が次第に聞こえなくなってきた少年は、最後の力を絞ってこう呟いた。
「あゆ……人形、最後の願い…なんだ?」
「そ、そんなの決まってるよ! ボクの最後の願いは……」




 元気な祐一君と遊びたい




 少年にその言葉が伝わったかどうかは分からず、願いをかなえるための人形もその手には無く、少女に残されたのは少年がプレゼントするはずだった赤いカチューシャだけだった。





 あの森に着いた時、あの大木は無く、その代わりに人によって伐られたのであろう大きな切り株と、その切り株に添えられた花束だった。
「あの花は秋子さんが添えてくれているものなんですね」
 確証は無いけどそんな気がした。否定しないところを見るとそういうことなんだろう。
 その後のことは大体想像が出来た。名雪にもあゆにも俺の事を話さず、この七年間ずっと黙っていたに違いない。いるはずのない俺がこの家に来たときに秋子さんはこういった。いつまで居られるんですか? と。
「あゆとの約束なんですよ」
「……えっ」
「元気な俺と遊びたいって……」
 そう。俺の存在意義。それは多分もう果たされたんだろう。約束は長い年月を越してだが叶えられたと思う。そうするとなるとその願いのカタチも消える。しかもこれは『最後の願い』なのだから、続くこと無い。
「だから、明日……っと、もう今日ですね。今日で終わるんだと思います」
 壁に掛けられた時計を見ながら、第三者のように秋子さんに話す。七年前と同じ日。好きだった少女の誕生日に俺はまたその子を泣かせてしまうんだろうか?
 それでも、忘れることは出来るから。密かにある想いを断ち切ることも出来るから。未来に向かう少女たちに過去から開放されるのなら、これほど死んだ人間として嬉しいことは無いんじゃないのか?

「祐一さんは……それでいいんですか?」
 心の内まで読まれたかのような質問。俺はそれに迷いも無くこう答えた。


「はい。勿論です。でも時々は皆でおまいりに来てほしいかなとは思います」
 と、笑いながらそう答えた。

「じゃあ秋子さん。もう夜も深いのでそろそろ寝ますね。今まで本当にありがとうございました」
 今までの思いを込めて礼をする。

「はい、祐一さん……おやすみなさい」
 初めて見るその人の涙と、精一杯誠意のこもったその言葉は決して忘れることは出来ないだろう。






 最後に彼女たちに会えた事を天使に感謝しながら、俺は与えられた最期の日を生きて行こうと思う。その結果が彼女たちを悲しませることになろうとも、きっとそて過去をバネにしてもっと幸せな未来を歩んでいけると信じて……






























『おい、名雪。朝だぞ、起きろ』
「うにゅ? 祐一?」
 名雪は突然耳にはいった聞きなれた声に反応した。そして重い瞼を少しだけ開け、声のした方を見てみたがそこに声を発したと思われる人物の姿は無い。
『早く起きて準備しないと、学校に遅れちまうぞ』
 声の主の姿は見えないが確かに名雪の視点のどこからか続くように祐一の声が聞こえる。
「ん、あれ?」
『今日も一日元気に頑張れよ。俺はずっと応援してるからな』
 声のするものを掴む。それは名雪が昨日の夜に祐一から返された目覚まし時計だった。自分の声が録音されているはずのその機械はいとこの声をリピートする。
『おい、名雪。朝だぞ。起き…』
 ジリリリリリッ!! と、その声は一斉に鳴り出したほかの目覚まし時計の音にかき消される。名雪はあわてて、後から鳴り出した機械たちの消音に勤め、しばらくして、元のいとこの話す声だけが部屋に戻ってくる。
「そっか……祐一。中身変えちゃったんだ」
 あれだけ、辞めてと言っていたのだ。憤怒が沸き起こってきてもおかしくないのだけど、わざわざ内容を変えたものを返してきたのだ。祐一が意味無くそんな事をするとは到底思えないし、何より、その声が私の名前を呼んでいるのだ。嬉しさがこみ上げて来ることはあっても、怒りがわいてでてくることは無かった。
 何度目かのリピートの後、名雪はスイッチを切りいつもよりほんの少しだけ早い朝食と声の主に、何故こんな事をしたのかを訊くために部屋を出た。
「あれ、おかあさん。祐一とあゆちゃんは?」
 リビングにはいつも居た筈の二人の姿が無い。いくら早く起きたといってもほんの一、二分の世界である。通常ならここで二人仲良く朝食を食べているはずだ。
「おはよう、名雪。あゆちゃんならまだ部屋で寝てると思います。祐一さんは……用事があるといって朝早く出かけていったようですよ」
「ふーん、そうなんだ」
 祐一の事を話す母の微妙な表情の変化に気がつかずに、名雪は少し早い朝食を摂ることにした。

