--Track 1 [00:42] /Overture

 蝉が鳴く。
 じりじりとした陽光が肌を焦がす。
 あ゛ー、と唸った。
 唸っただけ、余計に暑くなったような気がした。
 ジュースの缶を放り投げる。
 弧を描いた缶は、ゴミ箱の縁に当たって落ちた。
 でも、拾う気力なんてなかった。
「あぢぃー」
 呟いた。
 夏の始め、俺が初めて夏だと感じたこの日、たった一人で公園のベンチに腰掛けて。
 蝉が一層騒ぎ出す。
 その声にうるせーとだけ叫んで。

 こうして、俺の夏は始まった。





いつかの夏に、届くよに。







--Track 2 [03:18] /Ayu Tsukimiya

 祐一君と喧嘩した。喧嘩なのかどうかもよくわからない。原因もなんだったのか、よく思い出せない。そのくらい些細な出来事だったような気がする。でも、それだけで何だか街がぼやけていた。迷い込んだ商店街のお店が紙で出来ているように見える。人はハリボテ。この分だと列車はブリキかもしれない。祐一君と話そうと思った。けれど何を話せばいいのか、何も思いつかなかった。
 コンビニでお菓子を買っていこうと思った。決して時間を稼ぐためじゃなくて、ただ何となく口が寂しかった。いくつかカゴに入れた後、ガムとキャンディで迷う。シュガーレスは邪道だと思うし、キシリトールという言葉は辞書に載っていなかった。ブルーベリーガム(形状:板)に手が伸びる。ただし、それは虫歯との戦いの火蓋が切って落とされる瞬間でもある。天秤は決して釣り合わず、いつも優先されるのは目先の快楽でしかないのかもしれない。背筋が凍り付くような、あの高音が響いたような気がした。思わず身震いする。難しいことを考えると、頭がどうにかなってしまうのだろう。慌てて頭を振り、店内に流れる有線に耳を傾けながら雑誌コーナーの前を通ってレジに向かう。ふと外の方を見ると、窓に映っているはずの自分の身体が何故かとっても小さくなっていることに気付いた。巨大な少年ジャンプに驚いて飛び跳ねる。どこかでこんな童話を読んだことがある。トンネルを抜けたら、そこは小人の国だった。ドラえもんだったかもしれない。そんなことに思いを馳せている暇もなく、トイレの奥からネズミが出てくる。衛生兵、衛生兵ー。わらわらわらわら……。警報が鳴り響く。このままだと囲まれそうだった。こ、来ないでよっ! 背中を向けた瞬間、ネズミAにリュックごと身体を抱え込まれる。わっしょい、わっしょい。胴上げされた。わしょーい、わしょーい。蛍光灯の眩い白と雑誌の雑色と少女漫画タッチのネズミに酔いそうになる。五回ほど宙を舞って、どすんとお尻から乱暴に落とされる。ちゅーちゅーちゅーちゅー。鳴き出すネズミABCDEF……きりがない。
「ちゅ、ちゅーちゅー!(や、やめてよおまいさん! に似たネイティブなネズミ語)」
 一瞬だけ、時間が止まったかに思えた。が、それはただの四分休符で、ボクはあっという間に持っていたお菓子をネズミ達に盗られてしまった。無言だった。顔が本気で怒っていた。ネズミの言葉には自信があったのに。TPOの嘘つき。お尻をさすりながら、土煙を上げて走り出したネズミの群を追う。羽リュックの効果か、途中からビーダッシュで飛べた。ふぁみりーなこんぴゅーたのバックグラウンドミウジックが流れる。ちゃらっちゃっちゃらちゃっ、ちゃっ。ちゃっちゃっちゃっちゃっちゃっちゃっちゃちゃ、ちゃちゃちゃちゃちゃちゃちゃちゃちゃらん。ネズミの姿を捕らえようと高く高く飛ぶと、チョコレートが見えた。カゴに入れる。ガムもあった。カゴにいれる。グミもあった。カゴに入れる。ドロップもあった。カゴに入れる。ネズミのことが頭から消え失せていた。カゴに入れる。
 いつの間にかレジの前だった。店員がのっぺりした顔で言う。
「暖めますか」
「い」「二十秒コースと三十秒コースがありますが」
「そ」「かしこまりました」
 ぴっぴっ。ぶーん。うぐぅ。電子レンジサイズの夕焼けに焼かれるお菓子達。商品と一緒にお釣りを貰う。その中から二円だけ募金箱に入れてお店を出た。
 しばらくあてもないまま商店街を歩く。ビニール袋の中からお菓子を一つ取りだす。ハイチュウ。あったかくはなかった。封を開けて口に放り込む。夏季限定スイカ味。あんまり美味しくないなあ。誰かに偶然会った時は分けてあげようと思った。遠くの遠く、蜃気楼のような祐一君の背中が見える。アイラーヴュー。コンビニで流れていたミスチルの歌を口の中で口ずさむ。手にべったりと汗をかいていた。服で拭ってから駆ける。

