「相沢くん」
 晩冬の放課後。たっぷりと授業を受けてなお明るい教室。
 窓際の、後ろから二番目にある自分の席で、窓枠に肘をついて俺はぼんやりと夕陽を眺めている。
 空はもう夜の影を見せていて、黄色というよりは濃い褐色だった。橙の山際。
 ただそれを、ぼう―――と見つめていた。
「相沢くん」
「…………」
 聞こえていないわけではない。
 聞こえていない振りをしているのだ。
「ちょっと、相沢くん。聞こえてる?」
 本当はこのまま無視を決め込んでやり過ごしたかった。
 だがそれは浅はかだったというか、投げ槍だったというか。そんなことができる間柄じゃない。
「うるせぇな、何だよ」
 振り向きざまに汚い言葉を浴びせる。そこには佇立している香里がいた。
 俺が振り返るのを見てとると罵られたというのに口元に笑みを湛え、傾げていた首を真っ直ぐにする。同じくピシリと伸ばした背筋。夕陽の光を浴びて橙に染まりながら、腰の前で鞄を両手持ちしていた。
 凛としている。
 その態度と顔立ちが想起させる何かが、俺を再び外へと向かわせる。
「帰らないの、相沢くん」
「…………」
 不遜な俺の態度にはもう慣れきっているのか。飄々と香里は話す。
 放課直後の喧騒はもう収束したといっていい。教室に残っているのは男女数えるほど、そして俺と香里の二人。未だ雪が残るグランドでは活動するクラブこそないものの、時折感じる人々の気配が校舎には漂っている。
 名雪の姿もない。名雪の席は、最後尾の俺とは少し離れて中央。受験だから真面目に勉強をするんだとか、視力が落ちてきたとか何とか。その割には三列目とずいぶん中途半端だし、後ろに陣取っている俺は授業中、相変わらず舟を漕いでいるあいつの姿を何度も目撃している。
 卒業を目の前にして、進路も各々決まり始めてきた。否応なしに移り変わっていく環境がある。それについての感慨もそれぞれに持っているわけだ。
「そうだな。帰るか」
 美坂―――。
「えぇ。帰りましょう」
 彼女の名前は、美坂―――


確率と戯れながら君は凛とする




 ―――美坂栞を愛している。あるいは、愛していた。
 愛していたから、俺は栞の告げる終焉を迎えてはならないと思っていた。
 初めは、信じなかった。あの幸せな甘い日々の終わりがやがてやって来ること、それを受け入れることを俺は俺自身に許してもらえなかった。『手放してなるものか』。
 具体的に何かをして救ってやることができるわけでもないくせに。例えば栞の中にあったはずの病巣を俺は、その愛とやらによって取り除いてやることができたのか。できるはずがない。できないから盲信なんだ。理性の不在は可能性を抹殺する。
 都合の悪いことは信じなければ何とかなる、とでも思っていたのだろう。時には『愛の力で』とさえ。
 とにかくその時の俺は正しかったが、愚かだった。
 やがて怠惰な俺と無抵抗な栞は、予定調和たる別れの標識を見つける。そう遠くない未来を示すその禍々しい予感を目の前にしてしまった俺は、心の拠り所を『信じない』から『奇跡』に切り替えた。
 つまり、この危機的状況を切り抜ける妙手、知恵、魔法―――何でもよかったのだが、そのような逆転劇を望んだ。
 要するに変わっていない。自分で何とかできないから、他の誰かが、何かがどうにかしてくれればいいと、俺は本気で思っていたのだ。

 だから、極めて合理的に、美坂栞は死んだ。

 看取ることは許されなかった。栞は頑なにそれを拒否した。
 その強硬な栞の態度を打ち破れるほどの理由を、俺は持っていなかった。ただ漠然と『行かないでくれ』や『愛しているのに』などという感情的な文句が渦巻くばかりで、痛みに責め苛まれているはずなのに毅然として俺を捉える栞の双眸を前にして、最後の夜、俺はただ栞を彼女の家へと送り届けることしかできなかったのだ。
 それから無色の数日が過ぎ、栞は逝った。
 知性を欠き、無自覚に狼狽する俺を、周囲の人間はひどく哀れんだ。
 水瀬家の親子による制止もあったが、俺は学校に通うことをやめなかった。
 事情を察する友人たちは、俺を腫れ物のように扱った。ともすれば、俺が学校に来るべきではなかった理由は、彼ら彼女らに要らぬ気遣いをさせないこともあったのかもしれなかった。
 だが俺は、自分では冷静なつもりでいた。
 恋人の死を死として受け止め、塞いでいても仕方がないと自らを斬り、決着をつけようと躍起になっていた。
 だが、それ自体が冷静さを欠いた振る舞いとなっていたのだ。頭の中を覗いてみれば、当然のように栞のことでいっぱいだった。
 できなかったこと、やり残したこと、思い出の反芻、あの時栞はこんな表情だった、もしかするとこんなことを思っていたのかもしれない、こうすればよかった、あれは楽しかった、栞と行った公園、雪、幻想的な噴水の光景、白、最後の夜、訣別の表情、必然の訃報。
 こうして過去を繰り返した理由としては、楽しかった日々を再現することで安らぎを得たかったのもあるだろう。
 しかし、俺は回廊となって留まり続ける光景の中の、ある一点で収束していることに気づいた。
 最後の栞の拒絶である。
 後悔とも少し違う、怒りのはずはない、異質な感情として記憶に残ったその光景。
 栞の固い態度が何を意味したのか。死の淵を俺に見られたくなかったのか、身体中の痛みが我慢できなくなったのか、死にゆく自分から俺をとうとう遠ざける意図だったのか、もしかすると意味などなかったのか。
 それを暴きたいという強い願望もなく、悔やみきれないほどの後悔もなく、ただそのシーンだけがリフレインする。
『お別れです』
 端的に述べられた最後通牒。雪に小さな足跡を残しながら家に吸い込まれていく栞を見送った時の感情がそのまま、今も引き続いているのだ。錯乱し、呆然と白く―――
『ねぇ、相沢くん。あたしと付き合ってくれない?』
 ―――不可解な感情が、ずっと。