「それで祐一がね、私のお気に入りの目覚ましのメッセージを勝手に書き換えちゃったんだよ」
 本当に久しぶりの親子だけの朝食。その席で名雪は今朝起こった事を母に語散る。
「祐一さんが?」
「そうなんだよ。学校に遅れるぞ〜、とか今日も一日頑張ろう! とか、入ってたんだよ」
 喜んでいるようにも怒っているようにも聞こえる声で名雪は続ける。
「そうですか、祐一さんが……。名雪、その目覚ましは大切にしないといけないわよ」
 と、母があまり見せたことの無い真剣な顔でそんな事を言った。
「なに、おかあさん? 勿論だよ。大切に使ってるよ〜」
 今までも使っていたものをそんな風に言われるとは思ってもいなかった名雪は、訝しげながらも承諾する。この母の言葉の意味するところを名雪が知るのはこの日から数日後であった。



















「祐一君」
 彼女が約束の場所に来たのは、もう日も傾き、空がオレンジ色を放っていた時間だった。
「よっ、あゆ。おはよう」
「おはよう、祐一君」
 祐一がその切り株に腰を掛けて、昇っていく朝日を、沈んでいく夕日を眺めてどれぐらいの時間が経ったのだろう。それだけの間、彼はここで待っていたのだろう。
「遅いぞ、あゆ。待ちくたびれちまった」
「ごめんよ、祐一君」
 笑顔で迎える祐一と、笑顔で応えるあゆ。
「俺は約束を守れたのかな?」
 空に向かって呟く。
「もう……会えないのかな?」
 祐一の言葉と仕草に声が震えながらも、それでも精一杯声を振り絞り声を掛ける。
「俺はもう最後の願いをかなえたからな……お別れだ」
 その言葉は祐一にとってそれが全てだった。あの日最後の際で聞こえたであろう大切な人との約束を守るために、その願いをかなえるために少年はここに存在していたのだから。

「でも、ボクはまだ最後の願いを聞いてもらってないよ!」
 と、自分の存在理由を覆されたような一言。
「……えっ?」
「ほらっ、これ」
 そう言いながらあゆの差し出した両手にあったのは天使の人形だった。
「今日、朝からずっとこの辺りで探したんだよっ!」
 あゆの手は良く見ると土と滲む血の色でボロボロだった。
「あの時ボクはこの人形を持っていなかったから……だから」
 願いは叶えられなかったんだよ……だから祐一君はボクの目の前からいなくなっちゃったんだよ。と、そう繋げた。
「…………」
 だからまだ三つ目の願いはまだこの手の中にあるよ、とあゆは無言で主張する。
「それにボクはあの時こう願ったんだもん! 祐一君、死んじゃ嫌だよっ!!!……って」
 あゆが想いのこもった叫びをあげる。それは七年前の祐一に対する謝罪と、あゆ自身がその事を忘れていたことの懺悔のように聞こえた。
「違う! あゆを庇ったのは俺がそうしたかったからであゆの所為じゃない」
 そう。それは本当の祐一の気持ちだ。大切な人の為に何か出来たのならそれは本当に嬉しい。だからそれを気に病まれるのは本当に心苦しい。 罪という名の追憶の罰とは上手く言ったものだ覚えていることこそが苦痛となるのだろう。だから単純にあの時の事を忘れていてくれたのは良かったと思う。それにまたこうして巡り逢えたんだ。その奇蹟に感謝しないといけないぐらいだろう。
 だから祐一は、その願いという名の謝罪を否定しなければならないと思った。

「それは詭弁なんだ、あゆ」
 それが本当でまだ願いは残っていて、あゆの最後の願いがそうだとしたら、俺はこのままこの街に居てもいいんだ、と祐一は一瞬だが本気で思ってしまったほどだ。
 だけど、たとえその事実が本当でも結末は変わることは無い。俺が叶えてあげたいと思っていたことと、あゆが願った最後の願いが違うのだから……

「俺が守ろうとした約束と、あゆの願ったものとは違うから」
 その俺があの時守りたいと思った約束を、叶えるためだけに、ここに存在してたのだから。
「だから……もうお別れなんだ。出来ることなら俺のことは過去の想い出にしてほしい」
 と、自ら死刑宣告をした。

「嫌だよっ! そんなの絶対嫌だよっ!!」
 少女の泣き叫ぶ声どうすることも出来ず、それでも少女のために祐一は自分が出来る精一杯の言葉を投げ掛けた。
「俺の願いは……俺の最期の願いは、あゆやあゆの周りの皆が幸せになることだ」
 と、笑顔でそう言い放ち、少年の姿は霧のように消えてしまった。










































 それは舞い散る桜のような物語だった。散った花びらはそれを見た人の心に切なさと郷愁を残し、次の世代に想いを馳せる。残された人はその過去(はな)を心に留めながらも、同じ場所に咲く前とは違う未来(はな)に目を心を移していくだろう。
 少女の手には今もなお、天使の人形が握られている事を除けばだが。少女は今でもいつか消えたその花がまた自分の目の前に咲く事を信じながら今日という日を歩いている。




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