 もう、震える手なんか、どこにもなかった。





--Track 3 [03:99] /Mishio Amano

 日差しと蝉時雨が空から絶え間なく降り注いでいた。耳をつんざく蝉の、メスを呼ぶ儚くも極上のコーラス。だからだろうか。風に揺られ消え入りそうに泣く風鈴を彼らが揺らしているのだと錯覚しそうになる。
 庇から顔を出すとあまりの眩しさを目を開けていられないほどの快晴。けれど熱くはない。それは多分懸命な彼らのコーラスが熱ささえも切り裂いているから。
「風情がありますね」
「そうだな」
「何をしているんです?」
 そう言って天野さんは怪訝そうな視線を相沢に送る。
「何って、水浴びさ。天野もやるか?」
 最初から用意していたのか相沢は海パンを着用していた。草履をつっかけ、冷たい井戸水をじゃこじゃこ汲み上げたさきから言葉の通り頭から浴びている。大げさにかぶりを振り手で太陽を遮り空を見上げる。
「結構です」
「そうか。気持ちいいのにな」
 そこまで言って相沢は天野さんが手にした盆に気付いたようだった。
「蝉に風鈴にすいか、ね。やるな」
「やるな、といわれてもわかりません」
「好感度アップってことさ」
 天野さんはそっと視線を外して、風邪ひきますよ、とだけ言った。
 相沢は手櫛でわしゃわしゃと水分を飛ばしたあと「すぐに乾くさ」と言った。どうやらバスタオルは忘れたらしかった。天野さんは無言で部屋から扇風機を持ってきてスイッチの強ボタンを押した。首振りを解除して濡れタオルをかける。夏場に一陣の冷風が相沢を直撃する。相沢は身震いした。
「わ、わかったわかった。バスタオル忘れたんだ。そこに掛かってるやつ貸してくれたらすぐにでも拭くからっ」
 天野さんは無言で扇風機を切ってから「そ、え、あの」と言葉を濁した。
「それ食っていいのか?」
 返事も待たず相沢はピンクのバスタオルで頭を拭きつつすいかにかぶりついた。器用ではあるがこの男にデリカシーを求めるのは無理だろう。けれど天野さんはさして嫌な顔をしなかった。少し赤くはあったが。
「げふっ」
 むせた。口から涎が糸をひき大小さまざまな赤い欠片が吹き飛んだ。これはさすがに下品にすぎると思ったのか苦々しい表情にかわった。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ。それより天野?」
「はい」
「これ、塩かかってる?」と相沢はわかりきったことを聞いた。出来が最悪だったとわかっているのに自分の合格の可能性を捨てきれず掲示板を眺める受験生のような表情だった。
「はい。荒塩です。足りませんでしたか?」
「……いや、いい」やっぱりなかったか、いや、最初からわかってたけどね、といった風な表情で盆の上の山となったすいかをみた。
 それだけいうと相沢は豪快にすいかを口に含み、食べ終わった後に種を飛ばし始めた。どうやら口の中で種だけ分けていたらしい。器用ではあるが、行動は下品に過ぎた。
 20個ほど相沢は種を飛ばした。飛距離を稼ごうと体が弓なり始めた。天野さんはなにもいわなかった。小さな口で少しずつすいかを削っていた。
 21。
 22。
 23。
 24でついに種は生垣を越え、相沢は満足そうに天野さんの隣に座った。濡れないように、ひとり分の隙間をあけて。

 いくらかの時間がたった。相変わらず蝉は鳴いているが強かった日差しには赤い翳りが見えた。もとよりそれほど気温は上がらなかったのか、それとも相沢の派手は打ち水のおかげか、それほど暑くはならなかった。気持ちのいい風がふたりの髪を揺らす。
 相沢は薄いTシャツにジーンズという来たときの服に着替え、肩にタオルをかけてすいかをかじっていた。綺麗に白いヘタだけを残して口元の汁を拭い相沢が今気付いたとばかりに口を開く。
「タオル、いい匂いがするな。なんて洗剤?」
「ふ、普通の洗剤です」
「そうか」
「はい」
 夕日のせいもあって、天野さんの頬はかなり赤く見えた。赤い頬でちらりちらりと相沢を見ている。視線の先で相沢は井戸をじゃこじゃこやって、Tシャツを豪快に濡らしながらうがいをしている。気付いた様子もない。
 うがいの終った相沢はまた天野さんからひとり分あけた位置にもどり、さてと口にだしてすいかに手を伸ばした。その手を天野さんが遮る。
「すみません」
「ん?」
「これだけは残していてください」
「ん? ああ。食べるか?」
「いえ。今日は、あの子が帰ってくるかもしれませんから」
 相沢は少しの間目を伏せた天野さんを見ていたが、すぐにそうだな、と庭へと視線を投げた。
「場所はここでいいのか?」
 天野さんは頷く。ここですいかを食べたり、花火をしたり、水浴びをしたり、色々なことをしたのだ。私はいつもここに座って、あの子は、とちょうどひとり分あいたスペースに手を置いた。
「そうか」と相沢も同じようにした。
「あい…ざわさん?」
「会いたいか? その子に」
 会いたいです、と天野さんは言った。手はしっかりと繋がっている。
「来るといいな、ここに」
「はい」
 帰る僕の定位置は、今そこで一番暖かい場所。






--Track 4 [08:12] /Shiori Misaka

 きみは、スイカオバケを知っているか?

   /

 別に大した話じゃない。そう身構えずに聞いてほしいんだ。
 さて、どこから話そうか。そうだな、昔1人の男がいたんだ。よくある話だけど、彼は死ぬべき運命にあった。だから、地獄から何度も使者が来たんだけど、彼はそれが訪れるたびに機転を利かせて追い払ったんだ。え、どうやって追い払ったかって? その辺は俺もよく憶えてないんだけど、火を使ったり、塩壷の中に閉じ込めたり……まあ色々さ。死神たちを罠にはめて、助ける代わりに自分の命を取らないことを約束させた。欲深かったのは人間の方だったんだろうな。最初は5年、10年と延ばしていって、最後には完全に自分の命を取らないことを、死神に約束させたんだよ。
 だからこそ、死ぬべき運命だった彼は、その運命以上に生きることができた。本当にその時代には珍しいくらいの長寿だったらしい。けど、それでも、人は永遠には生きられない。余命以上の人生をまっとうして、彼は死んでしまった。
 で、これからが本番なんだ。彼は死んでしまった後、地獄へと旅立っていった。そりゃそうだろ。散々死神の連中を騙してきたんだ。天国なんかいける訳がない。いや、最初は行こうとしたんだけど、そのことが知れて門前払いを食らっちまったんだ。
 だから、嫌々ながら地獄の門へ向かった。地獄の門は随分と不気味でオドロオドロしい構えをしていたけれど、彼はそれよりも門の前にいた人を見てぎょっとした。そこにいたのは、あの時追い返した死神だったんだ。
 一つ思い出してほしいのは、死神は彼の命を取らないことを約束していたこと。その約束を死神は守った。つまり、結局通れなかったんだよ、彼は。天国も、地獄の門すらもな。
 それでも諦めきれない男は必死になって考えたよ。死神に門を開けてもらう方法をさ。
 そこで一つだけ思いついた。男は死神にこう言ったんだ。“帰り道が暗くて帰れない”ってな。きっとそうすれば、何か灯りを取りに死神は門を開けるだろう。そうしたら、そのまま中に無理にでも入ってやるって、そう思ってたんだ。
 けど、死神は門を開けなかった。その場に落ちていたものを刳り貫いて、その中に蝋燭を入れて灯りを作ったんだ。刳り貫いた隙間から漏れた光はまるで人が笑っているようでさ、男は悔しくて仕方なかった。
 死神は、最後の最後で仕返しをしたんだよ。“これで帰れるだろう?”っていう死神の声は、確かに笑っていたんだから。
 で、もうわかってると思うんだけど、その時に刳り貫いたものって言うのがこれさ。