「祐一、祐一ったら」
 まどろみから覚醒し、視界を獲得してみれば、そこには見慣れた水瀬家のリビング。
 その中央には、いつも通りの猫ハンテンを着込んで、全身から湯気を立ち上らせている名雪が立っていた。
「起きた?」
「ん、あ、ああ」
 声が掠れている。喉を押さえて呻きながら、寝そべった身体を起こした。
 継続したホワイトノイズ。テレビの音声だった。湯のみの中でぬるくなったほうじ茶をグイと飲み干す。
「寝ぼけてる」
「悪い。ついうとうとした」
 名雪がリモコンのボタンを押して、プチンとテレビを消した。
「暖房が入ってるからって、こんなところで寝たら風邪ひいちゃうよ?」
「……そうだな」
 名雪にそう言われると、急に寒さが身体を駆け抜けた。脇の毛布を取って、身体に巻いた。
「…………」
 軽い沈黙。テレビの音のないリビングでは、掛け時計の秒を刻む音が大きく聞こえる。
 名雪は髪を梳かしながら、向かいのソファに腰を下ろした。
「お風呂、空いたよ」
「……ああ」
 生返事をしながら、肩をコキコキと鳴らす。急須に入ったお茶を湯飲みに注ぎ足し、もう一度グイとあおった。
「ねえ、祐一」
「ん?」
 俺がすぐに風呂へ行く様子がないと察したのか、名雪が俺に話しかける。思えば、名雪がこんな時間まで起きているのは珍しいことだ。何か俺に用があるに違いない。
「卒業の打ち上げの話、香里にしてくれた?」
 名雪の言葉に、一瞬、湯飲みを唇に当てた姿勢のまま、俺は固まってしまった。
「いや、まだだ」
 テーブルの上に小さな音を立てて湯飲みを置いた。出涸らしが舌に苦味を残す。
「そうなんだ……」
 再び沈黙。秋子さんはまだ仕事から帰っていない。主の不在は、家の中を必要以上に広く感じさせる。
「変なこと聞くけど」
 髪のブラシをテーブルの上に置いて、少し上体を傾けて名雪が言った。
「祐一、最近あんまり香里と……その、うまくいってない?」
 この従兄妹にしては随分と率直な質問に、俺は少し戸惑った。
 こうして名雪が俺に言ってくるということは、俺たちが相当周りにそういった印象を与えている、ということなのだろう。

 俺が香里と付き合い始めてもうかなりの時間が経つ。もうすぐ一年、だろうか。
 始まりは進級する直前のことだった。
 突然、香里から打ち明けられた好意、そして恋への誘い。
 初めは嘘だと思っていたのだ。お互いに大切な人を亡くした者同士、共感を得こそすれども、それがそのまま好意へ転化するなんてことは、俺には思いもよらなかった。
 だが冗談だとしても、それを受け入れることによって香里の傷心が少しでも慰められるならと、俺はそれを芝居を打つようなつもりで聞いていた。
『ねぇ、相沢くん。あたしと付き合ってくれない?』
 香里も立ち直れば、そんな儀式的な、倒錯的な口約束など忘れることができるだろう。香里はカタルシスを求めて、手当たり次第に救いを求めたに違いない。
 俺はずっとそう信じ込んでいたのだ。だからこそ、唯々諾々と彼女の思いを肯定し、同意した。
 しかし時を経るにつれ、段々と焦燥が俺の中に募ってきたのだ。
 香里は大層、俺に尽くした。男ならば潜在的に誰もが持っている欲望を敏感に察知し、間髪入れずにそれらを満たそうと、彼女の持てる全てで懸命に働いた。
 もしそこに自己犠牲的な、あるいは自暴自棄の感情を少しでも読み取ることができたのなら、俺は迷わず香里を糾しただろう。それは決して健全な精神の働きではあり得ないし、香里のためにも、俺のためにもならない。
 しかしどうもそうではない。共に過ごすうち、香里はとても楽しそうな表情を俺に見せつけ、まるで“初めから俺を愛していた”ようにさえ見えた。
 まずい、と思った。
 香里はあの契約を、そんな一時的なものとして捉えてなどいなかったのだ。
 デートをした。遊園地で、水族館で、繁華街で。
 セックスをした。情熱的に、献身的に、蠱惑的に。
 拠り所を得た表情だった。それはどうやら彼女にとって、妹に対する背徳というわけでもなかったらしい。
 充実した香里を見るたび、それに反比例していくかのように冷めていく、青ざめていく相沢祐一がいた。
 俺は―――初めから香里の気持ちに応えるつもりなど、なかったのだ。
 いや、香里の意図を正しく想定さえできなかった。
 この期に及んでも、俺の気持ちはずっと美坂栞の方を向いていたし、美坂香里は、俺の中でいつまで経っても美坂栞の姉だったからだ。
 その歪な歯車の噛み合わせは、俺に自己嫌悪―――本当に嫌悪されるべきだろう―――を抱かせ、やがてそれは俺の態度を醜い形に凝固させていった。
 夏を過ぎたくらいから、俺は香里を避けるようになった。
 しかしそんなことは意に介していないかのように、香里は常に俺に接触を図ってきた。
 聡明な香里が、俺の態度の変化に気づいていないはずはない。わかっていながら、それでも香里の態度は変わらなかった。
 俺は事態の深刻さを改めて感じた。
 自分の軽率な行動への後悔、やる方なく内に凝る『いけない』という焦りが俺の中に渦巻いた。
 その負の感情に突き動かされるように、俺は次第に香里に対して攻撃的に接するようになった。
 それでもなお向けられる好意、親切、愛―――。
 それを断ち切りたくて、俺は香里によりつらく当たる。
 変わらない香里。
 その繰り返しが何度あったか、その延長線上に今がある。
 俺は矛盾しているだろうか。
 だが俺はわかっている。本当に愛している人は今まで時を重ねようと不動で、単に俺が心を砕いているのは“ただ美坂香里をいかに満足させながら撒くのか”に収束するということを。
 本当に愛しているのは―――