   /

 水瀬家を出る。扉の向こうは生温い空気の壁。この地方には珍しい熱帯夜。外はもうすっかり日も暮れているけれど、朝から空を覆っていた厚い雲に邪魔されて、月の光さえ見えない。
 撫でるように首筋を這う風に身を縮ませる。ブルッと体が震えて、そして不覚にも、もう彼方へと追いやった筈の彼の声が蘇るように脳漿に響いた。
 ――もしスイカオバケが現れたら、その時は。
 怖くなんかない。そう自分に必死に言い聞かせて、暗がりを中をおっかなびっくり歩いた。水瀬家から自宅への、何度も通ったはずの、何度も見たことのある道を、私は早足で駆けていく。
 怖くない。呪文のように何度も何度も呟いて。
 街灯が瞬くように点滅している。
 空は、相変わらず一点の光さえ見えない。

 気が付いた時には蟲の声さえ消えていた。現実が遠のいていくのを肌で感じる。まるで、世界中に私しかいないような幻惑に囚われて、私は思わずぎゅっと体を抱くように縮めた。
 オバケなんているはずないです。そんなオカルト信じてるなんて、祐一さんもなんだかんだ言ってまだまだ子供なんですねー、と。
 心底自分を怖がらせてくれた祐一さんに対して投げかけた言葉を反芻する。
 オバケなんて信じてなかった。
 それは死ぬ寸前まで弱りきっていたことがある自分の持っていた確信だった。
 だから、背後から聞こえた足音に、飛びのくように振り返った自分に少しだけ笑った。
 あはは――。
 笑い声は反響して消える。それでも鳴り止まない足音。
 心臓の鼓動がいつもよりずっと大きく聞こえた。振り返ったままの態勢で、私は大きく深呼吸する。
 そして、私は歩き出した。いつまでも聞こえてくる足音を背に、少しずつ歩みを速めて。
 ふと、ずっと聞こえていた足音がやんだような気がした。ほっと胸を撫で下ろして、私は安堵の息をつく。
 ゴトン。と何かが足に当たったのに気づいた。
 激しく点滅する街灯の下で、私は叫んだ。走り出した私を追いかけるように、消えたはずの足音も再び鳴り始める。
 やまない足音を背に、私は先ほどの光景を思い出していた。
 拒んでも、拒んでも、脳裏に焼きついて消えないそれ。
 笑っていた。見るからに美味しそうな大きな丸いスイカは、真っ赤な口を歪めて確かに笑っていたのだ。

   /

 祐一さんは言った。「今も彼の魂は現世を彷徨っているんだ」
 そして、おどけた顔を少しだけ引き締めて、こう続けた。

 ――だから、もしスイカオバケが現れたら、その時は――

   /

 足音は続いていた。自分の靴が地面を蹴る音と、自分の履く靴とは随分と不釣合いな、カツンという硬質な足音。
 汗でベッタリと纏わり付く髪を乱暴に掻き分けて、私は必死に走った。
 怖くて足が竦んでしまいそうだった。息が詰まって、倒れ込んでしまいそうだった。
 それでも、立ち止まる方がずっとずっと怖かった。
 足音は途絶えない。ゆっくりと、でも確かに近づいてきているのを感じる。休みたがる足を無理矢理前へ出して、躓きそうになっても必死に体を起こす。
 大丈夫。もうすぐ。
 ずっと付き纏っていた足音がほんの少しだけ弱まったような気がした。けれど、立ち止まったりなんかできない。大きく息を吸って、最後の力を振り絞る。
 もうすぐ私の家だ。きっと、お姉ちゃんが。
 お姉ちゃんが助けてくれる。

 玄関のドアを潜ると、もう足音は聞こえなくなっていた。私は急いで鍵をかけて、そのままその場にへたり込んだ。
 家の中は不気味なくらい静かだった。みんな出掛けているのだろうか。家中の電気が消されている。
 いや、違う。ただ一つ。玄関からすぐ近くにあるリビングのドアから微かに光が漏れていた。そして、自分の帰りに気付いたのだろうか。床が軋む音が微かに響いて。
「お姉ちゃん?」と呟いて、私は言葉を失った。
 リビングの灯りが唐突に途絶える。ぎぃっと開いた扉からは、顔が覗いていた。
 そして、笑っていた。目と鼻と、歪んだ口から光が漏れている。
「こ、怖くないです!」と私は思わず叫んだ。
「こちとら死の淵から這い上がった人間ですよ! オバケの一匹や二匹ナンボのもんじゃあ、です!」
 クスクスと笑い声が聞こえる。強がってはいたけど、近づいてくるスイカオバケを前に小さく悲鳴が漏れる。視界が滲む。怖くて、必死になって後退りながら、それでも叫んだ。
「や、やりますかっ!? だったら勝負です! 私の必殺技が当たったらオバケなんて一発です!」
 だから、逃げるなら今の内ですよ、なんて。
 そう叫んで、震える手を前へと突き出した時、唐突に電気がついた。
 あれ、と思わず呆ける。そこにはまるでハロウィンのかぼちゃのように刳り貫いた大きなスイカのちょうちんと。
 してやったり、とニヤニヤしている祐一さんと微笑んでるお姉ちゃんの姿が。
「えーと」と状況確認。間違いない。お姉ちゃんまで、信じられない。
 祐一さんはゆっくりと背中から何かを取り出した。“ドッキリ大成功☆”なんて書かれた札を見て。
 私が正気でいられる訳なんかなかった。
「ゆういちさぁああああん!!!!」
「うわははははははっ!!!」