「祐一、聞いてる?」
 心配そうな声に我に返ると、名雪が眉を下げてこちらを窺っていた。
 聞いている、と視線で返すと、名雪はため息をついてから、ブラシを手にとって困ったような表情で立ち上がった。
「わたし、もう寝るね」
「名雪」
 聞くべきでないと察したのか、部屋に戻ろうとする名雪を呼び止める。
「すまん。香里のことは、その」
「…………」
「あまりいいとはいえない」
 俺が回答らしきことを口にすると、名雪はゆっくりと戻ってきた。
「話したくないんだったら、別に話してくれなくてもいいんだよ?」
 再びソファに腰を沈めながら名雪は言った。
「わたしが言いたいのは、香里にちゃんと卒業記念打ち上げのことについて伝えてほしいってことだけだから」
 それは数日前、名雪に頼まれたことだった。別に名雪本人が伝えればよかったのかもしれないが、その役は自然、恋仲である俺に割り振られていたのだった。
「伝えてくれた?」
「いや」
「そっか……」
 またぞろ沈黙。お互いに言いたいことはハッキリしているのに、言葉がうまく選べない。
「わたしが言っておこうか?」
 遠慮がちな声で、ポツリと名雪が言った。
「ケンカしてるなら、仲直りしないと……ダメだよ?」
「…………」
「何か悩みがあるなら、わたしでよかったら相談に乗るから」
 まるで母親と息子の間柄になったような諭され方だった。だがそれが……ひどく今の自分に似合っているような気がした。
「いや……そうじゃないんだ」
 そんな雰囲気に呑まれたのか、あるいは俺自身こそ救いを求めていたのか。
「実は―――」
 単に聞かれなかったから機会がなかっただけのことで、本当は誰かに打ち明けたくてうずうずしていたのか。
 俺は名雪に自分の咎を話すことに決めた。





「…………」
「…………」
 もうすぐ十一時。俺が話し終えるのと、温かな風を送る空調がゴウンと唸ったのが同時だった。
「そっか……」
 俺の話す間中、一切口を挟まなかった名雪が―――俺がそんな隙間なくまくし立てていただけだったかもしれない―――半刻ぶりに口を開いた。
「わたしは、わからなかった。香里の……ううん、祐一のことだけを、わたし、勘違いしてた」
 名雪はうつむきながら、ポツリと呟いた。
「わたしの思ってることを言うね」
 名雪はそう前置きをして、顔を上げた。
「わたしは、栞ちゃんが亡くなってショックだった。祐一や香里とは別のものだったんだろうけど……悲しい気持ちでいっぱいだった。お話をしたこともあったし、一緒に百花屋に行ったことだってあった。それに……………………祐一の大切な人だったってことも、知ってたし―――」
 ゆっくりと、慎重に言葉を選びながら話してくれている名雪だったが、それでも『大切な人“だった”』が、少し俺の心を侵した。
「―――香里と栞ちゃんは……あの時は何かあったみたいだったけど―――今、祐一が話してくれた通り、香里は栞ちゃんのことをわざと無視してたんだね―――亡くなってしまって、香里と祐一は……つらそうだった」
 名雪が使う言葉は、俺のように混沌とした思考の中で生み出されたような苦渋の語彙とは違って、とても平易だった。それがとても新鮮に聞こえて、まるで単純な出来事であったかのように、必要以上に聞こえた。
「でも、香里と祐一が……付き合い始めて、香里は変わったよ。香里はとっても明るくなった。香里はとっても楽しそうだった。でも、祐一は、」
 言葉を少し切って、
「同じだったよ」
 と言った。
「同じ?」
「同じだった。祐一は、ずっとつらそうだった」
 俺は少し視線を落とした。少しの間だけでも、目を逸らしたかった。
「だから最初は、本当に祐一と香里が付き合ってるんだとは思わなかった。でも香里の様子を見ると、どう考えても祐一と付き合ってる風だったし、祐一も、段々と表情がやわらかくなってきてた。春から、夏にかけてだね。だから祐一も色々と考えて、香里を受け入れたんだと思ってた」
 俺は自分がどんな道をたどってきたのかは自分なりの整理の上で自覚しているが、それを客観的に見ることはできない。ならば、こうして俺との距離が近い第三者である名雪が言ってくれることは、とても真実に近いことなのだろう。
「わたしは……祐一と香里が元気になるなら、それはいいことだと思ってたよ。言い方はひどいかもしれないけど、大切な人を失った同士、お互いに支え合って。それは今後もうまくやっていけるような、安心できる繋がりだと思ってた」
「…………」
「でも、最近の祐一は……香里に冷たい。香里はわたしになんにも言わないけど、香里と祐一の周りにいる人たちはみんな気づいてると思う。何かあったのかなって」
「…………」
「でも、祐一の話を聞いて納得した」
 視線を名雪の顔に合わせる。名雪は少しだけ、目に涙を湛えていた。
「香里は本当に祐一のことを頼りにしてるよ。わたしたち―――わたしは、二人の仲はうまくいってほしいと思ってるし、そういう気遣いだってしてきた」
「ああ」
「それを裏切られたって言うつもりじゃない。でも」
 ポタ、と涙が名雪の膝に落ちる。
「香里が、それじゃ香里が……あんまりだよ」
 時計がピピッ、と場違いな電子音で十一時を知らせた。
「香里が祐一を、栞ちゃんを亡くしてすぐの、気持ちがまとまらない時に……そんな風に誘ったのは、もしかしたら卑怯だったかもしれない。祐一なりの思いがあって、香里と付き合うことにしたのかもしれない。でも、それでも……ずっと栞ちゃんのことを見てるだけなんて……」
 名雪が涙目で俺を見つめる。
「香里が……かわいそうだよ。思っちゃいけない? 友達が、親友が……わたしにとって大切な人が、同じくらい大切な人に―――騙されているって知って、それを不憫だって思うのは、いけないことなの?」
「……いや、そんなことはない」
「嘘だっていいじゃない。少しは……香里の方も向いてあげてよ。香里のことを、好きになってあげてよ。そんな……香里を今さらになって邪険に扱うなんて、あんまりだよ……」
 名雪の言うことは正しい。俺のやっていることは、あまりにも香里を蔑ろにしているとも思う。
 俺の責任の発端は、やはりこの関係を結ぶ決断をしたことなのだろう。
 意図がどうであれ、相手を愛するという必要不可欠なものが欠けていた俺には、その契約を交わす“資格”がなかったのだ。
 それを正当に要求され始めると、当然のように俺は戸惑い、こうして背徳のまま謀り続けることになったわけなのだから。
「祐一は……これからもそうやって、香里と一緒に過ごしていくの?」
 目元を拭い、涙声で名雪はそう問うた。
「わからない」
「…………」
「どうすればいいか、俺にもわからないんだ」
 名雪はうつむいたまま、深く息を吸った。
「香里がどうして俺に連れ立っているのかもわからない。今でも、香里が告白した時の香里の気持ちがわからない」
「当たり前だよ」
 名雪が辛辣にピシャリと言った。
「……だから疎遠になって終わってくれたら、と思って、こんな回りくどくて悪質なことをしているんだと思う」
「『思う』って、ずるい」
 名雪が力ない声で呟いた。
「自分のことがわからないって、それを結論にしちゃっていいの? 祐一がわからない祐一のことを、祐一以外の人がわかるわけないよ。ちゃんと責任を持って、“たとえわからなくても自分の考えを断定してよ”」
 その決定的な台詞を名雪が言い放った瞬間、ガチャリと玄関の鍵が回る音がした。秋子さんが帰ってきたのだろう。
 その音が鳴った瞬間、名雪が立ち上がった。そして左手を額に当てて顔を隠しながら、
「祐一を信じてるから」
 とだけ言って、廊下へと消えていった。
 玄関から聞こえる「名雪?」という秋子さんの声と、階段を駆け上がる音が、夜の家の中をひどくこだました。





 ぐるぐると回る不甲斐ない思考の渦の中に、新しく一つ概念が追加されるようになった。
 それは、数日前の名雪の叱咤によってもたらされたものに違いなかった。
 いや、それは今までにも重々感じていたことだったのだが、それが名雪との問答によって客観的な立場から改めて投げ込まれたことによって正しく俺に突きつけられ、相対化されたのだろう。
 『ずるい』と名雪は言った。
 たとえ偽りの―――例えば春から夏にかけての頃のように―――表面だけの付き合いをしていても、名雪はああまで怒り、悲しみはしなかったのだろうと思う。誠意対誠意の真摯なぶつかり合いでなければ許せない、というような理想論者として名雪は俺をやっつけたがったのではないだろう。
 むしろ、その偽りの付き合いさえを放棄して栞の立場を守り、香里を殊更に蔑ろにしたことを、名雪は許せなかったに違いない。
 『香里の方も向いてあげて』と名雪は言った。
 だがそれは、今の俺にはできないことだ。
 『信じてる』と名雪は言った。

「香里」
 重い沈黙を破り、肩を並べて歩く恋人の名前を呼んだ。
「何?」
 こうした下校道中の二人きりの時間でさえ、俺から話しかけることは稀なことだった。 だからだろうか。返答する香里の声色に少し嬉々とした調子がこもっている。
「卒業記念の打ち上げの話、聞いてるか?」
「打ち上げ?」
「ああ」
 奥歯を一度強く噛み合わせた。
「北川とか、その辺りの知り合いが主だが……あと斉藤とかか。水瀬家でちょっとしたパーティーをやろうっていう話だ」
「へえ!」
 目に見えて喜色にあふれた表情を作って、香里は感嘆した。
「来る……よな?」
「ええ、もちろん」
 『いつ?』という質問はない。たとえそれがいつであろうと、香里は予定を変えてでもそれに合わせようとするだろう。
「日取りとかはまだ決まってないが、きっと卒業式の日の夜になるだろう。みんな予定が空いてるのもその日ぐらいだろうし」
「そうね」
「ああ」
「それなら、あたしも手伝いに行くわ」
 弾んだ声。
「前もって準備とかもしないといけないだろうし。そういう甲斐性のない女って思われたら嫌だもの」
「…………」
「……余計なお世話だった?」
 俺が何も言わないのを気にしたのか、やおら香里の声のトーンが落ちた。
 頭の中をこだまする声。『祐一を信じてるから』。
「いや、そんなことはない。手伝ってやってほしい」
 声と共に吐き出される息はとても白く、その白さが俺の言葉のぎこちない感情を暴いてしまわないかと、馬鹿なことを考えた。
「わかったわ」
 破顔一笑、香里が歯切れよく返答した。
「もうすぐ、ね」
 黒ずんだ枝と幹を寒空の下にさらした木々、その向こうにある何かを遠い目をして見つめながら、さっきとは打って変わった物憂げな表情でそう呟いた。





 それから暫くの間、香里は学校の帰りに水瀬家に寄っていくようになった。だから名雪も一緒に、三人で帰路を共にすることになった。
 別に卒業の打ち上げのために、一週間も前の今から準備をしてるわけではない。もちろん、秋子さんは手の込んだ手料理を皆に振る舞うつもりらしかったが、それにしたってせいぜい前日ぐらいに仕込みをするとか、材料を買うといった程度だ。
 これもひとえに、俺が香里に声をかけたあの日を、香里が好機と見たことによるのだろう。俺の拒否が僅かに弛んだその隙を突き、軋轢を修繕したいという意図なのではないだろうか。
 俺も、そういうつもりならそれでいいかもしれないと思った。俺は別に香里が嫌いなのではないからだ。
 結果として、名雪の言葉が俺のわだかまりを少しほぐしてくれたということになる。
「うーん、何か手伝うことがないかって言われても……」
「名雪、新年度になる前に家の中を整理しないといけないって言ってたでしょう。それを手伝うわよ」
「それって、別に打ち上げの準備とは関係ないよ」
「関係なくたって構わないわよ。今まで色々とお世話になってたんだし、そのお礼と思って」
「わたし、そんなことされるお世話してないよ」
「いいから」
 随分と懐かしい感じのする、賑やかな帰り道だった。
「これからも過ごすんだから、綺麗にしとかなきゃいけないでしょう」
「それはそうだけど……」
「名雪は実家からだからいいわよね。あたしは上京だから……色々と大変よ」
「祐一もひょっとしたら上京だもんね。寂しくなるね」
「まだ受かると決まったわけじゃないぞ」
 俺は東京の私立大をいくつか受けることにしていた。香里は東京の国立大に既に進学が決まっている。名雪は今の家から行ける範囲の国立と私立を受ける。
「祐一なら大丈夫だよ。ちょっと前まで同じぐらいの成績だったのに、急に伸びるんだもん」
「ん……」
 チラリと香里を見る。
「香里には遠く及ばないけどな」
 一瞬、香里は呆然としていたが、
「そ、そんなことないわよ」
 と破顔した。
 その様子を見て名雪も満足そうに、
「すごいもんね、香里」
 と言った。