   /

 悔しいけど甘い。
 そう呟いた私に祐一さんは笑った。

 あの後、散々不貞腐れた私を待っていたのは祐一さんが持ってきた大きくて甘いスイカ。
 どうやら届けてくれたらしいそれをお姉ちゃんが切って出してくれた時、私はフンとそっぽを向いて、でもスイカの甘い香りには逆らえなかった。
 頬張った赤い実は本当に甘くて美味しい。
 けど、それでもやっぱり許す訳にはいかないのです。
「けど、ホントに怖かったんですからね」
 ゴメンゴメンと謝る祐一さん。なんか楽しそうなのが気に食わない。がぶっとスイカを口いっぱいに頬張る。
「けど、結構大変だったんだぜ?」
 祐一さんは笑いながらそう言う。そんな祐一さんなんか知りません、とばかりにぷーっと種を出して、もう一回口いっぱいに頬張る。
「何が大変だったって言うんですかっ」
 途中で追いかけてきたところとかだろうか。それとも、先回りして私を脅かしたところだろうか。
 そう言えば、とふと思う。
 祐一さんは、一体いつの間に私を追い越して、家の中に入ったんだろう、と。
「なんせ栞より先に着かなきゃ行けなかったからな。最短ルートを全力疾走。着いた時には息も絶え絶え」
 私はスイカを齧ったまま固まる。スイカから漏れた汁が、腕を伝っていくのを感じる。
「じゃあ、途中のは――」
「え?」
 珍しく暑い夜の話。纏わり付くような空気の中で、ぶるっと寒気が走る。
 外は暗く、何も見えない。誰もいない。
 じっと窓を見つめて。私は思い切りスイカに齧り付いた。
 
   /

 最初に言った言葉、覚えてるか?
 水瀬家を離れる前、祐一さんは手に取った大きなスイカをテーブルの上に転がしながら訊ねた。

 男はずっと探してるんだよ。扉を開けてくれる人をな。
 だから、比較的向こうと近い人を見つけると、彼はそいつを連れて門を通ろうとする。勿論、そんな簡単には通れないから、ずっとそれを繰り返してるんだそうだ。
 だから、気をつけろよ。もし、スイカオバケに会ったらすぐに逃げるんだ。なあに、お前なら大丈夫さ。きっと逃げられる。けど、知らなかったら逃げられないだろ?
 だから、俺は最初に訊いたんだ。
 きみは、スイカオバケを知っているか、ってな。





--Track 5 [02:77] /Mai Kawasumi

「祐一」
 昨日に続き異常気象で夏の最高気温を更新した、暑い夏の日のことだ。だからだろうか、舞が口を開いた。
「What?」
 俺は英語の勉強中だった。
「すいか割りがしたい」
 少し考えてからゆっくりと口を開いた。
「Do alone」
 悲しいが、ここは図書館なのだ。
 舞はやれやれ、と俺を馬鹿にするように首を振り、祐一、と諭すように続ける。
「すいか割りは、約束と一緒。ひとりじゃできない。わたしには、祐一が必要」
「それらしいことで丸めこめると思うなよ」
 ゆういち…としな垂れかかる甘い声。コイツ、こんな声も出せたのか、と軽く驚く。それよりもすいかの名を冠した胸が…すいかが……冷静に、冷静になるんだ相沢祐一。ここで欲望に身を任せたら後でもっと厳しくなるぞ。棒高跳びは棒を使って飛ぶのにどうしてすいか割りはすいかを割るんだr現実から目を逸らすな!
「すまないが舞、これが現実なんだ」
 できれば生涯一緒にいて欲しかった仲のよい腕とすいかを引き離し通知表を見せつける。舞の瞳が驚愕に見開かれる。そのことに俺の心はいたく傷つく。
「大丈夫祐一。わたしが、わたしが、なんとかする。祐一とは、いつも一緒」
 そういって舞は、赤いボールペンで英語の成績に9を付け足す。これで、英語の成績は93点になった。
「なるかぁ!」
 星一徹のように机をひっくり返したかったが図書館の机は重かった。司書さん無言の視線も重かった。これほどまでに自分の力のなさを呪ったことは今までにない。それでも舞は言うのだ。俺が司書さんに頭を下げているその横で。
「これが、そのすいか」
「でかっ! というか話聞けよ!」
「わたしが割るから、祐一にはすいかを置いてきてほしい」
 言うなり人の話も聞かず目隠しを始める舞。そこで勉強のため覚醒していた俺の頭脳は閃く。俺は言う。
「よし、ちょっと難しいところに置いてくる。なに、俺と舞なら大丈夫さ。一緒なら、ふたりなら、どんな難しいことも乗り越えていける。そうだな?」
 舞は頷き俺は図書館の中をぐるりと回ってから舞の元に戻る。
「よし行くぞ。最初はまっすぐだ」
 舞は頷き俺の指示に従う。
 ゆっくりと歩き、止まり、右に90度方向を変え、歩き、左に90度方向を変え、階段を下り、またゆっくりと歩いた。図書館に俺の声だけが響いた。
 自動扉をふたりでくぐり夏の日差しをまっすぐに受ける。艶やかな舞の黒髪が暑さも感じさせず芸術品のように揺れた。俺は手をあげタクシーを止めて行き先を伝える。
「そう、そこで一度止まるんだ。よし、大丈夫。乗ってくれ」
 扉が閉まってすぐにタクシーは出発した。その姿が見えなくなるまで俺は舞にごめんな、と謝罪の言葉を並べた。そうして振り向いた先には、俺の荷物と大きなすいかと厳ついガードマンの顔だけがあった。
 仕方なしに筆記用具を鞄に詰める。日差しが頭を焦がすかのように視線を投げかけた。俺の髪はそれをよしとするかのように受け入れ頭痛となって俺にそれを教えた。鞄を背負いすいかを両手で抱えると汗が鼻を伝ってアスファルトに染みを作った。汗の通り道がむず痒くあった。
 舞の言葉に間違いがひとつあったと俺は思う。すいか割りはひとりでもできるからだ。嘘かもしれない。だけど、少なくとも俺はそう思う。アスファルトを支点に飛び散ったすいかをかじりながらすいかが冷えていたことだけは幸いだったな、と思った。





--Track 6 [03:88] /Nayuki Minase & Makoto Sawatari

 祐一の部屋をノックしようとした時、ちょうど部屋の中から声が聞こえた。
 戸惑って、少しだけ手を離す。聞こえるのは祐一と真琴の声。物が落ちる音。何かが壊れる音。
 すぅ、と大きく息を吸って吐く。胸に手を当てて、覚悟完了。力いっぱい扉を開いた。
「何やってるの?」
 莞爾と微笑んで。その笑顔の先の光景はひどくいつも通り。ケンカしてる図をそのまま切り取ったみたいに。固まった二人。呆れるわたし。
「いい言っとくが、最初に手を出してきたのは真琴だからなっ」
「何言ってるのよ! 先に変なこと言ってきたのは祐一じゃないっ」
 祐一は真琴を指差して、真琴は祐一の方を向いて。そんな二人に近所迷惑だよ、なんて。そう言ってわたしはカーテンを開いた。お隣さんちは暗かった。どこかに出掛けているのだろうか。
 そこで、ゆっくりと振り返って、にらめっこしていた二人はこっちを見ていて、そして祐一が何かを持っている事に気がついた。
 それはスイカ。丸くて、大きくて、美味しそうなスイカ。