「やっぱり埃だらけだよ……」
 水瀬家の二階に上がった俺たち三人は、名雪の先導の下、普段は足を踏み入れることのない、奥にある物置部屋の前まで来ている。その先陣を切って中に入っていった名雪が、ゴホゴホと咳き込みながら戻ってきた。
「制服、汚れちゃうよ」
「平気よ」
「うーん……タオルとか、エプロン探してくるね」
 名雪はパタパタと下の階に下りていった。
「そんなに使っていないのかしら、この部屋」
「色々とあるみたいだぞ。餅つきの臼や杵とか、飯ごうやらテントやら買い置きの灯油やら」
「そんなのは普通、外の物置なんかに入れない?」
「防犯とか水害を意識してるんじゃないか。部屋はかなり余ってるんだしな」
「そういうものかしら」
 すぐに名雪が戻ってきた。
「はい、香里、祐一。祐一にはサイズ合うか心配だけど……」
「何だ、俺も手伝うのか」
「当たり前でしょ。香里が手伝ってくれるのに、どうして祐一が手伝わないの」
「う、まあそれもそうだ」
 別に嫌というわけでもないのだが。
「って、これ割烹着か? なんでそんなもんがこんなに常備されてるんだ、この家は」
「こういう時に便利だからじゃない?」
「備えすぎだ」
 こうして軽々しい会話をするのは、久しぶりかもしれなかった。





 結局、それは平日にするにはあまりに大きな仕事であるということがわかり、残りは後日に回すことにした。それでも随分と遅くまでやったので、秋子さんの強い勧めで夕食を共にした後、同じく強い勧めで香里を家まで送ることになった。
 それは普段の学校帰りととても似ていた。とっぷりと暗いことと、歩いている道が違うことを除けばではあるが。
 口数も、普段よりは多かった。
「秋子さんの料理は尊敬に値するわね。習いたいぐらい」
「……そうだな」
 冬の夜の寒気は尋常じゃない。ザクザクと踏みしめる雪の音さえ寒く感じる。
「寒いわ」
「…………」
 香里が、はぁと息を吐く。
 あの感情を暴く、白い息を。
「もう二月も終わりね」
「……ああ」
「卒業ね」
「……ああ」
「相沢くん、受験は大丈夫?」
「……何とかな」
 名雪の目がなくなると、途端に会話をするのが億劫になった。
「…………」
「…………」
 段々と、いつもの沈黙が顔を見せ始める。
 そうだ。いくら上辺を取り繕ったところで俺の気持ちは本質的に何一つ変わっちゃいないのだから、うまくいくはずがなかったのだ。
 こうした時間は苦痛だった。
 だが香里は続ける。
「知ってると思うけど、この春であたしは上京するのよ」
「そうだったな」
「相沢くんは―――」
 言葉が途切れる。
「きっと、東京には来てくれないんでしょうね」
 錯覚だろうが―――ドクン、と心臓の音が頭の中に響いた。
「それは、どういう―――」
「……もういい加減、限界かもしれないわね」
 唐突に香里は言った。
「な、何がだ」
「あたしたちのことよ」
 そんなことは―――と言いかけて、言えなかった。
「今日は―――名雪があたしに気を遣ってくれたんでしょう」
「…………」
「相沢くん。いくら鈍感なあたしでも、さすがにわかっちゃうわよ」
 俺は慌てて口を閉じ、白い息を止めた。
「逆に、決定的よ。そんなの」
 雄弁だったのは息の白さなどという妄想ではなく、俺の態度それ自体だったというわけか。
「勘違いしないでほしいのだけれど、あたしは相沢くんのことを嫌いになったわけじゃない。あるとしたら、むしろその逆なんでしょうね」
「…………」
「色々と話さなくちゃいけないことがあるわね、わたしたち」
「……そうだな」
「お互いの気持ちに整理をつけて、ちゃんと話し合いましょう。ね?」
 ザクザクと、俺は雪を削りながら歩き続けた。





「それでは、卒業を記念しまして!」
 音頭を取るのはいつも通り北川。長いウンチクを斉藤が「早くしろ」と遮ってようやく始まるのもいつも通り。
 杯を掲げた手が心なし痺れたように感じるのもご愛嬌。名雪は苦笑している。
「乾杯!」
 盛大に打ちつけられるコップの音。それらに並々と注がれた飲み物は、何もジュースやお茶に限られたものではない。
「ップゥーーー! あー麦最高!」
 誰よりも早く、何よりも赤く、北川潤は既にしたたかに酔っていた。
「おっさんおっさん、はえーよ」
「何言ってんだよ。世の中は悲しいことやつらいことでいっぱいなんだ。飲まずにやってられるかってよぉ」
 言いながらさめざめと泣き崩れる北川。
 早い。早過ぎる。
「もう出来上がってんのかよこいつ……。捨ててくるか?」
「まあまあ。今日ぐらい大目に見てやろうってな」
「今日だけじゃねー、っていうか毎回だ」
「だから、今回だけ捨てないでやるってこと」
「納得」
 がははは、と早くも盛り上がる男性陣。
 が、今日ばかりは両陣とも、そういう二極化をするつもりはないようだ。
「水瀬さんさぁ、よく陸上の表彰出てたけど……種目は中距離だけ?」
「あ、うん。ほとんど中距離か長距離かな」
「速いもんなぁ。俺も家に帰るスピードなら自信あるんだが」
「確かに速そうだ」
 どっと笑う。
 名雪が声をかけた人数はなかなかに多かったらしい。秋子さんの意向もあったのだろうが、水瀬家の広いリビングで男女十名ほどがテーブルを囲んでいた。ほとんどが同じクラスの奴だった。
「お待たせしました」
 会話も盛り上がりつつあるところに、台所から秋子さんがやって来た。
「お料理ができたので、運んでくるわね」
 続いて、名雪と香里が大きな皿を持ってやってくる。
「おお、これは!」
 テーブルに次々と並べられる料理。
 打ち上げと呼ぶのが恐れ多いほど豪勢だった。
「名雪と美坂さんにも随分と手伝ってもらって、かなり力が入ってしまいました」
「いやー、こりゃもう、万々歳っすよ!」
 一同が歓声を上げる。
「香里がすっごく張り切ってたんだよ。お母さんの腕を盗むんだって」
「恐れ入ったわ。あんなの真似もできないわよ……。下地が違うんだから」
 協力者として水瀬家の台所事情の片鱗を垣間見たらしい香里が、お手上げといった風に肩をすくめてみせる。
 が、男たちの注目はそれよりも、エプロン姿の名雪と香里に集まっている。
「もう少ししたらピザも焼き上がります」
「やっべー、昼抜いて来ればよかったなぁ」
 打ち上げもたけなわとなりつつあった。

 なんだかんだでみんな酒も随分入り、ピークを過ぎた。
 各人もテーブルのみならずソファにまで散らばって、それぞれにくつろいでいた。
 秋子さんと名雪と香里は、台所で洗い物をしている。俺も手伝おうかと言ったが、やんわりと断られた。
 なので俺はテーブルで、ぼんやりと北川と話をしていた。
「なぁ……俺はなぁ、相沢。自慢じゃないが恋愛については筋金入りの負け組だ……」
 北川は卒業の感動と酒の力で、かなり弛んでいる。
「今までに恋を満喫しようと頑張ってきたが……ダメだった。多分、俺は甲斐性もないかもしれないが、運もかなり悪いんだ。運のせいだってこともあったんだよ……」
「……そうか」
「考えて考えて、こうするべきなんだって決断しても、ろくな結果にならない。かと思えば、二つ返事でくっついちゃう奴だっている。これは完全に俺のせいってわけでもなくて、巡り合わせの問題でもあるんだよ、きっと……」
「それは言い訳だろう」
「……そう……そうだよな。あのな、相沢。俺は一時期、本当に思い悩んで、一冊の哲学書を買ったんだ」
「哲学?」
「何の予備知識もなく、適当に一冊を買ったんだ。本棚の前で目をつぶって、手に触れたものを抜き取って」
「なるほど」
「何ていうか、もしかしたらそういうものから何か教われるかもしれないと、な」
「……そうか」
「そんで家に帰って、ベッドの上でそれを読んだんだ。そしたら、中にはたくさんひどいことが書いてあった。恋は気まぐれだの、愛は自分のためにあるだの、そんなことがだ」
 北川は笑った。
「世の中の全ての出来事は偶然なんだって、書いてあったんだ。金槌で殴られたみたいだったね。よりにもよって、俺が追い求めてた恋愛をボロクソに書いた本を、俺は選んじまったんだ」
「そりゃ、確かに運が悪いな」
 苦笑いで応えた。
「でもな、相沢。それはひどい内容だったけど、なるほどとも思ったんだ。世の中には偶然の出来事ばっかりだ。携帯のメールアドレスを一文字間違えてメールを送って、届いた先が近所の女の子で、そのまま付き合い始めたって男もいる。見ず知らずの人に告白してうまくいったって奴もいる。能力があってもうまくいかない奴、運だけでうまくいく奴」
 真っ赤な顔をした北川が、うぅと唸る。
「世の中、運だぜ」
 運、か。
 ついと台所の方へ目をやった。
 例えば、今の香里と俺との関係も、必然とは言いがたいものだ。
 今になってもわからない香里の意志や、栞の死。そもそも栞との出会いだって、偶然に俺が校庭にいる栞を目にしたから生まれたものだ。それは北川の言う“携帯のメールアドレスを一文字間違ったこと”と何か決定的な違いはあるのだろうか。
 もっと遡るなら、俺がこの街にやって来たこと……幼い頃に、この街に来たことがあったこと……これらが成り立たなければ、俺は香里と一緒になっていなかったかもしれない。
「俺はな、相沢……」
 北川がうつむきながら低く呟く。
「本当は―――美坂が―――」
「ねえ、北川くん」
 いつの間にか台所からやって来ていた香里の声が、北川の言葉を遮るように響いた。
「み、美坂」
 北川はひどく狼狽している。相変わらず顔は赤い。
「その本、訳書の箴言集でしょ?」
「箴言……? ―――ああ、そうだな」
「あたしも読んだわ、それ」
 香里はそう言いながら、水の入ったコップをテーブルにコトンと置いて、北川に勧めた。
「世の中、全部が偶然っていう解釈は乱暴だけど、あたしも同意するわ」
「美坂……」
 北川は、状況をうまく飲み込めずに呆けている。
「あたしがこうして生まれたことも偶然。母がいて、父がいて、そのまた両親がいて……あたしが生まれたことは本当に小さな小さな確率。手垢のついた言葉だけどね」
 香里は微笑を湛えながら言う。
「でもそれは錯覚よ。運を考えるなら―――宝くじを思い出してみるといいわ。自分に当たる確率は小さな小さなもの。でも、それは“誰かには当たるのよ”。当たった誰かがいることは必然でも、それがあたしであることは偶然。珍しくも何ともない偶然」
 香里が何を言いたいのか、よくわからない。
「あたしには、妹がいたけど」
「……言わなくて、いい」
 呻くような北川の声。
 だが香里は続けた。
「日本の夫婦の中で、子供が二人いる家庭が約30パーセント。両方とも女である確率は約25パーセント。あたしが姉である確率が50パーセント。その家庭が日本にあって、その長女がこうしてあなたたち一人一人と出会っている。どこか途中に必然があったと信じたくなるような小さな小さな確率。でもそれは、ただの無味乾燥な偶然」
「よせ。美坂、俺が悪かった」
「いいのよ、北川くん。他意はないわ。それほど世の中は偶然ばかりだってことを言いたかっただけよ」
 うな垂れる北川を見つめていた視線を外すと、香里は俺の肩にそっと手を当てて、
「相沢くん。話があるの。二階で待ってるわ」
 と、俺にだけ聞こえるように言った。
「ああ」
 俺の返事をよく確認して、香里は上の階へと消えた。





 電球一つで灯りを取った薄暗い階段を、一歩一歩と踏みしめる。
 十中八九、別れる話になるだろう。それは香里が自ら用意した場だったが、香里がうちに色々と手伝いに来始めた一週間前のあの帰り道、香里は遂に心を決めたようだった。
 俺の野暮ったい悪徳な遠ざけ方は、それを取り下げる(上辺の)態度を見せると逆説的に成就してしまった。その薄っぺらな取り繕いの中に、香里は俺の本心を見抜いたのかもしれない。
 ここまで引きずっておいたくせにとんでもなく我がままなようだが、俺は一瞬たりとも栞から目を逸らしたことはない。操を立てるというほど崇高なものではなく、それ以外のことが頭に浮かばないのだ。
 それは香里対するとんでもない背徳のようだが、しかし香里はそれに気づいているはずだ。
 訣別の時としてはちょうどいいのかもしれなかった。一緒にいる理由もなくなり、新しい環境へとそれぞれが進んでいく。だからこそ香里も、今日を選んだのかもしれない。
 香里の言う通り、俺は東京に香里を追っていくつもりはなかった。