「で、なんでケンカなんかしてたの?」
 リビングに降りたわたしたち。大きなスイカを切りながら、相変わらずそっぽを向き合っている二人に問う。
 別になんてことない、なんて軽く笑う祐一に真琴は言う。「真琴の方が正しいもんね。祐一のばーかぁ」拳骨が舞う。「あぅ」一瞬涙目、だけど、すぐに眼差しを鋭くする。「名雪っ」 
「え?」とわたしは包丁を持つ手を止めた。まさか振られるとは思ってなかったからだけど、ちょっと驚く。
 なに? と聞き返すと、真琴は真剣な目をして。
「名雪はもちろんスイカには塩よね!?」
 なんの話をしているのかついていけないわたし。目を瞬かせて、けど、何か言う前に祐一。
「アホかっ。スイカは井戸水で冷やした後、その場で総天然色のままで食うのが一番だっ」
 塩なんぞ、邪道だ! 両手を広げて、高々と宣言。
「ばぁーかな祐一に教えてあげる。甘いのは塩をかけるともっと甘くなるの」
 そんなことも知らないなんて祐一はバカよね! なんて、鼻で笑った真琴に再び振る鉄拳。
 あぅ。
「なによなによっ。美汐が言ってたんだから、祐一なんかよりずっと正しいんだからぁ!」
「よりにもよって、発生源はアイツかよっ。悪いことは言わん、やめとけ、年寄り臭くなる」
「あ、今言ったこと美汐に言っちゃうんだ。美汐怒ると怖いんだからね」
「なっ。そそそんなことよりも今は名雪がどっちかってことが大事だろ」「あ、祐一ビビってるカッコ悪い」「名雪ぃ!」
 話についていけずにただ包丁を宙に遊ばせてたわたしに、再び視線が集まった。
 うーん。大体の話は掴めてきた。けど、一つだけ疑問がある。
「井戸ってどこにあるの?」
「決まってるだろ。掘る。既にポイントはダウジングで調べ済みだ」
 そう言えば、昼間暑いのに祐一はずっと庭でなにかしていた。
 本当に無駄なことに一生懸命になる人だと思う。
 そこがかわいいんだけど。
「名雪はやっぱ井戸だよな。塩なんてコイツ簀巻きにしてポイした後、清めの塩的使用で決定だよな」
「なに言ってんのよ! 名雪だって塩のばんのーさ知ってるわよね! 身体に必要だし、ずっと前は塩ってすごく高かったんだからぁ!」
「だったら、漬物になるまでふりかけてやるよ」「祐一ごと井戸に沈めるんだからぁ!」「毎日皿の代わりにスイカ数えてやる」「こ、怖くない! 怖くないんだからぁ!」
 ずっと続いている二人の応酬に、わたしは結局答えることなく溜息を漏らした。
 ストン、とスイカを切る。真っ赤に熟れた実とまるで花火みたいに散らばっている種。
 あ、そうだ。
「ね、祐一、真琴」
「なんだよっ」「なによっ」
 また戻ってきた視線。わたしはにっこり微笑んで、上を指差した。
「ベランダで食べようよ、ね」
 そんな私を見て、祐一と名雪は不思議そうに首を傾げた。

 わたしは祐一に用があって、祐一の部屋を訪れた時にちょうど二人の騒動に巻き込まれた。
 時計を見る。ちょうどいい時間。スイカを手に持ったまま、ベランダの柵に寄りかかる二人は少し不満そうにしている。
「で、なにがあるんだよ」と凭れたままの祐一にわたしは微笑みかける。「そろそろだよ」
 だから、まだ食べるのは待ってね、真琴。じっとスイカを見つめてる真琴は不満そうに唸る。あぅー。
 遠くから大きな音が聞こえて、空が急に明るくなった。わたしはぱくっとスイカを口に咥えて。
「やっぱり、その季節にしかできない食べ方が一番だと思うよ」

 赤、青、白。色とりどりの打ち上げ花火に照らされて、わたしたちは笑う。
 3人で食べたスイカはいつもよりずっとおいしくて、見上げた花火はいつもよりちょっと眩しくて。
 もぷー、と真琴が種を吐く。
 ドーン、と花火が綺麗に咲いた。





--Track 7 [02:29] /Sayuri Kurata

 麦わら帽子は風に飛ばされない。高い空は落ちてこない。アイスキャンディーは溶けない。蝉の声もしない。誰も邪魔をしようとしない、白昼の夢。限りなく透ける身体。
 緑の稲穂が腰の辺りまで成長していた。空気を吸い込む。土と草の匂いがして、そのまま地面に溶けこめそうだった。祖父の持つ田圃は無駄に広い。これだけ広いと維持していくのも大変だろうと他人事のように思う。事実、今それは単なる他人事でしかなかった。膝を抱えてその場にしゃがみ込む。ひとりぼっちのかくれんぼ。これがそんな他愛のない遊びだったなら、温かい手を持つ鬼が探してくれるのかもしれないけれど、たぶん神様は平等だから、決して鬼を作らない。天国も地獄も作らない。最近になって、佐祐理は神様を信じている。そんな佐祐理を信じていないからこそ、佐祐理はそれを信じることができる。空を見上げた。肌がチリチリする。紫外線は容赦なく降り注ぐけれど、SPFは40。呼吸も忘れて、しばらくそうしていた。流行りのメロディーとそうでないものを頭の中で歌う。意識も鼓動も、ここからいなくなるように。『もし感情が消えたその時には、歌でも歌うさ』と祐一さんが口ずさんでいた曲が流れ出した。曲名も知らないそのサビの途中で少し寂しくなる。Cメロに差し掛かると、佐祐理はやっぱり誰かに見つけて欲しくなっていた。そっと顔を上げる。そう。別にそれが、鬼でなくとも。佐祐理は立ち上がる。目を瞑って、慎重に一歩ずつ歩く。南か西か、東か北に。キャミソールが稲に引っ掛かる。脹ら脛がちくちくする。
 例えば目蓋の奥にはオモチャ箱があって、その中には大量の玩具が詰め込まれている。底には乳房があらわになった球体関節人形と、空気の抜けたスイカのビーチボールがだらしなく横たわっている。水鉄砲から撃ちだされるものが水だけとは限らないけれど、それはやっぱりただの水で、どれだけ引き金を引いても、あの目覚まし時計さえ、眠らせることが出来ないのだろう。時間は止まらない。ただ、忘れられない思い出だけがそこにある。何が言いたいのかって誰かが聞くけれど、なにも言いたくないだけだから、もう帰ろうと思った。帰ってあの人のために暖かいお茶を入れようと思った。有限の宇宙に飛び去った理性が、体温を下げ、光子と混ざって降り注ぐ。目を開いて、掴もうとした瞬間に、躓いて転んだ。思い切り鼻を打った。痛みで立ち上がれなくて、なんだかどうでもよくなって、笑った。そうなんだ。笑って欲しいから、笑うんだ。きっとそうに決まっている。きっと。
 また少し笑うための、また一つ、そんなことを確かめるための、安らかなる、行方不明。地面は冷たかった。頬が気持ちよかった。バルザックの呪文。あの顔が霞んで見えなくたって、五月蝿いくらいの蝉の声が、ようやく聞こえてくる。そんな予感がしていた。