 最後の段を上り切り、左右を見渡す。香里は廊下のずっと奥の方に立っていた。
「香里」
 黄色い電球がささやかに照らすだけの廊下に、凛として立っている香里。
「……来てくれたのね」
 香里はひどく複雑な表情をした。悲しそうな、嬉しそうな、よくわからない。
 それは、これからされるであろう話に対する感情を物語っているのだろうか。
「北川くんとは、十分に話をした?」
「何?」
 よくわからない質問をされる。
「北川くんと随分、話し込んでたじゃない」
「……ああ」
「よく話せた?」
「まあ、いつもよりは重い話だったけどな」
「そう……」
 香里は少し息をついた。
「名雪とは?」
「何だって?」
「名雪とは、ちゃんと話をできたかしら?」
「どういう意味だ?」
「いえ、多分、名雪はあなたのことが好きだったと思うから」
「――――」
 香里は、何を言っているのだろうか?
「それで、どうなの? 話は、ちゃんとしたの?」
「話も何も、そんなことは知らないから話せないだろう」
「そう」
 香里は胸元をゴソゴソと探って、

「それはよかった」

 ラジコンのコントローラーを取り出した。
「言ってる意味がよくわからないが、何だそれは?」
 薄暗くてよくわからないが、香里が取り出したものは確かにラジコンのコントローラーの形をしたもので、ゴツゴツとした黒色の中に、鈍色の伸縮アンテナが光っていた。
「これはね、こうやって使うのよ」
 カチ、と香里がボタンの一つを押した。

 始めに聞こえたのは、“どっ”という小さな轟音と、建物自体が揺れる鈍い振動と、遠く甲高い悲鳴だった。
「え?」
 香里は次々とボタンを押していく。
 カチ、カチ、カチ、カチ…………
 香里の指が動くたび、同じような小さな轟音と共に地面が揺れ、その度に悲鳴が―――ひどく遠くで―――こだました。
「な、何?」
 全く状況をつかめない俺が呆然とそう呟いた瞬間、俺の真後ろの廊下が、ドォーン! とものすごい勢いで爆発した。
「うわっ!」
 衝撃波を感じた背後を咄嗟に振り返る。そこは既に炎が満ちていた。
「な、何なんだ、いったい?」
 信じられない光景を目の前にして、俺は香里を信じられない眼差しで見つめる。
「はい、これでおしまい」
 ポイ、とコントローラーを後ろに放り出して、香里はにっこりと笑いながらそう言った。
 すると廊下の両脇にある俺の部屋、名雪の部屋、奥の物置部屋から、続けざまに爆音が鳴り響いた。
「な、何をしたんだ、お前」
 状況から見て、今起こったことは、目の前の香里が引き起こしたことであるとしか考えられない。
「お膳立て」
 短く香里が言う。
「ねえ、相沢くん。今の気持ちはどう?」
 上目遣いをして、香里がそんなことを聞く。
「混乱していてよくわかってないみたいだから、今の状況を詳細に説明しましょうか。
 あたしの用いた“爆弾”は、今回二種類。一つは、破壊力を念頭に置いたガソリンの爆弾。ガソリンを煮沸して、水分を除きながら固体にしたものよ。ニトログリセリンぐらいの破壊力は見込める。そしてもう一つは、過酸化アセトンを着火剤にして、ビニールに詰めた液体ガソリンに点火する爆弾。これはできるだけ炎を広めるためのもの。これらを、一週間かけてこの家の構造を分析しながら、要所要所に一つ一つ仕掛けていった。見つかりにくい場所に巧妙に仕掛けるのはとても骨が折れたわ。
 あたしがさっきまで使っていたコントローラーは、それぞれの爆弾を起爆するための装置。携帯電話とラジコンを利用して作ったマルチコントローラーになってて、それを使ってあたしは仕掛けた爆弾を順番に起爆していったわけ。
 まず最初の三発で、一階の台所、テーブル付近、ソファの下にあるガソリン爆弾を起爆したの。これは建造物内にいる人たちを威嚇して混乱させて、判断力を殺ぐことが第一目的。それから少しだけ間を置いて、アセトンを作動させる。通常、ガソリンなんかに火をつけたってそれが燃えるだけで、建造物へ即座に燃え移る可能性は高くないから、近くに多く燃えやすいものがあるところに配置したわ。カーテンの脇とか、古雑誌の横とか。二階の部屋は特に入念に全て発火させたから、もう今頃は盛大に燃えているでしょうね。まだ起爆していない爆弾も、多く残ってるわ。そのうち段階的に引火して起爆するでしょう。
 要するに、この家は今」
 香里は脇に置いてあったバケツを手に持ち、大きく振りかぶる。
「どこも炎の海という状況なのよ」
 俺はそのモーションを一瞬だけ呆と見て、慌てて身体を動かそうとした。
 だが俺が動く前に、その中の液体は俺に向かってぶちまけられた。
「ぐっ……」
 その液体はひどく臭く、ベタベタとしていた。前髪から、ポタリポタリとやや粘ついた水滴が落ちる。
「灯油よ。電気製品で暖を取るようになっても、緊急時のために灯油とストーブはちゃんと物置部屋に備えてあったわね。本当、秋子さんはしっかりしてる」
 香里はつまらなそうにそう言うと、残りの灯油を自らに浴びせた。
「ねえ、わかったでしょう。今の状況が。何か、思うところを聞かせてほしいのだけど」
 板に水を流すように話す香里と、不可解な異常状態を前に、俺は完全に思考能力を殺がれていた。
 しかし考える隙を与えられた今、俺はようやく僅かに冷静さを取り戻していた。
「……早く、逃げなければ」
「馬鹿ね。あたしが周到に用意したこの状況が、まだわからないかしら。退路は全て断ったし、“あなた自身がとっても燃えやすい”この状況。ちょっとぐらい燃えたって人は死なないけど、出口までの業火は長いわよ?」
「……何が、目的なんだ」
 家の中に充ち始めた不吉な熱量を確かに感じる。俺たちのいる二階のこの廊下に限ってはほとんど炎はないが、さっきまで薄暗かったはずの廊下は、この廊下の両脇にある部屋のドアの隙間から漏れる炎の光によって、僅かに赤みを帯びていた。
 その光を身体に受けながら、なおも凛と立っている香里は―――いつか俺を帰り道に誘った教室での佇まいに似ていた。
「相沢くん。あたしには妹がいたの」
「馬鹿にするな。質問に答えろ」
「あなたは、あの子が死んだ時、その近くにいたかしら」
 やけに落ち着いた声で香里が言った。
「……いや」
「誤解しないでほしいのだけど、あたしはそのことで復讐をしているというわけではないのよ?」
「…………」
「もっとも、来ても栞は絶対に会うのを断ったはずよ。苦しむ姿だけは、あなたに見せようとしなかったから。本当はこうやってあたしがそのことをあなたに暴露してしまうのも、あの子の遺志に反するんだろうけど―――ふふ、遺志、ね」
 香里が嗤う。
「臨終の際は……それはもう苦しんだわ。あんなに利発で明るい子が、何かの機械のように振る舞うの。指を握り潰してしまうかのように組んで、それを解けば爪を立てて胸を掻き毟り、体力が限界を迎えても渾身で身をよじって」
 ドン、と鈍い爆発音が聞こえた。
「可能なアクションを全部やっているという様態だった。ずっと何か叫んでた。看護婦が栞を押さえて、医者が何かやってる間、あたしは両親と一緒に馬鹿みたいにそれを観察してた。途中から、あたしは栞の言葉を記憶しようと必死になった。
 意味を成さない言葉や叫びを除いて、最頻出単語は『祐一』、102回。2位『助けて』65回。3位『お母さん』60回。4位『死にたくない』55回。5位『殺して』49回。6位『どうして』44回。7位『お姉ちゃん』41回」
 『お姉ちゃん』を、やけに嬉しそうに香里は言った。
「そして8位『死ね』38回」
 ゾクリと、油が背中を駆ける。
「最初の方は、相沢くん。あなたに助けを求める叫びばかりだった。痛みからの解放を、ずっとあなたに、両親に、あたしに希っていたわ。特にあなたにね。ところが体力がなくなって、暴れることによる僅かな気の紛らわしさえできなくなって来ると……全てを呪うような、呪詛を吐き出し始めた。克明に覚えてるわよ。
 『苦、苦しい、死ね、みんな、嫌い』
 『どうして私が、あ、う、殺して、祐一さん、殺して、殺してやる』
 『みんな死ね、お姉ちゃん、死ね』
 『嫌、嫌、嫌、こんな、う、死ね、死ね、死ね』」
「やめてくれ」
 俺は崩れるように膝をついた。ビチャ、と油の跳ねる音がした。
「もうその言葉には理性なんてないのよ。身体から受ける凄絶な痛みが負のイメージと重なって、反射的に負の単語を連発しているだけ。機械よ。その呪詛は最後の一、二分ぐらいしか続かなかったけど、人格としての栞はもうその随分前に既に死んでいたのでしょうね。けどあたしは、それを聞いていた。そうやって絶えていく栞が、かつてないほど愛しく感じた。生きている、動いている、言葉を発する栞を愛せるのは、もうこれが最後の機会なんだってわかってたのね。そりゃ誰だってわかるわよ、あんなの。あれで死なない方がおかしい」
「“あれ”、“あれ”と言われても、俺にはわからない」
「最期の言葉、統計学的にとても妥当な文章だったわよ。
 『祐一さん、殺して、苦しい、死ね』」
「あぁ……」
「どう? 質問の答えにはなったかしら?」
 もはやこの異常な状況からどうにか脱出しなければならないという意志は、完全に剥奪されていた。香里は用意周到に今の脱出困難な状況を用意したという。しかしそんな必要はなかったよ。お前の口から出るそんな話は、いかにも俺から全ての意志を殺していく。
「何だかね、あたしも全てがどうでもよくなっちゃって。栞の死の瞬間に近づくにつれて、無限大へ発散していく愛がね、あたしの心の中に満ちて、最もあたしが愛した言葉が、栞の最期の言葉になっちゃった。だから、もうそれに準じて生きて、死んじゃおうかな、なんて思っちゃった」
「うははははははは」
「そう思い立ってからの行動は、ゲームみたいでやりがいはあったわよ。果てしなくつまらなかったけど。あなたに近づいて、戦略を練ってね。『苦しい』が入ってる以上、苦しんでもらわないといけないだろうし。難しい課題だったけど、何とか今日、成就」
「うははははははは」
「ね。栞の最期の言葉を構成した単語の選択は、単なる“偶然”よ。ランダムな単語を口にする発声装置に、栞は成り代わっていたの。だからその言葉は別に他の何でもよかったんでしょう。でも、あたしたちはそこに必然があると信じたくなる。あたしたちの出会いに、何か必然があると信じたくなる。それって素敵なことよね。だからあたしも、栞の遺志を信じてみることにした。
 でも本当はね、“何になるか”は予想不可能なほど低い確率のものでも、“何かにはなる”という必然だけがあって、結果としてなった“何か”は結局は偶然なのよ。違う?」
「はは、ははは、ははは」
「そこで相沢くん。あたしはとても聞きたいのよ。その“遺志”は達成できたのか。
 ねえ、今の気持ちはいかがかしら?」
「は、は」
 顔を上げると、俺と同じように身体中から油を滴らせている香里が、まだ凛と、俺を見ていた。
「笑いが止まらない。最低だ」
 笑いも、涙も止まらなかった。発作的に、廊下を拳で何度も殴りつけた。
「そう。それはとてもよかった」
 満足して嬉しそうな声で、香里は言った。
「苦しんで死ねだなんて、ひどいじゃないか……は、はははは」
「1位『祐一』102回」
「はははははははは」
「大丈夫。『殺して』に準じて、あたしも一緒に行ってあげるから」
「馬鹿野郎」
 もう家の中はめちゃくちゃに熱くなっていて、階段の辺りにも大きな炎が燃え盛っていた。脇の部屋のドアからも、炎自体が漏れ出している。
「相沢くん。聞こえる? 名雪が相沢くんのこと、大声で外から呼んでるわよ」
「はは、いないって言ってくれ」
 ひどく遠くに、消防車のサイレンの音が聞こえた。
 何かを成すために来ているならそれはあまりにも遅すぎて、笑った。






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