--Track 8 [02:57] /Kaori Misaka

 ある夏の暑い日、相沢祐一は椅子に腰掛け机に足をかけただらしのない格好でビーカーからコーヒーを啜っていた。椅子の軋み以外空調の音も聞こえない。とても静かだ。相沢はもう一度椅子を鳴らしてポケットから煙草を取り出し、所在無さげに薄く汚れた白い壁を見つめる。部屋と同じような静かな顔をしていた。
 長い時間のあと、灰が床に落ちるのとほぼ同時に、不意に、
「あ、母乳でた」
 と言った。繰り返すが、四月一日ではない。相沢はまだ壁を見つめていた。
 しばらくそうしてからコーヒーをほんの少し残して飲み干し、短くなった煙草をそこに浸す。断末魔の叫びが消えるように火種は黒く消えた。その様子を余さず観察したのちビーカーを机に置いて立ち上がり口を開く。
「外に出たい。海に行きたい。すいか割りがしたい。縁側に座ってすいかが食べたい。川に行きたい。キャンプがしたい。肝試しがしたい。死ぬほど泳ぎたい。キャンプファイアーに俺の全てを込めたい。昔に、戻りたい」
 セリフは流麗だが目は死んだ魚のそれであった。
 やがてその瞳がひとつのドアを見つめる。金属のノブのついた壁と同色の白いドアである。そのドアの向こうには美坂香里がいる。瞳が僅かに揺れる。彼女はある日を境にかわってしまった。そのことがそうさせたのだろう。
 指を置き、少し力を入れる。ドアは音もなく開く。簡単なことだ。けれど、いや、だからこそ、相沢祐一はそれが容易にできない。物には決まった温度があって密閉された空間に放置しているとやがてその物質の持つ温度に変わる。感覚的にだが金属は冷たく木材は暖かいような気がする。ひんやりとした刺すような冷たさはそんな馬鹿げた妄想を抱かせる。
 やや自嘲するように頭を振り、ノブを暖めるかのようにしっかりと握り、彼女へと続くドアを開けた。

「あら、なに?」
 香里は冷蔵庫から取り出した赤く熟れたすいかをクワガタに与えていた。水瀬秋子にもらったすいかを与えていたら80mmに成長し金賞を受賞した45万円のクワガタの息子である。娘かもしれない。
 現実を見つめるなり相沢は鼻息荒く膝とつま先を床に平行にして座り込み声を荒げた。
「すいか! 俺にもウォータメロンプリーズ!」
「これでも食べてなさい」
 そう言って香里さんはスイカバーを相沢に投げてよこした。結露した水滴が袋についたままのそれは相沢の鼻っ面に当たり床で固い音を立てた。
 いくらかの時間相沢はそれを見つめていた――はずだ。彼の視線の先には、床と、それしかなかったから。その後亀の如き速度でそれを拾い上げ、親指の腹で水とも涙ともわからない液体を拭った。
 埃を払ってから両の親指と人差し指を使い包装を解き、無言で胃に収め始める。ヘタも種もおいしく食べられるだなんて、それはすいかとは呼べない。そう思うのは甘いものが苦手だからだろうかと相沢は考える。ベタついた指を交互にしゃぶり丁寧に棒に染み込んだ汁を舐めとってから袋に戻す。時間など戻らなくとも、男はいつになっても子供のままだ。
 相沢は、でも…とそっと呟く。
「人生は、甘い方がいいやな」
 香里さんは聞いていない。ただクワガタを見つめていた。





 鼓膜の奥の方にひっかかっていたのは黄色い花だった。姫しずかの花。目覚まし時計の音で、からんと落ちたその記憶は、朝の訪れと共に眠たい目を擦っている。あれからもう一ヶ月ほどたつ。休日を利用して収穫にいこう。そう思ってわたしはベッドを降りた。

--Track 9 [03:77] /Akiko Minase

 名雪は部活で早くに家を出ていた。真琴もぴろと一緒にどこかへ遊びにいってしまったらしい。いつもより少し遅い朝食を食べた後、俺は一人、リビングでニュースとワイドショーの中間のような番組をだらだらと見ていた。そこに秋子さんがやってくる。
「祐一さん」
「はい?」
「少し、手伝ってほしいことがあるんですけど」
「はあ……俺でよければ。重量系の買い出しですか? 米とか醤油とか一升瓶とか」
「実は」
「はい」
「いよいよ、収穫なんです」
「はい??」

 満足な説明もないまま、二人で家の裏手にある物置に向かう。お願いしますの言葉を合図に、必死の形相で開けた(勿論、俺一人で)重い扉の向こうで待っていたのは、長い間、冬眠していた自転車だった。
「うお……この家にチャリなんてあったんですね」
 秋子さんは自転車にうっすら積もった埃を雑巾で拭く。
「それじゃあ、行きましょうか」

 気付いたときには自転車を漕いでいた。
「祐一さん」
「な、なんですかあー?」
「がんばってー」
 荷台に、秋子さんを乗せて。
 無駄に照れていた。別に照れる必要はないのだが、なんだか無性に叫びだしたい気持ちだった。俺の二人乗りメイデンは、こうして秋子さんに奪われたのである。

「祐一さん、次の曲がり角、右にお願いします」
「は、はい?」
 風を切る音で声がよく聞こえない。
「次を右にー」
「らじゃー!」
 思い切り曲がる。ランナーズハイのようだった。疲れを知らなかった。どこまでも行けそうだった。白くなりそうだった。秋子さんが、俺の背中に強くしがみついていた。
 意識がそこに全て収束する。ドラマでも、漫画でも、古典芸能でもよかった。実は、途中から期待していた。時速三十キロメートル。今の俺は、原付にも負ける気がしない。

 ほどなくして目的地についた。どのくらいかかっただろうか。自転車から下りた俺は既にぐったりしていた。明日は筋肉痛も覚悟しないといけないな……。その場に倒れ込みたい気持ちを抑えて前を向く。目の前に広がった景色。そこは小さな畑だった。
 少し歩く。その間にようやく秋子さんから満足のいく説明を聞くことができた。
 ここは共同菜園だった。秋子さんと同じような主婦が集まって身体に優しい野菜作りに励む。が目標らしい。インストラクターみたいな人もいて(ボランティアに近いそうだが)結構本格的のようだ。最初にその人の所へ挨拶をしに行ったのだが、見た感じも話した感じもただの陽気なおっちゃんだった。

「はい。今日、収穫するのは、これです」
「おおー」
 俺は感嘆の声を挙げる。そこには網で吊り下げられたスイカだった。
「でもこれ、まだ小さくないですか?」
「これはこういう品種なんですよ」
 姫しずか、という聞き慣れない名前のスイカだった。いわゆる小玉スイカと呼ばれるものだ。秋子さんはおっちゃんに貰ったダンボールにスイカを詰めていく。俺はダンボールを持ちながら秋子さんの横顔ばかり見ていたが、その視線に気付いた秋子さんに首を傾げられると慌てて空に顔を背けた。太陽が七色だった。
 合計七個のスイカがダンボールに詰められる。意外と重かった。片手でぽんぽんと叩いてみる。いい音がするような気がした。
 帰りましょうか、と秋子さんが言った。

 もう一度おっちゃんに挨拶をして自転車が置いてある所に戻ると、何故かタイヤがパンクしていた。後輪が思いっきり画鋲を踏んでいた。何故画鋲なんだ……! 咄嗟に小学生の悪戯を疑う俺の馬鹿。秋子さんはそれを見て、あらあらと頬に手をあてていたが、あまり困った風でもない様子だった。
「歩いて帰りましょうか」
「マジですか」
「のんびりと。ね?」
「はあ……」
 仕方なく俺は秋子さんと並んで歩き出す。ダンボールは荷台にくくりつけた。よく考えたら、あのおっちゃんにでも救難信号を出せばいいんじゃないかと思ったけれど、それはしなかった。
 自転車を引いて、歩く。沈黙が降りてきていた。疲労からかもしれない。何故か歩幅は短かった。
「スイカ、美味しいといいですね」
 俺はぽつりとそんな言葉を漏らす。秋子さんはただ、たおやかに笑っていた。早く自転車屋に着くといいと思っていたのに、今はこのまま、どこにも帰りたくなかった。チェーンとスポークの音が微かに流れている。小さなスイカが、寄り添って揺れている。






























--Track 68[07:50] /Bonus Track

「暇じゃね?」
 と見るでもなくつけていたテレビを消しながら北川が言った。タモリの声が聞こえなくなった。
「暇」続きが11冊のったテーブルに漫画を置きながら俺も言った。身を乗り出して北川は言う。
「じゃあ、旅に出ようぜ」
 そういうことになった。

 着替えをリュックに詰めて自転車にのって駅で待ち合わせた。男だから時間なんてしれたもので最後の言葉から30分後には出発した。何処に行こうかなんて決めていなかった。駅から家と逆の方向にペダルを漕いだ。誰が誰と付き合っただとかどこの球団が優勝するだとか何を持ってきたかだとか、つまんねえ話をしながらただペダルを漕いだ。行き先のわからない車を追いかけて、抜いては抜かれ、抜いては違う車を追いかけた。汗が背中に溜まっていくのがわかった。リュックがこすれるのがわかる。これが魅力的な女の子と二人乗りをしていたなら言うことはなかったのに。背中にふたつの柔らかな感触が当たるのを想像する。なに、気にすることはない。男の子だもん。そうなった時の俺はきっと疲れ知らずのスーパーマンだろう。何があったってスピードを緩めるもんか。さあ、もっと俺にしがみついてくれ! 落ちたら危ないだろう!? 
 道中汗が目に入り休憩した。シャツは汗でビショビショだった。俺はすでにジーンズの代えを用意していない自分の浅はかさを呪っていた。北川も同じように張り付くジーンズに不快感を露にしていた。
「パンツ持ってこればよかったな」
 こいつに浅はかさで勝てると俺は思っていない。

 コンビニでタオルを買って公園でたらふく水を飲んで噴水で泳いだ。素足を濡らしていた子供たちも同じようにした。奥様方の視線が痛く濡れ鼠のまま隣町まで逃げた。自転車を漕いで、そうやって、俺たちは逃げた。
 
「疲れたな」
「そうだな」
 鋭い夕日が大気を切り裂いて木の下に寝転ぶ俺たちにまで届いた。背中に芝生の感触がする。隅にはダンボールがたくさん人の手で積み上げられた大きな公園だった。外でスポーツに勤しむやつらもいるだろう。寝返りをうつとポケットに入った何かの感触がした。取り出してみる。
「食うか?」
 ろくに確かめもせずに北川はそれを口に放り込む。ニ、三度租借して盛大に顔をしかめる。それがおかしくて大声を出して笑う。
「なんだよこれ」
「季節限定ハイチュウ。めっちゃうまくね?」
「舌腐ってんのか」
 しかしなんだかんだ言いながら北川はそれを最後まで食べた。俺もそれに倣う。蝉に負けないようにくちゃくちゃと音をたてた。
「疲れたな」
「そうだな」
「寝るか」
 異論はなかった。北国でも、夏は過ごしやすい季節だ。

 かなりの数の蚊に刺されたせいで男前になりすぎた。薬局で買った虫刺されの薬は染みるタイプだった。しかし我慢するしかなかった。
「しみるぜ!」
 北川は股間を抑えながら悶絶した。脳が足りてないんじゃないかと思う。俺も同じようにした。頭の中が白くなった。自転車を漕いだ。そうして、誰も俺たちを知らない町にたどり着いた。逆なのかもしれない。知っている人が誰もいない町。それでも公園はあった。大きな展望公園。光を遮るものは何もなかった。アスファルトの照り返しがキツイ。今ならカキ氷の中で死ねると思った。蝉もそう言っているし違いなかった。
 山のてっぺんの駐車場に自転車を置いて少し下ると一面の草原が広がっていた。がさがさと草を踏み鳴らして草原を駆けた。原っぱのど真ん中で大の字に寝転がると草で隠れて何も見えない。お日様と夏の草のにおいだけがあった。蝉の鳴き声すらしない。胸騒ぎのような予感はあった。山を上った疲労を掛け布団に、俺たちは天然の敷布団の上で眠りに落ちた。

 寝汗をかいていた。暑くてむせ返るような草のにおい。蝉の声がないと、まるで自分だけが夏に置いて行かれたみたいだった。これは夢か。強い日差しの見せる懐かしい陽炎。白昼夢。昔の夏の流行歌を口ずさみ夏を呼んでみると風が吹き草が歌うように音を立てて揺れた。それだけだった。歌いきった。風は吹かなかった。空が落ちてくればいいのに。もっと夏を俺に感じさせてくれ。
 大声をあげて立ち上がる。少し空が近くなる。山彦はなかった。どうでもよかった。蝉の声がほしかった。なんでもほしかった。夏を感じさせるものならなんでもよかった。北川が遠くでバッタを取っていた。
 それもありか。
「おい! すいか取りにいくぞ!」
 北川は返事の代わりにバッタを投げた。力いっぱい投げられたそいつは木葉のようにどこかに消えた。もう探せないだろうと思う。俺はハイチュウを投げた。またこれかよーと愚痴が聞こえる。俺達は同時に、今までで一番の夏のにおいが出るように、力の限り地面を強く踏みつけた。

 すいかは簡単に見つかった。というか腐るほど落ちてた。すいかから伸びてる紐を引き千切り地球に感謝の気持ちとして夏目と野口のプロマイドを一枚ずつ置いて、高揚した気分のまま走った。キャンプに使われるような白々しいまでにそれらしい川にぶちあたった。
「すいかわりしようぜ!」
 子供かと思うほどのはしゃぎっぷりだった。しかし棒がなかった。そのことに北川はより一層の喜びを見せた。天に拳を突き上げ叫ぶ。
「フィンガァァ! ファイブ!」
 諸手を突き入れた北川は突き指を負った。北川とは違い、すいかは実の詰まった実にいい音がした。
「手刀!」
 手首が折れるかと思った。
 結局すいかは割った石を包丁代わりにして穴をあけた。手が通るくらいの穴。赤い実を見てまだダブルがあったのに、と北川が言う。
「いいじゃねぇか」
 穴に指を突っ込み実を口に放り込む。手が甘い汁でぬれる。
「今しかできない食い方が一番美味いんだぜ?」
 穴から実をほじくりだし、それを口にして「ま、そうかもな」と同意した。
「少なくとも――」
「少なくとも?」
「お前の持ってるハイチュウよりは美味い」
「あれは期間限定。これは」
「「今限定」」
 ふたりで、それしかできない壊れた玩具のように笑った。

 夜になった。
 キャンプあとからパクった炭に火を入れ、石をガンガン叩いて取った魚を焼いて食った。煙が目に染みて涙が出た。疎ましい煙の行く末には空があった。夏の星座があった。デネヴ、ベガ、デネボラ、アルトゥルス、アルタイル、スピカ、アンタレス。カペラ、アルデバランが入っていたかもしれない。天然のプラネタリウムには矢印や実況なんて気の利かないものはないからだ。けれどきっとそれでいいんだ。
 アホの子のように口を開けて空を見上げる北川の口に魚の頭を突っ込んでやる。忘れられないディープキスだろう。北川は初体験の相手とは思えないように憎しみを込めてそれを投げた。そのあと走り去ったかと思うと、俺の名前を大声で呼びながら手にすいかをつけて舞い戻ってきた。会談まんまのその姿がまじ怖かった。けれど俺は笑った。よく考えれば滑稽だったし、それになにより、もしかしたら、俺は、そういうのを望んでいたのかもしれない。
 北川は胡乱気に自分の姿を眺め、それから俺にすいかを渡したので、北川のためにポーズをとってやることにした。勿論頭には入らなかったので北川からはそう見えるように、顔の前で固定しただけだ。
「さあ、僕の顔をお食べ」
 吹き出した。どうやらツボに入ったようで、かなり苦しそうだったので横になり、そのまま眠ることにした。

 やがて、朝が来る。
 起きて顔を洗って、体のいたるところに虫刺されの薬を塗って、北川が言った。
「帰るか」
「そう、だな」
 どのように北川はその言葉を搾り出したのだろう。俺は、それに対する言葉を紡ぎだすのにかなり苦心した。
 その言葉に俺は確かに旅の終わりを感じていた。けれど本当の終わりじゃない。誰だって聞いたことがあるだろう? 家に帰るまでが卒業式だ、って。俺たちが歩き出し山を上り自転車に跨り見知らぬ人々に別れを告げ、見知った人々に安堵を覚えひとりになることに一抹の不安を感じ、玄関の扉をくぐり「ただいま」と言ったときにそれは終るのだ。
「あれ、どうする?」
 北川が指差したのは食べ散らかしたすいかだった。俺は言った。
「川に流そうぜ」
 そうする他ないと思った。北川も同意した。ふたりですいかに蓋をして、そして川へゆっくりと流した。右往左往を繰り返し少しずつ小さくなっていく。北川が瞬きもせずに拳を握り締めているのに気付いた。音をたて生唾を飲み込んでから、自分も知らず知らず拳を握っていたことに気付いた。ついにすいかが見えなくなってから、北川と目が合った。北川の口は何事かごにょごにょと動いたが聞き取れなかった。気まずさを誤魔化すような小さな声で北川が言った。
「なあ、あのハイチュウ、まだあるか?」
「残念ながら、もうない」
「そっか」
「ああ」
「無いと寂しいもんだな」
「そうかもしれないけどな、すいかだけじゃなくて、旅行だって立派な夏の風物詩だろ?」
 居たじゃないか。夏休みが終ったら、どこどこに行ったんだ、って自慢するやつ。
「居たな」
 楽しそうに北川は言う。
「でも、まだ夏は終ってないぜ? それに――」
「それに?」
「夏は終わんねえよ。来年、またやってくる」
 少しずつ蝉の声が聞こえてくる。嗚呼。
「そうだな」
 
 夏、フォエヴァー
感想  home